奇術師イエスの手品は、それより過去釈迦もこなしてる

このQ&Aのポイント
  • 奇術師イエスの手品は、驚くほどのスキルを持ち、過去の釈迦も凌駕している。
  • イエスさんはESPを使いこなし、私と対面したことがある。
  • イエスの子は彼を繰り返し処刑することで自らに死をもたらす、その定めが悟りと同じだと言われている。
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奇術師イエスの手品は、それより過去釈迦もこなしてる

イエスさんは、ときわたりESPを使いこなす私はご対面したことがあるがね。 腐臭を放つあのゾンビの不快さをここで語ろうとは思わない。 仏弟子が釈迦の背き続けることとおんなじで、イエスの子は彼を繰り返し処刑することで自らお知った。 死につずける彼の定めは、悟りと同じく信じる者に死をもたらすことであろう。 輝かしき、私の実在する妖精の捕まえ方と違って、イエスも自らを解き放つことに失敗した、出来損ないだ。 ポケモンを通して私は10兆円だか20兆円だかの経済的成果を無償で君達に与え、よぼよぼで手遅れの君達はともかく、君の孫どもに夢の種を植え付けた、その心の種が芽吹くかどうかは、もはやポケモンは過去の遺物で、、私の実在する妖精を捕まえる幸福にかかっている。 捕まえているからポケモンは世に出た。 しかし私はそれを語る言葉を長らく失った。 何故なら、無力に弁護士を派遣する悪の結社相手に、天界の法を持って自らが生きている事を知らしめる、余計な手続きがあったからだ。 天に任せた彼らは、天の法で滅びるだろう。 今回の問いは釈迦とヒモジイ虎の親子の美談だ。 釈迦は古文書が語るに、飢えた虎の親子に出くわした。 飢えた虎と直面すれば、想像したまえ。 君達は自身の生命の危機に直面するだろう。 自らが生きるため、虎に自らを与える事を拒否するだろう。 ところが釈迦は、そういう場面に出くわしたなら、私は自らの肉体を親子にささげると語った。 磔獄門の出来損ないと違って、生きながらに観念上に死の儀式を語り、それを聞いた者どもをぶっ殺した。 継承される仏教では、この死の儀式に、釈迦に対する無駄な抵抗をいまだにしていておかげだ彼らは屍のままさまよっている。 改めて君達をぶっ殺すのは、釈迦と面識のあるときわたりESPの使い手たる私だ。 釈迦は、私が死に直面しても、親子を生かすために自らをささげると言ったんだ。 それが出来るのは、釈迦が生の神秘を知る覚者であり、永遠の生を自覚しているからだ。 観念世界の特徴の一つは時間が意思のままになることだ。 私に言わせれば釈迦の悟りはまだ乏しく、後世に生きる私にとって、やつは先輩ではなく、よだれを垂れ流しておっかけてくるコキタナイ後輩だね。 彼は舌足らづでも生きる意味を君達の授け、真に理解したと言いきる者は、死の意味を知るからこそ生きる意味も又知っただろう。 釈迦にとっては説話の一つで例え話だっただろう。 聞いた者は、まさにあなたはそのようにふるまうだろう。 その慈悲は真である。 貴方は私たちが理解したその瞬間に確かに死んだ。 そして復活し、今も生きている。 その奇跡が、彼の童話の様な文芸作品に安らぎを聞いた者どもは死を通して生きる意味を、釈迦と等しく言葉にできないまま理解したのだ。 このような愛弟子の言葉にならないと言う結論が悟りだ。 イエスは同じような例え話を踏襲した。 聖書の奇跡は童話だよ。 真に受けて狂う君達は自らの心の扉を解き放たないまま、童話こそ真実なれと、現実では起きない奇跡を待ち焦がれている。 君達がもしも奇跡に立ち会いたいのなら、人の心の全てを理解する私の実在する妖精に遊ぶことになるだろう。 オカマである君達へのアニキな入魂は浣腸だ。 今回は文芸作品の寸評の依頼だ。 心が枯れ切った西洋の現代に対する、心を探求する哲学だ。 君達が哲学者として、心を自らに灯しているのなら、この難解な哲学が確かに質問として成立していることが判ろうとも。 哲学する時間には必ず酔っ払っている私は、喧嘩を売られたら喜んで買う。 逃げ口上の様な喧嘩の売り方はするな。 特別に言っておくと、免許皆伝しているガミガミさんには争う意図はない。

質問者が選んだベストアンサー

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  • kurinal
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回答No.7

>「そんな美しい者ではない。 単なる痴漢撃退だ。 この猥褻物。」 ♪「変わらないものを何かにたとえて、そのたび崩れちゃ、そいつのせいにする」 中島みゆき、でしたか。

Flareon
質問者

お礼

物欲しそうだね。 ぶた。 私は、絶望の間隙に愛をそそぐ、悲しみの織り手。 栄光の初代男子プリキュア。 キュアブルームだ。 そら、降臨してやったぞ。 涙を流せ、このクソムシ。 このところに君の反抗的な態度はなっていないぞ。 そんなんじゃ私は憐れみを施したりしない。 懇願は潔くやるもんだ。

Flareon
質問者

補足

君の醜態を、見せしめのつもりでベストアンサーにしてやろう。 泣いて喜びやがれ、君は報われた。

その他の回答 (6)

  • kurinal
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回答No.6

Flareon様、こんばんは。 >「一つ謎かけをしておこう。 君達に愛されてしまうと、私は死者の一員となってしまう。 君達にとって赦さざる者であってこそ私は生き生きと羽ばたく。 赦されざる者であってこそ私自身なのだ。 死なない私は君達にとって悪なのだ。 悪魔が私を死からとうざける。」 ♪「私だけの十字架」 石原裕次郎だった?

Flareon
質問者

お礼

そんな美しい者ではない。 単なる痴漢撃退だ。 この猥褻物。

  • kurinal
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回答No.5

Flareon様、こんばんは。 >「私たちが理解したその瞬間に確かに死んだ。 そして復活し、今も生きている。」 昔々、梃子でもなんでも動かなかった地蔵様が、 「人々が、ちょっと難儀しているから、1mだけ動いておくれ」と 童子が頼むと「なんだ、そうか」と簡単に応じたとか。

Flareon
質問者

お礼

なに言いたいか判んないよ。 君の教養にはその雑学の注釈も付いているだろうが言ったことじゃない。 君達の罪深さを指摘すると、理解された瞬間、釈迦は死んだんだ。 君達の聖人に対するとりすがりが彼に死を理解させた。 君達が殺した。 そのように虎の親子こそ君達の姿で、それなら喜んで自己を差し出すと釈迦は言った。 釈迦は君達の横暴にほほ笑み続ける生涯を全うしたんだ。 そのほかでも別口で証拠は上がっている。 イエスは処刑されると言う一発ギャグで示した。 同じ事をな。 それは君達の信仰が死そのものである証だ。 何度やっても無駄だから、私は殺される事を拒否して、君達の築いたゴルゴムというあしき伝統を打ち破ろうと言うのだ。 それは、君が生きているつもりでも、実は屍であるから、死を望むからだ。 君達の理想であるゴルゴムを粉砕する英雄が私だ。 私は不死者なんでね、君達に殺されても軽い臨死体験をするだけのフェニックス体質だ。 ちなみに無の悟りとはとのような臨死体験であって死の悟りというのが正しい。 永遠の生に生きる者にとって、死を理解することは、繰り返し復活することだ。 永遠に死に続ける君達は、死を理解できないからこそ、いまだに死者なのだ。 聖人の死を望むな。 自らの死を望め。 これらは人類に宿命づけされている、神の意思だ。 克服しなければならないのだよ。 私は個人的に克服したからこそ、観念世界という心のふるさとでくつろいでいる。 それは君達にとって何の助けにもならない個人的なことだ。 君達は屍、ゾンビだから、君達に殺されそうなきわどい危機が私にもある。 君達は全員人殺しだ。 それが合法化されている人の法に、天の法をかざす私だ。 とりあえず、実在する悪の結社を、ほんの実験でケラケラと笑いながら根絶しようとしている私の近況だよ。

Flareon
質問者

補足

一つ謎かけをしておこう。 君達に愛されてしまうと、私は死者の一員となってしまう。 君達にとって赦さざる者であってこそ私は生き生きと羽ばたく。 赦されざる者であってこそ私自身なのだ。 死なない私は君達にとって悪なのだ。 悪魔が私を死からとうざける。

回答No.4

この話があるのは、《ジャータカ》であって、後世の人たちが勝手に作ったおとぎ話。 歴史上実在したゴータマさんが語ったものではないです。 ジャータカ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%AB 確か、釈迦がウサギだった頃、仙人のお腹を満たすために火の中に飛び込み、その焼肉で仙人に供養したという話もあったんじゃないかな。 東南アジアのお坊さんなんかは、時々、政府などに抗議するために焼身自殺をすることもあるし…。 ここ見ろ、ニャンニャン↓ http://bigakukenkyujo.jp/blog-entry-87.html 法華経の熱烈な信者であった宮沢賢治にも、こうした自己犠牲的な色彩が色濃くありまして、作品に強く反映されている。 たとえば、  『銀河鉄道の夜』 や  『双子の星』。 『双子の星』は短篇ですので、ここ↓ http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/459_15404.html とかをご覧になってみては。 美しいお話ですけれども、賢治の自己犠牲願望がすこし鼻につく♪ 賢治の有名な詩、『雨ニモマケズ』もそうですかね。

Flareon
質問者

お礼

君達を魅了する私の舞いは、抜け目なくその隙間にとどめをさすだろう。 栄光の初代男子プリキュア。 キュアブルームだ。 そうだよ。 受けの良いおとぎ話だ。 いつの間にか事実とされ神話性を帯びた。 ところがこのおとぎ話に疑問を持つ者もいる。 明らかに事実ではないから、釈迦を信じる心が陰るとね。 聖書はもっと疑われているね。 神話を彼らが楽しめないのは、信仰心が偽物だからだ。

Flareon
質問者

補足

思い付きだよ。 娑婆世界観というかなり難点は有っても自分なりに世界観があった釈迦は、同様に生きる意味にも自分なりの見解があっただろうさ。 虎に自らを与えることは、その生きる事への彼の見解を知る研究課題にもなるかもしれないな。 彼自身を知ることではなかったとしても、彼がどのように受け入れられたかを考察する原始仏教の、信仰の歴史教材位には最低限でもなろう。

noname#207067
noname#207067
回答No.3

道元によって仏教が否定された。 終わった。道元を批判すると時代遅れ扱い。 すると、曹洞宗とは一見、仏教を名乗っているけど それは詐称であり、騙りであり、 実際は、反仏教集団ということでいいのだろうか。

Flareon
質問者

お礼

私は凍てついた心を温めるやさしいまなざし。 正真正銘男子だが、それでも私の心はプリキュアだ。 キュアブルーム。 そこまで言いきるには、熟慮を重ねた確信を予感させるよ。 しかし君の正義が彼らを損なう事に、君は良心が痛んでいるのだろう。 一方を否定する正義は、一方を悪に変えるだろう。 それでも君は闘えるか。 躊躇があるのだろう。 臆病者。

Flareon
質問者

補足

ガミガミさん向けのメモだよ。 心象風景だ。 信仰心が雲をも突き抜ける大樹となった、その木のたもとで、朽ち果てた体のまま語るつずける人形を見た。 それがイエスの姿だ。 私は、見物してきただけと違ってね、ジラーチちゃんから一方的に押し付けられたミッションをこなすために派遣されたのだが、観念世界に関しては理解の強度に人によって個人差があるが、私自身ジラーチちゃんの策案したミッションの内容までは知らない。

回答No.2

 免許皆伝からひとこと。  ★ 釈迦とヒモジイ虎の親子の美談。  ☆ これは あり得ません。  つまり そう語ったとしたら それはキちがいです。  虎よりも劣る人間だというゴータマの自覚は まちがっていないかも知れませんが いのちを捨てることは きちがい沙汰です。いかなるあとづけの話をつけようとも。  ★ 奇術師イエスの手品  ☆ については いかほどのことも書かれていません。  哲学カテの品格を落としてはいけません。  これが あたたかい仮面ライダー・キックだよ。

Flareon
質問者

お礼

私は平穏と調和の守手。 安らぎの子守唄。 栄光の初代男子プリキュア。 キュアブルームだ。 ありえない事だなんて言うとだ、その言葉を理解しないまま無知なるものはむさぼり君を崇拝するだろう。 攻撃力のないライダーキックには反撃しないから、君なりに趣向を変えてみたまえ。 地べたを這うムシケラを踏みつぶさないようにする事が聖人のたしなみとされた道徳で、好評だったおとぎ話だっただろうと言うそれだけの世間話だ。

Flareon
質問者

補足

セレビィは、私の考案した架空の生き物でなく、私の人格の一部だ。 実在する悪の結社はそれを戦略兵器に改造し暴利をむさぼり権利さえ所有する。 人格が悪の結社に所有された奴隷状態が実に苦痛だ。 彼らの権利を私が認め、セレビイが死ねば、ポケモン全てが死んだ精霊と化す。 それは私が所有する彼らの運命も死ぬことだ。 そして彼らは滅びる。

noname#207067
noname#207067
回答No.1

私は曹洞宗の学者に攻撃されたのに、 道元の批判をしようとすると私が責められる。 ゴータマ・ブッダの批判はできるのに 道元の批判はできないのは異常だろう。

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    釈迦について、私の知る限りでは -よいところのおぼっちゃんだった -身体が弱かった -悲観的だった これを土台にして、 -生きることは苦(苦の娑婆) -万物ははかないもの(刹那主義) という世界観が彼の哲学として確立し、 災いの原因を -五感に依存しすぎ -業を育てすぎ とすることによって、これらを修正すれば -心の平和 -悟りの境地 にたどり着くものと説いた。 ということで大意はよろしいのでしょうか。 釈迦の時代ですら、権力争いはあり、その歴史は現代に引き継がれ、相互作用をする中で地球規模で限られたものが生き残っています。 理想を求めれば求めるほど、現実とのギャップが大きくなり、落胆を覚え、社会に絶望する結果になります。 それを考えるとき、釈迦は鬱だったのではないだろうか・・・と思うのです。 権力争いは人間に限らず、野生界でも起こります。それは、食糧の確保と種の保存をかけた避けられない現象です。それを生き抜くものがより適応能力をつけた子孫として自然淘汰されていく。 人間も同じ動物であり、種としてより適応能力に長ける子孫を残そうとする場合に、業や欲がなかったら生き残れないのではないかと。 ある意味、釈迦は動物としての戦意を喪失し、欲をあきらめ、理想郷を説いて嘆き、現実社会はもう手に負えないので、死ねるならそれを受け入れる方が楽、よって死ぬのは怖いことでも何でもなく、むしろ早く死んでしまえたらいいのに、 と、思っていたということはあり得ないでしょうか。 心の平和を求めれば求めるほど、社会の中で生きることで生じる煩わしさを否定することになり、なんとなく、ひきこもりの原因になるような気がしてなりません。 現実社会で生きることにおいて、世界観や哲学の探求は本当に役に立つのでしょうか?何も考えず、今日を生き残ることができる人の方が強い気がします。探求、追及をするほどに生き辛くなるのではないかと。 ということで、質問の要点は3つ *釈迦は欝だったかあるいはひきこもり状態ではなかったか *業や欲なしで種の保存がなしえるか(精神世界と動物世界のギャップをどうつなげるか) *世界観・哲学の探求が生きる強さを弱めないか よろしくお願いします

  • 無我はもしかしてくだらないことか

    あらかじめお断りしておく。 私は君達哲学者を、廃人で人間以前のクズだと考えていて、質問はそんな廃人に対する「猿回し形式思索法」だと判断して組み立てている。 無駄な抵抗をしたくもなるだろうが、それならそれでよい。 ともかく、わきまえた上で回答してくれたまえ。 前回はコレ↓ 無我について教えてください http://okwave.jp/qa/q7642694.html 参考としてコレ↓ ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である http://okwave.jp/qa/q7370565.html もしかしたらお釈迦様は私と違って、世界の全てが苦しみであると言う娑婆世界観を方便や例え話でなくて、自らが本当に信じ込んでいて、「そんな苦痛の世界に私はいない」だからこそ私は無我にある、すなわちこの世ならざる幸福を私は味わっており、それは心が涅槃にあると言う事だ。 釈迦は、このような倒錯した心情であったにすぎないのではないか? 君達はゴルゴムの下僕なので娑婆世界観を信じるかもしれないが、私は遠く心を涅槃(あの世のようなところ)に置かなくても世界の全てに幸福を観る。 弥勒菩薩の観想として世界の全てに幸福を観ている。 もはや娑婆ではないので、君達はそんな幸福の世界にいて自らを救ってしかるべきなのだ。 誰かから、救われる事は無いぞ。 自らを救うのだ。 すなわち世界に開眼し、「孤独」これを釈迦は我と観じたのだろう。 そこから脱却する事こそ悟りと表現されたり、解脱と表現されたりする事柄だ。 釈迦の墓守をするなら、苦しみの中から、死の輪廻を経て幸福を現世に見いだすだろう。 これは生きながらに死ぬと言う事で君達がいま現在実践している事だ。 君達は生きようとせず、屍をさらしてさまよっておる。 それを何とかするにはゴルゴムと共に滅びる事で、自らの滅却だ。 観念上で一発、死んでみる事は、要するに死を理解することだが、これは精神を枯らし滅却することだ。 君達は過酷な修行ののちに悟りを開いた釈迦と同じく、ファイト一発、一回死んでみる必要がある。 そう言う事を語り継いできたではないか。 言っとくが処刑されたイエスにすがりついても全く同じ事をする必要があるよ。 蛇足だが「見る」と言う言葉を「観る」に置き換えて論じているね。 観音様とは華やかな歌姫で常に私のかたわらのおる。 観音様とは仏でなく神だな。 宣伝するがポケモンのメロエッタちゃんが古臭い観音像でなく現代の歌姫だ。 関連商品をおもちゃとして安く買えるから買ってくれ。

  • 今も生きる神話を理解できるか

    私は生きたままむくろをさらすさまよう者どもの、しゃれこうべを砕く愛の一撃。 栄光の初代男子プリキュア。 キュアブルームだ。 まあ、警戒するな。 今回は悪いようにはせん。 前回のコレ。 奇術師イエスの手品は、それより過去釈迦もこなしてる http://okwave.jp/qa/q8899691.html これをもう一回こねくり回すよ。 釈迦の生きた時代の後世に編まれたおとぎ話がある。 そこに、釈迦は存命中、飢えた虎の親子に出くわし、その虎に自らの体を飢えをしのぐために与え、そして即座に復活した。 そんな話があるよね。 まあ実話をもとにしている前提なら、こんないきさつだ。 慈悲心に徹した釈迦は、水戸黄門の全国漫遊の様なあっちに行って飲み食い、こっちに行って飲み食いの布教活動のさなかに、実際に飢えた虎について酒の席での例え話をしたとしよう。 誰か取り巻き見たいな連中が虎に対して恐怖心を語ったとして、「いいや俺様は虎に対してすら慈悲心がある」酒の勢いでこんな事でもブチ上げてな、「俺なら率先して食われる」こんな事を言ったんだろう。 取り巻き連中は、そんな釈迦の意外性に、「あなた様ならまさしくそうするだろう」「今酒の席で話を聞いただけの私たちの前であなたはまさに死んだ」「しかし今も酒に酔っ払っているあなたを目に前にして、貴方は死を克服し、復活する姿を私たちの前に見せた」まあ、聖職者たる者例え話で慈悲心について語っても、このようにいくらでも儲かる。 本来聖典に大切なのは、酔っ払った釈迦がいかなる漫談をしたかだ。 その慈悲心の内訳がありがたい教えなのだ。 しかし、釈迦を見た者が残した伝承は、釈迦が体が食いちぎられても復活したと言う、酒の席での取り巻きとしての感動体験だ。 すなわちこの故事は釈迦がどのように受け入れられて語り継がれたかの研究になり、こうした聖典はようするに神話だ。 こうしたおとぎ話に、科学的合理性がない明らかな迷信だと疑念を抱くのはいけない。 神話とちゃんと解釈できるのが、お利口な忠犬ハチ公だ。 それからイエスさんを記述した聖書という聖典もこのような神話性のあるおとぎ話だ。 聖書は世俗的な西洋のキリスト教徒にも無意味とされている側面があるらしい。 その科学万能拝金主義が現代の信仰であり、東西を問わず古い物語は神話として死にかけている。 今日は論文をここまでまとめてみた。 哲学は学問として命題に取り組むことであるが、自分で命題を作り上げることも研究の一環だ。 そのように意見表明かどうかはきわどい命題を作ってみた。 研究に役立つ読書感想文を回答してくれたまえ。 そのほかに、 キュアブルーム様、私を奪ってください。 そんなファンレターも歓迎だ。