イエスの指し示した経験行為とは 脱ナラワシ?

このQ&Aのポイント
  • イエスの指し示した経験行為は、愛することと自己無化であると考えられる。
  • ケノーシス(自己無化)とは、イエスが神の身分を捨てて人間と同じ身分になることを指す。
  • イエスの存在は、既存の社会から抜け出し自由になることを示唆している。
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イエスの指し示した経験行為とは 脱ナラワシ?

 聖書のイエスの話ですが ここでは そのイエスが指し示したおこないをめぐって その経験行為のみを問題とします。  たとえば 《愛》と言っても 必ずしも自明ではありません。  ▼ (マルコ福音 12:30)  『・・・心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(申命記6:4)』。  ☆ そして   ▼(同上 12:31) 『隣人を自分のように愛しなさい(レヰ記9:18)』。  ☆ ここから どんな具体的な経験行為を思い浮かべるでしょう?  《神》は おのれの主観の内にしか見い出しがたいのなら その神をどのように愛するのか?  《自分を愛するように隣人を愛する》とは それが《神を愛する》ことと同じことだとすれば いくぶん具体的になってくるかとは思われる。けれども 自分の考えるところによって 自分を愛するように隣り人をも愛する――このようにしてすすめばよいのか?  世に《ケノーシス(自己無化)》という言葉があります。それは 聖書の文章としては 次のくだりから出ているのだそうです。  ▼ (ピリピ書 2:6-8) ~~~~~~~~~~~~~  6: キリストは、神の身分でありながら、    神と等しい者であることに固執しようとは思わず、  7: かえって自分を無にして、僕の身分になり、    人間と同じ者になられました。    人間の姿で現れ、  8: へりくだって、死に至るまで、    それも十字架の死に至るまで従順でした。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここからふと思ったのですが このイエスの存在のあり方が指し示すことは どうも《自己無化》というよりも・そして先ほどの《愛》の主題を考え合わせても  《脱自・自己脱出》というようなことではないか?   これは 何の脈絡もなくひらめいたものです。そしてこの脱自のさらに具体的な内容はと言うと それは どうも既存の社会にあって そこからは抜け出ることなく しかもその既成の慣習から自由になること。これではないか。  おのれを 従来のナラワシから自由な姿として――その姿の想像だけとしてでも――えがくことが出来るか?    ナラワシを否定するというよりもそこからまづ自由な場に身を置くこと。この想像上の世界から 話は始まるのではないか?    要領を得ないのを承知で ひとまづ このように問うてみます。

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  • Him-hymn
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回答No.4

☆ ひとつには 《無一物になれ》という助言は そのとおりにするということではないのですね? 字句通りに行動せよということではないのですね? →文字通りにとるのではないと私は思います。もちろん、金にしがみつき、金の奴隷状態になっているのでは、まずいでしょうね。 1.信仰の父と称されるアブラハムも実はその地方で一番の大金持ちですし、イエスはダビデの子孫と言われますが、そのダビデは一国の王でこれまた金持ち、しかも権威まで持っていました。無一文どころか、聖書には大金持ちの信仰者が少なからず登場します。彼らは、無一文になって神に従ったわけではありません。 2.イエスは、右の頬を打たれたら左の頬を向けよと言われました。しかし、イエスが顔をなぐられた場面で、違う方の頬を向けたとは書いてありません。そうはしなかったと思います。 3.「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ何の役にも立ちません。」(コリント人への手紙第一 13章3節)とあります。無一文になっても愛がなければ何の役にも立たないのです。無一文になればいいのではないですよね。 以上の3点から考えて、文字通りの行動ではないと思います。 ★ひとつには 《このよき方 としてのイエスに ついて行くこと》という次元になる。ということでしょうか。   つまり ここではその意味が 《経験行為のみを問題にする》ことは 成り立たないというご見解なのでしょうか? →私はそう思います。 ☆ なのですね。――ということは どういうことか? →律法を全うすることは人にはできない。しかし、神(イエス)についていくことはできる。ということです。 ☆ ということは 《経験行為のみを問題にする》という前提に立てた方針は あえなく消え去るということでしょうか? →そう思います。 ★経験行為のみを問題にするというのは 言いかえれば《信仰のことに触れずに》という意味です。信仰を問題にするのでなければ イエスの指し示したことは 語れない。――こういうご見解でしょうか。 →聖書は、信仰の世界を語っていますが、もっともっと広い世界でもあります。信仰を問題にせずともいろいろなヒントがあり、知恵があり、教訓があります。信仰を問題にしなくても、イエスに近づき、イエスについて知ることはできます。しかし、信仰の世界は、経験行為とは次元が違います。究極的には、父なる神とキリスト・イエスの父と子の関係性、その愛によって1つとなっていること、そこに信仰者は、自分もまた、キリストと1つとなること、キリストが自分の内に生きていることを知るのです。この神さまとの交流、命の交わり、これを人は祈りと言うかもしれません。あるいは信仰と言うかもしれません。それは、経験行為とはまったく次元が違う世界だと思います。  質問者としては 《既成のナラワシから 想像においてだけだとしても 自由になれ》 これが 経験行為として話題にできるのではないか。とは提案しています。どうでしょうかねぇ。 →確かに、イエスは既成の律法から人々を解放することを目指しました。旧約聖書は、イスラエル民族が、既成の律法に従おうとして、失敗する歴史というのが、大きなテーマだと思います。ですから、既成のナラワシから自由になれというのは、聖書のテーマと一致します。しかし、それはすなわち、既成のナラワシの範囲で(つまり既成の律法を行うという行為によって)なされるのではないと思います。それを超えたところに立ってはじめて既成のナラワシの何たるかが分かり、それから解放されることができるのです。既成のナラワシという土俵で(つまりその次元で)格闘しても、愛がなければ役に立たないーーということになると思います。 以上、ご参考になればと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ひむ‐ひゅむんさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  読み継いで行って反応を持ったところで それをしるす格好になります。  ★ 3.「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ何の役にも立ちません。」(コリント人への手紙第一 13章3節)とあります。無一文になっても愛がなければ何の役にも立たないのです。無一文になればいいのではないですよね。  ☆ これは おかしいですよね? キリスト者なら――イエスに倣う者なら―― とうぜん《愛をもって》 隣り人との交通をおこなう。はずですから。  つまり この議論は 《聖句を文字通りに実行せよということにはならない》を理由づけてはいないと見ます。  ★ 1.信仰の父と称されるアブラハムも実はその地方で一番の大金持ちですし、イエスはダビデの子孫と言われますが、そのダビデは一国の王でこれまた金持ち、しかも権威まで持っていました。無一文どころか、聖書には大金持ちの信仰者が少なからず登場します。彼らは、無一文になって神に従ったわけではありません。  ☆ では どうしてイエスは 青年にその持っているものを売り払えと言ったのでしょう?  ▼ (マタイ福音19:23-24) ~~~~~~~~~~~~  23: イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。  24: 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここも引き合いに出します。ただし この反論は イエスの言おうとしたこと(まだ特定していませんが)についてではなく 申し訳ないですが 《文字通りの解釈が どこまで有効か》について お互いにまだ舌足らずのところがあるようだと思ってのことです。  むろん《文字通りの実行》というのは 《文字はころし 霊は生かす》の聖句を持ち出すまでもなく それは 無理でしょうしマチガイであると思われます。言葉による表現は たとえ額面通りに解釈したとしても 人によって解釈はまちまちであることがほとんどの場合なのですから。  申し訳ないが 次のご見解にも異議をとなえます。  ★ 2.イエスは、右の頬を打たれたら左の頬を向けよと言われました。しかし、イエスが顔をなぐられた場面で、違う方の頬を向けたとは書いてありません。そうはしなかったと思います。  ☆ この《左の頬をも》ということの意味は 《千歩を行けと言われたなら 倍の二千歩をも いっしょに行ってやれ》という表現のほうが分かりやすいと思います。  つまり 相手の 人間としての存在をとうとび その考えや振る舞いについてはマチガイがあるのではないかという含みをもって抵抗をしめす。それが 《右だけではなく左の頬をも》であり《千歩と言わず 二千歩をも しかも相手といっしょに》という表現に現われていると見ます。  これは 《文字通りに》ではありませんが その言おうとするところは ほとんどつねに採り入れてもよい実存の方針ではないかと考えます。         *  (あ) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~     ☆ つまり ここではその意味が 《経験行為のみを問題にする》ことは 成り立たないというご見解なのでしょうか?  → 私はそう思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (い) ★ しかし、神(イエス)についていくことはできる。ということです。    ☆ (あ)の結論は たしかに《経験行為のみを》というその《のみを》が 信仰に触れないでよいといった意味合いを持つとき マチガイなのでしょう。  ですが もしそういう細かいところでの議論だとしますと (い)のほうで異論が出て来ると思われます。  片や一方では 《神(イエス)についていくこと》は 信仰の問題としてむしろ神のほうからあたえられると見るとしても もう一方では《神(イエス)についていくことはできる》というとき つまりこの《できる》という判断は・そしてその実行と実現は 経験行為なのではないですか?          *  ★  既成のナラワシという土俵で(つまりその次元で)格闘しても  ☆ 急ごしらえの設問で到るところで後付けの説明をしなければならない羽目に落ち入りますが それは 承知の上でだったとあきらめて それでも 説明しなおすのですが:     《既成のナラワシから自由になること》を言ったとき 《既成のナラワシという土俵で(つまりその次元で)格闘》することを そのまま言おうとしてはいないはずです。  いえ けっきょくナラワシには既存の秩序がありその秩序を取り仕切る権威や権力が いくつかの段階それぞれに 配置されているからには それらの既成勢力を相手に 《格闘》はするかも知れません。ですが 問題は 《既成のナラワシという土俵で(つまりその次元で)》というところです。これは 言っていないはずです。格闘をすることはあっても その対処の仕方および次元は 違うはずです。  つまり 《既成のナラワシという土俵で(つまりその次元で)格闘しても》というときの心は そういう格闘や争いであるなら 仮りにあたらしい者が権力の座についたとしても それは《既成のナラワシ》の仕組みと同じような社会の統治になるだけだということをおっしゃっているはずです。  それは 考えてはいません。どの統治の体制がやって来ても その既成のナラワシから自由になること これが差し詰め――信仰には触れずに議論するとしたなら―― 主題となるであろう内容ではないか? こういう問い求めになっています。から。  言い直します。《信仰のことに触れずに〔経験行為のみを問題にする〕》というのは 信仰の問題をないがしろにせよということではなく そうではなく とうぜんその経験行為の基礎には信仰がはたらくということを大前提としつつ それでも 一般に社会における人間関係やさまざまな活動の相互関係としては・つまりその現場における行為としては どういうことが言えるか? こういう問いです。  

その他の回答 (4)

回答No.5

要領を得ないのは、質問者が己の作った造語で妄想して論理的に考えられないからです。 まあ、いつもの事ですが。じゃあ、ナラワシって何? 五〇文字以内で定義しましょう。 無駄が多すぎます。 >> これは 何の脈絡もなくひらめいたものです。 いつもの事やん。 キリスト教は政治ツールとして用いられてきましたが、その聖書のくだりは どちらかと言うと仏教に近い。人間よろ優れた、人間とは隔たる存在の神ではなく、 仏教における仏性、仏種にイメージが違い。愛すると言うより尊重すると表現する方が 日本人の感性としては理解しやすいかもしれない。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%80%A7 「《脱自・自己脱出》」、それも九識などの教典に近い。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%91%A9%E7%BE%85%E8%AD%98 人の意識なんて肉が好きか野菜が好きかなんて日常的なレベルでしかない。 しかし、その意識のみに忠実になったとしても真実には近づけない。 大海に浮かぶ木の葉のように頼りない。だから、表面上に見える意識よりも より深いモノに注目するのは論理的には当然の事と言えるでしょう。 考えをまとめるならば、造語ばかりで自分の考えに酔いしれることなく、 誰もが使う一般的な日本語を使う事から勧めます。今までの投稿の無駄さが この投稿に集約されていると言ってもいい。

bragelonne
質問者

お礼

 ぎんが_はせがわさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 質問者が己の作った造語で妄想して論理的に考えられない  ☆ これは 《造語》の部分で当たっていますが 《妄想であり論理的な考えではない》というところは まだ例証や理由づけが 必要であると考えます。  ★ じゃあ、ナラワシって何? 五〇文字以内で定義しましょう。  ☆ わたしの文章の全体をつうじて 日本語で《ならわし》と言ったときそれについて一般に受け取られていると思われそれとして自分も使っているその語義に背く使い方があったなら それを例証することが 最低限の議論のエチケットでしょうね。  それを片仮名にしているところが 一般の用法と違っている。こんなところでしょう。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  おのれを 従来のナラワシから自由な姿として――その姿の想像だけとしてでも――えがくことが出来るか?    ナラワシを否定するというよりもそこからまづ自由な場に身を置くこと。この想像上の世界から 話は始まるのではないか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この日本語の文章が 読み取りにくいのでしょうか。  ★ 「《脱自・自己脱出》」、それも九識などの教典に近い。  ☆ 《脱ナラワシ》をみちびく過程で この《脱自・自己脱出》などという遣いなれない言葉を出しましたが その途中の推論における用語について 解釈・解説しておられるのですね。  それも よく分からない。《ナラワシから自由になる》ことは どちらかと言えば 社会行為としてのオモテのことがらです。《九識》というのは 内面の問題ではないのですか? それもよく分からない問題用語ですよね。  ★ だから、表面上に見える意識よりも / より深いモノに注目するのは論理的には当然の事と言えるでしょう。  ☆ というとき この質問では そのあとのことを問題としています。つまり経験行為のみを問題にして問い求めています。お分かりでしょうか。  ★☆ 今までの投稿の無駄さが / この投稿に集約されていると言ってもいい。  ☆ この物言いは 活かすためのものと確信しています。ので。  

  • Him-hymn
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回答No.3

☆ なるほど。ですが この言葉だけでは 具体的にどういうことかははっきりしませんよね。しますか?まさか あたかも十字架につけられるまでのように隣の人を愛する――ともならないでしょうね。 →人は、何をすればいいのか、具体的にどうすればいいのかと考えます。ですから、マタイによる福音書19章16節で、青年がイエスに向かって質問します。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」これは、具体的にどんなよいことをすればいいのかと聞いているわけで、あなたと同じ姿勢がうかがえます。それに対して、イエスは、なぜよい「こと」について尋ねるのか?良い「かた」は、ひとりだけですーーと答えます。 人は「こと」を尋ねるが、本当の答は「こと」の次元ではなく、「かた」、つまり神さまご自身にあると言っています。次元が違うのです。 そのあとにつづいて、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさいーーと言うのがとても面白いところです。どの戒めですかと言うと、十戒につづき、「隣人を自分のように愛しなさい。」と言います。 そのようなことは、みな守っております。まだ何か欠けているのでしょうか?と問うと、「もし、あなたが完全になりたいと思うなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」と言います。 結局、完全な行為を求めるなら、こういうことになるのです。しかし、それをしたからよいというのではありません。やはり、最終的には、イエスについていく(つまりこの「かた」についていく)しかないのです。その次元になるということなのです。 ☆ むつかしいですよね。オシエとしては 分かりましたが。うつくしい内容だと思いますが。 →むつかしいどころか、できないですよね。実は、それができるぐらいなら、イエスは十字架につくことは意味のないことになるのです。人にはできないーーそこが聖書のポイントだと思います。   ☆ そうなんですね。このハリツケになるまでの愛でしょうか。徹底しておられますね。 →仮にあなたが十字架にかかって死んだとしても、全人類の罪の身代わりにはなれません。あなたは罪人だから、身代わりにはなれないのです。これはイエスのみできる行為なのです。自分にできる、自分も愛せるというところに、もしかすると人の傲慢が隠れているのかもしれません。 ★ちょっと反発してみますが でもみんながみんな 友のために・隣り人のために《十字架にのぼる》ほどの愛を実践していたならば じんるいは絶えてしまわないですか? それでもかまわないですか? →逆じゃないでしょうか。みんなが友のために・隣り人のために愛することができたなら、人類から戦争がなくなり、かえって平和が訪れるはずだと思います。それができないから、殺し合うのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ひむ-ひゅむんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  ・・・これは、具体的にどんなよいことをすればいいのかと聞いているわけで、あなたと同じ姿勢がうかがえます。  それに対して、イエスは、なぜよい「こと」について尋ねるのか? 良い「かた」は、ひとりだけですーーと答えます。  人は「こと」を尋ねるが、本当の答は「こと」の次元ではなく、「かた」、つまり神さまご自身にあると言っています。次元が違うのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。やはり なるほどと受け留めるべきご見解であると まづ思いました。  そして そのあと物言いをつけたそうにしていると見られてしまうと思うのですが そのとおりに付け足すことは けっきょくこの《神という方》は どういう存在かが 人間には分からないのではないか? という思いがあります。そういう思いがあるからです。  つまり このことも 言うなれば《経験行為のみを問題とします》というここでの前提事項にかかわっていると思うのです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・そのようなことは、みな守っております。まだ何か欠けているのでしょうか?と問うと、「もし、あなたが完全になりたいと思うなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」と言います。    結局、完全な行為を求めるなら、こういうことになるのです。しかし、それをしたからよいというのではありません。やはり、最終的には、イエスについていく(つまりこの「かた」についていく)しかないのです。その次元になるということなのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ひとつには 《無一物になれ》という助言は そのとおりにするということではないのですね? 字句通りに行動せよということではないのですね?  ひとつには 《このよき方 としてのイエスに ついて行くこと》という次元になる。ということでしょうか。   つまり ここではその意味が 《経験行為のみを問題にする》ことは 成り立たないというご見解なのでしょうか?  しかもそうだとしても そのようなイエスについて行くという次元は  ★ 人にはできないーーそこが聖書のポイントだと思います。  ☆ なのですね。――ということは どういうことか?  ★ →逆じゃないでしょうか。みんなが友のために・隣り人のために愛することができたなら、人類から戦争がなくなり、かえって平和が訪れるはずだと思います。それができないから、殺し合うのです。  ☆ ということは 《経験行為のみを問題にする》という前提に立てた方針は あえなく消え去るということでしょうか?  経験行為のみを問題にするというのは 言いかえれば《信仰のことに触れずに》という意味です。  信仰を問題にするのでなければ イエスの指し示したことは 語れない。――こういうご見解でしょうか。  質問者としては 《既成のナラワシから 想像においてだけだとしても 自由になれ》 これが 経験行為として話題にできるのではないか。とは 提案しています。どうでしょうかねぇ。ありがとうございました。

  • dropyork
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回答No.2

〇その経験行為のみを問題とします。 イエスの追体験。思考・思索による。良いでしょう。 〇たとえば 《愛》と言っても 必ずしも自明ではありません。 そのとおりです。 〇自分の考えるところによって 自分を愛するように隣り人をも愛する――このようにしてすすめばよいのか? 宜しいです。自分の考えるところが問題になり得るのです。 〇ここからふと思ったのですが このイエスの存在のあり方が指し示すことは どうも《自己無化》というよりも・そして先ほどの《愛》の主題を考え合わせても  《脱自・自己脱出》というようなことではないか? 文言通りなら、会っています。 〇そしてこの脱自のさらに具体的な内容はと言うと それは どうも既存の社会にあって そこからは抜け出ることなく しかもその既成の慣習から自由になること。これではないか。 これは、イエスの追体験ではありません。基礎です。 〇ナラワシを否定するというよりもそこからまづ自由な場に身を置くこと。その既成の慣習から自由になること。 ナラワシを否定するときちがいになりますよ。自由な場があるとお思いになるのは、結構ですが... 〇この想像上の世界から 話は始まるのではないか? これが思考・思索なのです。 念のため、忠告しますが、これらの考えを保持すると苦労しますよ。

bragelonne
質問者

お礼

 どろっぷよーくさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   〇 自分の考えるところによって 自分を愛するように隣り人をも愛する――このようにしてすすめばよいのか?  宜しいです。自分の考えるところが問題になり得るのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 異論はないのですが ただ それでじゅうぶんであるか? とは思ったりしますが。・・・  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   〇 そしてこの脱自のさらに具体的な内容はと言うと それは どうも既存の社会にあって そこからは抜け出ることなく しかもその既成の慣習から自由になること。これではないか。  これは、イエスの追体験ではありません。基礎です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《基礎》・・・なるほど。たしかにこの《ナラワシから想像力においてだけとしても抜け出ること》は そうすることによって さらに具体的に社会行為をどうおこなうか これが俟っているとは思われますから。  個人的には 社会行為をどう舵取りして行くか。社会としてのその政策をどうかたちづくって行くか。そういった問題が 俟っています。  ★ 念のため、忠告しますが、これらの考えを保持すると苦労しますよ。  ☆ ここは どうでしょうか。  つまり 《ナラワシから自由な思考力をやしなうこと》 そしてそこから公共の領域においても個人の持ち場においても さらにその自由な政策や社会行為を生きて行くこと これは 確かに並大抵のことではないかも知れません。  ただ もし そうしないとなると いわゆるナラワシの中のシガラミなどに絡まれて 身動きも出来ないほどだという場合の《苦労》と 果たして どう違うか? おそらく前者のほうが むつかしくても うんと遣り甲斐があるのではないでしょうか。  このように考えました。ありがとうございました。  

  • Him-hymn
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回答No.1

◎マルコによる福音書にはありませんが、マタイによる福音書22章38節には、「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』の直後に「これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」とあります。つまり、イエスは《自分を愛するように隣人を愛する》とはそれが《神を愛する》ことと同じことーーと言っているのです。あなたの言う通りです。 ◎けれども 自分の考えるところによって 自分を愛するように隣り人をも愛する――このようにしてすすめばよいのか? →実は、この「隣人を自分のように愛しなさい」というのは、イエスによると、古い戒めであり、古い掟ということになります。 →この自分の考えるところによって、自分を愛するように隣り人をも愛するというのが、イエスの示す「古い戒め」なのです。何も、イエスが言ったことばではなく、旧約聖書にあることばです。この旧約の教えに対して、イエスは「新しい戒め」を示しています。   あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネによる福音書 13章34節) わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 (ヨハネによる福音書15章12節) イエスは、「自分のように愛する」のではなく、「わたしがあなたがたを愛したように愛する」と言い、これを新しい戒めと言っています。「隣人を自分のように愛しなさい」というのは古い戒めです。 自分の良心にしたがい、自分の価値判断で神を愛し人を愛するというのは、主観的であり、自分の判断の可否もわからない、実にあやふやな土台に立った愛なのです。しかし、イエスが愛したようにーーそしてヨハネによる福音書15章12節に続いて、つぎの13節には「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言い、イエスは罪人たるあなたと私を愛して十字架にかかって死なれたという愛をもって、愛して下さった、この愛をもって愛し合いなさいと教えています。 自分の判断や、古い慣習に従って、愛をとらえるのではなく、十字架の死へ向かう生涯を通して愛されたイエスの愛に生きるーーこれがイエスの教え、戒めということになります。おのれの主観の内にしか見い出しがたいのではなく、イエスの内に見る、もっと言えば、十字架で、友のために自分の命を捨てたことを通して見出すーーその行い(十字架で身代わりとなって死なれたこと)こそが、イエスの愛の表れであり、ヨハネの手紙第一の著者は、4章10節・11節に わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきなのです。 このヨハネの手紙第一の著者のことばは、明らかに新しい戒めを言っています。そして、十字架で死なれたイエス(つまり罪をあがなういけにえとなったこと)こそが、愛の具体的な行為であり、「ここに愛があります」と断言しているのです。 以上、御参考になればと思い書きました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひむ‐ひゅむんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。   (ヨハネによる福音書15章12節)  イエスは、「自分のように愛する」のではなく、「わたしがあなたがたを愛したように愛する」と言い、これを新しい戒めと言っています。「隣人を自分のように愛しなさい」というのは古い戒めです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。ですが この言葉だけでは 具体的にどういうことかははっきりしませんよね。しますか?  まさか あたかも十字架につけられるまでのように隣の人を愛する――ともならないでしょうね。  次に説明がありました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  自分の良心にしたがい、自分の価値判断で神を愛し人を愛するというのは、主観的であり、自分の判断の可否もわからない、実にあやふやな土台に立った愛なのです。しかし、イエスが愛したようにーーそしてヨハネによる福音書15章12節に続いて、つぎの13節には「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言い、イエスは罪人たるあなたと私を愛して十字架にかかって死なれたという愛をもって、愛して下さった、この愛をもって愛し合いなさいと教えています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ むつかしいですよね。オシエとしては 分かりましたが。うつくしい内容だと思いますが。  ★ 十字架で死なれたイエス(つまり罪をあがなういけにえとなったこと)こそが、愛の具体的な行為であり、「ここに愛があります」と断言しているのです。  ☆ そうなんですね。このハリツケになるまでの愛でしょうか。徹底しておられますね。  どうでしょう。  ちょっと反発してみますが でもみんながみんな 友のために・隣り人のために《十字架にのぼる》ほどの愛を実践していたならば じんるいは絶えてしまわないですか? それでもかまわないですか?  って ちょっとふざけてましょうか どうでしょうか。

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  • イエスは 脱ナラワシ 即ち 異化作用を説いたか?

     聖書のイエスの話ですが ここでは そのイエスが指し示したおこないをめぐって その経験行為を問題とします。  たとえば 《愛》と言っても 必ずしも自明ではありません。  ▼ (マルコ福音 12:30)  『・・・心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(申命記6:4)』。  ☆ そして   ▼(同上 12:31) 『隣人を自分のように愛しなさい(レヰ記9:18)』。  ☆ ここから どんな具体的な経験行為を思い浮かべるでしょう?  《神》は おのれの主観の内にしか見い出しがたいのなら その神をどのように愛するのか?  《自分を愛するように隣人を愛する》とは それが《神を愛する》ことと同じことだとすれば いくぶん具体的になってくるかとは思われる。けれども 自分の考えるところによって 自分を愛するように隣り人をも愛する――このようにしてすすめればよいのか?  世に《ケノーシス(自己無化)》という言葉があります。それは 聖書の文章としては 次のくだりから出ているのだそうです。  ▼ (ピリピ書 2:6-8) ~~~~~~~~~~~~~  6: キリストは、神の身分でありながら、    神と等しい者であることに固執しようとは思わず、  7: かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、    人間と同じ者になられました。    人間の姿で現われ、  8: へりくだって、死に至るまで、    それも十字架の死に至るまで従順でした。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 《自己無化》というよりも・そして先ほどの《愛》の主題を考え合わせても  《脱自・自己脱出》というようなことではないか?   ただし 《脱自 エクスタシス 》と言うより  《実存 エクステンチア》と言ったほうがよいかも知れません。つまり その《自》は 世のナラワシに染まった自己のことでしょうか。  既存の社会にあって そこからは抜け出すことなく しかもその既成の慣習から自由になること。これか。  おのれを 従来のナラワシから自由な姿として――その姿の想像だけとしてでも――えがくことが出来るか?    ナラワシを否定するというよりもそこからまづ自由な場に身を置くこと。この想像上の世界から 話は始まるのであろうか?                   *  そしてさらに  ○ キリスト者の《脱ナラワシ》とは 異化作用である。か?  1. 《既成のナラワシから自由であること》。これは  じっさいのナラワシを前にしてその中身を異化させてしまうこと これが さらに具体的な行為になるか?  2. 異化作用と言うと 何だかお笑いや芝居の演出方法みたいに受け取られるかも分かりませんが おそらく《ナラワシ――は ともかくも人間の意志行為の積み重ねとして成っているからには これ――を単純に否定する》ことにはならない。からして 目の前のナラワシの内容を ズラセてみせる。これか。  3. たとえば  (あ) アマテラシテ象徴家は 万世一系と言いますが これは いま生きているわれわれ一人ひとりの誰にも当てはまります。万世一系として いま存在するのでない人はひとりもいません。  (い) ただし一般市民の場合には 男系によるそれではないようです。女系も含まれましょうし あるいは養子縁組による・つまり血筋は絶えている場合もあります。(後者の場合でも 血筋をたがえて やはり万世一系であることに変わりはありません)。  (う) つまりあるいは 男系による万世一系というのは しかしながら 側室によってその血筋がつづいているという実態があります。これは 現代では 好ましからぬ事態です。  (え) (婚姻は 互いにその連れ合いと言わば人格が一体になるほどのきづなですから どちらか一方のひとりだけの意志によっては ものごとを決めてはならないと考えられます。そういう人格関係があるなら 側室という人間関係は 人間の意志行為として成り立たない。と考えられます)。  (お) 《大政奉還》というのは アマテラス公民が 主権の存するスサノヲ市民らに対しておこなう行事でしょう。  5. というように 異化作用をおこなって ナラワシからの自由を得る。という例です。  果てさて あなたのお考えは?

  • 三位一体論の十分な聖書的根拠

    私はプロテスタント系求道者です。 三位一体論について観念的な理解はしています。 聖書的にもその萌芽が見られますが… 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、 あなたがた一同と共にあるように。」(IIコリント13:13)、 「キリストは、神の身分でありながら、 神と等しい者であることに固執しようと思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ、 あらゆる何まさる名をお与えになりました。」 (フィリピ 2:6-9) しかし、「三位一体」という言葉はなく、 ニカイア信条の中で父と子は「同質」(ギリシャ語:ホモウーシオス) であるという、聖書にない言葉が使われた、ことはご存知かと思います。 プロテスタントが標榜している「聖書のみ」の立場からは、とても苦しく、 三位一体を認めない宗派の信者が訪ねてきたとき、この点を突かれ、 私は答えに窮しました。 その宗教団体の教義では、「イエスは神ではなく『神の子』である」と。 私が次のように自説を展開しました。 「それでは、イエス・キリストは、神でもなく人間でもなく、 御使いのような中途半端な存在になる。 そのどんな業も、全て父に帰せられて、 イエスは父の補完的存在に成り下がってしまう。 キリスト教を標榜する限り、 イエス・キリストを神と同等に信仰しなければ、 旧約すなわちユダヤ教へ回帰してしまう。」 しかし、「聖書にそう書いていないですから。 私たちはそう(イエスは『神の子』であると)信じていますから。」 と開き直られました。 そんな宗教団体は、明らかにおかしい論理も展開しているので、 無視するのが賢明だと思いますが、何か釈然としません。 説明が長くなりましたが、 聖書を根拠にして三位一体論を展開できませんか? 私は、口語訳、新共同訳、Greek New Testament、BHS、LXXを持っていて、 時間が掛かりますがギリシャ語もヘブライ語も読めます。 しかし、神学校を上がったわけでもないので、神学には全く明るくないです。 お勧めの神学書があれば、ご紹介して頂きたいのですが。

  • 私の「イエス観」は正しいでしょうか?

    私は、一人で聖書を読み、時折お会いするエホバの証人の方とお話しています。私はエホバの証人はおかしいのでは、と思っています。以下は、現在の私の私見ですが、皆様はどのように思われますでしょうか? ・真の神様は誰なのか。エホバの証人は「エホバ」、私は「イエス」です。イエスを全力で慕っていく道こそがキリスト教だと思います。エホバの証人のようにイエスは礼拝対象でないというのでは、イエスにすべてを委ねて従って行けません。「イエスよりエホバ」という、感心できない思いが、エホバの証人の心の中に絶対にある筈です。 ・「わたしはある」という神名の下で、イエスと旧約のYHWHは同じ神を表します。 ・エホバという神名は、新約聖書には全く出てきません。消された神の名なのです。イエスが教える父の御名とは、単語(YHWHの呼び方)の話ではないと思えます。 ・イエス一神教これがキリスト教の姿だと思います。彼の教えの中に、天の父を礼拝する道が示されている。そんな風に私は思っています。

  • 神とイエスと聖霊

    私はクリスチャンです。 神とイエスの関係が理解 できていません。 イエスが神なのか、神の一人がイエスなのか?? 聖霊と神は同じなのか?? イエスが神なら旧約聖書では誰が神だったの でしょうか? クリスチャンの一員であるかぎりそこのところ は自分のなかで知識として知っておきたいです。 信じるのは神ですのでどの宗教でも否定はしません。 あとは信じ方の問題であると思っています。

  • キリスト教改革は可能か?ここが変だよキリスト教?

    キリスト教は宗派は沢山有りますが信者も非常に多く、20億人を越えるそうです。 そして英語圏やヨーロッパ等に多いため、世界への影響力も大きいです。 しかしそのキリスト教の神は一つの筈なのに、もう信者は分派してバラバラです この宗教が一つに纏まれば相当大きな世界的改革が可能と思われます。 昔日本でも流行った世界基督教神霊統一協会(統一教会)もそれを実現しようと 文鮮明の元信者を増やしました。しかしその教えが妥当なものではなかった為 お金は集めましたが 日韓トンネルも実現しないまま 合同結婚式で色んな弊害を出し 霊感商法と呼ばれ、反社会的と言われついに教祖の文鮮明氏も達成を見ないまま 92歳で死去しています。他にもエホバの証人やモルモン教等のキリスト教新興宗教が 出ましたが飽くまで聖書的で 聖書自体から何を学び、何をどう解釈するかが定まらず イエスの復活 イエスの死 イエスの贖罪 三位一体説 進化論 言葉 永遠の命 神への愛 隣人愛 敵への愛  神の死 原罪 終わりの日 楽園追放 姦淫など 解釈が一定でなく 現実とも異なるためもはや現代にそぐわない所が出来て来て 日本の仏教と同じで 聖書もろくに読まない信者も多いと聞きます。 このキリスト教を改革しないとこの世界の精神状況は現実と乖離するばかりです。 キリスト教をどう活かし、どう改革すれば世界は変わるでしょうか? 日頃神について疑問に思うことなどお聞かせ下さると幸いです。

  • キリスト教で言う『神は愛なり』について

    キリスト教では『神は愛なり』と言っていますが、何故そう言えるのか、実感が湧きません。 神が愛であるということが実感できるような具体的な事柄を教えて戴きたいと思います。 人間の罪を購うために、父なる神がその子イエスをこの世に遣わし、イエスが十字架上の死をとげることによって、人間の罪を許したのが、神の愛の証拠だと言われても、信じる人には有難い話かも知れませんが、普通の人間にとっては、全く馬鹿馬鹿しい荒唐無稽の話としか思えません。 もし、神が全能であって、人間の罪を許そうと思うなら、なにもイエスを地上に派遣してイエスを死なせるなどとややこしい小細工をしなくても、いくらでも許せるのではないでしょうか? しかも、この話を信じた者は救われるが、信じない者は救われない、と言うのでは、なおさら、神はえこひいきの神としか思えません。 クリスチャンの方々から見れば、とんでもない、不遜な質問ですが、真面目に悩んでますので、信者さんの信仰告白的な話ではなく、信者でなくても、普通の人間でも神の愛を感じざるを得ないような、具体的な「事実・事柄」を教えて欲しいと思います。 勿論、人によって感じ方の差はあると思いますが、具体的な「事実・事柄」を教えて戴ければ、それを神の愛の表れだと感じられるような人間になれれば幸せだと思っています。

  • イエスの生前にはかれがキリストであるとは誰も・・・

     イエスの生前にはかれがキリストであるとは誰も分からなかった。  この見方について問います。そうなのか? です。  1. イエスの生前には かれが自分は神の子でありみづからも神であると語っていたにもかかわらず 弟子たちを初めとして誰も そのことに気づかなかった。言葉では聞いていたとしても 理解できなかった。  2. 弟子たちは やっと・つまりイエスが十字架上に去ったそのあと そのイエスの語った言葉は腑に落ちたのだ。そこで すべてを知りました。  3. つまりそれまでは ただ立派な人間が迫害に遭って一命を落としてしまったくらいに思っていただけです。(いわんや 反対派においてをや)。  4. イエスの言行録がほどなく集められて行った。またすでに並行して パウロの書簡が書かれるようになっている。  5. すなわち そのようにイエスという人間が キリストと呼ばれる神であったということを伝えるために 言行録が編まれて行った。むろん すべてが聖書記者の信じ思うところにしたがって書かれたものだ。  6. ただしつまりは 神のことばは 人間の言葉では表わし得ない。そもそも 神語を人間語にそのまま写すのは無理。翻訳や解釈が とうぜん伴なわれている。  7. しかもそんなことは――つまりどういう編集方針であって その結果実際の語録がどこまで忠実に反映されているかなどなどのことは―― ほとんど問題にならない。全体として――パウロの書簡をも含めて 聖書全体として―― イエスが どうしてキリストであるかを捉えるために読めばよい。  8. 《法律(律法)》がモーセによってもたらされたのに対して キリスト・イエスは 《まこと と めぐみ》をもたらしたと言われます(ヨハネ福音のはじめ)。  9. 人間にとっては 人間語であらわされたイエスの言葉に 大うそがある。人間のことを神だといった。しかもそのような大嘘をとおしてでも 神とは 全体としてひとつであること また名が違っても――アッラーフ(’aLLaaH )と言い エローヒーム( 'eLoHim )と言い 名が同じ(イラーフ=エローハ ’LH )であっても ヤハヱーと言い違っていても――神はおなじひとつであるというマコトを告げた。  10. また 《わたしは 道であり まことであり いのちである》と言って その生命のチカラが 泉の水のごとく内から湧き出るように元気づけた。めぐみである。  11. さらには 《めぐみの上にめぐみ》をも与えた。よみがえり・復活。たぶん 現代人にとっては 平均寿命が 二百歳にでもなれば もう《永遠のいのち》であるはずだ。  12. というように オシエが――ローマ教会等々によって――どのように説かれようが それらにはお構いなく 神が示され 尽きせぬ元気があたえられ続けるなら それでよいわけである。  13. なおこの《生前には誰もキリストのことが分からなかった》については 次の聖句を参照するよう言われることがあります。  ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~    21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 去って行ったあとの《背面は見える》というわけのようである。去って行くまでは みな誰もに覆いがかけられていたのだと。  くわしいかたちで・あるいはヒラメキのようなかたちで 何かありましたらご教授ください。

  • イエスが なぜキリストか。

     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ◆(α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  ◆(β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと 関係ないというところの《非思考の庭》がわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか?  ご教授ください。

  • 人様に「お願いします」と言うのはもしかすると日本人だけ?

    人様に「お願いします」と言うのはもしかすると日本人だけ? 外国の事情が判らないので憶測での質問です。 「願い」と「望み」の分別が日本語の用法では明白では無いのではないかと考えて質問いたしました。 神の所在が明白な欧米ではもしかすると「願い」とは神に傾ける祈りのみを指すのではないかと考えました。 仏(人間)を信仰する土壌のある日本では願いすらも人間に傾ける事が容認されていて、それは本来勘違いではないかとの、自己の考え(哲学の土台)に基づき質問しております。 さらには欧米でもイエスさんを神様扱いしているゆえ、人に託す望みを願いのごとく扱っている事例もあるのではないかとも考えます。 そうであれば、イエスさんが人類の裏切り者として処刑された故事を誤解して信仰心を全うしていない贋キリスト教徒の技でしょう。 神を知らしめたイエスさんは死を望みそして処刑されました。 聖書にはイエスさんがそのような予言を行ったと、ちゃんと書き記されています。 聖人であれば死を予見したなら、死を望むのは当たり前です。 これを「望み」の代表として、「願い」との分別の付け方についてご意見をお願いします。 奴隷のごとく生きる自由意思の無い閉塞した意見には、喜んで虐待をもって答えます。 ようするになっていない意見にはしかるべき指摘をします。 そんな怖いもの知らずのアラシ回答も歓迎です。

  • イエスが なぜキリストか。

     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?  問い求めます。ご教授ください。