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神は人間を何であると思っていると思うか?

 神は人間を何であると思っているとあなたは思いますか?  質問者のこたえは わたしにとって神は 信じているのであって・つまりは わが心なる《非思考の庭》に受け容れているのであって 何とも分からないというものです。   ○ わが心(身と心)の成り立ち    信仰:非思考の庭:ヒラメキ    -----------    哲学:思考の緑野:思考・想像    知覚:感性の原野:直感   ・ なお 《哲学》には シュウキョウのオシエが入ります。それは 信じるものではなく 考えるものです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • epusiron
  • ベストアンサー率24% (15/62)
回答No.2

子供では あなたには通じないか・・ 「我が子」

bragelonne
質問者

お礼

 あぁ 分かりました。  ★ 「我が子」  ☆ いとしいのでしょうね。  ありがとうございます。  ひょっとして だとすれば われわれ人間は 神のことをわが父と思っているのでしょうかね。

bragelonne
質問者

補足

 みなさんへ。  もしさらにご投稿がつづくようでしたら ほかのたとえば【Q:これが さとりだ】などに寄せてくださるようお願いします。  BA は オーソドックスなお答えをえらびました。

その他の回答 (16)

回答No.17

 人間は神をなんだと思っているんでしょう。  人間の想定する神は一般として慈悲心の塊、かと思いますが。  ブラジュロンヌさんは、何とも分からないという、そっけない受け止め方なんですか。  ブラジュロンヌさんは感じている事を信じているんです。  それは内から。  でも、オシエは外から。  オシエは外からなので考える事になりますが、受け入れられれば内になり、内になれば信じられることになります。  ブラジュロンヌさんは親鸞から学んでいるんですよね。    

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 人間は神をなんだと思っているんでしょう。  ☆ ほとんど同じことなんですが ちょっと待ってください。  そして わいわいえいとさん まづは ご回答をありがとうございます。こんばんは。  つまり 問いは  ☆☆ 神は人間を何であると思っているとあなたは思いますか?  ☆ ではあります。  ★ 人間の想定する神は一般として慈悲心の塊、かと思いますが。  ☆ たとえばそうだとしたら その神は 人間を《慈悲をたれてやる相手》だと思っているということでしょうか?    といった問いになっています。    ★ ブラジュロンヌさんは親鸞から学んでいるんですよね。  ☆ きちんと言うべきだと思いますので 説明します。  《まなび》はいろいろしましたが 思考としてのそれは 《神とわれとの関係――つまり 信仰――》にとって決定的な役割をになったことはありません。  《なぞ》が ある日或る時 わたしの心にやって来た。夜中に襲ってくる盗人のようにです。  そしてそれは キリストの神でした。名をたづねられるなら キリスト・イエスの伝え示す神でした。  その信仰の動態にあって むかしまなんだ親鸞を振り返ってみてみると ふむふむ こういうことだったかとよく腑に落ちた。という経過をたどって来ています。  ヒラメキとその解読は 言葉でおこないますし 思考の問題にもなります。  ★ ブラジュロンヌさんは、何とも分からないという、そっけない受け止め方なんですか。  ☆ そこから具体的には いろんな場合・さまざまな受け留め方が あり得る。とは思っています。  特にこれといったかたちで 決まってはいません。  そんな感じでしょうか。

回答No.16

8.10だよ。 いやね、あなたは文脈を誤解しといてした足らすだと言う癖があってね。 8はあなたが何か回答者に期待していたとかそんなつもりはなかったよ。 今回の様子を見ると、あなたなりに頑張って珍回答にもこたえてるね。 あんまり出しゃばらないで模様眺めするよ。 そもそも子供たちが夏休みなんでね。 今夜も夜11時まで仕事していた。 私は子供たちを幸せにするための「生かす」仕事を心がけていてね、もうかるから仕事しているんじゃない。 そう言う訳で慈しむため、自分の時間を削る時期だから、あまりでしょうばらないよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ふむ。  ★★ (回答No.8) ~~~~~~~~~~~   神にとって愛すべきなのが生命だよ。   生命の中でも人間は、そんな神の意志に気がついた。  と、言うといいんだろうが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というのは 一般にそう考えられているだろうが。という意味ですかね。わたしの意向や期待ではなく。  いやに優等生っぷりなんですね。いいですけれど。  夏休みなんだなぁ。  ご回答をありがとうございます。んぢゃ また。

  • tohoho2
  • ベストアンサー率23% (16/68)
回答No.15

まず、神とは何かを定義しないといけないよな。 そこで、モーペルテュイの 「最小作用の原理から、あらゆる自然現象の基礎である「運動の法則」が導かれる。」 これは、 「神が存在することと、神がこうした法則の起草者であることの最も強力な証明ではないか?」 から、神を「最小作用の原理」としよう。 「最小作用の原理」から、ニュートンの運動方程式も、アインシュタインの有名なE=mc^2も、 量子力学の基礎であるシュレディンガー方程式も導くことができるし、NHKスペシャル 「神の数式」でもラグランジアンで素粒子物理の方程式を書いていたよな。 そうすると、「最小作用の原理」は「人間」を何であると思っているのか?となるよな。 上のことから、作用が最小になるような形で、生物が誕生し、人間に進化しただけということか? ここでの作用とは何かは俺には分からないが。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ まず、神とは何かを定義しないといけないよな。  ☆ すでに 0ふーる0さんとのやり取りで かなりくわしく神についての定義または基本的な説明はおこなっています。  ただしこの質問は それがなくても 回答者一人ひとりの定義にもとづき答えていただけばよい。ということになっています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  モーペルテュイの  「最小作用の原理から、あらゆる自然現象の基礎である「運動の法則」が導かれる。」  これは、  「神が存在することと、神がこうした法則の起草者であることの最も強力な証明ではないか?」  から、神を「最小作用の原理」としよう。  ~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これは しょうじき分かりません。  推測で言うとすれば この《運動の法則がみちびかれる原理》というのなら その《最少作用の原理》は 人間の思考によって認識しうることがらであるように思われます。  つまり 経験事象ないしその抽象的な理論であると。  これは 神と関係があるかも分かりませんが 神本体ではないですよね? と思いますが 果たして どうでしょう。  それはともあれとしまして:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  そうすると、「最小作用の原理」は「人間」を何であると思っているのか?となるよな。  上のことから、作用が最小になるような形で、生物が誕生し、人間に進化しただけということか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《合理的に出来ている》というようなことでしょうか?  盲腸がなぜあるか? というような問題でしょうか?  いや わたしにはざんねんながら よく分かりません。みなさんに SOS を発信しておきます。

回答No.14

おはようございます。 ☆☆ ひとつヒラメキました。つまり 孔子をなじっている。仁ぢゃないんだよと。仁なんてのは むしろ人為的な小手先細工だ。そんなものではないんだと。 ◇はい、孔子や儒教の否定です。 そして、おそらく、天を擬人的にとらえること、天を人間の道徳や価値観で推し量ろうとする態度を否定しているのではないでしょうか。 天は小ざかしい人間の知恵など推し量れるものではない、と言いたいのではなかろうかと。 仁は、「人」+「二」で人間同士の結びつきなどを表わしますので、「天」と「人」の間に使うのはおかしいという考えが背景としてあるのかもしれませんが・・・。 ☆☆ ん? つまり 《無為》ぢゃなかったのですか? 《(心を?)空っぽ、虚しくする》と言ったら まるでニルワーナの修行みたいぢゃないですか。つまり 《有為》になってしまわないのですかね? ◇《無為》でもいいのかもしれません。 この《中》は、たぶん、《冲》(空っぽ)の意味。 《無為》には、ことさら何かをしようとする取り計らいや意志が無い、という風にも考えられるのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  《無為》でもいいのかもしれません。  この《中》は、たぶん、《冲》(空っぽ)の意味。  《無為》には、ことさら何かをしようとする取り計らいや意志が無い、という風にも考えられるのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ む。うまく丸め込まれたか。  ゆっくりする土曜日。ただし 暑い。きのうから蒸し風呂のごとくになりました。  こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。もしゆとりや あそびがウンと一杯あるとするなら そのことを誇るようにしてでも 無為自然を打ち出して行って欲しいと思います。自然法爾ですから。  義無きを以って義とすでは まだまだ思考の末にたどりついた無為自然なわけだと思います。そのぶん 説明としては 効果が大きいかも知れませんが。  ぢゃあその場合には 神は 人間にあまりせかせかしないようにと言っていましょうか。  しかし 暑いですね。近くの多治見というところで きのう 39.3度でしたとさ。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.13

>☆ あぁ。《神はいない つまり 無い神がいる》派なのですね。それならそうと初めから言ってくれればよいのに。やっと分かりました。 理解はご自由に。 其処に私は干渉しません。 >ただしわたしに言わせると それも無神論という信仰だとなります。非思考の庭に《無い神》を じつは 受け容れている。こういう信仰のかたちであると。 なぜなら もし《神はいない》と証明しえたとすれば その神は 単なる人間の思考や想像によって成った観念の神でしかない。つまり 神は 有る神か無い神かいづれかの神が 誰れにも想定されます。 貴方の理解に私は干渉しませんし、貴方も私に干渉は不可能で、そもそも干渉する事は出来ません。 貴方が理解するのは自由です。 ただ、「定義」という棒を手放し、茫漠の流れを楽しめたら良いのにとは思います。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  けっきょく次のように言い換えたほうがわかりやすい。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  なぜなら 《神はいる》も《神はいない》もそれらが証明されえたとすれば その神は 単なる人間の思考や想像によって成った観念の神のことでしかない。  ところが 神は 経験思考を超えているからこそ 神と呼ばれる。  よって言いかえると 神は 有るか無いかが分からないけれど それとして・つまり神なるナゾとして 想定されている。その神について 《有る神》か《無い神》かいづれかの神を ひとは自由にえらべばよい。えらんで その《神とわれとの関係》を非思考の庭にて 持てばよい。  《無い神》をえらんだ場合には もう神がどうのこうのと言いたくないのだから そのように生活して行けばよい。  神論をもう議論しなくてもよいし したければ したいだけすればよい。有神論派も無神論派も まったく互いに自由に対等に そうすればよい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ただ、「定義」という棒を手放し、茫漠の流れを楽しめたら良いのにとは思います。  ☆ それが成功するには 文学としての前提とその素養を必要とするでしょう。そして 成功と言っても 文学談義のそのつど 哲学の枠を超えて将来に向けて暗示され得たというような成果を手にするというのが 中身です。文学では 哲学ほどには 勝負や結論への到達がはっきりしないということ これが 初めから織り込み済みとなっています。  《干渉》については:  なんぢは この神を信じよとか その神は捨てよとか言い寄るのは 干渉です。  そのほかでは 互いに自分の考えを述べ合い おまけに自由に批判しあうこと これは 干渉ではありません。  その神を捨てよとか この神を抱けという結論にみちびかれて行きますが 議論は その理由や筋道について互いに情報交換するのであり これは 自由対話でありむしろじんるいの精神を高めるために必要で有益なことです。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.12

>☆ いえ。わたしが言うのは もし《内政干渉》になるような問い求めである場合なら それを全部最後まで明らかにして伝えるか~ 私は伝えましたよ。 一切の嘘も虚飾も私にはありません。 受け取る側に、それがあるのみです。 >それともそのような内政干渉になるような問い求めは 相手に気づかれる前にやめにするか。このどちらかにするのが よいのでは? という問いです。 まぁ、良いのですが、其処で止めたいのならば、水から陸に上がりたい等と考えるのは止めた方が良いです。 タブーを設けていては、何を議論していいのやら。 貴方の都合に合わせた世の中ではありません。 >もし《無いです》というのであれば おそらく《一色に染まる》ということもあり得ないでしょう。そして 《一人ひとりぜんぶ違う》という場合も おそらく無いでしょう。 桜の花びらは、全てが同じ色ですか? 見分けが付くか付かないかではないです。 貴方が見えないからという理由が、同じという事柄の担保にはなりません。 一人一人の全てが皆、違いますし、それでいて、皆、桜色です。 >所詮外形だけの話なのです。別に担保されていても・いなくても それぞれ自分の見解を出し合えばそれでよいのだと思うのですが。 お邪魔だった様です。 >そして それは内政干渉にはなりません。《内政もしくは内心》を外形的に表現して互いに伝え合うだけですから。 矛盾しています。 と言うより、傷つけ合わない為だけのコミュニティです。 つまりは私が邪魔をしただけの事です。 ですので基本は私は関わらないようにしているのです。 >☆ いえいえ。どのレベルでも当てはまります。というのも 神観は 信仰の内容そのものではないのです。あるいは その内容についてイメージのようなものとして表わし伝え合うだけだからです。 全てのレベルに当てはめるのは、当てはめる側の自由です。 「肌の色が違うから、神に動物として作られた」 相手に了承を得た発想では無いですよね? >☆ いえ。違いについて共通の理解を得るという場合もあります。それも 共有になるのではないでしょうか? 神観としては。 共有してはいけない訳ではなくて、共有をしなければ話が進まない議論をする事が不毛だと言っているのです。 >つまり ちょうどねむりねこさんと老子の神観をめぐってやり取りをしています。神は《不仁》だと言う。仮りにこれを 《愛ではない》と採るとすれば それについて自分の神観とくらべて違いをも互いに理解しえます。同じ部分もあるのですがね この場合。(すでにやり取りが出来ています)。 別に結構ですよ。 私が放つ言葉で遣り取りが出来ないだけの事は、ただ其れだけの事です。 >これは 老子という第三者の神観だから 内政干渉にならないのではなく そうではなく 自分の神学であっても同じです。 此の間キリシタンだと言う方と此の場で会話をしたのですが、彼の方は全くキリシタンではありませんでした。 彼の方は「信じる方」がキリシタンだっただけです。 と言うよりも、キリシタンを騙る人物だっただけです。 哀しい程に無明でした。 神を理解出来てもいないのに、何故に神を語るのでしょう? 答えは「安心できる側に居たいから」です。 まぁ、私が偏見を口にしていると言うのなら、其れは其れで一向に構いませんが。 >おそらく《一色塗りつぶし》や《一人ひとりみな別々》といった場合は 無いか稀れなのだと思われます。 まぁ、此れもどちらでも良いです。 そう思いたいならば、そう思えば良いでしょう。 >そして さらにもう一点ですが いま《部分観で共通であったり違いがあったりする》と言いましたが この具体的な主観も けっきょく外形的なものだと思いますよ。神ないし信仰にかかわることがらとしてはという意味です。 面白いのは、共有出来る人間と出来ない人間の境界線は、どの様に引くのでしょう。 「いるはずだ」に拘るのも人生ですので、私は其処に干渉はしません。 何が真理かは、好きに見つけるしかありませんから。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  私は伝えましたよ。  一切の嘘も虚飾も私にはありません。  受け取る側に、それがあるのみです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうなんですか。ちっとも気づきませんでした。いまもどのように《伝えられた》のか 分からないでいます。  《ウソも虚飾》もそれがあるとしても 何が何だか どこがどうなんだか まだ分かっていません。きつねにつままれた状態です。  考えるに そう言えば ほとんど具体的な例示をおこたって話をして来たのが わたしにはよくなかったかも知れません。最後のところで ねこさんとの老子の話が出て やっと具体的になったようです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  まぁ、良いのですが、其処で止めたいのならば、水から陸に上がりたい等と考えるのは止めた方が良いです。  タブーを設けていては、何を議論していいのやら。  貴方の都合に合わせた世の中ではありません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これも 具体的な話を抜きにしてどんどん話をすすめて来てしまったツケかも知れません。いや 何がどうなったのか よく分かりません。  ★ タブー  ☆ ということからはもっともかけ離れた男ですよ わたしは。聖徳太子は 悪漢 ゴータマ・ブッダは ペテン師 ニーチェは 阿呆の極致・・・と。  ★ 水から陸に上がりたい等と考えるのは止めた方が良いです。  ☆ この表現に反応してみます。  つまり わたしの場合は 自分で言うのもなんですが 《池に落ちて 水に濡れずに上がって来た人間》だと思っています。  ★ 貴方の都合に合わせた世の中ではありません。  ☆ いつもわたしの都合に合うような方向の内に質問をもうけているとは思いますが この問いは いたって単純です。現に ほかの方々から自由な回答をもらっています。そして そういう内容としても誰れの都合からも自由な投稿が出来る質問だと思っているのですが。・・・  (要するに 暑いので ちょっと手抜きと言いますか省エネのやり取りで・ただし 神観をめぐって 対話をすすめよう。こう思っての設問です)。  ★ 一人一人の全てが皆、違いますし、それでいて、皆、桜色です。  ☆ そうですよ。特にこの質問については そうですよ。だから 気軽に話せます。この質問としてのバスは どこ行きかを決めていない発車進行です。  いつもと趣きが違っているので それだからこそ いろいろ複雑にお考えになったのでしょうか。そうかも知れないですね。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >そして それは内政干渉にはなりません。《内政もしくは内心》を外形的に表現して互いに伝え合うだけですから。  矛盾しています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 神学の話は いくらくわしく古今東西の英知を集めた議論をやっても しょせん堀の周りをあるくだけです。天守閣にはとどきません。  いえ。とどく場合もあるのでしょう。つまり 堀の周りから 望み見ることは出来ますから。つまり やはり輪郭だけを話すことになるのだし その輪郭だけでも伝えたり受け取ったりすると あんがい奥の深い話にもつながる。こういうことではないのでしょうか?  《内心》を映す話は出来ます。間接的にですが。外形的であり間接的であることを破らないかたちでのやり取りですから 内政の干渉にはならない。こういうことだと思うのですが。  ★ ~~~~~~~~~~~~   「肌の色が違うから、神に動物として作られた」  相手に了承を得た発想では無いですよね?  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしは ここの或る参加者について おまえは《認知症か?》とか《たましいが腐っている》とか《人格がみとめられない〔と明らかに表現してやってやっと 人格をとうとぶ寄すがを保つことができる〕》とか言ってやっています。直接その人に言ってやっています。《相手に了承を得》ていません。  《動物》視は していないはずです。  ★ 共有してはいけない訳ではなくて、共有をしなければ話が進まない議論をする事が不毛だと言っているのです。  ☆ 《共有》というのは 言い直しますが 自分の神学について人びととの同じような部分も違っている部分もともに相互理解を得合うこと。これを ここでは わづかに志向性があるとしたら 持っている。こういうことだと思います。  そのような話のすすめ方によって《不毛》な議論に落ち入ったとしても それも 何のわづらいにもならない。こういう意味でもあります。  ★ 私が放つ言葉で遣り取りが出来ないだけの事は、ただ其れだけの事です。  ☆ ということは じっさいには《不毛》なのだが わたしが気づいていないだけ。ということでしょうか? そういう指摘をするときには タブーも遠慮もいっさいわたしには要りませんから ぼろくそに・フルボッコで批判をしてください。そのために 質疑応答をしているくらいですから。    ★ 神を理解出来てもいないのに、何故に神を語るのでしょう?  ☆ これは 指摘すればよいことです。うまく表現するかどうかもあるでしょうが。また 相手が気がつかないか ついても受け容れないかの場合があって そのときには放っておくしかないでしょうが。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  面白いのは、共有出来る人間と出来ない人間の境界線は、どの様に引くのでしょう。  「いるはずだ」に拘るのも人生ですので、私は其処に干渉はしません。  何が真理かは、好きに見つけるしかありませんから。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あぁ。《神はいない つまり 無い神がいる》派なのですね。それならそうと初めから言ってくれればよいのに。やっと分かりました。  ただしわたしに言わせると それも無神論という信仰だとなります。非思考の庭に《無い神》を じつは 受け容れている。こういう信仰のかたちであると。  なぜなら もし《神はいない》と証明しえたとすれば その神は 単なる人間の思考や想像によって成った観念の神でしかない。つまり 神は 有る神か無い神かいづれかの神が 誰れにも想定されます。  そういう広い意味での神学を おのれの神観を 語っていただけばよい。そういう質問です。

  • fuukakou
  • ベストアンサー率22% (200/870)
回答No.11

皆様からかけ離れた考えの一つを… 前に、全知全能の神がいるとしたら と考えて思ったことですが、すべてを平等なら、ドットみたいなものかな?と思ったことがあります。 ただの世界に広がる数多の点のひとつぐらいなんじゃないかな?と。 小石も草もかえるも蟻も雪のひとひらも惑星も恒星も…おなじ重さでしかないなら人間も一緒。と思っての発想でした。 もひとつ 神ねぇ…いろんな神様がいるから 一概には言えないなぁと思ってます。 人間を認識してるのとしてないの、たまに気が付くなんてのも居そうだななんて夢の無い事も思ってますけどね。 人間に寄り添ってる神は温かい目で見てそうだな。 神社仏閣は性格さまざまだから、どう思ってるかは個体差がありそうとも。 土地神は土地の管理をしてるんだろうから、テリトリーにいるものには平等かな?生きてる事を許してるんだから、無茶苦茶嫌われてはいないだろうとも、いろいろ思ってます。 多少は知恵のある動物 それに尽きちゃいそうだけどね。 う~ん、夢がない方向の話でした。

bragelonne
質問者

お礼

 ふうかこうさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  ただの世界に広がる数多の点のひとつぐらいなんじゃないかな?と。  小石も草もかえるも蟻も雪のひとひらも惑星も恒星も…おなじ重さでしかないなら人間も一緒。と思っての発想でした。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 意外と言うか  ★ 皆様からかけ離れた考えの一つ  ☆ ですね。  ★ う~ん、夢がない方向の話でした。  ☆ という感じが否めないですね。  おそらく それはそうなのでしょうけれど。《ドット》と見なされていることに変わりはないのでしょうけれど。  そして ちょっぴり《人間》に注目して:  ★ 多少は知恵のある動物 それに尽きちゃいそうだけどね。  ☆ ですね。      ★ 土地神は土地の管理をしてるんだろうから、テリトリーにいるものには平等かな? 生きてる事を許してるんだから、無茶苦茶嫌われてはいないだろうとも、いろいろ思ってます。  ☆ これは おもしろいと思いました。つまりまわりまわって 人間どもは 互いに対等で平等なのだと。《ドット》どうしなんですかね。  ★ 神ねぇ…いろんな神様がいるから 一概には言えないなぁと思ってます。  ★ 神社仏閣は性格さまざまだから、どう思ってるかは個体差がありそうとも。  ☆ なのですね。神であっても・神と言っても 鈍感な場合もあるのですね。  意外と 夢のない方向でしたね。わるいというのではないでしょうけれど。  

回答No.10

あんたからまた、減らず口を聞く事になりそうなんでね。 あらかじめたたみかけておくよ。 > 神にとって愛すべきなのが生命だよ。 神が愛するのは生命だよ。 人間は、、、、、

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてのご回答です。ありがとうございます。  いや。わたしからの反応は 書いた通りです。  ゆとり と言ってはへんですかね。おそらくもっとゆるい関係なのではないか。とも思います。  おっしゃることは 倫理の問題として 間違ってはいないのかも知れませんが。  発展がない応答になりましたが。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.9

B様、こんばんは。 (B様)「ワタシは神を規定できないが、神はワタシを、どうとでも出来る」 そういう、「告白」ですね?

bragelonne
質問者

お礼

 K さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ん?  ★ 神はワタシを、どうとでも出来る  ☆ ん? M ぢゃないんだから。  まぁ そういうニュアンスはあったかも知れません。  ただし そうであるがゆえに・つまり《神はワタシを、どうとでも出来る》がゆえに  ☆☆ (No.8お礼欄) 神は 人間にあまえて欲しいのではないか。  ☆ というようにも思いました。直前のその回答に接して思ったことです。  ☆☆ (同上) もっと自由に欲するがままに のびのびと生きてみなさい。と。  ☆ とも思いました。そうなると ちょっと違いますね。こちらからあっちへと かなり流動的です。ひとつに固まらない。のではないでしょうか。  ところで くりなるさんは どう思われるのですか?

回答No.8

神にとって愛すべきなのが生命だよ。 生命の中でも人間は、そんな神の意志に気がついた。 と、言うといいんだろうが。 実のところ気がついたのは、ジラーチちゃんと幼馴染のセレビィだけという現状ではないかな。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  夜中のあいだにいくつか回答をもらっています。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   神にとって愛すべきなのが生命だよ。   生命の中でも人間は、そんな神の意志に気がついた。  と、言うといいんだろうが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ えっ? つまり質問者は そういった回答を欲しているという意味ですか? いえ。予断や予想はないですよ。  このご見解は 回答No.1&2の えぷしろんさんと同じようですかね。神は人を《わが子》と思うというものです。  ただし その親として何かと注文をつけるかと言えば それは どうですかねぇ。  たぶん――わたしの意見ばかり述べていますが―― 神は 人間にあまえて欲しいのではないか。このように いまのご回答に触れて感じたのですが。つまり やや反発したかたちです。  もっと自由に欲するがままに のびのびと生きてみなさい。と。――ちがうかなぁ。

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     1. わが心なる《非思考の庭》は 言わば《神の国》である。    2. ひとは 自然本性として身と心がそなわっており 身は 感性の原野を成し 心は 思考の緑野としてはたらく。これらは 経験世界の内にあり 経験事象と対応している。  ○ 自然本性:身(身体)と心(精神):経験存在   心:【考える】:思考の緑野   身:【感じる】:感性の原野  3. しかも人は これらの身体および精神だけではなくそれらを超えたナゾのチカラをも自然本性プラス・アルファとしてのごとく そなえている。――これは ふるくは ブッダター(仏性)やアートマン(霊我)あるいはプネウマといった神の霊なるチカラとして捉えられたものである。  4. このナゾのチカラを 《非思考の庭》と呼びたい。具体的には《心の明け》としてのごとく 知恵としてヒラメキを得させ 良心として身体の神経組織で恥ぢを知らしめるヤマシサ反応を起こさせる。  ○ 非思考の庭とは 心が閉じられていないことである  【信じる】:非思考の庭:聖霊(知恵・ 良心)・・・・【神の国】                 ↓    ↓  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  【考える】:思考の緑野:  ヒラメキ  ↓ ・・・・・【地上の国】  【感じる】:感性の原野:      ヤマシサ反応・・【地上の国】  5. 信じる非思考の庭は 経験的な存在である人間すなわち《われ》の内にやどっている。これを 《神の国》と呼ぶことは 哲学はゆるすか? 神とは 普遍神である。  6. 哲学する者は 神の国の外交官(アポストロス)として生きると言えるか?  7. 地上の国のみで生きる人に対して 外交官は その人たちそれぞれと同じように成って 外交活動を繰り広げるであろうか。  8. ムンジェインやキムジョンウンあるいはシーチンピンと同じ思考や感性をおのが内にあたかも開発して 対話を推し進め得るか。  9. アマテラシテ天皇やアマテラス公民なる人びとそれぞれと心において同じように成って 社会と人間のあり方について 話し合いをすすめ得るだろうか。  10. こういう話はあり得るか?

  • 《アルケーの神》は 《信じる》のではないのか?

     1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?  2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。  他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?  3. 言えまい。ならば 宇宙の法則だという説明は あくまで仮りのもの・単なる補助線だと捉えなくてはならない。本体は 分からない――つまり分かるから分からないかが 人間には分からない――と想定し規定するのが 哲学としてかなっている。  4. すなわち 《アルケーの神》は 《感じる》ものであって《信じる》ものではないと高らかに宣言しているようであるが 《感じる》のは 単なる補助線としての経験事象であるに過ぎない。のではないか?  《本体》については けっきょく《感じる》ではなくまた《考える》でもなく やはり《信じる》ということではないか?  5. 《信じる》というのは 《思考:考える》や《感性:感じる》をも超えたところのナゾの何ものかを それでもわが心に受け容れるということである。  受け容れるのは ふつうの経験事象としての人間の意志行為であり その対象は 何であるかが分からないナゾの何ものかである。これが 《信じる》という行為である。  6. かくのごとくして わが心なる《非思考の庭》における・雲をつかむようなコトが起きていると 人間という人間にかんして 普遍的に言える。のではないか?   ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. なお この《信じる》をオシエにして組織をつくり その信仰の度合いを基準にして組織内外の人間を評価し さらにはこれらのよわく薄い信仰の者らをみちびくと言っているのは じつは・じつに《信仰》の自殺行為である。  教義化・組織化は 仮りの補助線を現実の神としてしまうおそれに満ち満ちている。そのヒエラルキアは 聖なるものでも何でもない。むしろ人間に対する支配欲によってみづからが支配され 信仰を利用して世界を心としての自殺行為にみちびく準犯罪行為である。  ご見解をどうぞ。

  • 神は ひとつである。

     神は ひとつである。――次の趣旨説明にてその当否・成否を問います。  (あ) 神は どんな名前の神を持って来ても・あるいは《無い神》を持って来ても すべて全体として ひとつである。  それよりほかにあり得ない。  (い) 人間にとって 神だという存在――または 非存在――が 同じひとつでないことのほうがおかしい。  (う) ただし オシエは互いに違っている。  (え) 《信じる(その神を心に受け容れる)》と《考える(因果関係や排中律にしたがって経験合理性にもとづき推論する)》とは 別である。  (お) 神は 《信じる・つまり 思考に非ず》として受け容れるものである。  (か) 《考え》て理解できる内容の神なら それは 人間の思考や想像によってつくられたものである。  (き) ただし 《信じる神》について その信仰――非思考の庭なる動態――にもとづき その定義や説明をほどこすことは有り得る。  (く) ということは この神についての定義や説明あるいはさらに神学であっても そのような文章表現やシルシなどはすべて 神を指し示そうとするための補助線である。  (け) ちなみに かみという言葉・文字・発音も 神について知るための補助線である。  (こ)  もしこの補助線としての説明書きを 神であると錯覚したなら それは 《思考や想像の産物》としての神が出来上がる。そのように人間がこしらえた神であるとなる。  (さ) このような観念の神は その作った時点ですでに 死んでいる。つまり思考の問題であり 観念にとどまる。そこに 言わばいのちは ない。――信念とは成りうるところの思い込みがある。有限の移ろいゆかざるを得ない果敢無い《いのち》はあるかも知れない。  (し) ○ 《信じる》と《考える》との区別 ~~~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (す) 《非思考の庭》においていだかれるのが 神である。名前は いかようにもつけられる。  (せ) 《思考の緑野あるいは感性の原野》において持たれる神は ただの観念の神である。人間がつくった神である。人間に理解でき認識しうるものであるなら わざわざ神という謂われはない。必要がない。せいぜい アイドルと呼ぶがいい。  (そ) したがって 《非思考の庭》においていだかれる神を イワシノアタマと名づけるなら それが 神である。イワシノアタマという言葉は ただの補助線に過ぎない。  (た) もし実際の鰯の頭を――ということは 感性や思考の対象となる事物としての魚であるものを――神としたなら それは 偶像としての神であり もしさらにこの鰯の頭を自分のあたまの中に想像し思い込み神としたなら それは 観念の神である。人間のつくった神である。

  • 神について何故ひとは哲学しないのか?

     せめて神についての勘違いをただしておくことまでは出来るのではないか?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは いっぱんに教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力    にかかわっている。      これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは    信じるというおかしなことになる。  C. オシエを信じるという間違い。   ――オシエは 人間の言葉で表わされている。ゆえに人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。      やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像力の    産物であるに過ぎない。人間のつくった神でしかなく いわゆる近代人の    《人間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見られるのではないか。理念や観念としての偶像(つまりアイドル)がそこら中に見られます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても神の知恵についての仮りの表現でありそれとして観念の偶像であるのですから その偶像は偶像(仮りの表彰)として――扱えばまだしもいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。        *  同じく神は 何でないか? について考えます。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《しんじる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《しんじる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の場に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。  この非経験の場が わが心なる非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。  これをそのまま受け容れたというその行為を《しんじる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。どちらも《しんじる》である。  8. 神は存在すると見ても存在しないと捉えても どちらも互いに同等の《信じる》行為である。  非思考の庭なるナゾを 思考の緑野においてその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の庭は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《心の明け》というのは 心がいろんな名のあらゆる神に対してあるいは《無い神》に対しても閉じられていないことである。  10. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス アッラーフ ブラフマン アミターバ マハーワイローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。全体としての一である。  と言うより 神が人間のつけたその名によってそれぞれ違っているということがあり得ない。  11. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  12. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  13. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。  物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて非思考の庭から思考の緑野に降りて出て来ている。この仮りの代理の場をとおして 神のナゾを望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。    14. だからオシエは 思考の緑野に属しており それが非思考の庭の神だということはあり得ない。なのに教義や宗教を信じるという言い方をする間違いが見られる。    15.エトセトラ。エトセトラ。  16. まとめて 神は何でないかまでは人間が明らかにしうるのではないだろうか。  さらなる探究へと 思いっきり自由なご批判をあおぎます。

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。

  • 神について

     1. 哲学として現実の問題をあつかいたいと思うとき この主題があいまいであると なかなか話が前へすすまないという事態になります。そこで:  2. 神について最小限必要なことがらを共有しておくことは 大事だろうと考えます。  2-1. ただしこれは 《神についての説明》の共有であって 《神そのもの》のではありません。神とわれとの関係は その人自身の主観の内面にとどまります。  3. たとえば次のような説明があります。  ▲ (アウグスティヌス:神のかんたんな定義) ~~~~~   物体のように 場所と時間によって可変的な本性が存在する。   また魂のように決して場所によらないで ただ時間によってのみ可変的な本性が存在する。   さらに場所によっても 時間によっても 変えられ得ない本性が存在する。これが神である。   (『書簡集』18・2  390年頃)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    4. ここから 次のように整理します。《物体》は 《感性》の問題であり 《魂》は 《理性ないし思考》のそれであり 《神》は 《非思考すなわち 信じる》の問題であると捉えます。  ○ 《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  5. あるいはつまり われわれ人間は 神をもひとつの概念として捉え その概念(ないし言葉)をとおして神を思うということがあるとしますと そのときわれわれの思いは とうぜんのことながら 永遠につづくわけではありません。  5-1. すなわち 人間の思いは――神という言葉を補助線として 何とか神を望み見ようとするときその思いは――かなしいかな・いかんせん 断続的であり 変化してしまうことがあります。  5-2. ところが 神は――と言って推測をたくましくするなら―― そういう思いの切断や変化 こういったことは起こらないと考えられます。  5-3. すなわち 神は うつろいゆくものではない。人間は変わりゆき やがて朽ちざるを得ないのですが 神は そうではない。  6. 最小限必要なこととして 以上のような説明内容は 一般にも共有され得ましょうか どうでしょうか。これを 問います。

  • 日本人の神とその信仰

     1. 神という言葉で言っているのは ふつう 神本体の依り代である。神な霊(び)なる山や磐座(いはくら)なる石などであり そして神社であっても神殿に神のシルシはなく ただ奥の山や杜が 依り代となっているだけである。  2. 依り代つまり神を理解するための補助線が けっきょく八百万の神々として受け留められている。に過ぎないのではないだろうか。  3. むろん神は ひとつです。つまりこの一という数は 全体を表わしている。一同の者とか関東一円とか言って使う。  4. つまり言いたいことは この神の《依り代》とは 大ざっぱな捉え方にはなるけれどもけっきょく神の使いなのである。すなわち 《天使》のことだと思えば話が早い。主体的な存在だとは むろん 捉えられてはいない。だけである。  5. だとすると 図式としてどうなるか。これまでに 神とその信仰は 次のように捉えて来たけれど さらに詳しく見るとどうなるか?  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   ・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  6. クリスチアニズムでは 天使を――必ずしも必要とは思わないけれど――説明に加えると 次のごとく:  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   神なる聖霊:スピリトゥス=ロゴス(α)      -----------【天使(α’):ロゴス(α)の使い】-----------   神の宮なるわれ:クレド(信じる;非知なるナゾ⇒非思考の庭)   -------------------------   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. では 日本人の信仰のかたちは?   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   神なる霊: 大いなる《?(なぞ)》   -----------《依り代=補助線》-----------   われの内なる霊:信じる(=きよらかなおそれ)   -------------------   われ(自然本性):思考の緑野・感性の原野  8. 違いは 天使は目に見えないが 依り代は 山や石や目に見えている物であり しかもその物をとおして神なる霊を見る。つまり 目に見えない。心の目にも見えないと思う。  以上を問います。

  • 神は ヤハヱーもキリストもアッラーフも同じでは?

     霊のお話です。  神の霊は しんじるのであって 考えるのではない。  信仰は 非思考である。  ゆえに:  ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  したがって 《非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)》における《神》は 全体として ひとつであって その名が違っても何らその神に差はない。   ヤハヱー・キリスト・アッラーフなどなどという名は そういう言葉として 《思考》の次元であるから。《非思考の庭》にとっては ただそれを代理してあらわすシルシに過ぎないから。  《無い神》という名の神であっても 同じくである。〔下記の(2)の例を参照〕  参考に 宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊との関係を次のように図解しました。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン主宰神    我:アートマン霊我  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:シューナター(空)=ゼロ    無:アン‐アートマン(無我・非我);ニルワーナ(寂静)  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ(阿弥陀仏) / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:プシュケー・コスムー(宇宙霊魂) / アニマ・ムンディ( 宇宙霊魂)    霊:《われ》  6. シントウイズム:《あはっ!》:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  こう捉えておけば もう神の議論は要らないと思われます。そういう問い求めです。いかがでしょう? 

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。