人間の信じる行為とは?哲学的な考察について

このQ&Aのポイント
  • 人間の信じる行為は思考に非ず、無根拠を受け容れる賭けのような行動であり、経験世界を超えた非経験的なナゾに向かっていると言える。
  • 信じるとは良心・信教の自由であり、組織宗教や教義によって左右されることはなく、内面的なものである。
  • 宗教団体は自主的に解散するべきであり、強制的な信仰の強要は個人の信仰の自殺行為であり違法である。
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《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

 哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。

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noname#144995
noname#144995
回答No.19

実際には、信じるということを盗むこともできなければ、侵害することもできないと思います。それほど内面的であるので、誰も手出しができないといっても良いかもしれません。事実、ブラジュロンさんの信仰は誰かに阻害されたでしょうか?されていないはずです。豊臣の時代ならまだしも、ブラジュロンさんの信教の自由は既に保障されています。何某の宗教組織の内部事情は知らないですが、そこでも同じであると思います。そのような内面的な事柄について、誰の手が届きうるのでしょうか。 おそらくブラジュロンさんが言いたいのはこうではないかと思います。 画一的な信仰ではなく、個性的な信仰を人はもつべきだ。と。人はそれぞれ異なるのであるから、それぞれにとって最高に相応しい信仰のスタイルないし内実があるはずだし、それを獲得できるはずだ。そうであるのだから、人々の信仰のスタイルもその個的な信仰へと一新されて然るべきではないのかと。その方がすばらしい未来が待っていると。 そのようなビジョンを持つことも確かに可能ですし、それに共感する人もいると思います。しかしそれ以上に、人々は他のビジョンを持っていて、それぞれがよしとする方向に動いて行くものであると思います。結局大多数の画一的な信仰に傾倒するのも一つの選択であり、それをチョイスすることで何らかの安心や社会基盤を得ている人々もいるわけです。そして、それらを権威付けているのもまたそれを信仰している人々自身です。 個性が大事なのは分かりますが、それは孤立とは異なるものであり、野原に様々な種類の花の咲くように、世間には様々な個性があって然るべきだし、実際にもそうであるでしょう。ブラジュロンさんは特異な方だとは思いますが、それでも、実際のところは珍しくはないでしょう。一つの花としてどこかに咲いていて、見る人だけが見る、そんなような花なのかもしれません。得体の知れない生命体というほどでは決してないですから、共感される人も少なくはないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 実際には、信じるということを盗むこともできなければ、侵害することもできないと思います。それほど内面的であるので、誰も手出しができないといっても良いかもしれません。事実、ブラジュロンさんの信仰は誰かに阻害されたでしょうか?されていないはずです。  ☆ これには 脱帽です。わたしが 舌足らずでした。  ひかりなみさん ご回答をありがとうございます。    精神は どれだけ海の表面の心理が波風を受けて騒ぎ立てようとも 海として何ともありません。それと同じように 内面における良心や信教の自由が他人によって侵されることは 金輪際あり得ません。  ですから 宗教組織に問題があるとしたらそれは 社会力学として自分の行動が左右されることです。  ただし それについても  ★ 結局大多数の画一的な信仰に傾倒するのも一つの選択であり、それをチョイスすることで何らかの安心や社会基盤を得ている人々もいるわけです。そして、それらを権威付けているのもまたそれを信仰している人々自身です。  ☆ という分析を示しておられます。そうですね。それが 現実である 現実であるなら 哲学もそのとおりだと認めなくてはなりません。  で それと同時に これこれのように別様に考えることも出来ると示すことが出来る程度だと思います。  それが 《信じる》の定義であり 信仰の理論だと考えます。  ということは 趣旨説明に述べたたたき台の内容に ひととおり賛同していただいたということでしょうか?  つまり第一段階での理論作業は すでに済んでいる。そのあとは 人それぞれであり 千差万別だと見なければなるまい。こういったご見解でしょうか?  じっさいわたしは 今としては 第二段階での具体的な現場の対処策については ずるいほど今は何もしようとはしていないわけですから すべておっしゃったことは受け容れざるを得ません。  もっと言えば たとえば仏教なら仏教について その《教義》の内容を批判すべきところは批判して来ておりますので そういう方面からの接近の仕方を 第二段階の作業と いまは しています。現場にまではいま少し届かないその手前での作業です。  ですから ひとつの結論はこうです:  ☆☆(趣旨説明欄) 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。  ☆ というように 理論の外延として ひとこと触れておく。ここまでです。いまは これでよしとします。    くどいように再考します。  ☆☆(趣旨説明欄) 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  ☆ このような現実は 人びとがそれぞれともかくそれをよしと選択した結果である。その自由な自己表現を認めなさい。――こうおっしゃった。  おっしゃるとおりです。  と同時に それは 第二段階での現場での作業である。しかるに第一段階における理論作業としては 信じるの定義を 普遍的なかたちで明らかにしたい。  それによると 特には何が《信じる》ではないかが明らかになる。  1. その人物がいかに偉かろうと人は 経験的な存在であるので どれだけとうとびこそすれ 《信じる》ことはしない。  2. それと同じように理論や学問 あるいは愛や慈悲やの理念としての徳を成す事項 これらも経験事象であって それらを《信じる》とは言わない。  3. しかも紛らわしいのは 宗教のその教義である。オシエは いかに信仰の動態から得られたその成果であっても 一たん人間の言葉に書き換えられたならそれは 思想や哲学となっている。ゆえにこれも経験事物であって だから《考える》ものでこそあれ 《信じる》ものではあり得ない。  ☆ このような第一段階の作業を問題提起しています。  このことが明らかになれば じつは すでにその第二段階での作業も 案外おのづから定まって来るとは見ています。  そしてここで――このときに初めて―― あとは 人びとそれぞれの考察と判断によると言って行くことになると思います。    ちがいはありましょうか?

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noname#144995
noname#144995
回答No.18

そうですね、気持ちはわかるのですが、。神に通じたという表現が、ちょっとマニアックと思われるならそうなのでしょう。実際、ブラジュロンさんのおっしゃっていることはかなり独特です。  間違ったことでも一時の繁栄を見る、それは栄枯盛衰であり時代と共に移ろい行くのは世の常であり、大宗教といわれているものでもそれは例外ではありません。大多数の人がその流れにまさしく流されているのは然りと思います。しかしながら、何時どの人が、何をきっかけにして目覚めるかはわからないことであり、今ある間違いは全て改正するべきだ、個人の自立、個人の信仰を何人も確立すべきだ、と、言うのは、他の人の都合を見ていないことにもなります。しかも、ブラジュロンさんが間違いだと言っていることは、ある人々にとっては是正されるべきでない事柄である可能性も少なくなく、この件は、是正だ、いや現状が正しい、と、水掛け論にもなりかねません。 ですから、ブラジュロンさんが信仰の事についてお話になるときには、私の信仰には言葉は要らないのですよと、付け足せばそれで十分なのではないかとも思えます。 その方が簡潔であり分かりやすく、人にも伝わりやすいのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ひかりなみさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  あなたのようにしっかりと考えを述べる回答を得るのは 久しぶりです。数人の方々がそうしてくださっています。そしてあとは・・・。  ★ 今ある間違いは全て改正するべきだ、個人の自立、個人の信仰を何人も確立すべきだ、と、言うのは、他の人の都合を見ていないことにもなります。  ☆ 《他の人の都合を見ていないことになる》 このような内容による理由は 哲学が知ったことではありません。  じっさいには 知ったことなのですが けっきょく二段階があることになるでしょう。  すなわち いまここでおこなっているように 純理論的に《信じる》の定義づけをして それにもとづき現実の諸問題についてもその処方箋を明らかにすることが 第一段階。そのあとには 実際に具体的にその言わば現場ごとにどう対処するか これに取り組む段階が来ます。  この理論作業の段階で 人びとの都合を考えることは必要ないはずです。  そんなことを言ったら 我が国で仏教を導入するというとき 神道派と殺し合いになりました。つまり廃仏派は殺してでも仏教を導入するのだという歴史もありました。  理論を立てたあと どうなるかわたしは知りませんが もしそうなら そのような過去の歴史のツケが回って来た ただそれだけのことではないでしょうか? つまり 自分たちはわるいことをおこなって来たのです。  ローマ教会にしても 同じような歴史のツケが回って来ているでしょう。ガリレオさん ごめんなさい 魔女のみなさん たいへん申し訳ありませんでしたで済むことなのかどうか。  ★ しかも、ブラジュロンさんが間違いだと言っていることは、ある人々にとっては是正されるべきでない事柄である可能性も少なくなく、この件は、是正だ、いや現状が正しい、と、水掛け論にもなりかねません。  ☆ そんなことは いま――このいま―― 互いに対話をつうじて明らかにしていくことです。なんで初めにどちらかに決めておかねばならないのでしょう?  ★ ~~~  ですから、ブラジュロンさんが信仰の事についてお話になるときには、私の信仰には言葉は要らないのですよと、付け足せばそれで十分なのではないかとも思えます。  その方が簡潔であり分かりやすく、人にも伝わりやすいのではないでしょうか。  ~~~~~  ☆ 物分かりのよい若いお方ですね。  それは ひとつに敗北主義です。ひとつに 事なかれ主義です。ひとつに馬鹿です。つまり おのれのタコツボに閉じこもるという意味における阿呆です。ほかには もうないかなぁ。  おそらく いまの《宗教頼み》の心性において 復興とあたらしい社会の建設を目指しても たいしたことは出来ないのではないか。新新新新興宗教がもうけるのが 関の山ではないか。  菅政権をこれだけぼろくそにこきおろしているその舌の根も乾いていないと思われる現在 この宗教による良心・信教の自由の侵害にかんするうたがいについて何も言わない・何も明らかにしようとしない なんてのは いったいどういう魂胆だい とお尋ねしなければなりませんよ。

noname#144995
noname#144995
回答No.16

言葉と言うものには汎用性が必要であると思います。その言葉のもつ意味の深浅はあってもよいのですが。 言葉を厳密に用いることは良いことなのでしょうが、それが自分語に置き換わってしまっていては、共有することが難しくなります。むしろ、信じるという言葉の意味は通常のままでよいのであり、ブラジュロンさんの信じるという意味を、別の言葉に置き換えた方が便利が良いのではないかと思います。非思考の庭だとか、独特の言い回しをされていますし。神と通じた などという表現は如何でしょうか。信じるというのはあまりにも一般化されていて、ブラジュロンさん専用の言葉にするのは難しいと想います。何か別の良い表現があるのではないかと思いますが、如何でしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 神と通じた などという表現は如何でしょうか。  ☆ これはわたしが《神とのつながり》といった表現を使いましたので それを咎めているのではなく そうではなく 《信じる》を《神と通じた》というふうに表現しなおすとよいのではないかという意味ですか?  それは ちょっとマニアックではないですか?  えっとですね。口はばったいことですが それでも言いますが あたらしい用語もしくはあたらしい考えは とうぜんまだ浸透していない段階では 通りがわるいです。わかりづらいなぁという感じで受け取られることが多いと思います。  ですが いまの慣用がまちがっています。と申し上げています。必ず変わると《信じて》います。つまりこの言い回しは 非経験と向き合っての非思考の行為ではなく ただそのように思っているということを強調して言ったまでのもので いまでもそのように使われています。  つまり 《信じる》についてげんみつに定義した内容とその使用 そして慣用表現とがある。  けれども 信仰一般やあるいは――その現象や営みじたいに問題があると思われるところの――宗教についての表現では 慣用表現を使うことはあり得ません。すなわち一例として 《考えるの対象であるオシエを〈信じる〉》という言い方は あり得ません。専門としてげんみつに用いるべきです。  要するに 誤用表現をただしましょうということを含みます。  あるいは 組織宗教は 良心・信教の自由を侵すうたがいがある。ここまでをも含みます。違法行為のうたがいがあることについて その表現をあいまいなままにしておくことは 哲学はゆるしません。  ★ むしろ、信じるという言葉の意味は通常のままでよいのであり、ブラジュロンさんの信じるという意味を、別の言葉に置き換えた方が便利が良いのではないかと思います。  ☆ 真逆だと考えます。  いまの宗教の《繁栄》につごうのよい使い方をしているだけです。  ★ それが自分語に置き換わってしまっていては、共有することが難しくなります。  ☆ 《共有している》一般の人びとも 同罪であるうたがいがかけられます。組織宗教のほうが《自分語に置き換えてしまっている》のです。わづかに結社の自由で守られているのみです。  けれども 《おまえは これこれのオシエを信じよ》という呼びかけは 人間ならしないでしょう。しても無効ですが 一たんその組織に入ったなら 今度はその信仰の度合いに応じた身分関係のような上下関係によって 信仰という個人の自由の領域を侵されるおそれがある。こう言わなければならない。この点についても 問うています。  信じるは 個人のこと。これは はっきりしているのです。  どうでしょう?

noname#144995
noname#144995
回答No.15

なるほど以前よりよくわかりました。精神における、ある種の宗教的体験があって、信仰を持つようになったということですね。 信じるというのは、何かに自分を預けるということでもあるでしょう。それが神であるのか、人であるのか、理想や学問であるのか、徳や愛であるのかを問わず。 という事で、信じるとは、何かに自分自身を預ける行為である、と言うのはどうでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 精神における、ある種の宗教的体験があって、信仰を持つようになったということですね。  ☆ 言葉の問題 表現だけの問題ですが この際 げんみつにまいります。  1. 《精神》は 人間の自然本性における能力です。経験事象です。  非思考の庭で起きたことを 精神としても受けとめているであろうと言われても そうだとすれば それは精神だけではなく 身も心もであり 身体においても・というよりは 精神=身体 において体験があったということになります。  ですから ことさら《精神における》というのは どこか違うと思います。  2. 《宗教》というのは ただの経験思考です。  反合理性をも一緒くたにした経験世界のことがらです。  つまり 個人が その心の庭に神のおとづれを迎えてこれを受け容れ 非思考の場が動態として始まる。その信仰の動態において得られた観想(テオーリア)を 人間の言葉に翻訳して表わしたものが理論(テオリ)やら倫理などの思想です。  さらにこれらを オシエとして――わざわざオシエとして――しかも集団となってつくったその組織にとっての教義とする。これが宗教です。  宗教は 信仰の搾りかすです。さらにしかも その組織の権限関係にもとづいて 上の者が下の者に対してその信仰の度合いをうんぬんし(成っていないと審判し) おまけにそのあり方を左右するほどにオシエを強要する。ここには 良心・信教の自由を侵しているおそれがあると考えます。  組織宗教は 個人の信仰の自殺行為である。これを見ます。  ★ 信じるというのは、何かに自分を預けるということでもあるでしょう。それが神であるのか、人であるのか、理想や学問であるのか、徳や愛であるのかを問わず。  ☆ 神は 非経験であり非対象です。ナゾです。そのほかの人・理想・学問・徳・愛は いづれにしても経験事物です。《自分を預ける》と言っても これらふた組に分かれたその区分においては おのづから違いがあると考えます。《信じる》と《考える》とに分かれているはずです。  ★ という事で、信じるとは、何かに自分自身を預ける行為である、と言うのはどうでしょうか。  ☆ 経験事物に《おのれを預ける》と言えるとすれば それは (1) 《信じる》とは別なのだが 信じるの場合の身をゆだねることに似ているところを取って来て あたかも同じようだと強調して言うためである。  (2) あたかも一心不乱に邁進する場合を あたかも信じるにおいて身をゆだねることにたとえている。  (3) 身をゆだねているのは あくまで信じるという側面においてであり しかもその信仰の動態において おのれの人生にとってのしごとが決まっていて そのしごとにやはり一生をささげるというような場合を言っている。  いづれにしても 身をゆだねるのは 神に対してであり 信じるという場合に限られます。厳密に言えば。  蛇足もしくは余分を添えますと 《身をゆだねる》ことが出来るのは それも 人間が自分からするのではなく そうすることが出来るようにその力が与えられる。と考えます。そうでないと 信仰の動態としておのれのしごとに身をゆだねるのと たとえば学問に身をささげる場合でしかも信仰の動態にはかかわりがないというのとが区別できなくなります。区別はあるはずです。  もし後者すなわち学問に一生をささげる場合でしかもその人が無神論であったという場合 このときには 無神論もけっきょく有神論と同じかたちで 人生におけるおのれのしごととしての自覚があったということだと考えます。その場合は 区別する必要はなくなります。  こまかいことでした。  

noname#144995
noname#144995
回答No.13

ブラジュロンさんを説得したいわけではないのですが、理解しようとはしています。 ブラジュロンさんは何を信じておられるのですか?また、何故それを信じておられるのでしょうか? 以上二点、よろしくお願いします。ぼちぼち行きましょう。 私は、信じるとは、何かを目指して歩いていることであると思いました。平たく言えば、ですが。その何かが、超越的なことなのか、それとも人生を通じて体験しうることなのか、その違いは、この定義にはあまり関係ありません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 私は、信じるとは、何かを目指して歩いていることであると思いました。平たく言えば、ですが。  ☆ おそらく一方で《信じる》その対象――じつは 非経験であるゆえに 非対象――は そのまま時空間を超えている何かであるでしょう。つまり 目指すべき何かとして表象しうるものとは思えません。  たしかにそれでも何とかしてそれをイメージにでも表わそうということに努めはしますが。つまりたとえば   ○ 真理がすべてにおいてすべてである状態ないし境地  といったふうに表わされてもいます。でもことさらこれを目指すべき目標地点として推し出さないのは じつはすでにその境地の種は生まれつきの身と心にやどっていると思っているからです。  日本人は 仏性という言い方にはなじみがあると思われます。それと同じように 神の霊がわが身と心に宿るとじつは思っています。そのちからが はたらくのは 必ずしもわたしないし人間の努力によってなのではないと思ってもいるからです。  他方で《信じる》がその対象は不確かだと言っても その信仰の動態には わが人生としての何らかの目指すことがあるのではないか? それは あります。けっきょく職業であり もっとゆるやかに広く捉えて人生における仕事なのでしょう。  それは たとえばわたしにとっては 組織宗教が解体されることです。人びとがそれぞれ主体的にあゆむことができるようになることです。  これら両側面があるかとは思います。  さて  ★ ブラジュロンさんは何を信じておられるのですか? また、何故それを信じておられるのでしょうか?  ☆ わたしの信じるのは キリスト・イエスの神です。アウグスティヌスをつうじて知りました。ことさらこれを言うのは その前に聖書や解説書を読んでもピンと来なかったからです。  何故信じるか? アウグスティヌスを読んで――おもに『三位一体論』ですが―― これは信じることができると思ったことが まづ初めのことです。では どうすれば信じるようになるのか? と思ったとき けっきょく信じるとは どういうことか? という主題に行き着きました。この質問と同じです。  あれこれ考えたり その思いや考えを寝かしておいたりして かれこれ数カ月が経ったとき 或る日或る時 あれっ おれはこの聖書の神を信じているではないか。ということに気づきました。  何故信じるのか? 信じられるものがやっとあったと思ったところからでしょう。  でも言いかえると この非思考の庭がわが心に成ったという信仰の成立は その信仰があたえられたのだと思っています。何故信じるのかは したがって分かりません。その与えられたものを取るか捨てるか ふたつにひとつだったということです。  その信仰という動態が いったいどういうことかと思って考えつづけたのが 二・三年。その後 五年目ごろから この非思考のあって無きがごとくの状態ないし境地が 確立し始めた。  さらにその後は 炉心の溶融を起こさずに燃え続けているものですから その火の明るく照らすその先へとあゆみ入って進まざるをえない。垂直壁が立ちはだかった場合にも それをくぐり抜けて広い野原に出てしまうという経験がつづけば それに従わざるを得ません。そうではないでしょうか?  目に見える具体的なこととしては  【Q:アマテラス公民の世は終わらせるがはどうですろうか】  このようなインタムライズムなる未来社会を目指しています。  全部が 内面においては 信仰の動態であり 外に向けては 社会的交通におけるわが自己表現のやはり動態です。すべてが すでに発電されつづけているその力――これをあれそれだと言って指し示すことは出来ないので 聖霊と言っていますが――にみちびかれてあゆんでいます。  答えになっていましょうか。

noname#144675
noname#144675
回答No.9

結局自己の体験としては 愛の成就を見たことがある 愛憎はわかっている としかのべてませんね。 はっはっは ちょとつ様に はっきり負けてますよww 貴方の姿は愛が成就していない姿です。ちょとつ様が羨ましくて仕方がないwww 何事もかなっていない よう で残念です。 「わかるかわからないかわからない」ということ以外に、何か主張するべきことがあるなら答えなさい。 (本棚だけは分厚いが、それは貴方自身ではないのですよwww 何事にも薄っぺらのおじじは反省するべきです。) さて哲学に帰ります。 質問者様の議論を整理いたしますと> >愛には二通りアル。 >普通の愛 と無根拠の愛である。 >無根拠とは、俺にもわからないが、お前にもわからないものであると定義する。 >つまり、無根拠の愛はお前にはわからない。 >おは見たことか、お前にもわからない愛がアル。 何とかを超えた というのも 同じ意味合いで使っていらっしゃるようですが・・・ >お前がなんと言おうと言葉を放った時点で無根拠の世界のことではない。 でも自分の言葉には価値があるていうwww  しょっちゅうわからない と いいながら わかっているという(脚注:覚書として記載www) 神徳も同様に「本当の」とか「絶対の」とか言い方を変えて表現していますが、 「オレ様の」と同値です。 話の基本は要するに「オレの神とお前の神は違う」「教会の説く『徳』ハちょろい」 「新しさでは俺に負ける」「悔しかったら領収書を気って解散しろwww」とかいっているだけです。 貴方が「新しい」「わかっている」と称する事象=その具体的な内容は、 「わかるかわからないか、わからない」というテクスチャ(ごにょごにょ)です。 新しい世界は、新しいオレ様の哲学の世界。 おれはあたらしい。お前は俺の言っていることがわからない。 (定義上「お前にはわからないことがある」と仮定したからあたりまえだろwww) モダリィティという観点から言うと可能性という範囲の事象でしかなく、 はかのとこで使っていらっしゃるように >>「どんな経験的なことがらに向き合うというときにも 人間には非経験のナゾが無関係になっているとは言えない。」 といっているだけ。 いいかえれば 全ての事象・ありとあらゆる事柄に可能性として非経験のナゾが関わっている可能性があるといちゃもんをつけているだけです。 可能性とつけると議論としてみっともないし主張が弱くなるので、つけない。 可能性は認めろということで、ただ認めてほしいだけです。 質問者様にひきつけた実例として、たとえば英会話の話。 オレ様は今英会話が出来ないかもしれないが、これから変わるかもしれない。 これからオレ様の願いが成就して大逆転。可能性は認めろ! 自分が何歳かもう一度考えてみて子供じみたことはゆわないように心がけなさい。 このチョコパフェにはゴキブリのエッセンスが入っている「かもしれない」! でも鳩山とかんは信じるていうwww(おざわでもいいけどねwww) 飛行機のひゆに戻ると 飛行機を見たことがある。乗ったのも同じことだ。搭乗券も買ったことがあったかもしれない。というようなことです。 自己の主張として でも飛行機に似た新しい乗り物がある。本当の飛行機である。信仰の問題であり新しいオレ様は、 預言者として迫害されながらも、本当の飛行機に関して覚書を書き綴っている。こころしてよめ! と続けるwww なんだそれぇぇwww こういう論理展開は民を「し」に追いやる似非民主主義の論理です。「し」も「しあわせ」のうちというわけです。 おまえらにお灸をすえてやるという傲慢です。 ごろつきの批評=陰謀論です。 -------------------------- 結論 ちょとつにまけてる kusukusu

bragelonne
質問者

お礼

 《信じる》ということばを あんたも使っている。誰もが使っている。  なら それを定義してみなさい。  問いは これだけだ。  ★☆ 「わかるかわからないか、わからない」  ☆ とはっきり分かっていると知らなければいけない。わが心に非思考の庭が成ったかどうかで その現実性についての把握に薄い濃い 浅い深いがある。  ちょとつったあ だれだ。人間か?

noname#144995
noname#144995
回答No.8

いろいろと難しそうですが、無根拠について話そうと思います。 果たして本当に無根拠なのかという事です。人が何かをしたいという願望を持つとき、その願望は無根拠に起こるのかと言う点を究明したいと思います。 願望のもとには、逆に、△△には成りたくないという恐れや否定的な感覚があって、その反作用として○○をしたいとか、○○に成りたいとかがあるかもしれません。あるいは、気質と言うものが願望の根拠になっているかもしれませんし、。このままであると、信じるという行為が無根拠であるというところの説得的な根拠が乏しいのではないかと思うのです。 自分の夢見た世界が素晴らしいためにそれを信じるとか、あるいは実際に目の前にした出来事に心打たれてとか、その場合、何故それが素晴らしいのか、何故心を打たれたのか、といった根拠があるはずだと思います。いわば、『信じるのはなぜか』と言うところです。 話が多岐に及んでいますので、この点にフォーカスさせていただきましたが、如何でしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  荒らしに似た投稿の中に挟まれていて 見失っていました。  ★ 自分の夢見た世界が素晴らしいためにそれを信じるとか、  ☆ 《その夢見た世界》は 《素晴らしい》と分かるのなら そこで象(かたち)に表わされていますね その目指したいと思う何かは。なら 経験世界のものごとに属します。これについては 考えるのであって 信じるとは言いません。  ★ あるいは実際に目の前にした出来事に心打たれてとか、  ☆ 同じく表象し得ているものごとですから 信じるの対象にはなり得ません。  ★ その場合、何故それが素晴らしいのか、何故心を打たれたのか、といった根拠があるはずだと思います。  ☆ もちろんありましょう。表象し得ているからには その表象を言葉に換えて 思考するはずです。思考の内容もしくは結果として 根拠となるものがあるはずです。  ★ いわば、『信じるのはなぜか』と言うところです。  ☆ そういう角度から見て行くのもよいですかね。《ただ信じたい》に行き着くかも分かりませんけれど。  ★ 話が多岐に及んでいますので、この点にフォーカスさせていただきましたが、如何でしょうか。  ☆ ここまでは以上のようにまだ説得されませんでした。さらにどうぞ ご投稿をつづけてくださいませ。

noname#144675
noname#144675
回答No.7

うあ やっパリ反論できないんだwww 「いや なにをいわれても 俺様の思っている『信じる』とは違う」 というコメントしか逃げ道がないというのは、悲しいことですね。 愛のある人・徳のある人はいるもので、その人を信じるとはいえる。 さらに言葉が使われることで独自のダイナミズムが生まれるのであって 質問者様の想像と言語の現実というのは、2つの異なるものです。 あなたは、人と違って、信の対象を実感できないというだけのことです。 ほかの人からの批判もありますが 質問者様の主張=「愛・徳は、考えるもので、非経験のものを信じるなんて錯乱である」というのは、理にかなっていませんよ。信とは人と言葉をつなごうとするコミュニケーション行為です。 一番の問題は、「質問者様に あい も徳もない」ということだけで ほかの人はちゃんとわかっています。 愛という概念がわからないから、 それをみてすぐ「愛憎」に書き換えたがる人には、理解しがたいかもしれませんがねwww 愛と愛憎はちがいます。 チョコパフェに自分でゴキブリを入れてから、「パフェとは食べられないものであるといっているようなものです。 愛が「チョコパフェ」でゴキブリが「憎」 こんだけいっても小僧にはわからないんだろうけど・・・ あなたには、神も徳も愛もないので、同じようなものと思わざるえをえず、 さらに決め付けで愛と徳は神から来ていると思い込み、すべてが存在しないものだと自分に言い聞かせているだけです。 「愛の人」といったばあい、愛はその人の中にあります。 「徳の人」といった場合もそうですが、どちらも、その振る舞いに内に秘める力がみなぎっているものです。 そういう人にめぐり合ったときのあなたの行動が手に取るようにわかります。 カップルを見たら「嫉妬」・えらひひとがきたら、「たいしたことない」と逃げ腰になるwww 勇気も何もない人www 愛は絵に描いたもちだwwwと 叫ぶあなたの姿は不憫な姿です・・・ とりあえずはじめて見なさい。「今よりはずれ」という状態は、ないはずです。 逃げてばかりいないで 悔しければみんなが納得する反論をして見なさい。 「あなたの人生のなかで具体的に」愛憎ではない愛=憎しみとはかけ離れたところの愛 欲求不満の補償としての「合理化」ではない 行動としての愛があったというのでしょうか? 愛がなかったので、「あい」について妄想してたとしか考えられないので聞いています。

bragelonne
質問者

お礼

 多少とも目を見張る愛の行為が 人間の成すところとして かなった場合がありましょう。  人間に分かったなら その内容は人間の範囲を出ません。    そう言った上で言うのですが 愛は時として実現することがあります。   憎むという行為においてさえ わが心がやわらがしめられたという経験はあり得ます。その行為が 自分のものであれ相手のものであれ 第三者の行為であれ。  それが 《考える》を超えた《信じる》の世界であたえられる経験です。  しかも それはつねに まぼろしではないかという――反面における――きよらかなおそれが 《信じる》にはあります。  多少とも目を見張る愛の行為では なかなかそこまでのまぼろしは見られないでしょう。もうそれでじゅうぶんだと安心し納得が行ってしまうのでしょうか。  そうでなければ   ★ ~~~  愛は絵に描いたもちだwwwと  叫ぶあなたの姿は不憫な姿です・・・  ~~~~~   ☆ という高ぶりの声は出て来ないでしょう。  あなたには分からないあたらしい世界が 人間にはあるのですよ。

noname#144995
noname#144995
回答No.6

何かを目指して歩いているということ、ではないでしょうか。 1.信じているから考えるということもあるのではないか。   2.反合理性を人間の境地で引き受け筒と言う部分は思考ではないのではないだろうか。そう決めたという自分がいることから、判断が近いかもしれないが、決心と言うとずいぶん大仰な気がします。 3.信じることは賭けだろうか?信じることは100%の勝利に似ている。しかも無料でできる。喩えば世界最速を目指す男がいたとします。彼は信じているはずです。世界最速になるのだと。でも実際は世界で100番目くらいに終わったとしましょう。彼の信じるは破れたことになります。自分より速い奴がたくさんいたという事実に破れるのです。一方で、何かを目指して歩いているということの何かが、信じるに値することだったとしましょう。それが何であるかを言い切るのは難しいですが、心に定めた目標があるとします。喩えば、人はどの人も老いたり病んだり、あるいは他の原因で死にますが、死に際にあってもしあわせでありつづけた人があるとしましょう。彼は何に勝利したのでしょうか。人生に勝利したといえるのだと私は思います。終わらない旅が薦められるのではありません。求めは応じによって必ず終わるので、歩みは到達によって終わるので、薦められるのだと私は思います。 4.これは質問者のもつ信じるのイメージであると思います。人によっては他のイメージを持つ人もいるでしょう。私の印象では、それは確かなもの、です。 5.信じるということは無根拠ではないと思います。そうしたい、という動機があるはずとおもいます。目的地のある人は、その目的地に行きたい、と思ったのでしょうし、○○したい、という気持ちが根拠にあるはずです。それが○○の部分が普遍的であればあるほど、その歩みが確かになってくるのではないでしょうか。 6.かみという言葉は、なんにでも置き換えられるジョーカーのようなカードに似ていると思います。ここではかみを島と言う言葉に置き換えたとします。海は広いですから、遠くにある陸地は見えません。しかし、漂流物や鳥などを観察して、人は遠くに、自分の居る場所以外にも陸地があることを察知します。いわば神からの手紙を得て、かみを目指そうと思えるわけです。その手紙が啓示なのか、伝道なのか、詩なのか、それとも自分の望みなのか、いろいろ置き換えられると思います。それを読んで、この世に神はあるはずだと思った人のうち、さらに神を目指したいと思った人が、かみを目指すのだと思います。  私の場合は、自分が相望んでいるから、目指すのだということになります。いわば自分からの手紙があるということになります。内的な広がりを自覚して(あるいは想定して)、ということになります。あるひとからみればただの想像に過ぎないと見ることもできるでしょうが、人によってはそれは理想だと見る人もあるでしょう。空想だと思われることもできるでしょう。ただ、自分が相歩きたいと思ったら、そのときに信じるは始まっているのだと思います。 7.人の内面に関わることなので、その自由が自他共に認められているのではないかと思います。 8.そうかもしれません。 9.どのような形で何を受け取るかは自由であると思います。そのような人々があるというだけで輩と呼んでよいのでしょうか。 10.私は、究極は形になって現れると考えています。思考にも究極があって、成らない間は思考できないかもしれないが、成ったときには究極の思考と言ってよいと思います。チャンピオンが、自らの記録を更新するようなものです。 11.そんなことはない。そういった教えを信じて実践している人も沢山いる。しかもそれによって何かが閉ざされるということもないと思う。 12そうかもしれないが、ただ素直に聞いて実践して成功する人もいる。それが究極であるかないかはさておいて。 13.こういう結論にたどり着くことがよくわかりません。 14.誰によっても制限されえないのが信じるということであり、それは個人とか組織とかを超えたものであると思います。 15.弱いから関係を持つというわけではなく、関係を持つものだから、強いとか弱いとかが後付で出てくるのではないかとも思う。強弱は関係を持つということの本質には当たらないと思います。 16.いろんな仕事があるし、冠婚葬祭だって広く認められています。他の人の事はさておいて、自分の歩みに精励するのが筋ではないでしょうか。 信じるということは素晴らしいことだと思います。しかしだまされるようでは道は遠い。自分自身を信じて道を歩くべきだと私は思っています。それが抽象的なのか、具象であるのか、そういうことは事の本質ではないでしょう。 質問者が迷っているのは、かみがあるかどうかわからないから迷っているのだと思いました。しかし目標とするものが自身の内奥から涌出されたものならば、あるいは身近な友人などから示されたことならば、それを信じて歩いてみても良いのではないかと思えます。信じるということは勇気がいることだと思います。ましで自分自身を信じるということは、本当に勇気のいることだと思うのです。究極の存在、かみなどを想定して歩くのは比較的まだ楽だと思います。しかし現実、掛け値なしの自分自身によって歩くということは難しいのだと思います。ましてそれによって究極を目指そうというのは途方もない話のようにも思われます。だけれどそれが、○○であるならば信じられる、その○○が大事なのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ひかりなみさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  項目ごとにお応えしていまいります。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  ★ 1.信じているから考えるということもあるのではないか。  ☆ それはたぶん《信じる》を始めたあとのことではないかと考えます。それは とうぜんです。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  ★ 2.反合理性を人間の境地で引き受けつつと言う部分は思考ではないのではないだろうか。そう決めたという自分がいることから、判断が近いかもしれないが、決心と言うとずいぶん大仰な気がします。  ☆ すべては 思考しその結果――選択肢があればさらに取捨選択して――判断をくだします。反合理性については 合理性に反していると認識したあと それが現実に――無効のうちにでも――おこなわれていたとすれば その限りで わが境地もしくは人格のあり方としていちおう引き受ける。のだと思います。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  ★ 喩えば世界最速を目指す男がいたとします。彼は信じているはずです。世界最速になるのだと。  ☆ おそらくそういうふうに《信じる》を使うなら それは 走るという経験的なことがらについてはその目標を目指し達成するのだという心つもりを強く持つと自分に言い聞かせていることです。その強調のために《信じる》を当てている。  ただ どんな経験的なことがらに向き合うというときにも 人間には非経験のナゾが無関係になっているとは言えない。言いかえると わが心にはそのナゾの何ものかを受け容れたという非思考の庭が成っている。ですから 一方で走るという経験事象と他方でそれをめぐるいわば《無根拠の庭の景色》なる非経験とのかかわりとが つねに起きている。とは考えます。  無根拠にもとづきおのれの文体を その非思考ゆえに発進させるという側面も 人間にはあるはずです。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  ★ 4.これは質問者のもつ信じるのイメージであると思います。人によっては他のイメージを持つ人もいるでしょう。私の印象では、それは確かなもの、です。  ☆ 《他のイメージ》があり得ましょうが 《確かなもの》というのは おそらく語弊があるのではないでしょうか。なぜなら 信仰は非思考ゆえに《確かなものではないゆえに 確かなものとして与えられたと分かって来る》のだと思いますから。  でも それでも人によって イメージも分かれているかも知れませんし そのあり方も ひょっとして 違うかも分かりません。  ★ 5.信じるということは無根拠ではないと思います。そうしたい、という動機があるはずとおもいます。  ☆ なぜ《そうしたい》のか? それは《無根拠》ゆえに起きるのではありませんか? 動機はそれが持たれたなら それとしてはっきりしているはずですが。  ★ 6. 私の場合は、自分が相望んでいるから、目指すのだということになります。・・・ただ、自分が相歩きたいと思ったら、そのときに信じるは始まっているのだと思います。  ☆ このことのわたしの受け取りとしては その意志の始まりやその動きについて煮詰めて捉えようとするなら それは 無根拠だったと思われませんか? になります。  そのあと 世界のあらゆることが 神からの手紙でありうるという見方が得られるのだと。  7&8について同じ見解と受け取ります。  9&10は 非経験にかかわる非思考としての信仰およびそこからの観想と そのほかには それが言葉にして表わされたからと言ってそれをオシエとするなら それはすでに《信じる》対象ではなくなっている。ということを言おうとしているものです。その区別です。  言いかえると オシエは 信じるの対象ではなく 考えるものであるのだと。往々にして・というよりはつねに 組織宗教になればこのオシエが 信じなければならないことがらになってしまう。という批判をしています。  ★ 11.そんなことはない。そういった教えを信じて実践している人も沢山いる。しかもそれによって何かが閉ざされるということもないと思う。  ☆ この現象について 批判しています。《教えを信じる》ということは あり得ません。言葉として矛盾しています。《強く気持ちを持つ》といった強調でこの《信じる》を使っているわけではないとしたらですし この場合には強調としての使い方をつつしむべきです。《信じる》自由が オシエを思いの中に持てという強要によって侵されます。これは ただの政治行為です。あしき政治行為です。社会力学上の行為だという意味です。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  ★ 13.こういう結論にたどり着くことがよくわかりません。  ☆ 信仰の徒が集団を成すのは 極端に悪くいえば 撞球が 社会力学上の力に撞かれて右往左往するすがたです。つまりその信仰は信仰ではないと結論づけられましょう。信じていないからです。ただ考えて行動しているだけだからです。なぜなら  ★ 14.誰によっても制限されえないのが信じるということであり、それは個人とか組織とかを超えたものであると思います。  ☆ ということからです。  ★ 15.・・・〔心の〕強弱は関係を持つということの本質には当たらないと思います。  ☆ ならばなおさら 群れることはないと考えます。信仰の徒に宗教組織は要らないと。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。  ★ 16.いろんな仕事があるし、冠婚葬祭だって広く認められています。他の人の事はさておいて、自分の歩みに精励するのが筋ではないでしょうか。  ☆ 冠婚葬祭が 信じるとはいっさいかかわりがないのであれば それはふつうの職業であり事業です。葬祭の側面で問題は起こるでしょうね。したがってこの葬祭の行事も おのおのが自由に自主的におこなうか それとも見えざる教会(宗教とはいっさい関係のないエクレシア)としての自治体が公共の仕事として信仰の種類に関係なくおこなえばよいと考えます。  以上のようにお応えします。どうでしょうか?

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.5

キリスト教のような宗教において信じるという ことは 「存在の絶対的肯定」 である、と定義できるのではないでしょうか。 理性で考えれば、あのような宗教は矛盾だらけです。 しかし、それでも肯定するのです。 しかも、その肯定は絶対的です。 絶対的ということは、相対的でない、という ことであり例外などは認められません。 人間の脳には、二つの側面があります。 一つは、情を司る面であり、もう一つは理を 司る面です。 信じる、ということは情の面の問題です。 理とは次元を異にするのです。 従って、ここでは理は、後付であり、営業の道具に過ぎません。 理論による矛盾追及も意味を持ちません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まだ満足しません。  ★ 「存在の絶対的肯定」  ☆ というひとつの側面での説明は うなづくところがありますが おそらくそれは結果として伴なわれるひとつの側面であるのではないでしょうか?  つまりは 《信じた》結果として そのような存在と知性および情感のあり方が帰結されるのだと。  なぜなら そのような絶対的肯定は 《肯定する》というのも知性による思考および判断としての経験行為ですし 《絶対的である》ことは 《絶対》そのものではないと初めから分かっていると思われるからです。どうでしょう?  つまりは 《信じる》とはどういう行為か? になりましょう。  また ある程度は趣旨説明に書いたと思うのですが  ★ キリスト教のような宗教  ☆ この宗教というのが やっかいです。そこには オシエがあります。オシエは言葉で表わされています。つまりその内容は 経験合理性にもとづいて表現されたもので あくまで《考える》の対象です。《信じる》とは何のかかわりもありません。考えるものを信じたら それはただの思い込みでしかありません。あるいは 精神の錯乱です。  すなわちそのようなオシエをめぐるところのご考察には ついて行けません。  ★ ~~~~~  理性で考えれば、あのような宗教は矛盾だらけです。  しかし、それでも肯定するのです。  しかも、その肯定は絶対的です。  ~~~~~~~  ☆ この場合の《肯定する》というのも けっきょく《理性》で考え判断しているということです。経験合理性から見て《矛盾だらけ》のものをも《肯定する》とはどういうことでしょう? それも《絶対的に》というのは?    これは 《信じる》の一般性を持った定義ではありませんね。キリスト教批判としてなら まだしもです。  ★ 信じる、ということは情の面の問題です。  ☆ これも納得が行きません。反対します。《情》は 経験事象です。感情ないし情感として知覚したことがら これについてもその知覚を認識に換えて人はやはり《考える》のです。《信じる》は 《考える》ことではありません。考えることで何らかの判断が得られたなら それをわざわざ《信じる》ことはありません。  言葉は 不思議なもので 誰々さんは そんな犯罪を犯すような人ではありません。わたしは信じています。などというふうに《信じる》を使ったりしますが これらはあくまで強めようとするための方便です。確実性を訴えようとしているだけの使い方です。つまりそう考えているしまたそう感じていると言っているだけです。  ですから 《信じる》は この経験世界にあってよほど特別のことが想定された上で その何ものかについてそのように無根拠であっても受け容れる こういった行為であるように考えます。いかがでしょう?  つまりは 理性とも感性とも次元を異にした場が想定されているようなのです。

noname#144675
noname#144675
回答No.3

質問者様に  徳と愛の経験がないとお察しします。 信じるというのはそういうニトにも、 「愛と徳」という希望を与えることが出来るのです。 ほら 愛と徳は経験だろ! とふざけるのは自由ですが、領収書中毒の貴方には、その経験がないということを見過ごしているようです。 飛行機にのったことのない人に飛行機の説明を「言葉を通じて」おこなっても意味がありません。 経験したことのない人にその経験を説明しろといわれれば、 話者と聞き手の立場が違うというのは、普通です。 教えてもらっているのだからまじめに考えなさい。 愛と徳は経験ではないが存在している。 日常生活が哲学であるというのなら「信じるということが日常」というのも受け入れるべきである といえます。

bragelonne
質問者

お礼

 回答者様に  ★ 愛と徳は経験ではないが存在している。  ☆ それを 示してください。そしてその前にまづは 次を定義してください。  ★ 日常生活が哲学であるというのなら「信じるということが日常」というのも受け入れるべきであるといえます。  ☆ その《信じる》とは どういうコトか? 分からんものを受け容れるも受け容れないもないでしょう。  いいかね。  ★ 飛行機にのったことのない人  ☆ でもそれが空を飛んでいるのを見たことはあるんだ。では《信じる》とは? そして《愛》とは?  ★ 徳  ☆ は大したことはありません。せいぜいが 宗教の思い込みによる自己満足ですから。  ○ 領収証  ☆ は経験事象であり それを切るのも経験行為です。その相手は 非経験なのです。ナゾです。そこのところをじっくりと思い直してみてください。何かが得られましょう。  * 《愛》は 愛憎として正負の中身を持つ経験行為であり またしかもそれらを超えた非経験のナゾの愛もあり得ましょう。  しっかりと考えてみるとよいでしょう。

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     (α) 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?  言いかえると――同じような内容ですが――  (β) 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないか?  (δ) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないか?    (ε) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の 自由にとっての 自殺行為ではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  (ζ)  宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為に片向きがちであるゆえ その自由は認められないのではないか?  (η) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為となるのでは?  (θ) 聖典と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   (ι) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?  (κ) 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきでは?

  • 組織宗教を 弾劾する。

     たたき台を述べて 表題についてなお問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  すなわち 《信じる心 つまり心に神を受け容れている》に《考えるオシエ つまりオシエを考え実行する》を先行させることは 《信仰》ではなくなる。信仰としての意志自由ではなくなる。つまり宗教組織は 《信仰》という看板を取りはづしてから 宗教と名乗らなければならない。  そうしてこのおそれは そのような可能性がつねにあるという意味では 宗教組織そのものの持つ欠陥である。  よって 組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。  信仰を取り除いて 宗教をかかげることは ありえず 出来ないことだと考えられるからには。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に《非思考の庭》が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。  それは われわれのものでさえある。  けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。  そしてそこまでである。信仰をめぐる《超現実(想像の世界また想像物としての神》)》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。ほんとうには 到り得ない。    ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とはたしかに 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  そしてこのあと     ○ 《超現実への想像》が 《単なる想像の産物としての神( Y )》をいだくか それとも《非経験の場 としてのナゾなる神( X )》を無根拠として心に受け容れるかに分かれると思われる。  想像物としての神( Y )は けっきょく《考える》の対象である。そして一般に《オシエ》となっている。オシエが神としていだかれることになる。  それでも そのオシエをいだく信念も 《個人にとっての・わがたましいの》問題であるかも知れない。  ただし 信仰は 《思考に非ず》にて 《オシエや人間としての教祖そしてさらには教団》をむろん超えている。その意味でのたましいの問題である。思考や観念の神と分けて 霊なる神である。霊とは 非合理である。思考に非ずというからには。    《非思考の庭》にあってワタシは 人は人をころさないものだなぁという直感(ないし直観)を得る。そこから誰かが 《汝 ころすなかれ》というオシエをこしらえる。けれどもこのオシエは 信仰内容の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。オシエは 非思考に先行していない。  問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。この明けがあれば どの神・どんな形態の信仰に対しても わが心は開かれている。閉じられていない。《信じる》は 人の心的現象として 何ものにも先行するところのものゆえである。  無思慮とも言うべき非思考の庭が・そして次に感性(直感)が 理性に先行している。  オシエは 混沌とした信仰内容に先行しない。まして組織ないし集団が 個人に先行するものではない。(それはただ 無効の行為として 権限関係などによってたまゆらの有力となるのみである)。  組織宗教は 自己解体を前提として みづからをへりくだらなければならない。  オシエよさようならと言わなければならない。  したがって     ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。    と言えたとしても 問題は実践としては すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》という組織宗教じたいについての批判が先である。  あとは ふつう一般の人間論ないし存在論が来ると思われる。  (非思考なる信仰が 思考に先行するという命題を 人間の内面についてあるいは社会的側面に沿って問い求めておかねばならない)。  (社会政策といった側面は 社会哲学のさらに応用部門であるように思われる)。    個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  信仰にかんする自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物だからである。  つまり 非思考が思考に先行するという命題が 有効であるなら そういう結論になる。  仮りに信仰をも批判する人がいて      ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  というくだりを 次のように言いかえたとしよう。      ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  まづは 幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? このように反論する。  つまり想像物としての神( Y )も それとして 有益な場合がある。特には 小説などの虚構によって人間の真実を表現しようとする芸術の場合である。  つぎにもし《非思考の庭に無根拠にていだいた神( X )》にもとづく《信仰は 幻想的幸福》でしかないとした場合。  この場合 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。  すなわち 互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ その信仰なる主観がたとえ幻想であったとしても 話し合いをつうじて思考および感性としての生活が 社会の現実に合ったものであれば 問題ない。  信仰は 教義化をせずその中身は わづかにヒラメキとして持たれることがらまでである。  そのヒラメキから得た内容を言葉にし思考の問題としてもし自己表現するとすれば これを他人に押しつけない。語り合うまでである。  言いかえると 信仰の無において生きている人びとも その思考内容つまり主観を他人につたえるということまではおこなうというのと まったく同じことである。  そこで互いに心から同意する思考内容があれば みづからの意志で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。開かれている。その《幻想的幸福》は 練られて行くはずである。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく そのオシエが信仰にとって信仰なる蝉の抜け殻のようなものであり 人びとの主観の自己表現つまり意志伝達にとって オシエ〔の固持〕が 自分のあるいは他者の自由意志を侵害する傾向に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

  • 宗教は 百害あって一利なし。

     (1) 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象である。  (2) そのオシエが もし《信じる》べきものであると言うのなら それは 精神錯乱に落ち入ることを意味する。  (3) オシエは 命題(人間の思考し判断したもの)としてあるからには 《考える》ものであって そのような思考ないし理性の問題であるものを どうして信じる(つまり 神として受け容れる)ことが出来ようか。  (4) 《信じる》と《考える》とを区別するべきである。   ○ オシエは 信じるものではない ~~~~~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (5) 《信じる》とは 神をわが心に受け容れることである。神は 非経験の場だから 《考える》ことも認識することも出来ない。わづかに信仰の何たるかを説明するために ヒラメキから得た知識を理論として形成するとき この説明理論は 神を知るための補助線となる。  (6) この補助線たる説明書きが オシエと見なされ得る。《神は愛である》なり《至高の善である》なりの取扱説明書を オシエとして さらにはこの思考内容ないし概念を神として 信じよと言うのが 宗教である。  (7) この宗教は 信仰としての蝉の 抜け殻である。百害あって一利なし。  これを問います。出来れば 確定させたいと考えます。

  • 思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが

    思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが 一般に 亜流の思想を追い求めているからではないか?  ゴロツキ等は 経験合理性にもとづいてものごとの認識や判断をみちびくことをしないその状態を言います。  亜流の思想というのは そのままでもありますが 特には クリスチアニズムという宗教となった思潮 あるいは そもそもブディズムは無神論としての信仰であるはずなのにこれをああたらこうたらいじくりまわしたその結果としての思潮を言います。  前者は 非思考の場としての個人の信仰が 教義を信じるという矛盾をかかえた組織宗教となった場合であり あるいは単に道徳規範としてしまいこれを抱き続けるということに変身した場合を言います。教義は 思考するものであり 信じるものではありません。倫理規範も考えるものであり 信じるものではなく その実践ということもそれだけでは 信仰そのものとは関係ありません。(ほかの宗教でも 道徳を説きその実践を奨励します)。  後者のブディズムについては ひとつだけその亜流の特徴を挙げれば。さとりが いま・ここなるわたしを離れたところにあると思っていることです。このへだたり・この時間差が 亜流であり チンピラの振る舞いと何ら変わらないと見なされることになります。少しづつだんだんさとりに近づくというのなら ゴロツキの成仏と変わらないということになるからです。  ご見解ご批判をお寄せください。

  • キリストは勝手に人間となり 磔に遭って死んだのだ。

     =( a )とします。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( f ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( g ) 思考の対象である教義を その教祖や組織の長への崇拝とともに 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( h ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( i ) 神の名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( j ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?  

  • キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に成った。

     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( b-1 ) 原罪をあがなってやったなどと言うはずがない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。  ( f ) つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( g ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( h ) 思考の対象である教義を 《非思考としての 信じる》と言ったり その教祖や組織の長への崇拝のようなかたちにおいて やはり《信じよ》と言いがちであったりして 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( i ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( j ) 神はその名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( k ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?