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ギリシャの哲人ソクラテスは、『只生きるのではない、善く生きるのだ。』と言ったと聞きます。なるほど相だと私は思うのですが、一体善く生きるとはどういった人生、生き方、人の有り様の事を言うのでしょうか。人は何を善と言って、それを賞賛し目標とするのでしょうか。 また、善悪を超えるということはどういったことなのでしょうか。 善悪を超えるということは目標になりえるのでしょうか。 昔、少年のように屈託なく善を探していた頃がありましたが、最近は胸の内もすっかり錆び付いて、寂しさに埋もれている私です。今改めて、純粋な探究心を取り戻したいと思っています。 どうぞよろしくお願いします。

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  • amaguappa
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回答No.25

17です。 > 善が神へ通ずる回路によって示されうるのではなく、個的に湧出するオリジナルのものになったとも見れます。その方が、素晴らしくないですか。 わたしはつねづね、思考に少しもブレーキ力を見出せなくなるまでは、ドライブモードで思考しないようにしたいと思っています。 歴史をずっと遡ってみると、むしろ、「善」はかつて個的に湧出していたところへ、文明とともに神への回路に変化したのではなかったでしょうか。 人類に書字が必要になったのは、土地や私有財産の権利を石板に掘りつけるためでした。この、言葉と書字と財産との緊密な関係は、人間が社会を形成する力学の礎でしょう。話し言葉だけでは、平和裡に財産を蓄積し子孫に残し、耕作や牧畜を維持発展継続させながら人数と領域を拡大させる勢いが、安定的に得られないのですね。 仮にそんな時代のことを思えば、東西をとわず、善とかgoodとかbienの語源たちが意味するものとは、案外即物的であるかもしれないと思います。 漢和辞典をひくと、善という漢字は、羊の立派なお供え物に才智あふれる立派な言葉の組み合わせで、たっぷりと豊かなことを意味するとあります。goodやbienには意味がたくさんありますね。それぞれ700-1100年頃の古英語go-dと紀元前50年頃の古典期ラテン語bonusへ遡る限りでは、英語の方は、適合や適切さを表しています。ラテン語のほうは今日と変りないくらい意味する範囲が広いです。抽象名詞化した語のほうを見ると、善/優秀/財産/利益/幸福/安泰(bonum)のほかに、財産(bona)、善/優れていること/誠意(bonitas)、愛国者/貴族党(bonus)あたりの語を生んでいます。 こうして見ていると、お祭りを一緒にする程度のコミュニティでの人づきあいにおける資質から、都市国家の安定的な形態を維持する構成員としての資質にいたるあたりまでを善と呼んでいたような気がしませんか? そうしたとき、ちょうど羊と言葉のように、他者へ与えられうる充足したものを具備した様子が想像でき、善の意味の源は、一つの強い力であると考えられるのです。きっと、西洋文明の流れでは、そのような力は、コミュニケーションや交渉に際して圧倒的に有利となるような豊かさなのだろうし、そのような個の集合した国家アメリカの自尊心は同じ理屈でまかりとおるのだろうなと思われます。 けれども東洋では果たして(もちろん一枚岩ではありませんが)、善の意味の源が上記のような一つの強い充足した力であるということを、相乗相剋しながら流転している要素と捉えるような気がするのです。天命や運命のもとで、善というそのような充足した力が折々に、人の資質というかむしろ境涯に現れ、また折々に去るといった感じですね。 だから、パーソナリティとしての善が考えられうるのは西洋的な発想だと思うのです。 こういうのは物語世界にも反映していて、王権神授めいた神聖な印の杯や剣といった道具立てを介して、西洋の王は王になるべく王になったなら、そのアイデンティティを喪失しないでしょう。東洋の皇帝たちは物語においてさえ興亡盛衰史を紡ぐ模様のように描かれるでしょう。 善の話をしていて王や皇帝の話になるとは、ちょっとおかしいものですね。でもよく考えると、やっぱり至高の力として、善とは、観念の側面以上に具現される側面の強いものだということになるのでしょう。 お尋ねがありましたが、善に生まれるのではなく善になるのだ、とわたしが書いたのは、相乗相剋的な見方に通じていると思います。ものやことが、生来的に、生得的に、善であったり悪であったりするのではなく、変化に富んだ流れが作用しあうなかで、局所にあるものやこと、そして人が負う様相、あるいは負わされる様相が、善や悪だと考えます。先に述べたように、それらは、コミュニケーションや力の場で他者におよぼす力学を潜在的に持っている状態を指していると思うからです。 そういう意味では、おっしゃるようなオリジナルな湧出には届かないかもしれず、微弱な磁場としての合意形成を読む、といったホタルの明滅のような光よりほかにないのではないかとさえ思います。 > 大きなロゴスにも小さなロゴスにも、光を当てる機会に恵まれているからです。 色々な善があってよい。それぞれに究極があってよい。道は一つではない。完成 に至る道は一つかもしれないが、それは各々の人間に存在するのであって、外部 的に与えられる一つの道ではないでしょう。満天の星の如く、善が輝けばよいと 思うのは賎しいでしょうか。 たぶん、善が力であるというわたしの論旨に沿うなら、各々のそれが、属性(attribut)のロゴスによって光るのであるなら、拮抗や征服を呼びこんでしまうでしょう。アラブ人であることが善だとか、キリスト教徒であることが善だとかの話です。 そうではなくて、ほんとうに難しいのですが、人が自分を自分であると認める疑いのなさ(identite)に立って、ものごとを見、互いに他者を見渡したときに、満天の星であることに気付くという、ただそれだけのことが、善という大局の力の一部に自らを列することになるのではないかと思います。

noname#144995
質問者

お礼

私の住むところでは、夜、裏山へ上って街を見下ろすと、湾の手前に、星々が重ね重ねになって畝を作っている様な景色を目にすることができます。 史上空前の発展を遂げている現代文明の只中で生きる者として、人類の拓いた地平の広さ、そしてそこに住む千、万の人々の人生を思うと、ああ、もう(思索などは)どうでも良いのだな、私は私、一人としてただ生きて行くほかないのだろうと、無力感による自己回帰に至ったりします。 以前はどこか尊大に、自分が何者かであるように思い為して生きてきた節もあったのですが、自分存在のある種の矮小さと、個としての確実性を実感すると、現代文明に生きる当事者としての人生の有り様が意識されて来ます。地上の星々の合間を縫うようにしてあくせくと働き、全体の数を思えば僅かの数であろう人々との交流を為し、50年と言う人生は短いものと悟って寂しげに生きてゆくのかと思うとやるせなくなります。そのような中で改めて善を志向すると、善は宇宙の幅を渡る星の光とは違う、ぽっぽと明滅する蛍のようなやさしい光ではないかと。そういう認識に至ります。 されどしかしながら、自らの歩むことが可能な人生において、自由や平等、清浄さと言う事柄を求める所にはやはり、星間を渡るに十分な風が吹きえるのであり、人はその風を捉えて広大な世の中を越えて行けるだろうと望みを感じたりもするのです。そのような求めに伴う善を身に纏うのであるならば、人生の終局に至りて、善く生きた、というのも夢ではないだろうと思えるのです。 随って善く生きるとは、矮小な個であるのに尚、真実の智慧に生きようとする勇気のある人の生き様ではないかと思い至りました。 善が力であるならば、このように広大な文明を発展させた人類社会においては、尚更非力なる個人ということになってしまう。そして事実非力なる、つまり善においては消極的存在でしかありえない個人だとしても、輝ける人生を得ようと思うならば、聡明さに任せて求めるところを定めるべきであると。一人一人の形なき理想を持ったミュトスが、その人を地平を越えた境地へと推し進めてくれるのではないかと期待しているのです。

noname#144995
質問者

補足

お礼文の最後部分、ミュトスと言う単語を使いましたが、意味は「流れ」「志向性」と捉えてください。

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その他の回答 (28)

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.8

 とても難しい問題だと思います。「善」といっても例えばソクラテスの説くそれと儒教で説かれるそれでは恐らく意味が異なったモノでしょう。また「少年時代の善」と「今の君にとっての善」でも内容が違ってくることも当然です。  子供の頃には親や学校で「困っている人がいたら助けてあげましょう」と教えられてそうすることも「善」とされましたが、大人になってからも同じ行為をしては相手を助ける事に必ずしもつながらないケースもあります。相手が怪我を克服するためにリハビリ訓練をかねての外出中だった場合などには下手に手を出すことが相手にとって「リハビリを妨げる」ことを意味するなどの場合は多々あります。  昨年のあの本以来「善とは何か」「正義とは何か」と一つの物事に対して何か「普遍的な定義付け」が可能であるかのように考える風潮もあります。勿論、著者としてはそうした風潮に対して不本意と同時に危惧を感じてはいるものの、世間では何か絶対的な価値の基準があるかのように錯覚しているのでは?と僕は思います。  ですから僕個人の感想としては問題に出くわした時に「差し当たって僕に出来ることは何か?」と自問自答した上で対応せざるを得ない、としか答えようがありません、まことに悩ましい問題ではありますが。

noname#144995
質問者

お礼

ありがとうございます。 >世間では何か絶対的な価値の基準があるかのように錯覚しているのでは?と僕は思います。 そうですね。絶対的な価値基準があると頑なになっては、かえって探求は損なわれるかもしれません。 > ですから僕個人の感想としては問題に出くわした時に「差し当たって僕に出来ることは何か?」と自問自答した上で対応せざるを得ない、としか答えようがありません、 自分にできることを為す人が賢者であると聞いたことがあります。自分にできることは何かを自問自答すること、それもまた、自分自身の歩みを豊かにすることなのかなと思いました。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.7

>ひとにやさしくあれとか、まっすぐに生きるとか、そういうことは善く生きることになるのではないかと思うのですが如何でしょう。 あ、いいですね。 ただし、やさしさの押し売りはいけないですよね。 優しさを出せと要求するより、もと説得力のあるものは無いでしょうか? 倫理として旧約聖書が参考になると思う。古代の倫理ですが、「赦しなさい」って教えがあります。 なんでもかんでも盲目的に赦せとは、旧約聖書は言っていない。 真理に沿って赦しなさいと言っている。 で、真理はどういうことかと明確には書かれていないが、例えで紹介されている。 自分の家畜がご近所さんの家畜と喧嘩して谷底に落としてしまったら、お祈りの時間であっても、まず先方に侘びを入れに行くこと。 そしてここが肝心なのですが、お詫びをされた側は、赦さなければならない。 どうしてかというと、逆の立場になったとき、赦されるから。 快楽殺人した人まで赦しなさいとは聖書は言っていない。 この理を短い言葉で表すと「情けは人のためならず。」

noname#144995
質問者

お礼

ありがとうございます。 >優しさを出せと要求するより、もと説得力のあるものは無いでしょうか? 真実の探求と言うのは如何でしょうか。あからさまにやさしくはないですが、やはりそれを探求している人には何らかの気高さが伴うと思います。 >倫理として旧約聖書が参考になると思う。古代の倫理ですが、「赦しなさい」って教えがあります。 真理に沿って赦すですか。なかなか奥がありそうです。心理と言うことばには深遠な印象がともなっていて、容易に解釈はできないのですが、話に奥行きや広がりが出て、いいなぁと思います。

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.6

>自分勝手なことをしても、結果的に善く転んだりすることは考えられないでしょうか。 多分、あなたを含め大部分の人類は勘違いをしていると思います。 行為や結果に善悪はないのです。 善悪は人の心の属性であり、結果の属性ではないのです。 結果的に良いからといって私が善人であることにはならないのです。

noname#144995
質問者

お礼

なるほど。了解しました。それは最もな言い分だと思います。

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.5

悪をなすことができない人の行う行為はすべて善になります。 では悪とは何かといえば自我を中心とした行為ですね。 ゆえにやるべきことは自我の解体です。 善とは何か、は分からなくても、悪とは何かははっきりしています。 理屈でいえば簡単ですね。

noname#144995
質問者

お礼

ありがとうございます。 自分勝手なことをしても、結果的に善く転んだりすることは考えられないでしょうか。 知らずに善を成したり、知らずに悪を為したりすることはないでしょうか。 そう考えると難しいですね。。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.4

では、善く生きるとはどういうことか とその後展開していったわけですが、実は現代を持っても善く生きるということが、どういうことかはっきりとはわかっていないんです。 善いということは普遍性があるべき。 時代や条件によって善くなったり悪くなったりするのは、普遍性が無いわけで、まったくの善とは言えない。 どんなことをもっても、殺人は善いことではないはず。 誰もが不快に思う行為であるはず。 ですが、ご承知の通り、ビンラティンが暗殺され、アメリカ国民の多くはその殺人を善いことだと喜んだと報道されている。 死刑というものもある。 もし人殺しが悪いことなら死刑制度はありえないはず、暗殺もありえないはず、暗殺して正義を果たしたと喜ばないはず。 ということは、殺人は善いことでもあるってことです。 では、悪いこととは何でしょう? 善いことがわからないのと同じように、悪いこともわからない。 で、フィロソフィアとは哲学と訳されますが、愛智という意味で、善を模索して考える行為が、ただ生きるのではなく、何が善か考えながら生きるべきだ というのが、ソクラテス および プラトンの言うことのようです。 そこで、政治哲学のマイケル・サンデル氏がいろいろ問題定義をしたわけです。 多数の人の命を救うためには、一人の無実の人が死んでもいいのか とか。 多数の命を救うためには、一人の罪も無い人を殺してもいいのか とか。 多数の命とはアメリカ国民のことか、それとも多数をコントロールする支配階級の人のことか。 ビンラディンの暗殺は、多数の考えをコントロールし支配する少人数のために行われたことであって、国民を救うためではない。 ですから、本当は大勢の国民の平和のためではなく、ごくごく少数の将来安泰のための殺人、それが正義だとなっているわけです。 では、ごくごく一部の支配者層が何不自由ない暮らしができることで、国民を自分たちの思うようにコントロールでき、自分たちが見せる幻の平和を、国民が自分たちは平和を与えられたと感謝し、その世界が人々が目指す善の世界となりうるのか。 多数者が幸福であれば、作られた偽の平和な世界を<与えられ>、与えられたものは<満足>するのが当然なのか。 結局は、一人ひとりが満足であれば、誰も不幸な人はいなくなり、善の世界になりうると思う。 例えば、ソクラテスは多数決で死刑が確定しましたよね。 「本当に正しいのか もう一度よく考えてみよう」と若者に喚起したことで、政治家の言うことが本当に正しいのか議論されることとなり、政治家は今までのように自分たちが決めたことを国民が安易に受け入れてくれなくなることを恐れ、若者をたぶらかしたという罪と神を不敬した罪で、ソクラテスを黙らせようとしたわけですよね。 茶番裁判で、それくらいのことで、死刑だってしたわけですが、ソクラテスのやった行為が死刑に値するとはとても思えないもので、政治家たちもそこまで善悪がわからなかったわけではなく、感情的になり脅す程度だったのではないかと思えます。 現にその頃は賄賂を渡せば脱獄できるくらいゆるいものだったそうで、弟子のプラトンは賄賂渡して無罪放免にしてもらおうとしたと思えます。(賄賂を渡して脱獄させようとしたとは書いてあるが、結局無罪放免に賄賂を渡せばできたのではないかと) ところが、ソクラテスは、多数決が独裁政治よりマシという考えから、多数決で決まった死刑を受けないと、正義に反することになるとして、自分から毒を仰ぎ自らに死をもたらしたわけです。 誰かソクラテスを救えなかったのか と考えます。 ソクラテスの理論を覆してやり込められる知恵があれば善いのですが、2000年以上前から現代もちっとも変わっておらず、今もって無いが善なのかわからないので、ソクラテスをいまだに救えていないわけです。 ですが、これからも救えないからといって、今後もソクラテスを救えた方法を考え付けないかというと、もしかして1億年後 画期的な考えが出てきて、ソクラテスの考えを覆せるときがくるかもしれないと希望を抱き、今後も人間は考える葦であるとして、人間賞賛をしていこうってことのようです。 まあ その前に我々は死んでますが、、、、未来人が解決するという希望を胸に、ともし火を消さず未来に伝えていこうってことだと思います。 善悪を超えるというのは、要するに神のことだと思えます。 例えば洪水は神が起こしたとしますよね。 理由は氷河期が終わり、地球が温暖期に入ったため、氷が溶けて世界各地に洪水が起こったのだと思いますが、、、 神が洪水を起こした理由は、人間があまりにも神からみて悪くなりすぎて、こんなひどい世界は無くした方が不愉快にならなくてすむと思い、神が洪水を起こし、罪があるのかどうか定かではない動物たちも水死させた。 で、天災は神が起こしたとしても、自然(神)は人間ではコントロールすることができず、「神は悪いやつ」だと捕まえて二度とさせないようにはできず、人間ができることといったら、自然(神)を憎むより、自然の恐ろしさに畏怖し、もう起こさないでくださいと嘆願することだけ。 善悪を超越した存在に畏怖することしかできない。 地震は善悪を超越したものですよね、太陽は核融合を起こし放射能を大量に地球に向かって放射していますが、太陽の恩恵があり生命が誕生したので、太陽を悪だということすらできず、善悪を超越した存在。 で、地球の各地では神を崇拝していますが、自然 特に太陽信仰が盛ん。 太陽を憎むのではなく太陽の良い面に感謝することで、収穫を喜び、生命を持続できるのは太陽のおかげと喜ぶ生き方をしており、その生き方は善悪を超越したものだと私は思います。 超越ってのは、それを上回るというより、ある意味コントロール下に置くってことですよね。 コントロール下に置くことで、太陽のよい面に感謝をするという心が持て、自分の感情を支配(コントロール)できている。 ただ、自分の感情を自分の支配下におくってのが、結構難しいわけです。 暴れ狂う感情を落ち着かせ、感謝する心がもてたら平和になるわけです。 それはヨブ記(聖書の中の物語)でもいえることです。 ヨブは善人だとされたが、散々な目に遭い、友達と思った人たちからも、何かわからないがお前に非が絶対にあったんだと、人生を否定されてしまい、まったくの一人ぼっちになり、納得がいかないとして、神の前にとうとうたった。 そのとき、自分では支配できないものがあり、全部をわかっているわけでもないのに、わかったかのように神を批判するかのような行為をした自分が、本当の不幸を起こしたと知り、やっと自分をコントロールすることができ安息になった。 神を畏怖することができたために、安息になった。 だから、徹底的に不幸続きで、誰も助けてくれず絶望の際においても、安息に至ることは可能という希望の作品(思想)。 まあ そんなわけで、ヨブ作家の愛智もすごいものだなぁって思います。

noname#144995
質問者

お礼

ご回答有難うございます。善のうちで、普遍性のあるものには、どのようなものがあるでしょうか。 >実は現代を持っても善く生きるということが、どういうことかはっきりとはわかっていないんです。 そうなのですか?ひとにやさしくあれとか、まっすぐに生きるとか、そういうことは善く生きることになるのではないかと思うのですが如何でしょう。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

一体善く生きるとはどういった人生、生き方、人の有り様の事を言うのでしょうか。 ○ ソクラテスのような哲人が言うところの「善」は日常性に存在する善悪を指しているのではありません。 そのような善であればソクラテスが出てくる必要もないのですね。学校の先生で十分でしょうね。例えば、校則を守ることが「善」であれば、小学生からそこらじゅうにソクラテスがいることになりますからね。 凡人はソクラテスのような天才、偉人を自分と同じように考えてしまうところに大きな間違いが生じるのです。また、そのようにして生まれる日常的な常識が純粋なものをだめにしてしまうのですね。どんどん高みから転落し、地べたを這う蟻が如くの群れになってしまうのです。 さて、質問の本題に戻りますと、地上にある全ての事象にソクラテスの真の「善」はあるかといえば「ない」のですね。ソクラテスの「善」とは精神的な「向上」を目指すことなのです。精神的な向上に対しては地上の全ての事象は向上のための経験知(磨くための砥石)でしかないのです。経験知のみのために悪いことも良いことも悲しいことも楽しいことも天災も人災もあらゆることがあるのですね。 生まれてくる前の自分より更に向上したい、そのためにあらゆる経験知を通じて自分を鍛えたい。それが哲人の言う「善く生きる」という意味なのです。中国の哲人、孔子はこれを「天命に従い則を越えず。」と言い換えていますが同じ意味です。 さて、日常の善悪、日常の知識ではなく、日常の糧のためではなく、崇高な哲人の目から見た、または、仏の目から見たあなたの生き様はと問うているのですね。その目を通して、多くの知識が砂上の楼閣であり、全ての事象が砥石でしかないことが見えてくれば、ソクラテスの高みが見えてくるでしょう。まあ、わかりやすく言えば、日常の善悪を、哲人としての釈尊は「諸行無常」と捉えていますね。善悪とはその程度のものです。 純粋さが哲人の門の鍵でもありますね。

noname#144995
質問者

お礼

ありがとうございます。日常性と言うのは、それを日常的に示現しているかどうかと捉えられても結構です。善をあらわせているかどうかという事です。つまり実際に善く生きることができているのかという事です。諸行無常であるからこそよく生きるべきだと思うのですが如何でしょう。 純粋さと言うことについても何か言っていただけるとありがたいです。

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回答No.2

深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。 その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。 そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。 その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より深まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(自我仮説と時空仮説の相補分化)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。 それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(低認識(自己チュー)なままの他律的社会性)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=充足減)に属する。

noname#144995
質問者

お礼

独特の言葉を使われるのですね。ちょっと理解できなかったのですが、ひとまずご回答有難うございました。独自の言語体系を持っている人もいておもしろいのですが、理解できないということが少し残念でもあります。何回も読んでみます。

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  • under12
  • ベストアンサー率12% (202/1671)
回答No.1

善悪とは何か。それは価値体系における座標軸の一つです。 したがって、カント以降の西洋哲学や、「善の研究」の著者である西田幾多郎を 学んでみてはどうだろうか。また、誰もが知っている宗教団体の一つに「創価学会」 があります。あの「創価」は価値創造を意味します。 まあ、内面に問題がありそうなので、研究する分野の探求よりも、信頼できる人間に アドバイスをもらう方が実践的だと思います。日常とかけ離れた探求なんて、一銭の 価値もない。哲学カテに常駐している変人や病人のようにはならないでくださいね。

noname#144995
質問者

お礼

早速の回答有難うございます。日常性の善を求めることには同意できます。実現できる善と言ってもよいでしょうか。善の探求という事で、久々に気力が湧いてくるような気がしています。 価値体系における座標軸の一つですか。なるほど。わかる気がします。自分はその座標軸を重んじているということですね。 ご回答ありがとうございます。

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    http://qanda.rakuten.ne.jp/qa4598442.html で、後日の投稿をお願いしながら閉じてしまいましたので、 続きとして、開きます。よろしくお願いします。 質問は同じです。 善悪を徹底的に探究(哲学)する時、直ぐに善行悪行にすり替えてしまうのは、間違いではないかと気付きました。 善なる者である時、善行だけしていて、悪なる者である時、悪行だけしている?こんな単純モデルで充分理解しているとは、思えません。 「悪意の在る善行」、「善意の在る悪行」もあるかもしれないと思うわけです。何か分かりやすい例示があれば、教えてください。 (補足説明)前回、人は善であると言っても、独善なのだという方向に傾きました。そして、善悪の判断は、絶対的でも普遍的でもなく、まったく恣意的なのであるという点を確認できました。ゆえに、善悪は、独善的かつ恣意的な判断基準であることを前提にして、面白く・興味深い例示を教えてください。

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第九章 いわゆる真善美について  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 情欲は罪だと言おうとしたのは なぜか

     この種の質問を重ねましたが あらためての設問です。  それは どのように 情欲を 克服するかには 直接 かかわりません。実際に どのように 扱えばよいかという処世術の問題ではありません。それなら 無理することなく 受け留めていけばよいと考えます。  趣旨説明は 次のようです。《罪》という概念が 鍵語であるようです。  人間の存在は 善悪を超えています。そのような価値判断に先行して 存在があります。《善悪を超えている》ものとして 存在は 善です。規定するとすれば そうなるはづです。  さて この存在とその持続に反することは 善ではなく 善を傷つけることです。この非善を 悪と称するというのが わたしたちの言語習慣だと見ます。  この悪にかんして そのような内容のことを 思うことからも 行なってしまうことからも わたしたちは まだ 自由ではありません。悪なることを思い行なってしまいます。この相対的な存在は 相対的な善であるに過ぎません。  だとすれば この悪から自由になろうと思えば そのときには おそらく最終的には 人間の能力と努力とでは 無理だと考えられます。しかも 悪から自由になりたいと思うなら おそらく ひとは この相対世界を超えたところに 解決(つまり すくい)を問い求めるように思われます。言いかえると この悪にかんして 人びと互いに対するものではなく――と言っても ふつうに 互いに 責任を負うことも 実際だと言わねばなりませんが―― その絶対の世界に対しての責任だと捉えるというものです。すなわち 《罪》という概念を持つというものです。  さて 果たして 情欲は 悪であり 罪であるでしょうか。  その昔には そう考えられたという歴史があります。どうして そのように考えたのでしょう。  現代では 何も考えないというのが 正解なのでしょうか。  長くなりますが わたしの考えでは もうすでに いわゆる《原罪》は 贖われ 跡形だけが――つまり しみ・そばかす あるいは ほくろや痣といった母斑に喩えられるものとしてのみが――残っていると見ます。だったら 情欲は どうなのでしょう? もともと 悪でも罪でもなかったのか。あるいは そうではあったが 原罪とともに 多少の後遺症をともないつつ その傷跡が 残っているだけだということでしょうか。どうも そうではないようですから あるいは ひょっとして エロスとして 古典古代人が神々の内に数えたごとく 中性の生命力〔の一側面〕と見るべきなのでしょうか?  以上の問いに よろしくご見解をしめしてください。 

  • 捻くれた自分を直したい

    20歳大学生です。私は自分と合わない考え方をする人に対して斜に構えてしまいます。 例えば私は「外国に行って新たなものを見る、経験する」という事を重要視していないため、外国に行ったという話を聞くと、「なぜわざわざ外国に行ったのか、日本じゃダメだったのか、ただ外国に行ったというステータスが欲しかっただけではないか」のように考えてしまいます。 また、TwitterやFacebookで前向きな発言をしている人を見ると「なぜわざわざ発信したのか、そういうことは自分の胸の内に秘めておくことだろう、ただ自分は意識が高いんだ!とアピールしたいのか」と思います。 (言い訳なのですが「田舎で雪かきなどをして老人を助けた、今後もここで暮らし人々の役に立てる事をしたい」と言った話を聞いたとき、このような感情が沸かず、とても素晴らしいと思いました) 具体的な目標もなく、ただ惰性で過ごしている私よりも彼らは遥かに立派な人間だろうと思っているのですが、どうしても考えてしまうのです。この感情が嫉妬なのか軽蔑なのか、私自身よくわかりません。 このせいで自分の見方や考え方が狭まり、更に小さい人間になってしまうことに恐れを感じています。 どうしたらもっと素直に他人を賞賛できるのでしょうか。 どうしたら捻くれた自分を治せるのでしょうか。

  • 善は善にして常の善にあらず。「老子」

    受け売りでし。 (ヒマな時にでも)

  • 善と悪、どっちが勝つと思いますか?

    高校の時の友達、中学時代での友達とそれぞれグループでよく遊んでいます。 中学時代のグループはお互い悪口もなく、一緒に飲んだり遊んだりしても安心感があります。 高校友達のグループは、結構悪口が多くてある一人に対して嫌っている側と仲が良い側に分かれています。私はその子のことはすごく好きでしたがその子がみんなの悪口をいうのと私も言われたことで今は大嫌いです。その子はよく意地悪を言いますが、言い返すとその言い返したことだけをみんなに言いふらしたんです。「こんな風に言われたー。」みたいな感じで、それを聞いて少しでも私が悪者に思った子もいると思います。 よく自分は言うだけ言って被害者ぶるのですが、そんなやっかいな人どうしたらいいでしょうか。 あんまり関わりたくないんですが、会わないと「どうして会ってくれないのかな」と自分に原因があるにも関わらずほかの 友達に泣きついています。 私と同様その子に疲れている子もいますが、その子は頭も切れるしなんか、同情をかうのがうまいんです。 しかも集まりを仕切っているし。 その子は根がすごく悪いですが、ほとんどの子は直接被害にあっていないためけ、あっても気がついていないためか、その子をそんなには意地悪に思っていないように思います。。 ほかの子を見方につけようとして私が理不尽に悪く思われるのはすごく嫌です。 でも過去に実際私もその子がほかのこの一方的な悪口をいうのに同調してしまったことがあります その子の悪口の風潮に少し染まった感じの子もいて、グループ全体が悪い考えの人が仕切るほうに傾いたらとおもうと本当嫌です。 私自身何が正しいのか、そもそも正しい人が勝つことができるのかわかりません。もしかして先に悪口を言ったもの勝ちなんですかね?

  • 善と悪

    生まれつき善良な人間は成長していくうち生き苦しくなり悪に染まりやすい気がします。逆に悪で生きてると徐々に改善され善人になる感じがします。 というのも子供の頃暴れん坊が大人になり落ち着いたり、優等生が大人になりすれたりします。 性善説とか性悪説とかありますが人によって生まれつき悪と善がいる気がします。因みに生まれつき悪の方が善人になり生まれつき善が悪人になるような気がします。どう思いますか?

  • 善・善という人がいて困っています。

    善・善という人がいて困っています。 他人をたしなめようとなさる方が、よく  意思は良いものであるというような論旨で物事をかたっているかと思います。 「意思は、善である」と断言するのは問題ではないでしょうか?というのも「アレコレイズム」が、全て善となってしまうからです。「意思は善である」と述べたとき、その根拠は何処にあるのでしょうか?わかる方お願いいたします。

  • 「善」について

    私は大学で哲学を学んでいます。 それで今道徳についていろいろと研究しているのですが、その中で「善」や「善い」と言うものがしばしば出てきます。 皆さんは「善」とは一体どういうものだと考えますか?