無の境地とは、仮面ライダーのど根性だ
- 無の境地とは、仮面ライダーのど根性だ。その心境は自らを楽しむことであり、神を語らないことである。今回の質問は、他者に対して自身の神を明かす回答を求めるものであり、仮面ライダーのような紳士的な哲学バトルを通じて釈迦を検証する意図がある。
- 無の境地とは、仮面ライダーのど根性である。それは自己を愉しむことであり、神を語らないことだ。今回の質問は、他者に自身の神を示す回答を期待しており、紳士的な哲学バトルを通じて釈迦の心情を分析しようとするものである。
- 無の境地は、仮面ライダーのど根性である。その境地には自己の楽しみがあり、神を語らないことが含まれる。この質問は、他者に自分の神を明らかにする回答を期待し、仮面ライダーのような紳士的な哲学バトルを通じて釈迦の心情を分析しようとするものである。
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無の境地とは、仮面ライダーのど根性だ。
今回は、 「私のうる喧嘩を買ってください」 と、言う実験です。 前回↓ 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。 http://okwave.jp/qa/q8458873.html 重要なキーワードはコレ↓ > 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 これで満足しているのなら、語らない事こそ無であるとダンマリを決め込んで仙人みたいな生涯を終えればそれで済んだでしょう。 そこで無を広めるとはいかなる釈迦の心情であったのか分析していこうと思います。 おそらく、 他者からの、お前の神を明らかにして見せよ、という問いに。 それを答えるに、無である。 このように素直に答えるだけでなく、 釈迦自らが意地悪をして、他者に対して、お前の神を明らかにして見せよ、と問い。 答える相手に対して、現在も息づく仏教特有の否定の哲学を持ってたたみかけ、 そら見ろやはりお前の神は無ではないか。ウケケケケ。 こういう悪さを積極的に行う仮面ライダーであったと推測します。 すなわち私のみが神に到達した仏陀だ、お前らは娑婆地獄を這いつくばる虫けらだ。 お前らが神に到達せず、死に切れもしないで六道をさまよう事で、私は自らの高みを自覚するのだよ。 このように今の私と同じだろうと考えます。 今回の質問は論理に対する返答を期待しておらず、ここから直接思考実験をしたいと思います。 すなわち歓迎する回答は、 あなた自身の神を明かす回答です。 私はそれを、そーら見ろ無ではないか。 ウケケケケ と誘導するつもりです。 すなわち体裁上喧嘩を売ることになりますが、釈迦を検証する上で有意義な考察になるでしょう。 削除の対象になるほどのことはやめて、仮面ライダーなりの紳士的な哲学バトルにしようかと考えますのでよろしくお願いします。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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>哲学はどうした。 あなたがそれを言うということは、問答は失敗したようですね。まあでも楽しめました。
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>野次馬は自己表現してはいけないよ。 あはは。野次馬にも心があり、愛があるのですよ。いや、野次馬に限らず、人間なら誰しもね。 芸術家さんは、自分が特別だと思っているんだろうなあ。自己批判の無いナルシシズムは醜い。違いますか。
お礼
ありがとう。 その通り。 君達を虫けらだと思っているよ。 哲学はどうした。
>今回君の意見にとって無とは仏教で語り継がれた、そんなもんありゃしない、の方の無だけが知識としてあるのだろう。 いや、私は仏教のことは何にも知らない。あなたの言っていることをリフレクトしただけ。人を食っているようで申し訳ないけれど、これが偽らざる所でしてね。だから野次馬だと言ったでしょうに。仏教のことはさっぱりわからないどころか、興味関心もない。 しかし挑戦してみろ、とは面白そうです。 では、「美」と行ってみます。抽象概念です。 どういう美か。例えば戦争。こういう凄惨な出来事にも、幸か不幸か、美は見出せる。美はゴキブリでもあるかのように、どこにでも存在し、困ったことに人を魅惑する。たぶん魅惑してはならない時にも、魅惑する。こういう美の力を信じている。しかし抗いもしなければならないとも思っている。これでどうでしょう。ライダーキックできますか?
お礼
ありがとう。 私は芸術家でね、美を創造し表現する事とは当事者にとっては自己表現だよ、その表現の内情は自らの心そのものだ。定説ではそれが純粋な愛に近いほど美しいと言う事になっている。まあ、一応の目安だ。 野次馬は自己表現してはいけないよ。
>そんなあんたも何か信じていると思うよ。 あなたは「信じる」という行為そのものが「無」だと言っているのかもしれないね。 どの神を信じているかが問題じゃなくて、信じているということそのものが問題であるのかもしれない。
お礼
ありがとう。 お釈迦さなはおそらく「ウケケケケ」とたたみかける否定の哲学を駆使したのであって、そこで言いたかったのは、お前たちは神を知らないではないか、お前たちの語る一切はゴミだと、そんなのありゃしないと言っていたのが宗教として体系化されたのだろうと思うよ。 それは信仰心に潤うお釈迦様の本心の方の無とは正反対で、それはすでに表している通り「空」の概念に近い。 今回君の意見にとって無とは仏教で語り継がれた、そんなもんありゃしない、の方の無だけが知識としてあるのだろう。 仏教徒は死者の軍団だよ。 その勇者としてものは試しに私相手に度胸試しをしてみたらどうかね。 すなわちお前の神を明らかにして見せよ。 好きなアイドル歌手や漫画キャラクターを明かしてみても同じ事だからそれでもいいよ。
>君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 そもそも信仰を持っていないし、それに関心も無いときは、どうなるんでしょう。これも「無」ですか。 しかしそもそも「有」でもないわけですが・・・。 >あなた自身の神を明かす回答です。 私はそれを、そーら見ろ無ではないか。 ウケケケケ と誘導するつもりです。 こういう風に自分で予告している所には、知性を感じますね。生憎と私には明かす神も無いのですけれども。ところで、こういう問答の果てに生き残った「神」は、どういう位置づけなんでしょうね。「最強」なんでしょうか。ポケモンバトルみたいだ・・・。もしよかったら、あなたが最強の序列でいいので、誰のどの神がより強く、弱いというランキングを示してもらえませんか。バトルがより盛り上がるでしょう。 以上、野次馬でした。
お礼
ありがとう。 そんなあんたも何か信じていると思うよ。 たとえば人を信じていなければ社会生活が送れないようにだ。 神様の最強ランキングは判らないけど、昔々存命中の釈迦は、当時最強だったみたいだね。 私は誰かが何かを信じていると言えばそれは肯定するつもりで、ライダーキックはそのための正義に戦いだよ。
気持ち悪い人と関わってしまってそれで終わるのもなんなので ついでに考察。 もうね。 宗教なんか関わるものではなかったね。 地味にokwaveの哲学カテゴリーは 学者もわからない、とか言い始めるくらいのレベルのものも出始めています。 一部の情報については僧侶よりも詳しくやっていたりします。 そこまでやる必要あったのか? こんなところでやっているのが問題なんでしょう。 結局大学でやるしかまともにはできない気もしてきました。 とはいえインターネットを検索すればある程度は原文とか調べられるわけですから 遅かれ早かれ何らかの考察を誰かがする必要はあったのでしょう。 ぐだぐだでしたが。 べつに仙人みたいにならなくても 仏教ですら菩薩なんてのがありますからね。 涅槃に入らない、だって菩薩だから。とかさ。 まったく嫌になるね。 それで誰かが別のことを言い出す、と。 本当にうんざりする。
お礼
気持ち悪い人とは私の事かな。 あんたが誰か名前に聞き覚えがないよ。 ここで出ているのは私の話を含めてトンデモ路線だよ。 あんたは真に受けやすいアホだから何かすごい事のように感じているんだよ。
- 雪中庵(@psytex)
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全ての存在的な認識は、認識体の感受表面に おける量子相互作用( 光だけでなく、音や触 覚のような運動量の交換や、味覚や嗅覚のよ うな化合物の反応も、 最終的には量子相互作 用であり、その“向こ う”にある媒質の違い に過ぎない)に過ぎません。 そこにおける、光や音のような情報性(先行 感覚)に対して、触覚や味覚のような実体的感覚の蓄積を相関させる、即ち経験(時間的 記憶)による予測(空 間的広がり)として、 時空は生じているのです。 その過去(経験)による未来(予測)による仮想的現在において存 在性が生じる時、その超光速(光速下と超光速領域を分ける認識体はブラックホールと相 同)における時空軸の転換において、仮想的延長において直交基底をなす時間軸(過去の経験)と空間軸(未来の予想としての空間的 広がり)は同一軸であ り、即ち、存在性の本質をなす不確定性原理における二対の相補性 、「位置(S)と運動 量(位置の時間的変化 St)」「時点(T) と質量(時間的相対運動Ts)」は、本来は同一軸であって「相補的」ではなく、仮想的 現在への延長においてのみ相補的不確定性を持つ“量子的存在性”は可能なのです。 全ての存在は、量子的不確定性=確率波動性に基づいており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになり、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識します。 先述の認識の不完全さによる階層現象表面的な定性化による非光速性の派生は、その本質における無への還元を理解できない事により、その外部に世界を空想するのです。 無とは分からない事が、有なのです(夢=現実)。 物理とは、その仮象的な世界を無へ還元する過程であって。
お礼
ありがとう。 私は中学生の数学も判らないほどのアホだよ。 今回は人間に関して語っているのだけは判った。
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- 哲学・倫理・宗教学
- 無の悟り、無の境地を説明するとこういう事だ
やあ皆さん、私がいつも言っている事の最新版への更新だよ。 これは私の行っている哲学研究の一部で、質問と言うより研究として意見が聞きたい。 まあ読みやすいかどうかとか簡単な読書感想文でいいよ。 自らの信仰に到達する事は、おおむねどこの社会でも尊敬され、聖人として尊敬されることで古代インドではそれを仏陀と言っていた。 その中で、釈迦という古代の仏陀は無の悟りとその教えという特異な伝承を残している。 この内訳を考察するにあたって、仏陀と承認されるもっともな特徴が信仰への到達である事が重要である。これは西洋の神学や哲学すらも聖人と認める人類的共通項だ。 釈迦の結論はこうだ。 信仰とはわが心そのものであり、それを他者に語る言葉はない。 すなわち無だ。 神学の創立と文明の勃興の熱気あふれる古代インドで、多くを論じるバラモンを指して、彼らの語る言葉には内容がない。 すなわち無だ。 したがって無が結論である。 これを教える事が彼の人生であり、哲学として無の論理から多くの覚者を産んではいただろう。 それは2500年ほど前、文字もなく人類の文明がまだ幼かったころの話だ。 仏教の経典の最も古い物は2000年ほど前の編纂だ。 その間500年の口伝による伝承が有った。 この間、釈迦の教えはインドの風土で変化し、無の悟りの内訳を理解する事は困難になっていた。 その口伝500年の結論で新たに浮上したのが「空」の言う宗教的概念だ。 もはや源流の途絶えた無の概念は判らなくても、私の心は信仰で潤っている。 これは、そのまま信仰の自覚であり無に代わる仏教における到達点だ。 そのほかに輪廻転生説とは、釈迦の生きた時代以前より脈々と受け継がれるインドの信仰の源流であり、口伝500年を釈迦の教えが伝承されるにあたって、語り継ぐ古代インド人にとって、論理の整合性を保つため、無の教えとインドの伝統とで接点が必要になったため、主に後世で補足されたことであろう。 自らが涅槃に立脚した釈迦自身は、輪廻の伝承と異質の独自の信仰心を持っていた。 生前に何らかを語った事はあったかもしれないが、伝承されるにあたって、釈迦の言葉や行いよりも、語り継ぐ者たちにとってこそ輪廻の教えが必要だった。 そこで伝説化されているのが、 私は涅槃に行き二度と生まれかららない。 君達は何度も生まれては死ぬ。 それは哀れな事だ。 こうした慈悲の行いである。 さて、君たちが賛同するかどうかはともかく、この無の悟りへの独自見解は実に論理的でいままでになかったものだろう。 私はこれをまとめて本にでもするつもりで研究を続けているんだ。 研究ノートはもう本一冊分を超えるほど君達の協力で集まっているが、私はこの時間酒に酔っ払って、君達をオカマバーのホステス扱いして哲学しているんだ。 この姿勢、闇の仏陀黒き明星では、ご存じのとおり面白い読み物にはなっても、喜んで心が潤う良著とはならないだろう。 黒き明星の癖は私にとって深刻でね、気楽で書きやすい文章がアニキなツンデレだ。 まあ、それをぼちぼち改めていこうかと作文の練習だ。 色々と相談に乗ってくれ。
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- 哲学・倫理・宗教学
- 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。
勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。
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- 哲学・倫理・宗教学
- 無の境地について考察しました。添削してください。
そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないしそもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは無くて、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚であれ、本格的な無の悟りであれ、快楽主義者である君達はその心の快適さにばかりっ関心を向ける。 すなわち無の境地とは何ぞや。 悟りに至る道とは何ぞや。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされているが、迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も平静となれる。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 さて私は現在本格的に出版に向けた執筆をつづけていて、今回は新たに境地と言う言葉について考察しようと考えています。 そもそも私の一連の投稿で君達はすでに無を悟ってしかるべきなのだ。 しかし実感が無いだろう。 その実感を境地と言う言葉に置き換えて何が障害になっているか考察するとっかかりを探そうとしています。 サル踊りには慣れているのでそれでもかまいませんが、本格的な意見があると成果が上がりますので、常連さん以外で志のある方のご回答を期待いたします。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。
私は実在する仮面ライダー「黒き明星」だ。 初の男子プリキュアでもある。 私は君達に無を知らしめるためここの降臨した。 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくるブチギレ論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人間の全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 この場合、自らが無の結論に至り、無を望む、自分自身の願いではない。 誰か他者が望んだ事を、自分も望むと言う事は、それ自体が欲望だ。 たぶんうらやましいんだろうよ。 心当たりはないかい? 無の悟りは何か知らないと言う事なら、無の悟りを理解していないのだよ。 そして来世に期待しないかい。 それだけなら無の教えは聞き流しただけで、無を望んでいないのだよ。 今日はここら辺でやめとこう。 研究のために、正義を名乗る悪の勇者を募集しています。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 釈迦の無の悟りはこのように解釈するとちょうどいい
初期の仏教には今も同じ問いかけが成されている。 神を語らないことに、今も続く押し問答が、果てしなく繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 これこそが無の悟りとは何かという問いかけである。 そこで私の述べる一切無の悟りを心得るならば、目指すのは、お釈迦さまと同じく、自らが仏陀となる修行の道のりであり、個人的な信仰心の探究であり「救ってください」「助けてください」これは無効になり、それもまた無である。 それでは、聖職者は問う者に答えないことで、その無を語ることが、それ自体を答えとする考え方だ。 釈迦に問うた者どもは、むしろそれを恐れている。だからこそいまだに悟りに至らないのだ。 お釈迦さまを始祖とする仏教の迷走はここにあり、禁を破り、仏を神に列した後世の仏教は誤りで、仏陀と言う人としての最高の状態であることが、それでこそ人間であるという境地だ。 お釈迦様の信仰をまねることとは、後世の仏教徒にとって、自らの信仰を殺し、それによって自らの精神が死に、しかる後に釈迦の信仰を受け入れる死と転生だ。このように自らを滅し、死を理解する後に仏陀となることが、長らく釈迦の弟子であるということになっている。 仏教の初期から現代までこのことに異論をはさんだ者はいない。 それは信仰を心に宿す手法として、死にまい進し、死の自覚によって悟る修行だ。 こうして、死を理解してこそ仏陀になるという荒々しい修行は仏教に限らず、釈迦誕生以前から現在も続くインドの伝統である。 生きてこそ人であり、信仰に到達したならば仏陀だ。 旧来のように死にまい進することは、自らを自覚した仏陀の信仰を打ち立てることは全く正反対である。 それは信仰を携えて生きることではなく、お釈迦さまに感化されるあまりに、自らが死に改めて仏陀として転生を体験する考え方だ。 お釈迦様と同じく自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは、お釈迦様の信仰をまねること、すなわち現在の自らが死ぬ無の悟りではなくて、自らの唯一の信仰を切り開くこと、「信仰の道を我が大道としてゆけ」これである。 それは西洋哲学の標榜する自由の概念と同じであろう。 仏教とは常にお釈迦様のお葬式を挙げている。 そして死を繰り返す。 処で日本語とは面白い言語で、私の表した「我が信仰の大道を行け」この言葉を噛んで含めると、「あなたたちそれぞれが自らのみとを我が信仰の大道としなさいよ」こうなるが、「我」という言葉に「みんな」という意味があるのが私の言い回しである。 以上は現在執筆中の「いかに猿は踊るか」こういうタイトルの原稿から抜粋した。 文章の推敲の助けとなる意見を聞かせてくれ。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 無の悟りは、このくらいわかりやすく説明すればいい
いつものやつの続きで、本気で出版を考えて整えたモノ。 まあ、このくらい説明すればわかりやすいだろう。 論理について何か思うところを書いてください。 参考にします。 > お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚して歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人と人が共生する文明の芽吹きがあった。 そのようなさなか、人と人の社会生活と、個人が動物のように利己的に生きたそれまでの自然本性から発展させて共生を目指す、人間同士としてのお互いに共通認識をもった、文明に根ざした新しい生き方を歩むにあたって、その理想を仲介する事は文明社会では神への信仰に集約され、人の理性的資質の所在をめぐり人々は様々な自説を述べ、神の案内する人間としての社会性の構築の理想像について、お互いに意見を交わした。 人と人を結ぶ神を道標に、人はお互いに解り合い自己の社会性を理解して人間になろうとした。 それは自らを知る行いが神を知る行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間同士の社会生活の発祥であろう。 宗教と言う社会活動はそのような意味がある。 神の発見が、人に自己であるという自覚をもたらし、社会性を備える人間としての存在に進化させたのだ。 そこにお互いに人としてどのように信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる仏陀の悟りである。 2500年前のインドの風土でヒンズー教の源流を司る修行僧たちは、語る人によってさまざまであった神の姿を明白に定義しようと努めていた。 このような神を知る行いは、僧によって現在も続いている。 世界中見渡しても、同じことをしている。 その神を知る行為の実際は、自らの信仰を通して神の証明を試みる事であり、自己を完成させ、それを認知されることが、インドにおいては目覚めたものとして仏陀になる事であった。 お釈迦様はそれを成し遂げて自己完結し自らの信仰を打ち立てた。 彼が聖人であったからには、信仰により語る人によって様々であった神の姿の全てを受け入れたのだろう。 それは、神を語る言葉はないという、釈迦独自の無の信仰であった 無の信仰を持って神を受け入れ、他者の信仰心の不備も、無であると指摘した。 他者の信仰を無として許し、自らも無であるという共通項に、慈悲心の原点がある。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事が出来ないで、信仰を語ることが権力闘争と化した当時の僧は、現代の生臭坊主と同じく、我が神はかくの如しという噂話が好きだ。 彼らには僧として、それが社会的に求められたからこそ神を語るのだが、そんな神はかくの如し、と言う噂話に、お釈迦様の無の悟りでは「正しい信仰心とはそうではない」とばかりに、神を理解するゆえに、過ちの多い当時の僧の言葉に批判した、神を損なわず僧の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 それは、当時の修行僧の大半には、当時生殖やとして重要だった、仏陀の境地に行きついていなく、自らに信仰のこころざしが空疎であり、むしろ神を損なう負の信仰であるので、それは無であると否定する慈悲心であった。 そして、ならばと、目覚めぬ者が、神を信仰しつつも無と語る、お釈迦さま独自の神への志を改めて問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする冒涜を犯し、その答えは「それは私の心そのものであり、他者に語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 お釈迦様の、無の悟りとはこのようである。 そして慈悲心とは、無の共通項によって、お釈迦さまに理解されていたからこその行いだ。 等しく無を信じるならば、他社の信仰心の不備は、批判するものではなく、慰め、釈迦の心理足る無の悟りを持って知らしめるものである。 すなわち、他者をとらえて、「その信仰は神を語っていない」(全く無い) 自らをとらえて、「神を語る言葉はない」(実はある) この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと処世術である。 無の悟りと自覚は、語る言葉に関しては一切ないという話で、実は心には留められているという、我には信仰が有るということである。 それがお釈迦様の仏陀の悟りなのだ。 そもそも仏陀の語源の一つである「目覚めた者」とは、さらに言葉を膨らませると、自らの信仰に目覚めそれによって自らを自覚した者のことだ。 仏陀は当時も今もインド社会に数多く居た。 お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、私は無ではなく神と共に確かに存在する。 しかし、世界に向けてそれを語る言葉は無い。 そういう意味である。
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お礼
ありがとう。 気を使ってくれてたんかい。
補足
どうでもいい事だがかつてのコメントに教養を疑われるような不備があったので補うよ。 > 私は芸術家でね、美を創造し表現する事とは当事者にとっては自己表現だよ、その表現の内情は自らの心そのものだ。定説ではそれが純粋な愛に近いほど美しいと言う事になっている。まあ、一応の目安だ。 愛が純粋であるほど美しいと言う事だろう。