無の悟りとは?釈迦の教えについて考察
- 無の悟り、無の境地を説明するとこういう事だ。
- 自らの信仰に到達する事は、おおむねどこの社会でも尊敬され、聖人として尊敬されることで古代インドではそれを仏陀と言っていた。
- 釈迦の結論はこうだ。信仰とはわが心そのものであり、それを他者に語る言葉はない。すなわち無だ。
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無の悟り、無の境地を説明するとこういう事だ
やあ皆さん、私がいつも言っている事の最新版への更新だよ。 これは私の行っている哲学研究の一部で、質問と言うより研究として意見が聞きたい。 まあ読みやすいかどうかとか簡単な読書感想文でいいよ。 自らの信仰に到達する事は、おおむねどこの社会でも尊敬され、聖人として尊敬されることで古代インドではそれを仏陀と言っていた。 その中で、釈迦という古代の仏陀は無の悟りとその教えという特異な伝承を残している。 この内訳を考察するにあたって、仏陀と承認されるもっともな特徴が信仰への到達である事が重要である。これは西洋の神学や哲学すらも聖人と認める人類的共通項だ。 釈迦の結論はこうだ。 信仰とはわが心そのものであり、それを他者に語る言葉はない。 すなわち無だ。 神学の創立と文明の勃興の熱気あふれる古代インドで、多くを論じるバラモンを指して、彼らの語る言葉には内容がない。 すなわち無だ。 したがって無が結論である。 これを教える事が彼の人生であり、哲学として無の論理から多くの覚者を産んではいただろう。 それは2500年ほど前、文字もなく人類の文明がまだ幼かったころの話だ。 仏教の経典の最も古い物は2000年ほど前の編纂だ。 その間500年の口伝による伝承が有った。 この間、釈迦の教えはインドの風土で変化し、無の悟りの内訳を理解する事は困難になっていた。 その口伝500年の結論で新たに浮上したのが「空」の言う宗教的概念だ。 もはや源流の途絶えた無の概念は判らなくても、私の心は信仰で潤っている。 これは、そのまま信仰の自覚であり無に代わる仏教における到達点だ。 そのほかに輪廻転生説とは、釈迦の生きた時代以前より脈々と受け継がれるインドの信仰の源流であり、口伝500年を釈迦の教えが伝承されるにあたって、語り継ぐ古代インド人にとって、論理の整合性を保つため、無の教えとインドの伝統とで接点が必要になったため、主に後世で補足されたことであろう。 自らが涅槃に立脚した釈迦自身は、輪廻の伝承と異質の独自の信仰心を持っていた。 生前に何らかを語った事はあったかもしれないが、伝承されるにあたって、釈迦の言葉や行いよりも、語り継ぐ者たちにとってこそ輪廻の教えが必要だった。 そこで伝説化されているのが、 私は涅槃に行き二度と生まれかららない。 君達は何度も生まれては死ぬ。 それは哀れな事だ。 こうした慈悲の行いである。 さて、君たちが賛同するかどうかはともかく、この無の悟りへの独自見解は実に論理的でいままでになかったものだろう。 私はこれをまとめて本にでもするつもりで研究を続けているんだ。 研究ノートはもう本一冊分を超えるほど君達の協力で集まっているが、私はこの時間酒に酔っ払って、君達をオカマバーのホステス扱いして哲学しているんだ。 この姿勢、闇の仏陀黒き明星では、ご存じのとおり面白い読み物にはなっても、喜んで心が潤う良著とはならないだろう。 黒き明星の癖は私にとって深刻でね、気楽で書きやすい文章がアニキなツンデレだ。 まあ、それをぼちぼち改めていこうかと作文の練習だ。 色々と相談に乗ってくれ。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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質問者が選んだベストアンサー
読めました!うれしいです! 質問者様は仏陀です。 自らの信仰に到達しているからです。 質問者様の自らの信仰とは、第4パラグラフの1行目にある、この無の悟りへの独自見解です。 この無の悟りへの独自見解とは、第2パラグラフ全体と第3パラグラフ全体の両方です。 第2パラグラフ全体と第3パラグラフ全体の両方で質問者様が自らの信仰に到達したことを示して、第4パラグラフ6行目でこの姿勢、闇の仏陀黒き明星と名乗っています。 第2パラグラフ全体と第3パラグラフ全体の両方は4つの部分があります。 1)第2パラグラフの上部4行は、いつも、どこでも、成り立つことを言っています。 成り立つことは、どんな人が仏陀や聖人と言われるかということです。 自らの信仰に到達したことが重要ということです。 2)第2パラグラフの下部6から11行目は、釈迦の無の悟りとその教えです。 3)第3パラグラフの上部4行は2500年前の出来事についてです。 釈迦が、多くの覚者を生んだことです。 4)第3パラグラフの下部5から19行目は、2000年前の出来事についてです。 無の悟りとその教えに、「空」と言う宗教的概念と、輪廻転生説が加わったことを述べていま す。 4つの部分が一塊で質問者様、この姿勢、闇の仏陀黒き明星の自らの信仰です。 古代インドの哲学、西洋の神学、哲学、釈迦の無の悟りとその教えという部分を含んだ全体、闇の仏陀黒き明星の自らの信仰は、それぞれの部分にない独自性を持ちます。 私は、そんなに仏陀なんていないだろうという思い込みがあって、質問者様が仏陀だと気づいてませんでした。でも、思い込みがふっと消えて読めました。 感想です。 質問者様、この姿勢、闇の仏陀黒き明星の自らの信仰は読みやすいと思います。
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- sunabo
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感想ではないです。ごめんなさい。 私は質問者様という仏に会いました。 私は悟ってないような感じがします。 悟りたいとも、悟りたくないとも、思いません。 質問者様という仏を、例えとしてで、実際にする訳ではなく、殺します。 しなければならないです。ごめんなさい。 到達する信仰はありません。無です。無が結論だからです。 仮に何かに到達したとして、変わらず日常が続くと思います。 臨死体験をしたとして、生き返ったのなら、臨死体験をする前と同じです。 死んだままになるべきです。死にたくないです。 確かな未来記憶を創造し持ちかえることをしている間は、ほかのことができないです。 持ちかえた後、未来記憶を経験するはずです。 もうすでに知っている経験をするのはつらいです。 どうつらいかというと、自分の思っているとおりと関係なく、 身体が寸分たがわず、すでに知ってるとおりに動きます。 気に入った未来記憶になるように、くりかえしくりかえし調整し続けることになるかもしれません。 とどまることはできません。
お礼
その殺害予告は、自らの信仰に志すことの表れだと解釈しよう。 現代のブッダには冷酷な殺しは必須でね、なぜなら救いの慰めが偽りだからだ。 そこから壊さなけらばならない。 言葉を手向けよう おのが進行の大道を行け。 私はこれを普段、 テメーで何とかしろ。 かゆいおちんちんは自分で慰めろ。 このようにぶちかましている。
補足
おのが信仰の大道を行け だね。
- sunabo
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ものすごく、思考を促し、回答を誘う文章です。すばら楽しい。 質問を読みますと、信仰が2つあります。 ひとつめは、無の悟り。 ふたつめは、「空」の言う宗教的概念。 質問のタイトル「無の悟り、無の境地を説明するとこういう事だ」からすると、 ひとつめの、無の悟り、について言いたいように思われます。 しかしながら、本文3パラグラフ10行目「もはや源流の途絶えた無の概念は判らなくても、私の心は信仰で潤っている。」からすると、 無の概念が判らず、かつ、信仰で潤っているから、 ひとつめの、無の悟りは判らず、 ふたつめの、「空」の言う宗教的概念、がわかったように読まれます。 おそらく、それでも、やはり、質問者様は、 ひとつめの、無の悟り、について言いたいように思われます。 ですから、 源流の途絶えた無の概念、とは別の、無の悟りが判った。 もしくは、源流の途絶えた無の概念とは別の、無の悟りが判り、かつ、「空」の言う宗教的概念が判った とするのが良いと思います。 本文3パラグラフの最後の4行 「私は涅槃に行き二度と生まれかららない。 君達は何度も生まれては死ぬ。 それは哀れな事だ。 こうした慈悲の行いである。」 の、私、が質問者様か、釈迦か曖昧です。 語り継ぐ者たちが、釈迦に、語らせたと読むと整合が取れます。 私(=語り継ぐものたちが語らせる釈迦)、が、君達(=語り継ぐものたち)、へ、語っていると。 しかし、「こうした慈悲の行いである。」の文脈がつながらないです。 こうした慈悲の行い、がどんなものか。 おそらく、本文2パラグラフ3行目の、その教え、だと思われます。 その教えで、無の悟りを得ると、何度も生まれては死ぬことが無くなること、の説明が要ります。 また、こうした慈悲の行いをするのは、質問者様か、釈迦なのか、不明です。 多分、質問者様は、第4パラグラフ1行目の、この無の悟りへの独自見解、を 読者へ、披露したいと思っていると想像します。 釈迦の、こうした慈悲の行い、を示すこと。 質問者様の、この無の悟りへの独自見解、を示すこと。 を行い、この無の悟りへの独自見解の独自性がどのようか説明すると、 私はもっと楽しいです。 第4パラグラフ5行目に、君達、とあります。 第3パラグラフ最後から3行目の、君達(=語り継ぐものたち)、と異なり、 第4パラグラフ5行目の、君達、は質問を読んでいる人たちだと思います。 文脈で何とか判りますが、第3パラグラフの君達と、第4パラグラフの君達が同じか違うか、説明があるとうれしいです。 また、質問のステートが、困っています、になっています。 本文の調子とあわせるためにも、暇なときにでも、にすると、整合が取れると私は考えます。 もしかすると、多くの人に読んでもらいたい気持ちが入っているためや、システム上そのようにすると有利なのでしたら私の深読みです。 深読みだった場合は、私の質問者様の気持ちの予想の誤りです。 さらに、質問者様の気分を害してしまった場合のためあらかじめ、誤ったこと、害したことに謝罪いておきます。 ごめんなさい。
お礼
ありがとう。 実に明晰な回答だね。 元来無学無教養の私はひるんでしまう位だよ。 役に立つ回答で作文とはこうする物なのかと判った。 さて涅槃に常在し生まれ変わる必要のない状態とは、自分自身を丸ごと観念に昇華させることだ。 観念世界とは最もありふれた言葉では「あの世」であり現実世界から通過するには死の儀式を必要とする。 無の悟りとは従って実質的に死の悟りだ。 解脱という言葉も苦しい修行もそのためだ。 私はこれぞ無の悟りという深い瞑想も経験したが、忠実な現代語だと臨死体験の事だ。その状態で観念世界を実感する事は瞑想を入り口にする霊体離脱と言われる状態と同一だ。 臨死体験は主に精霊からの頼まれごとで仕事として舞い込むことで自分の意思じゃない。しょっちゅうだけどね、これは心の通じた相手に対して私が臨死体験することで相手も臨死体験させる無理心中能力が期待されてのことで、対象は人ではなく精霊だ。悪魔と屈辱され人間に汚された精霊を本来の姿に昇華することだよ。 私は人間を救わない。 悪魔を救う。 そして悪魔と精霊を汚した人間は精霊の本来を取り戻した悪魔に愛されることで救われる。 滅びの宴だ。 それから釈迦が仏陀として観念世界から持ち込んだ概念は「無」だが、私が仏陀として観念世界から持ち込むのは「時」だ。 観念世界にたたずむその瞬間に現在過去未来が同時に存在し現象している事が判る。その時の現象は自己の意思で働きかける事が出来て、確かな未来記憶を創造し持ちかえることが、運命を与えると言う行いで、預言と言われた行いの内訳だ。私の言葉ではときわたりESPだよ。
変換ミス・・手が付かれた→手が疲れた
いつも即座にノンネーム逃亡しているが、君の熱烈なファンレターは心地よいよ。 キャーキャー言われるのが好きでな。 ありがとう。」←ノンネーム逃亡ではありませんよ(笑) クイックメールでも登録可能・・そして 入退会に依り 幾らでも ありがとうポイントや 思う思わないボタンが押せる・・ この機能の無意味さを知らせたいが為に していたが なんしか判らない人達が居るので 手が付かれた(笑) 他の方法を考えるまでは 今度は 普通のフリーメールで入会してます・・(笑) とりあえずは・・だけど・・(笑)
「自らがいかに哀れであるかを学べ」←学んだ結果 他人に押し付けてはいけない・・という学習をした・・ 「自分を認めろ」・・では無く 誰もが「認めざるを得ない」ってなるだけだと・・ イエスは 「我をキリストと認めろ」なんて 言わなかったから十字架に登った・・ もしも あの時に イエスがキリストの力を出して奇跡を起こし 十字架の苦難を乗り越えてたら どうなっただろー? イエスは 人々に「摩術を使う悪魔だ」と 言われただろーな・・ そして 救いの道の聖書も 語り継がれなかった・・ そう ならない様に・・聖書だけでも語り継がれる物にする為に キリストの力を見せつけずに 唯の人間として十字架で果てた・・
お礼
いつも即座にノンネーム逃亡しているが、君の熱烈なファンレターは心地よいよ。 キャーキャー言われるのが好きでな。 ありがとう。
そうすると あなたは「無の悟り、 無の境地」を悟ったのですね・・ それなら そんなの要らないや・・ 他人を見下す「無の悟り 無の境地」なんて 不要のものだけ・・
お礼
不要なのか。 君は実に残念な人だ。 あーらかわいそーねー。 このように他者を憐れむにはそれなりの実力が必要だ。 君には本来他者を憐れむ実力がないよ。 まず、自らがいかに哀れであるかを学べ。
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- 哲学・倫理・宗教学
- 無の悟りは、このくらいわかりやすく説明すればいい
いつものやつの続きで、本気で出版を考えて整えたモノ。 まあ、このくらい説明すればわかりやすいだろう。 論理について何か思うところを書いてください。 参考にします。 > お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚して歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人と人が共生する文明の芽吹きがあった。 そのようなさなか、人と人の社会生活と、個人が動物のように利己的に生きたそれまでの自然本性から発展させて共生を目指す、人間同士としてのお互いに共通認識をもった、文明に根ざした新しい生き方を歩むにあたって、その理想を仲介する事は文明社会では神への信仰に集約され、人の理性的資質の所在をめぐり人々は様々な自説を述べ、神の案内する人間としての社会性の構築の理想像について、お互いに意見を交わした。 人と人を結ぶ神を道標に、人はお互いに解り合い自己の社会性を理解して人間になろうとした。 それは自らを知る行いが神を知る行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間同士の社会生活の発祥であろう。 宗教と言う社会活動はそのような意味がある。 神の発見が、人に自己であるという自覚をもたらし、社会性を備える人間としての存在に進化させたのだ。 そこにお互いに人としてどのように信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる仏陀の悟りである。 2500年前のインドの風土でヒンズー教の源流を司る修行僧たちは、語る人によってさまざまであった神の姿を明白に定義しようと努めていた。 このような神を知る行いは、僧によって現在も続いている。 世界中見渡しても、同じことをしている。 その神を知る行為の実際は、自らの信仰を通して神の証明を試みる事であり、自己を完成させ、それを認知されることが、インドにおいては目覚めたものとして仏陀になる事であった。 お釈迦様はそれを成し遂げて自己完結し自らの信仰を打ち立てた。 彼が聖人であったからには、信仰により語る人によって様々であった神の姿の全てを受け入れたのだろう。 それは、神を語る言葉はないという、釈迦独自の無の信仰であった 無の信仰を持って神を受け入れ、他者の信仰心の不備も、無であると指摘した。 他者の信仰を無として許し、自らも無であるという共通項に、慈悲心の原点がある。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事が出来ないで、信仰を語ることが権力闘争と化した当時の僧は、現代の生臭坊主と同じく、我が神はかくの如しという噂話が好きだ。 彼らには僧として、それが社会的に求められたからこそ神を語るのだが、そんな神はかくの如し、と言う噂話に、お釈迦様の無の悟りでは「正しい信仰心とはそうではない」とばかりに、神を理解するゆえに、過ちの多い当時の僧の言葉に批判した、神を損なわず僧の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 それは、当時の修行僧の大半には、当時生殖やとして重要だった、仏陀の境地に行きついていなく、自らに信仰のこころざしが空疎であり、むしろ神を損なう負の信仰であるので、それは無であると否定する慈悲心であった。 そして、ならばと、目覚めぬ者が、神を信仰しつつも無と語る、お釈迦さま独自の神への志を改めて問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする冒涜を犯し、その答えは「それは私の心そのものであり、他者に語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 お釈迦様の、無の悟りとはこのようである。 そして慈悲心とは、無の共通項によって、お釈迦さまに理解されていたからこその行いだ。 等しく無を信じるならば、他社の信仰心の不備は、批判するものではなく、慰め、釈迦の心理足る無の悟りを持って知らしめるものである。 すなわち、他者をとらえて、「その信仰は神を語っていない」(全く無い) 自らをとらえて、「神を語る言葉はない」(実はある) この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと処世術である。 無の悟りと自覚は、語る言葉に関しては一切ないという話で、実は心には留められているという、我には信仰が有るということである。 それがお釈迦様の仏陀の悟りなのだ。 そもそも仏陀の語源の一つである「目覚めた者」とは、さらに言葉を膨らませると、自らの信仰に目覚めそれによって自らを自覚した者のことだ。 仏陀は当時も今もインド社会に数多く居た。 お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、私は無ではなく神と共に確かに存在する。 しかし、世界に向けてそれを語る言葉は無い。 そういう意味である。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 捨ててこそ、無の境地である。
ほとんど前回と同じ質問で、前回は↓ 無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。 http://okwave.jp/qa/q8527407.html 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくる解りにくい論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり、哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人として生きる全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 ここで、他者の意思からではなく、自らの心として無を望めば、無の境地に至る。 すなわち、現在の教えられた無を望む心を捨て、、新たに自らが無を望むのだ。 その完成は、自らの信仰心にたどりつく事であり、他者からそそのかされて、教えを後生大事に携えることではない。 そのようにして、今の自分を捨てることで、本来の自分を自覚する。 これでなぞなぞみたいな、旧来の論理の解説は終わっているぞ。 仏教は哲学であるとうのぼれ、至高の教えで世界宗教であるとうのぼれ、それでいて従来はこんな単純な解釈も出来ていなかった。 全く哲学になっていなかった。 自称弥勒菩薩の私が今初めて解き明かしたのだ。 さて、感想文でいいから研究をさらに進めるため、意見してくれたまえ。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 無の境地に至ったものは、誰かを救おうとはしない。
私は滅びる者どもの黄昏に、サヨナラの祝福を手向ける愛の戦士。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 私の変身能力はフェアリーフュージョンだ。 まあ、無についておさらいだ。 以下を読みたまえ。 無の悟りとは単純明快である。 http://okwave.jp/qa/q7612407.html 無の悟りに関してはコレが基本的な私の見解だ。 さらに私には「実在する妖精の捕まえ方」という独自の哲学が有って、以下にその中心をまとめている。 イデアの開眼は哲学の目標だ http://okwave.jp/qa/q8767250.html この観念世界「夢」が涅槃という別世界だ。 そもそもそこで語るように、思考が言語以外の手法を含める柔軟さに及ぶと、君達がサルにしか見えないほど思考が聡明になる。 ところが所詮サルの君達を慰めるため与えた餌が死の定めだ。 記憶の墓標作戦。 僕は死にましぇん。 http://okwave.jp/qa/q8787474.html 自らのイデアの見解と別の事を君達に教えている。 所詮観念世界にたどりついていない君達には、その内訳を明かしても全く無意味だからだ。 この構図は仏陀の伝統を踏襲している。 私は永遠に生きる。 君達は今も屍をさらし、死にっぱなしだ。 古来の、 私は涅槃に行く。 君達は六道輪廻に苦しみ抜く。 この両者の基本は変わらない。 私は芳醇な心のふるさとの美しさを君達に語ろうとは思わない。 お釈迦様も涅槃という自らの心お明かさなかった。 それどころか無であるとまで言ったんだ。 君達の先輩の釈迦への懇願が真摯であれば、釈迦は君達すらも涅槃に案内しただろう。 それが君達の本願で有る救いだ。 しかし、無であるとか言ったね。 この無は、心は、私そのものであるから、君達に語る言葉は無い。 そう言う無だ。 そもそも聞いても何にもなんないだろう。 私が永遠に生きると宣言することが君達の何の助けにもならないのと同じだ。 仏陀たるもの、承知で君達をコケにしているのだ。 真理を語る一方で、君達が喜ぶ絶望を植え付けている。 君達は自らの意思で絶望を選択する。 このように、仏陀たるもの自分専用の地獄を作って一国一城の主に収まりたくなるものだ。 お釈迦様は見事にその地獄の王族だよ。 心眼に開眼した私にとって、君達の救いの期待にこたえることは、涅槃でなく地獄に案内することだ。 それは君達の救いの願いがあまりにも盲目で、けがれているからだ。 信教とは自由で尊厳あるものだそうだが、君達の信仰は地獄を目指している。 さて今回の質問は、古来の言い回しで、仏教ではないかもしれないが、悟った者仏陀である私の見解から、君達の伝統に対する批判の反応を期待したい。 お釈迦様は、「あーらかわいそーねー」とか言いながらも君達の期待した地獄へ案内した。 承知でコケにした。 この学説にご意見ご感想をどうぞ。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 無の悟りは後世において空の悟りに変化した
いつものヤツの続きで前回はコレ↓ 無の悟りは信仰心を表し大乗はあやまりである http://okwave.jp/qa/q7755513.html 参考にコレ↓ 釈迦の無我の悟りは不完全であり幻想だ。 http://okwave.jp/qa/q7974792.html 無の悟りと言うか、哲学は有無の明白な分別を養ったり身につけたりすることで、 「無根であり無い事柄である」 「それを語る言葉はない」 この二つを使い分けて、有る事とない事を一切無と表現することである。 ただ、仏教の枠内の哲学だと無について、徹底的に「無根であり無い事柄である」これを追及しているようだ。 釈迦が「無根であり無い事柄である」すなわちそんなのありゃしねーと裸踊りした言葉を肯定しすぎて、否定出来ないはずの自らの信仰すら、無根とし一切無を取り違えている。 そこで後世に出てきた言葉が「空」であるのだろう。 無根であっても、私には信仰があり心がうるおっている。 これが空だ。 この空を取ってつけた、徹底してそんなのありゃしねーであっても、信仰そのものは似たり寄ったりだが、考え方の方、無の哲学が未成熟だ。 無の哲学は、有無の分別から発展して知恵を付ける事で、「無」と「空」を使い分けると趣旨がぶれる。 一切無の考えはできないのだ。 でも他人事だから好きにすればいいじゃないか。 そう考えるのだが、分析や批判をお答えください。
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- 無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。
私は実在する仮面ライダー「黒き明星」だ。 初の男子プリキュアでもある。 私は君達に無を知らしめるためここの降臨した。 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくるブチギレ論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人間の全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 この場合、自らが無の結論に至り、無を望む、自分自身の願いではない。 誰か他者が望んだ事を、自分も望むと言う事は、それ自体が欲望だ。 たぶんうらやましいんだろうよ。 心当たりはないかい? 無の悟りは何か知らないと言う事なら、無の悟りを理解していないのだよ。 そして来世に期待しないかい。 それだけなら無の教えは聞き流しただけで、無を望んでいないのだよ。 今日はここら辺でやめとこう。 研究のために、正義を名乗る悪の勇者を募集しています。
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- 無の境地について考察しました。添削してください。
そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないしそもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは無くて、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚であれ、本格的な無の悟りであれ、快楽主義者である君達はその心の快適さにばかりっ関心を向ける。 すなわち無の境地とは何ぞや。 悟りに至る道とは何ぞや。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされているが、迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も平静となれる。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 さて私は現在本格的に出版に向けた執筆をつづけていて、今回は新たに境地と言う言葉について考察しようと考えています。 そもそも私の一連の投稿で君達はすでに無を悟ってしかるべきなのだ。 しかし実感が無いだろう。 その実感を境地と言う言葉に置き換えて何が障害になっているか考察するとっかかりを探そうとしています。 サル踊りには慣れているのでそれでもかまいませんが、本格的な意見があると成果が上がりますので、常連さん以外で志のある方のご回答を期待いたします。
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- 君達は無の悟りを自力では成しえない
いつもの知的SMプレイの続きで前回はコレ↓ 無の悟りは信仰心を表し大乗はあやまりである http://okwave.jp/qa/q7755513.html 無の悟りと言うよりも、無の哲学は有無の明白な分別を養ったり身につけたりすることで、 「無根であり無い事柄である」(まったくない) 「それを語る言葉はない」(実は有る) この二つを使い分けて、有る事とない事を一切無と表現する処世術である。 ただ、末法の世の仏法僧はこのありに気付いていない。 徹底的に「無根であり無い事柄である」これを追及しているようだ。 釈迦が「無根であり無い事柄である」すなわちそんなのありゃしねーと裸踊りした言葉に自らも踊り、いつまでも無とは無い事だと勘違いしたままである。、否定出来ないはずの自らの信仰すら、無根とし一切無を取り違えている。 そこで後世に出てきた言葉が「空」であるのだろう。 空とは無の悟りと言う言葉の重圧に耐えながらも、そんな私には信仰があり心がうるおっている。 これが空だ。 信仰心に潤う我がしっかりと居るではないか。 空こそが「それを語る言葉はない」(実は有る)という、無だよ。 この空を取ってつけた一方で、いつまでも徹底してそんなのありゃしねーであっても、信仰そのものは似たり寄ったりだが、考え方の方、無の哲学が未成熟だ。 無の哲学は、有無の分別から発展して知恵を付ける事で、「無」と「空」を使い分けると趣旨がぶれる。 一切無の考えはできないのだ。 空を確かめ、実感したならば、 「無根であり無い事柄である」(まったくない) 「それを語る言葉はない」(実は有る) この両輪の一切無であればそれ以上死にまい進する必要はないのだよ。 私は君達に馬鹿にされる自称弥勒菩薩だ。 君達はそんな弥勒菩薩を下回るアホだ。 私は普段猿回し形式思索法として、そんなアホに教えを乞うているが、今回に限ればその必要がない。 コレっぽっちの事が言われないと気がつかない君達は社会の全てに土下座すべきだ。 その土下座を私がくみ取ってやろう。 土下座回答募集だ。 そもそも私に判らなかったのは、慈悲と言えば慈悲を発露することで、慈悲を乞う事ではない。 救いと言えば、救う事で救われる事ではない。 しかし君達はこの点で正反対だね。 その愚かさの内訳を吐露したまえ。
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お礼
自信が持てたよ。 不特定多数に働きかける意義を実感した。 ありがとう。