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ギリシャの哲人ソクラテスは、『只生きるのではない、善く生きるのだ。』と言ったと聞きます。なるほど相だと私は思うのですが、一体善く生きるとはどういった人生、生き方、人の有り様の事を言うのでしょうか。人は何を善と言って、それを賞賛し目標とするのでしょうか。 また、善悪を超えるということはどういったことなのでしょうか。 善悪を超えるということは目標になりえるのでしょうか。 昔、少年のように屈託なく善を探していた頃がありましたが、最近は胸の内もすっかり錆び付いて、寂しさに埋もれている私です。今改めて、純粋な探究心を取り戻したいと思っています。 どうぞよろしくお願いします。

noname#144995
noname#144995

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  • amaguappa
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回答No.25

17です。 > 善が神へ通ずる回路によって示されうるのではなく、個的に湧出するオリジナルのものになったとも見れます。その方が、素晴らしくないですか。 わたしはつねづね、思考に少しもブレーキ力を見出せなくなるまでは、ドライブモードで思考しないようにしたいと思っています。 歴史をずっと遡ってみると、むしろ、「善」はかつて個的に湧出していたところへ、文明とともに神への回路に変化したのではなかったでしょうか。 人類に書字が必要になったのは、土地や私有財産の権利を石板に掘りつけるためでした。この、言葉と書字と財産との緊密な関係は、人間が社会を形成する力学の礎でしょう。話し言葉だけでは、平和裡に財産を蓄積し子孫に残し、耕作や牧畜を維持発展継続させながら人数と領域を拡大させる勢いが、安定的に得られないのですね。 仮にそんな時代のことを思えば、東西をとわず、善とかgoodとかbienの語源たちが意味するものとは、案外即物的であるかもしれないと思います。 漢和辞典をひくと、善という漢字は、羊の立派なお供え物に才智あふれる立派な言葉の組み合わせで、たっぷりと豊かなことを意味するとあります。goodやbienには意味がたくさんありますね。それぞれ700-1100年頃の古英語go-dと紀元前50年頃の古典期ラテン語bonusへ遡る限りでは、英語の方は、適合や適切さを表しています。ラテン語のほうは今日と変りないくらい意味する範囲が広いです。抽象名詞化した語のほうを見ると、善/優秀/財産/利益/幸福/安泰(bonum)のほかに、財産(bona)、善/優れていること/誠意(bonitas)、愛国者/貴族党(bonus)あたりの語を生んでいます。 こうして見ていると、お祭りを一緒にする程度のコミュニティでの人づきあいにおける資質から、都市国家の安定的な形態を維持する構成員としての資質にいたるあたりまでを善と呼んでいたような気がしませんか? そうしたとき、ちょうど羊と言葉のように、他者へ与えられうる充足したものを具備した様子が想像でき、善の意味の源は、一つの強い力であると考えられるのです。きっと、西洋文明の流れでは、そのような力は、コミュニケーションや交渉に際して圧倒的に有利となるような豊かさなのだろうし、そのような個の集合した国家アメリカの自尊心は同じ理屈でまかりとおるのだろうなと思われます。 けれども東洋では果たして(もちろん一枚岩ではありませんが)、善の意味の源が上記のような一つの強い充足した力であるということを、相乗相剋しながら流転している要素と捉えるような気がするのです。天命や運命のもとで、善というそのような充足した力が折々に、人の資質というかむしろ境涯に現れ、また折々に去るといった感じですね。 だから、パーソナリティとしての善が考えられうるのは西洋的な発想だと思うのです。 こういうのは物語世界にも反映していて、王権神授めいた神聖な印の杯や剣といった道具立てを介して、西洋の王は王になるべく王になったなら、そのアイデンティティを喪失しないでしょう。東洋の皇帝たちは物語においてさえ興亡盛衰史を紡ぐ模様のように描かれるでしょう。 善の話をしていて王や皇帝の話になるとは、ちょっとおかしいものですね。でもよく考えると、やっぱり至高の力として、善とは、観念の側面以上に具現される側面の強いものだということになるのでしょう。 お尋ねがありましたが、善に生まれるのではなく善になるのだ、とわたしが書いたのは、相乗相剋的な見方に通じていると思います。ものやことが、生来的に、生得的に、善であったり悪であったりするのではなく、変化に富んだ流れが作用しあうなかで、局所にあるものやこと、そして人が負う様相、あるいは負わされる様相が、善や悪だと考えます。先に述べたように、それらは、コミュニケーションや力の場で他者におよぼす力学を潜在的に持っている状態を指していると思うからです。 そういう意味では、おっしゃるようなオリジナルな湧出には届かないかもしれず、微弱な磁場としての合意形成を読む、といったホタルの明滅のような光よりほかにないのではないかとさえ思います。 > 大きなロゴスにも小さなロゴスにも、光を当てる機会に恵まれているからです。 色々な善があってよい。それぞれに究極があってよい。道は一つではない。完成 に至る道は一つかもしれないが、それは各々の人間に存在するのであって、外部 的に与えられる一つの道ではないでしょう。満天の星の如く、善が輝けばよいと 思うのは賎しいでしょうか。 たぶん、善が力であるというわたしの論旨に沿うなら、各々のそれが、属性(attribut)のロゴスによって光るのであるなら、拮抗や征服を呼びこんでしまうでしょう。アラブ人であることが善だとか、キリスト教徒であることが善だとかの話です。 そうではなくて、ほんとうに難しいのですが、人が自分を自分であると認める疑いのなさ(identite)に立って、ものごとを見、互いに他者を見渡したときに、満天の星であることに気付くという、ただそれだけのことが、善という大局の力の一部に自らを列することになるのではないかと思います。

noname#144995
質問者

お礼

私の住むところでは、夜、裏山へ上って街を見下ろすと、湾の手前に、星々が重ね重ねになって畝を作っている様な景色を目にすることができます。 史上空前の発展を遂げている現代文明の只中で生きる者として、人類の拓いた地平の広さ、そしてそこに住む千、万の人々の人生を思うと、ああ、もう(思索などは)どうでも良いのだな、私は私、一人としてただ生きて行くほかないのだろうと、無力感による自己回帰に至ったりします。 以前はどこか尊大に、自分が何者かであるように思い為して生きてきた節もあったのですが、自分存在のある種の矮小さと、個としての確実性を実感すると、現代文明に生きる当事者としての人生の有り様が意識されて来ます。地上の星々の合間を縫うようにしてあくせくと働き、全体の数を思えば僅かの数であろう人々との交流を為し、50年と言う人生は短いものと悟って寂しげに生きてゆくのかと思うとやるせなくなります。そのような中で改めて善を志向すると、善は宇宙の幅を渡る星の光とは違う、ぽっぽと明滅する蛍のようなやさしい光ではないかと。そういう認識に至ります。 されどしかしながら、自らの歩むことが可能な人生において、自由や平等、清浄さと言う事柄を求める所にはやはり、星間を渡るに十分な風が吹きえるのであり、人はその風を捉えて広大な世の中を越えて行けるだろうと望みを感じたりもするのです。そのような求めに伴う善を身に纏うのであるならば、人生の終局に至りて、善く生きた、というのも夢ではないだろうと思えるのです。 随って善く生きるとは、矮小な個であるのに尚、真実の智慧に生きようとする勇気のある人の生き様ではないかと思い至りました。 善が力であるならば、このように広大な文明を発展させた人類社会においては、尚更非力なる個人ということになってしまう。そして事実非力なる、つまり善においては消極的存在でしかありえない個人だとしても、輝ける人生を得ようと思うならば、聡明さに任せて求めるところを定めるべきであると。一人一人の形なき理想を持ったミュトスが、その人を地平を越えた境地へと推し進めてくれるのではないかと期待しているのです。

noname#144995
質問者

補足

お礼文の最後部分、ミュトスと言う単語を使いましたが、意味は「流れ」「志向性」と捉えてください。

その他の回答 (28)

回答No.29

 『只生きるのではない、善く生きるのだ。』と言ったソクラテスの真意は知りませんが、私の受け止め方は、一口で言うと自身の好ましい方の心の世界で生きること、となります。向上心とか、他者を思いやる気持ち、こうした心の世界で生きる事です。  人のこころには善的世界と悪的世界とあります。平たく言えばよい人になったり悪い人になったりと心に“幅”があります。中心から左を悪、右を善とした場合、人の生き方は右に寄ったり左に寄ったり始終ふらふらしています。  こうした自身の心を出来るだけ「右」の状態を保ちたい、そうした生き方をしよう、というのが善く生きること、というように受け止めています。  また善悪を超える、とは。  誰の言葉か知りませんが、普通の人々が社会生活を営む上での意識に上る“善悪”に捉われて生き方に迷いが生じるようであってはいけない、と言った意味が含まれているように思います。  些末なことにこだわる心を戒めるための“しゃれた表現”ではないでしょうか。

noname#144995
質問者

お礼

シンプルでわかりやすい回答を有難うございます。 ところてんのようにスルッと飲み込めました。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.28

25です。 人が若い時分には、帆を楊と張って風を受け、帆に輝く太陽を浴び、夜空に星を読み、島や陸に辿りつくことを考えればよいでしょう。 世界に己への和解と祝福があるのを、うんと知ることができます。 それから、他者を乗せ、帆をたたみ、雨や暴風に曝され、海図をひろげ、標識を読み、相互連絡をしあい、島や陸に寄りながら、何周も地球を廻って、メンテナンスに気を配り、航海の最後の日のことを考えるようになると、心の震えるような和解と祝福はどこにあったろうか、と思う。 でもそのとき、善く生きたと思えるのであったなら、それは、星のような遠さにあって確固とわれ自身に繋がり、われを全一にゆるすことにその存在の証がある、そのような意識の力の源と、自分とのあいだの和解のときであろうと思いますよ。

noname#144995
質問者

お礼

少し行過ぎたお礼に応対してくださりありがとうございます。 地球を何週も廻って・・・と言うあたり、素晴らしいなと思いました。 航海の終わる日のことを思うというあたりが、人間の切実な問題を提起していると感じました。 そして、われを全一にゆるすことにその存在の証がある、と言ったときに、感動的なゴールが想起されました。 自分と何がしかの和解に、平和が見出せるのだなと思いました。

回答No.27

zakky74でございます。 ある人がこう言っていました。 To live. To live well. よりも To live better. To live best. で生きようと。 前者では、動物的な生き方に留まり、後者では人間らしい人間の生き方となります。僕も、人間らしい人間の生き方でありたいと思っています。 >寂しさに埋もれているというのは、なす術がない自分と言うものを感じるからであり、あの楽しかった日々はどこに言ったのだろうという懐古でもあります。 そうでしたか。 動物は自己認識をする事がなく、人間は自己認識をします。自己認識をするが故に、自己否定や自己嫌悪にも陥りますし、考えにグルグルはまる事もありますが、それが人間の持っている機能でもあります。 lightwave8さんの話は人間らしさを感じさせてくれますね。 >改めて純粋な探究心を取り戻したいと思ったのは、そういうものが何かしら、人生の推進力になっているのではないかと考えたからです。そう考えるようになったきっかけと言うのは、年齢を重ねたこともあると思います。色々なものに束縛されて生きてゆくのですが、そうではない活き活きとした人生があるだろうという望みがあるので、そういった探究心などを取り戻せば・・・と思ったのかもしれません。 そうでしたか。 原動力にも似たものが、一度は停止、若しくは喪失したのかもしれませんね。無気力・無感動と言った単語が僕側では浮かびました。 つながりが断たれて周りと断絶されたイメージとして受け取りましたが。孤島とか無人島の様な。切り離された空間。 何だか自分の荒み期(すさみき)を思い出しました(笑)。 >何をやるかよりどんな人間になるか、とおっしゃるのはよくわかる気がします。主体性に重きを置いている考えかなと思います。行為が生まれるもとの所を見たときに、有り様であるとか、あり方といったものが問われてくるのだと私も考えた事があります。 なるほど。 「どんな人間になるか」という意味は、どんな人間にもなれる事を前提とした上で「どんな人間になるか」です。僕は、どんな人間にもなれる人間なんだ、というのが前提ですね。 そういう意味では、ソクラテスになるのも選択ですし、坂本龍馬になるのも選択ですので、主体性に重きを置いているというのは的を得ているかもしれません。 加えますれば、重きを置くという事で思い描かれた事は、僕は生き方と言った時に、3つのバランスを重視しています。 普通は、2つです。 生き方とは、今ここ自分がどうであるか?という結果でもありますが、この結果を支えているのがその結果が生まれる様になっているやり方ですね。 そして、やり方が生まれる様になっている思い方というのがその土台にあります。普通は、やり方・思い方の2つで留まっていますが、僕は幸運にも在り方と出会う事が出来ました。 在り方は、全ての存在の仕組み・メカニズムの意味で使っています。 全ての存在の、存在方式ですね。 これによって、何をどのように考えれば良いのかが分からないやり方・思い方にハマったグルグル状態から、何をどの様に考えれば良いのかが明確に整理出来る様になりました。 在り方が明確に理解出来たからです。 在り方を出発として、やり方・思い方・在り方のバランスによって生き方が再スタートしました。 やり方・思い方では、条件・状況・環境が変われば変化してしまいます。ソクラテスの言った事、やった事(やり方)や、彼が考えた事、感じていた事(思い方)だけでは、今の時代にも適応できません。 ソクラテスという存在の存在方式、その存在を取り巻く全ての存在方式を理解してこそ、そこから生まれるソクラテスのやり方・思い方が鮮明に見えてきますね。 ソクラテスに限らずですが、常にそう在りたいと思っています。 思い方だけの変化では、自分が知っているイメージに束縛されるという限界がありますし、自分がイメージできない事は思う事が出来ないという致命的な限界があります。イメージ出来ない世界をイメージ出来る事、それが在り方ですし、生き方として僕が大切にしているものです。 To live best. でありたいので。 それにしましても、何だかlightwave8さんには触発されますね。 心、温かくなります。

noname#144995
質問者

お礼

>それにしましても、何だかlightwave8さんには触発されますね。 そうですか。互いに、何処か似たところがあるのかもしれませんね。 幾度もご回答有難うございます。 >原動力にも似たものが、一度は停止、若しくは喪失したのかもしれませんね。無気力・無感動と言った単語が僕側では浮かびました。 つながりが断たれて周りと断絶されたイメージとして受け取りましたが。孤島とか無人島の様な。切り離された空間。 ここら辺などは、特に共感をいただけたと思っています。

回答No.26

zakky74でございます。 そうでしたか。 なるほどですね。 >最近は胸の内もすっかり錆び付いて、 というところには触れていた様に思いましたが、 >寂しさに埋もれている私です。 というのはどういう事だったのでしょうか?それと、 >今改めて、純粋な探究心を取り戻したいと思っています。 という反転の意志が芽生えたのにはどんなキッカケがあったのでしょうか?このサイトも含めて、また探求しようという気になったキッカケが何かあったと思うのですが。 主題から離れている様に見えるかもしれない事が恐縮ですが・・・僕は、「何をやるか」よりは「どんな人間になるか」に関心がございまして、どういう存在であるかに重心を置いています。そういう僕側の背景もあっての質問ですので、何だか主題から離れる様に見えるかもしれませんが、僕の中では繋がっていますので、聞いておきたいと思うんですね。 例えば、僕の場合は、ソクラテスが何を言った、何をやったというよりも、どんな人間だった、どんな存在だった、どんな観点から自分や宇宙自然と出会っていたのか?という事に関心がございます。何を言った、何をやった、は現象世界ですし帰納的に留まりますし、何よりその時代、その環境など、条件・状況・環境によっては今の時代では言葉・行動は変化するものだと理解しているからです。 lightwave8さんとのQ&Aを通して、lightwave8さんの観点や、どんな存在であるか、に関心が行ってしまう僕側の観点から出ているものです。もし、lightwave8さんにとって都合が悪かったり、lightwave8さんの意図にそぐわない場合は、僕も主題の方へと切り替えますので、その場合は仰って下さい。 それにしても、お返事を頂きありがとうございました。

noname#144995
質問者

お礼

>>寂しさに埋もれている私です。 >というのはどういう事だったのでしょうか?それと、 >>今改めて、純粋な探究心を取り戻したいと思っています。 >という反転の意志が芽生えたのにはどんなキッカケがあったのでしょうか?このサイトも含めて、また探求しようという気になったキッカケが何かあったと思うのですが。 寂しさに埋もれているというのは、なす術がない自分と言うものを感じるからであり、あの楽しかった日々はどこに言ったのだろうという懐古でもあります。改めて純粋な探究心を取り戻したいと思ったのは、そういうものが何かしら、人生の推進力になっているのではないかと考えたからです。そう考えるようになったきっかけと言うのは、年齢を重ねたこともあると思います。色々なものに束縛されて生きてゆくのですが、そうではない活き活きとした人生があるだろうという望みがあるので、そういった探究心などを取り戻せば・・・と思ったのかもしれません。 何をやるかよりどんな人間になるか、とおっしゃるのはよくわかる気がします。主体性に重きを置いている考えかなと思います。行為が生まれるもとの所を見たときに、有り様であるとか、あり方といったものが問われてくるのだと私も考えた事があります。

回答No.24

zakky74でございます。 なるほどですね。 とても響きの良い文章でした。 何だか、会って話している様です^^ ところで、 >最近は胸の内もすっかり錆び付いて、寂しさに埋もれている私です。今改めて、純粋な探究心を取り戻したいと思っています。 の様に書かれているのですが、ここからは直接の回答ではなく、先の僕の質問に対してお応え頂いたlightwave8さんに興味が出ての事ですから、主題や質問を離れてしまう事は恐縮なのですが、もし宜しければ、この辺りの心境、若しくは心境の変化などについて、お聞きしたいな、と思っています。 差し支えない範囲で構いませんし、主題やご質問に対する回答から離れてしまう嫌いもありますが、お付き合い頂ければ嬉しい限りです。

noname#144995
質問者

お礼

では少し個人的なことをお話します。 高校生くらいの頃、倫理の授業で、初めて善や知恵、徳、生き方の探求が存在することを知りました。自分はそのときに、どうしてもっと早く、例えば中学生の頃にこういった授業に出会えなかったのだろうと思った覚えがあります。そのようなことを渇望していた自分がいたのでしょう。中でもソクラテスの出てくる話が好きでした。倫理は私にとってはとても楽しく新鮮であり、どの授業よりもよく勉強できていたと思います。 その頃からインターネットで哲学とはいえないかもしれませんが、そういった善や徳、生き方の話をするようになっていきました。そして、自分では何か高尚なことを理解した気になってしまい、調子に乗っていたとき、自分の知見の及びもつかないような知見を示す人がネット上に現れ、自分は歩みを見直すことになったのです。結果、今までの自分を支えていた考えなどをことごとく再構築せねばならない事態になってしまい、それ以来、高校生の頃のような瑞々しい探究心ではなく、自信のない、おどおどした歩みとなってしまっているのです。高慢になるよりはましなので、まぁそれもよしかと思いますが、せめて自信を取り戻し、明るく楽しく歩いていきたいなと思っているのです。 皆さんのおかげで少しは元気になってきましたが、それでも善や徳の有様について、もっとたくさん話したいなと思っています。

回答No.23

zakky74でございます。 >>僕が共有した知の完全性~知の不完全性を補うという観点を踏まえますと、現段階ではlightwave8さんは、ご自身の主題・ご質問には、ご自身でお応えになるとしたらどの様に応えますか? >今のところ不定形の善と言うものを思いついています。無形とまでは言いませんが、常に可能性を持っておる自由度の高い善という意味です。つまり善く生きるとは、自由且つ柔軟に生きるということではないかと思いました。既存の言葉を借りれば、善軟の心で生きるということです。 >そこから続いて、善悪の超克についてですが、そのような自由度の高い善性が獲得できたならば、相反するもの同士の対立、善悪の対立をも転じたり、それらそのものからの脱却と言うことが可能であるのかなと思ったりしました。善悪の超克が目標になるのは、それらの起こす葛藤や束縛から自由になりたいという欲求が起こるからだと思うのですが、その意味でも、自由度の高い善というのは、求められたところに応じているのではないかと思います。 不定形の善、自由度の高い善。 ステキな表現ですね。 追加でのご質問となりますが、現段階ではlightwave8さんは不定形の善、自由度の高い善は、自分自身、若しくは人間とはどの様な関係であると捉えていらっしゃるのでしょうか?

noname#144995
質問者

お礼

>現段階ではlightwave8さんは不定形の善、自由度の高い善は、自分自身、若しくは人間とはどの様な関係であると捉えていらっしゃるのでしょうか? あくまでイメージに過ぎないのですが、自由度の高い善とは、善を身につけている人の善のことを言うのであると思います。身につけるということはそれを修したということですが、その善の由来が外的であれ内的であれ、いずれでもないとしても、善が現れたときは、それが、その人自身から現れたように見えるものです。 例えば武術の達人がいるとします。武芸が身についているので、普段から、彼の何気ないしぐさの中にも洗練されたものが現れるでしょう。修行の成果が見て取れるわけです。 茶道などの芸事でも、その作法を身につけた人は、茶会以外の場所でも丁寧な振る舞いを見せるでしょう。 そのように身につけるということは、普段の、何気ない事柄においてさえふと現れてしまうものです。 素行の悪い癖がついていれば普段からそれが出てきますし、素行が善く調練されておれば普段からそれが出てきます。 自由度の高い善、不定形の善とは、普段からの何気ないしぐさの中にも現れるような、体得された善のことであると捉えています。人間との関係性を言えば、人と技のような関係であると言えるでしょう。その究極が、無形、善を超えた善、と言うことになるのでは無いかと思います。完全に体得された善は無形なのであると思います。例えば技を極めた人が、技に見えないような何気ない動作で、最大の効果を演出するようなものです。 自分自身との関係で言えば、自由度の高い善とは、イメージに束縛されない善のことを言います。善とはあんなものだ、こんなものだといろいろ思い浮かべて語ることはできますが、それは目の当たりに現れたものではありません。自分自身が善を身につけるためには、想いに耽るだけでは不十分であるのです。ですので、自分自身との関係を言えば、『それは当然のことである』、というのが、自由度の高い善であると思います。当たり前のようにそれを為すことが、自由度の高い、と言う意味です。

noname#155689
noname#155689
回答No.22

> どさくさにまぎれて悪をなしてしまうというようでは話にならないですが。 > やるべきこと、やらねばならないことはその時々に応じて出てくるものであると思います。 > いつもこれをしていなければならないということはあまりないのではないでしょうか。 > むしろ、押し付けられたような事柄ではなく、能動的に関わる中で、覚悟とかいったことが生じえるのだと思います。 余裕があってイイね。 (批判とかじゃなく素直に思ったことを書きました。)

noname#144995
質問者

お礼

余裕ですか。確かに今はまだ余裕がある方です。今後どうなるかはわかりません。そんなもんです、私も。 衣食足りて礼節を知るという言葉があります。またギリシャにはスコレーという言葉もありましたね。最低限の生活が確保されていなければ、善の追求や真実を探すことなどと言うのは、難しいでしょう。日々の生活もままならないなら、それどころではないからです。 しかし捨ててきたものも多いのです。私には。皆が大事だと思っている荷物についても、わたしはこれは要らない、あれは要らないと言って捨ててきたのです。その結果、回答者さんの言う余裕が生まれたのなら、実際には、自分も大して余裕のあるわけではないのだと思います。 有能な人は、過不足なく必要なものを得ていくものです。自らの能によって余暇も獲得していくことでしょう。在った物を減らすことによって余暇を生み出すやり方は、ある意味で切羽詰っているのであるとも言えるでしょう。私のやり方は貧しい人が終には家財道具を売って銭を得るようなやり方であったかもしれません。しかしそれくらい、善や徳、真というものが魅力的に映っていたとも言えます。高望みであったとも言えるでしょう。自分の愚かさすら知らない愚者が、智慧を求めるとはそういうようなものなのかもしれません。しかしその想いだけは本物であるかもしれないのです。求道心に貴賎はないのでしょう。

noname#155689
noname#155689
回答No.21

> 善悪を超えるということはどういったことなのでしょうか。 善悪なんて気にしてられないくらい 切羽詰ることも必要なんじゃない? やるべきこと、やらねばならないことが曖昧で 覚悟が出来ないから 善悪なんて基準で悩むんじゃない?

noname#144995
質問者

お礼

悩んでいるわけではないのです。 (CUEさんにそのようなことを言う気はないのだと思いますが、)切羽詰った境遇で、善悪を超える必要があるというのはありえると思います。どさくさにまぎれて悪をなしてしまうというようでは話にならないですが。 やるべきこと、やらねばならないことはその時々に応じて出てくるものであると思います。いつもこれをしていなければならないということはあまりないのではないでしょうか。 むしろ、押し付けられたような事柄ではなく、能動的に関わる中で、覚悟とかいったことが生じえるのだと思います。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.20

追伸 諸行無常であるからこそよく生きるべきだと思うのですが如何でしょう。 ○ その通りだと思います。誰しも死んで持っていけるのは心だけですから。 純粋さと言うことについても何か言っていただけるとありがたいです。 ○ 真実、正義などを追求する心、守る心がなければ向上などありえないのです。心は限りなく純粋でなければ退転していくものなのです。 例え、世の中の著名な学者、政治家、宗教家であろうとも間違いは間違いとし、また、例え、一般に受け入れなくとも正しき者またはその言動は正しきものとして評価すべきなのですね。そこに純粋さが必要なのです。哲学の高みは純粋さのみで維持できるのですね。純粋さを失えばゴミ知識にまみれていくことになるのですね。まあ、知識ではコンピュータにかなわないですしね。 というこで、純粋さは非常に重要なことですね。純粋さを持ち続ければ哲人ソクラテスに心を合わせることも可能になります。心の世界では1000年2000年の時間・年月はなんの意味も持たないのです。

noname#144995
質問者

お礼

有難うございます。 偏見を持たないということが大事なのですね。以前、自分も賢聖になりたい、と思っていたことがありました。それはどこか漫画のようなイメージで、キラキラし田茂のだったのですが、本物の賢聖というのは、シンプルな戒律で整えられた人なのかもしれないと思う次第です。喩えば余計なことを考えない人とか、こだわりのない人だとか、明るい人だとか、表記すれば実にシンプルなことが、聖なるものであったり賢いことであったりするのではないかと思っています。純粋さも、実はシンプルなことで、賢聖の諸性質の一つだと思います。昔、慧能が、菩提樹などもとよりなし、鏡台ももとよりなし、何処に塵芥のつくよすががあるだろうかと詠ったらしいのが記憶に蘇りました。純粋と言うのは、決して汚れない空性を保っているのかなとおもいました。

noname#144995
質問者

補足

 「菩提本と樹無し、明鏡また台無し。仏性常に清浄、何処にか塵埃有らん」(敦煌本)  「菩提本と樹無し、明鏡また台に非ず。本来無一物、何処にか塵埃を惹かん」(興福寺本) 慧能の言ったことを調べてみると、上の通りでした。

noname#143207
noname#143207
回答No.19

 はじめまして、ひどっちと申します。  後者の方につきまして、愚見を述べたく存じます。 > 善悪を超えるということはどういったことなのでしょうか。善悪を超えるということは目標になりえるのでしょうか。  一例を挙げさせていただきます。  例えば、19世紀におきましては、まだキリスト教的な道徳観が健在かつ強固に存在していたかと思われます。  しかし、近代工業文明の始まりにより、新しいものがすぐれ、大量にあることが良いといった価値観が生まれました。つまり、人は豊かさを追い求め、豊かでないと不幸を感じるようになっていった訳です。そこでは、旧来のキリスト教的な道徳観は、物質主義(快楽主義)になった人々に対しては、もはや響かなくなっていきました。  そう致しますと、”貪欲を戒める”に対しまして、”貪欲を推奨する”。といった矛盾が生じてきます。かような条件下(既存の価値の上に、新たな価値観が加わりますと)におきましては、「善悪の相克」なるものが謳われる場合がございます。 > 善悪を超えるということは目標になりえるのでしょうか。  その各々の時代に、要求されるといった方が近いのかもしれません。目標なるものが必要とされる、と考えております。  ご参考になれば、幸いでございます。

noname#144995
質問者

お礼

ありがとうございます。 善悪の相克ですか。カッコイイ響きですね。 この貪欲に関する相克を止揚するのは、質的向上といったものとなるでしょうか。量があればいいのではない。質のよいものが適量あるのがよいのだと。 各々の時代に要求される、目標なるものが必要とされる、、壮大な話です。

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    http://qanda.rakuten.ne.jp/qa4598442.html で、後日の投稿をお願いしながら閉じてしまいましたので、 続きとして、開きます。よろしくお願いします。 質問は同じです。 善悪を徹底的に探究(哲学)する時、直ぐに善行悪行にすり替えてしまうのは、間違いではないかと気付きました。 善なる者である時、善行だけしていて、悪なる者である時、悪行だけしている?こんな単純モデルで充分理解しているとは、思えません。 「悪意の在る善行」、「善意の在る悪行」もあるかもしれないと思うわけです。何か分かりやすい例示があれば、教えてください。 (補足説明)前回、人は善であると言っても、独善なのだという方向に傾きました。そして、善悪の判断は、絶対的でも普遍的でもなく、まったく恣意的なのであるという点を確認できました。ゆえに、善悪は、独善的かつ恣意的な判断基準であることを前提にして、面白く・興味深い例示を教えてください。

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第九章 いわゆる真善美について  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 情欲は罪だと言おうとしたのは なぜか

     この種の質問を重ねましたが あらためての設問です。  それは どのように 情欲を 克服するかには 直接 かかわりません。実際に どのように 扱えばよいかという処世術の問題ではありません。それなら 無理することなく 受け留めていけばよいと考えます。  趣旨説明は 次のようです。《罪》という概念が 鍵語であるようです。  人間の存在は 善悪を超えています。そのような価値判断に先行して 存在があります。《善悪を超えている》ものとして 存在は 善です。規定するとすれば そうなるはづです。  さて この存在とその持続に反することは 善ではなく 善を傷つけることです。この非善を 悪と称するというのが わたしたちの言語習慣だと見ます。  この悪にかんして そのような内容のことを 思うことからも 行なってしまうことからも わたしたちは まだ 自由ではありません。悪なることを思い行なってしまいます。この相対的な存在は 相対的な善であるに過ぎません。  だとすれば この悪から自由になろうと思えば そのときには おそらく最終的には 人間の能力と努力とでは 無理だと考えられます。しかも 悪から自由になりたいと思うなら おそらく ひとは この相対世界を超えたところに 解決(つまり すくい)を問い求めるように思われます。言いかえると この悪にかんして 人びと互いに対するものではなく――と言っても ふつうに 互いに 責任を負うことも 実際だと言わねばなりませんが―― その絶対の世界に対しての責任だと捉えるというものです。すなわち 《罪》という概念を持つというものです。  さて 果たして 情欲は 悪であり 罪であるでしょうか。  その昔には そう考えられたという歴史があります。どうして そのように考えたのでしょう。  現代では 何も考えないというのが 正解なのでしょうか。  長くなりますが わたしの考えでは もうすでに いわゆる《原罪》は 贖われ 跡形だけが――つまり しみ・そばかす あるいは ほくろや痣といった母斑に喩えられるものとしてのみが――残っていると見ます。だったら 情欲は どうなのでしょう? もともと 悪でも罪でもなかったのか。あるいは そうではあったが 原罪とともに 多少の後遺症をともないつつ その傷跡が 残っているだけだということでしょうか。どうも そうではないようですから あるいは ひょっとして エロスとして 古典古代人が神々の内に数えたごとく 中性の生命力〔の一側面〕と見るべきなのでしょうか?  以上の問いに よろしくご見解をしめしてください。 

  • 捻くれた自分を直したい

    20歳大学生です。私は自分と合わない考え方をする人に対して斜に構えてしまいます。 例えば私は「外国に行って新たなものを見る、経験する」という事を重要視していないため、外国に行ったという話を聞くと、「なぜわざわざ外国に行ったのか、日本じゃダメだったのか、ただ外国に行ったというステータスが欲しかっただけではないか」のように考えてしまいます。 また、TwitterやFacebookで前向きな発言をしている人を見ると「なぜわざわざ発信したのか、そういうことは自分の胸の内に秘めておくことだろう、ただ自分は意識が高いんだ!とアピールしたいのか」と思います。 (言い訳なのですが「田舎で雪かきなどをして老人を助けた、今後もここで暮らし人々の役に立てる事をしたい」と言った話を聞いたとき、このような感情が沸かず、とても素晴らしいと思いました) 具体的な目標もなく、ただ惰性で過ごしている私よりも彼らは遥かに立派な人間だろうと思っているのですが、どうしても考えてしまうのです。この感情が嫉妬なのか軽蔑なのか、私自身よくわかりません。 このせいで自分の見方や考え方が狭まり、更に小さい人間になってしまうことに恐れを感じています。 どうしたらもっと素直に他人を賞賛できるのでしょうか。 どうしたら捻くれた自分を治せるのでしょうか。

  • 善は善にして常の善にあらず。「老子」

    受け売りでし。 (ヒマな時にでも)

  • 善と悪、どっちが勝つと思いますか?

    高校の時の友達、中学時代での友達とそれぞれグループでよく遊んでいます。 中学時代のグループはお互い悪口もなく、一緒に飲んだり遊んだりしても安心感があります。 高校友達のグループは、結構悪口が多くてある一人に対して嫌っている側と仲が良い側に分かれています。私はその子のことはすごく好きでしたがその子がみんなの悪口をいうのと私も言われたことで今は大嫌いです。その子はよく意地悪を言いますが、言い返すとその言い返したことだけをみんなに言いふらしたんです。「こんな風に言われたー。」みたいな感じで、それを聞いて少しでも私が悪者に思った子もいると思います。 よく自分は言うだけ言って被害者ぶるのですが、そんなやっかいな人どうしたらいいでしょうか。 あんまり関わりたくないんですが、会わないと「どうして会ってくれないのかな」と自分に原因があるにも関わらずほかの 友達に泣きついています。 私と同様その子に疲れている子もいますが、その子は頭も切れるしなんか、同情をかうのがうまいんです。 しかも集まりを仕切っているし。 その子は根がすごく悪いですが、ほとんどの子は直接被害にあっていないためけ、あっても気がついていないためか、その子をそんなには意地悪に思っていないように思います。。 ほかの子を見方につけようとして私が理不尽に悪く思われるのはすごく嫌です。 でも過去に実際私もその子がほかのこの一方的な悪口をいうのに同調してしまったことがあります その子の悪口の風潮に少し染まった感じの子もいて、グループ全体が悪い考えの人が仕切るほうに傾いたらとおもうと本当嫌です。 私自身何が正しいのか、そもそも正しい人が勝つことができるのかわかりません。もしかして先に悪口を言ったもの勝ちなんですかね?

  • 善と悪

    生まれつき善良な人間は成長していくうち生き苦しくなり悪に染まりやすい気がします。逆に悪で生きてると徐々に改善され善人になる感じがします。 というのも子供の頃暴れん坊が大人になり落ち着いたり、優等生が大人になりすれたりします。 性善説とか性悪説とかありますが人によって生まれつき悪と善がいる気がします。因みに生まれつき悪の方が善人になり生まれつき善が悪人になるような気がします。どう思いますか?

  • 善・善という人がいて困っています。

    善・善という人がいて困っています。 他人をたしなめようとなさる方が、よく  意思は良いものであるというような論旨で物事をかたっているかと思います。 「意思は、善である」と断言するのは問題ではないでしょうか?というのも「アレコレイズム」が、全て善となってしまうからです。「意思は善である」と述べたとき、その根拠は何処にあるのでしょうか?わかる方お願いいたします。

  • 「善」について

    私は大学で哲学を学んでいます。 それで今道徳についていろいろと研究しているのですが、その中で「善」や「善い」と言うものがしばしば出てきます。 皆さんは「善」とは一体どういうものだと考えますか?