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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:現代における審美の可能性)

現代における審美の可能性とは?

このQ&Aのポイント
  • 美と真善美の関係について考える
  • 芸術固有の領域の確立と審美の問題
  • 美を求める現代における審美の可能性

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.17

#7です。 ご丁寧に頑固爺の戯言の相手をしてくださるとは、サイコロさんはお優しい方とお見受けしました。 「おしまい」とは、問答無用という意味じゃあ無くて、東京と言う町の未来、美的未来に関して絶望しているので「おしまい」と書いいただけですので、あしからず。 >東京ディズニーランドのような石畳で、実に洒落た街並みです。 順序が違うようですが、フランス流のジョークですか? ある日、ヤンキーがドイツ・ミュンヘン郊外の古城、新白鳥石城(Schloss Neuschwanstein)を訪れた時、「Oh、ディスニーランドみたいだ!」と感嘆しました、というのはアメリカのジョークです。 これは、審美の問題というよりは、真贋の問題ですね。今、20世紀の偉大なるフェイク、東京ディズニーランドは、東北関東大震災による液状化で、地中から泥濘が噴出し、その真の姿(=醜い姿)を晒しています。 この現実が、人々が真善美を忘れてしまった結果なのだと思います。人々が美を忘れてしまう遥か以前には、東京にも屋根屋根が織りなす美しい街並みがあったのです。江戸の甍(いらか)ですね。 サイコロさんが芸術というとき、それは自然に対する人工=Art=芸術という意味なら、その文脈で美を議論するのはありだとおもいます。人が生まれたままの姿よりも、より美しい身体を持ちたいと考え、身体を鍛える。これは人工ですが、悪くないですね。でも、同じ人工でも、「人工=芸術」として自己目的化し、過剰な化粧をし、また審美外科で美容整形のお世話になるなんざぁ、行きすぎですよ。そこに芸術の本質があるようなので、美の議論を芸術の範疇に閉じ込めないでくださいと申し上げました。 美を自己目的としない人工、たとえば建築、たとえば長大橋、たとえばジェット戦闘機などの人工の美が好きです。ディテイルに神が宿ったとき、機能を超えた価値=美を生むと考えます。 最後に、美の、審美の翻訳可能性に関してひとつ。 ベルサイユ宮殿の航空写真を見ると分かりますが、後方に、幾何学的な庭園が延々と連なっていますね。 これは、日本の庭師が考える美とはまるで違います。フランス人は不自然を美と考えるところがあるのでしょうか。 この幾何学模様を美と考える人たちであれば、最新のショッピングモールを美しいと感じるのは一貫性があるじゃあありませんか。 もうひとつ、お友達がショッピングモールを「美しい」と言った時、何と言う言葉を使いましたか? joli? beau? propre ?哲学のカテゴリで美を論じるとき、審美自体の翻訳可能性と同時に、言語の翻訳可能性の問題もありますね。  日本の美は、自然と人工を対立の構図でとらえるのではなく、無意識にアウフヘーベンしていると思われます。 機能と非機能(=芸術)が共存し、融合して、一体となったものにこそ、美が宿り続けることができるような気がするのです。 まとまりの無い(=美しくない)文章になってしまいましたが、サイコロさんに相手してもらいたくて、、。

noname#130919
質問者

お礼

お返事が遅れてすみません。こういう投稿があると、設問してよかったなという気持ちになります。テーマ・パークのお話は一本取られました。いや、レンヌをテーマ・パークが模したというべきだったでしょう。 後出しのような形ですが、私は、ディズニーランドというものは実に奇妙な空間だと思うのです。オリエンタルランドは大枚を貼りこんで、海岸線を潰して、街を一つ作りだししてしまいました。この人工の街は、奇妙な特性があります。つまり、ところどころに、架空の文化や歴史を植え込んであるのです(架空のヒーローの記念碑がアトラクションの随所にある)。さらに所狭しと、フランス風、スペイン風、ドイツ風、南国風というように、たった一つの街で諸国をまわったような感覚になれます。奇妙な混淆物なのです。しかしその逆に、葛西の海岸線の雰囲気は微塵にもありません。 こうなると、そのどこにも真はないといえます。この徹底した人工的な空間を楽しめるという感覚は、人間がいかに嘘でも何でも楽しめるとかというしぶとさを、見せてくれているような気がします。また翻って、いかに「真」というものがなくても現代人は気にしないかという証拠であるようにも思えるのです。 さて、真の不在について、また続けて例をあげてくださいました。なるほど自然には不都合な要素があるので、それを修正して理想の状態に近づけようというのは、全てが悪いとは言いきれません。しかし現代では、ラディカルに、歯の矯正、整形をはじめとする身体改造などが、まさに身体の「不都合な点」を修正しているとして、あたかも真善美に沿う行為であるかのようにみなされることになってしまったのでした。 しかし、「真」とはそういうものでしょうか。ご回答を読んで考えたのですが、現代においても、また過去においても、「真」でありえたと言えるものの一つは、機能美だと私も思ってきました。たとえば筋肉一つにせよ、見せるための大きな筋肉と、使える筋肉は別物だと言われます。使って役に立つ筋肉の方は、見たままの通りの力を発揮するという意味で真実があるが、ただ大きい筋肉は張りぼてであって、虚偽であるとみなせます。 しかし、機能美である真実は、より自然に近いものであるでしょう。したがって、計画的に整理整頓されたものとは違うと言えます。「この(ヴェルサイユの)幾何学模様を美と考える人たちであれば、最新のショッピングモールを美しいと感じるのは一貫性があるじゃあありませんか」。まさに我が意を得たり!というところです。ボードレールやユイスマンスらは人工楽園を夢想します。伝統的に、人工的な天国を求めるという風潮はあると言えます。 しかしそれは、日本とは何か違う美意識に基づくものなのかもしれません。 >日本の美は、自然と人工を対立の構図でとらえるのではなく、無意識にアウフヘーベンしていると思われます。機能と非機能(=芸術)が共存し、融合して、一体となったものにこそ、美が宿り続けることができるような気がするのです。 おっしゃるように庭園を比較すると、これはよくわかる気がします。日本庭園は一見、秩序がないように見えるます。しかし庭に入って小道を歩くと、最短の道のりで様々な植物や岩を見られるように計算されているのであって、非常に実用的なのです。西洋庭園は、端から端まで隈なく歩かないとなりません。どちらが合理的かといえば、日本庭園ではあるでしょう。そして何より、日本庭園の中では、自分が自然の中にいるかのような感覚を味わえます。両者ともに人工物ではあるに違いないが、コンセプトは根本からして違うのです。 最後に「美しい」といった時の言葉は、beauです。真善美は順にvrai, bien, beauです。

noname#130919
質問者

補足

【ベスト・アンサー選出に際して】 皆さま、どうもお世話になりました。閉じるにあたって、主観的に全体の流れを整理してみます。まず私としては、OKWaveを去るにあたって、前回、他の方の設問欄で起きた問題を収拾したいという動機がありました。あれは、あまりにも酷いと思っただけに、不精な私も何かしてから終えようと思ったのです。私にも戦略がありました。まず前の議論を美術史的に位置付けることにしたのです。これが真善美の一致でした。そして大枠では、真善美の一致に賛成票が集まるだろうと見越したのです。そしてお礼欄の議論では、私は逆の方向に話を振りました。つまり私は確信犯的に、ゴミ箱アートの話や、サディズム、エロスなどの話を振ってみました。真善美の一致以外のものをどう認めるかに関心があったからです。意識的に、バランスを取ろうと考えたのでした。 しかしこれらの話題は、総じて、あまり好評ではなかったようです。真善美の一致が宗教的な観点から支持され、古典主義からの離反者が宗教的な観点から嫌われるというのは、よくわかります。が、宗教と関係ない次元で反対されるとは、あまり予想していませんでした。そして、とりわけエロスに関する議論では驚きました。私はベルリーニの「法悦」を例に出したけれども、反応が薄いのには、実は衝撃を受けてしまったものです。これはバロック期の傑作で、真善美の一致だろうと、現代アートの信奉者だろうと、私にとっては評価に値するものに思えていたからです。エロスを美と認めるに足る有力な反例だと思いました。いや、なかなかどうして、すぐれた作品は自明ではないこともあるらしいと、思い知りました。こうやって反対に会うことで、なるほど自分の感受性の位置を確かめるということもできるわけです。 その後、次第に話題は外国の芸術を受け入れる際の審美の基準というテーマに及びます。西欧の価値基準で量れなかったアジアの芸術作品をフランスがどのように受け止めることができたのか。またフランスの事例を参考にしつつ、将来、日本がどうやって隣国の美術品を受け止めていけるのか。これは非常に大きな問いです。答えは出ない問題です。しかし設問者としては、西欧の審美の基準の根幹に真善美の一致があっただろうと考えてもいたのですから、十全にテーマが展開したことに満足です。また、こうした点について、議論できたことは大変な喜びでした。 私の立場は、最後まで、あまり明確にしませんでした。私が迷っていると考える方もいたでしょう。むしろ私は恐れていたのです。美を定義するということは、翻って、醜を定義することであって、一方を優遇し、他方を排除する動きにも結び付きかねないものです。個人的に「~~が美しい」という感想を持つことは結構です。しかし一般論として、「美とは~~であるって認めなさい」という言説には、慎重になるべきだと考えています。美が直面している問題とは、排他性をいかにして乗り越えるかであると私は考えているのです。 こういう理由で、私は「美とは常に奇矯なものである」というボードレールのテーゼに意義を認めるのです。これは一見、美を定義しているように見えます。しかし刺激的なものであれば、全て美になり得ると認めることは美と醜の差異を解体し、西欧的なスタンダードを無効にしてしまうものです。ここで一種の判断保留と平等を実現しえます。 こうした平等はアナーキスト的な発想であり、愚かさによる判断力停止と紙一重であるという批判もあるでしょう。しかし、それは人それぞれです。全ての存在が、潜在的には芸術として評価される資格があると認めた上で、自らの審美基準を客観的に厳しく反省する機会となるのなら、この言説に意味があると私は考えているのです。そして、美醜を解体した以降の探索が、補うために必要なのではあります。 最後にベスト・アンサーの選出には、かなり迷いました。私に豊かな示唆を与えてくれたという意味では、猪突先生やマシュマロさんの回答を選びたいところです。しかし今回は最もご自分の考え方を鮮やかな形で示してくださった木造百年さんの回答を選ばせて頂きました。現代において真善美の「真」とは機能美であるというご意見は、誠にごもっともですし、技術大国の日本に相応しいでしょう。また木造百年さんは大工さんらしいですから、これはご自分の経験で裏打ちされた信条でしょう。機能美を美と呼ぶという感覚は、アール・デコなどの潮流に言及するまでもなく、日常生活でも納得いくものです。家電量販店で最新型の電子機器を見てどうしても欲しくなってしまう感覚もまた、性能=機能を好ましいと考える美意識の為なのだろうかと思ったものです。この欲求に私も無縁ではありません。

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その他の回答 (55)

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.26

 周回遅れのランナーのピンボケ発言をします。お許しを。 絵画(造形物)は作者がいて 鑑賞者(買い手を含む)がいてなりたっているシステムと思います。作者はどんなものでも 意図があって創っているのです。売って金もうけしたい者もいれば 布教の手段として創るものもいれば あるべき美があるとして創る者もいれば 平和を訴えたい者もおり 千差万別であろうと思います。昔からです。クスコーの壁画、縄文土器 ギリシャの造形物 あるいは時代が下がり ルネサンス時代の数々の造形物、江戸時代の浮世絵近代のピカソまで 色々であります。作者は生活環境のなかで 相当に影響されて創作活動をしてきたと思います。  それに対して鑑賞者は いかに評価しているのでしょうか。この評価基準もまた千差万別であります。この千差万別は どこに起因しているのでしょうか。幼児の頃は 絵画と 美とは結びついてはいない。幼児の目に入る世界の一つであって 一つのコミュニケーション手段でしょう。美醜、喜怒、哀楽、好き嫌い、善悪、etcないまぜの情報が行き交っているのです。成長するに従って 美とはこんなものだ、美人画とはこんなものだ、と生活環境下で教えられ、やがて 教えられた通りの評価基準が出来上がるか 反面の評価基準が出来上がる かは別ですが 人固有の基準ができあがる と思います。 この固有の基準の個体差のバラツキはどの程度かということです。それと 関係するかもしれない実験をしたことがあります。40年程前ですが、適正な濃さの写真は個人によってどのように捉えられているか、の心理物理実験をしたことがあります。人物写真、風景写真 約200シーンを対象とし 1シーンごとに7枚の濃度の違う写真を用意します。一方 評価者として 18歳~50歳の男女30人をあつめ 評価の環境条件を固定して 個々独立に一枚ごとに評価し 統計データをみていくのです。するとランダムに選んだ10人の平均評価値、標準偏差と 30人平均評価値、標準偏差、は同一と見做せる相関があったと記憶しています。平均基準値の相関係数は0.9以上であったと記憶しています。つまり ランダムに10人をあつめれば 30人と同等の平均的評価基準値、標準偏差が求められるということです。30人以上の母集団で統計的に2倍の精度をあげる場合は900人以上の評価が必要となり そこまでの濃度の精度保証は写真再現性に問題があり 必要ないと判断できたと思います。 写真濃度の評価するには 実用上 ランダム10人の平均値でありバラツキで十分である ということです。要するにランダム10人の個差を考えておけば 世間多数人の個差として 実用的には問題ない答えを得ることが出来そうだ ということです。 後日 10年ほどのち、この実験結果は 実験参加の特別の30人の結果かもしれない と考え 評価者30人を別人にして総入れ替えして 前の実験とは無関係の18歳~50歳の男女を新たに選び 写真は前回使用したもの(保管は物理的、化学的に変化しないように最大の注意をはらった)を用い、評価実験の環境も同一にして 同様の実験をしました。結果は、30人の平均評価基準の相関係数は0.95以上であって ランダム10人で問題ない という結論も同様であったのです。 結局、この実験から 推定できることは 10年単位ぐらいでは 写真の鑑賞者の個差とか基準値は ランダム10人集めれば変らない ということでした。類推するに 絵画の評価も似たようにランダム10人集めれば実用上問題ないデータは期待出来10年単位は変らないのではないか といことです。なぜ変らないのか、10年たてば生活環境は変っていると思いますが 評価者の評価基準に影響を与えている生活環境は変化していなかったと思うのです。その生活環境は ある程度長期に渡っていると思われ 文化と言ってもいいと思うのです。 文化なら10年単位では変らない いや100年単位でも変らないとしても いいのではないか、と思うのです。つまり文化が背景にある と思うのです。  ギリシャ彫刻の美人像、スポーツの躍動する肉体像など とルネッサンス時代の造形物、あるいは現代においても 似たような造形物が評価される ということは 似たような背景文化がある と思うのです。日本の美人画は 平安時代、江戸時代、明治時代 と変わっていきます。背景文化が変わってきたということでしょう。 鑑賞者は 背景文化のなかで 美の評価基準をつくり 10人あつめれば その平均値、偏差も想定できる ということです。勿論 仮説であります。 以上 大変 失礼しました。

noname#130919
質問者

お礼

丁寧にありがとうございます。マーケッティングすれば、人に快感を与える法則のようなものを導き出すことはできるかもしれませんね。ブッシュは演説の前に、入念なマーケッティングをしたようです。CNNの特番などを見ていると、マーケッティングの力がいかに大きいのかを思い知らされ、少し怖くなります。 しかし快楽が美かといえば、少し違う点があるように思うのです。たとえば少なくても、電通を始めとする大手広告代理店のマーケッティングの研究所では、何を人が快楽と感じるかが調べつくされているでしょう。ただしCMが芸術的かといわれると、いいところもあるが、結局は心地よく消費されるだけだという気が私にはしています。ブッシュの演説も真や善とは無縁でしたし、また広告も真や善とは関係ないでしょう。これは今の中東情勢だとか、買ってみた商品の出来具合を見聞すれば、わかるというものではないでしょうか。 さて、マーケッティングの話しで私から横道にそれた雑談を。美術品の価格のつり上げは、S. N. バーマンの画商デュヴィーンに関するエッセイが非常に面白く書けています。それによれば、何でもデュヴィーンは中世イタリア絵画を最初に赤字覚悟で買い占めたのだそうです。中世イタリア絵画など数に限りがありますから、なるほど買占めようとすれば不可能ではなかったのでしょう。それから美術評論家のベルナール・ベレンソンを擁し、その価値を広告したのです。 ベレンソンの著作は非常に見事なものですし、何より、彼はサロンの名士でした。そのベレンソンがいうのだからと金満家がステータスに欲しがるのですが、こうなると、どうあってもデュヴィーンから買う他ありません。結果、元値の十倍に絵は跳ね上がりました。中世イタリア絵画というと、今では最も尊敬が払われるものですが、こうした裏事情もあったようです。 ものの価値を自分で判断する力がない金満家を愚かだというべきでしょうか。しかしベレンソンという一級の評論家の意見を傾聴しただけ、マシであるように私には思えています。今ではそういう買い方をする人は少ないのではないでしょうか。

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  • Nucleus_
  • ベストアンサー率34% (8/23)
回答No.25

審判がすべてに目を行き届かせることができるのでしょうか。 審判の見ていないところで陰湿なファールすれすれのプレーを繰り返し、怒って手を出したら それを見てイエローカード、ということではないですか。 ともかく、「他の回答者を誹謗したから」というのは言い訳ではないでしょうか。設問の前提を完全に否定し、自身の専門分野を否定されたからそのように言い訳をしているのではないですか。その証拠に回答に対しての反論というものがほとんどありませんね。人は核心を突かれると防御機能が働くということでしょうか。 専門家は専門分野を持つことでそれに精通し、結果として社会的名声とお金をある程度得ることはできるが、その引き換えとして本質の部分が分からなくなったり、元に戻れずにそのまま進んでしまうのではないでしょうか。芸術家は美の本質については分からないでしょうね。思想家であれば分かるかもしれませんね。 >刺激的であればよいと看破します。  勘違いした、ではなく 看破した と思うのは何ででしょうね。不思議です。 ともかく、質問者さんは自分のために人を裁きましたね。自覚しているとしていないのとでは雲泥の差ですよ。決して善意でも良心でもないでしょう。「そんなことは分かっている」と言われるかも知れませんが。 >しかし人間の弱さを受け入れるのもまた、文学や芸術だと私は思っているのです。  では、弱さゆえに人を脅したり奇抜なあるいは奇をてらった言を受け入れないで正していくのは思想哲学理念でしょうか? >こうやって他人を無暗に批判した結果  はて?「無闇に」と思った理由を聞かせて下さい。 >ご自分が元々したかった話ができなくなったのではありませんか?  真>善>美 ということはすでに言っていますね。  さて、偏った考えや思想を持つ人は美しいのでしょうか?真でなければ美ではないのでしょうか、やはり。  と、ここまで書いて保存しておいたのですが、新たに思いました。  他人を「無闇に」誹謗した人をブロックしなければ、他の回答者さんから、質問者さんの「善意」や「良心」が疑われてしまいますね。それが欺瞞であったとしても。  あるいはこうも考えます。「十全な把握力(認識力)を持っているがゆえに、感情も死んでおらず、それゆえ『過剰に反応した』相手に対して不安を覚え、『罰』を与えた。ここで相手が逆上し、ルール違反などをすれば、やはり相手が間違っていたということになり、自身も安心でき、他者にもそれをアピールすることができる。」  違いますか?  神はサイコロは振らないでしょうね、いるとすれば。  サイコロで物事を決定できるわけがありませんね。  カエサルは間違えた、と言えますね。  賢者は歴史から学ぶ のだそうで。 歴史の誤りから学ぶのも賢者でしょうか。

noname#130919
質問者

お礼

おやおや、鼻息が荒いですね。複数アカウントをお持ちのようです。直接書いてはらっしゃらないが、文意を汲めば、批判された回答者は別のところで、何かよからぬことをしたというわけですか。しかし私のところでは何もしていませんから、私の責任の範囲で管理すべきことではないでしょう。 >回答に対しての反論というものがほとんどありませんね。 今回の設問欄では、相手の持論を尊重するのが私の役割だと思っています。反論は一切しない方針なのです。楽しくやりたいですからね。受け流すのも芸のうちでしょう。大体、専門的な文献をもっていない人を批判しても、私にとって何のメリットもないのですよ。私は自説の蓋然性をここで言いたてる必要はないのです。楽しんでもらえたら、それでいいのです。設問者は、質問者である以上に、管理人なのです。 大体、あなたのおっしゃりたいことを簡単にまとめれば、自分は革新的なことを言ったが、その価値が認められず、凡庸な回答者を擁護したことが気に入らないということに尽きることになりそうです。なぜ聡明な自分を特別扱いしなかったのか、という苦情に尽きると私には思えています。しかし他のお客様に失礼なことを言えば、レストランでも何でも、放り出されて当然ではありませんか。私の得意客だとでもおっしゃりたいのかもしれないが、私はそういうわけ隔てはしません。お引き取り下さい。

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回答No.24

清貧の質素な美しさを求めるのは可能でしょう。

noname#130919
質問者

お礼

ありがとうございます。しかし清貧という言葉は、一頃よりは、あまりリアリティを持たなくなりましたね。むしろセレブなどという言葉が巷ではもてはやされています。私は清貧の方が好きではありますが。

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  • poporo11
  • ベストアンサー率51% (17/33)
回答No.23

哲学について全く分からず、教養もまるでない人間が回答します。 美は、わたしの考えでは、哲学ではなく、神学の領域、さらに言えば神秘思想で扱うべき話です。 プラトンは神学者ではないので、彼の提出した概念は、 美を十分に論じきるに足りません。イデアで美を語ることは出来ません。 クーザン・ゴーティエ・ボードレールの名前を出しておられますが この三者には明確な差異があります。 クーザンは思想家だが、ゴーティエとボードレールは芸術家であるという点です。 芸術家のいうことのほうが、的を射ていると考えてください。美をとらえるのが仕事ですから。 >ゴーティエが「芸術のための芸術」を唱えたのは、美は善や真に起源を持とうと、もつまいと知った話ではない、と主張するためでした。つまり悪徳であろうと、何であろうと、それで美と認めてよいと考えたのです。これをシャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。 哲学者に美の話は分からないよ、と言っているのだと思います。2人とも。 poporo11 哲学について全く分からず、教養もまるでない人間が回答します。 美は、わたしの考えでは、哲学ではなく、神学の領域、さらに言えば神秘思想で扱うべき話です。 プラトンは神学者ではないので、彼の提出した概念は、 美を十分に論じきるに足りません。イデアで美を語ることは出来ません。 クーザン・ゴーティエ・ボードレールの名前を出しておられますが この三者には明確な差異があります。 クーザンは思想家だが、ゴーティエとボードレールは芸術家であるという点です。 芸術家のいうことのほうが、的を射ていると考えてください。 >ゴーティエが「芸術のための芸術」を唱えたのは、美は善や真に起源を持とうと、もつまいと知った話ではない、と主張するためでした。つまり悪徳であろうと、何であろうと、それで美と認めてよいと考えたのです。これをシャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。 哲学者に美の話は分からないよ、と言っているのだと思います。2人とも。この二人は概念的な境界を取り払って、ボーダレスな領域に身を置いているのですが、プラトンは逆に概念的な境界を積極的につくりだそうとしてしまいます。 現代における審美は神学的にのみ可能だと思います。

noname#130919
質問者

お礼

>美は、わたしの考えでは、哲学ではなく、神学の領域、さらに言えば神秘思想で扱うべき話です。 美の恍惚とした感覚は秘儀に通じるものがあるかもしれませんね。 クーザン、ゴーティエ、ボードレールの差ですが、おっしゃることも一理あります。しかしゴーティエらも、画家や彫刻家ではありませんから、結局のところ美術評論家として臨んでいるのであって、評論家としては、三人は同じ土俵だと言えないでしょうか。 また「哲学者にわからない」というよりもむしろ、アカデミックの牙城にいる者にとっては、わからない――とも言えるかもしれません。クーザンは社会的に非常に高いステータスをえていたのであって、自分の既得権益を守る方向に言説は傾きがちだったのです。古き良き伝統を擁護することが彼の地位を守ることになります。ゴーティエもボードレールも今でこそ栄光がありますが、生きている時は、それは惨めなものだったのですよ。持てる者と持たざる者は、何を美を感じ、擁護するかも違うと言えます。

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  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.22

あ、生活のなかの実用の美というものもありますね。要するにデザインという分野になりますか、これについては当然、個人の主観に留まっていては、広く用を足せないでしょう。それは さて置き、 「アポリネールにシンパシーを持っている」のが、私というわけではないのです。 サドもバタイユも、直接には読んだことないです。 私は、質問者さまのような教養あふれる博学な学者さんと違って、そのへんの一般人に過ぎませんので、何時代は何の主義という知識もなくて、まあ、これも、しょせん素朴な疑問にしかならないのでしょうが、最初に、「キマイラ」でも「麒麟」でも、その実物というものを知らず、結局、人など、近しいものに引きつけて判断するというのであれば、そういう場合の「イデア」とは、はたして何なのかな?と思ったしだいです。 ジュネは二十歳前後で、ボードレールの『悪の華』は、中学か高校の頃に初めて読んだと記憶していますが、そのころに、お小遣いで入手してあったデラックス版?『悪の華』を引っ張り出してみるかと思ったのですが、ちょっと そこまでの余裕はなさそうでして、記憶に残っている印象のことを僅かにしか言えないので、とりあえず、ウェブを利用して読みなおしてみました。 『悪の華』に関しては、「刺激的」であるなどというよりは、たとえば、『夕べの調べ』など、いたって壮麗なイメージが残っていましたが、やはり、今回も概ね同じような印象を持ちました。まあ、なにしろ古色蒼然の雰囲気のせいもあるでしょうが。 それと、ボードレールにおいても、根底の部分で、非常に潔癖な性向を持っているようだという感じを受けました。 「刺激的」と言っても、ただ不快でしかない刺激を殊更に描き続けずにいられないとなると、それはマゾヒスティックです、しかし、そこに某かの「快」が潜んでいるはずとすれば、それは、その者にとっては「善」なるものとも言えるのでしょう。 「美」なるものも、「醜」なるものによって、いよいよ際立つとも言えます。 カラバッジョなどは、殺人まで犯した、非常に気性の荒い人物だったそうですが、その残した作品からは、かなり意外な感じを受けました。 >古典においては、結局、人間が一番好んで描かれたのです。 「神」も、人に似せて描かれますものね。 昔は宗教とか共同体の規範といった縛りが きつかったと、よく聞かれます。 理念におけるリーダーといった存在が曖昧な現代に、良いとか悪いという区分け抜きで、結局は、とにかく、表現を尽くせているか?その表現力の力量如何という「枠」に収斂されていくことになるでしょうか。 すると、技術的手腕のことが問われてきますね。すると、「現代において」、とは必ずしも限れなくなるような気もしますが。。。 いかに人工と呼ぼうとも、結局は それも、大いなる自然界のなかのことであると思っています。 「黄金比率」というものも、それが「美」と感じるにしても、その根拠となると不明ですが。。。 そもそも、「世界の限界」を超えたものを描くことが可能だろうか。 …散漫な回答になってしまいました。 余談ですが、「フランス式庭園」というのを、あまり美しいとは思えないできた私も、先ごろ、ヴェルサイユ宮殿でしたか、そこで村上隆さんの作品が展示されたときのことを思っていました。まさに賛否両論だったのですよね。子どもたちは大喜びだったそうですが。 ミショーの薬物による体験談も出しておられましたね。この、何らかの薬物による脳内映像は、私にも覚えのあることです。

noname#130919
質問者

お礼

鋭い指摘がありますね。「美」なるものも、「醜」なるものによって、いよいよ際立つ――これはまさにその通りです。どうお礼を書こうかと思いましたが、ボードレールが主要な論点になっているので、それに即して書いてみます。ただ前置きすると、私は詩というものは、どうやって読んでもいいものだと思うのです。というのも、詩の言語は多義的な解釈を成立させます。だからことさら、こう読まなければならない、などという言い方は避けているつもりです。しかし他の回答者から解説せよという意見が出ているようなので、簡単にやってみます。 まずボードレールの詩学ですが、その中でもいくつか柱になる詩というものがあります。ボードレールが直接的に、詩人が何を目指すかを述べたのは、「旅」です。この詩は『悪の華』の最後を飾る位置に置かれているだけに、非常に重要です(私が訳してもいいのですが、時間があまりないので勘忍して下さい。全て阿部良雄訳です)。 >われらにきみの「毒」を注げ、毒がわれらを力づけんがために! われらの望むところは、さほどこの火が激しく脳髄を焼くがゆえ、 「地獄」でも「天」でもかまわぬ、深淵の底に飛び込むこと、 「未知なるもの」の奥底深く、新しきものを探ること。 ここでいう毒とは、刺激の比喩なのです。つまり危険もあるかもしれないし、おっしゃるように、場合によってはマゾヒスティックにもなりかねないものです。彼は別の箇所ではこうも述べます。「身の毛のよだつものに酔い得るのは強者のみだ」と。そして、こうした刺激を特に与えてくれるものは、美であると「美への讃歌」で述べます。「旅」と「美への讃歌」では、言い回しがよく似ていることに注意してください。 >きみが天から来ようと、地獄から来ようと、それがなんだ、 おお「美」よ! 法外な、恐ろしい、無邪気な怪物よ! 私の愛する、だがかつて識ったことのない「無限の」 扉を、きみの眼、きみの微笑、きみの足が、私に開いてくれるのならば? 「天から来ようと、地獄から来ようと」という言葉はゴーティエの得意の文句だったのですが、それをボードレールが採用したのです。以上のような例は、実は幾らでもあげられるのですが、このように、ボードレールにおいて美とは、天であろうと地獄であろうとその出自を問われません。つまり真善美の一致など、問題外なのです。この意味で、美とは古典的な規範に規定されるものではなく、刺激であることが重視されるのです。 実際、1855年に万国博覧会に出品された美術品を批評した文章で、彼は美の要件を驚きであると定義しています。驚きとは刺激があってこそです。ここで彼が提出した有名な定式に言及しないわけにはいきません。「美とは常に奇矯なるものである」と。 ボードレールが1855年にこの定式を用いて評価するようになったのは、中国の美術品でした。現代の我々にしてみると、あまり想像がつかないかもしれませんが、当時は一般的な通念となっていた評価基準で量れないものだったのでした。実際、日本の美術品もジャポニスムなどとヨーロッパ圏で流行りますが、フランスに関して言えば、それはもう少し後の時代のことで、1850年代ではかなり冷遇されていたのです(日本の美術品などを示すjaponaiserieという語を最初に使ったのはボードレールです)。 こうした西洋のスタンダード(つまり真善美の一致)で理解できないものが排斥される中、ボードレールは真っ向から対立し、美と醜のわけ隔てを「奇矯さ」、あるいは刺激という指標によって解体することで、新しい審美の糸口のみならず、異文化を理解する間口を開いたと私は考えています。 さて、全体の様相を概観したところで、詩に話を戻しましょうか。「夕べの諧調」ですが、全体としては、気怠い感覚が漂っていますね。しかし次のような一節は刺激を求めるものだと言えないでしょうか。「太陽は、己の凝固する血の中に埋もれてしまった」。夕焼けの赤い光を血に喩えたのです。この比喩は全体の中で、更なる効果を上げています。この詩では「聖体遷置台」を始めとする教会の比喩があり、かつもの悲しさをうたうだけに、何か喪のイメージが重なります。しかもそれは、血塗られた喪なのです。すると、殺人とか死刑とか、とても不吉なイメージが喚起されないでしょうか。これは総体として見れば、何の気なしに普段見ている夕焼けに対して、詩人が空想力を駆使して、刺激を見出したと考えられるでしょう。

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  • _AXIS
  • ベストアンサー率5% (2/40)
回答No.21

>私は持論を展開しているわけではないから、別に幼少期のトラウマなど関係ないのですが……。  何を取り入れるか、何に共感するか、共鳴するか、という問題ですので。 >嘘でもよいから美であってほしいとは、ボードレールも書いているとおりです。  おそらく、真をゆがめれば人は苦しむでしょう。無責任で、むちゃくちゃな考え方ですね。そんな人が現代にいたら皆から攻められるのではないでしょうか。嘘でもよいから不都合なことは隠す、とか不快なことは無責任に放っておく などと言い切ってしまう心理はどのように生じるのでしょうね。 >二十世紀となれば、私はあまり勉強していません。  二十世紀を学んでいないとその間の断裂というか、溝を埋めることはできないような気がしますが。歴史を踏まえて語るなら、なお更ですね。環境がそうさせるのかもしれないですね、いえあくまで推測ですが。 >私は、あまり神秘主義は好きではないのです。  シュタイナーは 思想家で、哲学博士で、神秘家です。オカルティストとしての側面はあるかもしれないですね。 >今回はイエローカード1枚ですよ。  同じ試合の中で2枚くらうと退場。累積だとその試合は出られるが、次試合は出場停止。  これをあてはめると、もしもう一回もらえばその場でブロック。でも次の質問には出場できるということですね。  社会の浮言を寄せ集め、気が効いているけどなんの意味も実もない ひょろひょろねずみ男 の気弱な発言はかわいらしく感じるのですね。どんなにいかがわしくても、的を外していても、内容がなくても回答の体をなしていればそれでよいと。  コマースが何かを揶揄したいがために無理して創った文章を読むのが不愉快だったのでね。推察ですが。 >上記の経緯を踏まえた上で、現代において「審美」とはいかにして可能か。あるいは不可能であるか。  ゴーティエ、ボードレールと引き継がれる悪しき思想の連鎖を断ち切ることで可能になるのではないですか。それはほかの誰かがやるものではなく、個々でしていくものだと思います。  

noname#130919
質問者

お礼

>おそらく、真をゆがめれば人は苦しむでしょう。無責任で、むちゃくちゃな考え方ですね。 >ゴーティエ、ボードレールと引き継がれる悪しき思想の連鎖を断ち切ることで可能になるのではないですか。それはほかの誰かがやるものではなく、個々でしていくものだと思います。 おっしゃることはわかります。しかし人間の弱さを受け入れるのもまた、文学や芸術だと私は思っているのです。 この話をもう少ししたかったのですが……しかし他の回答者を誹謗し続けるという点で、お約束の通り、レッドカードです。こうやって他人を無暗に批判した結果、ご自分が元々したかった話ができなくなったのではありませんか?(少なくても私は残念です)。

noname#130919
質問者

補足

みなさまへ、 ご投稿、どうもありがとうございます。お返事が遅れていますが、どうかお許しください。

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回答No.20

#15の者です。 >階層現象が何の階層なのかはわかりませんが たとえば、そこにある「コップ」という存在は、本当に在る と言えるでしょうか? 化学的にはケイ酸塩化合物の非晶質固体だし、物理的には 陽子や中性子の集合です(「コップ」という存在は見えない)。 その素粒子の“並び方”のことを「コップ」と呼ぶにしても、 犬もケーキも同じ「陽子や中性子」によって成っている時に、 コップを「在る」と規定するのは、特定のパラダイムに依拠して いると言わざるを得ません。 素粒子・原子→物理学 分子・化合物→化学 細胞・個体→生物学 認識体・社会→哲学・社会学 環境・宇宙→地学・天文学 そこに潜在するのは、「原子から分子、化合物への化学進化、 酵素から細胞、社会への生物進化」=ある単位の相互作用 において、安定な反応系が残り、それを新たな単位として 上位現象が可能になる、といった形での「階層現象化」を ベースとしたカテゴライズです。

noname#130919
質問者

お礼

>コップを「在る」と規定するのは、特定のパラダイムに依拠していると言わざるを得ません。 なるほど、それはそうですね。認識には枠組みが必要ですね。そのパラダイムがどういうものかを教えていただいて、知見が広がりました。どうもありがとうございます。

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回答No.19

 No.2&6&9&17&19です。  §6 作品のよしあしということ  ★ となると「私ならどうだろう」と芸術家に同調する形で、その作品が主観をどのくらいよく表現しているかを判断するということでしょうか。そうであるとすれば、芸術作品とは鑑賞者の心の内面を写す鏡だという位置付けになるように思われますが、いかがですか。  ☆ 《芸術家に同調する形》を抜きにして そしてあるいは《芸術家の主観をどのくらいよく表現しているか》という観点を持つこともなく ただそのまま見ます。  ☆☆(回答No.6) ~~~~~~  2. 作品の全体を見る。その知覚ないし得た視像をつうじて・その感性を超えて 認識にも到る。  5. これら知覚および認識の全体を 全体としての作品と照らし合わせて その美を推し測る。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これだけです。ほんとうにこれだけです。  もし多少とも画家の人となりについて情報を得たとするならば   ★ 芸術作品とは鑑賞者の心の内面を写す鏡だという位置付けになるように思われますが、いかがですか。  ☆ というとき たぶん・おそらくそのように《鑑賞者としてのわたしの心の内面を写して 美を推し測った》のであろうと思うし またひょっとすると同じように画家の《内面を写して描いている》のかも知れないと思うことがあります。  ただ 鏡として絵画が おのれの心の内面のすべてを写していると思う作品は稀れでしょうし ゆがみや食い違いもあると思います。ほとんどつねにあるはずです。東山魁夷などは 多くの人の内面を写す大きな鏡になるかも知れませんね。(でも 推測です)。  かくして 作品のよしあしも すべて主観である。こうなります。  §7. 《無意識を引きずり出す・意識を記載する》ことと主観とについて  ★ 最後に主観の世界を表わしているというのなら、シュルレアリスム的な手法によって無意識を引きずり出してくる創作活動があるわけです。あるいはシュルレアリスムという流派とも外れて、自らの意識を記載する試みがあったわけです。主観をより直接的に表現するという点では、まさにブラジュロンヌさんの基準に当てはまるのですが、これについてはどう評価なさいますか。  ☆ アンリ・ミショーの事例について思ったところを述べます。メスカリンなどドラッグを服用する実験で 内面を見てみよう・引き出して表現をあたえようといったところでしょうか。  ▼ (メスカリン実験の巨人でフランスの詩人・画家のアンリ・ミショー)~~~  メスカリンを通じて全ての人は自分の中に「極めて重要な何か」を持っていることを発見した。  人間というものをもっと敬虔な態度で扱わなければならないということに気づいたからだという。  ~~~~~~~~~~~  ☆ ちょうどこの結果が あたかも作品の鑑賞の結果としてのようにあると思いました。  ☆☆(前掲) 2. 作品の全体を見る。その知覚ないし得た視像をつうじて・その感性を超えて 認識にも到る。 / 5. これら知覚および認識の全体を 全体としての作品と照らし合わせて その美を推し測る。  ☆ つまり《全体》観ということが 重要だと考えます。  ▼ メスカリン実験の経験を表現しようとして、言語という媒体の限界を改めて強く意識することになったミショーは、この後に絵画に表現の重心を移した。  ☆ ということだそうですが 先の結論は得たということですから あたかもその実験が 絵画鑑賞に譬えられるひとつの体験であったと言ってもよいほどだと考えたのです。  ▲(アンリ・ミショー「みじめな奇蹟IIメスカリンととも」により)~~~  ・私の冷静さが、振動する無限世界の言語によって千度も冒され、無数のひだを持つ巨大な流動状の線の群によって正弦曲線状に侵蝕されるなかに、わたしはいた。  ・・・・、《眩しく目をくらませる》ということばにすぐ続いて、弾道のような何本もの長いナイフ 眩しく輝く何本ものナイフが、空虚の中を、すばやく耕す。  ・突然、一本のナイフが、突然千のナイフが、稲妻を嵌(は)めこみ光線を閃かせた千の大鎌、いくつかの森を一気に全部刈り取れるほどに巨大な大鎌が、恐ろしい勢いで、驚くべきスピードで、空間を上から下まで切断しに飛び込んでくる。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これらは あくまで部分であると思います。メスカリン体験というあたかも絵画鑑賞の中ではその作品の部分を見ているところであって最後の全体観は 初めに掲げられた結論であると。  シュルレアリスムが無意識を引きずり出した場合にも 個々の表象ではなく最後の全体観としての主観を問うべきだと思います。ひとつの最終的な判断として全体を見ているそれです。

noname#130919
質問者

お礼

>かくして 作品のよしあしも すべて主観である。こうなります。 そうですね。若干の差異はあれども、特に私から反論することはないように思います。というのも、ご自分の説を展開すると同時に、私の説をお認めになっていますから。対立関係という形ではなく議論してくださったことに感謝しています。しかしブラジュロンヌさんは、主観といっても、もう一段階上の主観を想定なさっているようです。つまり、「全体観」と呼んでらっしゃるものです。これがまだ少しわからないのです。 話は逸れる形ですが、アンリ・ミショーについて、少しお話します。単に絵を一枚示しただけというつもりですが、そのサイトにあった内容を検分してくださったのですね。どうもありがとうございます。 ミショーについて少し概観してみますと、私は思想家のドゥルーズがミショーについて示唆的にまとめた議論は鋭いと思うのです。それによれば、ミショーの造形の特徴はdevenir「何かになる」というものだというのです。 しかし「何かになる」といっても、常に「何かになり続ける」のであって、ある特定の最終的なフォルムをとりはしません。ミショーの語り手はその詩の中で、クジラになったかと思えば、クジラを殺す銛打ちになり、さらに転生して行きます。決して、留まることを知らないのです。常に何者かに変化し続けるということによって、何者でもないのです。 こうした流動性が、人間一般の主観に対応している、と考えてみても面白いかもしれません。そして、こうした造形は政治的な側面もあります。つまり人間の主体の流動性をシステム化して阻害するものとしてナチスのファシズムを位置付け、厳しく批判するのです。 « Immense voix »などはその顕著な作品です。

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回答No.18

 No.2&6&9&17です。  §4 間奏曲として 前置きです。  いやぁ おまえの考えを述べよと――しかもほとんど感性の問題として扱っている主題領域について 述べてみなさいと――要請されるのは 回答者冥利に尽きます。ありがとうございます。とともに どうか割り引いて受け止めてください。  §5 ピカソについて――《美は主観》説とのかねあいで  ★ まず以前、ゴッホはよいが、ピカソはわからぬとおっしゃっていましたね。その差は何でしょうか。  ☆ これは ほかの二つのお尋ねとも関係しますが 作品を見て分からぬ ということです。それだけのことになります。  ☆☆(回答No.6) 1. ふつうの人が鑑賞者として 作品を見る。=すなわち美の知覚行為。  ☆ この結果 ピンと来ない。分からない。そしてたとえばゲルニカなら――その後 幾何学模様がうつくしいかなと感じたものの ほかに牛やら頭やらがいっしょにあるからにはやはり―― どうも全体として うつくしくない しっくり来ない。と見た。  まったくこれだけのことになります。  ★ これはブラジュロンヌさんの感性にピカソが訴えかけてこないというだけのことであって、ピカソの作品が劣っているということではない、という風に考えてもいいのでしょうか。というのも、ピカソもゴッホも自らの主観を表現していることには変わりないからです。  ☆ ゲルニカなら この絵が好きになる人はいるのかなぁといぶかしむわけです。理論としてではなく ただの気持ちとして。でも これまで サイコロさんと チャオポルポさんご夫妻と もうひとりこのQ&Aでピカソ関係の質疑応答の中に 見ていると力強さを感じるという評言があり つごう四人の方が 感動の経験を訴えています。  わたしは 三人いれば その観賞結果が一般的だと見てよいと思っていて ピカソも美の作品を残していると認めざるを得ません。  ということは 《美は主観》ですから はっきり言ってピカソの作品はおかしい 美ではないという鑑賞結果も――この OKWave の質問にはずいぶん多くの声が届いているのを確認したのですが―― 一般的だと見なします。  つまり 美だと醜だとの両方の見方があることになります。  ★ あるいは、ピカソの作品が訴えかけてこないとは、すなわち、彼の主観が劣化しているということなのでしょうか。というのも、ブラジュロンヌさんは認識されたものを表現するにあたって技巧の問題は無いとお考えなのですから、表象されたものは直接、その人物の内面を示すことになるでしょう。しかしそうであるとすれば、ある作品を判断する際には、審美以前に、その人物の人間性を評価するという行為があることにならないでしょうか。  ☆ 技巧の問題をいま措いておいて:  ★ 表象されたものは直接、その人物の内面を示すことになるでしょう。  ☆ とそのまま思います。  ★ しかしそうであるとすれば、・・・審美以前に、その人物の人間性を評価するという行為があることにならないでしょうか。  ☆ なると思います。ただしこれは 人間には分からないのです。自分の内面のことすら 分かったものではありません。  でも実際問題として《内面のあり方が作品に反映するであろうと人はしばしば見るであろうし そこから人間性を値踏みするような見方にまで傾くことも無きにしも非ず》ではないでしょうか?    でも基本的には 分からないのだと思います。自分のことすら分からないということと そしてその人の内面にあるものごとは ひょっとすると誰かほかの人から受けとめたもろもろの心理の動きであるのかも知れません。自分の悩みや欲望であるのではないかも知れないということ。これらのことから決定的に分かるものではないと考えられるからです。  ★ 技巧  ☆ は どうなんでしょう? セザンヌがリンゴを見たとおりには描かないで鑑賞のときどう映るかの観点から勝手に描いた。この技巧は セザンヌの主観ということでよろしいでしょうか? ほかの画家はそれを盗んだのでしょうが もともとは技巧の問題が一人歩きするのではなく 一人の主観から現われたとすれば 《美は主観》仮説はまだ持ち堪え得ましょうか?   あるいは 筆をいろんなふうに工夫するというのも 技巧なのでしょうが それも画家の主観から出て来ると見ることができましょうか? 必要は発明の母のごとくに。  ゴッホが暗い色から明るい色に変えたのは 技巧でもありつつ それはただ単に北から南の土地へ移って その主観に明るい感覚が印象されたからと言いきれましょうか? 浮世絵もその技巧のもとは 誰か一人の画家の主観から出たものということでよいでしょうか?

noname#130919
質問者

お礼

丁寧にありがとうございました。喜んでいただけて、私も嬉しいです。ピカソのことは、納得いきました。まさに「ゲルニカ」という作品それ自体が、美と醜という区分が解体された作品の好例だと言えそうです。「美しいか否か?」と聞かれたら私は「美しい」と答えるでしょう。しかし前に回答した時も、私は力強いとか、迫力があるという表現を優先したと思います。こうした刺激を好ましいと感じるか否かは、個人の感覚によって違うと言えるでしょう。 >審美以前に、その人物の人間性を評価するという行為があることにならないでしょうか。――なると思います。ただしこれは 人間には分からないのです。自分の内面のことすら 分かったものではありません。 これは少々宗教的ですね。人間にはわからず、神のみぞ知るということでしょうから。それこそ非思考の庭と、ブラジュロンヌさんが呼んでいるものでしょうね。 技巧に関しては、複合的な理由があると私は考えています。流派の作った様式があるのですから、常に技巧=主観とは言えないでしょう。浮世絵になると、その全部を主観だということはできません。ただし自分の内面を表現するにあたって、何が最も適切かを試行錯誤するということがあるでしょうから、技巧を分析することによって主観へとアプローチすることができるでしょう。それが最も自然な形でできるものが、主観を十全に表現した作品だと言えないでしょうか。あまりこの書き方では、ブラジュロンヌさんからのボールへのお答えになっていないかもしれませんが。

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回答No.16

 No.2&6&9です。  §1 《個々の審美の基準》と《全体の問題として》とのかかわりについて  次のお考えに接してその視点を考慮に入れていなかったと知りました。  ★(No.15お礼欄) 人間の歴史があり、また人の生きた経験があれば、審美は自ずと存在するということになるでしょうね。ただし、その個々の審美の基準が全体の問題として議論可能な時代は、過ぎ去ったのでしょうか。それともまだあるのでしょうか。  ☆ 言いかえますと  ★(趣旨説明)現代において「審美」とはいかにして可能か。  ☆ という問いを あくまで《鑑賞者としての個人にとって》とのみ捉えていたからです。  もっともそれを この個人どうしが集まってあくまで個人の審美行為としてのみ談義することは可能です。これまで述べたわたしの考え方は そこまでなら通用します。  ですが  ★ その個々の審美の基準が≫全体の問題として≪議論可能〔かどうか〕  ☆ この《全体の問題として》というのがはっきりしなくなりました。  いわゆるコモンセンスないし共同主観のことを言うのでしょうか? あるいはさらに旧く成っても出回っている共同観念ないし共同幻想をも含めて ということでしょうか?  あるいはそうではなく――なぜなら その共同主観はおそらく協議の結果だったりするのでしょうから―― そもそも個人ごとの審美の基準がそれぞれ違っているはずだという命題を打ちだそうとお考えなのでしょうか?  でももし たとえば宗教画についてその時代に《それぞれ審美の基準を持つ個人個人が互いに集まって話し合い 全体の問題として諸作品のあいだの優劣を決めた》と見た場合 この場合でもけっきょく一人の人の審美基準は他の人とは違っていたと言えるはずです。  言いかえると――やや単純になりますが―― 個人がそれぞれ独立した審美家であることは どの時代でも変わらない。変わらないが その意見の集約の仕方が違って来た。また 現代ではこの集約という作業や話し合いじたいがなくなったのだ。こういうことでしょうか? (意見の交換はするが それは言わばグループごとに閉じた範囲でおこなわれるということでしょうか?)  それ以上は 事情に疎いです。    §2 あえて今 《真善美の一致》という主題について  大きく申せばわたくしの場合 主観を基礎および原点に据えるのですから 一方で 審美の基準は人それぞれであるというのは そのまま含みとしてそのとおりです。しかももう一方で 人の共通感覚なる仮説にもとづくなら 傾向として美は《全体の問題として》或る程度まとまるのではないかとも考えます。  人気投票として決まる美人がいくつかの類型を擁する幅をもって決まるのと同じように 美も幅をもってながら或る程度は収れんすると考えます。  その程度ですが そのように傾向として決まったと思われるような美(美群)は その美をめぐる個人の志向性として・またはその美じたいが指向するその先の何ものかとして おそらく人びとの黙契としてはたらくような善悪判断にかかる善と一致すると見ます。  そしてこれらの美と善とは その時代時代にそれなりの内容説明をつけられるであろうと思われますから それが人間の真実としての(相対的な)真だと思います。  さらにこれら経験的な美と善と真とは おそらく非経験の(したがって人間にとっては 非思考の)真理を志向しているものと思います。  人間にとっての《現実》は 経験世界における《事実》とそれをめぐる人間の事実認識としての《真実》と そしてこれらの経験世界を超えたところをも想定しておくというその《非思考》としての真実――認識しえないことの真実―― これらの《事実と真実》を含むと捉えます。  《美》は 見た目ということであればそれとしてのほんの一片の知覚であり しかもヒラメキとしてなら認識し得ない真実として非思考の庭がわが心に成るという意味での真理(したがって ほとんど まぼろし)に近い直感であるとも見ています。  このことをも――ただしこれは ほとんど論証のむつかしいことだと思いますが――いま述べて進めることとしました。    §3 ロマン主義について    これもいま取り上げました。思潮としてなら多少は分かりますが その美術論なり美学なりとしては推測としてしか分かりません。前もってお伝えしたほうがと思いました。  【Q:ロマン主義について】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5124232.html  わたしは投稿者となっていますが そこで勉強したというのが実態です。サイコロさんなら この主題をさらにここで追究する質問者になっていただけるのではないかと思いました。でもいまは 別の主題です。

noname#130919
質問者

お礼

お返事が遅れていてすみません。一人一人にお礼をと思った結果、複数投稿してくださったブラジュロンヌさんの回答は、後に回させてもらったのでした。 複数の集団間において美意識が共有されているということは、まぁ幻想共同体(ベネディクト・アンダーソン)というタームを使ってもいいのですが、私はそこまでのことは意図していません。古典主義の頃に流派が形成されていたという程度のイメージです。 流派という言葉は、おそらく現代においては、茶道などの伝統芸能を除いては、考えられなくなったでしょう。今では、その芸術家も、その当人が始祖でなければならなくなりました。ゴッホが好きだと言ったところで、ゴッホと同じことをやるわけにはいかず、インスピレーションを受けて違うことをやらないと評価されないでしょう。こうなると職人はどうなるのだということになりますが、実際、冷遇されていますね。私はこの風潮は問題だと思います。しかし、これは作り手だけの問題ではなく、受け手の問題でもあると言えます。 美とは何なのでしょう。結局、美とはわからないもので、コンセンサスを作っても仕方ないという以上に、美も醜も見分けがつかなくなってしまいました。あるものが、どういう理由によって美であるか醜かは、精密に判断できなくなってきたのです。そして判断できないものだというコンセンサスが、広がっているとも言えるかもしれません。この証拠に、現代において評論というものがあまり大きな力を持たないでしょう。とある美術評論家の評論が広く読まれ、支持されたり、剽窃されて流布したりすることがないでしょう。 真善美に関してですが、何を真理と判断しえるかは、人それぞれですし、難しいことです。資料を集めて分析しない限り納得しない人もいれば(私のことです)、直感と重なる意見があれば、それを真理だと判断する人もいます。 異性が美しいか、好ましいかを判断するという例は、面白い例ですね。私個人は、それを多分に先験的な要素で判断していていると、顧みればいうべきかもしれません。その先験的判断が何に由来するのかはわかりません。遺伝子的なものか、神的なインスピレーションなのか。こうした判断が世にいう美人の判断基準と違うこともあります。こういうときに、自分の考えと集団間の考えが違うのだなとギャップを感じます。 ロマン主義は、私がレッテルを一方的に貼った形となってしまったということですね。また考えておきます。

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    今授業で哲学の授業があります。 前期はチャレンジャー号などの技術者としてどうするかということを習い、後期は古代ギリシアの哲学的なことを習っています。 工学系の専門なので、前期はわかるんですが、後期の古代ギリシアの哲学は必要なんでしょうか? 古代ギリシアの哲学は、ソクラテス・プラトン・アリストテレス・ベンサム・ミルで、先生はやたら愛や恋について語るのです。ソクラテスは「恋に通じた人」で、美青年のアルキビアデスとの関係、プラトンの壮大な恋の話などなど・・・。また、アリストテレスの言葉に対する先生の解釈として、「芸術家やエンジニアが優れていると言われるのは、出来上がった作品がすばらしいというより、その人が持つ技能・働きがすばらしいからである。」と、プリントに書かれてあり、それは、先生の考えの押し売りじゃないかなぁって思うんですが。私は、哲学を始めて習うのでよくわからないのですが、必要なのでしょうか?また、先生が授業中にピコピコハンマーを持ってきて、注意をするときに、そのピコピコハンマーでたたくのはおかしいことですよね?

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第九章 いわゆる真善美について  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 価値のシステムについて(権力かな?)

    たとえば、会社、「美人論」、「やさしさ」など、なんでもいいですが、そこには優劣を定めるような価値のシステムが存在すると思います。その、価値のシステムをわかりやすく説明できるかた、または、そういうものを研究している哲学者などはいますでしょうか。たくさんいると思うんですが、ちょっとぼくにはわかりません。もしよろしければ教えてください。よろしくお願いします。 「真・善・美」というよりは、世俗の価値システム。例えば、隣人との間の権力???関係?クラス内の優劣???など、の方向で考えていきたいです。質問分がわかりにくくてすいませんでした。