明治6年の政変と西郷隆盛

このQ&Aのポイント
  • 明治6年の政変(征韓論争)に敗れた征韓派は、西郷隆盛を含む5人が辞表を提出しました。
  • 西郷隆盛が辞表を提出した理由は征韓論争の敗北だけではなく、大久保利通への配慮や参議職に対する不興も関係していた可能性があります。
  • 板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎が愛国公党を結成し、西郷隆盛が加わらなかった理由には、彼らとの意見の相違や政治への興味の差が考えられます。
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明治6年の政変(征韓論争)と西郷隆盛

明治6年の政変(征韓論争)に敗れた征韓派は、まず、西郷隆盛が辞表を提出し、翌日に、板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎が辞表を提出しています。私は、この判断は、西郷は別にしても、板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎にとっては、あまりにも「早計な判断」だったと感じています。しかし、ここでは「IF」を問題にしようとしているのではありません。 ここで、質問なのですが、 (1) 西郷隆盛が辞表を提出したのは、単に「征韓論争」に負けたからでしょうか?それとも、他に理由があったでしょうか?   例えば、同じ薩摩出身の大久保利通への配慮(今後の政治主導の観点など)は、なかったでしょうか?(私が辞表を提出すれば、残りの4人も、辞表を提出することを見越して。)当然、反対派がいなくなるので、同郷の大久保利通にとっては、「願ったり、かなったり」となりますよね。  あるいは、西郷隆盛本人は、「参議」などという仕事が好きでなかった。だから、辞職する機会をうかがっていたとか。 (2) 下野した5人の参議のうち、板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎は愛国公党を結成し、民撰議院設立建白書」を提出していますが、西郷隆盛が加わらなかった理由(西郷の事情、考え、気持ちなど)を教えて下さい。(想像でかまいません。)私は、(1)とも関連するのではないかと想像しているのですが、わかりません。

noname#205122
noname#205122
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  • ベストアンサー
  • hekiyu
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回答No.2

長州の乃木さんは、明治天皇の崩御に伴い 殉死しましたね。 乃木は、西南戦争で連隊旗を奪われた ことがあり、その責任を感じて切腹しようとしたのを 明治天皇に待った、をかけられたのですが、 その明治天皇が崩御したので、やっと死ぬ ことが、できる、というのが理由でした。 現代人には、およそ理解できませんが、 当時の武士の精神構造というものはこういう ものだったのだと思います。 「死に様」 を非常に大切にしていた、ということです。 コレは赤穂浪士にも通じるものだと思います。 西郷も月照と伴に自死を図ったところ、月照だけ が死に、西郷は生き残りました。 彼は、激情型の人間です。 月照だけを死なせ、おめおめと生き残ってしまった。 やはり死に場所を探していたのだと思います。 老いぼれて醜態を晒すなどというのは念頭に無かった のでしょう。 (1) 西郷隆盛が辞表を提出したのは、単に「征韓論争」  に負けたからでしょうか?それとも、他に理由があったでしょうか?     ↑ 西郷の書見にこういうのが残されています。 「俺が韓国に行けば、反日激しい韓国だから  きっと暗殺されるに違いない。  そしたら、それを口実に征韓ができるだろう。  だから、俺を韓国に派遣しろ」 韓国を手中にすることは、日本の防衛にとって非常に 大切なことです。 1806年の露寇以後、日本は欧米列強の侵略に 怯えていました。 特にロシアです。 ロシアの侵略に備えるには、韓国を征して防波堤にすることが必要だ と判断したのでしょう。 元寇も韓国経由でした。 日清日露戦争はまさに朝鮮半島を巡る戦いでした。 西郷は、ここぞ俺の死に場所と考えたのだと思います。 お国の為に死ねるのですから、こんな素晴らしいことは ありません。 ところが、これは実現しませんでした。 もともと、西郷は革命家であっても、実務家ではありません。 ロシアのエリツインが革命したけどさっぱりで、 プーチンに引き継いだら、石油の価格上昇もあり やっとロシアという国がスムーズに動き出しました。 革命家と実務家は違うのです。 西郷ほどの人物です。 己が実務になど向いていないことは十分承知だったでしょう。 政府に俺のいる場所はない、と感じていたのだと思われます。 だから、征韓論却下をこれ幸いと、下野したのだと 考えます。 (2)西郷隆盛が加わらなかった理由     ↑ (1)で、説明した通りです。 実務に向いていないことを自覚している西郷が、新党などに加盟する訳が ありません。

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 (1) 西郷にとっては、その必要性の有無や朝鮮半島の情勢は別として、「征韓論」はもってこいの死に場所だったのですね。「西郷は、ここぞ俺の死に場所と考えたのだと思います。」というのがよく分かります。 「革命家であっても、実務家ではありません。」……少し考えてみます。 (2)「名を連ねるだけでいい」とは考えなかったのですね。

その他の回答 (1)

回答No.1

秋山香乃著「氷塊 大久保利通」を読むと 西郷の気持ちがよく書き表されています。 (1)は、貴方のお考え通り 自分が抜けることで大久保利通が 立憲政体を作りやすくなるであろう、、と考えたのだと思います。 大久保はこれまでに日本で一度もなかった国家の形を生み出そうとしていた。 発狂しそうちなりながらも、夜も寝ずに取り組まなければ、にっちもさっちもいかなかった 政府をなんとかしようとしていた。 西郷はその大久保の苦悩を理解していたから、下野したのだと思います。 (2)西郷は、戦を勃発させるためにとった最後の手段で薩摩藩邸は庄内藩士の襲撃を受け 50名に及ばんとするものが命を落とした。 そのことや西郷のなかにあった虚無感、失望感そして月照や多くの同志を亡くした 自責の念で西郷は死に場所をもとめていたのでしょう。 多くの命を失って求めた明治政府の面々は、権力を得るとあさましいまでに華奢に溺れ本分を 忘れて威厳を散らすその見苦しさに西郷はたえられなかつたのでしょう。 自分が求めていたものは、こういうものでは無かった、、、と。 また、西郷は、世界の列強から日本を守るのは軍備しかない、、、と 思っていたが、明治政府は利権のみに目が行き、自分の目指す日本国とは違う、、、ということで 今まで、自分は、何のために戦ってきたのか、、、という無常感と 政府への面当てとして薩摩で軍備を強行したのでしょう。 また、西郷は、大久保のように 無から有を生み出す能力は無かった。 常に「誰かに請われてから」動く、、という能力には長けていましたが、、、。 すでに、明治政府なってしまったら、自分の力を生かす場所が無くなった、、と 自覚していたのでしょう。 西郷の最後の言葉「もう、ここらでよか」という言葉を残して亡くなったのが そのあらわれでしょう。

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 (1)について  大久保の苦悩を理解していながら、西郷は、「それに協力するよりも、下野する道を選んだ。」ということですか。 (2)について 「西郷は死に場所をもとめていたのでしょう。」というのは、なんとなく、わかります。

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