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kigurumiの回答

  • kigurumi
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回答No.4

では、善く生きるとはどういうことか とその後展開していったわけですが、実は現代を持っても善く生きるということが、どういうことかはっきりとはわかっていないんです。 善いということは普遍性があるべき。 時代や条件によって善くなったり悪くなったりするのは、普遍性が無いわけで、まったくの善とは言えない。 どんなことをもっても、殺人は善いことではないはず。 誰もが不快に思う行為であるはず。 ですが、ご承知の通り、ビンラティンが暗殺され、アメリカ国民の多くはその殺人を善いことだと喜んだと報道されている。 死刑というものもある。 もし人殺しが悪いことなら死刑制度はありえないはず、暗殺もありえないはず、暗殺して正義を果たしたと喜ばないはず。 ということは、殺人は善いことでもあるってことです。 では、悪いこととは何でしょう? 善いことがわからないのと同じように、悪いこともわからない。 で、フィロソフィアとは哲学と訳されますが、愛智という意味で、善を模索して考える行為が、ただ生きるのではなく、何が善か考えながら生きるべきだ というのが、ソクラテス および プラトンの言うことのようです。 そこで、政治哲学のマイケル・サンデル氏がいろいろ問題定義をしたわけです。 多数の人の命を救うためには、一人の無実の人が死んでもいいのか とか。 多数の命を救うためには、一人の罪も無い人を殺してもいいのか とか。 多数の命とはアメリカ国民のことか、それとも多数をコントロールする支配階級の人のことか。 ビンラディンの暗殺は、多数の考えをコントロールし支配する少人数のために行われたことであって、国民を救うためではない。 ですから、本当は大勢の国民の平和のためではなく、ごくごく少数の将来安泰のための殺人、それが正義だとなっているわけです。 では、ごくごく一部の支配者層が何不自由ない暮らしができることで、国民を自分たちの思うようにコントロールでき、自分たちが見せる幻の平和を、国民が自分たちは平和を与えられたと感謝し、その世界が人々が目指す善の世界となりうるのか。 多数者が幸福であれば、作られた偽の平和な世界を<与えられ>、与えられたものは<満足>するのが当然なのか。 結局は、一人ひとりが満足であれば、誰も不幸な人はいなくなり、善の世界になりうると思う。 例えば、ソクラテスは多数決で死刑が確定しましたよね。 「本当に正しいのか もう一度よく考えてみよう」と若者に喚起したことで、政治家の言うことが本当に正しいのか議論されることとなり、政治家は今までのように自分たちが決めたことを国民が安易に受け入れてくれなくなることを恐れ、若者をたぶらかしたという罪と神を不敬した罪で、ソクラテスを黙らせようとしたわけですよね。 茶番裁判で、それくらいのことで、死刑だってしたわけですが、ソクラテスのやった行為が死刑に値するとはとても思えないもので、政治家たちもそこまで善悪がわからなかったわけではなく、感情的になり脅す程度だったのではないかと思えます。 現にその頃は賄賂を渡せば脱獄できるくらいゆるいものだったそうで、弟子のプラトンは賄賂渡して無罪放免にしてもらおうとしたと思えます。(賄賂を渡して脱獄させようとしたとは書いてあるが、結局無罪放免に賄賂を渡せばできたのではないかと) ところが、ソクラテスは、多数決が独裁政治よりマシという考えから、多数決で決まった死刑を受けないと、正義に反することになるとして、自分から毒を仰ぎ自らに死をもたらしたわけです。 誰かソクラテスを救えなかったのか と考えます。 ソクラテスの理論を覆してやり込められる知恵があれば善いのですが、2000年以上前から現代もちっとも変わっておらず、今もって無いが善なのかわからないので、ソクラテスをいまだに救えていないわけです。 ですが、これからも救えないからといって、今後もソクラテスを救えた方法を考え付けないかというと、もしかして1億年後 画期的な考えが出てきて、ソクラテスの考えを覆せるときがくるかもしれないと希望を抱き、今後も人間は考える葦であるとして、人間賞賛をしていこうってことのようです。 まあ その前に我々は死んでますが、、、、未来人が解決するという希望を胸に、ともし火を消さず未来に伝えていこうってことだと思います。 善悪を超えるというのは、要するに神のことだと思えます。 例えば洪水は神が起こしたとしますよね。 理由は氷河期が終わり、地球が温暖期に入ったため、氷が溶けて世界各地に洪水が起こったのだと思いますが、、、 神が洪水を起こした理由は、人間があまりにも神からみて悪くなりすぎて、こんなひどい世界は無くした方が不愉快にならなくてすむと思い、神が洪水を起こし、罪があるのかどうか定かではない動物たちも水死させた。 で、天災は神が起こしたとしても、自然(神)は人間ではコントロールすることができず、「神は悪いやつ」だと捕まえて二度とさせないようにはできず、人間ができることといったら、自然(神)を憎むより、自然の恐ろしさに畏怖し、もう起こさないでくださいと嘆願することだけ。 善悪を超越した存在に畏怖することしかできない。 地震は善悪を超越したものですよね、太陽は核融合を起こし放射能を大量に地球に向かって放射していますが、太陽の恩恵があり生命が誕生したので、太陽を悪だということすらできず、善悪を超越した存在。 で、地球の各地では神を崇拝していますが、自然 特に太陽信仰が盛ん。 太陽を憎むのではなく太陽の良い面に感謝することで、収穫を喜び、生命を持続できるのは太陽のおかげと喜ぶ生き方をしており、その生き方は善悪を超越したものだと私は思います。 超越ってのは、それを上回るというより、ある意味コントロール下に置くってことですよね。 コントロール下に置くことで、太陽のよい面に感謝をするという心が持て、自分の感情を支配(コントロール)できている。 ただ、自分の感情を自分の支配下におくってのが、結構難しいわけです。 暴れ狂う感情を落ち着かせ、感謝する心がもてたら平和になるわけです。 それはヨブ記(聖書の中の物語)でもいえることです。 ヨブは善人だとされたが、散々な目に遭い、友達と思った人たちからも、何かわからないがお前に非が絶対にあったんだと、人生を否定されてしまい、まったくの一人ぼっちになり、納得がいかないとして、神の前にとうとうたった。 そのとき、自分では支配できないものがあり、全部をわかっているわけでもないのに、わかったかのように神を批判するかのような行為をした自分が、本当の不幸を起こしたと知り、やっと自分をコントロールすることができ安息になった。 神を畏怖することができたために、安息になった。 だから、徹底的に不幸続きで、誰も助けてくれず絶望の際においても、安息に至ることは可能という希望の作品(思想)。 まあ そんなわけで、ヨブ作家の愛智もすごいものだなぁって思います。

noname#144995
質問者

お礼

ご回答有難うございます。善のうちで、普遍性のあるものには、どのようなものがあるでしょうか。 >実は現代を持っても善く生きるということが、どういうことかはっきりとはわかっていないんです。 そうなのですか?ひとにやさしくあれとか、まっすぐに生きるとか、そういうことは善く生きることになるのではないかと思うのですが如何でしょう。

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