人間の信じる行為とは?哲学的な考察について

このQ&Aのポイント
  • 人間の信じる行為は思考に非ず、無根拠を受け容れる賭けのような行動であり、経験世界を超えた非経験的なナゾに向かっていると言える。
  • 信じるとは良心・信教の自由であり、組織宗教や教義によって左右されることはなく、内面的なものである。
  • 宗教団体は自主的に解散するべきであり、強制的な信仰の強要は個人の信仰の自殺行為であり違法である。
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《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

 哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#144995
noname#144995
回答No.19

実際には、信じるということを盗むこともできなければ、侵害することもできないと思います。それほど内面的であるので、誰も手出しができないといっても良いかもしれません。事実、ブラジュロンさんの信仰は誰かに阻害されたでしょうか?されていないはずです。豊臣の時代ならまだしも、ブラジュロンさんの信教の自由は既に保障されています。何某の宗教組織の内部事情は知らないですが、そこでも同じであると思います。そのような内面的な事柄について、誰の手が届きうるのでしょうか。 おそらくブラジュロンさんが言いたいのはこうではないかと思います。 画一的な信仰ではなく、個性的な信仰を人はもつべきだ。と。人はそれぞれ異なるのであるから、それぞれにとって最高に相応しい信仰のスタイルないし内実があるはずだし、それを獲得できるはずだ。そうであるのだから、人々の信仰のスタイルもその個的な信仰へと一新されて然るべきではないのかと。その方がすばらしい未来が待っていると。 そのようなビジョンを持つことも確かに可能ですし、それに共感する人もいると思います。しかしそれ以上に、人々は他のビジョンを持っていて、それぞれがよしとする方向に動いて行くものであると思います。結局大多数の画一的な信仰に傾倒するのも一つの選択であり、それをチョイスすることで何らかの安心や社会基盤を得ている人々もいるわけです。そして、それらを権威付けているのもまたそれを信仰している人々自身です。 個性が大事なのは分かりますが、それは孤立とは異なるものであり、野原に様々な種類の花の咲くように、世間には様々な個性があって然るべきだし、実際にもそうであるでしょう。ブラジュロンさんは特異な方だとは思いますが、それでも、実際のところは珍しくはないでしょう。一つの花としてどこかに咲いていて、見る人だけが見る、そんなような花なのかもしれません。得体の知れない生命体というほどでは決してないですから、共感される人も少なくはないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 実際には、信じるということを盗むこともできなければ、侵害することもできないと思います。それほど内面的であるので、誰も手出しができないといっても良いかもしれません。事実、ブラジュロンさんの信仰は誰かに阻害されたでしょうか?されていないはずです。  ☆ これには 脱帽です。わたしが 舌足らずでした。  ひかりなみさん ご回答をありがとうございます。    精神は どれだけ海の表面の心理が波風を受けて騒ぎ立てようとも 海として何ともありません。それと同じように 内面における良心や信教の自由が他人によって侵されることは 金輪際あり得ません。  ですから 宗教組織に問題があるとしたらそれは 社会力学として自分の行動が左右されることです。  ただし それについても  ★ 結局大多数の画一的な信仰に傾倒するのも一つの選択であり、それをチョイスすることで何らかの安心や社会基盤を得ている人々もいるわけです。そして、それらを権威付けているのもまたそれを信仰している人々自身です。  ☆ という分析を示しておられます。そうですね。それが 現実である 現実であるなら 哲学もそのとおりだと認めなくてはなりません。  で それと同時に これこれのように別様に考えることも出来ると示すことが出来る程度だと思います。  それが 《信じる》の定義であり 信仰の理論だと考えます。  ということは 趣旨説明に述べたたたき台の内容に ひととおり賛同していただいたということでしょうか?  つまり第一段階での理論作業は すでに済んでいる。そのあとは 人それぞれであり 千差万別だと見なければなるまい。こういったご見解でしょうか?  じっさいわたしは 今としては 第二段階での具体的な現場の対処策については ずるいほど今は何もしようとはしていないわけですから すべておっしゃったことは受け容れざるを得ません。  もっと言えば たとえば仏教なら仏教について その《教義》の内容を批判すべきところは批判して来ておりますので そういう方面からの接近の仕方を 第二段階の作業と いまは しています。現場にまではいま少し届かないその手前での作業です。  ですから ひとつの結論はこうです:  ☆☆(趣旨説明欄) 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。  ☆ というように 理論の外延として ひとこと触れておく。ここまでです。いまは これでよしとします。    くどいように再考します。  ☆☆(趣旨説明欄) 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  ☆ このような現実は 人びとがそれぞれともかくそれをよしと選択した結果である。その自由な自己表現を認めなさい。――こうおっしゃった。  おっしゃるとおりです。  と同時に それは 第二段階での現場での作業である。しかるに第一段階における理論作業としては 信じるの定義を 普遍的なかたちで明らかにしたい。  それによると 特には何が《信じる》ではないかが明らかになる。  1. その人物がいかに偉かろうと人は 経験的な存在であるので どれだけとうとびこそすれ 《信じる》ことはしない。  2. それと同じように理論や学問 あるいは愛や慈悲やの理念としての徳を成す事項 これらも経験事象であって それらを《信じる》とは言わない。  3. しかも紛らわしいのは 宗教のその教義である。オシエは いかに信仰の動態から得られたその成果であっても 一たん人間の言葉に書き換えられたならそれは 思想や哲学となっている。ゆえにこれも経験事物であって だから《考える》ものでこそあれ 《信じる》ものではあり得ない。  ☆ このような第一段階の作業を問題提起しています。  このことが明らかになれば じつは すでにその第二段階での作業も 案外おのづから定まって来るとは見ています。  そしてここで――このときに初めて―― あとは 人びとそれぞれの考察と判断によると言って行くことになると思います。    ちがいはありましょうか?

その他の回答 (51)

回答No.60

忘我が無根拠の絶対無を受け入れさせてくれるのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 忘我  ☆ とは 何を言うのか いまひとつ分かりませんが――《無心の状態》と言うのと それほど違わないとも思われますが―― いづれにしましても 《信じる》については こうです。  つまり 二段階があって 初めには《無根拠》のほうからわが心の庭におとづれるということ。次にこの無根拠をわが心の庭に迎えたわたしは 人間の意志行為としてそのまぼろしをわが心に受け容れるということ。  忘我は まづ《忘我が 無根拠を呼びよせる》のでもなければ おそらく《忘我が われをして無根拠の受け容れをおこなわしめる》というのでもない。と考えます。前者は 無根拠の側からやってくると捉えますし 後者は はっきりと人間のわたしが意識をもしつつおのれの意志としておこなう こう考えます。  どうでしょう?  * 意識をもしつつおのれの意志としておこなう と言いましたが その行為の性質は 根拠無しにです。賭けのごとくにです。人間の意志行為なのだが 非思考と見るゆえんです。

bragelonne
質問者

補足

 もし問い求めの途中でしたら あたらしい質問へ移っていただきとう存じます。

回答No.59

人間中心主義的には、 NULLの状態を受け入れる港(VPNポート)が開放されていたのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご投稿をありがとうございます。  ★ 人間中心主義的には  ☆ とはどういうことでしょう?

回答No.58

肉食動物達の群れがチームプレーで狩りを行なう場合にも、 言語的な経験に先立つ信念が含まれていませんでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  動物は 扱っていません。  自由意志〔を超えるかどうか〕の問題ですから。

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回答No.57

そもそも非経験の状態の維持に信じる過程が必要なのでしょうか。 経験されていない対象の事への与信は可能なのですか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《非経験》ということが まだ伝わっていなかったのですね。  ☆☆(趣旨説明欄) 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  ☆ そう言えばこの質問では ここくらいですね 触れているのは。  《経験世界を超えて》というところが ミソです。  そうしますと  ○ 非経験のナゾとは 人間が《経験している・していない》をも超えている。  ○ そして この非経験のナゾを相手にするのは 《想定の上で》なのです。  ○ 想定した上では その非経験のナゾを――そして言いかえると《無根拠》を――心に受け容れるということが起こります。  ○ わが心の庭を ひょっとして そのナゾがおとづれて来て窓をノックしているかも知れないと――想定の世界において――思ったとき これを受け容れるという仮りの行為をおこなう。  ○ その行為は――想定の延長上にありますが もしそうしたとするならば―― 今度は人間のおこなう経験行為であろうと言っています。あたかも《賭け》のごとく えいやっと受け容れを決めて 言わば領収証を発行すると言っています たとえで言って。  ○ なんでそんな想定をしなければならぬのか? なぜならわれわれ人間は どの言語においては 《信じる》という言葉を持っているからです。あるいは 《神》という言葉です。  ○ つまり 神や信じるという言葉は 要らないのだ 意味のない言葉だ 死語だというのであれば そう証明してそのようにすればよいでしょうし あるいはそうでないとすれば 上のように定義して使いつづければよい。または 別の定義を持って使い続ければよい。  ☆ こうなります。  ★ そもそも非経験の状態の維持に信じる過程が必要なのでしょうか。  ☆ 《非経験》は 《状態》であるかどうかさえ 人間には分かりません。分かるか分からないかが分かりません。  おそらく非経験なるナゾは・つまり一般に神は 人間が何かを心配することはいっさい要らないでしょう。経験世界のすべてを超えた存在〔というなら存在〕ですから。ぎゃくに人間のほうが心配してもらうと言えば そう言えることになるでしょう。あくまで主観の内面における心のあり方の問題です。  ★ 経験されていない対象の事への与信は可能なのですか。  ☆ 上に触れましたように 神は人間が成すところの何の心配をも必要としていません。与信をも必要としていません。  与信というのは 誰かが神なる存在は信用できん お払い箱だと言っているとき いやいや そうではない 神は信用するに足る存在だよ 何なら担保を指し出そうかと言って 裏書きすることを言うのでしょうか?  それは その誰かなる人が その不信を言うことによってみづからの人間性を失いかけているようだとあなたが捉えたなら そう言ってやってもよいと考えます。神は 信用できんと言われることによっても何によっても傷つくことはあり得ませんが その人のためには 言ってやってもよいと思います。

回答No.56

信じることの定義を全知全能の貴方が示して下さらないと、 庶民は祀り申し上げ難くなりますね。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さあ もしあなたが定義をするのを怠るなら 正真正銘の荒らしであると見なします。

回答No.55

定義が辞書的な意味の範疇から逸脱すれば会話が成り立ちますか?

bragelonne
質問者

お礼

 質問の趣旨を逸脱して 回答が成り立ちますか?

回答No.54

前回の文言へ「先験的」という語を盛り込んだ理由は、【反語】だからです。 逆方向の質問が寄せられる遣り取りは、此のサイトでなくとも、 人類の歴史の中の手紙にも有り得ただろう、と考えられますが、 それを読んだ際に反語の可能性を踏まえていなかったでしょうか? それとも単純な疑問文だと見做していたのでしょうか? つまり、【「先験的」な疑い】は不可能なので、それの排除は有り得ないのです。 因みに、敢えては触れませんが、共通の論理の誕生の切っ掛けとして確実に機能し得る仕組みは既に明らかになっていますので、其処から話題が発展し得ると思われますから、御自身で其の調査を為さってみて下さい。

bragelonne
質問者

お礼

 でもね。その場合にもすでに《信じる》の定義が 仮説としてでも 出来ている場合の反語法になります。  その定義をまづお示しください。それからの話ではないでしょうか?

回答No.53

ルサンチマンの発想との比較で類推しました。 たとえ意識的な思考が御座いませんでしても、先験的には、疑念対象の排除の過程を辿らずに、<<信じる>>という行為が可能になり得るのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 疑念対象の排除の過程を辿らずに  ☆ という過程もしくは場があるということは 何を意味するか? しかも  ★ 先験的には  ☆ だそうですね。  でもね。その場合にはすでに《信じる》の定義が 仮説としてでも 出来ている場合の問いになります。  その定義をまづお示しください。それからの話ではないでしょうか?

  • YaGhoogle
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回答No.52

否定されている「思考」の用語の意味は、辞書の記述の通りの内容なのでしょうか。 それとも対象の特定を志向していない段階にも、その「思考」は関わっていますか。 そもそも、言語認識なる手段が誕生していない頃には、 「信じる」という過程の存在が必要になっていない筈です。 この部分の食い違いが残っていますと、他の方々の意見にも変化が及ぶのでしょうから、無駄な誤解の残留を防ぐ為に、そこの食い違いの不在証明の優先を御願いします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづ  ★ 否定されている「思考」  ☆ これは まったくの誤解です。  ☆☆(趣旨説明) 1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  ☆ 《信じる》とは何かを説明して 《思考に非ず》と言っているのみです。  これは 《思考》というものを 要らないだとかのように否定しているのではありませんから。  ★ 「思考」の用語の意味は、辞書の記述の通りの内容なのでしょうか。  ☆ そのとおりです。言いかえると きちんとは定義していないわけですが 全体の趣旨説明からは  《非思考》としての《信じる》ではない自然本性としての能力行為を言っていることになります。  意志や記憶といった能力行為もありますが ここでは《知解》としての思考にあたります。  もう一度言いかえると    考える――経験世界    信じる――非経験の領域  こういった対応関係をおさえることが出来ると思います。  ★ それとも対象の特定を志向していない段階にも、その「思考」は関わっていますか。  ☆ 上の図式で経験世界と対応する《考える》を取り上げるならば 《思考》をしていなくても 思考しうるものごとを対象としているわけですから そうですという答えになります。  ★☆(編集しました= a ) 対象を特定していない場合  ☆ にも大きくは《思考》の世界に属します。  ただし やっかいな特殊な場合を取り上げておられましょうか?  ★ 対象の特定を志向していない段階  ☆ つまり  ★ そもそも、言語認識なる手段が誕生していない頃  ☆ ということのようですね。うえの( a )の場合と少し違って来ますね。  ★ ~~~~  そもそも、言語認識なる手段が誕生していない頃には、  「信じる」という過程の存在が必要になっていない筈です。  ~~~~~~  ☆ 大きな主題のようで よくは分かりませんが こうお応えして 質問の問うところの探究にともにすすんでいただきましょうか。すなわち  ○ 言語をまだ持ち得ていなかった頃 この頃にも 《考える》と《信じる》との能力行為は ともに潜在性としてならそなわっていた。  ☆ と見るのだと。  言いかえると 何のことはない。いま現在の人間のあり方について捉えてみてください。という問いになります。そう受けとめてくださればありがたいです。  どうしてもそのような前提では 答えることが出来ないということでしたら その旨をも示してくださればさいわいです。

回答No.51

http://okwave.jp/qa/q6708438.html?rel=innerHtml&p=complete&l=1 此方にも協力(慈愛)を提供してあげて下さいませ。

bragelonne
質問者

お礼

 知っておいたほうがよさそうな主題でしたので 調べてみようかと思いましたが やめました。  よく知りませんから。付け焼刃は控えました。

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  • 《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?

     《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?  ( a ) おそらく信じる対象は 《非経験の場》だと考えられるが 信じる行為は この現実における経験行為である。  まづは こう考えますが きちんとした哲学としての定義を問い求めます。      *    宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのと言うことを聞きますが それはマチガイでしょう。  ( b ) 《おしえ》は あくまで経験思考の対象です。それは 《考える》です。  ( c ) 考え思っていることを つよく念じてその内容をつねに心がけるといったこと これも 《信じる》ではありません。それは 信念とか信条とかと言います。  あたまや感覚ですでに知覚し認識していることを《信じる》気遣いはあり得ません。  《心がけ》などをめぐる信念は それを《信じる》という言葉で表わすこともあるのは あくまで文学的表現ないし修辞学の問題でしょう。《強く思う》と言いたいところを 《信じる》と表わしてみた。こういうことでしょう。  ですから 信念や信条とそして《信じる(信仰)》とは 別です。  考え思うことは 経験合理性にもとづき何らかの根拠のあるものです。もしくは 根拠がそのいま科学的に問われているものごとです。  根拠が問われていること――因果関係や相互の作用関係などについてその根拠が問われ得るものごと――については たしかに一方で仮説を信じるというふうに表現したりしますが それも言葉のあやであるに過ぎず いっさい《信じる》とは別です。《考える》です。  言いかえると   ( d ) 無根拠――もしくは 根拠について分かるか分からないかが人間には分からないものごと・さらにあるいは 因果関係から自由な《非経験の場》―― これについて人は 《信じる》と言うのだと考えられます。  ( e ) この《信じる》は 包括概念であり そこに《信じない》をも含みます。この《信じない》と《狭義の信じる》とは 互いに同等でありその選択は 人にとって自由です。       *  さらに質問者の考えをたたき台にしてしるします。  1. 《信じる》は 思考に非ず つまり非思考という行為である。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その非合理性をも人間の境地において引き受けることさえありつつ――考えをすすめることである。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。  7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。  8. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  9. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばにして言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  10. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとして取り上げそのうえ教義や道徳規範として押し戴く場合がある。組織宗教である。  11. クリスチャンやブディスト――それが有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげる場合がある。これは 信仰ではありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  12. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》よりほかのことではない。  13. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合にも社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  14. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  15. 現行の憲法では 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰〔の姿勢〕を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自由への殺害行為であり 違法行為である。  16. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。それしかない。人びとのきづなしかない。  17. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は そのヒエラルキアにおいて信仰の自由を侵すならば 欺瞞である。

  • 信じるということについての質問がありました

    http://okwave.jp/qa/q6729443.html です。  哲学カテであるのに関らず、質問者は復た私をブロックされました。対象が不明なことを信ずるのは誰もできせん。  何か人がいっていることや書いてあることなどは、自分が正しいと思わなければ、正しいとは思えません。信じるのでなく確認して確信するだけです。  そうやってわたしも宗教といわれるものをここ40年以上勉強し精進してきました。10年ほど前、46年いた大学を66でやめてからはお陰で2時に起き、不束(ふつつか)ながら朝晩勤行しています。  仏教ではありませんが、対象として外にあるのではなく、全体(部分と全体ということの意味の全体ではなく)のなかにまったくぽっこり入っていられるという事でして。  そういう自分の原初的であることを努力しての精進です。だから他人のいうことでも、書いていることでもありません。  そして道具としての思考や観念、知的操作を脱け出て、一切の前提、自己や世界の存在もない無前提での行なんです。  哲学って無前提、普遍、永遠見つめます。私たちはそれをしています。そして私たちの組織は自分自身の問題・課題ですといい、方法だけは教えます。  一切の強制と影響はしません。自分の家で、せいぜい数人のグループでの行。それもそれ以外の付き合いや雑談はいけない。  ○私の質問:私をブロックしている質問はこういう宗教組織もあるべきではないといっているのでしょうか?   そして私たちを無知の盲目的信仰といっているのでしょうか?  《以下は私をブロックしている質問文から書き出しました。》  なお、私をブロックしているこの質問の認識の範囲での宗教や組織に対しての質問者さんの批判は私もそういう面もあると存じます。  でもどの宗教いろんなレベルや側面がありますから、質問者さんの断定される前提観念では非常に狭隘かと存じました。   宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。 【それは 思考に非ず つまり非思考という行為である】【思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること】【その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。】【そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと】【非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる】【一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である】【無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている】【言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである】【この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である】【キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない】【キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない】【せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる】【ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである】【結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である】【仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ】【すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である】

  • 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか

     (α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか?    (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか?  (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか?  (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは?  *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか?   *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?

  • 組織としての宗教は 違憲ではないか

     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?

     (α) 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?  言いかえると――同じような内容ですが――  (β) 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないか?  (δ) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないか?    (ε) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の 自由にとっての 自殺行為ではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  (ζ)  宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為に片向きがちであるゆえ その自由は認められないのではないか?  (η) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為となるのでは?  (θ) 聖典と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   (ι) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?  (κ) 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきでは?

  • 組織宗教を 弾劾する。

     たたき台を述べて 表題についてなお問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  すなわち 《信じる心 つまり心に神を受け容れている》に《考えるオシエ つまりオシエを考え実行する》を先行させることは 《信仰》ではなくなる。信仰としての意志自由ではなくなる。つまり宗教組織は 《信仰》という看板を取りはづしてから 宗教と名乗らなければならない。  そうしてこのおそれは そのような可能性がつねにあるという意味では 宗教組織そのものの持つ欠陥である。  よって 組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。  信仰を取り除いて 宗教をかかげることは ありえず 出来ないことだと考えられるからには。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に《非思考の庭》が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。  それは われわれのものでさえある。  けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。  そしてそこまでである。信仰をめぐる《超現実(想像の世界また想像物としての神》)》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。ほんとうには 到り得ない。    ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とはたしかに 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  そしてこのあと     ○ 《超現実への想像》が 《単なる想像の産物としての神( Y )》をいだくか それとも《非経験の場 としてのナゾなる神( X )》を無根拠として心に受け容れるかに分かれると思われる。  想像物としての神( Y )は けっきょく《考える》の対象である。そして一般に《オシエ》となっている。オシエが神としていだかれることになる。  それでも そのオシエをいだく信念も 《個人にとっての・わがたましいの》問題であるかも知れない。  ただし 信仰は 《思考に非ず》にて 《オシエや人間としての教祖そしてさらには教団》をむろん超えている。その意味でのたましいの問題である。思考や観念の神と分けて 霊なる神である。霊とは 非合理である。思考に非ずというからには。    《非思考の庭》にあってワタシは 人は人をころさないものだなぁという直感(ないし直観)を得る。そこから誰かが 《汝 ころすなかれ》というオシエをこしらえる。けれどもこのオシエは 信仰内容の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。オシエは 非思考に先行していない。  問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。この明けがあれば どの神・どんな形態の信仰に対しても わが心は開かれている。閉じられていない。《信じる》は 人の心的現象として 何ものにも先行するところのものゆえである。  無思慮とも言うべき非思考の庭が・そして次に感性(直感)が 理性に先行している。  オシエは 混沌とした信仰内容に先行しない。まして組織ないし集団が 個人に先行するものではない。(それはただ 無効の行為として 権限関係などによってたまゆらの有力となるのみである)。  組織宗教は 自己解体を前提として みづからをへりくだらなければならない。  オシエよさようならと言わなければならない。  したがって     ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。    と言えたとしても 問題は実践としては すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》という組織宗教じたいについての批判が先である。  あとは ふつう一般の人間論ないし存在論が来ると思われる。  (非思考なる信仰が 思考に先行するという命題を 人間の内面についてあるいは社会的側面に沿って問い求めておかねばならない)。  (社会政策といった側面は 社会哲学のさらに応用部門であるように思われる)。    個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  信仰にかんする自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物だからである。  つまり 非思考が思考に先行するという命題が 有効であるなら そういう結論になる。  仮りに信仰をも批判する人がいて      ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  というくだりを 次のように言いかえたとしよう。      ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  まづは 幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? このように反論する。  つまり想像物としての神( Y )も それとして 有益な場合がある。特には 小説などの虚構によって人間の真実を表現しようとする芸術の場合である。  つぎにもし《非思考の庭に無根拠にていだいた神( X )》にもとづく《信仰は 幻想的幸福》でしかないとした場合。  この場合 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。  すなわち 互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ その信仰なる主観がたとえ幻想であったとしても 話し合いをつうじて思考および感性としての生活が 社会の現実に合ったものであれば 問題ない。  信仰は 教義化をせずその中身は わづかにヒラメキとして持たれることがらまでである。  そのヒラメキから得た内容を言葉にし思考の問題としてもし自己表現するとすれば これを他人に押しつけない。語り合うまでである。  言いかえると 信仰の無において生きている人びとも その思考内容つまり主観を他人につたえるということまではおこなうというのと まったく同じことである。  そこで互いに心から同意する思考内容があれば みづからの意志で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。開かれている。その《幻想的幸福》は 練られて行くはずである。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく そのオシエが信仰にとって信仰なる蝉の抜け殻のようなものであり 人びとの主観の自己表現つまり意志伝達にとって オシエ〔の固持〕が 自分のあるいは他者の自由意志を侵害する傾向に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

  • 宗教は 百害あって一利なし。

     (1) 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象である。  (2) そのオシエが もし《信じる》べきものであると言うのなら それは 精神錯乱に落ち入ることを意味する。  (3) オシエは 命題(人間の思考し判断したもの)としてあるからには 《考える》ものであって そのような思考ないし理性の問題であるものを どうして信じる(つまり 神として受け容れる)ことが出来ようか。  (4) 《信じる》と《考える》とを区別するべきである。   ○ オシエは 信じるものではない ~~~~~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (5) 《信じる》とは 神をわが心に受け容れることである。神は 非経験の場だから 《考える》ことも認識することも出来ない。わづかに信仰の何たるかを説明するために ヒラメキから得た知識を理論として形成するとき この説明理論は 神を知るための補助線となる。  (6) この補助線たる説明書きが オシエと見なされ得る。《神は愛である》なり《至高の善である》なりの取扱説明書を オシエとして さらにはこの思考内容ないし概念を神として 信じよと言うのが 宗教である。  (7) この宗教は 信仰としての蝉の 抜け殻である。百害あって一利なし。  これを問います。出来れば 確定させたいと考えます。

  • 思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが

    思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが 一般に 亜流の思想を追い求めているからではないか?  ゴロツキ等は 経験合理性にもとづいてものごとの認識や判断をみちびくことをしないその状態を言います。  亜流の思想というのは そのままでもありますが 特には クリスチアニズムという宗教となった思潮 あるいは そもそもブディズムは無神論としての信仰であるはずなのにこれをああたらこうたらいじくりまわしたその結果としての思潮を言います。  前者は 非思考の場としての個人の信仰が 教義を信じるという矛盾をかかえた組織宗教となった場合であり あるいは単に道徳規範としてしまいこれを抱き続けるということに変身した場合を言います。教義は 思考するものであり 信じるものではありません。倫理規範も考えるものであり 信じるものではなく その実践ということもそれだけでは 信仰そのものとは関係ありません。(ほかの宗教でも 道徳を説きその実践を奨励します)。  後者のブディズムについては ひとつだけその亜流の特徴を挙げれば。さとりが いま・ここなるわたしを離れたところにあると思っていることです。このへだたり・この時間差が 亜流であり チンピラの振る舞いと何ら変わらないと見なされることになります。少しづつだんだんさとりに近づくというのなら ゴロツキの成仏と変わらないということになるからです。  ご見解ご批判をお寄せください。

  • キリストは勝手に人間となり 磔に遭って死んだのだ。

     =( a )とします。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( f ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( g ) 思考の対象である教義を その教祖や組織の長への崇拝とともに 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( h ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( i ) 神の名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( j ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?  

  • キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に成った。

     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( b-1 ) 原罪をあがなってやったなどと言うはずがない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。  ( f ) つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( g ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( h ) 思考の対象である教義を 《非思考としての 信じる》と言ったり その教祖や組織の長への崇拝のようなかたちにおいて やはり《信じよ》と言いがちであったりして 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( i ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( j ) 神はその名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( k ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?