江藤新平と大久保利通(佐賀の乱)の関係と背景

このQ&Aのポイント
  • 江藤新平と大久保利通の関係について、大久保が挑発工作を行い、江藤がワナにかかったと考えられています。
  • 江藤新平が「飛んで火に入る夏の虫」となった背景については、詳細な事情は不明ですが、大隈が江藤の帰郷を批判したことが関係していると考えられます。
  • 対立の中心は征韓論を巡っており、江藤新平を即日斬首するまでの対立ではなかったようです。しかし、具体的な事情や背景は詳しくは分かっていません。
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江藤新平と大久保利通(佐賀の乱)

ある歴史参考書を読んでいると、小みだしに「大久保にはめられて決起した江藤新平」とありました。「はめられて」というは、「ワナにかかった」ということですよね。江藤新平を題材にした司馬遼太郎の「歳月」は、この参考書を読む前に、読んでいますが、「大久保のワナ」という具体的事実を読みとれませんでした。もちろん小説の最終盤で大久保が登場してきますが。 その参考書には、『対する大久保利通は、政敵江藤を抹殺するため、佐賀の不平士族への挑発工作を行っていた。そのため、大隈は、江藤の帰郷を「飛んで火に入る夏の虫」とも評した』とあります。 質問1=この「挑発工作」というのが江藤に対する「ワナ」ということなのだと解釈できますが、どんな挑発工作だったのでしょうか?あるいは、江藤新平が「ワナにかかった」、あるいは大久保利通が「ワナをしかけた」という「具体的事実=ワナ」というのは、他にもありますか? 質問2=また、大隈の説得にもかかわらず、あの頭脳明晰な江藤新平が、あえて「飛んで火に入る夏の虫」にならざるをえなかった背景は何でしょうか? (あるいは、まさか「飛んで火に入る夏の虫」になろうとは、思ってもいなかったのでしょうか?「歳月」では、そのようにも読み取れるような記憶は残っています。) 質問3=「政敵」という表現がされていますが、それは「征韓論」を巡る対立のことをいっているのだと思います。しかし、私には、「征韓論における対立」が、それだけで、江藤新平をワナにはめて、即日、斬首しなければならないほどの対立であったとも思えないのですが、この辺の事情・背景はどうだったのでしょうか? 「歴史」は、見る人の見方・考え方によって解釈が変わってくるとは思いますが、どんなことでもかまいません。よろしくお願いいたします。

noname#205122
noname#205122
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  • iton624
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回答No.1

自信は有りませんが、この様な解釈をしています。 質問1 大久保が江藤が離京後に具体的なワナを仕掛けた事は無いと思います。 江藤が佐賀に到着したころには佐賀への追討令が出ています。 もちろん大久保自身が決めて天皇の裁可を頂いたものですから、 大久保は江藤を殺す事を野に下った時点で決めていたと思われます。 質問2 頭脳明晰で有能な官吏で有ったことは間違いないと思いますが、 武士としての感性はだいぶ同時代人と差が有った様に思います。 江藤自身、離京した途端に討伐されるとは思っていなかったと言う事では 無いでしょうか。 同じく下野した大隈や副島などが国に帰ること自体が大久保の術中に ハマることだと想像し引き止めたのに、それを論破しての帰国だと思います。 仮に言いがかりの様な罪で捕まっても裁判になって(自分が作った制度ですが) その場でも論破するつもりだったのかも知れません。 まさか、明治になって梟首とは思ってもみなかったでしょう。 少なくとも西郷の様に担がれて蜂起したのでは無く、大久保が攻めてくるから 立たざる得なかった思います。 質問3 大久保は明らかに佐賀人が嫌いだった様です。 嫌いな理由は佐賀人は幕末血を流していない程度の単純な理由と思われます。 当然、薩長は優秀な人は幕末斃れたのに対して佐賀には優秀な人間が生き残って 居た為に当然、多くいて大久保としてはどうにかしなければ成らなかったのでしょう。 大隈には殺すほどの脅威を感じていなかった。 副島には武士の風格を認めていた、 大久保に取って江藤は優秀すぎて脅威を感じさせ且つ、 武士の魂を感じられなかったのでしょう。 「翔ぶが如く」のこの辺りのくだりに、大久保の日記の記載が有りました。 佐賀の風習とは言えみっとも無いと言った表現一行で、裁判当日の 江藤を評した記載が有ったと記憶しています。 大久保程の男ですから自分の日記が後世に読まれる事は想像していたはずで、 そんな所でも江藤をこき下ろしたい程、有る意味憎んでいたと思われます。 江藤の反乱は武士の不満の表れで西南戦争と同一軸に捉える程度の 解説も有る様ですが、政府側の対応を見れば大きく違う事は明らかです。 大久保の私戦と言っても良い位の、当然、江藤軍が準備も無く弱い事は知っていて 合法的に殺しに行ったと言うことでは無いでしょうか。 参考になれば幸いです。

noname#205122
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございました。  「武士の魂を感じられなかったのでしょう。」という言葉は、考えさせられますが、それだけで、あのような「殺し方」をすることとは、なかなか結びつきません。それに「武士の魂を感じさせる」人物は、当時において、そもそも少なかったし、しかも幕末から維新にかけて、ほとんど亡くなっているような気がするのですが。

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