人間の信じる行為とは?哲学的な考察について

このQ&Aのポイント
  • 人間の信じる行為は思考に非ず、無根拠を受け容れる賭けのような行動であり、経験世界を超えた非経験的なナゾに向かっていると言える。
  • 信じるとは良心・信教の自由であり、組織宗教や教義によって左右されることはなく、内面的なものである。
  • 宗教団体は自主的に解散するべきであり、強制的な信仰の強要は個人の信仰の自殺行為であり違法である。
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《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

 哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。

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noname#144995
noname#144995
回答No.19

実際には、信じるということを盗むこともできなければ、侵害することもできないと思います。それほど内面的であるので、誰も手出しができないといっても良いかもしれません。事実、ブラジュロンさんの信仰は誰かに阻害されたでしょうか?されていないはずです。豊臣の時代ならまだしも、ブラジュロンさんの信教の自由は既に保障されています。何某の宗教組織の内部事情は知らないですが、そこでも同じであると思います。そのような内面的な事柄について、誰の手が届きうるのでしょうか。 おそらくブラジュロンさんが言いたいのはこうではないかと思います。 画一的な信仰ではなく、個性的な信仰を人はもつべきだ。と。人はそれぞれ異なるのであるから、それぞれにとって最高に相応しい信仰のスタイルないし内実があるはずだし、それを獲得できるはずだ。そうであるのだから、人々の信仰のスタイルもその個的な信仰へと一新されて然るべきではないのかと。その方がすばらしい未来が待っていると。 そのようなビジョンを持つことも確かに可能ですし、それに共感する人もいると思います。しかしそれ以上に、人々は他のビジョンを持っていて、それぞれがよしとする方向に動いて行くものであると思います。結局大多数の画一的な信仰に傾倒するのも一つの選択であり、それをチョイスすることで何らかの安心や社会基盤を得ている人々もいるわけです。そして、それらを権威付けているのもまたそれを信仰している人々自身です。 個性が大事なのは分かりますが、それは孤立とは異なるものであり、野原に様々な種類の花の咲くように、世間には様々な個性があって然るべきだし、実際にもそうであるでしょう。ブラジュロンさんは特異な方だとは思いますが、それでも、実際のところは珍しくはないでしょう。一つの花としてどこかに咲いていて、見る人だけが見る、そんなような花なのかもしれません。得体の知れない生命体というほどでは決してないですから、共感される人も少なくはないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 実際には、信じるということを盗むこともできなければ、侵害することもできないと思います。それほど内面的であるので、誰も手出しができないといっても良いかもしれません。事実、ブラジュロンさんの信仰は誰かに阻害されたでしょうか?されていないはずです。  ☆ これには 脱帽です。わたしが 舌足らずでした。  ひかりなみさん ご回答をありがとうございます。    精神は どれだけ海の表面の心理が波風を受けて騒ぎ立てようとも 海として何ともありません。それと同じように 内面における良心や信教の自由が他人によって侵されることは 金輪際あり得ません。  ですから 宗教組織に問題があるとしたらそれは 社会力学として自分の行動が左右されることです。  ただし それについても  ★ 結局大多数の画一的な信仰に傾倒するのも一つの選択であり、それをチョイスすることで何らかの安心や社会基盤を得ている人々もいるわけです。そして、それらを権威付けているのもまたそれを信仰している人々自身です。  ☆ という分析を示しておられます。そうですね。それが 現実である 現実であるなら 哲学もそのとおりだと認めなくてはなりません。  で それと同時に これこれのように別様に考えることも出来ると示すことが出来る程度だと思います。  それが 《信じる》の定義であり 信仰の理論だと考えます。  ということは 趣旨説明に述べたたたき台の内容に ひととおり賛同していただいたということでしょうか?  つまり第一段階での理論作業は すでに済んでいる。そのあとは 人それぞれであり 千差万別だと見なければなるまい。こういったご見解でしょうか?  じっさいわたしは 今としては 第二段階での具体的な現場の対処策については ずるいほど今は何もしようとはしていないわけですから すべておっしゃったことは受け容れざるを得ません。  もっと言えば たとえば仏教なら仏教について その《教義》の内容を批判すべきところは批判して来ておりますので そういう方面からの接近の仕方を 第二段階の作業と いまは しています。現場にまではいま少し届かないその手前での作業です。  ですから ひとつの結論はこうです:  ☆☆(趣旨説明欄) 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。  ☆ というように 理論の外延として ひとこと触れておく。ここまでです。いまは これでよしとします。    くどいように再考します。  ☆☆(趣旨説明欄) 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  ☆ このような現実は 人びとがそれぞれともかくそれをよしと選択した結果である。その自由な自己表現を認めなさい。――こうおっしゃった。  おっしゃるとおりです。  と同時に それは 第二段階での現場での作業である。しかるに第一段階における理論作業としては 信じるの定義を 普遍的なかたちで明らかにしたい。  それによると 特には何が《信じる》ではないかが明らかになる。  1. その人物がいかに偉かろうと人は 経験的な存在であるので どれだけとうとびこそすれ 《信じる》ことはしない。  2. それと同じように理論や学問 あるいは愛や慈悲やの理念としての徳を成す事項 これらも経験事象であって それらを《信じる》とは言わない。  3. しかも紛らわしいのは 宗教のその教義である。オシエは いかに信仰の動態から得られたその成果であっても 一たん人間の言葉に書き換えられたならそれは 思想や哲学となっている。ゆえにこれも経験事物であって だから《考える》ものでこそあれ 《信じる》ものではあり得ない。  ☆ このような第一段階の作業を問題提起しています。  このことが明らかになれば じつは すでにその第二段階での作業も 案外おのづから定まって来るとは見ています。  そしてここで――このときに初めて―― あとは 人びとそれぞれの考察と判断によると言って行くことになると思います。    ちがいはありましょうか?

その他の回答 (51)

回答No.40

おはようございます、bragelonneさん。 ●(趣旨説明欄) 14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。 ● ★★ ドライアーストン ☆ 考えてみれば やや説教調である。読む人にやや――ほんの やや――威圧感を与える。んちゃう? ↑ そうなん???気にしない、気にしない(-_-)/~~~ピシー!ピシー! (    )に大変理不尽なお説教をされました 戦国無双2 http://www.youtube.com/watch?v=7D_cBjl36fo 「ロシア領」スイス・悪魔橋の記念碑  http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/hitano.html ヨーロッパのあちこちには悪魔の橋と呼ばれる橋があります。これらの橋はたいていローマ帝国の時代に建設された巨大な橋ですが、ローマ時代の進んだ土木技術をすっかり忘れてしまっておバカになった中世のヨーロッパ人たちは、「あんな凄い橋を人間が作れるはずはない」「きっと悪魔が作ったに違いない!」と、付いた名前が悪魔の橋という次第です。 スイスにも「悪魔の橋」と呼ばれる橋があって、スイス・アルプス地方のアルトドルフとアンデルマットの間でロイス川を跨ぐ橋がそれ。しかしたいして大きな橋でもないし、この橋が架けられたのはローマ時代ではなくて1230年のこと。じゃあなぜ悪魔の橋と呼ばれているかというと、「悪魔が架けた橋」という伝説が伝わっているから。 昔むかし、人々が「この渓谷に橋があったらな~」と話していたところ悪魔が現れ、「俺様が橋を架けてやる。その代わり最初に橋を渡った者の魂をいただくぞ!」と言い出した。そこで人々は悪魔と契約を結んで橋を架けてもらったが、誰かが最初に橋を渡って悪魔に魂を差し出す生け贄にならなければならない。しかしアタマの良い人がいて、「ヤギ飼いを最初に渡らせればいいんだよ」。かくしてヤギ飼いはヤギの群れを追いながら橋を渡り、人たちは「最初に橋を通ったのはヤギだから、ヤギの魂を差し上げますよ」と悪魔に言い、激怒した悪魔は橋をぶっ壊してやろうと向こうの山から巨大な岩を抱えてやって来たが、途中で遭遇したお婆さんが十字を切ったため、岩を捨てて逃げ出した・・・というお話。それなら最初から十字を切りながら橋を渡ればいいじゃん!と思いますが、伝説にケチをつけてもしょうがないですね。ふもとのゲッシェネンの町には悪魔が捨てた悪魔の岩というのが今もあるそうな。 さて、その悪魔橋のほとりにロシア領の小さな飛地がある。ひょっとして悪魔が橋を架けるとき「俺様に魂を、ついでにロシアに土地を」と条件を付けた・・・なんてはずはなく、飛び地ができたきっかけはナポレオンだ。 フランス革命に衝撃を受けたイギリス、オランダ、スペイン、オーストリア、プロイセン、ナポリなどの周辺諸国は、1793年に第一次対仏大同盟を組んで革命政権を潰そうとしたが、ナポレオンの反撃によって破れ、スイスはヘルベティア共和国というフランスの傀儡国家になってしまった。しかしナポレオンがエジプト遠征に熱中していた98年に、こんどはロシアも加わって第二次対仏大同盟を結成。アレクサンドル・スヴォーロフ元帥率いるロシア軍はオーストリア軍とともにスイスや北イタリアを舞台にフランス軍を攻撃したが、その主戦場の1つとなったのが悪魔橋。当初フランス軍を圧倒していたロシア軍は99年の悪魔橋の戦いではフランス軍に包囲され、雪のアルプスを越えて退却し多くの犠牲者を出したのだった。 それから1世紀経った1899年、ロシアはスヴォーロフ元帥の奮戦と700人のロシア兵戦死者を称えるために、悪魔橋のほとりに記念碑を建て、スイスは「中立政策を脅かさないこと」を条件に、記念碑の敷地をロシアに割譲した。スイスとしてはロシア軍などの奮戦のお陰で、最終的に傀儡国家を脱して永世中立国になることができたわけで、ささやかな恩返しということ。とはいっても、記念碑のまわりをロシア兵が警備しているわけではなく、名目的にロシアになっているというだけだが、記念碑の前にはスイスの国旗と並んでロシアの国旗も翻っている。 スヴォーロフ元帥は現代でもロシアの英雄と言われ、ソ連時代にもスターリンはあちこちにスヴォーロフの銅像を建てたそうだが、となると、当時は悪魔の橋のほとりにソ連国旗が翻っていた?さて、どうでしょう・・・。

bragelonne
質問者

お礼

 ねえさん おはようございます。ご回答をありがとうございます。  組織宗教は  ★ 結社の自由  ☆ があるから しゃあないってこと?  ★ そうなん???気にしない、気にしない(-_-)/~~~ピシー!ピシー!  ☆ ほな しゃああないな。――ちょっとうまくまとまりすぎているという感じが あとに引くということかなぁ。  ★ 「ロシア領」スイス・悪魔橋の記念碑   ▲ ~~~~  ヨーロッパのあちこちには悪魔の橋と呼ばれる橋があります。  これらの橋はたいていローマ帝国の時代に建設された巨大な橋ですが、ローマ時代の進んだ土木技術をすっかり忘れてしまっておバカになった中世のヨーロッパ人たちは、「あんな凄い橋を人間が作れるはずはない」「きっと悪魔が作ったに違いない!」と、付いた名前が悪魔の橋という次第です。  ~~~~~~  ☆ セゴビアだけではなかったと。ロシア領であることが問題ではないわけですね この事例は。  《橋がすばらしいとか そんなところによくも橋を架けたとかのおどろき》から 悪魔という呼び方は来ている。ってえことですね。  特に《信じる》ことと関係するものではない。つまり まちがった《信じる》のあり方を示している。  セゴビアの悪魔橋は 何でもないということの証明をしてくれたのですね。さすが検索クイーンさま。  ところで  ★ key は 時制  ☆ の意味がようわからない次第でございます。過去を現在時点から見て捉え直し その現在の自分の中に納め直している。とった意味ですか? そうだとして では《信じる心》と 特にどうつながるかは・・・?

bragelonne
質問者

補足

 ★ (    )に大変理不尽なお説教をされました 戦国無双2  ☆ そう言えば ここも分かりづらかったです。  ひとつ:《ねね軍》の存在について どういう意味があるのか。殺し合いはやめなさいということを ねねさんの強いところを見せて 説教する?  ひとつ:(   )に のその括弧のことがよく分かりません。  そう言えば 《理不尽な》とあるのも どういうわけなのだろう?  以上 よろしくご教示のほどをお願い致す次第でございます。

回答No.39

● ★ りあるた ☆ って何だろう。 うーんと、コレ → ☆「Realta=星」 http://www.astroarts.co.jp/news/2009/10/02planet_forming_disk/index-j.shtml 『PRIDE』 http://www.youtube.com/watch?v=1p4iGrJs2Zk&feature=related  

bragelonne
質問者

お礼

 ねえさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ▲ (星の成長をリアルタイムで観察) ~~~~~  【2009年10月2日 JPL News】  生まれたばかりの恒星のまわりの円盤が発する赤外線が、わずか1週間から数週間のうちに変化するようすが観測された。  恒星を囲む円盤の進化は一般に数百万年かかるが、その途中でも、円盤がダイナミックに変化することがあるようだ。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ へえーっ。    ☆☆(趣旨説明欄) 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  ★ 自由と孤独  ★★ ドライアーストン  ☆ 考えてみれば やや説教調である。読む人にやや――ほんの やや――威圧感を与える。んちゃう?

  • YaGhoogle
  • ベストアンサー率22% (5/22)
回答No.38

純粋な無心の行為の最中には、 信じている事情への自覚さえもが必要と見做されないでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですが ふつうに仕事や日常生活を送っているときにも 信仰としての自覚は それほど起こらないのではないでしょうか?  信仰について思い出すことがあるとしても だからどうするというふうには 自覚したりどうにかしたりすることはないのではないですか?    まぁ ほかの国の人びとは 十字を切ったり祈ったりするのかも知れませんが それは信仰の確認として特に何を示しているかと言って 何もないと考えます。  言いかえると 信仰は もしそのことについて思いめぐらしたり 実際真剣に祈ったりするというのは あくまで自分ひとりでいるときです。それに限ると言ってよいと思います。  お尋ねは  ★ 信じている事情への自覚  ☆ と言って《事情》という言い方をなさっていますが 要するに神を思い浮かべるということでしたら 《おのれの信仰の確認》といったことと同じだと見なして 上のように考えました。すなわち わたしの考えは  ★ 純粋な無心の行為の最中には、  ☆ でなくても つまり純粋でなく無心でないときでも 特に信仰を思い出すということもないように思います。胸や顔の前で十字を切る仕草をしたからと言って 信仰の確認をしたとも思いません。それは ただの気休めであり ひょっとしたら 周りの人たちへの見せしめであるかも知れません。  つまり ほかの人の前では 内面の信仰についてまづオモテに出さない。こう考えます。  ほかの方々の見解も聞けるといいのかも知れません。

回答No.37

セゴビアの水道橋を悪魔が建造した、という嘘を訝らなかった信心は、どうして向こうの民衆の間で揺るがなかったのですか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  これは りとるきっづさんには似合わないおことば。  迷信がつづいたというだけだと思うのですが。  箸墓は 昼はひとがつくり 夜は神がつくったという嘘が流れていますね。  でも いづれも それだけ驚きものだと言っているのかと思いますが。

回答No.36

こんばんは、bragelonneさん。 ●あなたは マリア型 それとも マルタ型? はい、T型です! (*^^*)>〝〝〝 T型って??? 「T」のジェスチャー=タ・イ・ム ま  りあ ま  るた りあるた+ま=リアルタイム データフロー 【トラフィック特性に基づいた実時間トラフィックの識別】 http://www.itrc.net/report/meet10/file/26b-anagawa.pdf 宿題:辞典シリーズ(F11)同じ「聞く」でも… http://www.osaka-c.ed.jp/kate/karicen-folder/workbook-for-pref/ej.htm be lost in ( ̄^ ̄)もしもし 先にある言葉、りとるきすえさんの<ねえさん>って、何ですの? この<ねえさん>が曲者 あとに《マルタとマリア》の話が出てきて読めばマルタとマリアは姉妹とか で、締めに「あなたは マリア型 それとも マルタ型?」ってか?<おい! 先におかれてある言葉に導かれるように「はい、わたしはマルタ型です」と 迂闊にも口走った日にはドボンです。あぶない、あぶない。 思考停止の罠ですよこれ。ホントにもう油断も隙もない。オニ-ィッ! ●マイルドなものから徐々にスパイシーな… ← |(><)|))))))) 激辛-ッ!!! ココロノウタ / LOST IN TIME http://www.youtube.com/watch?v=t9nZ32PJfbk

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  マルタもマリアも まじめな人たちですよ。どちらも。その点で違いはないと思います。  ★ りあるた  ☆ って何だろう。

回答No.35

人類が言語能力を獲得した後には、たとえ思考を停止させましても、 言語能力の獲得の前の時代の場合の様な直接的アクセスは、 殆ど為され得なくなったのではないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。――ご回答をありがとうございます。――  ちょっと的がずれているかも分かりませんが 《エポケー》というアクセスのようなおこないがあり得ます。  ▲ (ヰキぺ:エポケー) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC  エポケー(古典ギリシア語: ἐποχή epokhế)は、原義において「停止、中止、中断」を意味し、哲学においてこの語はいくつもの意味をもっている。  §1 懐疑主義  においては、エポケーは判断を留保することを意味する。もし真理が到達不可能なものだったり、到達しにくいものだったりするなら、判断を急ぎすぎるとかならず誤ることになるであろうからである。  §2 フッサールおよび現象学  においては、エポケーは世界の自然命題を「カッコに入れる」ことを意味する。すなわち世界の外的現実についての信念をカッコに入れるのである。  ただしこれは世界の実在を疑うという意味ではまったくない。世界の現象を起こるに任せ、純粋な現れとし、そこで現れているものの実在についてはもはや断言しないということである。  世界の中で生きられたものが意味している一切を捨象し、生きられたものをそのものとして研究するという点において、エポケーは意識の普遍的構造を考えるための第一歩なのである(フッサールによれば、エポケーの次の段階が「現象学的還元」である)。  §3 精神分析学  において、エポケーは現実に対するあらゆる判断を留保することを意味する。これによって治療者の幻想と無意識の世界をうまく航行できるようにするのである。  ~~~~~~~~~~  あるいは別様に考えるなら  ★ 言語能力の獲得の前の時代の場合の様な直接的アクセス  ☆ は 捨てて来たと言えるかも知れません。  アクセスに限らず 言語を用いる互いの交通方法を得たあとは その得る前の状態についてはその一切を棄てて来たということかも知れません。  未練も無いか それとも もう世界が――動物とヒトとの間の隔たりとして――違うようだとも見られるのではないでしょうか。

回答No.34

大前提の無謬性を信じて遣りませんと、虚構作品の鑑賞もが阻まれますね。 http://okwave.jp/qa/q6734792.html 是はちょっとした冗談です。

bragelonne
質問者

お礼

 ええ。  ★ 大前提の無謬性を信じて遣りませんと  ☆ この部分にも 《虚構》が含まれていますね。  つまり そういう《信じて遣る》ということ自体が虚構となっており そうして前提になっているようです。よね。

回答No.33

「《信じる》とは」という表現の副助詞「は」についての再考です。 こういうウェブページを見付けました。 http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%81%AF&dtype=0&dname=0na&stype=1&index=17552714511500&pagenum=11

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ○ 《信じる》ということ‐ハ・・・  ☆ だと思います。第一中心主題をみちびいているのだと。

noname#144995
noname#144995
回答No.32

ある人が何かを信じるときには、それが信じるに値するものだとこころに知っているから信じるのだと思いました。 こころに知っているとは、通常の思考という言葉が当てはまるものではありません。内実の知であり、ある意味で無根拠に知っている何某です。

bragelonne
質問者

お礼

 ひかりなみさん ご回答をありがとうございます。  ううーん。微妙である。とまづ思います。  全体として――わるく言うつもりはありませんが―― どうも信じたあとその行為に納得したときの・また あぁよかったと思うときの後づけであるように感じます。まだ論証しない前から このように推し測って言ってみます。  乳飲み子や幼児が母親を 思考や知識でなしに知っていて感じ分ける。という事例でもないですよね。  あるいは動物が本能で 餌を求めたり毒のあるものを避けたりするときの事例でもなく。  あと ヒラメキということがあって これは霊感と呼ばれる事態として 信じるということにつながっているとは思います。でもこれもげんみつには 《信じる》というその一瞬の行為の以前にも以後にも 或る程度一般に起きるとも見られます。  信じるというその瞬間のわたしがその何ものかを受け容れるという行為に ヒラメキはあるか? どうも別であるように思われるのですが。そして そのことを説明しがたいといまは思っているのですが。  ★ それが信じるに値するものだとこころに知っているから信じるのだと  ☆ 無意識ということばは精神分析のほうへ連れて行かれやすいので使いたくないのですが 要するに意識はしておらず認識もなくその何ものかを心に受け容れたというとき それは  ★ 内実の知であり、ある意味で無根拠に知っている何某です。  ☆ と言えるかと問うならば 言えるだろうと考えます。  仏性だとかあるいは神の霊がやどると言った場合 それは もともと自然本性においてそうであるということだと人びとは受け取っているはずです。そのような意味において  ★ こころに知っているとは、通常の思考という言葉が当てはまるものではありません。  ☆ という先験的な内実の知が当てはまるだろうと思います。  では その上であらためて 次のように問うて見るなら どうなのか?  ★ ある人が何かを信じる〔* というその一瞬の〕ときには、それが信じるに値するものだとこころに知っているから信じるの  ☆ か? つまりわたしの感触では その瞬間には そのような意識も認識もないのではないかという物言いです。しかも あとで そういうものかなぁと思うことがある。身と心にもともと聖霊がやどるとすれば そういうものだろうなぁと。  いやぁ 分かりません。そういうたとえば予感が走ってうっすらとあいまいな感覚として むしろ心に知っているゆえに その何ものかを受け容れるという信じる行為を持つ。のかも分かりません。    わたしの経験から行けば もっと分かりやすく言うと 《そのナゾの何ものかを心に受け容れるという信じる行為》は わたしの身と心の中でいつかどこかにおいてすでに行なわれていたのを あとで確認したというようなものでした。だから それは去らないのです。だから 非思考です。非思考の庭が わが心に成ったというような現実です。  そうですね。自分の経験のみを物指しとするのはいけません。がいまは このように捉えました。どうでしょう?

回答No.31

「初めに言葉有き」なる文言の意味の無謬性が認められていませんと、 此の質問への回答は酷く難しくなりますね。 オーケストラでのセッションが現代の言語論理に依存しているのか否か、 という点にも注目なさっておく価値がないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  むつかしいご見解ですね。あるいは 感情として言えば ややこしい見方ですね。視点がいくつもあって 互いに錯綜さえしているかも知れません。  ★ 「初めに言葉有き」なる文言の意味の無謬性が認められていませんと、 / 此の質問への回答は酷く難しくなりますね。  ☆ (1) 《初めにことばがあった》という聖書記者の記事は 大いにこの《信じる》という行為にかかわっていて けっきょくそれらは互いに側面こそ違っていても けっきょく同じことを指し示しているとさえ捉えられます。たしかに です。  (2) ただしその《文言の意味の無謬性》については それほどこだわらなくてもよいと考えます。単なる言葉による表現だと捉えてかまわないのではないでしょうか? もっともそのあとに続く文章(ことばは神とともにあった。・・・)と一体として 扱われなければならない性質の一文であることは はっきりしていると思います。  (3) ということは 《初めにあったという言葉》を前提していなくてもこの問いに答えられないことはないと思われることには この質問は けっきょく《何が〈信じる〉という行為ではないか?》 これを明らかにすることのほうに重心がある。とも捉えられるからです。  (4) ほんとうは《信じる》というコトではないのに 世間では やすやすと使われている。それは おかしいではないか。こんな物言いのために設問されたと言っても 間違いではないかも知れません。  (5) 言われれば確かにそのような物言いを提出できるのも ヨハネによる福音が冒頭に《ことば》のことを提起してくれているからであるかも知れません。  ★ オーケストラでのセッションが現代の言語論理に依存しているのか否か、 / という点にも注目なさっておく価値がないでしょうか?  ☆ むつかしい。  《セッションが》ですか? つまり《音楽が》ではなくという意味ですが。  しかも《現代の言語論理に依存しているのか否か》ですか。この場合の《言語論理》とは どういう中身を言うのでしょう?  言語じたいのことなのか? それとも 日本語なら日本語の論理をめぐる特徴を言うのか?   音楽と言語との関係や如何に? という問いでもないのですよね?  すみません。分かりません。乞うご説明を。

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     《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?  ( a ) おそらく信じる対象は 《非経験の場》だと考えられるが 信じる行為は この現実における経験行為である。  まづは こう考えますが きちんとした哲学としての定義を問い求めます。      *    宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのと言うことを聞きますが それはマチガイでしょう。  ( b ) 《おしえ》は あくまで経験思考の対象です。それは 《考える》です。  ( c ) 考え思っていることを つよく念じてその内容をつねに心がけるといったこと これも 《信じる》ではありません。それは 信念とか信条とかと言います。  あたまや感覚ですでに知覚し認識していることを《信じる》気遣いはあり得ません。  《心がけ》などをめぐる信念は それを《信じる》という言葉で表わすこともあるのは あくまで文学的表現ないし修辞学の問題でしょう。《強く思う》と言いたいところを 《信じる》と表わしてみた。こういうことでしょう。  ですから 信念や信条とそして《信じる(信仰)》とは 別です。  考え思うことは 経験合理性にもとづき何らかの根拠のあるものです。もしくは 根拠がそのいま科学的に問われているものごとです。  根拠が問われていること――因果関係や相互の作用関係などについてその根拠が問われ得るものごと――については たしかに一方で仮説を信じるというふうに表現したりしますが それも言葉のあやであるに過ぎず いっさい《信じる》とは別です。《考える》です。  言いかえると   ( d ) 無根拠――もしくは 根拠について分かるか分からないかが人間には分からないものごと・さらにあるいは 因果関係から自由な《非経験の場》―― これについて人は 《信じる》と言うのだと考えられます。  ( e ) この《信じる》は 包括概念であり そこに《信じない》をも含みます。この《信じない》と《狭義の信じる》とは 互いに同等でありその選択は 人にとって自由です。       *  さらに質問者の考えをたたき台にしてしるします。  1. 《信じる》は 思考に非ず つまり非思考という行為である。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その非合理性をも人間の境地において引き受けることさえありつつ――考えをすすめることである。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。  7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。  8. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  9. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばにして言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  10. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとして取り上げそのうえ教義や道徳規範として押し戴く場合がある。組織宗教である。  11. クリスチャンやブディスト――それが有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげる場合がある。これは 信仰ではありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  12. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》よりほかのことではない。  13. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合にも社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  14. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  15. 現行の憲法では 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰〔の姿勢〕を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自由への殺害行為であり 違法行為である。  16. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。それしかない。人びとのきづなしかない。  17. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は そのヒエラルキアにおいて信仰の自由を侵すならば 欺瞞である。

  • 信じるということについての質問がありました

    http://okwave.jp/qa/q6729443.html です。  哲学カテであるのに関らず、質問者は復た私をブロックされました。対象が不明なことを信ずるのは誰もできせん。  何か人がいっていることや書いてあることなどは、自分が正しいと思わなければ、正しいとは思えません。信じるのでなく確認して確信するだけです。  そうやってわたしも宗教といわれるものをここ40年以上勉強し精進してきました。10年ほど前、46年いた大学を66でやめてからはお陰で2時に起き、不束(ふつつか)ながら朝晩勤行しています。  仏教ではありませんが、対象として外にあるのではなく、全体(部分と全体ということの意味の全体ではなく)のなかにまったくぽっこり入っていられるという事でして。  そういう自分の原初的であることを努力しての精進です。だから他人のいうことでも、書いていることでもありません。  そして道具としての思考や観念、知的操作を脱け出て、一切の前提、自己や世界の存在もない無前提での行なんです。  哲学って無前提、普遍、永遠見つめます。私たちはそれをしています。そして私たちの組織は自分自身の問題・課題ですといい、方法だけは教えます。  一切の強制と影響はしません。自分の家で、せいぜい数人のグループでの行。それもそれ以外の付き合いや雑談はいけない。  ○私の質問:私をブロックしている質問はこういう宗教組織もあるべきではないといっているのでしょうか?   そして私たちを無知の盲目的信仰といっているのでしょうか?  《以下は私をブロックしている質問文から書き出しました。》  なお、私をブロックしているこの質問の認識の範囲での宗教や組織に対しての質問者さんの批判は私もそういう面もあると存じます。  でもどの宗教いろんなレベルや側面がありますから、質問者さんの断定される前提観念では非常に狭隘かと存じました。   宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。 【それは 思考に非ず つまり非思考という行為である】【思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること】【その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。】【そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと】【非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる】【一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である】【無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている】【言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである】【この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である】【キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない】【キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない】【せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる】【ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである】【結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である】【仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ】【すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である】

  • 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか

     (α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか?    (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか?  (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか?  (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは?  *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか?   *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?

  • 組織としての宗教は 違憲ではないか

     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?

     (α) 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?  言いかえると――同じような内容ですが――  (β) 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないか?  (δ) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないか?    (ε) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の 自由にとっての 自殺行為ではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  (ζ)  宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為に片向きがちであるゆえ その自由は認められないのではないか?  (η) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為となるのでは?  (θ) 聖典と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   (ι) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?  (κ) 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきでは?

  • 組織宗教を 弾劾する。

     たたき台を述べて 表題についてなお問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  すなわち 《信じる心 つまり心に神を受け容れている》に《考えるオシエ つまりオシエを考え実行する》を先行させることは 《信仰》ではなくなる。信仰としての意志自由ではなくなる。つまり宗教組織は 《信仰》という看板を取りはづしてから 宗教と名乗らなければならない。  そうしてこのおそれは そのような可能性がつねにあるという意味では 宗教組織そのものの持つ欠陥である。  よって 組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。  信仰を取り除いて 宗教をかかげることは ありえず 出来ないことだと考えられるからには。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に《非思考の庭》が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。  それは われわれのものでさえある。  けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。  そしてそこまでである。信仰をめぐる《超現実(想像の世界また想像物としての神》)》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。ほんとうには 到り得ない。    ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とはたしかに 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  そしてこのあと     ○ 《超現実への想像》が 《単なる想像の産物としての神( Y )》をいだくか それとも《非経験の場 としてのナゾなる神( X )》を無根拠として心に受け容れるかに分かれると思われる。  想像物としての神( Y )は けっきょく《考える》の対象である。そして一般に《オシエ》となっている。オシエが神としていだかれることになる。  それでも そのオシエをいだく信念も 《個人にとっての・わがたましいの》問題であるかも知れない。  ただし 信仰は 《思考に非ず》にて 《オシエや人間としての教祖そしてさらには教団》をむろん超えている。その意味でのたましいの問題である。思考や観念の神と分けて 霊なる神である。霊とは 非合理である。思考に非ずというからには。    《非思考の庭》にあってワタシは 人は人をころさないものだなぁという直感(ないし直観)を得る。そこから誰かが 《汝 ころすなかれ》というオシエをこしらえる。けれどもこのオシエは 信仰内容の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。オシエは 非思考に先行していない。  問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。この明けがあれば どの神・どんな形態の信仰に対しても わが心は開かれている。閉じられていない。《信じる》は 人の心的現象として 何ものにも先行するところのものゆえである。  無思慮とも言うべき非思考の庭が・そして次に感性(直感)が 理性に先行している。  オシエは 混沌とした信仰内容に先行しない。まして組織ないし集団が 個人に先行するものではない。(それはただ 無効の行為として 権限関係などによってたまゆらの有力となるのみである)。  組織宗教は 自己解体を前提として みづからをへりくだらなければならない。  オシエよさようならと言わなければならない。  したがって     ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。    と言えたとしても 問題は実践としては すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》という組織宗教じたいについての批判が先である。  あとは ふつう一般の人間論ないし存在論が来ると思われる。  (非思考なる信仰が 思考に先行するという命題を 人間の内面についてあるいは社会的側面に沿って問い求めておかねばならない)。  (社会政策といった側面は 社会哲学のさらに応用部門であるように思われる)。    個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  信仰にかんする自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物だからである。  つまり 非思考が思考に先行するという命題が 有効であるなら そういう結論になる。  仮りに信仰をも批判する人がいて      ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  というくだりを 次のように言いかえたとしよう。      ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  まづは 幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? このように反論する。  つまり想像物としての神( Y )も それとして 有益な場合がある。特には 小説などの虚構によって人間の真実を表現しようとする芸術の場合である。  つぎにもし《非思考の庭に無根拠にていだいた神( X )》にもとづく《信仰は 幻想的幸福》でしかないとした場合。  この場合 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。  すなわち 互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ その信仰なる主観がたとえ幻想であったとしても 話し合いをつうじて思考および感性としての生活が 社会の現実に合ったものであれば 問題ない。  信仰は 教義化をせずその中身は わづかにヒラメキとして持たれることがらまでである。  そのヒラメキから得た内容を言葉にし思考の問題としてもし自己表現するとすれば これを他人に押しつけない。語り合うまでである。  言いかえると 信仰の無において生きている人びとも その思考内容つまり主観を他人につたえるということまではおこなうというのと まったく同じことである。  そこで互いに心から同意する思考内容があれば みづからの意志で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。開かれている。その《幻想的幸福》は 練られて行くはずである。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく そのオシエが信仰にとって信仰なる蝉の抜け殻のようなものであり 人びとの主観の自己表現つまり意志伝達にとって オシエ〔の固持〕が 自分のあるいは他者の自由意志を侵害する傾向に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

  • 宗教は 百害あって一利なし。

     (1) 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象である。  (2) そのオシエが もし《信じる》べきものであると言うのなら それは 精神錯乱に落ち入ることを意味する。  (3) オシエは 命題(人間の思考し判断したもの)としてあるからには 《考える》ものであって そのような思考ないし理性の問題であるものを どうして信じる(つまり 神として受け容れる)ことが出来ようか。  (4) 《信じる》と《考える》とを区別するべきである。   ○ オシエは 信じるものではない ~~~~~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (5) 《信じる》とは 神をわが心に受け容れることである。神は 非経験の場だから 《考える》ことも認識することも出来ない。わづかに信仰の何たるかを説明するために ヒラメキから得た知識を理論として形成するとき この説明理論は 神を知るための補助線となる。  (6) この補助線たる説明書きが オシエと見なされ得る。《神は愛である》なり《至高の善である》なりの取扱説明書を オシエとして さらにはこの思考内容ないし概念を神として 信じよと言うのが 宗教である。  (7) この宗教は 信仰としての蝉の 抜け殻である。百害あって一利なし。  これを問います。出来れば 確定させたいと考えます。

  • 思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが

    思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが 一般に 亜流の思想を追い求めているからではないか?  ゴロツキ等は 経験合理性にもとづいてものごとの認識や判断をみちびくことをしないその状態を言います。  亜流の思想というのは そのままでもありますが 特には クリスチアニズムという宗教となった思潮 あるいは そもそもブディズムは無神論としての信仰であるはずなのにこれをああたらこうたらいじくりまわしたその結果としての思潮を言います。  前者は 非思考の場としての個人の信仰が 教義を信じるという矛盾をかかえた組織宗教となった場合であり あるいは単に道徳規範としてしまいこれを抱き続けるということに変身した場合を言います。教義は 思考するものであり 信じるものではありません。倫理規範も考えるものであり 信じるものではなく その実践ということもそれだけでは 信仰そのものとは関係ありません。(ほかの宗教でも 道徳を説きその実践を奨励します)。  後者のブディズムについては ひとつだけその亜流の特徴を挙げれば。さとりが いま・ここなるわたしを離れたところにあると思っていることです。このへだたり・この時間差が 亜流であり チンピラの振る舞いと何ら変わらないと見なされることになります。少しづつだんだんさとりに近づくというのなら ゴロツキの成仏と変わらないということになるからです。  ご見解ご批判をお寄せください。

  • キリストは勝手に人間となり 磔に遭って死んだのだ。

     =( a )とします。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( f ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( g ) 思考の対象である教義を その教祖や組織の長への崇拝とともに 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( h ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( i ) 神の名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( j ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?  

  • キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に成った。

     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( b-1 ) 原罪をあがなってやったなどと言うはずがない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。  ( f ) つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( g ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( h ) 思考の対象である教義を 《非思考としての 信じる》と言ったり その教祖や組織の長への崇拝のようなかたちにおいて やはり《信じよ》と言いがちであったりして 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( i ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( j ) 神はその名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( k ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?