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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:現代における審美の可能性)

現代における審美の可能性とは?

このQ&Aのポイント
  • 美と真善美の関係について考える
  • 芸術固有の領域の確立と審美の問題
  • 美を求める現代における審美の可能性

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.17

#7です。 ご丁寧に頑固爺の戯言の相手をしてくださるとは、サイコロさんはお優しい方とお見受けしました。 「おしまい」とは、問答無用という意味じゃあ無くて、東京と言う町の未来、美的未来に関して絶望しているので「おしまい」と書いいただけですので、あしからず。 >東京ディズニーランドのような石畳で、実に洒落た街並みです。 順序が違うようですが、フランス流のジョークですか? ある日、ヤンキーがドイツ・ミュンヘン郊外の古城、新白鳥石城(Schloss Neuschwanstein)を訪れた時、「Oh、ディスニーランドみたいだ!」と感嘆しました、というのはアメリカのジョークです。 これは、審美の問題というよりは、真贋の問題ですね。今、20世紀の偉大なるフェイク、東京ディズニーランドは、東北関東大震災による液状化で、地中から泥濘が噴出し、その真の姿(=醜い姿)を晒しています。 この現実が、人々が真善美を忘れてしまった結果なのだと思います。人々が美を忘れてしまう遥か以前には、東京にも屋根屋根が織りなす美しい街並みがあったのです。江戸の甍(いらか)ですね。 サイコロさんが芸術というとき、それは自然に対する人工=Art=芸術という意味なら、その文脈で美を議論するのはありだとおもいます。人が生まれたままの姿よりも、より美しい身体を持ちたいと考え、身体を鍛える。これは人工ですが、悪くないですね。でも、同じ人工でも、「人工=芸術」として自己目的化し、過剰な化粧をし、また審美外科で美容整形のお世話になるなんざぁ、行きすぎですよ。そこに芸術の本質があるようなので、美の議論を芸術の範疇に閉じ込めないでくださいと申し上げました。 美を自己目的としない人工、たとえば建築、たとえば長大橋、たとえばジェット戦闘機などの人工の美が好きです。ディテイルに神が宿ったとき、機能を超えた価値=美を生むと考えます。 最後に、美の、審美の翻訳可能性に関してひとつ。 ベルサイユ宮殿の航空写真を見ると分かりますが、後方に、幾何学的な庭園が延々と連なっていますね。 これは、日本の庭師が考える美とはまるで違います。フランス人は不自然を美と考えるところがあるのでしょうか。 この幾何学模様を美と考える人たちであれば、最新のショッピングモールを美しいと感じるのは一貫性があるじゃあありませんか。 もうひとつ、お友達がショッピングモールを「美しい」と言った時、何と言う言葉を使いましたか? joli? beau? propre ?哲学のカテゴリで美を論じるとき、審美自体の翻訳可能性と同時に、言語の翻訳可能性の問題もありますね。  日本の美は、自然と人工を対立の構図でとらえるのではなく、無意識にアウフヘーベンしていると思われます。 機能と非機能(=芸術)が共存し、融合して、一体となったものにこそ、美が宿り続けることができるような気がするのです。 まとまりの無い(=美しくない)文章になってしまいましたが、サイコロさんに相手してもらいたくて、、。

noname#130919
質問者

お礼

お返事が遅れてすみません。こういう投稿があると、設問してよかったなという気持ちになります。テーマ・パークのお話は一本取られました。いや、レンヌをテーマ・パークが模したというべきだったでしょう。 後出しのような形ですが、私は、ディズニーランドというものは実に奇妙な空間だと思うのです。オリエンタルランドは大枚を貼りこんで、海岸線を潰して、街を一つ作りだししてしまいました。この人工の街は、奇妙な特性があります。つまり、ところどころに、架空の文化や歴史を植え込んであるのです(架空のヒーローの記念碑がアトラクションの随所にある)。さらに所狭しと、フランス風、スペイン風、ドイツ風、南国風というように、たった一つの街で諸国をまわったような感覚になれます。奇妙な混淆物なのです。しかしその逆に、葛西の海岸線の雰囲気は微塵にもありません。 こうなると、そのどこにも真はないといえます。この徹底した人工的な空間を楽しめるという感覚は、人間がいかに嘘でも何でも楽しめるとかというしぶとさを、見せてくれているような気がします。また翻って、いかに「真」というものがなくても現代人は気にしないかという証拠であるようにも思えるのです。 さて、真の不在について、また続けて例をあげてくださいました。なるほど自然には不都合な要素があるので、それを修正して理想の状態に近づけようというのは、全てが悪いとは言いきれません。しかし現代では、ラディカルに、歯の矯正、整形をはじめとする身体改造などが、まさに身体の「不都合な点」を修正しているとして、あたかも真善美に沿う行為であるかのようにみなされることになってしまったのでした。 しかし、「真」とはそういうものでしょうか。ご回答を読んで考えたのですが、現代においても、また過去においても、「真」でありえたと言えるものの一つは、機能美だと私も思ってきました。たとえば筋肉一つにせよ、見せるための大きな筋肉と、使える筋肉は別物だと言われます。使って役に立つ筋肉の方は、見たままの通りの力を発揮するという意味で真実があるが、ただ大きい筋肉は張りぼてであって、虚偽であるとみなせます。 しかし、機能美である真実は、より自然に近いものであるでしょう。したがって、計画的に整理整頓されたものとは違うと言えます。「この(ヴェルサイユの)幾何学模様を美と考える人たちであれば、最新のショッピングモールを美しいと感じるのは一貫性があるじゃあありませんか」。まさに我が意を得たり!というところです。ボードレールやユイスマンスらは人工楽園を夢想します。伝統的に、人工的な天国を求めるという風潮はあると言えます。 しかしそれは、日本とは何か違う美意識に基づくものなのかもしれません。 >日本の美は、自然と人工を対立の構図でとらえるのではなく、無意識にアウフヘーベンしていると思われます。機能と非機能(=芸術)が共存し、融合して、一体となったものにこそ、美が宿り続けることができるような気がするのです。 おっしゃるように庭園を比較すると、これはよくわかる気がします。日本庭園は一見、秩序がないように見えるます。しかし庭に入って小道を歩くと、最短の道のりで様々な植物や岩を見られるように計算されているのであって、非常に実用的なのです。西洋庭園は、端から端まで隈なく歩かないとなりません。どちらが合理的かといえば、日本庭園ではあるでしょう。そして何より、日本庭園の中では、自分が自然の中にいるかのような感覚を味わえます。両者ともに人工物ではあるに違いないが、コンセプトは根本からして違うのです。 最後に「美しい」といった時の言葉は、beauです。真善美は順にvrai, bien, beauです。

noname#130919
質問者

補足

【ベスト・アンサー選出に際して】 皆さま、どうもお世話になりました。閉じるにあたって、主観的に全体の流れを整理してみます。まず私としては、OKWaveを去るにあたって、前回、他の方の設問欄で起きた問題を収拾したいという動機がありました。あれは、あまりにも酷いと思っただけに、不精な私も何かしてから終えようと思ったのです。私にも戦略がありました。まず前の議論を美術史的に位置付けることにしたのです。これが真善美の一致でした。そして大枠では、真善美の一致に賛成票が集まるだろうと見越したのです。そしてお礼欄の議論では、私は逆の方向に話を振りました。つまり私は確信犯的に、ゴミ箱アートの話や、サディズム、エロスなどの話を振ってみました。真善美の一致以外のものをどう認めるかに関心があったからです。意識的に、バランスを取ろうと考えたのでした。 しかしこれらの話題は、総じて、あまり好評ではなかったようです。真善美の一致が宗教的な観点から支持され、古典主義からの離反者が宗教的な観点から嫌われるというのは、よくわかります。が、宗教と関係ない次元で反対されるとは、あまり予想していませんでした。そして、とりわけエロスに関する議論では驚きました。私はベルリーニの「法悦」を例に出したけれども、反応が薄いのには、実は衝撃を受けてしまったものです。これはバロック期の傑作で、真善美の一致だろうと、現代アートの信奉者だろうと、私にとっては評価に値するものに思えていたからです。エロスを美と認めるに足る有力な反例だと思いました。いや、なかなかどうして、すぐれた作品は自明ではないこともあるらしいと、思い知りました。こうやって反対に会うことで、なるほど自分の感受性の位置を確かめるということもできるわけです。 その後、次第に話題は外国の芸術を受け入れる際の審美の基準というテーマに及びます。西欧の価値基準で量れなかったアジアの芸術作品をフランスがどのように受け止めることができたのか。またフランスの事例を参考にしつつ、将来、日本がどうやって隣国の美術品を受け止めていけるのか。これは非常に大きな問いです。答えは出ない問題です。しかし設問者としては、西欧の審美の基準の根幹に真善美の一致があっただろうと考えてもいたのですから、十全にテーマが展開したことに満足です。また、こうした点について、議論できたことは大変な喜びでした。 私の立場は、最後まで、あまり明確にしませんでした。私が迷っていると考える方もいたでしょう。むしろ私は恐れていたのです。美を定義するということは、翻って、醜を定義することであって、一方を優遇し、他方を排除する動きにも結び付きかねないものです。個人的に「~~が美しい」という感想を持つことは結構です。しかし一般論として、「美とは~~であるって認めなさい」という言説には、慎重になるべきだと考えています。美が直面している問題とは、排他性をいかにして乗り越えるかであると私は考えているのです。 こういう理由で、私は「美とは常に奇矯なものである」というボードレールのテーゼに意義を認めるのです。これは一見、美を定義しているように見えます。しかし刺激的なものであれば、全て美になり得ると認めることは美と醜の差異を解体し、西欧的なスタンダードを無効にしてしまうものです。ここで一種の判断保留と平等を実現しえます。 こうした平等はアナーキスト的な発想であり、愚かさによる判断力停止と紙一重であるという批判もあるでしょう。しかし、それは人それぞれです。全ての存在が、潜在的には芸術として評価される資格があると認めた上で、自らの審美基準を客観的に厳しく反省する機会となるのなら、この言説に意味があると私は考えているのです。そして、美醜を解体した以降の探索が、補うために必要なのではあります。 最後にベスト・アンサーの選出には、かなり迷いました。私に豊かな示唆を与えてくれたという意味では、猪突先生やマシュマロさんの回答を選びたいところです。しかし今回は最もご自分の考え方を鮮やかな形で示してくださった木造百年さんの回答を選ばせて頂きました。現代において真善美の「真」とは機能美であるというご意見は、誠にごもっともですし、技術大国の日本に相応しいでしょう。また木造百年さんは大工さんらしいですから、これはご自分の経験で裏打ちされた信条でしょう。機能美を美と呼ぶという感覚は、アール・デコなどの潮流に言及するまでもなく、日常生活でも納得いくものです。家電量販店で最新型の電子機器を見てどうしても欲しくなってしまう感覚もまた、性能=機能を好ましいと考える美意識の為なのだろうかと思ったものです。この欲求に私も無縁ではありません。

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その他の回答 (55)

noname#194996
noname#194996
回答No.15

NO.13 です。 嵐とまちがえられたようで申し訳ありません。 あまり建設的なものではなかったので無理もないかと。 そのような雑文にご丁寧なご返事をいただき感謝しております。 今回もアカデミックとは程遠いものになりそうですが、 お気に触ればスルーしていただいて結構です。 >現代における審美の可能性を(アカデミックに) ということですね。 もちろん美とはなにかということを常に心の問題意識に留めておかないとこれを考えることは出来ないと思います。 私の乏しい文学経験では、たとえば美に関してドフトエフsキーが「カラマゾフ兄弟」で「神が人間にし掛けたなぞではないか」と書いた言葉と、小林秀雄が「モオツアルト」で発した「美は実は美しくも何ともないものだ」といったことが印象的です。彼らの混乱を見れば、結局、彼らも文字で美というものの概念を直接表すことを断念したのではないかということでしょう。 自然を模倣するにせよ、自然から可能な限り離れて人工の極に徹するにせよ、われわれは美を目指す以上最終的には言葉を離れて人間の感覚に頼るしかないのですから、なぞがあるとしたらやはり人間自身の研究に入っていくしかないのではと思います。それが意味のあることかどうかは留保しますが。 その価値意識が科学とも論理とも違うのは、結局人間がこれまで文化として培ってきた、あるいは積み重ねてきた記憶の深さと多様性によるところが多いからだと思います。つまりぶっちゃけ人間特有の癖というか趣味というかそういったものの洗練(共通化、普遍化)のきわみが美になっていくということではないでしょうか。 なぜ洗練なのか。一例として男が若い女を好むのは科学的な真理ですが、それから可能な限り離れ(てモラルを守りつつしかも欲情を満足させ)なければただの性欲の発露でしかないとみなされるわけで、ある人間が時空を越えてこれを洗練させていったのがヌード芸術なのではないか。だれであれ「いい、好ましい、すばらしい」といいうる人工的美女の構築。これが現代では非常に拡散し先鋭化して多様な趣味が許されるようになり、それなりに支持者を得ていった。ロダンの美がありプルーデルの美があり、村上隆の美がありと言う具合でしょうか。 また雑駁な文章になってしまいました。 どうも地上から離陸できません(笑)。

noname#130919
質問者

お礼

どうもありがとうございます。楽しんでいただけたら、別にアカデミックにならなくても大丈夫です。私のスタンスがそこにあるというだけで、回答者の方に同じことを求めはしません。 >つまりぶっちゃけ人間特有の癖というか趣味というかそういったものの洗練(共通化、普遍化)のきわみが美になっていくということではないでしょうか。 いくつかテーマがありますが、まずは美と処世術というテーマのようですね。衣装などで美を纏うということは、社会的なステータスでしたし、今もそうでしょう。上流社会に入るためのパスポートのようなものであったわけです。しかし、お金があまりなくて、十分な衣装を揃えられない時はどうするか。ボードレールがやって見せたのは、ダンディズムという手法でした。高い衣服を買うことはできないが、喪服のように真っ黒な服装をして、人を驚かせてみたのです。こうやって身の丈にあった範囲で人目を引くこともまた、彼の美学であったわけあって、他のお礼欄で書きましたが「美とは常に奇矯なものである」という定式の実践なのです。 さて、官能についてはどうでしょうか。「モラルを守りつつしかも欲情を満足させ」というのは、その通りですね。新古典主義の画家アングルの「オダリスク」は、女性を精緻に分析して表彰したという意味ではアカデミックな絵画ですが、しかし春画としても見れるわけです。しかしダイレクトに春画なのではなく、アカデミズムという隠れ蓑がもたらす距離もまた、エロティシズムに結びつくものと言えるでしょう。というのも、ただ欲望を満たすのではなく、そこまでのステップがあってこそ、官能は刺激されると言えるでしょうから。 ロダンと村上隆は、うーん、私は並べることには抵抗はあります。村上隆の場合は、性欲を皮肉ったのです。しかしロダンの場合は、理念的な愛を追求したのです。二つとも同じく、春画的に鑑賞できるというのは、ちょっと大雑把過ぎると私には思えます。ちなみにロダンはボードレールから強い影響を受けているのですよ。『悪の華』の挿絵を描いてもいます。

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回答No.14

物事を認識する時に、その対象の階層現象的表面の感受、ないし因果律の時空的連続性の刹那的な把握をベースとします。 そこから、階層現象を原理的に遡る=本質的に把握する事を「真」とするならば、その対象の社会的効果の位置づけ(空間的波及)として「善」が生じるのです。 そこにおいて「美」は、あくまで階層現象的表面に限定されているように思えます。 しかしそこには、認識プロセスの特質たる“過去の経験の総和による感受への直感的印象の付与”において、その「表面」に時間的連続性(記憶)が集約されているのです。 光や音などの先行感覚の、特定の刺激パターンに対して、過去の五感の相関した刺激パターンの総和が励起される事によって生じる、「色(生理的作用)」や「形(空間的遅延作用)」、そしてそれらの総合としての「美(経験を二分する「快的経験の総和」)」として。

noname#130919
質問者

お礼

>階層現象を原理的に遡る=本質的に把握する事を「真」とするならば、その対象の社会的効果の位置づけ(空間的波及)として「善」が生じるのです。 難しい言葉も多いので機微を理解するには限界がありますが、概ねでおっしゃることは理解できたと思います。 ・真:本質的なもの ・善:社会的な評価 というのが大枠でしょうね。階層現象が何の階層なのかはわかりませんが、聖と俗の階層ということなのかと思います。 >しかしそこには、認識プロセスの特質たる“過去の経験の総和による感受への直感的印象の付与”において、その「表面」に時間的連続性(記憶)が集約されているのです。 さて、上記のように真と善を定義した上で、美は、それとは別個に、心地よいと思われた経験を集積したものだというわけですね。となれば人間の歴史があり、また人の生きた経験があれば、審美は自ずと存在するということになるでしょうね。ただし、その個々の審美の基準が全体の問題として議論可能な時代は、過ぎ去ったのでしょうか。それともまだあるのでしょうか。 文化人類学的にも、人間に共通の何かがあると思うのなら、美には普遍的な要素があると言えるかもしれませんね。色形というのもそうかもしれません。黒は喪の色になることが多いようです。またたとえば、母性など、普遍的にわかりやすいテーマであるとは言えるでしょう。 もちろんアリエスの『子供の誕生』のようなものをひいてくれば、子供は労働力に毛の生えた存在であって、母性が絶対ではなかった時代を示せるわけですが、まぁアリエスは一つの仮説だと考えることにしておきましょう。 大変参考になりました。

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noname#194996
noname#194996
回答No.13

美というものは私の最大の関心事ですが、質問者様ほどには 難しいことはまったく知らないので、単に感性で私の思ったことを書かせていただきます。 まったくはずしてしまっているかもしれません。 真善美といわれる以上、美は前2者とは無関係のものと考えねばならないのではないでしょうか。 確かに完全性と美とは近い性質があり、この点から真と美との類似性がいわれるのかもしれませんが、 本来真と完全とは似て非なるものです。また、 善と美との類似を考えるときに関係性を取りざたされるものは、よいもの、好かれるもの、つまりは快というものでしょうか。このあたりはかなりこみいってはいますが、はっきりいって善と快とは重なってはいてもほんの一部であり、やはり似て非なるものといわざるを得ないと思います。 美 は実体のないもので確立したものは何もないといっていいでしょう。それに、真やら善ほどには人間に生きるための恵みをもたらしてくれたわけではなく、むしろ害を与える場合が多かったと思います。ともかく実がないやくざっぽいものです。有史以前から大変な人間の労力がこれに費やされてきましたが、個人の道楽だったと談じる以外になぜなのかは誰にも分かっていないのではないでしょうか。単に性欲と同等の、いや性欲だったら子孫が恵みとして生産されましたが、美の追求では芸術家といわれる特殊な人間を食わせる以外何の実も人間にもたらさなかったといっていいのではないでしょうか。 しかし、美は現代において急にその勢力を広げ、かわったもの、ちょっとびっくりするもの、刺激的なものなどをキーワードにあらゆる分野が美になだれ込んできているといった感がします。つまり客観的には可能性が過去最大になっているということでしょう。 なぜなのかは大体想像がつきます。つまり、生活が楽になり道楽が大衆に降りてきて、一方美のライバルである真と善があるていど追求されつくして頭打ちになっている(生活が楽になったことの原因でもあります)からではないでしょうか。 まったく散文的な、非哲学的な雑文で、何のご参考にもならないと思いますが。

noname#130919
質問者

お礼

重要なお話ですね。ご回答を糸口に、話を広げてみました。たとえば美術品が貴族の独占物ではなく、ブルジョワに行きわたり始めた時代、工業を基盤にのし上がったブルジョワらに美の実用性はよく議論されたのです。美には何の実利的な価値がないではないか、と。それに反発した評論家らで主流派を占めた意見は、低俗なブルジョワには美が理解できないのだという揶揄でした。貴族的でなければ美は理解できないというのです。 しかし、この議論も、実は微妙な問題があります。そもそも審美が可能であった時代とは何なのでしょうか。私は設問で、審美の基準が真善美の一致という前提にのっとった上でなされていた時代のことを述べました。 この三つの要素の結びつきは、イデアの話になりますから、ちょっと置きます。しかし、あるモノの価値を判断するためには、外部の価値観を持ってこないと客観的にできないとはよく言われることです。変な喩えですが、たとえばコーヒーの価格を設定するためには、コーヒー豆の生産コストだけ考えればいいのではなく、紅茶や緑茶という他の飲料の価格を考慮に入れないとならないでしょう。同じように美の価値も、他の善や真との関係で量られていたわけです。 しかし美は「芸術のための芸術」という言葉を掲げて独立してしまいました。この結果、美の値打ちを測ることが難しくなったというのは、まぁ論理的に考えて導かれる必然ではあるのです。評論家たちにしてみても、基準をもっていたとは言い難く、ブルジョワの自尊心を傷つけるべく「貴族なら理解できたはず」という言葉を投げていただけではなかったでしょうか。 さて、この結果、美の内実を精密に分析する基準がなくなってしまった以上、おっしゃるように、「何かしら刺激がある」とか、「力強い」とか、曖昧なことより他、言えなくなってしまったのです。そして「誰にとって刺激があるのか?」という問題を考えると、審査員とか購買層に受けるにこしたことはありません。つまり普遍的な美を問うのではなく、個別の美を問題にし、マーケッティングする方が認められやすくなったわけです。 こうなると、受け手が変われば、作品の良さは通じないでしょう。たとえば金満家に対しては「貧乏人を殴り倒そう」という表題の詩が、刺激に満ちているかもしれません。しかし貧乏よりマシなくらいの良識人にとってみれば、「何を言ってるんだ?」ということにはなるでしょう。 実際、現代では、この混沌は大変なものです。たとえば、美術品とそうではないものの差は、もはや作品のクオリティによっては区別できず、ブランドや市場価格によって決定されるなどという議論を美術評論系の雑誌Art itの創刊号で展開した評論家がいました。村上隆のフィギュアと、そこら辺の玩具ショップの人形と何が違うのかといえば、村上隆というブランドに価値があるのだというのです。村上隆のフィギュアを大枚叩いて買った金満家が欲しかったのは、ただのブランドであって、美のなんたるかを理解する力はない、と。しかし、成り金であるらしい買い手は、ことによったら常人とは異なる感覚を有しているのであって、村上のフィギュアに感じ入る何かがあったのかもしれません。こういう個別の感覚を言い出すと審美とはどのようにしてよいのか、評論家もわからず、ただ市場価格を呆然と見守るしかない――とまで言えば、悲観的過ぎるでしょうか。

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  • _AXIS
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回答No.12

訂正。 ×イコールで結ぶのが正しいとするのが正しいと思うなら、 ⇒真と善がイコールであると思うなら、  ああ そうそう、ルドルフ・シュタイナーの著作に「悪の秘儀」というものがありましたね。  いえ、特に何かを揶揄して言っているわけではなく、実際シュタイナーというのはマイナーなので、何か知っていないかな、と思いましたので。

noname#130919
質問者

お礼

シュタイナーですか。うーん、二十世紀となれば、私はあまり勉強していません。実際、私は、あまり神秘主義は好きではないのです。ご期待に沿えず、すみません。

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  • _AXIS
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回答No.11

どう考えても、真と美をイコールで結ぶのは間違いですね。  文字の形も、読みも 意味も違います。  1=2 としているようなものです。1≒2とするなら まあ、間違いはないかもしれないですが。  イコールで結ぶのが正しいとするのが正しいと思うなら、その過程で誰かが間違った思想により「喝破」してしまい、それを正しいこととして認めてしまったからでしょう。  幼児期に親の存在感をはじめとする刺激や抑圧が強すぎ、したがってそのような暴論とも言える思想を受け入れているのでしょう。これは推察です。それはともかく 私が 真>善>美 としたのは、何かの書物を読んでとか、何かに影響されたわけではありません。知識はほとんどと言ってよいほどないのでね。 >しかし芸術を信奉するのなら、善は美の一部に過ぎないわけです。  信奉しないなら、やはり 善>美 ですね。 耽美主義の人は思想理念より視覚器官に映るものを優先している人なんでしょうか。やはり幼児期の刺激が強すぎたか? >真=美>善ではないでしょうか。  違いますね。具体例で考えてみればわかると思いますよ。美しいと思っても、嘘(つまり真の反対の偽 偽り)である場合もあります。

noname#130919
質問者

お礼

持論を展開されていたのですね。これは失礼しました。私は新プラトン主義に即して議論を手伝ったつもりですが、お考えと違ったのかもしれません。ただ立場や思想によって、真善美の位置付けは変化するものです。私は持論を展開しているわけではないから、別に幼少期のトラウマなど関係ないのですが……。まぁともかく、ご不快になったことだけはわかりました。 >耽美主義の人は思想理念より視覚器官に映るものを優先している人なんでしょうか。 >美しいと思っても、嘘(つまり真の反対の偽 偽り)である場合もあります。 その通りですよ。嘘でもよいから美であってほしいとは、ボードレールも書いているとおりです。 だがきみが外見であるだけで、足りはすまいか、 真実を遁れる心を喜ばせる為には? きみの愚かさ、はたまた、つれなさがなんだ? 仮面だろうと書割りだろうと、栄えあれ! 私はきみの美しさを崇める。 (「嘘への愛」、阿部良雄訳)

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noname#133759
noname#133759
回答No.10

「審美」は可能性としかあり得ないんじゃないんですか?これこれこういうものが美であると決まっていたら芸術家は廃業でしょう。 そういう意味では「審美」はポテンシアであり、非決定論的である。

noname#130919
質問者

お礼

美が定められるものではないというのは、現代的なお答えですね。ボードレールが『1846年のサロン』で述べたように巨匠の打ちたてた様式や流派は失われたのであって、どのような作品を作ってもよい時代になったのでした。 このような自由の中で美を定めるというより、あるいは美の類型を整理するという以上に、様々な可能性を探ってみたいというのが、設問の希望でした。

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回答No.9

 No.2&6です。  賛否は別としてご理解いただいたようで あたらしい世界です。  ★ 上記の経緯を踏まえた上で、現代において「審美」とはいかにして可能か。あるいは不可能であるか。  ☆ 《審美》は 創作者であろうとなかろうと あるいは一定程度の知識や情報を持たなければ作品を鑑賞し得ないという意味での専門家で――じつは――あろうとなかろうと そのまま作品の前に立てば おこなわれる。時代が現代であろうとなかろうと そしてその他あらゆる事柄について条件づけることは一切なく 審美はふつうに行なわれる。――こういう回答なのですが それだけでは 阿呆のひと言になりますから まづは話の前提を整理しようとこころみました。踏まえるべき《上記の経緯》について突き合わせをしたわけでした。  イデア論が問題になったり わたしは思想家として主観を表わすことに重きを置くというその傾向が指摘されたりしましたが 上の回答を寄せるのみということになります。  お分かりのように 美術史の生徒であるというのは 額面どおりなのですから どの思潮や議論を下敷きにして述べよと言われても 何もありません。そのままの美論です。  ロマン主義が 社会生活の中で共生を目指しつつ 個人としてその自己表現を精一杯こころみ努めつつふつうに生きる思想(生活態度)だとすれば それがたぶんひとつの主義主張であるかとも思います。  ゴッホは 本人がどうであったにせよ その作品は そういう意味でのロマン主義の香りがただようとはわたしには思われます。  言いかえると 作品の美は あくまでそれぞれの主観です。と見る立ち場です。  言いかえると その観賞の際にこだわるためのようなイデアの体系はいっさいありません。持ち合わせていません。底抜けの自然です。  あとはお答えに応じて 反応します。  * 参考にする文献などが明らかになれば 話は確かに早いのだろうと思います。それは ここで(この質疑応答の場で)勉強中です。

noname#130919
質問者

お礼

>賛否は別としてご理解いただいたようで あたらしい世界です。 なるほど、前のお礼欄に私が書いたことは大胆だったかという反省もありましたが、大枠は外していなかったと考えてもよいようですね。イデアというより主観の問題を扱いたいということも理解できました。 実際、美術史的に見ても、芸術に措定された感覚的なイデア(=主観と客観の交じったもの)を目指すという態度から、主観を尊重するという変化はあったのです。私とすれば、ブラジュロンヌさんの議論がロマン主義以降のものであると考えれば、受け入れることはできるわけです。 さて、では議論を進めましょう。3つ伺いたいことがあります。 まず以前、ゴッホはよいが、ピカソはわからぬとおっしゃっていましたね。その差は何でしょうか。これはブラジュロンヌさんの感性にピカソが訴えかけてこないというだけのことであって、ピカソの作品が劣っているということではない、という風に考えてもいいのでしょうか。というのも、ピカソもゴッホも自らの主観を表現していることには変わりないからです。 あるいは、ピカソの作品が訴えかけてこないとは、すなわち、彼の主観が劣化しているということなのでしょうか。というのも、ブラジュロンヌさんは認識されたものを表現するにあたって技巧の問題は無いとお考えなのですから、表象されたものは直接、その人物の内面を示すことになるでしょう。しかしそうであるとすれば、ある作品を判断する際には、審美以前に、その人物の人間性を評価するという行為があることにならないでしょうか。 また、上記の問いと関連しますが、芸術が表現するものが芸術家の主観でよろしいということになれば、作品の良さはどのように判断するのでしょうか。当然ながら、その作家の主観は覗き見ることができません。その作家のインタヴューや伝記を調べ、「こういう気持ちを表現するのだとしたら、その表現は未熟だ」とか、逆に「まさにゴッホのその時の気持ちを十全に表現しえたに違いない」などと判断するのが納得いく手法ではないでしょうか。 が、こうした研究的な態度は認めてらっしゃいませんでしたね。となると「私ならどうだろう」と芸術家に同調する形で、その作品が主観をどのくらいよく表現しているかを判断するということでしょうか。そうであるとすれば、芸術作品とは鑑賞者の心の内面を写す鏡だという位置付けになるように思われますが、いかがですか。 最後に主観の世界を表わしているというのなら、シュルレアリスム的な手法によって無意識を引きずり出してくる創作活動があるわけです。あるいはシュルレアリスムという流派とも外れて、自らの意識を記載する試みがあったわけです。主観をより直接的に表現するという点では、まさにブラジュロンヌさんの基準に当てはまるのですが、これについてはどう評価なさいますか。 ・アンリ・ミショー: http://koinu2005.seesaa.net/article/139112051.html

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  • noname002
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回答No.8

質問者さまには、あまりに素朴に過ぎる疑問と思われそうですが、 仮に馬なら馬というものを一切知らない場合、どう審美可能なのかしらん。 他のかたへの御返事ではありますけれど、 >エロスというのは、当然ながら精神修養とは別のもの どうでしょうか、けっこう「精神修養」なのかもと思えるのですけども(笑)ひねくれているような人にとっては特にそうじゃないのかな?と。 「キレイはキタナイ」って、バイキンマンだったか、『マクベス』だったかな? 「残酷」とか「悪徳」とか「汚物」が美しい、好きだー!と感じる人もいるようなんですけどね。アポリネールとか。 >美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破 なぜ、「刺激的」と感じるのでしょうかね。 (なお、「的を得た」というのは、べつに間違いではないそうですよ。)

noname#130919
質問者

お礼

>仮に馬なら馬というものを一切知らない場合、どう審美可能なのかしらん。 馬だとわかりにくいので、たとえばファンタジーの生き物を考えてみましょうか。誰もキマイラなど観たことはないでしょう。これをどうやって評価するか。自分の知っている生き物にひきつけて考えるのではないでしょうか。しかしファンタジーの生き物は、究極的には芸術の描く対象としてあまり好まれませんでした。古典においては、結局、人間が一番好んで描かれたのです。 >エロスというのは、当然ながら精神修養とは別のもの アポリネールは二十世紀ですよね。彼は「芸術のための芸術」以降の作家ですね。こういう芸術をどうやって評価しようかというのが、設問の趣旨でもあります。 アポリネールの美学にシンパシーを感じるというのなら、どうぞ持論を展開なさってください。『一万一千本の鞭』の話でしょうけれど、楽しみですね。バタイユにせよ、ジュネにせよ、サドにせよ、某かの精神性はあるのですし、私はそれを否定していないのです。ただし彼らの精神性は、新古典主義の規範と異なるということを言いたかったのです。 >なぜ、「刺激的」と感じるのでしょうかね。 ボードレールを引用して説明してもいいですが、それより、よかったら『悪の華』をめくってみてください。

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回答No.7

美を語るとき、芸術の話に限定しないでおくんなせい。 この世の美の大半は芸術とは関係ないところの日常で大工や土方や庭師や指物師などが作っているでしょ。 >しかしそれでも我々はなお、美を求めるのではあります。 ホンマでっかいな。美を求める人が居なくなった事の証明に東京と言う街があるじゃありませんか? そうして、人類は美を求める事を忘れ、直方体のコンクリートで街を埋めていったのです。おしまい。

noname#130919
質問者

お礼

>ホンマでっかいな。美を求める人が居なくなった事の証明に東京と言う街があるじゃありませんか? ご来訪ありがとうございます。「おしまい」と切りあげられてしまいましたが、最初なので私の方でサーヴィスして、東京の美に関して、ちょっとだけ。私はフランスに住んでいますが、その前まで、私も同じ意見でした。東京というのは、何と美観の無い街なのだと思っていました。この考えが覆された経験をお話ししましょう。 私が最初にフランスで行った街はレンヌという北西の古風な街です。雰囲気は、わかりやすいところでいえば、東京ディズニーランドのような石畳で、実に洒落た街並みです。私はここを満喫していました(ここに来ると、東京のテーマパークなど、張りぼてにしか見えなくなるほどです)。 さて、ある時仲良くなったフランス人が、レンヌで最も美しい場所に連れて行ってやろうというのです。大喜びで着いて行った私ですが、何と連れて行かれた場所は、新型のショッピングモールです。新型と言っても、日本でいうと珍しいものではないのです。私は言ったものです。「東京なら、街全部がこれだよ。東京って恐ろしい街だろう?」と。相手は仰天して、「東京は世界一美しい街に違いない」と大真面目にいうのです。 最初はレンヌのフランス人の意見を、私は正直にいえば阿呆だと思っていました。自分たちの街の美しさがわからないとはバカだと。しかしフランスに暮らしていると、意見が変わってきました。というのも、パリでさえ高層ビルは一部を除いて存在しないし、ショッピングモールも一部を除いて最新型とは言い難いのです。東京の方が便利には違いありません。 そして実用的な問題だけではなく、私は高層ビル街に安心があったことにも気付かされました。つまり最新のテクノロジーで守られているという安心がです。パリの十九世紀より前から変わらない建物より、無機質でゴミなど付かないかのような高層ビルには、人間がこの場所の覇権をとったという安心があるのではないか、と思ったのです。そうしてみると、東京を作った人の脳裏には、やはり某かの美意識があったのではないかと私には思えています。 こうした感覚は、外国をめぐってみないとわからないかもしれません。東京は住んで慣れてしまえば分からないかもしれないが、大変恵まれた街です。 木造百年さんの美意識は、わからないでもないのですよ。私はまさに木造百年以上の住居に住んでいました(建築されたのは江戸時代なので、木造二百年くらいだったはずです。今なら文化財の一歩手前で、私の家とそっくりなものが「民家」の図鑑に載っているほどです)。家の敷地には巨木がありますが、計画性のある先祖の誰かが建て替えの際に大黒柱を調達するべく植えたのでしょう。人間が覇権をとるのではなく、自然と共に暮らすって、私はいいなと思います。 >この世の美の大半は芸術とは関係ないところの日常で大工や土方や庭師や指物師などが作っているでしょ。 私は現場の方々と話したことはないので、様子がわからないんですよ。お気に障ったらお許しください。実際、建築は芸術の中でも最も認められにくい位置になってしまいましたね。昔は総合芸術として尊敬されていたのですが。

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回答No.6

 No.2です。  なかなかおもしろそうですね。  ★ イデアとはアポステリオリかアプリオリかという問題  ☆ 簡単に言えば 《ものごとに関する一般にことばをつうじての概念としての認識については その潜在的な能力を先験的にひとはそなえている》(α)と見ます。  その前にいくらかの細かい表現の行き違いについて触れます。  ★ ~~~~~~~~~~~  ( a ) eidosには一見矛盾する二つの意味があるわけです。アリストテレスの用語では形相、すなわち「見たもの」。プラトンではイデア。同じ語についての意味が、片や即物的で、片や抽象的です。  ( b ) ブラジュロンヌさんの指摘は、この二つの溝は「されなければならない」と言って騒ぐほどの問題ではなく、普通にしていれば、溝は埋まるのだという意見に読めます。  ( c ) これは芸術家らの苦心を考えると楽観的な意見だとも思えますが、  ( d ) そう考えてはならぬという理由はないでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ すでに( d )を言ってもらっているのでこだわることもないようですが おそらく( c )の主題のほうに焦点があたるというところからでしょうか この( a )のように示し得るところの( b )の帰結内容は あっさりと措いておかれているかのように感じてしまいます。  つまり アリストテレスの知覚からプラトンの認識への移行は――その《イデア》論の当否は別として―― きわめて自然であり 両者にかんしては《普通にしていれば、溝は埋まるのだ》と見るということ。これを確認しここに焦点を当てることは あとは創作家の才能を俟つのみで ( c )という焦点は外延として含まれているでしょうし 同じくその( c )という論点はそれほど難題であるとも思えないのです。つまり  ★( e ) 実際、私の書き方も曖昧で、イデアを認識することと、イデアを表現することの困難を混同した書き方にしてしまいました。  ☆ の――言いかえるならば―― 創作と鑑賞との差は 埋めがたい溝であるとは思えません。つまりは才能に恵まれているかどうか――むろんこれ自体は 大きな差ですが 言わば芸術家として生まれる人間は適当な数ほどいるでしょうから――として見ておけばよろしいかと。才能に恵まれていない鑑賞者にしても 基礎の能力はそなわると見るわけですから。  ★ ~~~~~~~~~~~   >・・・個々の要素としての《馬のイデア》がどうだこうだという見方は 美の知覚行為そのコトと対応しないように思います。  まず基本的なことを確認しておくと「イデア」ですから、個別の馬は問題ではないのです。馬という総称全体のことを考えるわけです。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりここでは《個々の要素》というのは 作品全体の中の を言うのみですから そのかたちが馬であればその馬については《総称・一般称》を前提にしているわけです。  というよりは 一般的に言って 《イデア》がおそらく先行するものではないと言おうとしています。ですが これはそこまで言って 保留としなければならないでしょう。  とは言うものの 周りまわってこの《イデア》論がそこここに顔を出して来るようではあります。  ★ このように(* つまり創作者と鑑賞者とその中間の愛好家とのあいだに イデアの的確な認識とその造形としての表現およびそれらについて洞察するような理解 これら認識・造形・洞察の能力に差があることを見るならばそのように)、私の一節は美の知覚行為を議論しているというより、審美を議論しているのです。  ☆ ですが ここでも初めからの問い求めの基調が変わったわけではありません。こうです。  1. ふつうの人が鑑賞者として 作品を見る。=すなわち美の知覚行為。  2. 作品の全体を見る。その知覚ないし得た視像をつうじて・その感性を超えて 認識にも到る。  3. それは ことば・概念・観念をとおして認識するという意味でなら《イデア》と言ってもかまわない。  4. 個々の要素についての知覚もむろん得ている。また成るものならばそれらの認識も成る。  5. これら知覚および認識の全体を 全体としての作品と照らし合わせて その美を推し測る。  6. その審美の作業には 直感および直観なるヒラメキ〔が得られたならばそれら〕と概念によって筋道立てて把握しようとして得られた論理的な理解が過程されている。  7. なぜならそれが 最初に(α)の命題として仮定している中身そのことだから。  ☆ イデアとは ことばであり その概念内容であり ときに頭にこびりつくような観念であると考えます。  ニ千字にてやや端折りましたが。

noname#130919
質問者

お礼

あまり先に進めず、一歩一歩考えていきましょうか。私は既に、よくわからなくなりかけているのですよ。しかしブラジュロンヌさんが、ご自分で自分のお考えが突拍子もないとおっしゃっていた理由が、今更わかったような気がします。最初は、ブラジュロンヌさんは古典主義に近い考えだろうと思っていました。しかしこういうことでしょう。 a. イデアは誰もがアプリオリに認識しているものであって、その認識にあたって困難はない。 b. 認識と表現の差異はない。 いや、なかなか、独創的な意見ですね。まずイデアは、その認識の精密さにおいて、哲学者や宗教者の特権が認められていたのですが、これはお認めにならないのですね?(それともイデアの定義が違うのか?) それから認識と表現の差は重要な問題ではないとおっしゃるが、では、同じ馬を描いた作品でも、AがBより優れている理由は何だとお考えですか? 歴然と違う場合を考えてください。巨匠の絵と、鉛筆も持ち始めの子供の絵を比べるようなことをお考えになってください。 通例は2つの理由で説明がされるでしょう。つまりイデアをAの芸術家のほうがよく認識しているか、認識したイデアを表現する技巧に長けているか。巨匠と子供を比較したなら、その両方の理由から説明はつくでしょう。子供は何を描くかのイメージもはっきりしていなければ、技巧もないということでしょうから。 ブラジュロンヌさんは、これについて、どのような説明をつけるのでしょうか。ブラジュロンヌさんのお話に即せば、同じモチーフを扱った作品同士で優劣は全くつかないことになります。 しかし、実は上記を総合すると、別の驚くべき考えが導かれてきます。つまり優越がつかないということによって、同じ馬を扱っていても、AやBというイデアが並行的に存在することになってしまうのです。すると最早、芸術家が直感によって認識しているのはイデアではなく、主観ということにならないでしょうか。となると、イデアという言葉にこだわる必要はなくなります。 こうした議論は、ロマン主義以降の美術論ということになるでしょう。こういう話しでいいのですか? 実際、私はブラジュロンヌさんの理屈が、よくわからなくなったのですよ。ご意見を主張するにあたっては、参考にしている文献を引用してもらった方が、具体的に理解しやすいのですが。たとえば、ドラクロワは次のように述べているとか。ゴッホやシャガールがどう述べているか、とか。 それから一つ言えば、ブラジュロンヌさんのスタンスは自分が思想家であろうとしているが、私は研究者として臨んでいるのであって、私は何ら独自の思想を展開しようという気はないのです。つまり私の意見を攻撃しても、私の見方が改まるとか、何かメリットがあるわけではないのです。こういう差があることはわかってください。 それからイデアに関して、私の予想以上の拒否反応があるようですが、私にはよくわからないのです。ロマン主義の主観の話をしたいのであったにせよ、それがイデアとどう違うかを考えることは有意義だと思います。大体、私の設問は「現代における」なので、イデアの話はスルーして、ロマン主義の審美の話をしてくださったら、それはそれであり難いのです。 しかし、どうしてもイデアに関して拒否反応があって議論全体の流れが滞るということなら、お互いの関心が合致する時期ではなかったのでしょうから、今回、我々が論ずることはやめにしましょう。

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