• ベストアンサー

江戸時代のお伊勢まいりについて

川原 文月(@bungetsu)の回答

  • ベストアンサー
回答No.7

こんにちは。 >>1. 江戸庶民の間にどうしてお伊勢さんの人気があったのでしょうか? 伊勢大神宮は日本人の信仰の大元(おおもと)であり、江戸ではどの家庭の神棚にお伊勢さんのお札が祀られていました。 伊勢神宮は20年に一度、社殿が建て替えられ遷宮が行われるので、儀式を見ようととりわけ参詣者が多く集まりました。さらに、60年に一度特別の効果があるといわれたありがたい年で、空から神符(おふだ)が降ってきたと言う噂をきっかけに各地から多くの人がお伊勢さんを目指すようになりました。 江戸に限って言えば、伊勢神宮から毎年年末になると、御師(おし)と呼ばれる下級神職が各地に出向き「伊勢暦」や「一万度の御祓」(おはらい)という神札(神宮大麻=じんぐうたいま・とも呼ばれた)を各家庭に配って回り、お伊勢参りを希望する者へは、御師があらかじめ懇意にしている宿などの宿泊の手配をしてくれました。 と言う訳で、伊勢神宮でも活発な宣伝活動をしていましたので、全国的に「一生に一度はお伊勢参り」と言われるようになりました。江戸でも各町内ごとに「講中」が結成されたりしていました。 >>2. ここで江戸庶民というのは、お江戸にいる庶民という意味で、他の地域の庶民は含まれていないのでしょうか。 また、御師は農村部にも出張しましたので、農村部でも各地に「講中」と言う組織ができ、銭を毎年積み立てて、主に、20年ごとの遷宮や60年ごとの特別な効果があると言われた年にその講中の代表者2~3名が集まった銭で伊勢へ向かいました。そして、帰る時には講中の人々の分だけのお札やお守りを買って帰りました。 >>3. 庶民とは“高禄の武士や豪商を除く”という意味でしょうか? 豪商は別として、基本的には「YES」です。 なぜなら、各大名家でもそうですが、特に江戸に住まいを持つ旗本や御家人などは将軍家の家来で、住んでいる家屋敷は全て幕府からの貸与ですので、いわゆる、官舎住まいですから、いつ戦いが起きても出動できるよう自宅待機が原則で御符内の範囲であってもその外側であっても、一泊またはそれ以上の宿泊にも組頭への届け出が必要でしたし、御符内から外へ出るにも届け出が必要でした。ただ、面白いところでは夜九つ刻(午前1時)までに帰宅していれば良く、それを過ぎてしまうと宿泊扱いになり、届け出をしていない場合には「謹慎」などの処分を受けました。 朱引図と言われ赤い点線が、御符内と御符外との境でした。 ちなみに、黒線(墨線・ぼくせん)の部分は、町方同心の巡回管轄範囲です。 御符内の範囲→http://bungetsu.obunko.com/newpage507.html (よもやま話) 1.古くから日本では神参りというと、男女の間が乱れても許されると言われ、お伊勢参りでも伊勢の宿場の「古市」には遊女がいて参詣客を男にしてくれました。 2.遷宮の参詣をはるかに上回ったのは、60年に一度の特別な「ご利益」(ごりやく)があるとされた年で、「お陰参」と言って子供や丁稚などが親や雇い主に無断で講中に加わって伊勢へと旅に出ました。これを「抜参」(ぬけまいり)とも言いました。 そして例えば、丁稚などの場合には、帰って来た時に、お札やお守りを持っていれば、主人は叱ってはいけない、という通達さえ出されていました。 3.「お陰参」は強い信心の表れと言われ、「柄杓」(ひしゃく)一本を腰にさして一文もなくても、道々では「お陰参」だと言えば誰かが助けてくれるほどでした。そして、「通行手形」がなくても関所は通過することができました。 4.江戸時代を通じて6回の「お陰参」があり、文政13年(1830)には参詣人が1日で19万人にも達したとの史料もあります。また、4か月間に宮川(三重県)の舟渡し場をわたった者が428万人だったとも言われています。 5.宮川の渡しは、 ●小俣の下の渡し(桜の渡し):京・東国から参宮街道を通る者が利用した渡し。 ●川端の上の渡し(柳の渡し): 大和・紀州から初瀬街道を通る者が利用した渡し。 ●磯の渡し:地元の人が利用した渡し。 の3か所があり、小俣の渡しは「下の渡し」、またはこの付近には桜の木が多かったことから、「桜の渡し」とも呼ばれ、それは、今の宮川橋付近にありました。 渡しは、昼夜の区別なく運行され、無賃であったといいます。 また、宮川を渡ると神域に入るため、勅使参向の時はここでみそぎを行いました。諸国からの参詣人もこれにならって身を清めたという、聖なる川・宮川。 はるか昔から、多くの旅人たちの心を和ませていました。 6.慶応3年(1867)の「ええじゃないか」は、お陰参にかこつけての討幕の陰謀説とも言われています。 こんなサイトを見つけました。 http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/haku/osusume/177-okagemairibunseishiniki.htm

krya1998
質問者

お礼

最後に文月論文を訪問しました。 うぅんさすがです。 たくさんの名ご回答の中で、お江戸を知る上では、やはり素晴らしいものです。 有り難う御座いました。

krya1998
質問者

補足

kagerohoさんがすばらしいですね。 今回はまことに素晴らしいご知見のご回答を賜り、皆様に心からお礼申し上げます。 お江戸、なんとも私達にもっとも影響を持ち、私たちの心性や基本の観念を形成させている文化と風俗ですね。 みなさんの素晴らしいご回答を暫く、勉強したいと存じます。 心からお礼申し上げます。

関連するQ&A

  • 歴代天皇は伊勢参宮しなかった?

    歴代天皇の中で明治天皇が初めて伊勢参宮を行ったという話をききました。 それ以前の天皇はどうして参宮しなかったのでしょうか? 熊野に詣でるより先祖の神宮に詣でるのが自然と思いますし、 江戸時代にはおかげまいりが庶民に非常に人気があったのに不思議です。 よろしくお願いします。

  • お伊勢参り

    お江戸日本橋 七ツ立ち 初のぼり 行列そろえて あれわいさのさ コチャ高輪 夜明けて 提灯消す (コチャエー コチャエー) 恋の品川 女郎衆に 袖ひかれ 乗りかけ お馬の 鈴が森 (コチャエー コチャエー) 六郷渡れば川崎の 万年屋 http://video.search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%81%8A%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A9%8B&tid=ef14ed153affa5b1158ed2978e6a14fa&ei=UTF-8&rkf=2&dd=1 お伊勢参り 江戸時代中期以降、大坂の町民らの間で、伊勢神宮を目指す旅が盛んになった。参拝者は年間数百万人との史料もある。「ひしゃく一本持てば旅ができた」といわれ、沿道の住民による接待「施行(せぎょう)」も盛んで、「おかげ参り」とも呼ばれた。街道沿いには、参拝者を迎えた石灯籠(とうろう)や宿場町が今も残っている。 質問 :お伊勢参りを主題にしているHPはないでしょうか? 質問2:七つ:午前四時ですね。高輪で夜が明けるのだそうですが何時ごろ何でしょうか? 質問3:行列揃えてという歌詞:そんな団体を編成するのでしょうか?

  • もし、皆さんが徳川家康だったら、どんな江戸時代にしたいですか?

    江戸時代にはいろんな制度がありました。 身分制度もあったし鎖国もあったし、武士、庶民の暮らしもさまざまでした。 飢饉もありました・・・ とにもかくにも、皆さんは徳川家康です。 さて、どんな江戸時代にしますか?

  • お伊勢参りに関連して

    近くの神社に江戸末期(文政十三年)の巻物が保存されていてその一部に村から伊勢参りに出かけた方の名前が記されています。その文書の冒頭に 「恒例之時参り人別但是はおかげにはあらざれども此節上方四国播州泉州・・・・・」とあります。 この時参という意味がわかりません。どなたか教えてください。

  • 武士から見た江戸時代とは?

    武士から見た江戸時代とは? 武士から見た江戸時代とはどんな感じだったんですか?

  • 江戸時代に熊野詣にかかった日数は?

    そもそも江戸時代もしくはそれ以前に江戸から熊野詣に出かけていたかどうかも含めてですが、どのぐらいの日数がかかったのでしょうか?また当時から熊野三山と言われ三ヶ所を回っていたのでしょうか?

  • 江戸時代の旅人

    江戸時代の人はどのくらい旅をしていたのでしょうか? 先祖の墓参りの旅はあったでしょうし、お伊勢詣りなどが有名ですが、どのくらい移動の自由に制約があったのでしょうか。 身分によって旅が禁じられていたりしたのでしょうか。 松尾芭蕉のような旅人は結構いたのでしょうか。

  • 江戸時代最も成功した商人は誰ですか?

    江戸時代には豪商がたくさんいたようですが、 その中で最も成功した商人は誰になりますか? 成功とは蓄財できたという意味です。 札差、淀屋、それとも三井越後屋でしょうか。 よろしくお願いします。

  • 江戸時代の旅行

    江戸時代、たとえば越後のちりめん問屋が諸国漫遊の旅をするということは、許可されたのでしょうか。もし、正直に申告すると許可されないとなれば、伊勢まいりを主目的にして申告し、寄り道を楽しむという方法をとったのでしょうか。

  • 江戸時代にも「日曜日」はあったんですか?

    江戸時代にも「日曜日」はあったんですか? 江戸時代から「日曜日は休む」という生活スタイルは、庶民の間に存在 していたのでしょうか? それとも、「曜日」という概念はまだ西洋だけのものだったのでしょうか? だとすれば、江戸時代の庶民はいつ休んでいたのでしょうか? もしかして、六曜制で「仏滅は休む」とかそんな感じですか?