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 人間「の」考えは葦のようなものである!

 人間の執着心は漬物だと思う、という感想にムッとしてこうした質問を思いつきました。  フランスの哲学者パスカルのことば「人間は考える葦である」という有名な言葉の真意はともかく、人間の“考えは”往々にして“葦のようなもの”と思えてなりません。  私なら、天に向かって真っすぐそびえたつ杉の木のような“考え”を持ちたい。  たとえ強風に耐えられなくて倒れてしまったとしても。  こうした思いは自己チュウであるとの批判を免れないのでしょうか。  よろしくお願いいたします。

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回答No.8

 yy8yy8azさん、ANo.3です。  「葦である人間」は考えることや高貴性を希求(究極の存在とは当為であり、当為の理念や要請は結果であるに過ぎない、つまり残滓でしかない現実界には実現や存在がなくても、希求という事の究極性と高貴性は、か弱い葦を超えるものである。)するが故に、その存在性を強調できる、という事ですよね。  葦の存在が葦の世界ではない世界に存在する。  そういう意味でもあるのでしょう。  でもyy8yy8azさんは敢えて、《人間の“考えは”往々にして“葦のようなもの”》と思えてならない。  現実界という残滓ばかりしか見えないところをみているとそういう観念も覗いてくるのでしょうね。  存在の根源は意志であり、意識であると《マルクスの唯物論で中学の教育をされながら》思います。  そして人間とはそういう至高を思考し、至高を志向し、至高を希求する。  当為という自己性を否定しきったあり方はでき得ない。必ず望郷してくる。戻環してくる。  徹底して堕落すると、必ずこうではならなくなってくる。  そういうものだと存じます。  パスカルは人間の故郷という天界性を道破していると存じます。  これは葦の人間であろうと、数百年、数千年のたくましい杉であろうと同じです。  葦も杉も創造や自然の結果としてのものであるから、同じ宿命にを担っている。  単なる相対的な比較でしかない。  人間はどんなにすごくても所詮は人間でしかない。  被創物という悲しい宿命は超えられない。人間という存在性にいる限りは。創造を超えれば(可能であるが、)その宿命は超克しうる。  葦も杉も根をはっているのは大地であり、頭を上げているのは大空である。  葦と杉の大地と大空に何の変りもありはしない。  杉が自己チュウなら葦も同じである。杉になろうが葦で居ようが、自己チュウの存在者は何になろうと自己チュウであり、至高の思考も、至高の志向も、至高の希求もできない。  などと思いました。  それと、不思議なことにヒンドゥのマハバーラタ物語のカルナも生まれて直ぐ、葦の籠に入れられて流され、老戦士夫妻に拾われ、育てられ、この物語でも、バガヴァッドギータでも重要な役割をします。  つまり人間と人生における原理であり原則の一つとしてのカルナは葦に入れられ流され、たどり着くのですね。  そして育てられる。この現実界の戦士に戦士として。インドではアルジュナより人気があるのですが。つまり、人生を少し斜めに生きる、活動性の原理ですね。  人って自分のあり方に引き込んで、身につまされているんですね。  聖性のアルジュナはどうもまとも過ぎてね。  そして不思議にも、日本でも葦をそんなふうに使っている話が、記紀にあるようですよ。  今はちょいと思い出せませんが。    聖性といおうが、斜めの人生といおうが、創造って個々性と個別性そしてその分別認識で成り立っていますから、他と違うということが基本ですね。  そういう存在性は所詮、自己中心です。どうしても。それをどう超克するかが人間の課題でしょう。  マハ(偉大な)バーラタ(士族)物語、バガヴァッドギータ(根源を頌う詩)は私たちSelf-Realization Fellowshipの聖典です。  そこでのアルジュナは腰骨のチャクラ、カルナは脊柱の上から下りる地点でもあり、昇るちてんでもあります。ラージャ(王という地上界の支配者)ヨガの教えです。以下:参考URL  http://www.yogananda-srf.org/  http://www.srf-tokyo.org/tokyo_group.php

yy8yy8az
質問者

お礼

 葦にかかわることを勉強してみます。  回答ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

 徹底して堕落すると・・・・・の部分が理解できません。  他は漠然とですが、解かったような・・・・・  望郷と云う言葉も使っていますが、仏教的な見方で例えれば、飛沫となった泡が元の大海に戻る、吸収される、といったようなことを言っているのでしょうか。  疑問が残りました。

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その他の回答 (35)

  • _AXIS
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回答No.16

>あるお坊さんによると、梅と桜では梅の方が霊的位(くらい)が高いらしい。  たしかに、霊的位 と言っている人と、それを聞いている人は たいした差はないように想います。  同じくらいのレベルでなければ、 同調したり、感銘したりはしないでしょう。 >葦より杉の木のほうが、霊的位(くらい)は高そうにも思えます。  なるほど、そう言われれば確かにそうですね。  殺人鬼と聖者も、たいした差はないかもしれません。  花と人間ではどうでしょうか。

yy8yy8az
質問者

補足

 生命には微生物から人間に至るまで、精神が宿るという認識に立って、その精神を霊と表現した場合、微生物よりも昆虫の方が、昆虫よりも植物の方が(これはどっちがどっちだか?)、植物よりも動物の方が霊的位が高い、と言ってもよいのではないでしょうか。  霊的位という言葉には、こうした意味合いが含まれていると思うので、花と人間では人間の方が当然、位が高いという事になります。  また、精神性の高さ、なんて表現もありますがこれは道徳性の高さ、なんて言い換えられるかと思います。だとすれば殺人鬼と聖者とでは雲泥の差がある、といえると思います。  AXISさんはどう受け止めていますか。      

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回答No.15

 ANo.13,  No.10  I. 【葦と杉を外見で眺めた印象は葦は自己チュウぽくなく、杉は自己ちゅうっぽいと】というフィーリングも有価値でしょう。【そよ風にさえなびく葦の葉は自己主張はしないけれど、芯は強いのかも。】そして一方、【強風にさえ逆らって姿勢を保とうとする杉は、かっこいいけど自己チュウの塊か?】というのもなるほどと存じます。  II.  パンセに関する関連した質問を紹介されていますので、ご参考までに私も多少とも関連するかもしれないことをご紹介します。  1.  http://okwave.jp/qa/q6130438.html 葦では豊葦原瑞穂の国というのは記紀ではよく出てきます。山間よりも沿岸の稲作地帯の未開拓や開拓の原風景ですね。  2. なお、kushaということででてくるURLもご紹介します。   http://sanderfeinberg.com/sdf/spirit/kalachakra/distributing-kusha-grass.shtml   の女の子の下の写真をご覧ください。   南アジアではこの草は神聖だとされています。  3. 先人の使い方例    (1)偈:白馬入蘆花、 (2)下村湖人:白鳥入蘆花  4. 数千年の歴史ある、ヒンドウの神話や聖典でもよく出てきます。    カルナという英雄が生まれて直ぐ流されたのはこの草ので編んだ籠ですね。    そして老戦士夫妻に拾われ(桃太郎みたい)、武勇の優れた戦士になる。    彼は聖典的には人間と自然界の一定のforce、原理です。    人間では延髄の一部に鎮まり、上部と下部への交点の役割ですね。    この話は記紀にも類似の話があります。  5. 葦はヒンドゥの行者が瞑想する際に大事にする草です。    地面からの地磁力を遮断するというので、古来この草で編んだ敷物を使うそうです。    瞑想して唯一者に自己の合流を目指すときの敷物として。    多分茣蓙の座布団みたいにするのでしょう。私はちょいと使えませんでしたが。        以上ご参考までに。

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  • _AXIS
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回答No.14

>こうした思いは自己チュウであるとの批判を免れないのでしょうか。  そっとしまっておくだけなら批判は免れるでしょう。 >たとえ強風に耐えられなくて倒れてしまったとしても。  であれば、やはり葦のほうが良い、と言えます。  http://okwave.jp/qa/q241981.html?from=navi_ranking

yy8yy8az
質問者

補足

 やっぱり葦のほうがいいんだろうか。  あるお坊さんによると、梅と桜では梅の方が霊的位(くらい)が高いらしい。【大きな差はないと思いますが】  そんな霊的目線で見ると、葦より杉の木のほうが、霊的位(くらい)は高そうにも思えます。  質問の意図とは関係ありませんが。  2011-03-04 07:36

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回答No.13

 No.10  人間の存在(ハードウェア)とソフトウェアというお話も出ましたが、葦という存在形式に一切の(ハードウェア)とソフトウェアを、私は含ませています。  人間の至高への惹かれ方、志向のしかた。そういう悲しいまでも不可能を可能にしていこうという思いを私は人間の聖性といい、とるにとらざる葦の存在でも高貴なんだといいたいのです。  この高貴な志向性と、存在やその中の能力の非力さとの関係は多くの故事や話が伝承されています。  パンセもその思いの一つでしょう。

yy8yy8az
質問者

補足

 葦と杉を外見で眺めた印象は、葦は自己チュウぽくなく、杉は自己ちゅうっぽい、と云う処からの思いつきの質問でしたが。  そよ風にさえなびく葦の葉は自己主張はしないけれど、芯は強いのかも。  強風にさえ逆らって姿勢を保とうとする杉は、かっこいいけど自己チュウの塊か?  2011-03-04 07:28    

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  • _AXIS
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回答No.12

イエスは言った、「主婦では悟れまい。」 これはどの福音書か?

yy8yy8az
質問者

補足

 どの福音書かは知りません。  私は言います。「主夫でも悟れない」と。  悟りとは、物事の本質を知るという事。  悟った人と云うのは、その人、その人、のベルで物事の本質を知った人という、そのレベルでの悟りである、と。  

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  • _AXIS
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回答No.11

訂正 漬かっている ⇒浸かっている  まあ、どちらも対して変わりないですが。 >天に向かって真っすぐそびえたつ杉の木のような“考え”を持ちたい。  持ちたいんですね。自己チュウが良いか悪いかは別として、自己チュウでないとしたらなんでしょう。  叩かれるのは先駆者だけではありません。  何度も言いますが、自覚するだけなのですが。  私はたいてい意味のあることを書いています。

yy8yy8az
質問者

補足

 質問自体が曖昧だから、感想も曖昧にならざるを得ず、そのことも自覚したうえでの感想はやはり、自己チュウだとの批判は受けてしまうのだ。  という事でした。  

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回答No.10

No.8です。  【徹底して堕落すると・・・・・の部分が理解できません。】  人間はとことん堕落はできないし、堕落しきると自分のもう一方の高貴性が恋しくなり、求めるもです。  【望郷と云う言葉も使っていますが、仏教的な見方で例えれば、飛沫となった泡が元の大海に戻る、吸収される、といったようなことを言っているのでしょうか。】  人間の本来のあり方、世界、出てきたところ、郷里は忘れ去ることはできないのでしょうね。

yy8yy8az
質問者

お礼

 立場は違ってもみているものは同じかも。  でも、富士山も見る位置で姿かたちが違うように、幾分ずれも感じます。  堕落しすぎると一方の高貴性が恋しくなる、とは人の心は弥次郎兵衛にたとえられるかも。  無意識にバランスを取りたくなるものであるらしい。  kryaさんがここで使う“望郷”を、彼のお坊さんは“帰趣”と表現しています。  回答ありがとうございました。  

yy8yy8az
質問者

補足

 いただいた回答を私なりの言葉に変えて感想を述べれば、  俺がおれがの心、この肉体に執着する“心”に支配され過ぎると不思議にも人は、なぜか罪悪感を覚えます。  自身を大事にしようという心が、どうして罪悪感に結びつくのでしょうか。  不思議です。  個である自分を捨てて、全体へ溶け込めという、心の奥底の要求なのでしょうか。  

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noname#202494
noname#202494
回答No.9

えぇっと、 揚げ足を取るようで大変申し訳ないです。ご気分を損ねるようでしたら、ごめんなさい。 パスカルは人間の存在(ハードウェア)は葦のように頼りないけれども、 けれども、それは、考える葦である。(ソフトウェアは世界を作り変える可能性を持っている。) と解釈されていると思います。 ですから、質問者さんのお考えが、いつか世界のスタンダードになる日もあるかもしれません。先駆者はたたき台として、一般人に批判されるもののようです。 倒れずに、頑張ってください。

yy8yy8az
質問者

お礼

 最近の私は、杉の木ではなく葦でもなく、柳の枝かもなんて思い始めて。  でも、そよ風になびく枝を持つ柳でも、大地にしっかりと根を張っています。  せめて浮草にならないように頑張らねば。  回答ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

 パスカルの言葉は私もほぼ同様に受け止めています。  気分は杉の木のように胸を張って堂々と、たくましく生きたいと思っても、実際は優しくそよぐ風にも倒されちゃって、我がこころは傾いたまま・・・・・。  だから、こうした応援メッセージには元気が出ます。  生きる力を与えてくれるのは、風ではなく暖かな太陽の光なんですよね。    

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  • _AXIS
  • ベストアンサー率5% (2/40)
回答No.7

追記 質問者が「自己陶酔のナルシストとして立派に漬かっている。」と自覚できれば「正しい漬かり方」と言えますなw  あれ、回答する場所を間違えたかな?

yy8yy8az
質問者

補足

 「浸かっている」ならともかく、「漬かっている」だから、あちらの方が適当ではないでしょうか。

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回答No.6

>だんだん自分も自己チュウぽく思えてきました。  自覚しているのとしていないのとでは雲泥の差。

yy8yy8az
質問者

お礼

 自分自身を知る。    これが結構難しい。  このカテに参加するようになってからも、気づかされることがいっぱい。  「心」って、深いんですね。  回答ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

 少なくとも「抑止力」的効果はあるようで。  実感です。

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