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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?)

《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?

このQ&Aのポイント
  • 人間の《信じる》という行為について、その意味や内容を考える必要があります。
  • 《信じる》は経験行為であり、経験世界を超えた非経験なるナゾを心の中で受け入れることです。
  • 信じることは個人の内面的なものであるため、組織宗教が個人の信仰を強要することは違法であり、自由が保証されるべきです。

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noname#189751
noname#189751
回答No.5

信じるとは 行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである 非思考の領域が業に及ぶものならば 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす 信じるという仮定から 信じているという結果がいつの間にか生じてしまう げに 恐ろしきものですな。

bragelonne
質問者

お礼

 あばうと72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  《信じる》というコトもしくはその言葉をめぐって起こりうるいくつかの現象を分析されていましょうか。  ★ ~~~~  信じるという仮定から 信じているという結果がいつの間にか生じてしまう  げに 恐ろしきものですな。  ~~~~~~  ☆ この現象・この問題は 割り合い分かりやすいことではないでしょうか?  すなわち よく言えば(よく受け取れば) ことばとしての《信じる》があるから 信仰などという心的現象が 人びとに起きる。ということでしょうし。  また一般には おそらく  ★ 信じるという仮定から   ☆ というその中身が 〔おそらく〕想像上の何か――たとえば《神の愛》ですとか《愛なる神》ですとかのその観念――を《信じるという仮定》を置くと あんがいこれが《〈われは その何かを信じている〉という結果が生じてしまう》。  のかも知れませんね。これは じつは 幻想ですね。神は 観念(つまり 思考)ではありませんから。  ★ 非思考の領域が業に及ぶものならば 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす  ☆ これは 直前のわいわいえいとさんとのやり取りで出て来ました。かかげます。  ☆☆(No.4お礼欄) ヒラメキは 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのツナギとなりましょうか。どうでしょうか。  ☆ の問題ではないでしょうか?  すなわち 次のような心の構造とその仕組みにかかわっているように思います。  ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~  例の《ひらめき》というそのときどきの事件があります。  ヒラメキが起こると そこからその直感および直観を何とかして言葉で表わそうとする試みが持たれます。  そうなると むろんのこと その段階では 《思考》の領域に入っています。《思索》も大いにおこなうでしょう。    言いかえると このヒラメキなる直感および直観を大前提としてそのあとでは 《コギト エルゴ スム》と言えるのかも知れません。大いに《考える》の領域にすすみますから。《われ考える ゆえにわれあり》という命題のみによっては にんげんの存在は説明し得ません。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち  ★ 非思考の領域が業に及ぶものならば  ☆ とは 《非思考の庭》が あたかも泉となってのようにそこに ヒラメキを湧き出させる。  このヒラメキから――と言っても それはむしろそのヒラメキなる直感じたいが 身業(身のわざ)であると思われますが その直感および直観なるヒラメキから―― 《考える》をつうじて 意業(精神の認識および判断のわざ)が持たれます。  ★ 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす  ☆ 認識および判断が《無限の心ないし精神》であるのか にわかに断じがたいところではありますが そういった《限りなくひろがり展開する精神の緑野》が 《信じるという一点から生じる》。    ★ ~~~~  信じるとは 行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす  それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである  ~~~~~~~  ☆ たぶん わたしなら――出しゃばりますが―― 言いかえるでしょうね。    ★ 信じるとは 〔《考える》および《振る舞う》といった〕行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす  ☆ そうですね。《全人格の変容をもたらす》については  ○ そうなんだと思いますが・そのとおりなのですが ただし 但し書きをも添え得る。それは じつは もともと生まれつきそなわっていた自然本性としての《わたし》であった。つまり もともとの《わたし》に立ち還ったのであると。  その信仰として《非思考の庭がわが心に成った》その時点あたりでは おそろしいと感じるほどに《全人格の変容をもたらす》と見られるのですが そもそもその変容したあとの結果というのは 《わたし》だったのだと。  しかも わたしはこの《わたし》を 知らなかったわけではないと知る。わたしはおのれの《わたし》を じつは 愛して来なかったわけではないと知る。おそろしいほどの変容ぶりをつぶさに見てみると それは わが愛する《わたし》であった。  そのとき たしかに  ★ それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである  ☆ と形容すべき要素が生じていますね。ただしこれも その《非思考の庭を成らしめたナゾのチカラ》が 《わたしの能動性やそのときの自己認識を超えている》と捉え得るものの そうではあるものの 変容したあとの状態は じつは もともとの《わたし》であった。  《信じる》とは その《わたし》の核エネルギーなのでしょうか? または核反応のようなコトでしょうか?

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その他の回答 (31)

回答No.32

絶対無が自己を敬わせるべく謙譲語の命令形で関わっては来ないのですね。 余談ですが、御住まいの地域では、 爆撃の様なイカヅチ(神の唸り)に曝されずに済んでいますでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 つづきまして。  《罰当たり》と《自敬表現》とは 《神によるさばき》として 同じひとつの主題のもとにあったのですね。  ★ 絶対無が自己を敬わせるべく謙譲語の命令形で関わっては来ないのですね。  ☆ まづ 最初に心得るべきことは 《神》のことは その《さばき》にしても すべて人びとそれぞれの《主観》の問題であり その主観の範囲を出ないということだと考えます。  ★ 〔神が人びとに対して〕自己を敬わせるべく  ☆ これも 或るひとりの人が そのように捉えたとき・その捉えた主観の範囲内でのみ 意味が生じます。  二人以上の人びとが 雷(神鳴り)を聞いて あっ 神によるわれわれへのサバキであると共同で認識するということは――あり得ますが(つまり 思想は自由ですので そういう同じ考えの人たちが集まるということはあり得ますが)―― 意味を成さない。と考えます。証明のしようがないからです。  考えを同じくすること これは あり得ます。  もしかすると ヒラメキを同じくすることさえ あるかも知れません。  ですが――そして《非思考の庭》というその成り立ちそのものも 枠組みのようなものとして 互いに同じくするとまで捉えていますが―― 《わたしの神》と《あなたの神》とが 同じひとつの神であるということは いまの枠組みの核としては同じひとつの神だという想定をしているのですが ですが ですが ですが  おそらく確かめようがないと思われます。  このように考えるかぎりでは  ★ 謙譲語の命令形で  ☆ サバキをおこなおうとどうであろうと その内容がひとりの人の主観を出て 共有されるということは むつかしい。でしょうね。  ★ ~~~~  余談ですが、御住まいの地域では、  爆撃の様なイカヅチ(神の唸り)に曝されずに済んでいますでしょうか?  ~~~~~~  ☆ 稲光と轟音とがしていましたが いまのところ被害の有無は分かりません。確かめていません。  そして この《神の唸り》をそれとして認識するかどうか?  これは あくまで一人ひとりの判断による。  こういう結論になるかと考えます。  主観を共同化しようとするそのいとなみは 是とも非とも決められないという意味です。  同好会のみなさんが 見解を同じくすることはありましょうね。その程度だと言ってよいと思います。

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回答No.31

絶対無は下記のページの質問の様な罰当たりを見逃さないのでしょうか? http://okwave.jp/qa/q7637545.html

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  これは むつかしいですね。  お手上げですと言いたいところです。  この問題は いわゆる《神義論( theodicy )》として議論されて来ていると思います。  ▼ (神義論) ~~~~  http://www.weblio.jp/content/%E7%A5%9E%E7%BE%A9%E8%AB%96 〔theodicy〕世界における諸悪の存在に対し、あくまでも神の全能と義を弁証しようとする論議。弁神論。  ~~~~~~~~~~  ☆ 要するに 妥当性に欠ける行為をおこなうことに対して 神は いかなる態度を採るのか? さばきは どうなるのか?  ひとつだけ 答えを持ってはおります。  ○ (神は この世の不法行為に対して なにゆえ沈黙を守るのか?) ~~~  ひとの意志や心をないがしろにして 社会的な位置関係(身分)から来るチカラ関係にものを言わせて おのれの言いようにコトをはこぶ。早く言えば 顔が効くというその社会力学上の――おそらくほとんどは無効の・しかも既成勢力として有力であるところの――おのれの勝手な声を通し 相手に飲ませる。  このマチガイとアヤマチに対して 神は 罰をあたえないのか? なぜあたえないのか?  それは このような甘い汁を吸うというおこないに対して ひとりでも(あるいは 一瞬でも) あぁ うらやましいなぁという気持ちをいだくなら それがなくなるまでは 神はだまっている。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 人間どもよ。おまえたちで 何とかしろ。自分たちで とことん話し合いをするなり 互いにその心をきよめるなりして いい解決策を考えなさい。甘えんぢゃない。  ということでしょうね。

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回答No.30

自己を目的対象に据える自敬表現が利用される場合にも、 主語を自己にする必要性が御座いません。 従いまして、古語では謙譲語の命令形が…。

bragelonne
質問者

お礼

 つづきまして。  ★ 自己を目的対象に据える  ☆ これなら まさしく《再帰表現》ですが?  ★ 自己を目的対象に据える自敬表現  ☆ つまり《自敬表現》であると 再帰形ではないということでしょうか? つまり  ★ 主語を自己にする必要性が御座いません。  ☆ であるとすれば たしかに主語の者は いま《自敬表現》を成す者とは別になるようですから 自敬者がみづからに動作をおよぼすという再帰形にはならないのでしょうが。  そうしますと  ★ 従いまして、古語では謙譲語の命令形が…。  ☆ 現われましょうか? すなわち  ○ 自敬者が みづからを主語に立てるのではなく 別の者を持って来て立て 《謙譲語》で命令表現をする。この命令形を 《本音で 混沌は 扱うのでしょうか?》(=回答No.28)  となるのでしょうか。  たとえば  ・ 近(ちこ)う 参れ。  といったかたちでしょうか?  もしそうであったとしても それが どういう意味を問題として持つのか? これを 分かりかねています。

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回答No.29

再帰表現では御座いません。

bragelonne
質問者

お礼

 では 残念ながら 分かりかねています。

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回答No.28

本音で混沌は謙譲語の命令形を扱うのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 つづきまして。  《混沌》は 原語のカオスの原義としての《原初》や《初期条件》などのことを言っていましょうか?  《謙譲語》は おのれをへりくだった位置におくかたちで表現するのですよね?  その《命令形》とは?  つまり 《わたし》に対して 話し手であるわたしが 命令するというかたちをおっしゃっていましょうか?  つまり 神が《はじめに》 おのれに対して これから《〈ひかりあれ〉と申しなさい》と語るといったことでしょうか?    この辺までは解釈してみたのですが なにぶん よく飲み込めません。補足要求です。

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回答No.27

それが『無根拠』で成り立っています故に、 たとえ我々が自覚し得ませんでしても、非経験の庭からの積極的な働き掛けが作用して、 ( http://allabout.co.jp/gm/gc/297941/ ) 我々の経験の内容が変容させられている、 という可能性の存在は否定され得ないのですね。 http://q.hatena.ne.jp/1294124328 http://creation.mb.softbank.jp/mc/tech/tech_web/web_ipaddress.html http://www.au.kddi.com/ezfactory/tec/spec/ezsava_ip.html http://www.nttdocomo.co.jp/service/developer/make/content/ip/index.html http://blogs.itmedia.co.jp/sakamoto/2011/03/ip-53bc.html

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  今回の取り上げられている主題は それほど問題の生じる内容ではないように思います。  ★ 非経験の庭からの積極的な働き掛けが作用して、  ☆ そのようなハタラキをわれわれは受けると――証明無しにですが―― 思っております。  ★ 我々の経験の内容が変容させられている  ☆ 同じくそうだと受け取っています。  《人間(現実)が変わる》。すなわち わたしたちは 日から日へ必要なかぎりの能力をおのおのがあたえられ その方向へ向き直されたり そのための何かのきっかけに出遭わされたりすると思います。  むろん よい方向へ変えられるわけですが ときには まづ――まづです まづ――よくない結果が現われる場合もあります。  それを乗り超えたとき 自分にチカラがあったのだと分かり そこからあらたに出発するようになる。そういう場合もあろうかと思います。  ★ 我々が自覚し得ませんでしても  ☆ 《自覚》がコトの起こる前に起きることは ほとんどないと思っております。  つまり つねに事後的に《わたしは 変わった。変えられた》と確認する程度ではないかと。  ただし 《予感》があります。そしてこれも 一般に漠然としたものとして感じられるのだと見ます。将来への展望のごとくに。  具体的な予感であれば それはすでに《変容》のコトが始まっている場合ではないかと。  ですから 変容の《自覚》は 事後的に起き まれに《事中》においても予感のような自覚が生じる。このように見ています。

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回答No.26

更に詳しい解説に感謝します。 つまり、「『禿げた現フランス国王』の命題( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%8F%90 ) 」でも諭されている通りに、default値の正誤判定規準は個別に違っていても構わないのですね。 http://russell-j.com/FAQ-HAGE.HTM

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづ先に 次の文章におぎないをほどこします。  ★★(No.25お礼欄) ~~~~  ( a ) そこには《善》だけあればよいと或る人が考えれば その人にとって神は 善なる存在であるでしょうし   ( b ) いやいや この経験世界について考慮しそのチカラをはたらかせようとしているのなら 世の中の善に対するだけではなく悪に対して その悪を理解しなければならないし その悪に即して善の対策を打たねばならないとすれば 悪もその場にはあるということになるかも知れません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち     ( a )がそれとして成り立つとするのは 《ただ善なる存在   である》だけのその( a )のかたちにおいても 《悪に対して   善の対策を打つことが出来る》という場合である。   という添え書きをすることになります。   《非経験の場》が《ひとり満ち足りている》ことを損ねるような神についての主観 これは 成り立ちません。と。  さて  ★ default値の正誤判定規準は個別に違っていても構わないのですね。  ☆ このように見てきますと 上のおぎないが必要であったと分かりました。  ですから ここで問題となるのは  ★ default値の正誤判定規準  ☆ すなわち  (1) default値  (2) 正誤判定規準  このふたつのことがらが 《非経験の場》の規定にかんして 似つかわしくない。こう考えられます。  (1)は 《値》が ふさわしくないでしょう。定量性を《非経験の場》について規定するのは なじまない。数量は 《考える》ことだからです。  (2)は 《正誤》とその《判定》が いけないと見られます。《考える》の問題だからです。  ですから 《値》も《正誤》も《判定》も みな経験世界における経験行為であり その内容を《非経験の場》に投影することは その思考そのものとしては出来ますが 非経験の場にとっては ふさわしくありません。  また 事実 それは 経験世界の事象を非経験の場に移し入れようとしているのであって もともと《非経験の場》に そういう問題は生じていない。こうなると考えられます。  《非経験の場》が・そしてそれを受け容れたわが心なる《非思考の庭》が 人びとの見解を有効とするという理論は その見解があくまで経験世界のものごとについてのことである場合です。  消費税を上げると消費をおさえる〔から だめだ〕という見解があり 他方では たとえそうだとしても 国債の金利が上がるおそれが出て来たので たとえ部分的にでも国の財政を健全なものにしておくべきだという見解があるようです。  このように経験世界におけるものごとについての見解は それらが互いに異なっており矛盾さえしていたとしても 基本的に言って その見解のいづれをも有効とするのは その見解が《非思考の庭》につながっていると見なされるときである。  消費税増税かそれに反対かのふたつの見解が それぞれ有効だとなるのは 人びとの生活が守られるという基準が満たされるときであろうかと考えます。生活が保障されるというのは 《非思考の庭》につながる条件だと考えられますから。  けれども 初期状態のあたいや その正誤の見解あるいはその判定の基準 こういったことがらは 《非経験の場》を むりやり経験世界に引きずりおろして来るようなものですから 《非思考の庭》を守っていないと考えられます。  ぎゃくに言えば 経験世界の《考える》ことがらを 無理にでも非経験の場へと投影しつつ引き上げようとしていることになる。  これは 無効でしょうね。  ただし 非経験の場を ヤフヱーと呼んでもブラフマンとでもあるいはアッラーフとしてもキリストとしても そのように違った名で呼んだとしても その名づけは 《投影》や《引きずりおろし》の問題ではなく 《非経験の場》についての派生的なことがらであり飾りつけの問題であるに過ぎない。こう考えられる分野もあるようです。

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回答No.25

非経験の場は絶対無なので、 其処には自己矛盾が含まれているのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 非経験の場は絶対無なので、  ☆ 非経験の場は 《人間の能力によって分かるか分からないかが分からないところ》として仮りに想定したものです。(それは 《かみ》という言葉が 《わたし》の生まれる前から用いられているのを知るからです)。  その想定によれば 絶対とも無根拠とも無限とも不可変性ともあるいは少し色をつけて真理とも言いかえられるはずです。   たとえば《絶対》と言えるそのわけは 相対性として成る経験世界を超えているからですが だとすると その場は 経験的に言うところの《有る・無い》 これをも超えています。  有るとも無いとも人間の認識や判断のチカラでは決められない場合には そしてそれをもし神と呼ぶとすれば 《神が存在する》とも《神は存在しない》とも 人間の言葉では言うことができます。どちらでも同じことです。人によって好きなほうをえらべばよいわけです。  それと同じように《絶対》についても もしわざわざ言うとすれば 絶対有とも絶対無とも どちらとも言える。こうなります。どう呼んでも 非経験の場であることに変わりはありません。  ★ 非経験の場は絶対〔無〕なので、其処には自己矛盾が含まれているのでしょうか?  ☆ その言わんとするところが 飲み込めていないのですが たとえばこう答えることができると考えます。  つまり 《ひとり満ち足りている存在》と呼んだばあい 《足りないものはない》わけです。  だとすると そこには《自己完結性》もあれば《自己矛盾》もある。何でもあるし もし必要のないものだとすれば たとえば《死》はないということになるかと考えます。  そこには《善》だけあればよいと或る人が考えれば その人にとって神は 善なる存在であるでしょうし いやいや この経験世界について考慮しそのチカラをはたらかせようとしているのなら 世の中の善に対するだけではなく悪に対して その悪を理解しなければならないし その悪に即して善の対策を打たねばならないとすれば 悪もその場にはあるということになるかも知れません。  何でもあるし 必要でないものはない。それでも満ち足りていられるのだから。  《自己矛盾》がもし必要なら それもありましょう。  という答えになるかと思いますが 何か特別の自己矛盾を取り上げておられるのか。そこのところは まだ分かりませんでした。

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回答No.24

非経験の状態は解釈による差異を無効化させるのでしょうか? http://okwave.jp/qa/q1291310.html

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★☆ ~~~~  非経験の〔場をわが心に受け容れた《非思考の庭》なる〕状態は   〔そこからヒラメキを経て ふつうの思考としてのコギトに到ったその経験世界では  人びとの〕解釈による差異を  無効化〔ではなく 無用化〕させるのでしょうか?  ~~~~~~~~  ええ。たぶんそうだと見ます。  あるいは《無用化させる》というよりも 自由にその差異のあり方をおのおのが採用することができる。というべきでしょうか。  趣味のちがいはもとより いづれにしてもヒラメキの源泉を同じくしているのならば――という意味は 互いの自由をとうとび互いにこれを実現させ合おうとして考え振る舞うということであるのならば―― 見解の相違であっても それを互いに受け留め まづは一定の時間にわたって互いに受け容れあっているでしょう。  ときを俟つものと思います。  この《ときを俟つ》は 《非思考の庭》なるまことにもとづく〔と互いに見なしあっている〕かぎりで 永遠にでも待つのだと見ます。  ふたたび《領土》問題で捉えてみては どうでしょう?  互いに対等で自由にもとづきその領有を主張しあっているのであるならば その見解の相違をまづみとめあって どちらが妥当性をじゅうぶんに持ち得ているかが互いに分かるまで 話し合ったり冷却期間を置いたりして ときを待ちます。  そこでは 見解についての《差異》を無用としていると思います。  言いかえると 差異はあるのだとまづ認め合うのだと見ます。  つまり 無効化ではなく むしろ有効化していると思います。《有効》どうしのあいだでは さらにその妥当性を互いに競い合います。    《有効性》は 非思考の庭から来ているというのが 人間のおのおのの主観について共同性を見ることの理屈です。  さらにそのミナモトは 非経験の場なわけですが これは じつは 物語です。  言いかえると 非経験の場および非思考の庭なる虚構のもとに人びとは ともに生きて行けるか? こういう課題と展望が持たれます。  その虚構の中身を ゼロにする場合(つまり 無神論のばあい) それでもその物語は 変わらない。無神論と有神論とが 互いに対等であるというところが この虚構のミソです。

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回答No.23
bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですよ。  つまり 神の目的対象である人間が 主格として存在する主体であるという意味です。  ほかの生物や自然現象について 目的対象としないというわけではなく しかもそれらを区別するわけは ヒトには自由意志が 自然本性としてそなわっているからです。  いかなる行為にしても 意志自由にもとづく人間の行為として現われます。  生理現象にしてもそれをあとから本人が自分の意志行為として引き受けるということになっています。  満員電車でうしろの人びとから押されて前の人にぶつかったという場合でも その不可抗力による事象を 自分の行為と見なし引き受けるということをおこないます。だから すみませんとわびます。    いかなる行為を取っても 人間にとってはすべて主格であるかたちでしか行ない得ないというのが 人間にあたえられた人間の条件だと思います。  言うとすれば 神との関係において このように成っている。言わなくてもよいが これまでのところ じんるいと呼ばれる生物は この人間の条件のもとで生きていると思います。その説明に神を持ち出すと 分かりやすいと思っています。  人間の思考の産物ではないということ 神は非経験の場であるということ この想定と虚構が 人間が人間であることにとって・《わたし》が《わたし》であることにとって もっとふさわしい物語である。こう考えていますが さくらいみさとサンにおかれましては いかがでしょう?

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     哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。

  • 信じるということについての質問がありました

    http://okwave.jp/qa/q6729443.html です。  哲学カテであるのに関らず、質問者は復た私をブロックされました。対象が不明なことを信ずるのは誰もできせん。  何か人がいっていることや書いてあることなどは、自分が正しいと思わなければ、正しいとは思えません。信じるのでなく確認して確信するだけです。  そうやってわたしも宗教といわれるものをここ40年以上勉強し精進してきました。10年ほど前、46年いた大学を66でやめてからはお陰で2時に起き、不束(ふつつか)ながら朝晩勤行しています。  仏教ではありませんが、対象として外にあるのではなく、全体(部分と全体ということの意味の全体ではなく)のなかにまったくぽっこり入っていられるという事でして。  そういう自分の原初的であることを努力しての精進です。だから他人のいうことでも、書いていることでもありません。  そして道具としての思考や観念、知的操作を脱け出て、一切の前提、自己や世界の存在もない無前提での行なんです。  哲学って無前提、普遍、永遠見つめます。私たちはそれをしています。そして私たちの組織は自分自身の問題・課題ですといい、方法だけは教えます。  一切の強制と影響はしません。自分の家で、せいぜい数人のグループでの行。それもそれ以外の付き合いや雑談はいけない。  ○私の質問:私をブロックしている質問はこういう宗教組織もあるべきではないといっているのでしょうか?   そして私たちを無知の盲目的信仰といっているのでしょうか?  《以下は私をブロックしている質問文から書き出しました。》  なお、私をブロックしているこの質問の認識の範囲での宗教や組織に対しての質問者さんの批判は私もそういう面もあると存じます。  でもどの宗教いろんなレベルや側面がありますから、質問者さんの断定される前提観念では非常に狭隘かと存じました。   宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。 【それは 思考に非ず つまり非思考という行為である】【思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること】【その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。】【そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと】【非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる】【一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である】【無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている】【言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである】【この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である】【キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない】【キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない】【せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる】【ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである】【結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である】【仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ】【すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である】

  • 組織としての宗教は 違憲ではないか

     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • 組織宗教を 弾劾する。

     たたき台を述べて 表題についてなお問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  すなわち 《信じる心 つまり心に神を受け容れている》に《考えるオシエ つまりオシエを考え実行する》を先行させることは 《信仰》ではなくなる。信仰としての意志自由ではなくなる。つまり宗教組織は 《信仰》という看板を取りはづしてから 宗教と名乗らなければならない。  そうしてこのおそれは そのような可能性がつねにあるという意味では 宗教組織そのものの持つ欠陥である。  よって 組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。  信仰を取り除いて 宗教をかかげることは ありえず 出来ないことだと考えられるからには。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に《非思考の庭》が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。  それは われわれのものでさえある。  けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。  そしてそこまでである。信仰をめぐる《超現実(想像の世界また想像物としての神》)》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。ほんとうには 到り得ない。    ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とはたしかに 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  そしてこのあと     ○ 《超現実への想像》が 《単なる想像の産物としての神( Y )》をいだくか それとも《非経験の場 としてのナゾなる神( X )》を無根拠として心に受け容れるかに分かれると思われる。  想像物としての神( Y )は けっきょく《考える》の対象である。そして一般に《オシエ》となっている。オシエが神としていだかれることになる。  それでも そのオシエをいだく信念も 《個人にとっての・わがたましいの》問題であるかも知れない。  ただし 信仰は 《思考に非ず》にて 《オシエや人間としての教祖そしてさらには教団》をむろん超えている。その意味でのたましいの問題である。思考や観念の神と分けて 霊なる神である。霊とは 非合理である。思考に非ずというからには。    《非思考の庭》にあってワタシは 人は人をころさないものだなぁという直感(ないし直観)を得る。そこから誰かが 《汝 ころすなかれ》というオシエをこしらえる。けれどもこのオシエは 信仰内容の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。オシエは 非思考に先行していない。  問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。この明けがあれば どの神・どんな形態の信仰に対しても わが心は開かれている。閉じられていない。《信じる》は 人の心的現象として 何ものにも先行するところのものゆえである。  無思慮とも言うべき非思考の庭が・そして次に感性(直感)が 理性に先行している。  オシエは 混沌とした信仰内容に先行しない。まして組織ないし集団が 個人に先行するものではない。(それはただ 無効の行為として 権限関係などによってたまゆらの有力となるのみである)。  組織宗教は 自己解体を前提として みづからをへりくだらなければならない。  オシエよさようならと言わなければならない。  したがって     ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。    と言えたとしても 問題は実践としては すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》という組織宗教じたいについての批判が先である。  あとは ふつう一般の人間論ないし存在論が来ると思われる。  (非思考なる信仰が 思考に先行するという命題を 人間の内面についてあるいは社会的側面に沿って問い求めておかねばならない)。  (社会政策といった側面は 社会哲学のさらに応用部門であるように思われる)。    個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  信仰にかんする自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物だからである。  つまり 非思考が思考に先行するという命題が 有効であるなら そういう結論になる。  仮りに信仰をも批判する人がいて      ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  というくだりを 次のように言いかえたとしよう。      ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  まづは 幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? このように反論する。  つまり想像物としての神( Y )も それとして 有益な場合がある。特には 小説などの虚構によって人間の真実を表現しようとする芸術の場合である。  つぎにもし《非思考の庭に無根拠にていだいた神( X )》にもとづく《信仰は 幻想的幸福》でしかないとした場合。  この場合 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。  すなわち 互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ その信仰なる主観がたとえ幻想であったとしても 話し合いをつうじて思考および感性としての生活が 社会の現実に合ったものであれば 問題ない。  信仰は 教義化をせずその中身は わづかにヒラメキとして持たれることがらまでである。  そのヒラメキから得た内容を言葉にし思考の問題としてもし自己表現するとすれば これを他人に押しつけない。語り合うまでである。  言いかえると 信仰の無において生きている人びとも その思考内容つまり主観を他人につたえるということまではおこなうというのと まったく同じことである。  そこで互いに心から同意する思考内容があれば みづからの意志で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。開かれている。その《幻想的幸福》は 練られて行くはずである。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく そのオシエが信仰にとって信仰なる蝉の抜け殻のようなものであり 人びとの主観の自己表現つまり意志伝達にとって オシエ〔の固持〕が 自分のあるいは他者の自由意志を侵害する傾向に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

  • 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?

     (α) 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?  言いかえると――同じような内容ですが――  (β) 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないか?  (δ) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないか?    (ε) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の 自由にとっての 自殺行為ではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  (ζ)  宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為に片向きがちであるゆえ その自由は認められないのではないか?  (η) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為となるのでは?  (θ) 聖典と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   (ι) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?  (κ) 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきでは?

  • 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか

     (α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか?    (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか?  (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか?  (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは?  *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか?   *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?

  • 宗教は 百害あって一利なし。

     (1) 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象である。  (2) そのオシエが もし《信じる》べきものであると言うのなら それは 精神錯乱に落ち入ることを意味する。  (3) オシエは 命題(人間の思考し判断したもの)としてあるからには 《考える》ものであって そのような思考ないし理性の問題であるものを どうして信じる(つまり 神として受け容れる)ことが出来ようか。  (4) 《信じる》と《考える》とを区別するべきである。   ○ オシエは 信じるものではない ~~~~~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (5) 《信じる》とは 神をわが心に受け容れることである。神は 非経験の場だから 《考える》ことも認識することも出来ない。わづかに信仰の何たるかを説明するために ヒラメキから得た知識を理論として形成するとき この説明理論は 神を知るための補助線となる。  (6) この補助線たる説明書きが オシエと見なされ得る。《神は愛である》なり《至高の善である》なりの取扱説明書を オシエとして さらにはこの思考内容ないし概念を神として 信じよと言うのが 宗教である。  (7) この宗教は 信仰としての蝉の 抜け殻である。百害あって一利なし。  これを問います。出来れば 確定させたいと考えます。

  • 第二章 オシエは 考えるもの。信じるものではない。

     神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論  第二章 宗教のオシエは 経験思考の対象であり 考えるもの。それを神として 信じるということはあり得ない。――さらには 信仰の神は 非経験の場であり 信じるもの。この神を オシエや理念によって勝手に作り上げてはならないということ。   ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~      普遍真理――信じる    世界事実――考える    主観真実――《信じる》+《考える(感じる)》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 宗教のオシエは 一般に文章表現として《事実》に属する。むろん もとはと言えば 《真理》を何とか人間の言葉で指し示そうとして引いた補助線である。  2. 真理を指し示すために たとえば《なんぢの敵を愛せ》というオシエがある。けれども このオシエは 考えるものであり 信じるものではなく 鵜呑みにして規範とするものではない。  3. オシエは あくまで考えるためにある。おのれの考えと判断とによって そのつどその場でみづからの実存を成してゆく。そのためにある。  4. あるいは 神のことを説明して 《全知全能》といった属性が与えられる。そこで これについて反駁する者があって 《もし全知全能なら 世の中の悲惨を早く無くしてくれ》とか あるいは《神は自分が持ち上げられないバーベルをつくることができるか》といった《難題》を提示するようですが これらは 《全知全能》という概念がそのまま神であると誤解したことにもとづいています。  4-1. 言いかえると 全知全能という属性がまちがっていないとすれば その知性と能力がどのように発揮されるかは 人間には分からないというのが 答えになります。  4-2. すなわち 神は 概念や理念ではない。神についてその姿や能力を考えて 像を描いたとしても その思考や想像の産物としての神の像が 神なのではない。勝手に人間が神をつくることはあり得ない。  5. 重ねて述べるなら 《となり人を 自分と同じように愛しなさい》というオシエは 至上命令のごとき規範ではない。つまり 神そのものではない。そうではなく 自分〔たち〕で考えて それぞれがおのれの実存を形成してゆくための指針のようなものである。 信仰にとって 無くても構わない。  ☆ 以上の趣旨説明にて 表題の成否・当否を問います。ご教授ください。

  • 神は人間を何であると思っていると思うか?

     神は人間を何であると思っているとあなたは思いますか?  質問者のこたえは わたしにとって神は 信じているのであって・つまりは わが心なる《非思考の庭》に受け容れているのであって 何とも分からないというものです。   ○ わが心(身と心)の成り立ち    信仰:非思考の庭:ヒラメキ    -----------    哲学:思考の緑野:思考・想像    知覚:感性の原野:直感   ・ なお 《哲学》には シュウキョウのオシエが入ります。それは 信じるものではなく 考えるものです。

  • オシエは 考えるもの。信じるものではない。

     1. 宗教のオシエは 経験思考の対象であり 考えるもの。  2. それを神として 信じるということはあり得ない。信じるとは 無条件に受け容れることである。  3. よって オシエは 考えるもの。信じるものではない。    4. それでもこれを信じなさいと言うのは まだわれわれの知らないよほどの神秘がそこにあると言いたいのか さもなければ よほどのバカである。  5. ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~    普遍真理――信じる    世界事実――考える    主観真実――《信じる》 / 《考える + 感じる》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 宗教のオシエは 一般に文章表現として《事実》に属する。むろん もとはと言えば 《真理》を何とか――無理なのだが何とかして――人間の言葉で指し示そうとして引いた或る種の補助線である。  7. 《となり人を 自分と同じように――〈自 分 を 愛 す る の と 同 じ よ う に〉である――愛しなさい》や《なんぢの敵を愛しなさい》といったオシエがある。けれどもこれらは 神ではなく 信じるものでもない。鵜呑みにするものでは断じてない。  8. それらは 考えておのれの判断にもとづき意志行為として振る舞うという問題である。強いて言うなら そこでは《信じる》は 《考える・心づもりを決める》のうしろに隠れている。  9. さらに言えば このとき《信じる》は――《考える》に非ずその思考を超えているからには――じつは 万人にひとしい。  10. つまり 《普遍真理(いっぱんに 神のことである)》とわれとの関係は けっきょく誰にとっても・どの銀河系に行こうとも ひとしく同じである。  11. その《信仰という生きた動態》について人間の言葉で表わそうとしたオシエは――宗教の教は―― それぞれ工夫をこらしてさまざまである。  12. ぎゃくに言うと 考えて腑に落ちない内容がそのオシエにあればこれを問い質し マチガイがあれば自由に批判しあい正して行かなければならない。ただすことは 避けてはならない人間の義務である。  13. 阿呆なオシエは 廃れるに任せるその最初のひと押しを成すつとめが われわれ一人ひとりにある。  14. シュウキョウは 聖域を成すものではない。《信じる動態》は 良心・信教の自由として――その証明抜きの自同律としても――言わば聖域を成す。  ご見解を明らかにして添削をお願いします。

px-m5041f fax印刷だけ紙詰まりする
このQ&Aのポイント
  • px-m5041fのファックス印刷時に紙詰まりが発生してしまう問題があります。
  • しかしながら、コピーおよびPC印刷においては通常通りに機能しています。
  • この問題を解決するための対策方法についてご教示ください。
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