《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?

このQ&Aのポイント
  • 人間の《信じる》という行為について、その意味や内容を考える必要があります。
  • 《信じる》は経験行為であり、経験世界を超えた非経験なるナゾを心の中で受け入れることです。
  • 信じることは個人の内面的なものであるため、組織宗教が個人の信仰を強要することは違法であり、自由が保証されるべきです。
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《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?

 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?  ( a ) おそらく信じる対象は 《非経験の場》だと考えられるが 信じる行為は この現実における経験行為である。  まづは こう考えますが きちんとした哲学としての定義を問い求めます。      *    宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのと言うことを聞きますが それはマチガイでしょう。  ( b ) 《おしえ》は あくまで経験思考の対象です。それは 《考える》です。  ( c ) 考え思っていることを つよく念じてその内容をつねに心がけるといったこと これも 《信じる》ではありません。それは 信念とか信条とかと言います。  あたまや感覚ですでに知覚し認識していることを《信じる》気遣いはあり得ません。  《心がけ》などをめぐる信念は それを《信じる》という言葉で表わすこともあるのは あくまで文学的表現ないし修辞学の問題でしょう。《強く思う》と言いたいところを 《信じる》と表わしてみた。こういうことでしょう。  ですから 信念や信条とそして《信じる(信仰)》とは 別です。  考え思うことは 経験合理性にもとづき何らかの根拠のあるものです。もしくは 根拠がそのいま科学的に問われているものごとです。  根拠が問われていること――因果関係や相互の作用関係などについてその根拠が問われ得るものごと――については たしかに一方で仮説を信じるというふうに表現したりしますが それも言葉のあやであるに過ぎず いっさい《信じる》とは別です。《考える》です。  言いかえると   ( d ) 無根拠――もしくは 根拠について分かるか分からないかが人間には分からないものごと・さらにあるいは 因果関係から自由な《非経験の場》―― これについて人は 《信じる》と言うのだと考えられます。  ( e ) この《信じる》は 包括概念であり そこに《信じない》をも含みます。この《信じない》と《狭義の信じる》とは 互いに同等でありその選択は 人にとって自由です。       *  さらに質問者の考えをたたき台にしてしるします。  1. 《信じる》は 思考に非ず つまり非思考という行為である。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その非合理性をも人間の境地において引き受けることさえありつつ――考えをすすめることである。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。  7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。  8. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  9. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばにして言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  10. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとして取り上げそのうえ教義や道徳規範として押し戴く場合がある。組織宗教である。  11. クリスチャンやブディスト――それが有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげる場合がある。これは 信仰ではありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  12. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》よりほかのことではない。  13. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合にも社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  14. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  15. 現行の憲法では 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰〔の姿勢〕を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自由への殺害行為であり 違法行為である。  16. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。それしかない。人びとのきづなしかない。  17. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は そのヒエラルキアにおいて信仰の自由を侵すならば 欺瞞である。

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noname#189751
noname#189751
回答No.5

信じるとは 行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである 非思考の領域が業に及ぶものならば 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす 信じるという仮定から 信じているという結果がいつの間にか生じてしまう げに 恐ろしきものですな。

bragelonne
質問者

お礼

 あばうと72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  《信じる》というコトもしくはその言葉をめぐって起こりうるいくつかの現象を分析されていましょうか。  ★ ~~~~  信じるという仮定から 信じているという結果がいつの間にか生じてしまう  げに 恐ろしきものですな。  ~~~~~~  ☆ この現象・この問題は 割り合い分かりやすいことではないでしょうか?  すなわち よく言えば(よく受け取れば) ことばとしての《信じる》があるから 信仰などという心的現象が 人びとに起きる。ということでしょうし。  また一般には おそらく  ★ 信じるという仮定から   ☆ というその中身が 〔おそらく〕想像上の何か――たとえば《神の愛》ですとか《愛なる神》ですとかのその観念――を《信じるという仮定》を置くと あんがいこれが《〈われは その何かを信じている〉という結果が生じてしまう》。  のかも知れませんね。これは じつは 幻想ですね。神は 観念(つまり 思考)ではありませんから。  ★ 非思考の領域が業に及ぶものならば 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす  ☆ これは 直前のわいわいえいとさんとのやり取りで出て来ました。かかげます。  ☆☆(No.4お礼欄) ヒラメキは 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのツナギとなりましょうか。どうでしょうか。  ☆ の問題ではないでしょうか?  すなわち 次のような心の構造とその仕組みにかかわっているように思います。  ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~  例の《ひらめき》というそのときどきの事件があります。  ヒラメキが起こると そこからその直感および直観を何とかして言葉で表わそうとする試みが持たれます。  そうなると むろんのこと その段階では 《思考》の領域に入っています。《思索》も大いにおこなうでしょう。    言いかえると このヒラメキなる直感および直観を大前提としてそのあとでは 《コギト エルゴ スム》と言えるのかも知れません。大いに《考える》の領域にすすみますから。《われ考える ゆえにわれあり》という命題のみによっては にんげんの存在は説明し得ません。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち  ★ 非思考の領域が業に及ぶものならば  ☆ とは 《非思考の庭》が あたかも泉となってのようにそこに ヒラメキを湧き出させる。  このヒラメキから――と言っても それはむしろそのヒラメキなる直感じたいが 身業(身のわざ)であると思われますが その直感および直観なるヒラメキから―― 《考える》をつうじて 意業(精神の認識および判断のわざ)が持たれます。  ★ 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす  ☆ 認識および判断が《無限の心ないし精神》であるのか にわかに断じがたいところではありますが そういった《限りなくひろがり展開する精神の緑野》が 《信じるという一点から生じる》。    ★ ~~~~  信じるとは 行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす  それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである  ~~~~~~~  ☆ たぶん わたしなら――出しゃばりますが―― 言いかえるでしょうね。    ★ 信じるとは 〔《考える》および《振る舞う》といった〕行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす  ☆ そうですね。《全人格の変容をもたらす》については  ○ そうなんだと思いますが・そのとおりなのですが ただし 但し書きをも添え得る。それは じつは もともと生まれつきそなわっていた自然本性としての《わたし》であった。つまり もともとの《わたし》に立ち還ったのであると。  その信仰として《非思考の庭がわが心に成った》その時点あたりでは おそろしいと感じるほどに《全人格の変容をもたらす》と見られるのですが そもそもその変容したあとの結果というのは 《わたし》だったのだと。  しかも わたしはこの《わたし》を 知らなかったわけではないと知る。わたしはおのれの《わたし》を じつは 愛して来なかったわけではないと知る。おそろしいほどの変容ぶりをつぶさに見てみると それは わが愛する《わたし》であった。  そのとき たしかに  ★ それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである  ☆ と形容すべき要素が生じていますね。ただしこれも その《非思考の庭を成らしめたナゾのチカラ》が 《わたしの能動性やそのときの自己認識を超えている》と捉え得るものの そうではあるものの 変容したあとの状態は じつは もともとの《わたし》であった。  《信じる》とは その《わたし》の核エネルギーなのでしょうか? または核反応のようなコトでしょうか?

その他の回答 (31)

回答No.22

『非経験の場』は自己目的的に成り立っているのでしょうか? http://j-net21.smrj.go.jp/develop/digital/entry/001-20120314-01.html

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 革命的ネットワーク制御技術「OpenFlow」  ☆ と《自己目的性》とのつながりがよく分かりませんでした。  ★ 『非経験の場』は自己目的的に成り立っているのでしょうか?  ☆ たぶん 神はですね――つまり《非経験の場》は という意味ですが―― この経験世界の状態について よかれと思われるところを推し出そうとしているでしょうね。比喩としてものを言えばです。  中でも特に 人間の状態・その社会の状態について よかれと思われるところが実現するようにと思っているでしょうね。  ところが 人間たちは よかれと思うところを知っていても そのままその思うところをおこなうとは限らない。おそらく おこなうところの半分かそれ以上の部分は よくないと分かっているところをおこなっている。のかも分かりません。  量としての半分以上ではなくても 定性的に見て過半の部分がよくないことではないか。  近くは 《領土》という概念に人びとのあたまは占領されてしまっています。  したがって――と言い始めているその意味は もっとも子供だましのごとく言えば 《非経験の場》は 打ち出の小づちでもあるのですから それでもそれなのにその小槌をわれわれ人間は 素直に振ることが出来ない そのような事情のもとにおいて―― 神がか人がか《よかれと思うところを推し出そうとしている》ときその実際の現われは つねに過去のシガラミの解きほぐしのみに終始している。  後手後手にまわっている。  ちっともあたらしく前にすすむということが ない。  身分制を 理論じょうだけとしても 揚げて棄てるようになってから――つまり民主制があまねく採用されるようになってから―― もうあまり進展がなくなって来ている。  まるで賽の河原での石積みのごとく 積み石をしては取り崩しまた積み上げるという作業を性懲りもなく繰り返している。  非経験の場は ひとり満ち足りていますから つねに誰かのことを・つまり人間のことを思ってどうにかするようにみちびこうと思っているでしょうね。  人間が自分たちでどうにかするように その方向へとみちびこうとしていると思われます。  非経験の場はそのハタラキを 他者目的的にはたらかそうと思っているでしょうね。

回答No.21

たとえ多重人格罹患者達の潜在的なweが経験していても、 顕在化されている人格が其の経験の有無を若し自覚していないのでしたら、 其の過程は『非経験の概念』だと見做され得るのですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  いえ 別の見解を持ちます。    ★ 多重人格  ☆ とは 器質による病理をのぞけば 社会性――つまり社会における人間関係に起因する性質――によるものとわたしは 理解しています。    言いかえると その《多重》なる側面を持ったひとつの――つまり《わたし》としての――人格がある。のみである。こう考えます。  早い話が 現われ出るどの人格の姿も 《わたし》なるひとつの基本的な人格に属するいくつかの側面である。これに過ぎないと。  まだ現われ出て来ていない側面もふくめてです。  そしてその潜在的な小人格も けっきょく現われ出れば経験事象ですから 《非経験の場》ではないでしょう。こう考えます。    ひとりの《わたし》がいくつかの小人格を統括できなければ 罹患する状態になるかと考えます。  統括できたら もう多重として現われることもなくなる。と思います。

回答No.20

前回の説明が非常に分かりやすくて、其の御蔭で、経験の権限制御( http://ja.wikipedia.org/wiki/Active_Directory )との齟齬への更に理解が深まりました。 存在証明・不在証明の根拠を欠いている故に、通俗的な経験とは食い違っていますので、 其の特殊な経験は『非経験のArea』を構成させているのですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  少々抹香臭い話をします。  《非経験の場》とは それが経験世界を超えているということは それが経験世界における因果関係やあるいは相互に依存してひとつの社会構造をかたちづくるといった関係錯綜からいっさい自由であることを意味します。  因果関係から自由であるという意味で 比喩的に《特異点》です。  この社会経験的な意味での特異点を かのイエスという人間が――それゆえに キリストと呼ばれるようになるかたちにて―― 十字架上の姿として あたかもかたちづくりました。  むろん ユダヤ人たちの高等法院やその人びとの嫌悪やあるいはローマの官憲によって張りつけの刑に遭ったのですが これを 大泣きに泣きながらも 神のおぼしめしとしてみづからの心に受け容れた。  《その権力をふるう人たちを 神よ ゆるしたまえ。かれらは 何をしているか知らないから》と言って 世の中のシガラミから自由な立ち場に立った。  あるいは 《おまえがキリストなる神であるなら その木の上から降りて来い》という兵士たちの《観念の神(想像の産物たる神)》によって描かれかねないマボロシからも自由であったと言えるかたちで 決して磔の木から降りては行かなかった。  神としてそのチカラで奇跡を起こすようなことはしなかった。  そうしたとすれば(奇蹟を起こしたとすれば) それは あぁ 神だから出来るのだ おれたち人間には関係のないことだと言って やはり人びとは取り合わなくなってしまう。  風は 或る日知らず知らずのうちに しかも 人間の側における行為としては地道ないとなみをとうとぶかたちにおいて 吹いた。と言わんばかりの虚構です。  このようにして 特異点の歴史的実現を――たしかに かなしいかな 物語として・物語において―― 果たした。  これが 次に言うところの事例のひとつだと見ます。  ★ ~~~~~~  存在証明・不在証明の根拠を欠いている故に、通俗的な経験とは食い違っていますので、  其の特殊な経験は『非経験のArea』を構成させているのですね。  ~~~~~~~~~  ☆ 物語が語られたかぎりで 『非経験のArea』と経験世界とのインタフェイスと言うべきでしょうか? 言えないでしょうか?  

回答No.19

流れ作業の内の一部を外部の他社へと委託する『アウトソ~シング』の方式が採用されますと、 たとえ自社側の新入社員達が其のアウトソ~シングの手順を知りませんでしても、 (つまり、直接的な経験を済まさせて貰えませんでしても、) 其の新入社員達は自分達の部門の業務課題を十分に熟し切れれば余り批判されまい、 と私には思われますので、此の質問を拝見しました際に、 (其処へのこだわりを保った儘で)下記の通りの誤解を払拭せねばなりませんでした。 「『自分達による直接的な経験の不在』が『非経験』と関わっているのだろう。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%97%E3%82%BB%E3%83%AB%E5%8C%96 従いまして、此の場で複数回の回答を受け付けて下さった御蔭で、 「他者達による経験をも踏まえない『(default値的な)非経験』」の存在可能性の模索の歴史を、私は知りたくなりました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。  素人が感じたままで反応してみますと:  ★ 「『自分達による直接的な経験の不在』が『非経験』と関わっているのだろう。」  ☆ この表現では 《非経験》の意味が 微妙に捉えにくいと思われます。  ○ (非経験の場〔という想定の内容〕は) ~~~  1. ひとつに 未経験のことではありません。  未経験と言うなら やがて〔おそらく 必ずや〕経験しうるという意味になります。  ですが 《非経験》は 《ひとが経験しうるかどうか それが人には分からない》と言っています。  早い話が 《経験しうる》かも知れず すでに《経験した》かも知れません。  ということは あくまでひとそれぞれの《主観》の問題におさまる内容であることを意味します。それ以外のことは 意味し得ません。  つまりは 或る主観が おれは神を見たと言ったとしても――その主観内部のこととしては 真実でありうると認めたとしても―― その神直視なる体験をほかの人びとの主観と ただちに=科学的に証明しうるかたちで 共有しうるとは考えられない。となるはずです。  一般に未経験であったことが あらたに経験されたというときには 経験合理性においてほかの人びとの主観においても妥当であると見なされて共有される経験内容のことを言うはずです。ですから 非経験とは だいぶ違います。  2. ひとつに《不可経験》つまり《経験しうべからざる》ことではありません。  もし《非経験の場》は ひとが経験しえないと人にとって分かって(つまり科学的に論証されて)いるのならば その論証された内容は じつは経験世界のものごとであるとなります。そういう認識の問題だとなるはずです。  《無いとか あり得ないとか 起こり得ない》というふうにすでに分かり切っているのなら それは 認識しうる世界つまり経験世界の出来事であると見なされます。そうなるはずです。  つまりそれは そのことが然りとも否とも分からないところの非経験の場ではありません。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょう? 検証をお願いしておきたいと思います。  ★ 『(default値的な)非経験』  ☆ 《初期条件》ないし《原初の状態》には じんるいにとってのそれと おのおの個体にとってのそれとがあると思います。  《類としての存在にとっての デフォールト状態》は いろいろ神話などにおいて人びとは語り伝えて来ています。また たとえばビッグバンから始まってそれの歴史的経過を受け継いでのじんるいの誕生としての初期状態についても 探究されているものと思います。  その内容がいづれであったとしても 問題は 《非経験の場》そのものにとっては 何も変わりませんし 影響を受けるものでもありません。神は ひとり満ち足りています。    問題は その神をひとが受け容れたというその《非思考の庭》が 初期状態としてどうであったか? これだと思われます。  ということは つねに《個人にとっての信仰とその初期状態》が問われて来るということでしょうか?  どうなんでしょう? 意識においてみづからの意志によって受け容れるというとき以前の おさな子の場合には どうか?   わたしに分かっている〔と思っている〕こととしては すでに述べましたように 赤子のばあいの《聖なるアマエ》というべき状態や こんどはやがて成長しつつ意識的に受け容れるようになるばあいの《きよらかなおそれ》をいだくというべき状態 これらが 単純に言って 初期状態であろうかと思っています。  それが 《非思考の庭》の出発点であり 生まれたときにそなわる自然本性にとってもその原点であり核を成す状態であると考えます。  この《聖なるアマエ》もしくは《きよらかなおそれ》が  ★ 『(default値的な)非経験』」の存在可能性  ☆ であると考えるという意味です。  ★ 『(default値的な)非経験』」の存在可能性の模索の歴史を、私は知りたくなりました。  ☆ これについては ですから いわゆる宗教が説くそのオシエの中から あくまで個人の信仰(非思考の庭)として成り立っていたその内容を取り出して来れば その歴史がかいまみられるものと思います。       *  たとえば こうです。  まづ【Q:本質観取と仏教】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7011950.html  へのわたしの回答(No.1)から次を抜き書きします。(いくらか修正しています)。       *  大野晋の古語辞典には こうあります。  ▼ (大野:古語辞典) ~~~~~~~   いき【息】(生キと同根)(1)呼気。呼吸。(2)気力。活力。    (3)茶の香気。   ○ 〔* 解説として〕息と生キとを同根とする言語は 世界に例が少    なくない。     例えばラテン語 spiritus は息・生命・活力・魂     ギリシャ語 anemos は空気・息・生命      ヘブライ語 ruah は風・息・生命の根源の意。     日本の神話でも《息吹(いぶき)のさ霧》によって生まれ出る神    神があるのは 息が生命を意味したからである。              (1990補訂版)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  すなわち この《生(生命・生活)なる世界》について見て 純粋意識にまで還元するとこの《息もしくは風》に到るという現象学を もともと昔から行なって来ている見られます じんるいは。  地水火風ないしアトムという場合も その種の探究なのでしょう。(ですから 現象学の専売特許ではないのでしょうね。)  《息》にかかわるアートマン( atmo-sphere の atmo- と同根)を――ひとなる存在の側における――根源でありそれとしての純粋意識であると見立てたブラフマニズム このいわゆるバラモン教が ブッダに先行しましたね。  そこではそのアートマンのさらに根源(または 同じ根源)としてのブラフマン これが世界ないし宇宙の側において 主宰神であるとして据えられ 両者の一体(梵我一如)をとなえるかたちを持ちました。  ブラフマン(梵)とアートマン(我)との一如といった純粋意識に還元した世界観を――それが 実際の社会においては ブラフミン(バラモン聖職者)による支配と言ったようにいわゆるカーストなる身分制となっているのを見てこれを嘆いた結果でしょうか あるいはつまり あまりにも生活世界の内にあっては生まれによる固定した身分というようなただの観念として単なる通念として有力となってしまっているのを捉えてでしょうか―― ふたたびのようにさらにあらたな純粋意識へと還元したのが ゴータマ・ブッダだと見られます。  無我(アン-アートマン)ないし空(スンニャター=ゼロ性)をとなえました。  これは 煮詰めて言えば アートマンないしブラフマン神は 《無い神》であると言って・つまりそう言いかえて 無神論としての《非思考の庭》を説いたものと考えられます。      *  次には   【Q:現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7034634.html  のそのNo.65お礼欄から引きます。  § 2 現象学は 東西と古今にわたる哲学思想の原点をめぐって展開されているか?  〔=すなわち 《『(default値的な)非経験』」の存在可能性の模索》は どうであったか?〕  コギト(思考)だけに限らず インスピレーション(直感および直観のヒラメキ)をも扱い なかんづくその《主観》の扱いは 《わたし》とは何か? である。つまりは存在論であることにおいて世界史を 思想の原点として つらぬくものをあらためて探し出すこころみとして。  《存在 ないし〈わたし〉》は 古代には 《かみ》一般とつらなって捉えられた。このつながりは――絶対的な隔たりを介しながらのつながりは――現代にまで インスピレーションという見方に残る。  そして 次のようにも表現された。       ・プシュケー・コスムー(宇宙霊魂) これが《われ》に宿る。    ・=アニマ・ムンディ(世界霊魂)    ・主宰神ブラフマンとアートマンなる我との一体(梵我一如)    ・ いや 《我》説ではなく 諸法無我だととなえつつ 《無い神》の想定による世界についての空観(縁起共生)を説く。    ・その空観のまま 人(有情)には仏性という・じつはアートマン霊が宿るとした世界観。    ・《あなたは 神の霊の宿る神殿である》    ・《エフヱフ アシェル エフヱフ》      =《 〈 I am. 〉――that is who I am.》。      《〈わたしはある〉 それがわたしだ》。    ・《ヤフヱフ》=《 He makes be. 》。      《かれ(神)は〔われと世界を〕あらしめる》(一訳例)。    ・《イムマ・ヌー・エル》=《 With us 〔 is 〕 God. 》  うんぬん。うんぬん。       *  というのが 一瞥した歴史だと思います。  これらは つまりこれらを さらに検討・検証しつつ 充実させたものにしていくのが ひとつの課題だと考えます。

回答No.18

可能世界から『非経験の場』への完全な解脱は、 既に果たされているのに、社会生活の為にフィルタリングが掛けられてきたのですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  おそらくおっしゃるとおりだと思います。  ○ なぜいわゆるシガラミなどのフィルタリングが掛けられているのか?  それは 厳密に言うとすれば たぶんこうです。  祖先たちも ウソをつきイツワリをおかして来た。その比喩としてになるのかどうか いかな赤ちゃんでも 〔その〕DNA を受け継いでいる。  または 社会共同の心理もしくは観念またその幻想として 歴史的に――いやがおうでも――受け継ぐ部分がひとにはあるかも知れない。  よって ついついシガラミを好み みづからがみづからにフィルタリングを掛けるというクセを持ってしまう。のかも知れません。  つまり こうです。  赤ん坊は すでにその聖なるアマエにおいて 《非経験の場》につながっていると思われる。そしてそれは ただし ものごころがまだついていない段階である。  ものごころがついて ほどなく・そしてあっけなく簡単に 人がおのが心にさからってウソ・イツワリを好むようになるのは 先祖から受け継いだそのようなへそ曲がり DNA によるものと考えられる。  だと思うのですが どうでしょう?

回答No.17

非経験のレジューム機能( http://e-words.jp/w/E383ACE382B8E383A5E383BCE383A0.html )が、 複数の経験群を関連付けて、記憶を形作るのでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ レジューム機能  ☆ 《サスペンド機能》とも言うそうですが    ○ ハイバーネーション  とも言うそうですね。《休止状態》。というよりも 語義に着目して 《冬眠状態》のことだと思われます。  つまり 《非経験の場》をわが心に受け容れて《非思考の庭》が成ったあと そこから谷川の水を汲むかのようにヒラメキを得るということ。この《風のチカラ》がはたらく《身と心》と成ること。これを遠ざけているか または いちど得たあと――《われに立ち帰った》そのあと―― ふたたび《眠り》に入るということになる。これが 冬眠状態であり それでも《非経験の場》のチカラは それ自身のほうからはたらく。  こういった構造的な存在過程の一端(というより原点)が レジューム機能でしょうか。  ★ 複数の経験群を関連付けて、記憶を形作るのでしょうね。  ☆ たぶん ふたつの階層があるのでしょうか。  まづ 記憶という能力行為を目覚めさせる《風のチカラ》とそのハタラキというひとつの層があります。  あとは 経験知と人間がその意志を用いておこなう判断などといった経験行為に属するときの記憶行為は 特には風のチカラとのつながりを必要としていないかも知れません。冬眠状態においてさえその能力行為をひとは成し得ると言うべきかも知れません。  つまりあらためてまとめるなら:    ○ (記憶という能力) ~~~~  記憶という能力行為には 通常では 《われはわれなり》との自覚がないというような冬眠状態においても活動する認識の整理ないしその秩序化作用がある。  と同時に 冬眠状態から目覚めさせて われのわれなる源泉としての《風のチカラ》のもとで――聖なるアマエにおいて――そのハタラキがあたえられるというときの記憶行為がある。記憶行為が そのように励起されるひとつの層があると思われる。それは ヒラメキにかかわっている。(インスピレーション)。  ~~~~~~~~~    と文章化をこころみました。

回答No.16

「『(経験の基盤になり得る、原初的な)非経験』の経験」には、 始まりやら終わりやらが含まれていないのでしょうね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B7%E6%B2%8C

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  この《考える》にかかわる経験世界は つねに初めと終わりがあります。結果が原因となるという連なり方をするわけですが 因果関係で継起しています。  《非経験の場》もそれを受け容れるというのは 経験行為ですから その人にとってはその《信じる》が始まったときがあります。  そして《信じる》が始まる前にも とうぜん《非経験の場》は 経験世界を超えたかたちでですが いわば存続しています。(そういう想定です。つまり 簡単に・乱暴に言えば 《神》という言葉が 《わたし》の経験行為の始めや終わりにかかわらず 持たれているというかたちにおいてです)。  ★ 原初的な  ☆ の意味は 経験世界の《始め》を言う概念だと思いますが そうだとすれば 《非経験の場》はそれを超えています。《神》は 因果関係から自由であると――初めの想定から――規定されます。  とくに十字架上のひとを例にとれば その姿は 言わば《特異点》のようです。通念にしたがって言えば それは善悪の彼岸です。  ★ 経験の基盤になり得る・・・  ☆ 善悪の判断や要するに《有るか無いか》の認識にかかわる経験世界は おそらくそのような認識という行為やその結果の知識を超えていると想定するところの《非経験の場》が 《みなもと》と成っていると推し測られます。  わが心なる《信じる》としての《非思考の庭》は おそらく《経験的な思索や行動》の源泉であり原動力であろうと考えられます。その庭から泉に水の湧くごとく 直感および直観としてのヒラメキを得て 《コギト(われ考える)》にすすむからです。  考えてみれば 煮詰めた議論としては 無神論をふくめ・そしていまだ自覚していない場合をふくめて 神を受け容れていると思われる《人間》は わづかにその存在(身と心)に生まれつきそなわる《特異点》のチカラ――それは 非経験としてはわけの分からないものだから《霊(=風・息)》と言われますが――を 実際にははたらかせていない場合がある。こう考えられます。  《一切衆生 悉有仏性》というごとく 自然本性としてそなわったその《風のチカラ》を わざわざ遠ざけている。場合がある。  《霊》などは まぼろしであり 神などは人間がつくったものだと堂々と主張しています。  科学は万能ではないが かと言って全知全能の神などというのは あるわけがなく それはインチキだとうそぶいています。  といったところでしょうか。

回答No.15

論理的な分析が酷く難しい課題に直面した際に、 もしその課題の解決を回避してはいけないのでしたら、 その状況の被災者達には、情緒不安定の当事者意識が芽生え易くなりましょう。 従いまして、其処から類推しますと、 「『非経験』のヴァ~チャルな経験」の問題の難しさは、遥かに…。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ・・・その状況の被災者達には、情緒不安定の当事者意識が芽生え易くなりましょう。  ☆ つまりは《逆説》と見てしまっている限りでは 《被災者》意識が取り着きます。そういうことです。  ★ 情緒不安定  ☆ の中から ふと窓を見つけ外を見てみようと思ったときには 被災者の意識は消えています。情緒不安定の状態の真っただ中へ どこからか風が吹いてくるのです。ならば しめたもの。  とこころえてください。  というよりは このような説明を聞くなら そうだ 一見すると《ぎゃく》だと感じることも そうではなく むしろ《わたしのいるべきところ》なのだとひるがえって感じられ その思いとともに あぁ そこに帰ればよいのだと思うようになりましょう。  被災事件が まさにきっかけになり得ましょう。(ということは すでにそのように風は吹いているのかも分かりません。予行演習?)  ★ ・・・もしその課題の解決を回避してはいけないのでしたら  ☆ 課題を放り投げずその解決に取り組むのは 哲学としては 有志の人びとです。言葉にして表現し 人びとに分かりやすく説明するという課題に取り組むのは それはじっさいもんだいとしては 人数が限られて来ましょう。  《戒律》ではありません。戒律はいっさいありません。《命令》は 強いて言えば《なんぢのとなりびとを愛せ》のみがあります。それが 《なんぢの神を愛せ》と同じ内容となります。  (しかも そんなものは 自己愛であるに過ぎず ただの自己満足だと《哲学者》は皮肉るでしょう。あたっています。すべては 主観から始まりますから。すべては 《わたし》のもんだいですから)。  ★ ~~~  従いまして、其処から類推しますと、  「『非経験』のヴァ~チャルな経験」の問題の難しさは、遥かに…。  ~~~~  ☆ という《〈取った〉たぬきの皮算用》なる人智を 風は吹き抜けて行きます。よ。  心配要りません。  あとは 《とき》があります。すべては ときとともに動きます。  わたしの邪推では 日本人にときが来ていると思っています。  その内のいくらの人びとに風が吹くか それは分かりません。必要なだけ吹きましょう。  風は 思いのままに吹く。わけですから。  さくらいみさとさんは わたしのこんな雲をつかむような話にご関心がありますか?

回答No.14

たとえ経験され得る内容が解決課題の対象になっていましても、 もしその課題の論理的な分析が途哲も無く難しいのでしたら、 その状況へと巻き込まれた方々の多くが冷静な判断を阻まれやすくなり得ますので、 ましてや、『非経験(経験を得る手段・基盤)』が相手になると、…。

bragelonne
質問者

お礼

 ご心配には及びません。  《信じる》は 境地のもんだいです。   感性と理性とを ふくみつつ 超えてもいる心的現象として捉え得られましょう。  《感じる》や《考える》を むやみに取り除こうとするわけではなく あるいは単純に不合理なことをよしとして受け容れるというのとも違うと言わねばなりませんが いわば思考としてにしろいわゆる修行としてにしろ 人為的なワザがチカラ尽き果てたところに ふとおとづれる風のようなものです。その意味で 《無根拠》のなにものかです。   ★(ぶらじゅろんぬが編集しました) 冷静な判断が阻まれる  ☆ のではなく そうではなく この判断力にしてもその力量が尽き果てたところに ふとちいさな花が咲いているのが見えた。といった経験になるかと思います。  認識や思考や判断やを 何も使い果たさなければならないという意味ではありません。  風が吹いたときには これは 人間の能力を超えたもんだいであると――それが 無根拠であると――分かるという意味です。  ご心配には及びません。  すでに分かっているのに わけもなく何ものかにさからっているのではないか? こういうおそれと うたがいを 持たないことを心配するのがよいでしょう。

回答No.13

「『非経験』を言語で表現する逆説的な経験」に葛藤されているのですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  たぶん ちがいます。筋道がぎゃくであるはずです。  なぜなら 《神》という言葉は どの言語にもあって 用いられているからです。  いわゆる宗教は そのオシエという点において 人間がつくったという要素が大きいのですが 神とのつながりは――その言葉を持つというかぎりで考えても―― 人間にとってすでに与えられている条件であるからです。  生まれる前から 神という言葉は使われています。  生まれたときから 赤子は 世界のいっさいに対して聖なるアマエを持っており そういうかたちで神とのつながりは そなわっています。  ★ 逆説的な経験  ☆ と見られてしまうのは 赤子のときの《聖なるアマエ》から人は一たん――ものごころがついてから ウソ・イツワリを おのれの意志行為として行ないそのことの味を味わうことをとおして 一たん――離れまた ときには立ち帰り 《葛藤》を持ち しかもこのような経験を繰り返す。ということをおこなっているからです。  きよらかなおそれをいだいて 聖なるアマエに立ち帰るなら 葛藤もなければ 逆説と感じることもなくなります。  というよりは そういう状態〔にありうる《わたし》〕のことをわたしは すでにつねに知っておりこれを愛しており あとは どのくらいへそが曲がっているかで 《逆説》感がその人によって感じられるということなのでしょう。    これが 《信じる》ということです。  ただし おっしゃるように このことを言葉にして表わすことは なかなか《人生の逆説》であるとか《葛藤》であるとかの話どころではないのでしょう。表わし得たとしても それを受け容れるに到るまでには 幾山河や万里の波がたちはだかっていると感じることなのでしょう。  それは 哲学が みづからの経験科学性を超えたところのことをも扱わねばならないからなのでしょう。  《超哲学》の部分については 哲学は 切って捨てるのが みづからの使命だとでも思っているキライがあります。  《信じる》を 《考える》ですべて代替しうると哲学は思っているのでしょう。

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  • 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?

     (α) 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?  言いかえると――同じような内容ですが――  (β) 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないか?  (δ) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないか?    (ε) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の 自由にとっての 自殺行為ではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  (ζ)  宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為に片向きがちであるゆえ その自由は認められないのではないか?  (η) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為となるのでは?  (θ) 聖典と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   (ι) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?  (κ) 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきでは?

  • 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか

     (α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか?    (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか?  (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか?  (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは?  *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか?   *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?

  • 宗教は 百害あって一利なし。

     (1) 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象である。  (2) そのオシエが もし《信じる》べきものであると言うのなら それは 精神錯乱に落ち入ることを意味する。  (3) オシエは 命題(人間の思考し判断したもの)としてあるからには 《考える》ものであって そのような思考ないし理性の問題であるものを どうして信じる(つまり 神として受け容れる)ことが出来ようか。  (4) 《信じる》と《考える》とを区別するべきである。   ○ オシエは 信じるものではない ~~~~~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (5) 《信じる》とは 神をわが心に受け容れることである。神は 非経験の場だから 《考える》ことも認識することも出来ない。わづかに信仰の何たるかを説明するために ヒラメキから得た知識を理論として形成するとき この説明理論は 神を知るための補助線となる。  (6) この補助線たる説明書きが オシエと見なされ得る。《神は愛である》なり《至高の善である》なりの取扱説明書を オシエとして さらにはこの思考内容ないし概念を神として 信じよと言うのが 宗教である。  (7) この宗教は 信仰としての蝉の 抜け殻である。百害あって一利なし。  これを問います。出来れば 確定させたいと考えます。

  • 第二章 オシエは 考えるもの。信じるものではない。

     神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論  第二章 宗教のオシエは 経験思考の対象であり 考えるもの。それを神として 信じるということはあり得ない。――さらには 信仰の神は 非経験の場であり 信じるもの。この神を オシエや理念によって勝手に作り上げてはならないということ。   ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~      普遍真理――信じる    世界事実――考える    主観真実――《信じる》+《考える(感じる)》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 宗教のオシエは 一般に文章表現として《事実》に属する。むろん もとはと言えば 《真理》を何とか人間の言葉で指し示そうとして引いた補助線である。  2. 真理を指し示すために たとえば《なんぢの敵を愛せ》というオシエがある。けれども このオシエは 考えるものであり 信じるものではなく 鵜呑みにして規範とするものではない。  3. オシエは あくまで考えるためにある。おのれの考えと判断とによって そのつどその場でみづからの実存を成してゆく。そのためにある。  4. あるいは 神のことを説明して 《全知全能》といった属性が与えられる。そこで これについて反駁する者があって 《もし全知全能なら 世の中の悲惨を早く無くしてくれ》とか あるいは《神は自分が持ち上げられないバーベルをつくることができるか》といった《難題》を提示するようですが これらは 《全知全能》という概念がそのまま神であると誤解したことにもとづいています。  4-1. 言いかえると 全知全能という属性がまちがっていないとすれば その知性と能力がどのように発揮されるかは 人間には分からないというのが 答えになります。  4-2. すなわち 神は 概念や理念ではない。神についてその姿や能力を考えて 像を描いたとしても その思考や想像の産物としての神の像が 神なのではない。勝手に人間が神をつくることはあり得ない。  5. 重ねて述べるなら 《となり人を 自分と同じように愛しなさい》というオシエは 至上命令のごとき規範ではない。つまり 神そのものではない。そうではなく 自分〔たち〕で考えて それぞれがおのれの実存を形成してゆくための指針のようなものである。 信仰にとって 無くても構わない。  ☆ 以上の趣旨説明にて 表題の成否・当否を問います。ご教授ください。

  • 神は人間を何であると思っていると思うか?

     神は人間を何であると思っているとあなたは思いますか?  質問者のこたえは わたしにとって神は 信じているのであって・つまりは わが心なる《非思考の庭》に受け容れているのであって 何とも分からないというものです。   ○ わが心(身と心)の成り立ち    信仰:非思考の庭:ヒラメキ    -----------    哲学:思考の緑野:思考・想像    知覚:感性の原野:直感   ・ なお 《哲学》には シュウキョウのオシエが入ります。それは 信じるものではなく 考えるものです。

  • オシエは 考えるもの。信じるものではない。

     1. 宗教のオシエは 経験思考の対象であり 考えるもの。  2. それを神として 信じるということはあり得ない。信じるとは 無条件に受け容れることである。  3. よって オシエは 考えるもの。信じるものではない。    4. それでもこれを信じなさいと言うのは まだわれわれの知らないよほどの神秘がそこにあると言いたいのか さもなければ よほどのバカである。  5. ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~    普遍真理――信じる    世界事実――考える    主観真実――《信じる》 / 《考える + 感じる》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 宗教のオシエは 一般に文章表現として《事実》に属する。むろん もとはと言えば 《真理》を何とか――無理なのだが何とかして――人間の言葉で指し示そうとして引いた或る種の補助線である。  7. 《となり人を 自分と同じように――〈自 分 を 愛 す る の と 同 じ よ う に〉である――愛しなさい》や《なんぢの敵を愛しなさい》といったオシエがある。けれどもこれらは 神ではなく 信じるものでもない。鵜呑みにするものでは断じてない。  8. それらは 考えておのれの判断にもとづき意志行為として振る舞うという問題である。強いて言うなら そこでは《信じる》は 《考える・心づもりを決める》のうしろに隠れている。  9. さらに言えば このとき《信じる》は――《考える》に非ずその思考を超えているからには――じつは 万人にひとしい。  10. つまり 《普遍真理(いっぱんに 神のことである)》とわれとの関係は けっきょく誰にとっても・どの銀河系に行こうとも ひとしく同じである。  11. その《信仰という生きた動態》について人間の言葉で表わそうとしたオシエは――宗教の教は―― それぞれ工夫をこらしてさまざまである。  12. ぎゃくに言うと 考えて腑に落ちない内容がそのオシエにあればこれを問い質し マチガイがあれば自由に批判しあい正して行かなければならない。ただすことは 避けてはならない人間の義務である。  13. 阿呆なオシエは 廃れるに任せるその最初のひと押しを成すつとめが われわれ一人ひとりにある。  14. シュウキョウは 聖域を成すものではない。《信じる動態》は 良心・信教の自由として――その証明抜きの自同律としても――言わば聖域を成す。  ご見解を明らかにして添削をお願いします。