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bungetsuです。
>>すいませんが、政治についても回答してほしいです
源頼朝は、久安3年(1147)4月8日の誕生。父は源義朝の三男として生まれ、母は熱田神宮大宮司藤原季範の娘の由良御前であった。長兄の義平は無冠であった。次兄の朝長よりも上位の官職が与えられていたことから、母の出自が影響していたと考えられる。
平治元年(1159)12月9日に勃発した通称「平治の乱」で源の義朝が味方した軍は破れ、父義朝は尾張国で謀殺され、長兄の義平は都に潜伏中に捕らえられ処刑される。次兄の朝長は逃亡の途中負傷が元で死亡してしまった。頼朝は逃亡の途中で父や兄たちとはぐれてしまっていたが捕らえられ六波羅に送られたが、平清盛の継母のとりなしで永暦元年(1160)3月11日に伊豆国の蛭ケ小島へ流罪となった。そして、一人生き残った頼朝は、これより源氏の棟梁としての扱いを受けることとなった。
頼朝31歳の時、頼朝の監視役であった北条時政の長女であった21歳の政子と情を通じ、子どもを身ごもったことから時政も二人の仲を許し、時政はこの時より頼朝の後見人となった。
治承4年(1180)高倉宮以仁王が平氏追悼を諸国の源氏に令旨したが、頼朝はしばらくは動かず事態を静観していた。しかし、以仁王の死をきっかけとして平氏が逆に源氏追討に動き始めると、便朝はついに挙兵をし、壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させた。
その後、数々の戦いでも生き残り、建久3年(1192)7月12日、頼朝はついに征夷大将軍に任じられ鎌倉で幕府を開いた。
その政治姿勢とは、中世の日本において、主に武士の主従関係を構成した要素・概念。中世の武士間の主従関係は、決して片務的なものではなく、主人・従者が相互に利益を与え合う互恵的な関係で成り立っていた。ここで、主人が従者へ与えた利益を「御恩」といい、従者が主人へ与えた利益を「奉公」といった。平安時代中期~後期から武士層に「御恩と奉公」の関係が徐々に形成されていたが、本格的に「御恩と奉公」が成立したのは、源頼朝が関東武士の盟主=鎌倉殿となってからである。以降、御恩と奉公の関係性は、鎌倉幕府の成立基盤として機能し続け、その後の室町幕府や江戸幕府にも引き継がれた。
つまり、頼朝は家臣に土地の所有権を認めること(「御恩」)により、家臣は戦などで主人に従って働く(「奉公」)という関係で成り立っていた。
建久9年(1198)12月27日、相模川で催された橋供養からの帰路で体調を崩し死亡している。一説には落馬が原因だったとも言われている。
補足
すいませんが、政治についても回答してほしいです よろしくお願いします