《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?

このQ&Aのポイント
  • 人間の《信じる》という行為について、その意味や内容を考える必要があります。
  • 《信じる》は経験行為であり、経験世界を超えた非経験なるナゾを心の中で受け入れることです。
  • 信じることは個人の内面的なものであるため、組織宗教が個人の信仰を強要することは違法であり、自由が保証されるべきです。
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《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?

 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?  ( a ) おそらく信じる対象は 《非経験の場》だと考えられるが 信じる行為は この現実における経験行為である。  まづは こう考えますが きちんとした哲学としての定義を問い求めます。      *    宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのと言うことを聞きますが それはマチガイでしょう。  ( b ) 《おしえ》は あくまで経験思考の対象です。それは 《考える》です。  ( c ) 考え思っていることを つよく念じてその内容をつねに心がけるといったこと これも 《信じる》ではありません。それは 信念とか信条とかと言います。  あたまや感覚ですでに知覚し認識していることを《信じる》気遣いはあり得ません。  《心がけ》などをめぐる信念は それを《信じる》という言葉で表わすこともあるのは あくまで文学的表現ないし修辞学の問題でしょう。《強く思う》と言いたいところを 《信じる》と表わしてみた。こういうことでしょう。  ですから 信念や信条とそして《信じる(信仰)》とは 別です。  考え思うことは 経験合理性にもとづき何らかの根拠のあるものです。もしくは 根拠がそのいま科学的に問われているものごとです。  根拠が問われていること――因果関係や相互の作用関係などについてその根拠が問われ得るものごと――については たしかに一方で仮説を信じるというふうに表現したりしますが それも言葉のあやであるに過ぎず いっさい《信じる》とは別です。《考える》です。  言いかえると   ( d ) 無根拠――もしくは 根拠について分かるか分からないかが人間には分からないものごと・さらにあるいは 因果関係から自由な《非経験の場》―― これについて人は 《信じる》と言うのだと考えられます。  ( e ) この《信じる》は 包括概念であり そこに《信じない》をも含みます。この《信じない》と《狭義の信じる》とは 互いに同等でありその選択は 人にとって自由です。       *  さらに質問者の考えをたたき台にしてしるします。  1. 《信じる》は 思考に非ず つまり非思考という行為である。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その非合理性をも人間の境地において引き受けることさえありつつ――考えをすすめることである。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。  7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。  8. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  9. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばにして言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  10. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとして取り上げそのうえ教義や道徳規範として押し戴く場合がある。組織宗教である。  11. クリスチャンやブディスト――それが有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげる場合がある。これは 信仰ではありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  12. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》よりほかのことではない。  13. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合にも社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  14. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  15. 現行の憲法では 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰〔の姿勢〕を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自由への殺害行為であり 違法行為である。  16. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。それしかない。人びとのきづなしかない。  17. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は そのヒエラルキアにおいて信仰の自由を侵すならば 欺瞞である。

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noname#189751
noname#189751
回答No.5

信じるとは 行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである 非思考の領域が業に及ぶものならば 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす 信じるという仮定から 信じているという結果がいつの間にか生じてしまう げに 恐ろしきものですな。

bragelonne
質問者

お礼

 あばうと72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  《信じる》というコトもしくはその言葉をめぐって起こりうるいくつかの現象を分析されていましょうか。  ★ ~~~~  信じるという仮定から 信じているという結果がいつの間にか生じてしまう  げに 恐ろしきものですな。  ~~~~~~  ☆ この現象・この問題は 割り合い分かりやすいことではないでしょうか?  すなわち よく言えば(よく受け取れば) ことばとしての《信じる》があるから 信仰などという心的現象が 人びとに起きる。ということでしょうし。  また一般には おそらく  ★ 信じるという仮定から   ☆ というその中身が 〔おそらく〕想像上の何か――たとえば《神の愛》ですとか《愛なる神》ですとかのその観念――を《信じるという仮定》を置くと あんがいこれが《〈われは その何かを信じている〉という結果が生じてしまう》。  のかも知れませんね。これは じつは 幻想ですね。神は 観念(つまり 思考)ではありませんから。  ★ 非思考の領域が業に及ぶものならば 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす  ☆ これは 直前のわいわいえいとさんとのやり取りで出て来ました。かかげます。  ☆☆(No.4お礼欄) ヒラメキは 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのツナギとなりましょうか。どうでしょうか。  ☆ の問題ではないでしょうか?  すなわち 次のような心の構造とその仕組みにかかわっているように思います。  ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~  例の《ひらめき》というそのときどきの事件があります。  ヒラメキが起こると そこからその直感および直観を何とかして言葉で表わそうとする試みが持たれます。  そうなると むろんのこと その段階では 《思考》の領域に入っています。《思索》も大いにおこなうでしょう。    言いかえると このヒラメキなる直感および直観を大前提としてそのあとでは 《コギト エルゴ スム》と言えるのかも知れません。大いに《考える》の領域にすすみますから。《われ考える ゆえにわれあり》という命題のみによっては にんげんの存在は説明し得ません。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち  ★ 非思考の領域が業に及ぶものならば  ☆ とは 《非思考の庭》が あたかも泉となってのようにそこに ヒラメキを湧き出させる。  このヒラメキから――と言っても それはむしろそのヒラメキなる直感じたいが 身業(身のわざ)であると思われますが その直感および直観なるヒラメキから―― 《考える》をつうじて 意業(精神の認識および判断のわざ)が持たれます。  ★ 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす  ☆ 認識および判断が《無限の心ないし精神》であるのか にわかに断じがたいところではありますが そういった《限りなくひろがり展開する精神の緑野》が 《信じるという一点から生じる》。    ★ ~~~~  信じるとは 行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす  それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである  ~~~~~~~  ☆ たぶん わたしなら――出しゃばりますが―― 言いかえるでしょうね。    ★ 信じるとは 〔《考える》および《振る舞う》といった〕行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす  ☆ そうですね。《全人格の変容をもたらす》については  ○ そうなんだと思いますが・そのとおりなのですが ただし 但し書きをも添え得る。それは じつは もともと生まれつきそなわっていた自然本性としての《わたし》であった。つまり もともとの《わたし》に立ち還ったのであると。  その信仰として《非思考の庭がわが心に成った》その時点あたりでは おそろしいと感じるほどに《全人格の変容をもたらす》と見られるのですが そもそもその変容したあとの結果というのは 《わたし》だったのだと。  しかも わたしはこの《わたし》を 知らなかったわけではないと知る。わたしはおのれの《わたし》を じつは 愛して来なかったわけではないと知る。おそろしいほどの変容ぶりをつぶさに見てみると それは わが愛する《わたし》であった。  そのとき たしかに  ★ それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである  ☆ と形容すべき要素が生じていますね。ただしこれも その《非思考の庭を成らしめたナゾのチカラ》が 《わたしの能動性やそのときの自己認識を超えている》と捉え得るものの そうではあるものの 変容したあとの状態は じつは もともとの《わたし》であった。  《信じる》とは その《わたし》の核エネルギーなのでしょうか? または核反応のようなコトでしょうか?

その他の回答 (31)

回答No.12

情緒不安定が本能の働きを鈍らせたりはしないのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 そうであってもなくても 質問とはかかわりません。

回答No.11

やあ。 この質問が立ってから何日か経っているよね。 晩酌しながら酒の肴になるかと思って何度か読んでみたのだが、こねくり回しのコツを忘れてしまってね、あまり頭に入らなかったよ。 > 《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か? 単純にこれのみなら、自らの存在を尋ねる事だと解釈しているよ。 私は私である。 とか、 私は生きている。 とか、 この手の認識のために根拠を神においていると言う事だろう。 思考である知性の発達も神様と二人三脚だと思うよ。

bragelonne
質問者

お礼

 そうかい。  どうも  ★ やあ。   ☆ に対する応え方を知らない。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.10

No.7です。 ご自分の考えを述べてあるのは分かりますが、何をどう尋ねてあるのか分かりかねます。 実は心理学では、深層意識(無意識)や欲求の形など、どのようになっているかは ある程度は解明されています。 それがどの程度信頼できるのか、心理療法の効果を含め自身を使い確認をとるようにしてます。 自身を掘り下げて知覚として知る範囲でお話ししています。 過去の人物が、考えたこと調べたこと、解決の為に作ったものを自分で検証しているのです。 その上で、あなたの最初の質問としての >《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か? を私なりにお答えしました。 人が考えるのは自由ですから、あなたの考えに特に反論するつもりもありません。 ここの規定にあるように、情報交換の場であり議論の場ではないと考えています。 ですから、あなたの意見は否定も肯定もせず それに対しての真偽は、時間をかけて自分の中から見出せるかで判断するだけです。 私は、知識からの考えだけで判断しないようにしていますので。 そこのところはご了承ください。 「信じる」という言葉を先に知識として知りましたが 自分の中から見出した「信じる」は、それによって自分の何に繋がっていくかを知るものでした。 考えと感覚が融合した知覚は感覚が入りますので、申し訳ありませんが論じてもお伝えできません。 その点もご了承願います。 ご自身の追及、頑張って下さい。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  次のように図示して説明する内容 これによって補足要求としてお尋ねしたかっこうでした。   生活世界: (幼児:)本能 / (大人:)感性を含む思考   _________________________   その根底: ・・・・・《信じる(非思考の庭)》・・・・・・・・  幼児の本能による振る舞いは 《信じる》というみなもととつながって 《聖なるアマエ》と呼び得よう。  大人の《感性をふくむ思考(つまり うたがいを容れる)》は おおむね《わたし》が《わたし自身》を探し求める旅をしている。言わば巡礼の旅路である。  つまりそれは 根底における《信じる》とそのようにして――つまり自己還帰あるいは自己到来の過程というかたちにおいて――つながっている。聖なるアマエを じつは知っていて つねに きよらかなおそれを抱いている。(もしくは わざと それにさからっている)。  ★ ~~~~  考えと感覚が融合した知覚は感覚が入りますので、申し訳ありませんが論じてもお伝えできません。  その点もご了承願います。  ~~~~~~  ☆ この点は 了承いたしかねます。  なぜなら たとえば百科全書派が 西欧で出ましたね。そのときには とうぜんのごとく《感覚》についてそのあらゆる様態を取り上げ 哲学としての定義をほどこしました。  感覚の分析からしり込みするのなら 哲学には成りません。ですから 承知いたしかねます。    ★ ~~~~  私は、知識からの考えだけで判断しないようにしていますので。  そこのところはご了承ください。  ~~~~~~  ☆ ここにも誤解があると考えます。  《信じる》は 非思考の庭がわが心に成ることだと言って 《知識や考え》の問題ではないと言っています。そしてそれでも哲学は このこと(非思考の庭)についても出来るところまでは 概念による理解を得ようとしてすすむのだと言っています。  そこのところをどうかご了承いただきたい。それが 問いの趣旨とこころです。  《本能》や《感性をふくむ思考・そしてそこにうたがいをも含む》といった経験的な事象や行為は 《信じる》と けっきょくにおいては つながっているとは見ますが そのままのかたちで同じ次元において対応させるのは 問い求めの中身としてどうなのか? こういうお尋ねです。はっきりしていると思います。(最初の図示を参照ください)。  お引き留めするわけではありませんが 情報交換として そちらの情報を いまのままでは受け容れがたい。ゆえにその事由を明らかにして さらにお訊きしています。  

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.9

No.7です。 お尋ねの件ですね。 >(あ)★ 信じるにおいては、人間の基本的欲求(本能)から生じてます     ★ 出発点は本能です >(い)★ 信じるという自らの意志により生じた動作 > これら(あ)と(い)とは 互いに相容れないほど別だと思われますが どちらも《信じる》についての説明となっています。どうでしょう? 信じるのは本能であり、疑いは経験から生じます。 その時点で選択肢ができてしまう訳です。 有る程度の年齢になると、選択肢がある場合は意志によって選びますよね。 産まれたては選択肢を持たないので信じる。 経験を積み重ねて、すべてをそのまま信じるのは違うと知る。 そう言うことを指しています。

bragelonne
質問者

お礼

 かんと‐あいさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ほかのみなさんは どう受け取っておられましょうか。と思いますが ここではわたしの感じたままの受け留め方をつづって できればさらにお尋ねしてまいりたいと存じます。  ★ ~~~~  信じるのは本能であり、疑いは経験から生じます。  その時点で選択肢ができてしまう訳です。  ~~~~~~  ☆ たしかにまづ《本能》には じつは選択肢がありません。赤ん坊は 本能で母親のお乳を求め吸うのだと思います。そのとき お乳とそうでないものとの区別も 身の感覚でおこなっているのだと思われます。  区別には 選択するという行為が伴なっているようですが お乳を吸うという動作には 選択肢はありません。哺乳瓶で吸うというのは 親の側の選択であろうと考えられます。  ところが もしこのことが《信じる》とかかわっているとした場合 それでも人は 幼児からやがてものごころがつくようになると ウソをつくというそれとしての自由選択の意志行為を経て すでにもう本能による行動はしなくなります。  そのときどきの時点で 食べるか食べないかを選択するようになります。何を食べるかについて 思考をつうじて考えた結果そのものをえらぶという意志行為によることとなります。  と考えてくるなら けっきょく赤子が本能によって振る舞うにせよ人が考えることによって自由に選択するという意志行為をおこなうにせよ その根底には 言ってみれば何ものかを信じるという《存在の原点》のごとき核があるかと考えられます。  そうして 《うたがう》は 食べるものが腐っていないか・毒が入っていないかなどと疑うにせよ疑わないと決めるにせよ とうぜんのごとくそれは 《考える》の問題です。言いかえると 《何を食べるか》の選択行為においておこなうその要素であると考えられます。  つまりですから 何が言いたいかと言いますと こうです。  ○ 《信じる》は ひとつに何も考えないのですし ひとつにその受け容れるものについて それは無根拠と言う如く じつは何も分かっていないわけです。  したがって まづ《本能》は 何も考えないという点で 信じるに似ていますが 信じるは《無根拠》なるナゾの何ものかを いちおう知覚しているかあるいは概念として認識しているかだとしますと 俄然 違って来ると思います。  しかも きよらかなおそれ あるいは 聖なるアマエとしてその中身は やはり似ているようです。  《うたがい》は あくまで《考える》の問題です。何らかの根拠を問い求めています。  《信じる》が ナゾの何ものかを 無根拠として無根拠において 受け容れるというとき その《非経験の場》を間違えることはあるか?  ないと考えます。  なぜならもし間違えたときには それは 《いちおう概念として認識している》ところの神なら神が すでにその人の頭の中で《思いとして持たれていたり 想像においてその中身を想い描いていたりする》場合に限られるからです。言いかえると すでに神がオシエとなって抱かれている場合です。オシエは 信じるの対象ではなく 考えるのそれですから。  教義は 根拠を問い求めています。  人間なる教祖を信じるという場合も 同じくです。人間であるなら 人はその人について考えてその人柄を捉えることをします。ときには 信用できないという判断(選択)にまでみちびかれることもあります。つまり うたがいです。  うたがうや考えるがからんでいるなら それは 経験思考の問題です。信じるではありません。  このように《信じる》が その受け容れるものを間違えることは ほんとうにはない。  こう考えるにつけても 信じるは 考えるとは次元が違う。とさえ思われます。  ★ 産まれたては選択肢を持たないので信じる。  ☆ というように見えますが げんみつに言えば そこにはふたつの階層があると思われます。    根底の次元に 信じるがある。(赤子は むろん 自覚していませんが)。その上に この場合は考えるではなく 本能による振る舞いというひとつの生活の層がある。のではあるまいか。  ★ 経験を積み重ねて、すべてをそのまま信じるのは違うと知る。  ☆ 《経験や世界の認識を積み重ねて その結果出した結論》は むろん選択肢としてでありそれを選択するわけですが あくまで経験合理性にもとづきくだした妥当性のある内容のことです。つまり 考えるの対象です。信じる・信じないとは別のことではないでしょうか?    (このとき 信じるという表現をすることがあるのは 強くその妥当性を思っている。確信している。といった意味です。その妥当性がくつがえることがある・つまり うたがいを容れている。のですから 《信じる》とは別です)。  どうでしょう?

  • kanto-i
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回答No.8

No.7です。 信じるにおいては、人間の基本的欲求(本能)から生じてますので 私的には、特にそれ以上は哲学はありません。 なぜならば、人間は生まれながらにして自身を他者にゆだねます。 子を育てるという行為の間に、子からの疑いは入る余地が無いからであり 疑いは経験から来るものだからです 本能とは、他者とのふれあい(スキンシップや優しい声かけ)をすることが 生きる上で必要する欲求であり、それにより人に対しての信頼を強めます。 子供の時ふれあいが足りないと、欲求を叶えられなかったことにより 人を信頼することが難しくなり、コミュニケーションも苦手となります。 乳幼児期のふれあいが、自分を受け入れてくれるという確認であり 他者を受け入れられる基礎となります。 受け入れられ感が足りないで欲求不満で育つと、人はそれを宗教や神に強く求める場合があります。 あるいは科学に、金に、権力に求める場合もあります。 上記のように信じるがどのように働いて行き、生き方に強い影響を与えますが 出発点は本能ですから、私はそれ以上掘り下げることができません。 「行為(こうい)とは、人が自らの意志(意思)に基づいてする動作。」ウィキより ということですので、信じるという自らの意志により生じた動作は、自己責任であり 他者や何か(社会とか宗教とか国家とか政治とか)の責任にしないのが 質問の最初の投げかけである「どういう行為か」に繋がると考える次第です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。前回は わたしの物差しで測って理解し受け取ったかたちでお応えしました。  今回は 述べられたご見解のままを受け取って 単純に分かりにくいと思ったところをお尋ねしてまいりたい。こう考えます。  ○ 本能による行動と意志による行為  これをどのように位置づけているのか? この点をまづお尋ねします。  (あ)★ 信じるにおいては、人間の基本的欲求(本能)から生じてます     ★ 出発点は本能です  (い)★ 信じるという自らの意志により生じた動作  これら(あ)と(い)とは 互いに相容れないほど別だと思われますが どちらも《信じる》についての説明となっています。どうでしょう?   ☆ ~~~~~~   ですから 自説を出さないと言いましたが すでに述べた説明を確認  しておきますと:   信じようとするもの(無根拠のナゾ)を受け容れるという行為 これ  は 《わたし》の意志による経験行為です。     しかもその《無根拠のナゾ》が わたしのところにやって来るのは  わたしの意志や思考や何やかやをすべて超えたところからである。   つまり 《本能》をも超えている。   この経験世界の因果関係や相互依存あるいはつまり世の中のシガラミ  の関係をすべて超えたところ それが 非経験の場であり 無根拠のナ  ゾです。  ~~~~~~~~~~      ですから 《出発点は 本能ではなく 非経験の場およびそれのわたしによる受け容れである》と思われます。  その上で  ★ ~~~~  信じるという自らの意志により生じた動作は、自己責任であり  他者や何か(社会とか宗教とか国家とか政治とか)の責任にしないのが  質問の最初の投げかけである「どういう行為か」に繋がると考える次第です。  ~~~~~~~  ☆ というように 経験思考の緑野における(つまり この世界における)ひろく自己表現としての行為は 《自己責任》のもとにおこなわれる。こうなるのだと思います。  それとは少し別ですが 次のご指摘は 重要ではないかと考えます。   ★ ~~~~~  本能とは、他者とのふれあい(スキンシップや優しい声かけ)をすることが  生きる上で必要する欲求であり、それにより人に対しての信頼を強めます。  子供の時ふれあいが足りないと、欲求を叶えられなかったことにより  人を信頼することが難しくなり、コミュニケーションも苦手となります。  乳幼児期のふれあいが、自分を受け入れてくれるという確認であり  他者を受け入れられる基礎となります。  ~~~~~~~  ☆ 《甘え》と言うと 他人に依存しすぎることだと受け取るのがふつうになっていて 用いづらい言葉ですが 赤ん坊は 誰が何と言おうと アマエから出発します。全面的に――そして言ってみれば 聖なるかたちにおいて――母親にだけではなく一般に人に対して 依存することから出発します。  このアマエは じつは したがって その依存を受け留め受け容れるかどうかにもかかわりますから 《受け容れ》がなくては 何にもなりません。  ということで おそらくおっしゃるように この聖なるアマエ あるいは 〔ものごころがすでについているとすると多少とも不安を伴なっての〕きよらかなおそれ この体験が のちのち大きな意味を持つのではないかとわたくしも考えます。  自然本性の持ち味を確かなものとする基礎固めなのではないかと。  では この幼児における《聖なるアマエ》が 親のつごうでうまく成り立たなかった場合は どうなるか?  結論から言えば わたしは 心配することはないと考えます。  アマエを受け留める親の存在以上のものが 目に見えないながら 神の存在(つまり 非経験の場としては 非存在)なのではないかと捉えるからです。  人は 子として親と持つ関係以上に 存在の条件として 《無根拠のナゾ》としづかにはげしくかかわっている。から心配要らない。こう思います。  ですから  ★ ~~~~  受け入れられ感が足りないで欲求不満で育つと、人はそれを宗教や神に強く求める場合があります。  あるいは科学に、金に、権力に求める場合もあります。  ~~~~~~  ☆ これらは すべて《インチキの神》であろうと考えます。  (科学や仕事に勤勉であることが マチガイだという意味ではありません。それらを神として受け留めようとするのは インチキの世界に入ることだという意味です)。  なぜなら 自然本性が 何もしなくとも そのまま問い求めているのが 神だからです。それは 《わたし》自身を問い求めることと けっきょく同じことになるのだとも考えられます。  いわゆる《宗教》は 人為的に《聖なるアマエ》の対象としての観念なる神を 作り出している。こう考えられます。  といった格好になりました。今回もかなり出しゃばりました。

  • kanto-i
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回答No.7

信じるとは、人間のおこなう「自己責任に基づく」行為だと思います。 信じるに至るまでは、様々あるでしょうが 信じるという形で受け入れたのは、その人自身ですから 行為としては、自己責任を全うするのがよろしいかと。 信じる=受け入れる だと思います。 ちなみに信じるも疑うも、私は通常使いません。 確認できたものは、それに関しては信じるに値する。 それだけでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 かんと‐あいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  おっしゃっていることは分かります。これまでのみなさんとのやり取りを見てもらっても その中身をおおむね同じくしておられると思います。  ただしどうも 表現にかんしましては――こまかいことにこだわりますが―― 微妙に違う。こうも感じられました。  ★ ~~~  信じる=受け入れる  だと思います。  ~~~~~~  ☆ おそらく基本的に見解を同じくしていただいたのだと思います。思いますが 表現としては・また哲学としては もっと詳しい手続きのような作業が欲しい。わづかにこう思いました。  ○ ひとを受け容れる。自分を誹謗中傷し世の中から抹殺しようとしたその相手を 心より受け容れる。敵をわが心に 無条件にて 受け容れる。  というのも《受け容れる》ことですから。たしかにこのように人を差別せず あたかも自分と同じように受け容れるときには おそらくその源泉または原動力のごとくして《信じる〔としての 神の受け容れ〕》があって働いているのではないかと思われますが そうなのですが ただ《受け容れる》という定義だけでは こちらも扱いに困ってしまいます。とまづは 正直に物言いをお伝えしたいと思います。  ★ 信じるとは、人間のおこなう「自己責任に基づく」行為だと思います。  ☆ これも おそらく段階が分けられておらず 直接につながっているのだと見ます。    ○ ヒラメキは 《非思考の庭》と《精神の思考の緑野》とのツナギである。  ということは ヒラメキの源泉もしくは原動力が 核エネルギーとしての《信じる》です。その動態です。  《思考の緑野 あるいは 未開拓の原野や密林》なる世界において  ★ 人間のおこなう「自己責任に基づく」行為  ☆ が みなもとの《信じる》から 自由に堂々と自信を持って 表わされて来ます。  このような段階が 凝縮されてつながれたかたちで かんと‐あいさんの心とあたまの中でたぶん直観されたのではないかと思われます。どうでしょう?  ですから おっしゃる意味は よく分かります。と申しました。  少し省エネ答法をゆるしてもらってしまいましょうか。つまり あとはこれまでのやり取り・そこにおけるわたしの受け答えを参照していただくというかたちにてと思ったのですが どうでしょう? 

回答No.6

 「信じる」と云う言葉を使うから、ブラジュロンヌさんの心意が伝わらないのではないでしょうか。  「非思考の庭」=「信仰」=「信じる」と云った図式を提示していますが、ブラジュロンヌさんの言わんとする事は、例えれば・・・・・  母の胸に抱かれ、安らかな状態の幼子。この母と子の精神的関係こそが「非思考の庭」なのだという事ですね?  そう思うと、これまで言われてきた事は「信仰」の“内容”について顕わしたい、という思いが強いのだと考えます。  この“内容”は信じるとかの事柄ではないので、したがって「非思考の庭」と表現出来るのだと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 わいわいえいとさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ この“内容”は信じるとかの事柄ではないので、したがって「非思考の庭」と表現出来るのだと思います。  ☆ 何にしても言葉で表わされたもの・つまりは言葉をとおして人が思考しているもの そのような内容は 《考える》の対象であって 《信じる》ものではありません。  しかも  ○ 非思考の庭  この表現にしても 言葉をとおして・またその意味内容において 人はすでに表象をしています。《思考》という概念ないし何らかのその象(かたち)を得てそれとして表わしています。また《思考に非ず》と言ってやはり概念によって筋道をつくり推論を得て行きます。象に表わして行きます。  つまり 《非思考の庭》という言葉は すでに《思考の領域》において成り立っています。  しかも 何とかして《非経験の場》のことを・そのナゾのことを伝えようともしています。  言いかえると 言葉はみな経験世界に属しており そうでありながらも わづかに《非経験の場》を想定してそのナゾを指し示すためにも用いられる。こういうことだと考えられます。  そのナゾは じつは・じつに 無根拠です。  (これは じつは 根拠があるのかも知れないのですが。つまり 根拠があるのか無いのか それについても根拠のある理解や説明が 人間には出来ない。そういう《非経験の場》が想定されています。《かみ》とは そういうものです)。  この無根拠を無根拠のまま――ややもすると バカみたいに非思考において――受け容れる。これが 《信じる》という人間の行為だと考えます。  ★ 母の胸に抱かれ、安らかな状態の幼子。この母と子の精神的関係こそが「非思考の庭」なのだという事ですね?  ☆ おさな子に自分の《わたし》が意識されてあるとすれば そういうことなのでしょうね。  言いかえると ものごころがついてからの問題なのでしょうね 信仰は。  ものごころがついてから ひとは誰でもウソをつきますから 一たんナゾの何ものかから離れてしまうのでしょう。それをふたたび受け容れるということなのでしょう 《信じる》というのは。  ひとは かみが何たるかがふと分かったと思うときには 《かしこまり》ますね。  あるいは 《あは。 Ah ! 》と言って もののあはれにみちびかれます。  あるいは 《きよらかなおそれ》をいだきます。  これは おさな子のやすらかなさまと同じなのでしょうね。  ちがいは わづかに おとなは いちいちその神を 心に受け容れるという作業を経なければならない。こう思われます。  たしかにこういう《信じる》ことは 《考える》をおこなったとしても 得られません。かすかなそのイメージが得られるかも分かりませんが 体験しなければ分からないでしょう。  しかも もしもとの《わたし》に戻るのだとしたら じつは《信じる》ということを――もしくは《かみ》を――もともと知っているのでしょうし じつはつねに愛してもいるのでしょう。だから 体験する前にすでに その目指すところが分かっている。  (さとりも こういうふうに説明するとよいと思われるのに)。  しかもです。しかも しかも しかも。この《信じる》という人間の行為は どういう行為か? これを 哲学するという問い求めです この質問は。  おそらくこの問い求めが一定の成果を得たなら 人にとっての《核反応ないし核エネルギー》とでも言うべき信仰について 万人にあてはまる普遍的な説明を成し得たということですから もう世界における宗教の違いなどは 屁の河童となるでしょう。  これには おそらくわれわれ日本人が――と言ってもむろんほかの人びとを取り退けるのではないわけですが それでも―― ふさわしい。  《きよらかなおそれ》もしくは《聖なるあまえ》 このことをよく知っていると思われるからです。  唯一神に対する頑迷な《信仰(?)》からは はなから自由であるからです。  わづかに――わいわいえいとさんを前にして 堂々と言いますが―― ブディズムのモヤモヤ・ワールドが このような論理的な哲学の仕事を妨げている。としかわたしには思えません。  片や もののあはれについての表現のむつかしさと 片や どこまで行っても曖昧模糊たるさとりのモヤモヤとは まったく異なるものです。  きよらかなおそれは――ヒラメキのはたらきに似て―― 何とかしてこれを仮りにでも言葉によっても表現し 誰もが納得するようなその内容を共有したいと思っている。  さとりは この内容表現やその共有を 何とかしてむしろ させないようにする。そんなものを言葉で表わされてたまるかとでも思っている。タコツボなるモヤモヤ・ワールド。天上天下唯我独尊。  ・・・  このあたりまでとしましょう。

回答No.4

都内でも、玄関先に柊(ひいらぎ)の枝に、鰯の頭を刺して“邪気を払う”風習を見ることがあります。 「鰯の頭も信心から」 辞書に、たとえどんなつまらないものでも信心の仕方次第で、尊くありがたいものになるということ。と、あります。 質問文の前半を読んでいて、ブラジュロンヌさんの表現する「非思考の庭」に、上記の信心も含まれるんだろうなあ、と思いましたが。 「信仰とは行為そのものであって、そこに“思索”が入ってはならない」と、言っているのだと受け止めました。 また、信仰には対象物があるけど、その対象物によっては信仰とは言えない世界がある、とも言っているようです。 と、ここまで考えたら“鰯の頭”は、信仰の対象にしてはいけないのだろうかと、さらなる疑問が起きてしまいました。

bragelonne
質問者

お礼

 わいわいえいとさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ええ。そうですね。  ★ と、ここまで考えたら“鰯の頭”は、信仰の対象にしてはいけないのだろうかと、さらなる疑問が起きてしまいました。  ☆ おっしゃるとおりだと思います。言いかえると 《きっかけ》にするだけなら よいのではないでしょうか?  あるいはさらに言いかえると 何であっても 《信じる対象――じつは 非対象――》を仮りに示すものであることはかまわないわけです。仮りの代理物を仮りのものだと知っているかぎり 鰯のあたまでも何でもかまわない。こう考えます。  つまり早い話が 鰯のあたまは 信仰の対象には成り得ません。かたちあるものですから 見る・触れる・食べるあるいは科学的に認識するといった《考える》の対象です。考えるの対象であるものを信じるということはあり得ません。  (つよく思うという意味で 言葉のあやとして 信じると言ったりすることは別とします)。  ★ 「信仰とは行為そのものであって、そこに“思索”が入ってはならない」と、言っているのだと受け止めました。  ☆ その――たとえとして敢えて言ってみますが――《いわしのあたま》が仮りに示すところの《非経験の場》 これを(と言っても要するに 神のことですが)一たんわが心なる非思考の庭において受け容れたとするなら あとは これの持続ということになります。  信仰は 受け容れるという行為とその保持の過程というやはり行為です。その意味で 動態です。  もっとも 忘れたり怠けたりしたとき ちゃんとその動態過程に連れ戻してくれますから 安心です。つまり そうでなければ 信仰は 人間の・そして《わたし》の努力によってのみ成り立たせるものであり しかもその自分のチカラで保持して行くということになってしまいます。  受け容れおよび保つという自分の行為はおこないますが それ以上に何ものかナゾのチカラが この《わたし》の動態を たも(網)で掬うようにして 受け留めてくれている。そういうことだと思います。安心です。宇宙と一体なんだもおーん。  ★ ・・・そこに“思索”が入ってはならない」  ☆ これはですね。受け容れおよび保ちという非思考の庭の動態的過程そのものにおいては 《思索》も《思考》もいっさい入りません。《非思考》なのですから。  ただし 例の《ひらめき》というそのときどきの事件があります。  ヒラメキが起こると そこからその直感および直観を何とかして言葉で表わそうとする試みが持たれます。  そうなると むろんのこと その段階では 《思考》の領域に入っています。《思索》も大いにおこなうでしょう。    言いかえると このヒラメキなる直感および直観を大前提としてそのあとでは 《コギト エルゴ スム》と言えるのかも知れません。大いに《考える》の領域にすすみますから。《われ考える ゆえにわれあり》という命題のみによっては にんげんの存在は説明し得ません。  ヒラメキは 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのツナギとなりましょうか。どうでしょうか。

回答No.3

非経験の場を信じている際には、 どう遣って其の方々はそれを自覚するのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。  無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。  思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。  しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。  言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。  それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。  これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。  7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。  ~~~~~~~~~~

回答No.2

言語によるコミュニケーションさえもが、相互の信頼の維持に依存していますね。 従いまして、Protocolを疑わないので、 電気通信機器類は『無心』での遣り取りを継続させ得るのでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ 言語によるコミュニケーションさえもが、相互の信頼の維持に依存していますね。  ☆ その信頼が破られることもありますね。    という意味は 信頼が保たれることも保たれず破られることもある。これが 経験世界です。  そこに《無心》を持って来ても いま問う問題の中身には関係して来ません。  非思考の庭 これを問うています。  非思考とは 思考が無い・あるいは思考をしていないという状態のことではありません。思考していようがいまいが 思考をしてものごとのけりがつくか そのつくかつかないかが分からないという領域にかかわる心の状態であり その庭です。  経験世界と非経験の場(これは 想定です)とを峻別してください。  でもこのことは もう口が酸っぱくなるほどすでに何度も言って来ていますから こんど同じことを書いて来ても もう取り合いません。

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  • 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?

     (α) 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?  言いかえると――同じような内容ですが――  (β) 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないか?  (δ) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないか?    (ε) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の 自由にとっての 自殺行為ではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  (ζ)  宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為に片向きがちであるゆえ その自由は認められないのではないか?  (η) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為となるのでは?  (θ) 聖典と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   (ι) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?  (κ) 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきでは?

  • 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか

     (α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか?    (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか?  (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか?  (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは?  *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか?   *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?

  • 宗教は 百害あって一利なし。

     (1) 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象である。  (2) そのオシエが もし《信じる》べきものであると言うのなら それは 精神錯乱に落ち入ることを意味する。  (3) オシエは 命題(人間の思考し判断したもの)としてあるからには 《考える》ものであって そのような思考ないし理性の問題であるものを どうして信じる(つまり 神として受け容れる)ことが出来ようか。  (4) 《信じる》と《考える》とを区別するべきである。   ○ オシエは 信じるものではない ~~~~~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (5) 《信じる》とは 神をわが心に受け容れることである。神は 非経験の場だから 《考える》ことも認識することも出来ない。わづかに信仰の何たるかを説明するために ヒラメキから得た知識を理論として形成するとき この説明理論は 神を知るための補助線となる。  (6) この補助線たる説明書きが オシエと見なされ得る。《神は愛である》なり《至高の善である》なりの取扱説明書を オシエとして さらにはこの思考内容ないし概念を神として 信じよと言うのが 宗教である。  (7) この宗教は 信仰としての蝉の 抜け殻である。百害あって一利なし。  これを問います。出来れば 確定させたいと考えます。

  • 第二章 オシエは 考えるもの。信じるものではない。

     神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論  第二章 宗教のオシエは 経験思考の対象であり 考えるもの。それを神として 信じるということはあり得ない。――さらには 信仰の神は 非経験の場であり 信じるもの。この神を オシエや理念によって勝手に作り上げてはならないということ。   ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~      普遍真理――信じる    世界事実――考える    主観真実――《信じる》+《考える(感じる)》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 宗教のオシエは 一般に文章表現として《事実》に属する。むろん もとはと言えば 《真理》を何とか人間の言葉で指し示そうとして引いた補助線である。  2. 真理を指し示すために たとえば《なんぢの敵を愛せ》というオシエがある。けれども このオシエは 考えるものであり 信じるものではなく 鵜呑みにして規範とするものではない。  3. オシエは あくまで考えるためにある。おのれの考えと判断とによって そのつどその場でみづからの実存を成してゆく。そのためにある。  4. あるいは 神のことを説明して 《全知全能》といった属性が与えられる。そこで これについて反駁する者があって 《もし全知全能なら 世の中の悲惨を早く無くしてくれ》とか あるいは《神は自分が持ち上げられないバーベルをつくることができるか》といった《難題》を提示するようですが これらは 《全知全能》という概念がそのまま神であると誤解したことにもとづいています。  4-1. 言いかえると 全知全能という属性がまちがっていないとすれば その知性と能力がどのように発揮されるかは 人間には分からないというのが 答えになります。  4-2. すなわち 神は 概念や理念ではない。神についてその姿や能力を考えて 像を描いたとしても その思考や想像の産物としての神の像が 神なのではない。勝手に人間が神をつくることはあり得ない。  5. 重ねて述べるなら 《となり人を 自分と同じように愛しなさい》というオシエは 至上命令のごとき規範ではない。つまり 神そのものではない。そうではなく 自分〔たち〕で考えて それぞれがおのれの実存を形成してゆくための指針のようなものである。 信仰にとって 無くても構わない。  ☆ 以上の趣旨説明にて 表題の成否・当否を問います。ご教授ください。

  • 神は人間を何であると思っていると思うか?

     神は人間を何であると思っているとあなたは思いますか?  質問者のこたえは わたしにとって神は 信じているのであって・つまりは わが心なる《非思考の庭》に受け容れているのであって 何とも分からないというものです。   ○ わが心(身と心)の成り立ち    信仰:非思考の庭:ヒラメキ    -----------    哲学:思考の緑野:思考・想像    知覚:感性の原野:直感   ・ なお 《哲学》には シュウキョウのオシエが入ります。それは 信じるものではなく 考えるものです。

  • オシエは 考えるもの。信じるものではない。

     1. 宗教のオシエは 経験思考の対象であり 考えるもの。  2. それを神として 信じるということはあり得ない。信じるとは 無条件に受け容れることである。  3. よって オシエは 考えるもの。信じるものではない。    4. それでもこれを信じなさいと言うのは まだわれわれの知らないよほどの神秘がそこにあると言いたいのか さもなければ よほどのバカである。  5. ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~    普遍真理――信じる    世界事実――考える    主観真実――《信じる》 / 《考える + 感じる》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 宗教のオシエは 一般に文章表現として《事実》に属する。むろん もとはと言えば 《真理》を何とか――無理なのだが何とかして――人間の言葉で指し示そうとして引いた或る種の補助線である。  7. 《となり人を 自分と同じように――〈自 分 を 愛 す る の と 同 じ よ う に〉である――愛しなさい》や《なんぢの敵を愛しなさい》といったオシエがある。けれどもこれらは 神ではなく 信じるものでもない。鵜呑みにするものでは断じてない。  8. それらは 考えておのれの判断にもとづき意志行為として振る舞うという問題である。強いて言うなら そこでは《信じる》は 《考える・心づもりを決める》のうしろに隠れている。  9. さらに言えば このとき《信じる》は――《考える》に非ずその思考を超えているからには――じつは 万人にひとしい。  10. つまり 《普遍真理(いっぱんに 神のことである)》とわれとの関係は けっきょく誰にとっても・どの銀河系に行こうとも ひとしく同じである。  11. その《信仰という生きた動態》について人間の言葉で表わそうとしたオシエは――宗教の教は―― それぞれ工夫をこらしてさまざまである。  12. ぎゃくに言うと 考えて腑に落ちない内容がそのオシエにあればこれを問い質し マチガイがあれば自由に批判しあい正して行かなければならない。ただすことは 避けてはならない人間の義務である。  13. 阿呆なオシエは 廃れるに任せるその最初のひと押しを成すつとめが われわれ一人ひとりにある。  14. シュウキョウは 聖域を成すものではない。《信じる動態》は 良心・信教の自由として――その証明抜きの自同律としても――言わば聖域を成す。  ご見解を明らかにして添削をお願いします。