人間の信じる行為とは?哲学的な考察について

このQ&Aのポイント
  • 人間の信じる行為は思考に非ず、無根拠を受け容れる賭けのような行動であり、経験世界を超えた非経験的なナゾに向かっていると言える。
  • 信じるとは良心・信教の自由であり、組織宗教や教義によって左右されることはなく、内面的なものである。
  • 宗教団体は自主的に解散するべきであり、強制的な信仰の強要は個人の信仰の自殺行為であり違法である。
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《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

 哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#144995
noname#144995
回答No.19

実際には、信じるということを盗むこともできなければ、侵害することもできないと思います。それほど内面的であるので、誰も手出しができないといっても良いかもしれません。事実、ブラジュロンさんの信仰は誰かに阻害されたでしょうか?されていないはずです。豊臣の時代ならまだしも、ブラジュロンさんの信教の自由は既に保障されています。何某の宗教組織の内部事情は知らないですが、そこでも同じであると思います。そのような内面的な事柄について、誰の手が届きうるのでしょうか。 おそらくブラジュロンさんが言いたいのはこうではないかと思います。 画一的な信仰ではなく、個性的な信仰を人はもつべきだ。と。人はそれぞれ異なるのであるから、それぞれにとって最高に相応しい信仰のスタイルないし内実があるはずだし、それを獲得できるはずだ。そうであるのだから、人々の信仰のスタイルもその個的な信仰へと一新されて然るべきではないのかと。その方がすばらしい未来が待っていると。 そのようなビジョンを持つことも確かに可能ですし、それに共感する人もいると思います。しかしそれ以上に、人々は他のビジョンを持っていて、それぞれがよしとする方向に動いて行くものであると思います。結局大多数の画一的な信仰に傾倒するのも一つの選択であり、それをチョイスすることで何らかの安心や社会基盤を得ている人々もいるわけです。そして、それらを権威付けているのもまたそれを信仰している人々自身です。 個性が大事なのは分かりますが、それは孤立とは異なるものであり、野原に様々な種類の花の咲くように、世間には様々な個性があって然るべきだし、実際にもそうであるでしょう。ブラジュロンさんは特異な方だとは思いますが、それでも、実際のところは珍しくはないでしょう。一つの花としてどこかに咲いていて、見る人だけが見る、そんなような花なのかもしれません。得体の知れない生命体というほどでは決してないですから、共感される人も少なくはないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 実際には、信じるということを盗むこともできなければ、侵害することもできないと思います。それほど内面的であるので、誰も手出しができないといっても良いかもしれません。事実、ブラジュロンさんの信仰は誰かに阻害されたでしょうか?されていないはずです。  ☆ これには 脱帽です。わたしが 舌足らずでした。  ひかりなみさん ご回答をありがとうございます。    精神は どれだけ海の表面の心理が波風を受けて騒ぎ立てようとも 海として何ともありません。それと同じように 内面における良心や信教の自由が他人によって侵されることは 金輪際あり得ません。  ですから 宗教組織に問題があるとしたらそれは 社会力学として自分の行動が左右されることです。  ただし それについても  ★ 結局大多数の画一的な信仰に傾倒するのも一つの選択であり、それをチョイスすることで何らかの安心や社会基盤を得ている人々もいるわけです。そして、それらを権威付けているのもまたそれを信仰している人々自身です。  ☆ という分析を示しておられます。そうですね。それが 現実である 現実であるなら 哲学もそのとおりだと認めなくてはなりません。  で それと同時に これこれのように別様に考えることも出来ると示すことが出来る程度だと思います。  それが 《信じる》の定義であり 信仰の理論だと考えます。  ということは 趣旨説明に述べたたたき台の内容に ひととおり賛同していただいたということでしょうか?  つまり第一段階での理論作業は すでに済んでいる。そのあとは 人それぞれであり 千差万別だと見なければなるまい。こういったご見解でしょうか?  じっさいわたしは 今としては 第二段階での具体的な現場の対処策については ずるいほど今は何もしようとはしていないわけですから すべておっしゃったことは受け容れざるを得ません。  もっと言えば たとえば仏教なら仏教について その《教義》の内容を批判すべきところは批判して来ておりますので そういう方面からの接近の仕方を 第二段階の作業と いまは しています。現場にまではいま少し届かないその手前での作業です。  ですから ひとつの結論はこうです:  ☆☆(趣旨説明欄) 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。  ☆ というように 理論の外延として ひとこと触れておく。ここまでです。いまは これでよしとします。    くどいように再考します。  ☆☆(趣旨説明欄) 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  ☆ このような現実は 人びとがそれぞれともかくそれをよしと選択した結果である。その自由な自己表現を認めなさい。――こうおっしゃった。  おっしゃるとおりです。  と同時に それは 第二段階での現場での作業である。しかるに第一段階における理論作業としては 信じるの定義を 普遍的なかたちで明らかにしたい。  それによると 特には何が《信じる》ではないかが明らかになる。  1. その人物がいかに偉かろうと人は 経験的な存在であるので どれだけとうとびこそすれ 《信じる》ことはしない。  2. それと同じように理論や学問 あるいは愛や慈悲やの理念としての徳を成す事項 これらも経験事象であって それらを《信じる》とは言わない。  3. しかも紛らわしいのは 宗教のその教義である。オシエは いかに信仰の動態から得られたその成果であっても 一たん人間の言葉に書き換えられたならそれは 思想や哲学となっている。ゆえにこれも経験事物であって だから《考える》ものでこそあれ 《信じる》ものではあり得ない。  ☆ このような第一段階の作業を問題提起しています。  このことが明らかになれば じつは すでにその第二段階での作業も 案外おのづから定まって来るとは見ています。  そしてここで――このときに初めて―― あとは 人びとそれぞれの考察と判断によると言って行くことになると思います。    ちがいはありましょうか?

その他の回答 (51)

回答No.30

信念に衝動的な行為を肯定させる効果が含まれていますね。 だから、良い意図で信念を貫いてほしいものですが、 こういう方の存在を考えますと…。 http://okwave.jp/qa/q5466279.html

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづその質問と趣旨説明を掲げます。  【Q:復讐に意味はあるのでしょうか。】 ~~~  復讐に意味はあるのでしょうか。  憎しみとは一体なんなのでしょうか。  どう捉えれば良いのか、どう解消すれば良いのか、黙って飲み込むしかないのか、それとも復讐してすっきりした方が良いのか。  別の形で昇華させるなどとはとても考えられません。  また社会的にも倫理として反しているという事は知識として知ってはいても、その意味までは分かっていない状況なので、どなたか分かりやすく解説して頂けるのであれば幸いです。  宜しくお願い致します。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 短いので あなたのご回答を掲げます。  ★★ (ANo.47 SakuraiMisato) 価値の欠如は有り得ますが、意味が無ければ言葉を存在させられません。  ☆ わたしの回答は 次です。:No.14&19&41  そうですね。わたしは 分からないと言っていますが 案外答えははっきりしているのです。  ほかの人のことについては 何を答えにしてよいかは分からない。と同時に 自分の人生にとってのこととしては 分かっている。  すなわち 復讐をするということを知らずに復讐という行為をおこなうといった行動のかたちは いわば人類が物ごころがついてからは なくなったと分かっていることが ひとつ。もうひとつには たとえば復讐を受けて命を絶たれた人がもう一度生き返るというのであれば 復讐をしてもよいのかも知れない。  あるいはたとえば 人は人の行為としてのあやまちを赦したり裁いたりすることはあっても 人を赦すあるいは赦さないといったことは 出来ない。能力によって出来ない。つまり 人が人を赦すという能力は 人にはない。赦さないという能力も人にはない。  あやまちとしての行動を批判し その行動に横たわる《死の所望》としての罪なる思想を批判することはあり得るし むしろ大いにすべきであるが あやまちや罪の主体としての人間存在については 赦すも赦さないもその能力が 人間にはない。  もしこの考えによるとすれば  ★ 信念に衝動的な行為を肯定させる効果が含まれていますね。  ☆ には その行為を分ける必要があると思います。あやまちとしての行動は 肯定し得ません。一般的にそうなると考えます。主観的に 肯定することがあるかも知れませんが それは出来ないと考えます。  ただし その衝動的な行為の相手もそして自己をも 人間存在としては どんなあやまちがあったとしても 人が赦すも赦さないも 出来ない。こう見ます。  こうだとしますと  ★ だから、良い意図で信念を貫いてほしいものですが、  ☆ という願いは 保障がされていないと分かります。それでも 存在は 言うとすれば 善であり擁護すべきです。そのあやまちを含む思想や行為 これについては どこまでもその間違いであることをきちんと説明して批判をおこなうべきだと考えます。  罪を憎んで人を憎まずと言います。その徹底です。

回答No.29

http://okwave.jp/qa/q6743300.html 諭してあげて下さい。

bragelonne
質問者

お礼

 投稿しました。  りとるきっづさんと りとるきすさんと まぎらわしいですね。いいんですけれど。

回答No.28

【アマテラス公民の世は終わらせるがは どうですろうか】 のベストアンサー判定の無謬性はどうですろうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ツッコミますねぇ。  ★ 無謬性  ☆ を主張したことはありません。《妥当性》をうったえています。  ただしお尋ねの質問でのベストアンサー選択にかんしては それをえらぶとき確かにその選ぶわたしの内にも 迷いがありました。  結論としては ちょうど今のご回答のようにツッコミとしての値打ちに重きを置いたものです。  ちなみに一般にベストアンサーについては わたしの場合 特にこれが秀でていると思うものがない限り 投稿してくださったみなさんに差し上げたいという心つもりでいます。  言いかえると むしろ回答者の人として選ぶ場合さえあります。そのときその時点では この方に BA が行くのがいちばんよいだろうと思ったときには そうしたりします。  おかしいかも知れませんが 総合的に見て互いの問い求めにおいて貢献した方だという意味があります。案外その選定には タイミングもあるようなのです。ひとこと感謝の意を込めてというような意味合いになる場合のことです。  ご斟酌くださるとさいわいです。(するどいですね)。

  • YaGhoogle
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回答No.27

言語の獲得に先立って概念規定が可能になっていたのですか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 言語の獲得に先立って概念規定が可能になっていたのですか。  ☆ これはまた ツッコミますね。    1. 言語の獲得がまだ成っていなくても 脳裡に概念なるものが芽生えてはいたでしょうね。  2. 自然環界や人びととのかかわりとしての一応の社会環境を見て捉えて 何らかの思いが得られていたでしょうし その思いに或る程度の気持ちや意味が見て取れるように成っていたのではないかと。  3. ところが  ★ 概念規定が可能になっていたのか?  ☆ と問うた場合 どうなのでしょう? よく練って得た考えではないのですが おそらく気持ちのかたちや意味のある思いを 何らかの概念として持ちつつあったと考えられるとき その概念を概念として規定したのは やはり言葉だったのでしょうか?  4. 発声機能あるいは発音の仕組みがからだにあって 何らかの思いを抱いたときその思いのままに自己表出をしたら その発声の仕組みに意識においても気づき その音としての言葉が 思いとのあいだに対応関係を持ち始めて〔と気づいて〕 やがて概念規定を得て行ったか?  5. 発声機能やら幼児の言語習得などなど細かいいろんな分野での研究について ほとんど知らないままでの憶測ですが。  【Q:日本語とはどういう言語か。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6422669.html  ☆☆ (その趣旨説明欄) ~~~~  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)   とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。  ~~~~~~~~~~~

回答No.26

こんばんは、bragelonneさん。 ●すでに五月も半ばなりけり。 ↑ ですね。ヤバいってば。 「あっ?!」という間に ヾ(★´∀`)ノ゜・*:. ☆夏休み☆.。.:*・゜ヾ(´∀`☆)ノ http://zoome.jp/dennou/diary/10 ヾ(★´∀`)ノ゜・*:. ☆夏休み☆.。.:*・゜ヾ(´∀`☆)ノ で、夏休みにつきものといえば… 「 宿 題 」 (||||||) ゾォーーー  理科の観察実験 ☆もののとけ方 http://kids.gakken.co.jp/kagaku/rika/index.html ●カレーライスについてですが、日本の市販のルーは甘口、中辛、辛口とマイルドなものから徐々にスパイシーなものと種類がたくさんありますね。私はS&Bとハウスを混ぜるのが好きです。 ↑ イイね! 【QNo.5575536《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》】より一部抜粋 http://okwave.jp/qa/q5575536.html

bragelonne
質問者

お礼

 りとるきすねえさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  それでは 《甘え》の理論のご紹介です。  ▲ (土井:信仰と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~~~  ヱ―バーが東洋社会の構成原理と考えたピエテート(ラテン語でピエタス 義務の感情 親子の相互に対する愛情を意味する)は大体《甘え》に相当するであろうと〔大塚久雄は〕言うのである。  ヱ―バーはまた ギリシャ・ローマの世界は民族移動や戦争によってピエテートがこわされて成立したと述べているそうだが ここでピエテートを《甘え》とおきかえてみよう。するとこのような世界では《甘え》が通用しないことになる。  言い換えれば そこでは連なりはあまり重視されない。したがってなんでも甘えていればことがすむというわけにはいかないのである。  以上のごとく考えると ギリシャ世界またそれを引き継いだ西洋の特徴がはっきりして来る。例えばギリシャ最古の文学であるホメロスを取り上げると これは戦争およびそれに因んだ物語である。そこに書かれた世界において 親子および夫婦の間の情愛 そして特殊な友情を除けば あとはすべて闘争に他ならない。そのような世界ではとても他人の憐憫をあてにして暮らすわけにはいくまい。あらゆることに全力を尽くして戦うだけが人間に可能なすべてである。  日本の社会では《甘え》が通用するので 勘弁してくれ ということでなんとかなり うやむやの中に妥協が成立するが 西洋ではとことん力試しをせねばならず であればこそ西洋で自由と理性が重んじられるようになったということができるのである。  このような世界にキリスト教が伝播していった際 当然ピエテートは問題とならなかったであろう。多少は残っていたピエテートが キリスト教の浸透に好都合になるとしても 邪魔にはならなかったにちがいない。しかし理性は明らかに邪魔になった。なぜなら西洋人は昔も今も理性で勝負しようとするからだ。彼らは出来ることなら理性だけで事をすませようとする。かくして西洋のキリスト教において信仰と理性の関係が非常に早くから問題となったのである。  いったいなぜ理性のほかに信仰がいるのか。信仰を得るために 理性は何の役にも立たないのか。また いったん信仰を得れば 必然的に理性はいらなくなるのか。このような信仰と理性の関係についての問題が 西洋人を何世紀も悩ましたということができるのである。   (『信仰と「甘え」』1990  九 信仰と「甘え」pp.159-161)  ところで これに反し日本人の場合は理性より《甘え》の方が信仰との関係において問題になると思われる。  というのは西洋人が理性において自足的であろうとするように 日本人は《甘え》において自足的であるからである。もっとも《甘え》の場合は 理性の場合と対比して 信仰との関係がかなり異なったものとなる。  というのは理性は信仰と対立的な関係になりやすいのに比して 《甘え》は信仰と並行的で重なりあう関係にあるので しばしば信仰と《甘え》と取り違えるということが起きるからである。  その結果 自分では信仰しているつもりでも はたから見れば甘えているということになり しかも当の本人は自分の甘えに気がつかないのであるから まことに始末が悪いのである。  これは特に日本人のクリスチャンの場合心すべきことであるが もちろん日本人の信者だけが信仰しているつもりで知らず知らず甘えるわけではない。西洋の信者でも同じことが起こり得るが しかしたびたび述べているように 日本語に《甘え》という便利な言葉があればこそ 信仰のあり方について《甘え》の観点から分析的に反省することが可能となる。であるから西洋人がその信仰生活について同じような反省を行なうためにも やはり《甘え》の観点を自分のものにすることが必要であろうと考えられるのである。   (『信仰と「甘え」』1990  九 信仰と「甘え」pp.161-162)  次にキリストの言葉を取り上げて いかに信仰の世界が甘えに似ているか それでいて甘えを超越するものであるかを示したいと思う。  ○ 《マルタとマリア》の話  マルタとマリア姉妹の家をキリストが訪問する。マルタはもてなしで忙しい。マリアは手伝わないでキリストのそばに坐りこんで話に耳を傾けている。  腹が立ったマルタがキリストに 私ひとり働いているのをなんとも思わないのか マリアに命じて手伝わせてほしい と告げる。するとキリストがマルタに あなたはいろいろ心を労しているが なくてはならないものはただ一つだけ マリアはそっちを選んだのだから取り上げるわけにはいかない と答えた。  この話はちょっと考えると マルタが奉仕しているのに反し マリアは何もせず キリストの話を聞いて満足しているのであるから マリアの方が甘えているといっていいように見える。しかしよく考えると 自分ひとり働いていることに腹を立て マリアに手伝わせて欲しいとキリストに頼んだマルタに《甘え》があったことは 明瞭である。  それからマリアが実際に《甘え》の感情を自覚していたかどうか明らかではないが もしそれが事実としても キリストが嘉(よみ)したのはマリアが甘えたことではなく 彼女がひたすらキリストの教えに聞き入ったことだったという点を忘れてはならないであろう。  (pp.162-163)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたくしは 理性としての辛口と甘えとしての甘口とをブレンドしたところの《聖なる甘え》が好きです。そうすれば マイルドなものから徐々にスパイシーなものまでたくさんの種類の理論や意見に出会えてさらにまたブレンドして行けるかも知れません。  宿題です。あなたは マリア型 それとも マルタ型?

  • JoyWorld
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回答No.25

思考を外した→十分な検証をあえてせずに ということですかね。 ただ信じるという行為にも、いくつか種類があるように思います。 たとえば、スピーカーの中にたくさんの小人がいるわけではないと私は信じていますし、また地球のまわりを人工衛星が回っていることも、実際に見たわけでもないのに信じています。 しかし、それらを信じ込むのと、自分の価値観の根拠にあえて無根拠な虚構を置くことは、性質が大きく違います。 やはり前者については、まあスピーカーの例程度ならなんとかできますが、自分の力だけでは限界があることのように思います。そして自分の価値観の根拠に前者の「信じた」知識を置くことは、やはり後者とは質が異なるのだと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 じょいわーるどさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  結論から申すならば 今回も(高飛車な言い分になりますが) 経験事物についての経験思考にかんして 特殊に《信じる》という言葉を文学的に(つまり哲学的にではなく)あてはめる場合を いくつか分析して示しておられる。こう受け取ります。  いちばんの違いは   ★(あ) 自分の価値観の根拠にあえて無根拠な虚構を置くこと  ☆ というとき むしろこの表現の仕方のほうが《信じる》のことに触れて説明しているようにも受け取れるのですが でも微妙に違っていると考えられ そこにあると思います。  つまり微妙に違うというときが いちばん違うということにもなります。  すなわち  1. じつは そもそもの初めに《信じる》という行為は――じつは――  ★ 無根拠な虚構を置くこと  ☆ なのです。じつはおおむね そうわたしは定義しています。その虚構を受け容れることだと。  2. ところが その《フィクション》は げんみつに言えば 《無根拠〔なるナゾの何ものか〕》をわが心に受け容れたあと その混沌としたイメージのような世界から何らかのヒラメキを得て そこからさらにその中身を膨らませたものだとも考えます。  3. 次の順序です。   (α) 無根拠のナゾの何ものか(非経験)  ⇒(β) これをわが心に――その無根拠そのものとして――受け容れる。  ⇒(γ) そこでわが心には非思考の庭が成った。心の明けまたは伸び。  ⇒(δ) 窓の明けられた心に 描像が得られる。観想。瞑想。ヒラメキ。  ⇒(ε) このイメージから 言葉で表わす内容が得られる。預言。  ⇒(ζ) ヒラメキ(観想・預言・イメージ)から 命題が得られる。     たとえば アブラハムは 神からわが子をいけにえとして捧げよと    命じられた。泣く泣く従って わが子をほふろうとしたそのとき や    めなさいと言われた。     これは ただの夢の中の話であり 幻想や妄想であるかも知れない。    つまりは 混沌とした描像でしかないかも知れない。しかも子をほふる    ということは ふつうの心ならしないものだと ヒラメキを得た。     すなわち 《人は人をころさないものだ》という命題を得る。     これを 《なんぢ ころすなかれ》という倫理規範(十戒)とするこ    とが起きた。     また ここにはアブラハムにとって或る種の《神についての物語》す    なわち《虚構》が編まれていることになる。  ⇒(η) このような命題から 人間の合理性にもとづく思考が始められる。    4. 上の(η)から 経験思考においては 証拠を示したり論理をたどって証明したりするという《根拠》にもとづく推論が始められた。  5. そこで  ★(あ) 自分の価値観の根拠にあえて無根拠な虚構を置くこと  ☆ ですが この命題は 次のふたつの部分に分けられると見ます。  一方で《自分の価値観などなどの思考や思想についてそれをみちびいたところの根拠を示すこと》と 他方で《無根拠を受け容れること。およびその非思考の庭において 虚構を編むこと》であり これらは互いに 分けて捉えるべきものと考えます。  6. むろん じつは 上の二つの事柄は 人間という存在においてつながっているとさえ言えると思いますが それでも基本としては 別である。つまり 《非思考の庭において無根拠を受け容れていること》と《経験思考において根拠をどこに置くかということ》とは やはり次元が違っており 別である。    7. 早い話が 神を信じることと これこれのように生きるという思想(生活態度)とは――《わたし》という人間存在においてつながってはいますが―― やはり《非思考=信じる》と《思考=考える》とでは 隔たりがあると言わねばならないと考えます。  8. おそらくその上で――つまり ふたつの事項は互いに隔たりがあると言った上で―― けっきょくわが人格としては 一体となっている。と見ることになるのではないか?  ☆ スピーカーの中の小人や人工衛星が回っていることなどは 経験思考の扱う主題であると考えます。文学と科学とです。

回答No.24

こんにちは、bragelonneさん。 無根拠ときますか? そうきたならば、無根拠の大家としては耳が痛い(-_-;)uuu… はい、「何の根拠もないけど」と、 しょっちゅう言い放ってます(TT) たとえば… ココ↓とか… ♪≡≡≡ヘ(o^-^)ノダッシュ-☆ 【QNo.6397358継体ヲホドは雄略ワカタケルの子ではないか】 http://okwave.jp/qa/q6397358.html

bragelonne
質問者

お礼

 りとるきすねえさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ところが ちぃーとばかし はなしはちがうんよ。  歴史学にしても――つまりは この雄略ワカタケルの場合には 文献学や考古学や民俗学もしくは神話学 そして古代日本語に言語学 あるいは世界の古代史との比較対照などなどをひっくるめた歴史学にしても―― これは 経験科学でありやして 大いに経験思考をはたらかせてやってください。隅々にまで 推論をおよぼすのがよいでしょう。  ただし 継体ヲホドなどの場合には それほど資料があるわけではありません。少ない資料から けっきょくは推論というより想像力をはたらせて推測するということにはなります。  そして ときには そのように突拍子もない飛躍をして想像したほうが 学問としてもよく進展することがなきにしもあらずということがあるようです。  つまり《信じる》の場合には 文字どおり・額面通り・掛け値無しに・寸分たがわず・まったくそのまま《根拠のない何か》を わが心に受け容れることを言うんよ。つまり 阿呆みたいになのら。  ☆☆(趣旨説明欄) 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  ☆ という定義でござぁーい。いかがでございましょうか?   すでに五月も半ばなりけり。

  • JoyWorld
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回答No.23

無根拠なままに、または根拠があってもそれに対する十分有力な反論があるのに、あることが正しいと思い込むこと。―そういうことを「信じる」と言うのだと思います。 信じるというのは、思考を外した、心の弱さからくる行為というイメージです。 逆にちゃんと正しいとわかることは、「確信する」などと使い分けています。

bragelonne
質問者

お礼

 じょいわーるどさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 無根拠なままに、または根拠があってもそれに対する十分有力な反論があるのに、あることが正しいと思い込むこと。―そういうことを「信じる」と言うのだと思います。  ☆ 《無根拠》を非思考において受け容れること このようにひとつの見解を質問者としては出しています。その《無根拠》という言葉としては重なるところがありますが   ★ 正しいと  ☆ の部分で やはり異なっています。――とまづ申し上げます。  つまり《正しいと 少しでも判断した》のであれば それは 思考を経ています。非思考ではなくなります。  すなわちおっしゃっている事例は 《考えたこと》についてその妥当性を強く意識した結果 相手に向けてそのことを強調したいがために《思い込んだ》のだと見ます。  したがって――確かにじっさいにそれを《信じる》という言葉で表わすことはあるようなのですが それは けっきょくその心つもりの強さを取り立てて伝えようとしているだけだと思われ したがって―― ふつうには《思い込み》のことでしょう。《鵜呑み》とも言いますね。  ★ 信じるというのは、思考を外した、心の弱さからくる行為というイメージです。  ☆ というふうに表わすならば たとえば  ○ 思考をおこなっておくべきところをその《思考を外した》  ☆ と言っているようですし。あるいは  ○ 心のあり方がふつうであれば いちいちそうしなくてよいものを 強く意識しその思いをも強めて行くこと  ☆ と言っているようです。つまりは すべては この経験世界のことがらについて――感じたり考えたりするところを さらに意識しようとしていることとして――取り上げている。こう捉えますが いかがでしょう?  すなわち  ★ 逆にちゃんと正しいとわかることは、「確信する」などと使い分けています。  ☆ これも《信》という語が入っていますが やはり経験思考の問題であると思われます。その思考が筋道立てて考え尽くしてあるから 確かなものだと安心して思っている。こういうことの事例であるようです。  もしこうだとしたら やはり《信じる》は これら経験思考に非ず という定義の仕方にもとづけば 違う内容であると考えますが いかがでしょう?  

noname#144995
noname#144995
回答No.22

ノビタくんは意味不明です。私も理解していません。ルックスの事とは思えません。ノビタくんは複数いるようですから。変哲がないって言う意味でしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ありがとうございます。  感触としては どうもわたしの質問によろこんで回答を寄せてくださる方々を言うのではないかと思うのですが そのノビタくんは 複数いるのですか?  同じ名前で 複数いるのですか? たしかドラえもんか何かのキャラクターですよね? ドラえもんと友だちだという意味でしょうか。と言っても ドラえもんが どういう存在か詳しくは分かりませんが。  ま いいです。ありがとうございます。うっちゃっておきます。  * 前身のななにすは 二度 反省したことがあるんですよ。ごめんなさいと。わたしに向かって。  部分的に賢そうと見えたかも知れませんが 支離滅裂ですよ。

bragelonne
質問者

補足

 ★ その共通善と言うのは例えばどのようなものが挙げられるでしょうか?  ☆ 想定するわけです。そこはかとない何かを。  その善に逆らうときには・つまりウソ・イツワリを言うときには 顔を赤らめたりしどろもどろになったりするという体からの知らせも人びとに共通であるところから そこには共通善があるだろうと。あるはずだと。   つまりはけっきょく 生きること ということでしょうか。  つまりは 社会として生きるというからには 共生になるのではないですか。  * つまりは 理論としては 悪は存在しないという命題が来ます。あるのは生きることとしての善と その善をそこねることとが起きている。負の善を悪と呼ぶというのみです。  つまり 悪は マイナスの善として現象しているけれども 悪という存在があるわけではない。  善の傷の部分が 悪であり その損傷を起こす行為も悪であると。

noname#144995
noname#144995
回答No.20

基本的に賛同したわけではなく、ブラジュロンさんがそういう考えなのだと理解したと思っていただけると良いでしょう。ナナンニッセさんも変わった質問を立てたようですし、ちょっとそっちの方ものぞいてきます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  判断保留として受け取ります。

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  • 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか

     (α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか?    (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか?  (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか?  (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは?  *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか?   *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?

  • 組織としての宗教は 違憲ではないか

     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?

     (α) 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?  言いかえると――同じような内容ですが――  (β) 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないか?  (δ) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないか?    (ε) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の 自由にとっての 自殺行為ではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  (ζ)  宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為に片向きがちであるゆえ その自由は認められないのではないか?  (η) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為となるのでは?  (θ) 聖典と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   (ι) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?  (κ) 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきでは?

  • 組織宗教を 弾劾する。

     たたき台を述べて 表題についてなお問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  すなわち 《信じる心 つまり心に神を受け容れている》に《考えるオシエ つまりオシエを考え実行する》を先行させることは 《信仰》ではなくなる。信仰としての意志自由ではなくなる。つまり宗教組織は 《信仰》という看板を取りはづしてから 宗教と名乗らなければならない。  そうしてこのおそれは そのような可能性がつねにあるという意味では 宗教組織そのものの持つ欠陥である。  よって 組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。  信仰を取り除いて 宗教をかかげることは ありえず 出来ないことだと考えられるからには。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に《非思考の庭》が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。  それは われわれのものでさえある。  けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。  そしてそこまでである。信仰をめぐる《超現実(想像の世界また想像物としての神》)》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。ほんとうには 到り得ない。    ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とはたしかに 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  そしてこのあと     ○ 《超現実への想像》が 《単なる想像の産物としての神( Y )》をいだくか それとも《非経験の場 としてのナゾなる神( X )》を無根拠として心に受け容れるかに分かれると思われる。  想像物としての神( Y )は けっきょく《考える》の対象である。そして一般に《オシエ》となっている。オシエが神としていだかれることになる。  それでも そのオシエをいだく信念も 《個人にとっての・わがたましいの》問題であるかも知れない。  ただし 信仰は 《思考に非ず》にて 《オシエや人間としての教祖そしてさらには教団》をむろん超えている。その意味でのたましいの問題である。思考や観念の神と分けて 霊なる神である。霊とは 非合理である。思考に非ずというからには。    《非思考の庭》にあってワタシは 人は人をころさないものだなぁという直感(ないし直観)を得る。そこから誰かが 《汝 ころすなかれ》というオシエをこしらえる。けれどもこのオシエは 信仰内容の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。オシエは 非思考に先行していない。  問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。この明けがあれば どの神・どんな形態の信仰に対しても わが心は開かれている。閉じられていない。《信じる》は 人の心的現象として 何ものにも先行するところのものゆえである。  無思慮とも言うべき非思考の庭が・そして次に感性(直感)が 理性に先行している。  オシエは 混沌とした信仰内容に先行しない。まして組織ないし集団が 個人に先行するものではない。(それはただ 無効の行為として 権限関係などによってたまゆらの有力となるのみである)。  組織宗教は 自己解体を前提として みづからをへりくだらなければならない。  オシエよさようならと言わなければならない。  したがって     ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。    と言えたとしても 問題は実践としては すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》という組織宗教じたいについての批判が先である。  あとは ふつう一般の人間論ないし存在論が来ると思われる。  (非思考なる信仰が 思考に先行するという命題を 人間の内面についてあるいは社会的側面に沿って問い求めておかねばならない)。  (社会政策といった側面は 社会哲学のさらに応用部門であるように思われる)。    個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  信仰にかんする自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物だからである。  つまり 非思考が思考に先行するという命題が 有効であるなら そういう結論になる。  仮りに信仰をも批判する人がいて      ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  というくだりを 次のように言いかえたとしよう。      ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  まづは 幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? このように反論する。  つまり想像物としての神( Y )も それとして 有益な場合がある。特には 小説などの虚構によって人間の真実を表現しようとする芸術の場合である。  つぎにもし《非思考の庭に無根拠にていだいた神( X )》にもとづく《信仰は 幻想的幸福》でしかないとした場合。  この場合 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。  すなわち 互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ その信仰なる主観がたとえ幻想であったとしても 話し合いをつうじて思考および感性としての生活が 社会の現実に合ったものであれば 問題ない。  信仰は 教義化をせずその中身は わづかにヒラメキとして持たれることがらまでである。  そのヒラメキから得た内容を言葉にし思考の問題としてもし自己表現するとすれば これを他人に押しつけない。語り合うまでである。  言いかえると 信仰の無において生きている人びとも その思考内容つまり主観を他人につたえるということまではおこなうというのと まったく同じことである。  そこで互いに心から同意する思考内容があれば みづからの意志で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。開かれている。その《幻想的幸福》は 練られて行くはずである。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく そのオシエが信仰にとって信仰なる蝉の抜け殻のようなものであり 人びとの主観の自己表現つまり意志伝達にとって オシエ〔の固持〕が 自分のあるいは他者の自由意志を侵害する傾向に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

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     (1) 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象である。  (2) そのオシエが もし《信じる》べきものであると言うのなら それは 精神錯乱に落ち入ることを意味する。  (3) オシエは 命題(人間の思考し判断したもの)としてあるからには 《考える》ものであって そのような思考ないし理性の問題であるものを どうして信じる(つまり 神として受け容れる)ことが出来ようか。  (4) 《信じる》と《考える》とを区別するべきである。   ○ オシエは 信じるものではない ~~~~~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (5) 《信じる》とは 神をわが心に受け容れることである。神は 非経験の場だから 《考える》ことも認識することも出来ない。わづかに信仰の何たるかを説明するために ヒラメキから得た知識を理論として形成するとき この説明理論は 神を知るための補助線となる。  (6) この補助線たる説明書きが オシエと見なされ得る。《神は愛である》なり《至高の善である》なりの取扱説明書を オシエとして さらにはこの思考内容ないし概念を神として 信じよと言うのが 宗教である。  (7) この宗教は 信仰としての蝉の 抜け殻である。百害あって一利なし。  これを問います。出来れば 確定させたいと考えます。

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    思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが 一般に 亜流の思想を追い求めているからではないか?  ゴロツキ等は 経験合理性にもとづいてものごとの認識や判断をみちびくことをしないその状態を言います。  亜流の思想というのは そのままでもありますが 特には クリスチアニズムという宗教となった思潮 あるいは そもそもブディズムは無神論としての信仰であるはずなのにこれをああたらこうたらいじくりまわしたその結果としての思潮を言います。  前者は 非思考の場としての個人の信仰が 教義を信じるという矛盾をかかえた組織宗教となった場合であり あるいは単に道徳規範としてしまいこれを抱き続けるということに変身した場合を言います。教義は 思考するものであり 信じるものではありません。倫理規範も考えるものであり 信じるものではなく その実践ということもそれだけでは 信仰そのものとは関係ありません。(ほかの宗教でも 道徳を説きその実践を奨励します)。  後者のブディズムについては ひとつだけその亜流の特徴を挙げれば。さとりが いま・ここなるわたしを離れたところにあると思っていることです。このへだたり・この時間差が 亜流であり チンピラの振る舞いと何ら変わらないと見なされることになります。少しづつだんだんさとりに近づくというのなら ゴロツキの成仏と変わらないということになるからです。  ご見解ご批判をお寄せください。

  • キリストは勝手に人間となり 磔に遭って死んだのだ。

     =( a )とします。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( f ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( g ) 思考の対象である教義を その教祖や組織の長への崇拝とともに 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( h ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( i ) 神の名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( j ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?  

  • キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に成った。

     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( b-1 ) 原罪をあがなってやったなどと言うはずがない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。  ( f ) つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( g ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( h ) 思考の対象である教義を 《非思考としての 信じる》と言ったり その教祖や組織の長への崇拝のようなかたちにおいて やはり《信じよ》と言いがちであったりして 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( i ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( j ) 神はその名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( k ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?