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精神の充足というより 存在の自覚的確立ではないか

 《精神の充足》というとき たしかに あのときの試練を乗り越えたその充足の度合いのほうが大きかったというように 比べることが出来るかも知れない。ゆえにそれは 量であるという見方が出されうる。  けれども それでは 単なる程度問題であると言われても仕方がない。  問題は 存在の自覚的確立にあるのではないか?  《わたしがわたしである》ことである。  《わたしがわたしであるわたしが わたしすること》である。  わたしは あやまちうる人間であって あやまつなら わたしに立ち帰ること である。  わたしが 一なら わが人生の実存は:   1 = 1 であり あやまつとき   ( -1 )  x ( -1 )= 1  としてのように われに還る。かくしてこの自己還帰を繰り返しつつ   ( 1 = 1 ) x 1 x 1 x ・・・ x 1= 1^n = 1  という姿を採るのが わたしの存在の動態である。のではないか。  さらに ここからは 根拠のない理論です。文学的な表現で表わすのみの主題(命題)です。  けっきょくわが存在の実存過程は その内なる領域においてユラギとして成っているらしい外なるこの身と心との存在 この存在が 社会や地球や宇宙のウゴキと一体となった状態になること ここに人生のおもしろさ・たのしさがあるのではないか?  人びとのよろこびとともに この世のいやというほどの悲惨な出来事をも このわが存在の内におさめている姿 おさめつつ一緒に――克服して――生きていく姿。これではないか?

みんなの回答

回答No.5

 今回のブラジュロンヌさんの質問で、興味を持ったのは現代の「人間」を肯定しようという強い思いです。  無知な私の想像では、絶滅した恐竜のように現代の人間はいずれ絶滅し、新たに“新生人間”が地球上に現れ、その時の「人間」こそ今より“まし”な人間になっているのではないかと云うことです。  でも、ブラジュロンヌさんは人間とは今のままでいいのだ、との思いが強いようです。  人間肯定論、ですよね。  この人間肯定論は仏教やキリスト教の、善のみを肯定し悪を否定している、事への疑問が源になっていると思っています。(親鸞に惹かれているのはこのあたりが、根拠かと思います)  だから私の興味は、疑問を投げかけるブラジュロンヌさんの言葉 ☆「私は、あやまちうる人間であって・・・」です。  でも、どうして「あやまちうる」と云うことを、ここでは「私」の前提としてしまうのでしょう。  私は思います。釈尊が言ったという「本来、善とか悪とか、そういうものはないんだ」ということと大いに関係していると。          

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ この人間肯定論は仏教やキリスト教の、善のみを肯定し悪を否定している、事への疑問が源になっていると思っています。(親鸞に惹かれているのはこのあたりが、根拠かと思います)  ☆ 人間肯定論についてのご説明を受け容れますが ここでの《みなもと》論については 少し違うと思っています。  親鸞にしても 《義無きを以って 義として》います。義・不義 善・悪 聖・俗などなどの対立する二項を超えたところの義――非義――であるはずです。善悪の彼岸にすでに到っています。  では 《善をも悪をも肯定する》のか?  それは 《この存在が 社会や地球や宇宙のウゴキと一体となった状態》を言うからには 善人をも悪人をも おさめていることになります。なりますが それは 行為と存在とを分けて捉えてもいます。  思惟や行為についての悪と 存在〔が善か悪か〕とは 別です。  《罪を憎んで ひとを憎まず》と言うぢゃないですか。  考えやおこないの悪は どこまでも批判し 批難しつづけます。存在を互いにとうとぶゆえです。  ★ 私は思います。釈尊が言ったという「本来、善とか悪とか、そういうものはないんだ」ということと大いに関係していると。  ☆ これは ペテンであるはずです。  ★ 「本来、善とか悪とか、そういうものはないんだ」  ☆ と言って 善とか悪とかに あなたご自身がこだわっているぢゃないですか。そこから突き抜けていないことを その発言じたいが証明しています。気の持ちようで ことは決まるとでも言っているに過ぎません。  けれども これを突き抜けたゆえに 存在をとうとび 思惟のマチガイ・行為のアヤマチについて 批判します。( -1 )に対して ( -1 )を掛けます。突き抜けているゆえに こういう生活態度を採ります。善とか悪とか アヤマチとかは 現実にあるのです。  さとりとは何かを明らかにせず・また し得ずマボロシのうちに《無いんだ》と言われても インチキだとしかこたえようがないように思います。  ★ ・・・☆「私は、あやまちうる人間であって・・・」  ☆ これは 全世界にわたって 普遍的な命題ですよ。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

B様、こんばんは。 >「わが存在の実存過程は その内なる領域においてユラギとして成っているらしい外なるこの身と心との存在 この存在が 社会や地球や宇宙のウゴキと一体となった状態になること ここに人生のおもしろさ・たのしさがあるのではないか?  人びとのよろこびとともに この世のいやというほどの悲惨な出来事をも このわが存在の内におさめている姿 おさめつつ一緒に――克服して――生きていく姿。これではないか?」 願わくば、早期に克服されんことを(それくらいの実力を伴うことが、望ましい)。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 願わくば、早期に克服されんことを(それくらいの実力を伴うことが、望ましい)。  ☆ くりなるさんは すでに克服し終わったということでしょうか?

  • 3355Teach
  • ベストアンサー率11% (12/101)
回答No.3

その「わたし」という観念を形成しているものは何ですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。  身と心とから成る自然本性。自己組織する身体とおのれの精神において何をどうするかを考え おのが意志を決めて実行するという行為能力を持つ。  これが わたしです。  このわたしなる現実において 時として 観念が形成されます。  それだけのことであると考えますが。・・・

回答No.2

ご招待いただいたのでさらなる回答です。 自己が充足することが涅槃の安らぎなのでしょうが、その前に、自らが存在することすらあやふやになっている、現代哲学から突き抜けて、自己の存在を確信する必要があります。確信と表現せざる得ないのは、神の確信と同義だからでしょう。、 それを自覚と表現されているのでしょう。 あなたの論理は、論理自体を根拠とする様なまやかしがあって未完成と言えますが、、だからと言って私がそれを完成させているわけでもありません。 何とか言葉で表現したいものですね。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。    つまり  ★ 現代哲学から突き抜けて、自己の存在を確信する必要があります。  ★ あなたの論理は、論理自体を根拠とする様なまやかしがあって未完成と言えますが、、  ☆ といった懸念もしくは疑念については わたしはかんたんだと思っています。    すなわち  ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~  《わたしがわたしである》ことである。  《わたしがわたしであるわたしが わたしすること》である。   ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これで《突き抜けている》と考えています。  《わたし》は 生活日常におけるふつうの自称の言葉です。そのまま《現代哲学》から自由でしょう。  特には 日本語には 《ふとわれに還る》といった言い回しがあり それは紛れもない心的現象として起きると考えられるからです。そこから 《身と心との全体としてのわが存在》に到るには わづかの《自覚ないし確信》だと考えます。  根拠は――ほんとうには分かりませんが―― 誰もが経験している《われへの立ち還り》ですので そのことは ミソになっています。  その《わたしがわたしであるわたしが わたしすること》に到るまでには ちょっとした論理とおのが実存としての意志行為が 必要であるかとは思います。  ★ 何とか言葉で表現したいものですね。  ☆ ここでは――この問い求めにおける姿勢としては―― むしろ触れないというものです。  言いかえると ヒラメキにゆだねるといった姿勢です。

回答No.1

文脈が回りくどいけどその通りなんだろうなあ。

bragelonne
質問者

お礼

 ほお そうですか。  くちうるさい(? 失礼!)あなたから お褒めの言葉のようですね。  ご回答をありがとうございます。  さらにご投稿をみまもります。

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