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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:現代における審美の可能性)

現代における審美の可能性とは?

このQ&Aのポイント
  • 美と真善美の関係について考える
  • 芸術固有の領域の確立と審美の問題
  • 美を求める現代における審美の可能性

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.17

#7です。 ご丁寧に頑固爺の戯言の相手をしてくださるとは、サイコロさんはお優しい方とお見受けしました。 「おしまい」とは、問答無用という意味じゃあ無くて、東京と言う町の未来、美的未来に関して絶望しているので「おしまい」と書いいただけですので、あしからず。 >東京ディズニーランドのような石畳で、実に洒落た街並みです。 順序が違うようですが、フランス流のジョークですか? ある日、ヤンキーがドイツ・ミュンヘン郊外の古城、新白鳥石城(Schloss Neuschwanstein)を訪れた時、「Oh、ディスニーランドみたいだ!」と感嘆しました、というのはアメリカのジョークです。 これは、審美の問題というよりは、真贋の問題ですね。今、20世紀の偉大なるフェイク、東京ディズニーランドは、東北関東大震災による液状化で、地中から泥濘が噴出し、その真の姿(=醜い姿)を晒しています。 この現実が、人々が真善美を忘れてしまった結果なのだと思います。人々が美を忘れてしまう遥か以前には、東京にも屋根屋根が織りなす美しい街並みがあったのです。江戸の甍(いらか)ですね。 サイコロさんが芸術というとき、それは自然に対する人工=Art=芸術という意味なら、その文脈で美を議論するのはありだとおもいます。人が生まれたままの姿よりも、より美しい身体を持ちたいと考え、身体を鍛える。これは人工ですが、悪くないですね。でも、同じ人工でも、「人工=芸術」として自己目的化し、過剰な化粧をし、また審美外科で美容整形のお世話になるなんざぁ、行きすぎですよ。そこに芸術の本質があるようなので、美の議論を芸術の範疇に閉じ込めないでくださいと申し上げました。 美を自己目的としない人工、たとえば建築、たとえば長大橋、たとえばジェット戦闘機などの人工の美が好きです。ディテイルに神が宿ったとき、機能を超えた価値=美を生むと考えます。 最後に、美の、審美の翻訳可能性に関してひとつ。 ベルサイユ宮殿の航空写真を見ると分かりますが、後方に、幾何学的な庭園が延々と連なっていますね。 これは、日本の庭師が考える美とはまるで違います。フランス人は不自然を美と考えるところがあるのでしょうか。 この幾何学模様を美と考える人たちであれば、最新のショッピングモールを美しいと感じるのは一貫性があるじゃあありませんか。 もうひとつ、お友達がショッピングモールを「美しい」と言った時、何と言う言葉を使いましたか? joli? beau? propre ?哲学のカテゴリで美を論じるとき、審美自体の翻訳可能性と同時に、言語の翻訳可能性の問題もありますね。  日本の美は、自然と人工を対立の構図でとらえるのではなく、無意識にアウフヘーベンしていると思われます。 機能と非機能(=芸術)が共存し、融合して、一体となったものにこそ、美が宿り続けることができるような気がするのです。 まとまりの無い(=美しくない)文章になってしまいましたが、サイコロさんに相手してもらいたくて、、。

noname#130919
質問者

お礼

お返事が遅れてすみません。こういう投稿があると、設問してよかったなという気持ちになります。テーマ・パークのお話は一本取られました。いや、レンヌをテーマ・パークが模したというべきだったでしょう。 後出しのような形ですが、私は、ディズニーランドというものは実に奇妙な空間だと思うのです。オリエンタルランドは大枚を貼りこんで、海岸線を潰して、街を一つ作りだししてしまいました。この人工の街は、奇妙な特性があります。つまり、ところどころに、架空の文化や歴史を植え込んであるのです(架空のヒーローの記念碑がアトラクションの随所にある)。さらに所狭しと、フランス風、スペイン風、ドイツ風、南国風というように、たった一つの街で諸国をまわったような感覚になれます。奇妙な混淆物なのです。しかしその逆に、葛西の海岸線の雰囲気は微塵にもありません。 こうなると、そのどこにも真はないといえます。この徹底した人工的な空間を楽しめるという感覚は、人間がいかに嘘でも何でも楽しめるとかというしぶとさを、見せてくれているような気がします。また翻って、いかに「真」というものがなくても現代人は気にしないかという証拠であるようにも思えるのです。 さて、真の不在について、また続けて例をあげてくださいました。なるほど自然には不都合な要素があるので、それを修正して理想の状態に近づけようというのは、全てが悪いとは言いきれません。しかし現代では、ラディカルに、歯の矯正、整形をはじめとする身体改造などが、まさに身体の「不都合な点」を修正しているとして、あたかも真善美に沿う行為であるかのようにみなされることになってしまったのでした。 しかし、「真」とはそういうものでしょうか。ご回答を読んで考えたのですが、現代においても、また過去においても、「真」でありえたと言えるものの一つは、機能美だと私も思ってきました。たとえば筋肉一つにせよ、見せるための大きな筋肉と、使える筋肉は別物だと言われます。使って役に立つ筋肉の方は、見たままの通りの力を発揮するという意味で真実があるが、ただ大きい筋肉は張りぼてであって、虚偽であるとみなせます。 しかし、機能美である真実は、より自然に近いものであるでしょう。したがって、計画的に整理整頓されたものとは違うと言えます。「この(ヴェルサイユの)幾何学模様を美と考える人たちであれば、最新のショッピングモールを美しいと感じるのは一貫性があるじゃあありませんか」。まさに我が意を得たり!というところです。ボードレールやユイスマンスらは人工楽園を夢想します。伝統的に、人工的な天国を求めるという風潮はあると言えます。 しかしそれは、日本とは何か違う美意識に基づくものなのかもしれません。 >日本の美は、自然と人工を対立の構図でとらえるのではなく、無意識にアウフヘーベンしていると思われます。機能と非機能(=芸術)が共存し、融合して、一体となったものにこそ、美が宿り続けることができるような気がするのです。 おっしゃるように庭園を比較すると、これはよくわかる気がします。日本庭園は一見、秩序がないように見えるます。しかし庭に入って小道を歩くと、最短の道のりで様々な植物や岩を見られるように計算されているのであって、非常に実用的なのです。西洋庭園は、端から端まで隈なく歩かないとなりません。どちらが合理的かといえば、日本庭園ではあるでしょう。そして何より、日本庭園の中では、自分が自然の中にいるかのような感覚を味わえます。両者ともに人工物ではあるに違いないが、コンセプトは根本からして違うのです。 最後に「美しい」といった時の言葉は、beauです。真善美は順にvrai, bien, beauです。

noname#130919
質問者

補足

【ベスト・アンサー選出に際して】 皆さま、どうもお世話になりました。閉じるにあたって、主観的に全体の流れを整理してみます。まず私としては、OKWaveを去るにあたって、前回、他の方の設問欄で起きた問題を収拾したいという動機がありました。あれは、あまりにも酷いと思っただけに、不精な私も何かしてから終えようと思ったのです。私にも戦略がありました。まず前の議論を美術史的に位置付けることにしたのです。これが真善美の一致でした。そして大枠では、真善美の一致に賛成票が集まるだろうと見越したのです。そしてお礼欄の議論では、私は逆の方向に話を振りました。つまり私は確信犯的に、ゴミ箱アートの話や、サディズム、エロスなどの話を振ってみました。真善美の一致以外のものをどう認めるかに関心があったからです。意識的に、バランスを取ろうと考えたのでした。 しかしこれらの話題は、総じて、あまり好評ではなかったようです。真善美の一致が宗教的な観点から支持され、古典主義からの離反者が宗教的な観点から嫌われるというのは、よくわかります。が、宗教と関係ない次元で反対されるとは、あまり予想していませんでした。そして、とりわけエロスに関する議論では驚きました。私はベルリーニの「法悦」を例に出したけれども、反応が薄いのには、実は衝撃を受けてしまったものです。これはバロック期の傑作で、真善美の一致だろうと、現代アートの信奉者だろうと、私にとっては評価に値するものに思えていたからです。エロスを美と認めるに足る有力な反例だと思いました。いや、なかなかどうして、すぐれた作品は自明ではないこともあるらしいと、思い知りました。こうやって反対に会うことで、なるほど自分の感受性の位置を確かめるということもできるわけです。 その後、次第に話題は外国の芸術を受け入れる際の審美の基準というテーマに及びます。西欧の価値基準で量れなかったアジアの芸術作品をフランスがどのように受け止めることができたのか。またフランスの事例を参考にしつつ、将来、日本がどうやって隣国の美術品を受け止めていけるのか。これは非常に大きな問いです。答えは出ない問題です。しかし設問者としては、西欧の審美の基準の根幹に真善美の一致があっただろうと考えてもいたのですから、十全にテーマが展開したことに満足です。また、こうした点について、議論できたことは大変な喜びでした。 私の立場は、最後まで、あまり明確にしませんでした。私が迷っていると考える方もいたでしょう。むしろ私は恐れていたのです。美を定義するということは、翻って、醜を定義することであって、一方を優遇し、他方を排除する動きにも結び付きかねないものです。個人的に「~~が美しい」という感想を持つことは結構です。しかし一般論として、「美とは~~であるって認めなさい」という言説には、慎重になるべきだと考えています。美が直面している問題とは、排他性をいかにして乗り越えるかであると私は考えているのです。 こういう理由で、私は「美とは常に奇矯なものである」というボードレールのテーゼに意義を認めるのです。これは一見、美を定義しているように見えます。しかし刺激的なものであれば、全て美になり得ると認めることは美と醜の差異を解体し、西欧的なスタンダードを無効にしてしまうものです。ここで一種の判断保留と平等を実現しえます。 こうした平等はアナーキスト的な発想であり、愚かさによる判断力停止と紙一重であるという批判もあるでしょう。しかし、それは人それぞれです。全ての存在が、潜在的には芸術として評価される資格があると認めた上で、自らの審美基準を客観的に厳しく反省する機会となるのなら、この言説に意味があると私は考えているのです。そして、美醜を解体した以降の探索が、補うために必要なのではあります。 最後にベスト・アンサーの選出には、かなり迷いました。私に豊かな示唆を与えてくれたという意味では、猪突先生やマシュマロさんの回答を選びたいところです。しかし今回は最もご自分の考え方を鮮やかな形で示してくださった木造百年さんの回答を選ばせて頂きました。現代において真善美の「真」とは機能美であるというご意見は、誠にごもっともですし、技術大国の日本に相応しいでしょう。また木造百年さんは大工さんらしいですから、これはご自分の経験で裏打ちされた信条でしょう。機能美を美と呼ぶという感覚は、アール・デコなどの潮流に言及するまでもなく、日常生活でも納得いくものです。家電量販店で最新型の電子機器を見てどうしても欲しくなってしまう感覚もまた、性能=機能を好ましいと考える美意識の為なのだろうかと思ったものです。この欲求に私も無縁ではありません。

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その他の回答 (55)

  • _AXIS
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回答No.5

真>善>美  は間違いである可能性もありますね。  美>善>真 であるケースもあるかどうか、機会があるときに考えてみますね。  ところで、質問者さんは男性ですか?

noname#130919
質問者

お礼

真善美のことは前のお礼欄に書いてしまいました。 性別はご想像にお任せします(笑)。私はここに匿名で参加しているので、あまり現実の要素を表に出さないことにしています。というのも、男女も年齢も経歴も関係なくなるとは、社会的な抑圧を捨てられるではありませんか。 なるほど匿名性は無責任にも結び付きます。しかしOKWave上でのやり取りは、浅いわけでもないし、虚偽に満ちているわけでもありません。むしろ、現実にさしで会って話すよりも、深い話をしている場合が多いと私は思うのです。一般的に言って、人間が目の前にいると、本音で語れないことも多いといえます。 たとえば私はブラジュロンヌさんにタラタラと嫌味を言いましたが、相手は私より年配の方で、大学院にも行って、著作もあるのですから、社会的にも成功した方なのではないかと思います。本人が目の前にいたら、決して言えないでしょう。また猪突先生は、どう考えてもその分野での第一人者ですから、私は目の前に出たらビビってしまうかもしれません。 こういう気遣いが無いという意味で、OKWaveは混浴風呂のようなものだと私は思っています。あるいは幼少の頃のように、男女の差もなく、こだわりなく話せる場だとも。もっとも質問や回答を投稿するうちに、段々とプロフィールが割れてしまうわけですし、いろいろと想像もされてしまうのですが……。

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  • _AXIS
  • ベストアンサー率5% (2/40)
回答No.4

真の中に善が含まれる。善の中に美が含まれる。 つまり、真>善>美 ですよね。  的を射たでも、的を得たでもどちらでもよいと思います。  音の響きとしては まとをえた のほうが美しいですね。

noname#130919
質問者

お礼

>真の中に善が含まれる。善の中に美が含まれる。つまり、真>善>美 ですよね。 どうもありがとうございます。ヒエラルキーは重要ですね。私の思うに、新プラトン主義者らにしてみると、真=善>美とするのが、一番しっくり来るかもしれません。 しかし芸術を信奉するのなら、善は美の一部に過ぎないわけです。したがって美>善でしょう。では真はどこに来るのか。真=美>善ではないでしょうか。汚物を描いたにせよ、それが真理であるのなら、意味があるというリアリスムの考え方があるからです。 汚物の真理がどれほどの説得力を現代で持ちうるかが、議論の課題の一つではあります。もしお考えがあったら、聞かせてください。 なお漢字のミス、お許しください。

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.3

サイコロさん、また、私の気に障るモダンアートの中のゴミが話題になるかもしれませんね。 今回の私の回答はお遊びとして、一寸視点を変えて最近日本では審美ってどう言う意味で使われているのかとググってみました。審美と入れて最初に出て来たのは、「審美歯科」という言葉でした。 以下は抜粋です。 日本歯科審美学会では歯科審美学を次のように定義している。 「歯科審美学とは、顎口腔における形態美・色彩美・機能美の調和を図り、人々の幸福に貢献する歯科医療のための教育および学習に関する学問体系である。」 審美歯科の具体的内容は、歯列矯正、ホワイトニング、オールセラミック、その他特殊材質による人工歯などがある。近年では、スカイスといわれる歯のピアスを施す歯科も増えてきている。 抜粋終わり。 だから、こんなのも昔では不可能だった現代における審美の可能性の具現化の一つのようですね。 これによると審美とは、何か人々の幸福に貢献するもののようですね。もしそうだとすると、風が吹けば桶屋が儲かる的に余程込み入った論理を使って人を砂煙に巻かない限り、ゴミで人を幸福にするのは大変でしょうね。

noname#130919
質問者

お礼

猪突先生、いつもながら鋭いですね。スタンダールは「美とは幸福の約束である」と述べています。これに対してボードレールは「美とは幸福の約束に過ぎない」と切り返しつつ、美醜の区分を解体してしまいます。幸福が何だ、他にも重要なことはあるぞ!というわけです。 さて他の重要なこととは何でしょう。ゴミ箱アートの話は、私が設問に書いてしまったのですが、ちょっとここでは置いておきましょう。私もゴミのイデアを認識して、精神修養として何があるのか弁じ立てるほどの意義を確信していません。私がここでこの例をひいてきたのは、審美という行為そのものが不可能になったという極致を示すためです。 しかし設問者がこういう客観的な態度をとっては、面白くないでしょうし、失礼でもあるでしょう。そこで私が真や善に排除された例として考えたいのは、たとえばエロティックな造形です。私は実はこの設問をした後、OKWaveの哲学カテで非常に興味深い設問を発見しました。他人の設問を参照するのは礼儀に反するかもしれないので、伏せますが、そこでは宗教的観点からエロティックなイラストを書くことの是非が問われているのです。いや、まさに私は新古典主義と「芸術のための芸術」の葛藤が現代にまで継続されている例を発見したのでした(こういう話は十九世紀で、もう終わったものだと思ったのです)。 エロスというのは、当然ながら精神修養とは別のものですが、わかりやすい刺激があります。猪突先生は裸体や淫靡なモチーフを扱う絵画をどうお考えになりますか。浮世絵には中々、露骨な描写もありますね。これが美として評価されるのはなぜなのでしょう。

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回答No.2

 チチェローネがお出ましであれば 疑問・質問をぶつけるに限ります。  それにしても 間髪を入れずのご設問ですね。  総じて言って 観念としてのイデア・またそれを柱に据えるかのようなイデア体系としてのイデオロギー そしてすなわちこれを避けるかどうか といった考え方が 充満していませんか?  ★ 美は古くは、真と善という別の価値観と結び付けて考えられてきました。  ☆ こういう言い方から始めるのであれば 美は 真や善という価値観とは《別》であるという大前提が据えられたことになりませんか?  ★ 美の認識は感覚的なものだけではなく、同時に、哲学が真理を認識するように理性的・論理的にも認識されなければならないのです。  ☆ 賽子講師(准教?)にも似合わないおことば。認識《されなければならない》わけではないでしょうが 感性における美という感覚が 理性における概念的な認識になりうるとは言えるのではないでしょうか? つねにです。  だって 《イデア≒ヰ゛デオ≒見たもの》なる知覚が 《観念》という意味となり認識されるに到った。十字架上の姿としての視像が 従順という理性的な認識へとみちびかれた。(そこには 推論や判断も伴なわれているでしょうが)。  ですから ひとり  ★ これは新古典主義において「真善美の一致」と理論化されます。  ☆ に限ることではない。こう思われますが いかがでしょう?  認識以前の知覚としては 美は おそらく真と善と志向性(指向性)において《一致》すると見てはいかがですか?  この物言いは 初めに美術史の生徒であると言っておきながら その立ち場を超え出る違反行為になるでしょうか? 歴史の経過をたどることをないがしろにしてしまうでしょうか?  ★ とある作品が優れているか否かを問題にする際、我々はしばしば、そのモチーフのイデアが十全に表現されているかを問題にします。馬の彫像なら、馬というイデアが表明されているかを検討するわけです。  ☆ 《モチーフのイデア》を問うならば おそらくその作品の全体を捉えて問うことになると思うのです。個々の要素としての《馬のイデア》がどうだこうだという見方は 美の知覚行為そのコトと対応しないように思います。  《馬の彫像》としてその全体であったとしても その《〈馬のイデア〉が表明されているかを検討する》というよりは そうではなく微妙に違って 作品を全体としてまづ見て捉える。馬のイデアが定かであってもなくても 全体として作品を見る。それが《モチーフ》をも見ようとすることであり さらには《言葉化して》認識の段階においてモチーフのイデアについても考えてみる。  つまりもしそうであれば ここでわたくしは 美術史の一般に共通に認識されているその道筋を その一つひとつの段階においてすでに〔その定型的な見方に異を唱えるかのように〕一たん壊してしまって そのつどつねに《美の全体観(または 全体としての美の見方)》を臆することなく打ちだそうとしている。と考えます。  あまりにも突拍子もない物言いであるようで あきれ返るとおっしゃるでしょうから 取りあえずここまでとします。(お応えは いただけないかもですね)。

noname#130919
質問者

お礼

ご回答を歓迎します。というのも、前の話を収拾したいという動機もあったのですから、ブラジュロンヌさんに登場してもらわないと始まりますまい。しかしチチェローネ(キケロの意が転じてガイド役)は持ち上げ過ぎです。いくつかの問いは「そんなわけがない」という反語でもあるらしいので、私から、絞ることをお許しください。 >認識《されなければならない》わけではないでしょうが 感性における美という感覚が 理性における概念的な認識になりうるとは言えるのではないでしょうか? つねにです。だって 《イデア≒ヰ゛デオ≒見たもの》なる知覚が 《観念》という意味となり認識されるに到った。 他の方も読むので、噛み砕く作業が必要ですが、eidosという語をまず参照してみると、この話は明らかになるでしょう。つまりeidosには一見矛盾する二つ意味があるわけです。アリストテレスの用語では形相、すなわち「見たもの」。プラトンではイデア。同じ語についての意味が、方や即物的で、方や抽象的です。 ブラジュロンヌさんの指摘は、この二つの溝は「されなければならない」と言って騒ぐほどの問題ではなく、普通にしていれば、溝は埋まるのだという意見に読めます。これは芸術家らの苦心を考えると楽観的な意見だとも思えますが、そう考えてはならぬという理由はないでしょう。実際、私の書き方も曖昧で、イデアを認識することと、イデアを表現することの困難を混同した書き方にしてしまいました。 この話を始めると細部に入るので、一先ず、ブラジュロンヌさんのお考えの全体を理解することを優先して、細かい議論はさておくことにします。しかし次でブラジュロンヌさんから提出された問題は、少しわからないのです。 >《モチーフのイデア》を問うならば おそらくその作品の全体を捉えて問うことになると思うのです。個々の要素としての《馬のイデア》がどうだこうだという見方は 美の知覚行為そのコトと対応しないように思います。 まず基本的なことを確認しておくと「イデア」ですから、個別の馬は問題ではないのです。馬という総称全体のことを考えるわけです。 イデアによる審美にはちょっとした前提条件があります。つまり、芸術家も鑑賞者も馬のイデアというものは漠然とであるが、わかりきっているわけです。両者の差は、芸術家には認識したイデアを表現する技術があり、鑑賞者には無いということです。しかし熟練の鑑賞者には、造形がイデアを十全に表現しているか程度の判断がつく程には、あからじめ馬のイデアを熟知しているという前提があるのです。――このように、私の一節は美の知覚行為を議論しているというより、審美を議論しているのです。 さて、私からの問いですが、ブラジュロンヌさんにとって、そもそもイデアとはどう認識されるのでしょう。たとえば複数の馬を観察することによって認識されるのか。それとも、馬の観察などする必要はなく、直感によって認識するのか。これはイデアとはアポステリオリかアプリオリかという問題です。観察や実験によって把握するというのならイデアはアポステリオリに理解可能なものであり、直感によってならアプリオリだと考えていることになります。この差は実はとても大きなことです。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.1

美を選りわけるという意味での「審美」は成立し難い行為となったのです。 ○ それはただ、人間の霊格が退化した故ですね。歴史は退化の歴史ですね、少なくとも進化はしていないですね。 真善美おそらく信善美のほうが本来は正しいのでしょう。 宇宙が創造される時、「限りなく善きものであれ。」「限りなく美しくあれ。」という思いは間違いなく存在したのですよ。さらに、限りなく正しくあれという思いに信仰の信と真実の真が含まれています。 私が何を言っているか理解できましょうか。歴史上の人物がどう考えようといかなる論を展開しようと最初の思いは変わっていないのです。それ故、審美は必ず存在しますし、逆に言えば美の世界に醜など存在しえないものなのです。最初の思いに反旗を翻したものがいます。それを悪魔と呼びますが彼らの世界は「信善美」とは真逆の世界です。非常に小さい閉じた世界ですが地上に近いということで芸術家はその感性においてしばしば影響を受けます。その理由は最初に述べたように最初にあった思いを忘れて退化してしまったからです。 美術史もそのような視点で読むと違った答えが導かれると思います。 美は哲学と一体ですよ。もし人間の目が紫外線しか感知しなければ違った社会哲学ができるでしょう。 つまり美は哲学の根幹部分にあるのですね。 本来の「信善美」を追求するのが「審美」であり、まっとうに本来の姿を認識できる芸術家ならできるものですね。そこに悪が存在する故に迷っているだけでしょ。

noname#130919
質問者

お礼

>真善美おそらく信善美のほうが本来は正しいのでしょう。 まず基本的なことですが、仏語でvraiは真であって、信とは訳せないということを指摘しておきます。それに体系的にも問題が出てしまいます。 ・真:哲学 ・善:宗教 ・美:芸術 という対応関係があって、真が信で宗教を示すのなら、善と同語反復するわけです。哲学の位置がなくなってしまうことになります。しかしmmkyさんは哲学の重要性を認めてらっしゃいますね。mmkyさんのお気持ちを十全に表現するなら「信」でしょうが、学術的に考えて、これでは困るということはお認めくださるでしょう。 それから悪云々の話は私の述べたコンテクストとは別のものを結んだというふうに但し書きがある形なのですが、私としては、悪について別のことを考えていたのです。これについて設問には書かない点があったので、補足しておきます。 まず、自然をそのまま描くと、自然には粗野な面や受け入れ難い残酷な側面がありますね。女性のモデルの鼻の形が気に入らないとか、嵐など自然の災厄はその典型です。そこで、この自然の受け入れられない部分を欠点とみなし、修正するのが、イデア=理想を求めるという行為であり、美を真や善と一致させることなのです。理想的なイデアに鼻の形を修正することは、真実の姿を探り当てるという意味で、モデルの精神修養にさえなると考えられたのです。 しかし真善美を拒否した時、リアリスムという芸術スタンスが生まれます。リアリスムにおいては、それが現実に起きることである限り、醜さであろうと、悪であろうと何だろうと受け入れるべきだというものです。これはmmkyさんが前提としているような、悪魔が悪の教義を流布させようとしているということとは違うのです。 もちろん、悪魔主義と絡めて考える神秘思想は十九世紀にあったわけですし、ボードレールはわざとそれに接近します。こういう事情は分かっているのですが、今回、私の設問ではそれをメインとはしていません。 とはいえ、mmkyさんの議論は、古典主義の時代には、受け入れられるものであったでしょう。芸術家にとって重要なのは、信仰であり、よい信仰心があるのならイデアを正確に認識しえるはずだという議論は、古くからありました。しかしこのように述べる時、美よりも重要なのは真であって、芸術は宗教や哲学などの下位に甘んじることになります。つまり芸術という領域は従属的であって、独立しないのです。設問は「現代における」としましたが、「芸術のための芸術」以降のパラドクスを問うので、議論の焦点が私の提起と違いますね。 ともあれmmkyさんのように、宗教的な信仰心から、現代においても古典主義を有効な視点だと考えている方がいるということはわかりました。大変参考になりました。

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     読み書き算盤を習うというとき おしえる・おそわるという行為は 個別具体的な事項に即して 倣うことです。あるいは まねをする。つまり 真に似せる。あるいは 或ることがらを こちらから あちらへ伝達することです。  一般に 哲学や哲学にかかわる事柄について おしえる・おそわるというのは それでは どういう事態でしょうか。  先天的に 人の記憶として――あたかも プラトンのイデアのごとく―― 潜在するとは 考えられません。能力の場としてなら 潜在的なものであると考えられますが 事柄が すべて 書き込まれているとは考えられません。    そこで いろんな回答をあたかも導き出すためとしてのように こういうことを考えてみました。  まづ ことは 教育とはどういう事態であるかの問題だと言ってもよいと思いますが わたしが 試考した結果は おしえる者とおそわる者との間に 教育は 成立するのではないか これです。つまり おしえる側のおしえようとする意図とおそわる側のおそわろうとする努力とが あたかも一致して 教育が成立する。   これには もう少し 先もあります。  早い話が この質疑応答で 回答者が おしえるのではなく 質問者も ただおそわるのではなく 《おしえる》行為は 両者のあいだ(つまり関係)にある。要するに 両者が 《おしえ合っている》 こうではないか。  果たして いかがでしょう。自由なご見解を お寄せください。

  • 私の気にしすぎですか?

    今授業で哲学の授業があります。 前期はチャレンジャー号などの技術者としてどうするかということを習い、後期は古代ギリシアの哲学的なことを習っています。 工学系の専門なので、前期はわかるんですが、後期の古代ギリシアの哲学は必要なんでしょうか? 古代ギリシアの哲学は、ソクラテス・プラトン・アリストテレス・ベンサム・ミルで、先生はやたら愛や恋について語るのです。ソクラテスは「恋に通じた人」で、美青年のアルキビアデスとの関係、プラトンの壮大な恋の話などなど・・・。また、アリストテレスの言葉に対する先生の解釈として、「芸術家やエンジニアが優れていると言われるのは、出来上がった作品がすばらしいというより、その人が持つ技能・働きがすばらしいからである。」と、プリントに書かれてあり、それは、先生の考えの押し売りじゃないかなぁって思うんですが。私は、哲学を始めて習うのでよくわからないのですが、必要なのでしょうか?また、先生が授業中にピコピコハンマーを持ってきて、注意をするときに、そのピコピコハンマーでたたくのはおかしいことですよね?

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第九章 いわゆる真善美について  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 価値のシステムについて(権力かな?)

    たとえば、会社、「美人論」、「やさしさ」など、なんでもいいですが、そこには優劣を定めるような価値のシステムが存在すると思います。その、価値のシステムをわかりやすく説明できるかた、または、そういうものを研究している哲学者などはいますでしょうか。たくさんいると思うんですが、ちょっとぼくにはわかりません。もしよろしければ教えてください。よろしくお願いします。 「真・善・美」というよりは、世俗の価値システム。例えば、隣人との間の権力???関係?クラス内の優劣???など、の方向で考えていきたいです。質問分がわかりにくくてすいませんでした。