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板垣退助・後藤象二郎が政治的地位を保持できた理由

 明治維新後、 征韓論を唱える参議である江藤晋平や西郷隆盛は、それぞれ佐賀の乱及び西南戦争で亡くなりました。 しかし、同じく征韓論者で、江藤晋平も加わり建白書を提出した板垣退助と後藤象二郎は、 それぞれ、自由党総理や初の政党内閣である隈板内閣内相、黒田内閣で入閣というように、 下野した後も、政治的地位を維持し続けたと認識しています。  板垣退助と後藤象二郎の、 江藤晋平と西郷隆盛との違いは、何だったのでしょう?

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  • mable2006
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回答No.1

板垣と後藤は武力で政府を倒すという方法を止め、「有志による専制独裁体制になっている」と言論で政府を批判して政党を作って政治を変える「自由民権運動」の指導者になったことが理由だと思います。

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