イエスは特異点か?

このQ&Aのポイント
  • イエスの特異性を考える
  • イエスの死と特異性の関連性
  • 自然科学の立場からのアプローチと心の関係性
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《イエスは 特異点か》は どこまで現実か

《イエスは 特異点か》は どこまで現実か  《イエスは特異点か》は あくまで喩えで言っていますが どうも《特異点である》と喩えてもだいじょうぶであるらしい。  ・参照⇒【Q:イエスは 特異点か】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5111414.html  それでは 《たとえ》としてどこまで現実であるのか?  【 α 】 おそらく主観においてであることは定まっているはずですが どこまで・どのようにして 現実であると人びとは考えるのか?  主題ないし論点としてつぎのようです。  (α‐1) 十字架上のイエスが特異点だと言うのは なぜ磔になったかその無実の罪といったいきさつの問題がある。  (α‐2) 因果律あるいは経験合理性といった認識ないし判断の基準から自由な一点だという意味で 特異点にたとえられる。  (α‐3) 1/ x において x = 0 である場合を言う。  (α‐4)  その x がイエスであり それが 0(零)であるということは イエスが完全なる死を死んだという意味である。  (α‐5) 死が完全ではないというのは 通俗に言う《この世に未練が残って 文学的に言うならば幽霊になってさまよわねばならない》場合のことである。  (α‐6) イエスは 完全に死を死んだ。磔による苦しい死を膝を折ることなどによって早めてやろうとして近寄った兵士らは イエスがすでに息を引き取っていたのを見て驚いたとある。  【 β 】 あるいはひょっとして特に自然科学の立ち場からは その喩えというあり方自体が意味のないものだという結論になるものなのか?     (β‐1) ということは逆に言って ひとの主観にかかわる《心》をめぐって問い求めは進められると言うべきか。つまり 自然科学的事実と人の心とのかかわり方をこそ問うべきなのか。《心》とは何かという主題になるのでしょうか?  ☆ よろしくどうぞ。国民的な情報交換になることを望みます。

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回答No.5

そうなんだ、わかりました。 でも、何だか結構考えさせられました。 私も構造的なものを軽視したいわけじゃないし、ポストモダンを懐古 したいってわけじゃないんです。確かにある時期は何だかよくわから ない勢いだけの派手なねーちゃんに困った時期もありました。でも今 は皆、真面目でいいですよね。 だけどだけどですね、あんな、がちがちの儒教の国がね蚊取り線香機能 付きのエアコンなんてふざけたもんでがっぽがっぽやってて、 方や日本じゃあファンキーなラップの兄ちゃんがズボンずりさげた、 恰好して変に説教臭いラップなんか歌ってたら、なーんやそれって、 思わずつっこみたくなっちゃいますって。 だから振り幅大きすぎで、波長がながすぎって思っちゃいます。 (こういう比喩がいけないんだろうけど、水前寺清子さんぐらいがい いんだろうな) ちょっと頭でっかちになりすぎて損してませんかってこと言いたかったん だと思います。 話が逸れすぎました。 ブロジェロンヌさんが言いたいことって超越的直観のことですか。 私も実は因果律がアプリオリだなんてあんまり信じてないんです。 どっちかっていうと、赤ちゃんの育ち方をみるとわかると思うけど 自然のさいいつ性論の方がなんか信憑性がある気がする。 なので、環境がさいいつ的だから経験の帰納から、帰納的なみかたを 直感するって、どうしても循環しちゃうんだけど、 わかったら教えて下さい。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  まづ  ★ あんな、がちがちの儒教の国がね蚊取り線香機能付きのエアコンなんてふざけたもんでがっぽがっぽやってて、  ☆ といった情報にうとくて 困ってしまいます。韓国ですよね? 中国も? (少しは調べましたが よく分からなかった)。  ★ ブロジェロンヌさんが言いたいことって超越的直観のことですか。  ☆ そういうことになるかと思うのですが 次の事柄をあらためて知って どうも弱かったかなと思い始めています。  ★ 自然のさいいつ性論の方がなんか信憑性がある気がする。  ☆ 《さいいつ / せいいつ》 両方があるようですが それは別として:  ▲ (ヰキぺ:自然の斉一性) ~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E3%81%AE%E6%96%89%E4%B8%80%E6%80%A7  自然の斉一性原理( principle of the uniformity of nature)または単に斉一性原理とは、   科学哲学の世界で用いられる言葉で「自然界で起きる出来事は全くデタラメに生起するわけではなく、何らかの秩序があり、同じような条件のもとでは、同じ現象がくりかえされるはずだ」という仮定。   推論の一種である枚挙的帰納法を成立させるために必要な前提として、18世紀スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームによって導入された概念。自然の一様性原理とも訳される。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そして 一応は次のように結論づけられるであろうとやはり思いました。  ▲ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~  自然の斉一性を完全に否定した立場(魔術的思惟)に立てば、    あらゆる対象物や事象、あるいはその関係性などが瞬間ごとに   同一であることが保証されていないことになり、  ここでは科学が前提とする分類可能性や何事かを記録しておく記載可能性もまた否定される。   しかし魔術的世界と完全に斉一な世界との間には膨大な領域があり、魔術的思惟の否定が斉一性原理の証明にはならない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 要するに やはり《なぞ》であるようです。まだ《なぞ》。なお《なぞ》。むしろ《なぞ》。であるようです。  それに 【α‐4~6】において《イエスの死が 完全な零としての死である》というには まだまだ文学的な脚色の問題をまぬかれていないなと――つまり どうも弱かったなと――いう感じではあります。  主観においては そのような《零としての死》による特異点のたとえを排除する必要は何もないとは思いますが。  そうしますと やはり 主観ないし心の問題になるかとも思われて来ます。   【β‐1】 ということは逆に言って ひとの主観にかかわる《心》を     めぐって問い求めは進められると言うべきか。      つまり 自然科学的事実と人の心とのかかわり方をこそ問うべき     なのか。      《心》とは何かという主題になるのでしょうか?  つまり《自然科学的事実》と言うよりは 《観念を含めて 自然と社会におけるあらゆる現象としての事実》であり その事実に対して 人間の心というものは どういうあり方をするのか? これではないかと。  《事実》と《心の真実》とで大きく《現実》を成すと考えられます。  歴史事実についての斉一性は 仮説として原理ですが やはり相対世界をあつかう相対的な原理です。  そして《心の真実》を そのまま世界に当てはめるならば それだけでは《魔術的世界》が出現し得ます。  つまり それらの全体としての《現実》は やはり《なぞ》をふくんでいる。ナゾを容れているのが 現実である。――ということかも知れません。  《超越論的直観》に対しても ナゾのほうが先行するということかも知れません。  * さらに例によってすっとびです。  ナゾにとっては 人それぞれの心の真実(主観)ということのほうが 言ってみれば斉一性の世界であるかも知れません。つまり この心の世界という斉一性を破るのが 自然科学的な法則性としての斉一性が発見される世界であると。  《心の斉一性》は その世界があまりにもだだっ広いので 斉一的だとも誰にも思われない。ところが その広大な心の世界のむしろ内側で モノゴトの経験法則として捉えられる斉一性という部分的な領域がある。科学の斉一性は 心の斉一性の一部分を占める。のであるかも知れません。  いやぁべらぼう話でした。

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  • heartmind
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回答No.10

人間の心は斉一的ではないと思います。 なぜならわたしがそうだからです。 身近な人はわたしを「地雷の様な人」と思っているようです。 帰納演繹では予測不可能な訳です。 そんなのあたりまえじゃんと普通に思いますが、逆に その人は、不思議と斉一的なのです。 お腹がすいていると怒りっぽくなるとか、予測可能の割合がわたし より多い気がします。 ですので、きかなくていい確認をとろうとすると怒るぐらいですが、 しかし、私の感覚では、しかし今この一瞬は初体験じゃないかという 気持ちなのです。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 人間の心は斉一的ではないと思います。  ☆ そういう見方を容れたかたちで《だだっ広く大きな世界における〔ちょっとやそっとでは分からない〕斉一性》を言っています。  どういうことかと言いますと:  ★ お腹がすいていると怒りっぽくなるとか、予測可能の割合がわたしより多い気がします。  ☆ たしかにこれが 一般的な――科学の目によって認識するところの――斉一性です。  これを ひとの心は――飛躍した仮説ですが――広く大きくつつんでいるという見方です。したがって言いかえると もっとおおきな斉一性があるのではないか です。    なぜ一目で見ても分からない斉一性がこころの世界にあると考えるか?  むさぼるなかれ・ころすなかれ・いつわるなかれといった規範を持つようになるからです。つまり法律を人びとは取り決めるからです。そのような規範は――基本的なものは―― 心の斉一性〔と想定しるようなもの〕があるからではないかという見方です。  そうでなければ たとえば言語が違う民族ごとに たとえそれぞれの法律を持ったとしても中身が――基本的なことがらにおいて――違うというのがふつうであると考えられるからです。  人間だから だいたい同じような中身になるのだろうともし言うとすれば その見方が ほとんど目に見えないところのまぼろしの斉一性があるのではないかというものです。  だから たとえば人には誰もに仏性がやどるといった見方が出て来るのではないでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~  身近な人はわたしを「地雷の様な人」と思っているようです。  帰納演繹では予測不可能な訳です。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ この《帰納演繹では予測不可能》な心の世界に 見えない斉一性があるのではないかという見方です。  ★ そんなのあたりまえじゃんと普通に思いますが、逆にその人は、不思議と斉一的なのです。  ☆ つまり目に見える斉一性は 〔経験合理性に合った科学的な法則性および〕法則の問題ではなくとも個人がその生活経験を繰り返すというその内容としての習慣 これとしての斉一性です。  たぶん《その人》も その《不思議と斉一的な》部分のほかにやはり 非斉一的な部分を持つと思うのですが? つまりは法則や習慣としての斉一性を超えたなぞの斉一性を持っている。帰納・演繹によって・つまりは理性によって分かる斉一性におさまらない世界を心は持っている。と思われます。  それをわざわざ大きな斉一性と言うのはなぜかと言えば 法律などの規範を持ち出すようになるからです。要するに あたまで考えた斉一性にはおさまらない大きな斉一性もあるのではないか。単純にはこういう見方です。  ★ しかし、私の感覚では、しかし今この一瞬は初体験じゃないかという気持ちなのです。  ☆ 一般のひとよりも新鮮な感覚であるように思いますが そういう意味でも 非斉一性の世界があるとわたくしも考えます。  中国は 軍事力を基盤とした経済力と外交力とで またその考え方によってのみ 説得することができるというのは これまでの歴史にもとづく斉一性を基礎としています。非斉一性の世界もあるとは考えます。どうでしょう?

  • heartmind
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回答No.9

すいませんまた脱線していました。 自然の斉一性にひとまずもどります。 赤ちゃんの観察結果からですが、 1.手に持っているおもちゃを手から離す 2.床に落ちる。 1~2を繰り返す。 超越的悟性により手からおもちゃを離すとたいていの場合、横にいったり、 お空にとんでったりすることはまずなく、おもちゃは斉一的に床に落ちる ことを認識する。 そして手からおもちゃを離したという原因によりおもちゃは床に落ちたんだ、 という因果律を超越的悟性により認識する。 これで因果律をアプリオリから外すことができます。 勝手な推論ですので実際のところはわかりませんが、私はそうだと思うんですけどね。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  あまり考えたことのないと言いますか 哲学史の素養がとぼしいと言いますか。そうですね。  そういう場合には 矛盾と思うところに目が行ってしまうのですが 次の点については どうなんでしょう。  ★(α) 因果律を超越的悟性により認識する。  ★(β) 因果律をアプリオリから外すことができます。  ☆ つまり 《超越的悟性》と《アプリオリ》とは 同じような理解(知覚あるいは認識)の仕方であるように思うのですが どうでしょう?  ★ 超越的悟性により手からおもちゃを離すとたいていの場合・・・おもちゃは斉一的に床に落ちることを認識する。  ☆ たぶん《斉一性》というのは そういうことであるかと思います。帰納法的な類推でもあるでしょうし 超越的悟性がはたらいているということでもあると思います。  ところであたらしい質問をもうけたのですが まづ既成の権威や権力にさからうと出る杭が打たれるという或る種の斉一的な経験法則があります。拘束されるかあるいは迫害されるという法則性です。  たぶんそれでもイエスの場合には 政治的な反対運動は皆無でした。そして 権威や権力が依拠している旧約聖書に書かれているとおりのごとくに世から見捨てられるというかたちにおいて打ち砕かれた。結果的にしろ高等法院の宗教的権威の人びとが依拠すべき書物に書かれているごとくにこの世から打ち捨てられて行くというかたちを取った。  その預言者による預言書というのは むしろ現実の世界における経験法則としての斉一性にさからうことを――神の言葉として――述べる役目を担っていると誰もが了解しているわけですから その意味における限りで一応は 《因果律から自由なひとりの人間の生きた事例》となったかに思われます。  まっ 経験世界における出来ごとであるという前提があります。相対的なことがらであるということです。  でも《最後の人》という言い方も出来るかとも思います。誰もがさげすみ――それをほかの人にさげすみ返すということをせず――誰もがもはやその存在を気にもかけない。そしてその無視を一身に請け負うという最後の人であるかとは思います。これも 特異点に近いと言い得るでしょう。  そんなところでしょうか。ゆるいかたちで 特異点が――相対的な世界においてですが――当てはまるかに見えるというところです。

  • heartmind
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回答No.8

アップルのマックブックエアーという新製品を見てみてください。 今までいかにハード至上主義だったかというアンチテーゼがこめられている 気がします。スカッとするぐらいです。 本当はこれだけの資源でこれだけのことができるんだというメッセージが こめられています。 確実になにかが変わり始めているという気がします。

bragelonne
質問者

お礼

 ふむふむとも ほおうとも思いましたが――あっ ご回答をありがとうございます。――おどろくほどわたしは 機械音痴です。  たとえばソフトヱアは――ハードヱアにおとらず―― 近代人の合理主義の結果であるようには思っているのです。中立の評価としてですが。  いえ なにはともあれ  ★ 確実になにかが変わり始めているという気がします。  ☆ にのぞみを託します。それに違いはありません。  でも考えてもみてください。たとえば図書館で 検索カードを一枚づつ繰って求める本をやっと探すといったことをつねとしていた時代の人間ですから。  むしろその方面のことなど よろしくおしえてくださいませ。

  • heartmind
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回答No.7

ポストモダン≒構造主義には、同意できかねます。 どっちかっていうとポストモダン≒ポスト構造主義の方の認識をしております。 アンチアンチポストモダンに同意いただいてなんですが、 個人的な気分としてはつまらないことには変わりない気がしています。 軽はずみなアンチポストモダンというのは、劣化したポストモダンを批判 しているだけで真髄をあまりわかっていないんじゃないかと思います。 岡本太郎さんご存じだと思いますが、もともとは、生き物臭い、強烈な 台地への深くて大きな愛が源泉であって、実はとても根源的なものだった んじゃないかと思うのです。 それが、サービス精神に変化して、はたまた劣化してみてみてわたし的、 どうだーみろ的に劣化していっただけだと思っています。 アンチポストモダンはただのとりすましであり、既得権益的な保身です。 へそまがりのために人間は生きているのです。 生きるために生きているのではなく、死ぬために生きているという スタンスは変わりません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ポストモダン≒構造主義には、同意できかねます。  どっちかっていうとポストモダン≒ポスト構造主義の方の認識をしております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あぁ そうなんですか。わたしも思想史をきちんと把握して使ったわけではないので そうなのかも知れません。  問題は 《主体を立てる》――これはモダニズム――から《その主体の思想に疑念を持つ。ないし無主体と説く》へ変わったのだと理解しています。そしてさらにこの無主体の過程ないし構造という見方も 一面的ではないかというふうに考えが変わって来たということでしょうか。  ポスアカとか アンチポストモダンだとか もうそのあたりではわたしはついて行きませんでした。  ★ 岡本太郎さんご存じだと思いますが、・・・  ☆ 縄文土器だとかでしょう? たしかに原始心性の《自然性》は 目を見張るものがあります。合理性による推論をたどろうとする近代人(モダン)でたとえあっても うしなう必要はないはずです。それこそ もののあはれを知るにも通じています。  岡本太郎と言えば その《金平糖党》でしたか――金平糖宣言でしたか――にはその考えをそっくりわたしは借りています。これは――わたしの解釈においては―― コミュニケーションにあっては一に批判ニに批判 三四がなくても五に批判だと思って捉えていました。つまり 自分の議論について徹底的に批判せよという意味になります。  ★ 生きるために生きているのではなく、  ☆ たぶん 生きてみたそのあと なぜ生きるのかを考えると思うのですが 生きることに何かあると思って生きるとは思っています。《生きるために》という目的をもうけているとも思っていません。  ★ アンチポストモダンはただのとりすましであり、既得権益的な保身です。  ☆ それで《アンチ・アンチポストモダン》なのですね。  わたしも分かっていなかった部分があるように思います。というのも 構造主義が その無主体=つまりいわゆる関係主義という事柄としては まだまだ大手を振って歩いているのではないですか? と思っていましたが 世の中 変わってしまっていますか?  構造主義がすでに消えているのなら ソシュール批判は必要がなくなります。  岡本太郎は じつは 学生時代にかれに賛同していた友がいました。(高校の同学年生で 大学は離れていたので たまに会うだけだった。その後も音沙汰がなくなってしまった)。けっこう多くの著書を出しているのですね その岡本太郎の著書がかれの部屋にずらっと並んでいたのを覚えています。フランスで社会学をやったとか。そう言えば その後岡本太郎にも友だちにもご無沙汰で来ています。

  • heartmind
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回答No.6

たぶん「さいいつ」もとい「せいいつ」だと思います、間違えました。 また考えさせられました。 もう一度、韓国製について考えてみたんだけど、結論からですが、 素朴なポストモダンなんかじゃなくて、むしろより構造的なんじゃないかと。 何故そう思ったかというと、韓国は日本よりもIT社会ですよね。なので、 「コト」を分析的に捉えることが日本より進んでいて、 だから、「モノ」に、「コト」全般、デザイン性(表現するということ)や、 ソフト(人間とモノをつなぐ部分でモノをどう人間につかうかまたはどう 使いたいかというサービス面を考えること)を付加させるという発想がより 構造的に進んでいる、だから一見、素朴なポストモダン的に見えるけど、 実はより構造化を進めたものじゃないかと。 なので、例えていうとアナロク時計の画像処理をチップでさせるとか、 法律家の人に例えるともっとわかりやすいと思うけど、 ・四角い法律を血の通った人間に合わせて丸く捉えるべきという人がいて ・いやいや原理原則は大切にするべきという人がいて それをさらに進めると四角い法律をより人間に合わせたきめこまやかな まるい法律を作るべきだということになるということだと思います。 六法全書が分厚くなるほど、人間関係が良好になるという発想、 それがいいのかどうかはわからないけど、きっとアンチアンンチポストモダン があるとすればこういうことなのかなと、なんだかそういう方向なのかなと 思いました。 良かったら、意見をお聞かせください、お願いします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。けさは お応えとして三本目です。  やや疲れが見えたかに感じるからなのではなく そうではなく すでにお伝えしたように IT の仕組みもその産業のことにも わたしは疎いままで来ています。まぁ アナログ人間であるとまでは言おうと思いませんが。  ですから韓国にせよ日本にせよ 現状がどのようにすすんでいるのか これについてしゃれた返答を出せるかとなれば こころもとない。このひとことです。  少し質問です。  ★ 素朴なポストモダンなんかじゃなくて、むしろより構造的なんじゃないかと。  ☆ デカルト以来の経験合理性ないし理性についてのゆるぎない信念は 一方でそれでもなお神について《何ものにも依存せずみづから存在する》という意味の《実体》だと位置づけ 他方でこの実体のもとにある経験的な存在である人間は それでも 《自由意志の主体》であるとやはり位置づけた。主体としての理性信仰あるいは科学万能主義として。  これが モダニズムですよね。  これに対してポストモダンは それが おおまかに言って《構造主義》であって 《実体》を破壊し《主体》を崩壊させた。あるのは 歴史として《無主体の過程》である。人と人は 網状のネットワークをかたちづくるのみであって 主体はない。人びとの行為関係は 網状の組織として構造を成すと。  わたしは ちなみに ネットワークの結び目 その結節点は やはり自由意志を持った人間であり 意志自由による判断をする限りで 主体でもあると考えています。  構造主義なる思想は ちょうどハートマインドさんとやり取りをおこなったソシュールの《言語記号の恣意性》説に起源を持つと言われています。言葉は 一つひとつ――つまり《結び目》の一つひとつの語――が独立しているのではなく 互いに語彙の全体をひとつの構造としてのようにそのネットワーク〔における関係〕として成り立っているのだという発想です。  それに対しては ですからわたしは 語の一つひとつにも それなりの独立した成り立ちを持つというふうに批判しています。  つまり思想としてなら このように《モダン》と《ポストモダン≒構造主義》について捉えていますが 情報通信技術にかんしては 残念ながら――つまりどうも知ろうとする興味が湧きません――分からないのです。(もともと 化学・生物そして法律が ピンと来ない性格でした)。  その法律で説明してもらっています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  それをさらに進めると四角い法律をより人間に合わせたきめこまやかな  まるい法律を作るべきだということになるということだと思います。  六法全書が分厚くなるほど、人間関係が良好になるという発想、  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん そういう方向性はこれから大いに取られて行くのではないでしょうか。そのまま素直に誰もが認めるところだと思います。とうぜんそのように《きめこまやかさ》は要請されるはずですから。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  きっとアンチアンチポストモダン  があるとすればこういうことなのかなと、なんだかそういう方向なのかなと  思いました。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 例によって飛躍するとすれば:  前回のすっ飛びを継ぎまして:  心の世界という・誰の目にも《斉一性》を示しているとは見えないところのそれでも大きくは斉一性の場があり   その主観という観点から捉える限りで  その心の場に 科学としての経験法則を捉えたところの斉一性の世界が映って見える。  心の世界における斉一性とは 大きく言って 《へそが曲がっていない》か《へそを曲げている》かの物指しによるものだと考えます。  科学によって認識する斉一性は へそのゴマの成り立ちについてだと思われます。  《へそ曲がり》の曲がり方などについても知るではないかと言われれば 心の世界では《なぜ曲がるか・なぜ曲げるのか》について知るものだと言えると思います。  そのあと――ゴマの成り立ちや へその曲がり具合いを知ったあと――  ★ 四角い法律やまるい法律  ☆ がつくられてくるはずです。で もしそこにさらにつけ加えるものがあるとすれば やはり《なぜへそを曲げるのか》について知ることではないか。こう思って来ています。  心の世界にも目に見えない斉一性が成り立っているのではないかと思われるそのゆえに 法律としての一つの定規を考え方として表現し決めておくことができる。ただし 法律の斉一性は とおく心の斉一性(を超えたかに思われる世界)にはまだ及ばないとは考えられます。  スーパーモダン スーパーポストモダンといったように 覆いかぶせの理論ではありますが。

  • heartmind
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回答No.4

ソーカルさんは物理科学の知識を社会学に相似対照的に活用している人たちに、 こんなことは科学の冒涜じゃないかと言いたかったのだと思います。 しかし、人間からみえる現象を科学と相似対照的にみることは、昔からよく あることなので(日本人なら特に自然現象を情緒的にみてますよね)そんなに おこんなくてもって感じです。

bragelonne
質問者

お礼

 あぁ ハートマインドさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  これまでのやり取りでご承知かと思いますが 自然科学あるいは数学のそれ自体の問題としては扱っていないと言いますか わたし自身が扱えていないのです。  ソーカル事件としては ほかの方の質問でしたが 少し参加して或る程度はそのあらましを分かっています。《相似対照》はいいとして そこで応用した具体的な科学の推論じたいがまちがっているところがあったようですね。数式などもまちがっていた。  回答No.1&3の内容については わたしがこの特異点についての知識が素朴でしかないこととは別に それとは別に あまり信用していません。このわたしの質問にまともに答えているとはあまり思えません。でも手も足も出ません。  しかるのちは 《たとえ》としてどれだけ現実であるか これを知りたいという問いとして いま少し開いていようと思います。  たぶんそのときの課題は 《自然および社会》の現象を扱いつつ その経験的な現象をやはり超えてしまうところがあるかもしれないということ ここにあるように思います。言いかえると      (α‐2) 因果律あるいは経験合理性といった認識ないし判断の      基準から自由な一点だという意味で 特異点にたとえられる。  この命題がどこまで経験世界における現象として――その範囲内で――扱えるか ここにかかっているのではないかと見ています。  観念の世界における概念を使っての推論ということに限るなら 【α】系は 妥当だと思っているのですが そのあたりのことを もっとしっかりと知りたいと思っています。  No.4のご回答は まっすぐ信仰の立ち場から 賛同を寄せてもらったかたちです。  相似対照の捉え方は 素朴に共感できる部分があると言っていただいたと思います。  さてどうなりますやら。

noname#202494
noname#202494
回答No.3

お説の通りです。 イエスは一体何者であったのかは100%、喩えの入る余地のない人類学における特異点です。 科学は万能である。つじつまの合うことが即ち真理である。 けれども私たちの持っている科学知識はまだまだ未解の部分が多すぎて、宇宙の成り立ちや、生命の誕生を解き明かす段階のその階にも至っていません。 イエスの行ったといわれる奇跡の数々、彼の昇天後、弟子達の行った奇跡の数々が、我々の手で簡単に行われるようになったときに始めて、イエスは本物の救世主であったか、あるいはペテン師であったか解き明かされるでしょう。 今の私達に残されている選択は、彼を信じるか、信じないか、それだけです。 それ以上の議論は砂上の楼閣です。

bragelonne
質問者

お礼

  チャオポルポさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。――余分なことですが ポルポって 珊瑚の一種だと出ていますが そうなのですか?――  そうですね。  信仰の立ち場からお考えや思いを述べておられる。まづはこう思いました。  言いかえると 哲学の立ち場からは――その哲学(コギト)は基本的に観想(メディターティオ)やクレドに第一位の席をゆづるのですが それにもかかわらず―― もっと説明が欲しいというのも 率直な受け取りとしての思いではあります。  つまり  ★ けれども私たちの持っている科学知識はまだまだ未解の部分が多すぎて、宇宙の成り立ちや、生命の誕生を解き明かす段階のその階にも至っていません。  ☆ ここのところですね。この 科学をどう取り扱うかについての態度如何になりましょうか。  さらにすなわち おそらくおっしゃっていることがその通りであると思われるにもかかわらず 哲学としては いま現在における――いわば永遠の現在という存在のあり方を示そうというかたちにおける――突破口を問い求めている。と考えられるようにわたくしは思います。  どういうことかと言いますと  ★ イエスは本物の救世主であったか、あるいはペテン師であったか解き明かされるでしょう。  ☆ という主題もしくは視点 これらはどうでもよいことなのです。けれども  ○ イエスは 特異点か〔もしくは そのことがどこまで現実か〕  ☆ は 判断材料のみを扱いそれについての思索を互いに提供しようというものです。  ★ イエスは一体何者であったのかは100%、喩えの入る余地のない人類学における特異点です。  ☆ 従いまして  ○ 《喩えの入る余地があるかないか》 つまりは 《自然科学としても共通の事実認識であるかたちにおいて 特異点であるかどうか》  ☆ これは――けっきょくのところ チャオポルポさんも科学の未発達に触れるかたちでおっしゃっているように―― まづ基礎としての主題になると言わなければならないようです。    ただし たとえ思弁的であるにしろ――数学における論理的な帰結に過ぎないにせよ―― その観念が現実であるかぎりにおいて その《たとえとしての特異点》をめぐる思索も 現実であるとは考えています。それは いまのところ【α】の内容までですが たたき台にしたいとは思っています。  ありがとうございました。こんな反応になりますが。  * 信仰の立ち場は その現実性を示すために 哲学なり自然科学なりの経験思想や経験科学という次元にむしろ積極的に降りて行って話をする必要がある。これがわたしのここでの立ち場です。どうでしょう。

  • cyototu
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回答No.2

regular の日本語訳は正常なで、singular は異常なだ。 だから、regular singular point は異常で正常な点と言っちょることになる。 まさか、毛唐どもがそこまで支離滅裂な奴らではないと昔の日本人は思ったらしいね。そこで、真摯な昔の日本人は程度が低い奴らが諸っちゅうやるような馬鹿な直訳をしないで、一生懸命にその意味を考えて訳語を探したんだね。そして、 regular singular point:確定特異点 irregular singular point: 不確定特異点 と意訳したんじゃ。 昔の日本人は他にも感心するような本芯を付いた言葉を使ってた。毛唐どもが law 一言で表していたいい加減な概念を、江戸時代の方が「法律」と「法則」とわざわざ二つに意訳して、その意味を明確にして、毛唐よりも遥かに深い認識に到達したんじゃね。今の連中が、発音もメチャクチャなカタカナ文字を使って素人を煙り巻いているのとは大違いじゃな。マニフェストが今度はアジェンダだとよ。人をおちょくるのもほどがある。だが政治家は風見鶏だ。ゆとりかなんかしらんが、国民の程度が下がっちまったら、そんなこと承知で自分の程度も下げなくちゃなんないんだね。お山の大将になろうっちゅう連中はかあいそうだね。ちゅうか、自分を殺してでも愚民のところまで居りて来ようなんて、見上げたもんだよ屋根やのふんどしだね。 その点芸術家は別だ。何も愚衆におもねる必要がない。だから、自分で善しと言うことをトコトンやろうとする。だから、芸術家には政治家の苦労なんて判んないだろうね。要するに芸術家はガキなんじゃね。 何でポストモダンかって、決まっているじゃやないか。ソーカルさんを引っ張り出したのはブラブラしているあんただろ。ポストモダンの定義は、 「自分でも意味が分かっていない自然科学や数学の専門用語を、ただただ素人を煙に巻くと言う目的のために引っ張り出して来て意味のない御託をならべ、そのうちにそん誤摩化しをやっている本人もその無意味の無いものに意味を見出したつもりになって恍惚としている連中」 ってんだろ。だからソーカルさんが噛み付いたんだよね。その定義によるとあんたもポストモダニストだ。ポストモダンをもてはやしている連中もいるようだから、多分あんたをそんな風に理解してしまったら、あんたも光栄に思わにゃいかもしれんね。 そう言えば、自分で恍惚として馬鹿な事をやってる似非芸術家もどきって時々いるね。あたしゃベルギーのブリュッセルの国立美術館でモダンアートちゅうのを見たことがある。何であれがアートなのか分からなかったが、モダンと付いてりゃ偽もんなんだと言うことをポストモダニズムが教えてくれたから、その時に合点した。ベルギーのナショナルフードはムール貝なんだが、その殻をバケツに入れた物を美実館の廊下の隅に飾ってあったんじゃね。面白かったのは、そのバケツに余り近寄り過ぎるとブザーが鳴るんじゃ。日本でも時々在るが、展示会で大事な美術品を守るためのあのブザーなんじゃね。で、何でこんなバケツにそんな装置が付いているか、あたしゃすぐに判ったね。その装置を付けて置かないと、閉館後に掃除のおばさんにそのゴミをすてられちまうからなんだね。 何年か前のシドニーのオリンピックでなんとか英恵だったかなんとか花代だったか、なんかそんな名前の人がデザインしたユニフォームで日本選手団が開会式に参加したときの、あのゴミみたいなユニフォームと同じような馬鹿馬鹿しさだね。ポストモダニストも似非芸術家も一生懸命に考えているらしいんだが、なんせ程度が低い。だから支離滅裂なことを言って自分では恍惚と出来るんだろうね。 だからブラブラもあんたポストモダニストみたいだねちゅう言葉をほめ言葉と思っちゃ駄目だよ。でも、 好きでおぼれて 流されて 死ぬほどたのしい 夢をみた あとはおぼろ あとはぼろぼろ ああ 今宵またしのびよる 恍惚のブルースよ てな調子で今宵もまた楽しんでるんなら、まあ、あたしのような他人が口出しても始まらんと言えば、始まらんね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  特異点が 実際の現象とは言えないとすれば 【β】の問いは 意味がなくなる。  【α】として・つまりはまったくの喩えとして どこまで現実に迫るものなのか? という問いになります。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.1

イエスは特異点か。いえ、ノーです。ノーが特異点なのです。従って、もしイエスが特異点であるとすると、イエスはノーとなり、ノーもイエスになってしまいます。これは論理の破綻と見えます。しかしポストモダンでは、特異点が reguler singuler point であることが有り得る点に気付いております。すなわちreguler が同時にsingulerであることが両立する訳です。従って、イエスもノーと両立することがあり得るかも知れません。ですから、ポストモダンの見解から言うと、イエスが特異点であり且つ同時に特異点ではないと言うことも有り得るかも知れません。従って、イエスがノーであり、ノーがイエスであることもあり得ると言うことも、ポストモダニストの見解に立って主張できる訳です。その点に関してが、ソーカルさんは、うんともすんとも言えないとことになります。 因に、reguler singuler point は数学で曖昧さなしに定義されている概念ですので、ポストモダンの方も安心してこの言葉を使って下さい。 蛇足になりますが、数学が自然科学の一分野でないことはカントによって明らかにされておりますので、その辺りの言葉遣いにはご注意下さいませ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  理解力をまだ開発していませんでした。  残念ながら お手上げです。  数学で予測することが出来ても 実際上の現象ではないという意味ですか?  それでも イエスでもノーでもありうるということなのでしょうか?  あるいはその現象が 観念の世界においてありうるとすれば そのつてで 《超経験の世界》が想定されうると言えるのか?  それとも むしろ観念の世界もけっきょく経験世界に属すのであるから たとえ特異点と言えるとしても それも所詮 《超経験》は無理だということでしょうか?  ここでなぜポストモダンが出てくるのかが よく分かりません。  ありがとうございました。  ・ regul a r / singul a r

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