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精神の充足というより 存在の自覚的確立ではないか

 《精神の充足》というとき たしかに あのときの試練を乗り越えたその充足の度合いのほうが大きかったというように 比べることが出来るかも知れない。ゆえにそれは 量であるという見方が出されうる。  けれども それでは 単なる程度問題であると言われても仕方がない。  問題は 存在の自覚的確立にあるのではないか?  《わたしがわたしである》ことである。  《わたしがわたしであるわたしが わたしすること》である。  わたしは あやまちうる人間であって あやまつなら わたしに立ち帰ること である。  わたしが 一なら わが人生の実存は:   1 = 1 であり あやまつとき   ( -1 )  x ( -1 )= 1  としてのように われに還る。かくしてこの自己還帰を繰り返しつつ   ( 1 = 1 ) x 1 x 1 x ・・・ x 1= 1^n = 1  という姿を採るのが わたしの存在の動態である。のではないか。  さらに ここからは 根拠のない理論です。文学的な表現で表わすのみの主題(命題)です。  けっきょくわが存在の実存過程は その内なる領域においてユラギとして成っているらしい外なるこの身と心との存在 この存在が 社会や地球や宇宙のウゴキと一体となった状態になること ここに人生のおもしろさ・たのしさがあるのではないか?  人びとのよろこびとともに この世のいやというほどの悲惨な出来事をも このわが存在の内におさめている姿 おさめつつ一緒に――克服して――生きていく姿。これではないか?

みんなの回答

回答No.15

 ブラジュロンヌさんは生命讃歌、と云いたいような人間肯定を意見してますね。  人間としての出来不出来は当人の責任ではない、との思いは私の基本になっています。だから存在に善悪は求めません。  釈尊の「本来、善悪とか云うものはないんだ」という言葉には「思考、行為」さえ含まれてないとも受け止めています。  神には神の想いがあり、悪魔には悪魔の考えがあるからです。立場が違うということです。  人間社会にはどうして、神仏の“教え”ともいうべき事柄が巷にあふれているんでしょう。悪魔の“教え”には興味がないのでしょうか。  私は思います。  物の大小とか軽重とか高低という比較あるいは相対が、精神に於いてもあるようで、それが神や悪魔、善悪を心に生じさせるのだと。  小から大へ=誕生=発育=生産=善=神  大から小へ=破壊=縮小=生滅=悪=悪魔  地球上の生命は微生物より、動植物と成り人間へと「発展」し、精神も伴って発達してきたように思いますが、それを“流れ”と見れば・・・  今、地球環境に在っては小から大への流れ、を感じます。  ブラジュロンヌさんは“そのままの自分を受け止めて、受け入れて”と表現しながらも、そこには止(とど)まらず“克服して生きること”を人としての本来の生き方だと云っているので、やはりこれは地球の大河の流れに乗り「宇宙の神の世界」に向かっているように思います。  ブラジュロンヌさんは仏教の「大乗の漕ぎて」なんだろうと思います。      

bragelonne
質問者

お礼

 わいわいえいとさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ブラジュロンヌさんは“そのままの自分を受け止めて、受け入れて”と表現しながらも、そこには止(とど)まらず“克服して生きること”を人としての本来の生き方だと云っているので、やはりこれは地球の大河の流れに乗り「宇宙の神の世界」に向かっているように思います。  ブラジュロンヌさんは仏教の「大乗の漕ぎて」なんだろうと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。わいわいえいとさんにあっては そういった受け留めになるのだと思います。  そうですね。マハーヤーナ―としては ブッダターがけっきょく神の霊として――アートマン(霊我)として――身と心とにやどるといったこと。あるいは 無住処涅槃の考え方。これらは 受け容れられます。  それにしても 《宇宙》がお好きですね。社会とか世界とかと言うと 分かりやすいと思いますが。・・・  ★ “そのままの自分を受け止めて、受け入れて”  ☆ これは ブディズム風に言えば 《本覚》思想ですね。  ★ そこには止(とど)まらず“克服して生きること”  ☆ これは 一切衆生 悉有仏性のブッダターが 自然本性にはたらくという想定にもとづきます。ヒラメキによって 克服するチカラとしてはたらいてくれるというところです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  釈尊の「本来、善悪とか云うものはないんだ」という言葉には「思考、行為」さえ含まれてないとも受け止めています。  神には神の想いがあり、悪魔には悪魔の考えがあるからです。立場が違うということです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここはよく分かりません。  神は みづからを隠していることこそが その思いであるはずですよ。  神の霊として――ブッダターとして―― 知らず知らずの内にはたらいている。ことでじゅうぶんであるはずです。  悪魔は 初めから存在しません。もし物語に出て来たとすれば それはすでに死んでしまっています。  いまは 文学としての表現のあやとして残っています。    ちょっとまとまりがわるいですが こんな感じです。

回答No.14

言葉遊びの最中です。 > 誰かの価値観を押し付けられた欲望の状態を幸せと思いこむことを捨てると 誰かの価値観を押し付けられ、その欲望が結実してこそ幸せと思いこむことを捨てると。 こうかな。 そうすると弥勒菩薩商法では、無を捨ててこそ無であるとでも言う様な、面倒な言い回しも説明可能だと証明することになります。 せっかくの懸賞金なんだから、何とか換金したいものです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    だけど 分かんないよ。  価値観は たとえ押しつけられても 主観の内面には 自分が取り込まないかぎり 入って来ませんよ。    というようなところなどが分かりません。

回答No.13

またまたです。 そう言う事だと、私は私であってこそ幸せで、それ以外に幸せはないと言う事だろうなあ。 私の幸せな状態もそんなもんで、そうすると現在の幸せを滅却する事とは、誰かの価値観を押し付けられた欲望の状態を幸せと思いこむことを捨てると言う、煩悩の滅却の話を思いついただけなんだろうなあ。 無の悟りをかなり分かりやすく説明できる私は、そこにかかってた懸賞金をスムーズに換金するためにいまだ頑張ってます。 仏扱いされても仕方ないです。

回答No.12

またまたです。 言われて思いついたのですが。 自己の肯定は、 目的でなく手段だととらえると、幸せのその先にと、たどりつく自己を見いだすかもしれません。 それを、その幸せすらも、無として滅却することだと論理形成すれば、仏教は整合性が取れますね。 気が付けば私はやってますね。 君達は滅びる。 このように、、、

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ですが 分かんない。  ★ 仏教  ☆ って もうわたしには おととしの話です。  ★ 自己の肯定は、 / 目的でなく手段だととらえると、幸せのその先にと、たどりつく自己を見いだすかもしれません。  ☆ たぶん――さっきの言をやぶるかのようですが―― さとりは 一瞬のことです。即身成仏です。一度に《われに還る》のだと思います。  ★ 幸せ  ☆ の前に 《わたし》の確立が来るかも知れません。  つぎのことは・つまり  ★ それを、その幸せすらも、無として滅却することだと論理形成すれば  ☆ は 同じことを言っているかも知れませんが。つまり《しあわせ》よりも自己の確立が先であると。  先に来ること・第一の問題を あなたは あとで得るのだというかたちなのですね。  そういう順序もありなのかなぁ。  

回答No.11

またまたです。 自己の肯定では不十分と言うご意見を採用することにします。 私のやり口だと、この手の思いつきから「君達は自己を肯定するだけで十分だ」と、言う質問をぶちあげて、猿回し形式で検証しています。 慈悲と言う、憐れみなり慰めだと、このように思い込ませるだけで十分ですが、私はより親切な仮面ライダーなので、私なりに納得せずイジメ抜くと言う常とう手段です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  自己を肯定するなら あたかもすでに《わたしはわたしである》状態に立ち還ったと言えるか? どうだろう?  言える場合があるってことなんですかね。  肯定する。つまり 自己を否定しない。そのことによって 元気が湧いてくる。つまり わたしがわたしであるわたしに立ち戻ることが出来る。のかも知れない。  つねにというわけではない。としたら 確立のほうで――つまり 意志行為としての全人格の問題としてのほうで――捉えようかとは思います。  ・・・

noname#195588
noname#195588
回答No.10

Details for SN 22.87 Vakkali http://suttacentral.net/sn22.87 T02n0099_p0346b29║難堪忍。欲求刀自殺。不樂苦生。 佛告跋 漢文のほうは自殺とかでてきてますね。 ~~~~~~~~~~~~~~~ 今のところメモ程度ですが 仏教と自殺について考える上で、 この経はポイントのようです。 ~~~~~~~~~~~~~~~ Appatiṭṭhitena ca, bhikkhave, viññāṇena vakkali kulaputto parinibbuto”ti. パーリ文の最後のほうには parinibbuto もでてきますから。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ひとごろし論は アブラハムが長子イサクをいけにえにするかどうかの問題と カインとのアベル殺しの物語をめぐる問題 これらで済んでいるという立ち場にいます。あしからず。

noname#195588
noname#195588
回答No.9

無住処涅槃 http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%82%80%E3%81%98%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%AD%E3%81%AF%E3%82%93 「不住涅槃」とも訳す。apratiSThita-nirvaaNa अप्रतिष्ठितनिर्वाण (skt.)  完全な涅槃にも住せず、煩悩のある迷いの世界にもとどまらない涅槃をいう。  完全な涅槃にとどまっていては悩みのある多くの人びと(衆生)を救うことができないし、生死の悩みに束縛されていては自らもさとることができないから、生死を脱した涅槃にも生死界にもとどまらず衆生を救うという。菩薩が大悲をもって衆生界で活躍するという大乗仏教の菩薩行を背景として生れた語である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ここまでくると、 生きるべきか死ぬべきか という問題を仏教は放棄したと思う。 もしくは涅槃というのは 生き死にとは関係ないのか。 生老病死が苦というのはどうなったのか。 生きたいにしろ死にたいにしろ ~したい、という欲望を捨てるからどっちつかずになるのか。 あと、菩薩というのが本当に厄介。 仏教をとことん批判しているのは菩薩だと思う。 本当に在家の運動だったのだろうか? 異教徒だったとか言われたほうがまだ納得できるくらいだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  ここまでくると、  生きるべきか死ぬべきか  という問題を仏教は放棄したと思う。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですかね。いえ つまり そういう論理になるのですが 問題はそこにはないと 見ています。  すなわち もともとそういう二値的な・相反する選択を問う問いじたいが おかしいのだと思っています。  もっと言えば  ▲ 完全な涅槃〔と〕煩悩のある迷いの世界  ☆ といった両極の想定 これ自体が おかしいと言うべきではないでしょうか。  さとりを得たとしても ふつうに――そしてそれは 一般に《ボディサトワ》なる境地として表わされると思いますが――生きていくことで よいわけなんです。何をいちいち究極の状態を けっきょく何も分からないままに 想像しなければならないのか。  ぎゃくに言えば 究極の状態は 梵我一如で済んでいることです。それを わざわざアン‐アートマン(無我・非我)と言い出したもんだから やっかいな話になってしまう。のではないでしょうか。  わたしがわたしである人間が 社会の中でふつうに人びとと共生して生きる。これで済むはずです。出家などというバカな話をなんで考えたのか。社会への寄生虫になってもよいのだという開き直りは おもしろいかも分かりませんが。  ★ もしくは涅槃というのは / 生き死にとは関係ないのか。  ☆ これも 梵我一如で済んだ話なのに いちいち重箱の隅をつっつきまわして ニルワーナなどという言葉に言いかえたところから バカ話が始まるのではないでしょうか。  ★ あと、菩薩というのが本当に厄介。  ☆ 梵我一如の状態に到った存在を どう呼ぶか? ブッダと呼び得れば それで済んだ話であって それは だけれども誰もが成れるのなら権威が無くなるとでも思ったのか 延々とつづくやっかいな話になるというので 別様にボディサトワを持って来た。だけだと思います。  ゴータマの所為です。ブッダなる状態をめぐって 極論に走ったり その極論としてならブラフマニズムでよかったものを どっちつかずのあいまい理論にしてしまったから ややこしい。のとちがいますか?  みづからを勝手に聖別して権威づけに走った阿呆。それに従ったバカ。二千年。

回答No.8

またまたです。 私は私である。 これは自己の確立なのでしょうが、多数派には自己の肯定と説明すると納得するかもしれません。 この場合、自己による自己の肯定です。 社会的な他者からの自己の肯定ではないでしょう。 ところが他者の意思に振り回される、欲望を預かってこそ、自己は承認されると考えている節もあります。 この点は私の宿題ですが、またしても彼らをいじめる為に、欲望をネタにすることもあるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 自己の確立〔と〕自己の肯定  ☆ とは 大きな違いがあります。確立していなくても 《肯定》はできます。  自己を肯定しても それだけでは 《自己の確立》は出来ません。  なぜか? 肯定するのは 言葉だけで出来るからです。きちんと認識して言ったものだとしても まだ認識とその表明までです。実存に到っていません。生活すべてについての意志行為の問題だと考えます。  ★ 自己は承認される  ☆ こととも違います。承認されていなくても 自己の確立はできます。やがて承認されましょう。  確立したというときには 《欲望》は 関係ないと言ってよいと思います。  つまりは 超えている。または すべての欲望を自己の内におさめる。欲望を知っている。しかも超えている。でしょうか。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.7

私はなぜ私なのかという問いが発生するように思います。その問いを素直に解いて、私が私であるとはどういうことかが明らかになるのではないでしょうか。独我論に陥ることなく、問いそのものが消滅する形で答えを得ることもあろうかと思いました。参考まで。

bragelonne
質問者

お礼

 ええっとですね。まづは ご回答をありがとうございます。  ええっと  ★ 私はなぜ私なのかという問いが発生  ☆ しますか?  発生することを受け留めているのでは だれでしょう?  そこで こりゃあやっかいだな。このわれなる人間は やっかいな存在だなと明らめて 存在をまるごと引き受ける。のではありませんか?  と言うよりも ふとアヤマチを侵していたとき われに還るというのは 果たして そのわれが ほんとうにわたしなのか? とか そのわたしは何故わたしなのか? といった問いをともなっていますか?  あるいは おれはアイツにだまされていたとか・あるいは世の中にあざむかれていたといったときには そのまま全身全霊われに還っているのではありませんか?  そのわれに還ったわたしは じつはニセのわたしだったとか ひょっとしてそのわたしは何故わたしなんだろうとか なお考え疑いつづけますか?  それよりも われわれはあやまちうる存在として到るところで あざむかれ得ます。じっさいそうなのですが それよりも わたしはあざむかれることを欲していないということ(そのわたし)は もうそれ以上うたがえないのではないでしょうか?  うたがったとしても 他人(ひと)から欺かれることを欲していないというそのことは もう誰からも欺かれないのではないでしょうか?  ★ 私はなぜ私なのかという問いが発生する  ☆ というのは まだわたしがわたしであるわたしに立ち還っていない というに過ぎません。それが むしろ独我論であるとさとらなければ いつまでも堂々巡りに落ち入るおそれがある。こう考えますよ。  形而上学は 形而上学屋さんたちにまかせておくしかないでしょう。

回答No.6

またまたです。 > 私は私である。 これは、自覚その物で、充足してしあわせよ~んというご褒美はおあずけと言っているのかもしれません。 今回はつっつきやすいご質問ですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そのとおりです。  ★ ~~~~~~~~~~~    私は私である。  これは、自覚その物で  ~~~~~~~~~~~~~   ☆ す。  つまり すでに《充足なり満足なり》の《ご褒美》は これもやはり突き抜けて来ている状態にあります。  言いかえると そのようなご褒美としての充足感は それ以前の道のりにおいて味わって来たことです。  《自覚そのもの》であるという意味は そのときには(つまり《魂のステージ》と誰かが言っていましたが その段階では) 充足感は まわりの人たちが味わっているものと捉えます。どうでしょう。

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