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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:現代における審美の可能性)

現代における審美の可能性とは?

このQ&Aのポイント
  • 美と真善美の関係について考える
  • 芸術固有の領域の確立と審美の問題
  • 美を求める現代における審美の可能性

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.17

#7です。 ご丁寧に頑固爺の戯言の相手をしてくださるとは、サイコロさんはお優しい方とお見受けしました。 「おしまい」とは、問答無用という意味じゃあ無くて、東京と言う町の未来、美的未来に関して絶望しているので「おしまい」と書いいただけですので、あしからず。 >東京ディズニーランドのような石畳で、実に洒落た街並みです。 順序が違うようですが、フランス流のジョークですか? ある日、ヤンキーがドイツ・ミュンヘン郊外の古城、新白鳥石城(Schloss Neuschwanstein)を訪れた時、「Oh、ディスニーランドみたいだ!」と感嘆しました、というのはアメリカのジョークです。 これは、審美の問題というよりは、真贋の問題ですね。今、20世紀の偉大なるフェイク、東京ディズニーランドは、東北関東大震災による液状化で、地中から泥濘が噴出し、その真の姿(=醜い姿)を晒しています。 この現実が、人々が真善美を忘れてしまった結果なのだと思います。人々が美を忘れてしまう遥か以前には、東京にも屋根屋根が織りなす美しい街並みがあったのです。江戸の甍(いらか)ですね。 サイコロさんが芸術というとき、それは自然に対する人工=Art=芸術という意味なら、その文脈で美を議論するのはありだとおもいます。人が生まれたままの姿よりも、より美しい身体を持ちたいと考え、身体を鍛える。これは人工ですが、悪くないですね。でも、同じ人工でも、「人工=芸術」として自己目的化し、過剰な化粧をし、また審美外科で美容整形のお世話になるなんざぁ、行きすぎですよ。そこに芸術の本質があるようなので、美の議論を芸術の範疇に閉じ込めないでくださいと申し上げました。 美を自己目的としない人工、たとえば建築、たとえば長大橋、たとえばジェット戦闘機などの人工の美が好きです。ディテイルに神が宿ったとき、機能を超えた価値=美を生むと考えます。 最後に、美の、審美の翻訳可能性に関してひとつ。 ベルサイユ宮殿の航空写真を見ると分かりますが、後方に、幾何学的な庭園が延々と連なっていますね。 これは、日本の庭師が考える美とはまるで違います。フランス人は不自然を美と考えるところがあるのでしょうか。 この幾何学模様を美と考える人たちであれば、最新のショッピングモールを美しいと感じるのは一貫性があるじゃあありませんか。 もうひとつ、お友達がショッピングモールを「美しい」と言った時、何と言う言葉を使いましたか? joli? beau? propre ?哲学のカテゴリで美を論じるとき、審美自体の翻訳可能性と同時に、言語の翻訳可能性の問題もありますね。  日本の美は、自然と人工を対立の構図でとらえるのではなく、無意識にアウフヘーベンしていると思われます。 機能と非機能(=芸術)が共存し、融合して、一体となったものにこそ、美が宿り続けることができるような気がするのです。 まとまりの無い(=美しくない)文章になってしまいましたが、サイコロさんに相手してもらいたくて、、。

noname#130919
質問者

お礼

お返事が遅れてすみません。こういう投稿があると、設問してよかったなという気持ちになります。テーマ・パークのお話は一本取られました。いや、レンヌをテーマ・パークが模したというべきだったでしょう。 後出しのような形ですが、私は、ディズニーランドというものは実に奇妙な空間だと思うのです。オリエンタルランドは大枚を貼りこんで、海岸線を潰して、街を一つ作りだししてしまいました。この人工の街は、奇妙な特性があります。つまり、ところどころに、架空の文化や歴史を植え込んであるのです(架空のヒーローの記念碑がアトラクションの随所にある)。さらに所狭しと、フランス風、スペイン風、ドイツ風、南国風というように、たった一つの街で諸国をまわったような感覚になれます。奇妙な混淆物なのです。しかしその逆に、葛西の海岸線の雰囲気は微塵にもありません。 こうなると、そのどこにも真はないといえます。この徹底した人工的な空間を楽しめるという感覚は、人間がいかに嘘でも何でも楽しめるとかというしぶとさを、見せてくれているような気がします。また翻って、いかに「真」というものがなくても現代人は気にしないかという証拠であるようにも思えるのです。 さて、真の不在について、また続けて例をあげてくださいました。なるほど自然には不都合な要素があるので、それを修正して理想の状態に近づけようというのは、全てが悪いとは言いきれません。しかし現代では、ラディカルに、歯の矯正、整形をはじめとする身体改造などが、まさに身体の「不都合な点」を修正しているとして、あたかも真善美に沿う行為であるかのようにみなされることになってしまったのでした。 しかし、「真」とはそういうものでしょうか。ご回答を読んで考えたのですが、現代においても、また過去においても、「真」でありえたと言えるものの一つは、機能美だと私も思ってきました。たとえば筋肉一つにせよ、見せるための大きな筋肉と、使える筋肉は別物だと言われます。使って役に立つ筋肉の方は、見たままの通りの力を発揮するという意味で真実があるが、ただ大きい筋肉は張りぼてであって、虚偽であるとみなせます。 しかし、機能美である真実は、より自然に近いものであるでしょう。したがって、計画的に整理整頓されたものとは違うと言えます。「この(ヴェルサイユの)幾何学模様を美と考える人たちであれば、最新のショッピングモールを美しいと感じるのは一貫性があるじゃあありませんか」。まさに我が意を得たり!というところです。ボードレールやユイスマンスらは人工楽園を夢想します。伝統的に、人工的な天国を求めるという風潮はあると言えます。 しかしそれは、日本とは何か違う美意識に基づくものなのかもしれません。 >日本の美は、自然と人工を対立の構図でとらえるのではなく、無意識にアウフヘーベンしていると思われます。機能と非機能(=芸術)が共存し、融合して、一体となったものにこそ、美が宿り続けることができるような気がするのです。 おっしゃるように庭園を比較すると、これはよくわかる気がします。日本庭園は一見、秩序がないように見えるます。しかし庭に入って小道を歩くと、最短の道のりで様々な植物や岩を見られるように計算されているのであって、非常に実用的なのです。西洋庭園は、端から端まで隈なく歩かないとなりません。どちらが合理的かといえば、日本庭園ではあるでしょう。そして何より、日本庭園の中では、自分が自然の中にいるかのような感覚を味わえます。両者ともに人工物ではあるに違いないが、コンセプトは根本からして違うのです。 最後に「美しい」といった時の言葉は、beauです。真善美は順にvrai, bien, beauです。

noname#130919
質問者

補足

【ベスト・アンサー選出に際して】 皆さま、どうもお世話になりました。閉じるにあたって、主観的に全体の流れを整理してみます。まず私としては、OKWaveを去るにあたって、前回、他の方の設問欄で起きた問題を収拾したいという動機がありました。あれは、あまりにも酷いと思っただけに、不精な私も何かしてから終えようと思ったのです。私にも戦略がありました。まず前の議論を美術史的に位置付けることにしたのです。これが真善美の一致でした。そして大枠では、真善美の一致に賛成票が集まるだろうと見越したのです。そしてお礼欄の議論では、私は逆の方向に話を振りました。つまり私は確信犯的に、ゴミ箱アートの話や、サディズム、エロスなどの話を振ってみました。真善美の一致以外のものをどう認めるかに関心があったからです。意識的に、バランスを取ろうと考えたのでした。 しかしこれらの話題は、総じて、あまり好評ではなかったようです。真善美の一致が宗教的な観点から支持され、古典主義からの離反者が宗教的な観点から嫌われるというのは、よくわかります。が、宗教と関係ない次元で反対されるとは、あまり予想していませんでした。そして、とりわけエロスに関する議論では驚きました。私はベルリーニの「法悦」を例に出したけれども、反応が薄いのには、実は衝撃を受けてしまったものです。これはバロック期の傑作で、真善美の一致だろうと、現代アートの信奉者だろうと、私にとっては評価に値するものに思えていたからです。エロスを美と認めるに足る有力な反例だと思いました。いや、なかなかどうして、すぐれた作品は自明ではないこともあるらしいと、思い知りました。こうやって反対に会うことで、なるほど自分の感受性の位置を確かめるということもできるわけです。 その後、次第に話題は外国の芸術を受け入れる際の審美の基準というテーマに及びます。西欧の価値基準で量れなかったアジアの芸術作品をフランスがどのように受け止めることができたのか。またフランスの事例を参考にしつつ、将来、日本がどうやって隣国の美術品を受け止めていけるのか。これは非常に大きな問いです。答えは出ない問題です。しかし設問者としては、西欧の審美の基準の根幹に真善美の一致があっただろうと考えてもいたのですから、十全にテーマが展開したことに満足です。また、こうした点について、議論できたことは大変な喜びでした。 私の立場は、最後まで、あまり明確にしませんでした。私が迷っていると考える方もいたでしょう。むしろ私は恐れていたのです。美を定義するということは、翻って、醜を定義することであって、一方を優遇し、他方を排除する動きにも結び付きかねないものです。個人的に「~~が美しい」という感想を持つことは結構です。しかし一般論として、「美とは~~であるって認めなさい」という言説には、慎重になるべきだと考えています。美が直面している問題とは、排他性をいかにして乗り越えるかであると私は考えているのです。 こういう理由で、私は「美とは常に奇矯なものである」というボードレールのテーゼに意義を認めるのです。これは一見、美を定義しているように見えます。しかし刺激的なものであれば、全て美になり得ると認めることは美と醜の差異を解体し、西欧的なスタンダードを無効にしてしまうものです。ここで一種の判断保留と平等を実現しえます。 こうした平等はアナーキスト的な発想であり、愚かさによる判断力停止と紙一重であるという批判もあるでしょう。しかし、それは人それぞれです。全ての存在が、潜在的には芸術として評価される資格があると認めた上で、自らの審美基準を客観的に厳しく反省する機会となるのなら、この言説に意味があると私は考えているのです。そして、美醜を解体した以降の探索が、補うために必要なのではあります。 最後にベスト・アンサーの選出には、かなり迷いました。私に豊かな示唆を与えてくれたという意味では、猪突先生やマシュマロさんの回答を選びたいところです。しかし今回は最もご自分の考え方を鮮やかな形で示してくださった木造百年さんの回答を選ばせて頂きました。現代において真善美の「真」とは機能美であるというご意見は、誠にごもっともですし、技術大国の日本に相応しいでしょう。また木造百年さんは大工さんらしいですから、これはご自分の経験で裏打ちされた信条でしょう。機能美を美と呼ぶという感覚は、アール・デコなどの潮流に言及するまでもなく、日常生活でも納得いくものです。家電量販店で最新型の電子機器を見てどうしても欲しくなってしまう感覚もまた、性能=機能を好ましいと考える美意識の為なのだろうかと思ったものです。この欲求に私も無縁ではありません。

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その他の回答 (55)

  • cyototu
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回答No.36

サイコロさん、やっと忙しさから開放されました。一時はどうなるかと思われた危機が、またハッピーエンドになりました。やはり私は塞翁の生まれ変わりであるとこがまた確認されました。 >エロスというのは、当然ながら精神修養とは別のものですが、わかりやすい刺激があります。猪突先生は裸体や淫靡なモチーフを扱う絵画をどうお考えになりますか。浮世絵には中々、露骨な描写もありますね。これが美として評価されるのはなぜなのでしょう。 私のエロスに対する頭の中の反応は大変に動物的です。(勿論、動物的なのは頭の中だけで、行動面としては私は単なる動物ではなくて人間であることを大切にしております。)だから、エロスが喜びを与えるものと捉えてはいますが、美と考えたことはありません。だから、エロスを芸術の一部として語るのは私にはいつもの風が吹けば桶屋が儲かるくらいにしか考えていません。 エロスは脳内で、多分ドーパミンだったと思いますが、その物質の分泌が本質的な役割を演じているようです。美の認識にはどれだけドーパミンが本質的な役割を演じているのでしょうか。 私の経験では、優れた物を選別する能力は弛まない努力の結果得られるらしいので、時期が来たら誰にでも分泌が始まるような人間の生理に基づいた事象とは本質的に異なった事象だと思われます。ですから、エロスと美の関係を深刻に論じている文献も幾らでもあるようですが、ご苦労様、どうぞご勝手にと言うのが私の気持ちです。

noname#130919
質問者

お礼

猪突先生、おつかれさまでした。よほどの大事だったのですね。ともあれ、ご無事でよかったです。私もいろいろとありましたが、もう四月になりました。早いものです。パリは暖かくなりましたが、まだ季節を華やかに感じるという時期ではありません。むしろ六月あたりがいい季節のようです。震災など不安ごとは尽きませんし、ご家族のことなどご心配かとお察ししますが、せめて季節を楽しめますように。私は成田を出る時に、さすがに涙が出ました。 さて、私から振った話題ですが、失策だったようです。猪突先生が律儀だからという理由で再投稿していただけたものの、見事に振られてしまいました。元々の話の趣旨は、真善美の一致では判別できないグレーゾーンを議論しつつ、その境界を確認しようというものだったのです。まぁゴミ箱アートはどうも適さないが、ならばエロスはどうだろうか、という話でした。こちらも、ダメらしいということで、了解しました。 言い訳という形になりますが、春画なのか芸術なのか区別がつかないものは、実に多いのです。そしてリアリスムの芸術作品は、テーマを取捨選択しないという無差別さによって、エロスという要素を躊躇わず記入するのです。「テーマを取捨選択しないという無差別さ」と書きましたし、これはちゃんと示せるのですが、あまりお気に召さないでしょうね。というのも次のように鋭く意見を述べられていますから。 >私の経験では、優れた物を選別する能力は弛まない努力の結果得られるらしいので、時期が来たら誰にでも分泌が始まるような人間の生理に基づいた事象とは本 質的に異なった事象だと思われます。 すると真善美の一致が、猪突先生のお考えに近いものだといえるでしょうか。 さて、判断力停止の話が出たところで、本題とそれて、一つお勧めの小説を。判断力停止の問題を扱った作品で、素晴らしい小説があります。もし機会があったら、『ブヴァールとペキュシェ』というフロベール最晩年の小説を読んでみてください。心がひねくれている私でさえ感動しました。私の読書経験の中で、最も素晴らしいと思った作品です。判断力停止といっても、それがテーマで客観的に描かれているので、読書に際してストレスはお感じにならないはずです。フロベールは、十九世紀で最も鋭い文体を有していた作家です。 表題のブヴァールとペキュシェとは主人公二人の名前で、好奇心旺盛、今まで働きづめで勉強する機会がなかったが、老後は学問したいと考えている中年男性です。彼らは代書屋で、人の書いたものを写すのが商売でした。つまり何も考えないでよい類の商売だったのです。しかし二人は、学問をして自分の力で判断できるようになりたいという夢を捨てませんでした。そこで片方に遺産が入って働かなくてもよくなったのを機に退職して、二人は田舎に大きな家を買い、独学で勉強を始めます。 が、何をやってもうまくいかないのです。文学、政治、農業、医学、宗教学など、その好奇心は留まるところを知りません(執筆のためにフロベールが読んだ文献量は膨大なもので、このために生涯をかけたと言ってよいほどです。作中に記載されている情報は、かなり正確なのです)。二人の失敗は一つの分野に集中しなかったことがダメな要因だったのか、それとも何かしようにも基礎的な教養が足りなかったのか――その理由はよくわかりません。しかし最後に二人は、自らの判断力を停止し、もとの代書屋と同じく、書類を引きうつし、「紋切り型事典」なるものを書き始めるのです。 とても皮肉な結果ですが、私は自分の二十歳の頃と照らし合わせて、よく気持ちがわかります。いろいろと手を出してはみたし、若い頃は何でもできるような気になっているのですが、なかなか難しいものです。二人の失敗の要因は、私に言わせると、「弛まぬ努力」の年数が少し違ったのですし、人間の可能性を過信し過ぎたのです。やればできるさ、と思って始めてみた気軽さがもたらした失敗と考えられるのです。でも、それは普段、誰でもやる失敗です。読んでいて笑いながら、段々と泣きたくなってきたものです。

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  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.35

No32です。お礼 ありがとうございました。ソルボンヌ大の教授が心理物理実験を使って美の研究をしているとはしりませんでした。情報ありがとうございました。 そして『美とは卓越した評論家が定義するものなのか、それとも、万人が感覚的に感じているものか』 という 端的な問いを発せられ 後者については 心理物理実験(手法はアンケートだけではありませんが)で分析できるとかもしれないと述べられています。(私と同意見と理解します)。 しかし、疑問として 心理物理実験では 被験者(鑑賞者)の評論家思想の人気投票になりそうで これは求めるべき美ではなく、なんとかして個々人の固有の美基準は抽出できないないか とも述べられています。ご指摘の疑問については 抽出できないように思います。近々の評論家思想を排除する方法はあるでしょうが 鑑賞者は 誕生以来 外部から脳入力される質量は相当なもので 全て偏向データとして 脳機能を動かし 結果として美基準を創ってきていると思います。だから本来のモノだけを取り出すことは難しいと思います。たとえ 3歳の幼児でも固有の美基準を抽出するのは難しいと思います。なにしろバイキンマン(人気キャラクター)が登場するのですから。それと 後者の分析は 評論家の思想の影響も含めて分析しようということですから 必ずしも その思想を排除する必要はない と思います。評論家の思想は 美の定義もはっきりしており、それが鑑賞者にどう反映されたかを調べるのも一つのテーマかもしれません。 しかし、以上の話は 質問者さんにとっては あるべき美とは関係ない 分析し得る別の美であり 話は終わってない と言われる気がします。この問題の美とは絶対基準の美と理解します。完全な美であります。真理と同質のものです。後者は 論理学上はゲーデルの不完全性定理により否定されているところです。と同様に否定されるかどうかは 分かりません が 完全美は人間が創造できる限界のむこうにあるのではないか(これが完全美であるの証明はできない) とも思いました。 以上 また失礼しました。

noname#130919
質問者

お礼

三歳の子供でもバイキンマンなど、アニメキャラクターの影響を受けるのですね。アルチュセールという思想家の理論を思いだします。彼によると、人間の無意識には通念がすりこまれているのであって、当人が否定しようとも通念とは無縁ではいられないのだそうです。私はこの理論にリアリティをあまり感じていませんでしたが、三歳の子供からしてこれでは、実に根深そうです。 ソルボンヌの教授の調査の場合、当初は風土や自然という要因からアプローチしようと思っていたのだそうです。イタリアとフランスの風土の違いなどを理論の基盤にしようとしていたと述べていました。しかし結局、誰の展開した美学が流布しているかという調査結果になってしまい、研究の方向を転換せざるを得なかったのだそうです。 ゲーデルもまた二十世紀以降の潮流ですね。私も二十世紀人ですから、絶対的な基準となる美を求めていないのです。今回の設問がそのまま私のスタンスを示すものではないのです。これは何人かの回答者を想定して、答えやすいように設置していますから。 私は美とは流動的なものでよいと思います。証明の不可能性という点にも私は同意しますが、他に観点を変えて理由を付け加えれば、社会通念として何が美であるかが定まると、翻って、美以外のもの(=望ましくないもの)が定まってしまうからです。 美を完全に定めて、個人が思っているというだけではなく社会通念にしようとした極端な例が、ナチスにあると私は思います。退廃芸術の烙印を押して、多くの美術品を排斥しました。しかし退廃芸術にも、非常に優れた作品があったのです。たとえばパウル・クレーなど。ナチスは極端な例であって、排斥の兆しは、十九世紀に、差別のようなものとしてあったのです。ギリシア芸術が優れており、アジアの芸術は未開であるとされる言説はヘーゲルとその周辺に見られます。 しかし完全な美などあるものでしょうか。ゲーデルを持ち出すまでもなく、人文科学の分野では、証明という行為は人間の恣意性に依存していて、あまり信用に足るものではありません。結論を見てみてメリットがあるのなら支持しようという程度です。西洋の特権階級にとって、ギリシアを支持することに、メリットがあったというだけのことでしょう。だからここであらためて、新古典主義だとかその他のカノンこそ信奉するべき美学だ、などと私は考える気はないのです。ただ敬愛する回答者の方々と、尻切れトンボになった論題について、少しおしゃべりしてみたかったのです。 少し弁解めいたお礼の書き方になってしまいましたが、どうもありがとうございました。

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  • _AXIS_
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回答No.34

訂正w ×他者から尋ねたことはそのままにしておいて、ですか? ⇒他者から尋ねられたことはそのままにしておいて、ですか?  厳しいことばかり言ってごめんなさいwww

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  • _AXIS_
  • ベストアンサー率11% (2/17)
回答No.33

>悪徳に関してはNo23のお礼欄で少し述べたことが参考になるかもしれません。  社会のゴミ、実のないやくざもの の文章を引用してのコメントでしたね。 >資料をひいて論証しない限りは、あまり大きな問題として考えないことにしています。  考え方が逆ですね。 >私の楽観主義に比べてあなたは、繊細な神経をお持ちのようだと思います。  鈍感で愚か者の逆ということになりますか。 >私の論戦を避ける議論の仕方が気に入らないようですが、  自分の都合の良いように解釈しないでくださいヨ。「更なる悪を推し進めようとする欺瞞的態度が気に入らない」と言っています。 >この設問には、まったく別の意図があるのです。  それはそれ。他の人にはまったく関係ないし、普通はそこまで読み取れないし、気にしなくても良いことです。 >私が表立った形で反論しないのは、喧嘩する場にはしたくないからです。  言い逃れですね。 >専門的な反論が来たらお前はどうするのだとおっしゃいますが、  そのようなことは言っていませんが?わかりやすい言葉で説明し、同じようにわかりやすい言葉で反論されたらもうそこで終わってしまう、と言っているだけです。 >何か専門的なことをおっしゃってくれるかもしれません……  南方熊楠が言っているように、その専門家は色々述べることはできても肝心の本質の部分はわからないでしょうね、結局。 >お気の毒でしたね。  第三者が言う言葉ですね。少なくとも嘘・欺瞞・虚偽を代表している人が言う言葉ではありません。  結局、「私は親の抑圧を幼児期、幼少期のころに受け入れ、そのまま進んできて、そのような考えや思想を取り入れて生きてきた。そしてそれは正しかった。皆も同じように考えた上で審美が可能かどうか考えてくれ。この前提を受けれられない人は議論しない。皆私が受け入れてきたことを受け入れろ。」  というようなことを、自覚なく行っているということのようですね。  お気の毒と言えばお気の毒ですが、開き直って楽しもうとしているのだから、そうでもないのでしょうね。

noname#130919
質問者

お礼

うーん、議論をしないつもりでしたが、どうしてもしたい、ということのようですね。ハンドルネームを書きやすく置き換えると、アクシスさんでよろしいのかな。バリアーを張っても抜けてくるとは(しかも同じアカウント名)、奇術師みたいですね。素直に感服しています。そして、そこまで私とやりとしたいというお気持ちに感謝いたします。私から少し尋ねてもよいですか。 >更なる悪を推し進めようとする欺瞞的態度が気に入らない」と言っています。 アクシスさんによれば、ご自分は善を行ってらっしゃるらしい。しかしアクシスさんは他人の回答を批判し、私が制止しても、それを聞き入れはしないのでした。最初に警告したら、それを無視し、むしろさらに弁じ立てるという行動に出ました。この点に関しては、他人を批判しないというOKWave上の規約に照らしても、アクシスさんが悪いのではありませんか。私には何をなさっているのか、まったく理解できませんでした。もしよかったら、納得できる理由を聞かせてください。 それから私はこの設問欄では、ボードレールにも、真善美の一致にも、どちらにも肩入れしていません。歴史的な視点で俯瞰しているだけです。研究とは、他人が言っていることを客観的であろうと努めながら分析することです。アクシスさんは、ご自分が正しいと思ったことは貫かれるようだけれども、それは主観的であって、研究とは別の行為です。 アクシスさんの主張は研究ではないにせよ、それを求道と呼ぶなら、意味があるでしょう。私は批判するものではありません。ただスタンスが違うことをわかってもらいたいのです。 実際、『悪の華』は1920年代までフランスで禁書だったように、ボードレールがお嫌いなら、それはそれで一つの判断として尊重します。しかし私はこの設問欄で求道をしていないのです。したがって批判の矛先は、実は、あまり的があっていないのです。いかがですか。

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  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.32

子どもの頃から、あらゆる「毒」に触れて来ざるを得なかった私は、それらに対する恐れよりも、「レストランで食事を させてもらえない」といったことのほうが、よっぽど忌避したくなるのです(笑)その理由や原因が分からないと、「だって、ここレストランでしょ?違うの?」とイライラしてしまう(笑) さて、 見事に写真のような、たとえば、アクリル画の類を見ると、その思想性の表現だとかモチーフのことなんかよりも、驚くべき写実性の技術に対して、反射的に目を見張ってしまいます。 「グロッタ」趣味とか呼ぶものがあるそうですが、これは、自然を人工的に模したものですよね。 人工的なものをこそ、なぜ、「楽園」とすることが できるのか。 またも他のかたへの御返事からで、失礼かもしれませんが、、、 >この徹底した人工的な空間を楽しめるという感覚は、人間がいかに嘘でも何でも楽しめるとかというしぶとさを、見せてくれているような気がします。また翻って、いかに「真」というものがなくても現代人は気にしないかという証拠であるようにも思えるのです 人間というのは、「嘘」だからこそ安心して楽しめるということもあり、「嘘」には往々にして願望が含まれることもあり、だからこそ、積極的に「嘘」を求めもする、それもまた「真」ということかなと思います。 >美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破 >彼は美の要件を驚きであると定義 >驚きとは刺激があってこそです。 >「美とは常に奇矯なるものである」 >何の気なしに普段見ている夕焼けに対して、詩人が空想力を駆使して、刺激を見出したと考えられる 「奇矯」とは、要するに「普通」でないことですが、「普通」でない、という判断は、排斥行為に繋がりがちですし、それを受け入れるには「刺激的」、と感じるのは、感情が動いたということ、つまり、「感動した」ということですよね。もっとも、通常、違うニュアンスで用いられている言いかただとは思いますが。 まさに、哲学というものも、驚きが源であると言ったのは、ソクラテスだったでしょうか。 ボードレールには、太陽を、いろいろに評する ことばが出てくるのですね。今回、実に久しぶりに読み直してみて、気がつきました。ランボーの『永遠』を、ちょっと思い出したりもしました。 >「身の毛のよだつものに酔い得るのは強者のみだ」 これはですね、唐突でしょうが、横溝正史さんの、たしか、『鬼火』にも、そのあたりの心理の機微を描いた箇所があったと記憶していますが、「強者のみ」とは限らないようだとも思います。 >スタンダールは「美とは幸福の約束である」と述べています。これに対してボードレールは「美とは幸福の約束に過ぎない」と切り返しつつ… 私としては、「美」とは「幸福」そのものに入らせるものだと感じています。 ところで、「淫靡」ということに触れておいででしたが、No.8において申し上げました >>エロスというのは、当然ながら精神修養とは別のもの >どうでしょうか、けっこう「精神修養」なのかもと思えるのですけども(笑)ひねくれているような人にとっては特にそうじゃないのかな?と。 すなおさがなければ、それは「刺激」という「毒」でしかないでしょう。 先頃、亡くなったジェーン・ラッセルの発言 「肉体は隠すから汚くなるもので、太陽の下では、さらせばさらすほど、きれいになるものよ。」 提示していらした『美への讃歌』の末尾は、こうですね? 「世界の醜さを、一瞬一瞬の重みを減らしてくれるのであるなら」 ならば、つまり、「世界の醜さ」「一瞬一瞬の重み」に耐えられないというのではありませんか? ~「天から来ようと、地獄から来ようと」~ ええ、「力」には関係ないことですね。 「だが本当の旅人とは、ただ出発のために出発する人々」 私に言わせれば、いくら目的を持っているつもりでいても、おのれが産み落とされたときのことを思ってみればよい、ということかと。それならば、「ただ出発のために」と言ったとて同じことではないかと。 また余談ですが、 それにしても質問者さまは、「専門的な文献をもっていない人を批判しても、私にとって何のメリットもないのですよ」とのことですが、この「Q&A」サイトで、質問者さまは、何を目的にしておられるのでしょうか。しておられないのでしょうか。とも思いました。「専門家」というのは、このサイトには、ほぼ、いないも同然、と、かねて聞いていますが、それ以上に、実は、必要ない存在なのだそうですけれど(苦笑) 毎度 散漫な回答で申し訳ないですが。。。

noname#130919
質問者

お礼

他人の回答に対して批判を浴びせないというのは、常識的だと思います。「原因が分からない」というのでは、私はとりあう気がありません。 私が全ての回答者と議論する気がないというのは、それは私の言葉に至らない点があったかもしれません。失礼しました。 では、この設問欄とは何なのか。レストランの比喩がお気に召したようなので、それになぞらえて説明すると、お店にもTPOがあるでしょう。静かに食事するためのお店で、居酒屋のように騒がれると、給仕は冷ややかに接することになります。その判断基準はお店によってまちまちです。ネクタイや革靴がなければ入店できない店もあれば、レディ・ファーストを忘れた時点で摘み出される店もあります。OKWaveの設問欄全てが「ファミリーレストラン」ではないと私は考えています。 さて、私の設問欄の場合、議論が続くためには、マナー良くお話になってくださるということが最低条件で、まとまった形で自説を展開することができるのが必要条件、文献を引けると上得意のお客様になるという考え方なのです。大学院のレポート以上の論述レベルを求めています。 私の対応がご不満のようですが、正直に言わせていただくと、あまりご回答の意味と意義が汲めないのですよ。たとえばジェーン・ラッセルの言葉にしても、何の関係があるのか、私にはよくわかりません。想像力を駆使すれば連想が働くかもしれないが、私には、あまり関係ないようにしか思えないのです。 ボードレールに関しては、引用しつつ反論しているらしい(?)のですが、断章形式ですから、まとまったお考えがあるようには読めていません。ボードレールの意見を代弁し、私の解釈が違うのではないかと述べているのでしょうか。それとも、ご自分の意見を述べるにあたってボードレールが意味のあることを言っているのでしょうか。こうした位置付けもはっきりしていないように思えました。それで扱いかねるのです。ただし「美への讃歌」の引用と考え併せると、次の言葉が主な論旨であると判断できました。 >人間というのは、「嘘」だからこそ安心して楽しめるということもあり、「嘘」には往々にして願望が含まれることもあり、だからこそ、積極的に「嘘」を求めもする、それもまた「真」ということかなと思います。 しかし、これでは真と虚偽の区別がつかなくなってしまいます。わざわざ弁じ立てる意味がないでしょう。本当に関心があるのなら応対しますが、「散漫」と謙虚にも自分で申告なさっている文体から判断して、雑談であるようですから、ご意見が違うことが明らかになったという程度で、終わりにしててよいのかなと思っています。

noname#130919
質問者

補足

あれから何を言っているのだろうかと考えていたのでした。「美への讃歌」ですが、どの訳を参照したかわかりました。しかし、誤解が生じてしまったのだなと思います。私がそのまま訳してみましょうか。 >L’univers moins hideux et les instants moins lourds ? >宇宙がおぞましいものではなく、瞬間がうっとおしいものでなくなるのであれば! →宇宙が華やかになり、一瞬が楽しくなるのであれば! 問題は「醜さ」とネットで訳されていた語です。hideuxは「ぞっとする」「忌まわしい」という意味であって、美醜に関係する「醜」を明確に概念化しうる語ではないのです。前からの文脈でいえば、ここでは「刺激がない、退屈だ」というのが忌まわしさなのです。何でもいいから、自分を陶酔させて、世の辛さを忘れさせてくれるものが欲しいというのです。しかしネット上の訳文を日本語の通り読めば、なるほどボードレールは美醜の区別をつけていると解釈できますね。うーん。

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  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.31

 No27です。お礼いありがとうございました。あと少し説明させてください。私の意見は (1)美の観賞者の評価基準は文化に影響されているのではないか。絶対基準ではなく相対基準ではないか (2)美は必ずしも快楽とは考えてない、魅力、見事、素敵、勇気・・・色々な最初に受ける感覚を含んでいる。 (3)絵画売買市場のみを分析しているのではない。 (4)製作者は 意図をもって創っている。彼の哲学主張を盛り込んだ物から 市場にあった売れる物まで色々である (5)不特定多数の評価基準の分析には物理心理実験が有効な手段ではないか と言ったところです。失礼しました。

noname#130919
質問者

お礼

私が正確に理解を表明していない点があったと思います。お許しください。そして補足、どうもありがとうございました。 >(1)美の観賞者の評価基準は文化に影響されているのではないか。絶対基準ではなく相対基準ではないか >(5)不特定多数の評価基準の分析には物理心理実験が有効な手段ではないか おっしゃることはよくわかります。実際にそういう研究をしている教授がソルボンヌにいました。彼の研究は、社会学的にアンケート調査し、また社会的背景と照合して結果を分析します。環境的要因で審美の基準が決まるのではないか?というのです。それに通ずるものを感じました。 この手法はどこまでの蓋然性があると言えるでしょうか。問題は、まず美というものを誰が定義するかにかかっていると思います。卓越した評論家が定義するものなのか。それとも、万人が感覚的に感じているものなのか。後者の定義であれば、アンケート調査は有効でしょう。問題の半分について回答できる可能性をもった手法であると言えます。 しかし、美の定義は非常に曖昧になってきており、自分で考え切れる問題ではないかもしれません。したがって道行く人に「美とは何ですか?美をどう判断していますか?」と尋ねても、おそらく自分の考えではなく、聞きかじった評論家やコメンテーター、あるいはアーティストやスポーツ選手の言葉を援用して答えるのではないでしょうか。したがって、アンケート調査でわかるのは、「審美に関する言説で、誰のものが一番流布しているか」であって、美意識に関する本質的な問題ではないかもしれないと私は考えています。 こうした問題はアンケートの設定を変えれば、乗り越えられるものでしょうか。つまり「回答に際して誰かの意見を参考にしましたか?」という項目にチェックがついていれば、その回答は、除外するか参考程度の扱いにするというやり方です。あるいはアンケートの対象者を、年齢や出身地別だけではなく、「一般人」「評論家」「芸術家」など、細分化し、できるだけ自分で考えているであろう人だけに絞るということをすればいいでしょうか。もしお考えがあったら、ご教授下さい。

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回答No.30

 No.2&6&9&17&19&20&28です。  ▲(ヰキぺ) いたちの最後っ屁 - 追い詰められたときの最後のあがきのこと。  ☆ でしたので――前回でひと区切りは出来たかと思いますが―― 去るとは思っていなかったです。  待ちびと来たるまでのつなぎにでもなりますれば。  ジョルジュ・ブランのボドゥレール論ですか そしてサドの議論やサルトルのをもひもとかねばならなくなりましたが その前にひとこと――おそらく正当にも――提起しておくことのできるお話があります。あると考えます。  かんたんです。サドやその主張に同調する人びとは 次のパウロの考え方を扱わなかったのでしょうか。です。  ◆ (パウロ:コリント前書) ~~~~~~~  6:12  「わたしには、すべてのことが許されている。」  しかし、すべてのことが益になるわけではない。  「わたしには、すべてのことが許されている。」  しかし、わたしは何事にも支配されはしない。  6:13  食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。  体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 6:13に対して反抗するという自由意志とその行為はみとめられるのですが 同じ文脈での6:12に対しては ひと言も触れていないのでしょうか?   そのような一面的な聖書の読み方が 次のように世の中のひとつの《クリシェ》になるとは はなはだおかしいと思えるのですが?  ★(No.29お礼欄) ~~~~~~~~~~  サドなどのリベルタンは真善美とは口にしませんが、自然の秩序の中には、どのような悪行も、凌辱も収まるのだとラディカルに言っています。モラルだとか、何だと言っても、自然は何も禁じていないではないか、と『ジュスティーヌ・または美徳の不幸』で強姦者は少女にいって聞かせるのです。  こうした自然に対する把握の仕方は、当前十九世紀に流布していたクリシェであったと思われます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち サドの主義主張は――次のように言うと あたかもわたくしは教会の回し者になったようですが――  内省をともなう哲学思想を目指してはいないように思われます。  これは お尋ねしてもよいように思うのですが?

noname#130919
質問者

お礼

どうもありがとうございます。いつでも歓迎いたしますよ。待ち人の中にはブラジュロンヌさんも入ってるのですから。サルトル―ブランは読まないでもいいです。もしご関心あったらという程度です。 さて、ご質問の件ですが、どうお答えしましょうか。「《クリシェ》になるとは はなはだおかしいと思えるのですが?」というのですが、自分の性欲をはじめとする欲のあくなき追求を全面肯定する人々もいるということではダメなのですか。実は私は何を質問されているのか、よくわかっていないのですよ。「おかしい」とは資料的根拠がないという意味ではなく、ブラジュロンヌさんのモラルに照らすと信じがたいということでしょう? となれば、私に解決してさし上げることはできません。サドの『ジュスティーヌ・または美徳の不幸』は中々面白いので、ブラジュロンヌさん自ら、悪漢らと対話してみてもよいのではないでしょうか。仏語は難解ですが(動詞の活用の規則も違う)、訳者の力量が見事なので、直ちに読み切れると思います(渋澤訳に人気がありますが、岩波からの植田訳がお勧めです)。悪漢らの理屈に怒り心頭するか、陳腐だと報復絶倒するか、説得されておしまいになるか。よい読書になるだろうと思いますよ。 しかし、これでは質問の答えになっていないので、話の筋に触れずにどう書いたものかと思っていますが、少なくても私の解釈では聖書は議論の範疇からあらかじめ閉め出されたというものでした。少女が悪漢に反論する言葉は、聖書を参照しているでしょうが、ことごとく悪漢が論破してしまうのです。しかしブラジュロンヌさんなら、versetをより深く理解できるかもしれませんね。いや、実際、私はブラジュロンヌさんのご感想を聞いてみたくなりました。いかがでしょうか?

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  • _AXlS
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回答No.29

あ、そうそうもうひとつ言っておきます。 私は今まで、おもに他者からの欺瞞、嘘、虚構などといった働きかけが原因で苦い思いをしてきたのでね。 「解らないものはなぜそのように働きかけられるのか分からない」ということなんでしょうね。推察ですが。  あるいは ~   ~   ~ 。(面倒くさい)    ☆☆☆以上で~す☆☆☆

noname#130919
質問者

お礼

お気の毒でしたね。

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  • _AXlS
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回答No.28

おやおや、冷静を装っているようですが動揺されているようですね。 「お引き取りください」ってその前に30日の朝の時点でブロックしてますよね。このままだと引き下がったと思われるのでまた回答させてもらいますよ、申し訳ないですね。 審判はカードを皆に分かるように上に掲げて出しますが、質問者さんはこっそりとブロックしてますね。それで審判だと言えるのですか。 >しかし私のところでは何もしていませんから  なるほど、そのように見える、ということですね。 >今回の設問欄では、相手の持論を尊重するのが私の役割だと思っています。  役割、ですか。自分でそう決めたんですね。まあ、暇つぶし程度であればそれでよいでしょうね。しかし自分の考えがない人はそうせざるを得ないと言うこともできます。 >受け流すのも芸のうちでしょう。  受け流すばかりが芸でもないですけどね。なるほど、無条件に他者の考えを受け入れてそれを前提とした質問をするだけのことはありますね。 >専門的な文献をもっていない人を批判しても、私にとって何のメリットもないのですよ。  専門的な言語を用いずに説明して反論されたら もうおしまいですしね。 >楽しんでもらえたら、それでいいのです。  楽しければそれで良い というのは少し苦しい言い訳ですねw >大体、あなたのおっしゃりたいことを簡単にまとめれば、自分は革新的なことを言ったが、その価値が認められず、凡庸な回答者を擁護したことが気に入らないということに尽きることになりそうです。  質問者が問題としているのはNo.13と22の「他者を無闇に誹謗した」一文ですよねえ?  それに対してブロックされたことで、私は「単に自分に都合が悪いからではないか」と言っているだけですね。  残念ながら「革新的」なことを言ったとは思っていませんね。プラトンなどがすでにそのようなことを言っていたのでしょう?またすでに出ている回答としても同じようなことを言っているものもありますね。自分の推論、推測に自信を持っておられるようですが、それを過信しないほうが良いのではないでしょうか。 >なぜ聡明な自分を特別扱いしなかったのか、という苦情に尽きると私には思えています。  残念!これも外れです。自分が受け入れたことをよそで広められては困ると思ったのがひとつ。あとは例の回答者の文章が不愉快だったのがひとつ。そして「無闇な誹謗をした」などと自分さえも誤魔化して逃げたこと、でしょうか。ああそうそう、審判らしくなく、卑怯にも「こっそりブロック」したのもそうですねw >私の得意客だとでもおっしゃりたいのかもしれないが、私はそういうわけ隔てはしません。  まさかw そもそもここの管理権限はサポートにあります。そういったたとえは適切ではないですね。せいぜい「ファミリーレストランの一席を借りて楽しいお茶会を開いている」程度のことではないですか。その程度のこととして考えているようですね。しかしここはあらゆる人が見ることのできるサイトですよ。『悪徳であろうと、何であろうと、それで美と認めてよいと考えたのです。』などといったことを宣伝されてさらなる悪が推し進められては私が困りますね。もちろん、全体的に見てもよろしくないのではないですか。「看破」してないのに「看破した」などと言われたら、まだ自分の思想をしっかり持っていない人がまにうけてしまったら質問者さんの責任ですよ。 ☆こんな感じです。 あ、もう怒ってないですからw やっぱし またこっそりブロックするのでしょうか。 仕方ないですね。

noname#130919
質問者

お礼

悪徳に関してはNo23のお礼欄で少し述べたことが参考になるかもしれません。あなたへのサーヴィスというか、餞別の意味を込めて、時間がないながらも、少し詳しく書きましたから。ブロックにしたやり方がお気に召さないようですが、レッドカードというより、要するに、あなたは私の欄に出入り禁止にしたのです。 ところで悪徳のお話をなさりたいなら、ご自分の言葉で普通にしてくださったらよかったのに、無理だったのでしょうね。私としてはたった数行書いてあるだけのことを深読みして、それが革新的な「分析」と考える思考回路はありません。そういう「感想」もあっていいかな、という程度です。「書かれていないことは存在しないも同じ」というと言い過ぎですが、資料をひいて論証しない限りは、あまり大きな問題として考えないことにしています。私の楽観主義に比べてあなたは、繊細な神経をお持ちのようだと思います。 私の論戦を避ける議論の仕方が気に入らないようですが、この設問には、まったく別の意図があるのです。つまり前に審美の議論で問題が起きて、サイトにほとんど顔を出さなくなってしまった方々がいます。他の諸事情もあるのかもしれませんが、彼ら彼女らが、戻ってきたり、場合によっては和解できたりしたらいいなと思っているのです。私が表立った形で反論しないのは、喧嘩する場にはしたくないからです。 専門的な反論が来たらお前はどうするのだとおっしゃいますが、私も専門家のはしくれ、それはそれで望むところです。マシュマロさんや雨合羽さんは、何か専門的なことをおっしゃってくれるかもしれません……でも震災もありましたから、こうした設問どころではないかもしれませんね。

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回答No.27

 No.2&6&9&17&19&20です。  質問者を独り占めしてもいけませんが 一点の主題のみ課題のごとく提出します。    ☆☆(回答No.19) つまり〔ピカソ作品について〕 美だと醜だとの両方の見方があることになります。  ☆ もしこのようであれば 回答No.17で      §2 あえて今 《真善美の一致》という主題について  を言っているのなら・言っているのだから そのピカソの評価は 《真善美の一致》と相い反するではないかとの声を聞きます。  そしてそれが じつはうまい表現で規定していただいた次の論点になると考えている主題であり 課題です。  ★(No.20お礼欄) しかしブラジュロンヌさんは、主観といっても、もう一段階上の主観を想定なさっているようです。つまり、「全体観」と呼んでらっしゃるものです。これがまだ少しわからないのです。  ☆ これはですね。課題というだけではなく ここからは我がままという意味での主観の問題になります。でも あえて提出いたします。  それは 同じくうまい表現で 名無しの二番さんが次のように言い当てておられる命題があります。それと軌を一にすると考えます。  ◆(名無しの二番さん=回答No.23) いかに人工と呼ぼうとも、結局は それも、大いなる自然界のなかのことであると思っています。  ☆ 言いかえると こうです。  ◆(上の言いかえ) いかに美醜の評価がまちまちであっても 結局はそれらも 大いなる自然のさらに大きな非自然の領域で あたかも真善美の一致のもとに 秩序の内におさまるものではないであろうか。  ☆ たとえば こうです。  ★★(趣旨説明) シャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。  ☆ このとき ボドゥレールもこのアンチテーゼのみに留まってはいないであろうという見方を持ちます。  《美についての古代の規範》は 人間に表象しうるものであればまったく別の話になりますが(つまり それは相対的な真実としての真や善であるにすぎませんから) 規範であるかないかが分からないような非自然ないし非経験ないし非思考の無根拠 これを想定として持ち出すというからくりです。  もしこのような非経験の真理を 真善美の一致の究極に 想定として 据えているとしたなら ボドゥレールの反措定は 《反》でありながらも その先に何ものか・一切が総合されてあるテーゼを見据えていると言っても それほど牽強付会なお話でもないと思います。そう見なければならないこともないとともに そう見ても構わないところの自由度があると考えるのです。  さらにじつは そう見ない場合 つまり総合としてのテーゼを見据えない場合 この場合にもけっきょくは大いなる自然のさらに大きな非自然として その――無神論としてのごとくの――やはり総合テーゼは想定していると考えられるからです。  要するにかんたんに言って ボドゥレールが 古代の規範に対するアンチテーゼから《美は刺激的であればよい》として提起したひとつの命題は さらになおその先に大きな命題が控えていると見ることも出来るのではないでしょうか?   これはけっきょく 真善美の一致という究極の命題がはじめにありきから出発したであろう? と反論されること請け合いですが わたしとしましては そういう見方がいちばんなじみがよい。こう考えています。  何だかいたちの最後っ屁のごとくなってしまいましたが 《主観》を出来る限り広く取ってもらって 自己満足の見方を表わすまでとして おゆるしいただければさいわいです。

noname#130919
質問者

お礼

>いかに美醜の評価がまちまちであっても 結局はそれらも 大いなる自然のさらに大きな非自然の領域で あたかも真善美の一致のもとに 秩序の内におさまるものではないであろうか。 >ボドゥレールもこのアンチテーゼのみに留まってはいないであろうという見方を持ちます。 サドなどのリベルタンは真善美とは口にしませんが、自然の秩序の中には、どのような悪行も、凌辱も収まるのだとラディカルに言っています。モラルだとか、何だと言っても、自然は何も禁じていないではないか、と『ジュスティーヌ・または美徳の不幸』で強姦者は少女にいって聞かせるのです。 こうした自然に対する把握の仕方は、当前十九世紀に流布していたクリシェであったと思われます。ボードレールは晩年まで、サドを読んでいなかったようですが、サディスティックな行為に関心があったことは事実とみなしてよいでしょう。おそらく間接的に人から聞くという形ではあったにせよ、かなりの時間を費やして考えたのでしょう。本がすぐ手に入る現代の我々はいかに恵まれていることか!と思わざるをえません。 ともあれ、この件にご関心があれば、ジョルジュ・ブランの『ボードレールのサディズム』を参照されるのが、一番よいかもしれません。サルトルが革新的なボードレール像を提出したことを受けて、それに対して応答した論考です。サルトルの『ボードレール』を読んでおかないと、ちょっと前提となる議論がわかりにくいところはありますが。 アンチテーゼのみに留まってはいない――というのは、その通りでしょう。サンテーゼの所在は結果がどこにあるかを考察することは、その論者の関心に応じて変わるとは言えそうです。 私としては、「美とは常に奇矯なるものである」という定式が開いた異文化理解のあり方に、そのひとつがあると考えています。ただブラジュロンヌさんが求めているのは、もっと主観という問題に関するサンテーゼなのでしょうね。ボードレールは主観と客観の二つが含まれるように芸術はあるべきだと述べていました(「哲学的芸術」)。ここに糸口がありそうな気がしますが、ここはボードレールの設問ではありませんから、深入りは避けておきます。イタチっ屁とおっしゃるからには、これで一区切りということなのでしょうから。 それにしても、ブラジュロンヌさんのBaudelaireの表記は仏語の発音どおりですね。ひらがなからしても、音声と表記を一致させることを追求なさっているようだと思えます。

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