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贖罪において 悪魔は しりぞけられたか

 1. 人びとの罪をあがなうという主題が 聖書関係に出て来ます。  2. これは 特殊な絶対性のもんだいかと思われます。それでも説明をつけようとする場合が 考えられます。では それは果たして 一般性を持つか? この問いを問います。          *  3. 例によって 悪魔を登場させての説明です。  4. 悪魔は すでに死んでいるのですが その死の制作者として 神に許されてハタラキを持ちます。  5. つまり 人間の罪をあがなうというのは この悪魔を征服するというかたちの話になります。  6. なぜなら 悪魔は 人びとに罪がある――罪を犯した経験がある――そのことを咎めて 最終的に人を死に追いやるというハタラキですから 誰かが すべての罪を引き受けたなら・そして清算できるように引き受けたなら あがなうことになります。  7. 例によって悪魔は イエスをも死にみちびきます。そのために罪へと誘います。  8. けれども ほかの人間はいざ知らずイエスとなると 悪魔にとって ちょっと趣きが違っていた。  9. イエスは 悪魔の気持ちや思い 怒りやその論理をすべて アース役よろしく その心身に受け留めてしまっていた。  10. では 死。この存在の消滅という死――つまり じつは 悪魔にとって おのれ自身のことである――をも 引き受けることが出来るか? と問いかけた。  11. つまりは 高等法院のお偉方らを促して モーセの戒律にしたがって イエスを死刑に処することになるように ことを運ばせた。  12. つまりは イエスとて おのれ自身の現実の死に追いやられたなら おれ(つまり悪魔)の心をやさしく包むことなど 出来っこあるまい。という魂胆である。  13. 果たして 磔の十字架に上がって イエスは どうしたか?  14. 降りて行かなかった。その死刑をあまんじて受けた。  15. つまりは 死そのものである存在(?)の悪魔にも 自由に対等に接していたイエスは 死そのものにも成るというわざに出てしまった。  16. へへんと思った悪魔だが そのイエスの心を自分の心に受け留めた途端 すでに身も心も溶けてしまった。  ☆ 質問者の捏造が入っていますが 果たして 一般性がありますか?

みんなの回答

回答No.14

No.13です。お礼のコメントをありがとうございました。  > かんたんです。パウロ書簡ではありませんが 『ヘブル書』(8章)が   > …(中略)…  > つまり 《贖罪》が――イエスをとおして――成った。と言っているはずです。  教義学者や一般的な教職者でしたら、ご質問者さまと同じように答えるでしょうね。確かに、ヘブライ人への手紙7章27節などは、イエスの死を「諸々の罪」をあがなうための「贖罪」としてとらえている典型的な個所です。  イエスの死に対する理解は福音書間ですら相違があります。ご存知かとは思いますが、例えば「イエスの死の日付」の問題がそれです。ヨハネ福音書ではイエスが殺害されたのは「ニサンの日の14日の午後」、すなわち、過ぎ越し祭の「生贄の仔羊」が屠られる日時です(ヨハネ19章14節)。つまり、福音書記者ヨハネはイエスの死を「犠牲」として捉えていることが分かります。  一方、マルコ、マタイ、ルカの共観福音書では、イエスが殺害されたのは「ニサンの日の15日」であり、過ぎ越しの仔羊が屠られる日時とは異なっています。また、細かくそれぞれの「最後の晩餐」の記述を見ると、マルコーマタイ系の伝承(「パン裂き」も「杯」も同じ安息日の食事の中で行われた)と、パウロールカ系の伝承(「パン裂き」は金曜日、「杯」は安息日の土曜日のできごと)に分かれています。これらの記述の中で、イエスの流した血が明確に「罪の赦し」と結合しているのはマタイ26章28節のみです。この中で最古と推定される記述はパウロの1コリント11章25節以下ですが、ここではイエスの殺害は罪の赦しとは結び付けられていません。  新約聖書、特にパウロ書簡における「罪」ですが、複数形の「罪」と単数形の「罪」があることも、よく知られています。日本語の聖書ではこの区別は明確ではありませんが、ギリシア語の原典を参照しなくても、英語などの聖書を読めば、その区別は明らかです。パウロ自身が問題としたのは「単数形の罪」だと言われています。律法違反のように数えることができる「諸々の罪」ではなく、根本的な「罪」です。聖書学者は「単数形の罪」という事実そのものは指摘していますが、残念ながらその内実については指摘していません。おそらく、この「根本的な罪」が、ご質問者さまが問題としておられる事柄に関連するのではないかと拝察いたします。  申し上げましたことは、聖書学の立場からの意見であり、これが絶対的な真理であると主張するつもりは毛頭ございません。聖書は全体で矛盾なく唯一の事柄を言い表している、というのも一つの立場でしょうし、個別の文書の「神学」を一つ一つ共通点も緊張関係も含めて理解するというのも一つの立場です。単にわたし自身は後者の立場である、というだけのことであり、他の立場を排除はしません。  少なくとも、聖書文書の個別の神学を検討する限りにおいては、文書間にイエスの死の理解についても緊張関係があるので、ご質問者さまの問いは「一般性がある」とは言えない、という点だけ、ご理解いただければと思う次第です。  ご参考になりましたら幸いです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 聖書は全体で矛盾なく唯一の事柄を言い表している、というのも一つの立場でしょうし、個別の文書の「神学」を一つ一つ共通点も緊張関係も含めて理解するというのも一つの立場です。  ☆ お立ち場が分かりましたし その事情も納得します。  ということは そのあと どうなりましょうか?  つまり 《聖書記事のあいだの共通点やまた相違点どうしの緊張関係やを理解した》あと どうお考えになりましょうか。  つまり そのような最終的な受け留め方としても 個別の記事内容どうしの相違点を重視する立ち場をつらぬかざるを得ないとのお考えでしょうか?  つまり 聖書学者であることを超えて ひとりの人間としての――今度は 哲学としての〔と言えるとしたら その〕――姿勢をお取りになることはない・・・でしょうか。    この質問じたいは 言わばすでに もし《贖罪》説を採ったならば そのときの説明は どうなるか? ――この前提で問うているものではあります。  つまり 趣旨説明の内容は 贖罪についてのよい説明には成っていないと見るか。そして その場合は 聖書神学としての見解の相違を見るまでもなく 取り上げるにあたいしない。と成りますし もし何がしかの説明になっているなら その理解を踏まえて いやいや それでも《贖罪》は イエスのわざに関して 重きを置かれることはないんだといった議論になるかだと思います。  素人丸出しでお尋ねしてももしよろしかったならば けっきょく《十字架の神学》とは何か? 贖罪説と何ら内容も変わりないのではないか? と思えて仕方ないのですが どうですか?  というよりも イエスはすでに ヤハヱーを民族の外にひらき 普遍神の次元に揚げて棄てた(エレミヤ書31:31以下 および ヘブル書8章)のではないですか?  イエスが出たから 原罪説も現われたのだと理解しますが それも 理論建てが出来たなら すべてもうその時点で 要らなくなる。  つまり イエスのあとは 原罪にしても一般の罪にしても 罪論は要らないのですし しかも神を知れとか それは間違った神学だぞとかわたしたちが議論することは やはり不要になった。・・・とわたしは理解しています。  神は――イエスの指し示した神は―― 普遍神ひとつでしょう。その信仰としては 一人ひとりの《心の明け》 これだけだと捉えています。  学問は 受け継がれますが 宗教は 文字通り要らなくなり 世界のどの神も・どんな名の神も・そして《無い神》にしても すべて普遍神のもとに主観共同されますから あとは 経験世界における哲学等もろもろの科学が活躍すればよい。・・・このように思っております。

回答No.13

 ご質問者さまの問いは「贖罪において 悪魔は しりぞけられた」という命題が「一般性を持つか?」と理解してよろしいのでしょうか?キリスト教の神学研究者にも色々な立場がありまして、教義学者や一部の聖書学者は「一般性を持つ」と答えるでしょう。わたしは新約聖書学の立場(一応、新約学の修士)ですが、「一般性を持たない」と考えています。  ドイツの神学者A. v. ハルナックは20世紀初頭に「キリスト教こそ宗教そのものであるとして、他の諸宗教の研究は神学にとって必要なし」として、大学の神学部が諸宗教を研究することに反対しました。その後、宗教史学派のE. トレルチが『キリスト教の絶対性と宗教史』で、これまでキリスト教の絶対妥当性の根拠とされてきた論拠が、歴史的宗教としてのキリスト教には適用できないことを論証しました。それに対して、「いや、キリスト教は絶対だ」と主張したのがK. バルトです。概ね、現在のキリスト教の主流派はバルトの主張に組していると言えるでしょう。これが『聖書』を統一的な思想として読む教義学者、組織神学者の立場です。  一方、聖書学では聖書の各文書の個別の神学を重視します。現代の聖書学者の多数は、罪の贖い、つまり、「贖罪信仰」は、キリスト教信仰の一要素でしかないと考えています。事実、新約文書の7つを占める文書の著者であるパウロは、イエスの死を「贖罪信仰」という側面から理解していません。日本の新約聖書学者の中では青野太潮がこのことを詳しく論じており、また大貫隆も『イエスという経験』の中で、このことを取りあげています。パウロはイエスの十字架の死を徹頭徹尾、贖罪論と切り離して、十字架によって呪われた死を神が肯定した出来事として描いています(「十字架の神学」)。  「イエスの死が贖罪だったのか?」という、ご質問者さまの問いは2000年前から既に存在していましたが、『新約聖書』そのものの中でも統一的な見解が存在していません。あくまで新約聖書学の立場からという保留が付きますが、ご質問者さまの立てた問いに「一般性はない」と結論付けられると思われます。  『贖罪信仰』における「罪」は可算名詞であり、ここにおける「罪」はひとつふたつと数えることができる「律法違反」と言えるかもしれません。ある意味で「贖罪信仰」はユダヤ教への逆戻りです。「逆戻り」が良いか悪いかの価値判断は別として、『新約聖書』そのものの中に、すでに「贖罪論」と「十字架の神学」の対立が存在しているのです。  まあ、「贖罪信仰」と「十字架の神学」のどちらが正しいのか、科学の命題のように客観的に証明しうる問題ではありませんので、最終的にはどちらを信じるか個人の自由にゆだねられています。「内的絶対性」の問題ですね。  ご参考になりましたら幸いです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ・・・教義学者や一部の聖書学者は「一般性を持つ」と答えるでしょう。わたしは新約聖書学の立場(一応、新約学の修士)ですが、「一般性を持たない」と考えています。  ☆ なるほど。見解は 分かれるのですね。  ★ ドイツの神学者A. v. ハルナック / 宗教史学派のE. トレルチ  / K. バルト。概ね、現在のキリスト教の主流派はバルトの主張に組していると言えるでしょう。これが『聖書』を統一的な思想として読む教義学者、組織神学者の立場です。  ☆ 『ローマ書講解』しか読んでいません。それは 基本的に言って 経験合理性を超えて信仰内容としての整合性を問い求めるという姿勢がつらぬかれていると受け取りました。  わるくはないと思った一方で これでは哲学としての理論〔による解明〕にはならないとも思いました。  ★ 現代の聖書学者の多数は、罪の贖い、つまり、「贖罪信仰」は、キリスト教信仰の一要素でしかないと考えています。  ☆ ん? これは おどろきました。つまり 原罪説は 初めからなかった(原罪という概念は もともとはなかった)という見方に わたしは 違和感を感じない立ち場にいますが とは言え それを持ちだすときには きちんと処理しなければならないとも思っています。  ですから 《贖罪》説が それほど軽く扱われるようになったとは 知りませんでしたし おどろきです。  ★ 事実、新約文書の7つを占める文書の著者であるパウロは、イエスの死を「贖罪信仰」という側面から理解していません。日本の新約聖書学者の中では青野太潮がこのことを詳しく論じており、また大貫隆も『イエスという経験』の中で、このことを取りあげています。パウロはイエスの十字架の死を徹頭徹尾、贖罪論と切り離して、十字架によって呪われた死を神が肯定した出来事として描いています(「十字架の神学」)。  ☆ 大貫隆の著書は だいたい読んでいます。賛同とも反発ともどちらともはっきりしない受け留め方というのが いまの見方ですが それよりも パウロです。  ずばり ここでは 専門の方に反論します。  かんたんです。パウロ書簡ではありませんが 『ヘブル書』(8章)が 例の『エレミヤ書』(31:31以下)に書かれた《あたらしい契約》を取り上げているその内容を 反証に挙げます。  つまり そこでは 《もう人びとは 主を知れと言っておしえることはなくなる》という命題とともに 明らかに《もう人びとの罪は おぼえない。わすれる〔と主が言った〕》ことが 推し出されています。  つまり 《贖罪》が――イエスをとおして――成った。と言っているはずです。イエスが《まこと と めぐみ》を実現させたことは ひととおりの基礎として 《罪が消えた》問題をともなっていると考えるからです。  ★ 「イエスの死が贖罪だったのか?」という、ご質問者さまの問いは2000年前から既に存在していましたが、『新約聖書』そのものの中でも統一的な見解が存在していません。あくまで新約聖書学の立場からという保留が付きますが、ご質問者さまの立てた問いに「一般性はない」と結論付けられると思われます。  ☆ いえ。まだよく飲み込めません。さきほど《十字架の神学》のことを保留していましたが その点と関係するようには思いますが。次にご説明があるようです。    ★ 『贖罪信仰』における「罪」は可算名詞であり、ここにおける「罪」はひとつふたつと数えることができる「律法違反」と言えるかもしれません。ある意味で「贖罪信仰」はユダヤ教への逆戻りです。「逆戻り」が良いか悪いかの価値判断は別として、『新約聖書』そのものの中に、すでに「贖罪論」と「十字架の神学」の対立が存在しているのです。  ☆ そうですね。たとえば:  ▲ (アウグスティヌス:神は人の罪をほろぼしている) ~~~  かの全能者は   最初の人(アダムとエワ)からであれ   その後に加えられたわたしたちの意志からであれ  わたしたちに起こっている悪を  その満ちあふれる恩恵によって  滅ぼしている。     (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで 《悪》は 神に対してなら《罪》です。原罪を創設したといって批判されることのあるアウグスティヌスですが ふつうに小さなものをふくめて人間の罪について けっきょく《イエスによって――そしてそれは 十字架じょうの死をとおしてと言ってよいかと思いますが―― あがなわれた》ことが 基本となっている。ように思われます。  つまり 十字架の神学と贖罪説とは 別に対立しているとは――と言っても わたしが 十字架の神学をきちんと把握していないかとおそれますが 両説が対立しているとは――思えないでいます。

回答No.12

のたうちまわるのを知らぬまま。 足元の虫けらが、まっすぐ前を見る私の足元にはいつばっていても、きつきもしないで踏むつぶす。 それでこそ仏陀だ。 釈迦を守ったインドの風土で、時渡とかの私の資質はともかく、釈迦と比べると私は闇の仏陀だよ。 人間が悪そのものに化身した象徴ともいえようか。 私が悪への愛を語ると、君たちが理解するのは絶対悪だ。 まだ失敗の途上で、私はあきらめていない。 このかわいいアニキなツンデレ。

bragelonne
質問者

お礼

 何を:  ★ あきらめていない  ☆ のか。  仕返しか。それとも 理論立てた認識による哲学的解決か。  ★  ブッダ  ☆ は――《目が覚めた》と言っているのだから―― 誰についても理論上は 当てはまる。これを持ち出すのは もうふるい。

回答No.11

私の熱情にうなされた物言いに批判したね。 まあ、こんなのが任天堂と同じ落とし前の付け方だ。 君のガミガミはしらけるんだよ。 うるさいだけで内容が無い。 > 情報工作が行われた。 少年の家庭事情に問題があったらしいと報道は修正されていき、任天堂とは無関係に誘導されていったよ。 これは要するに罪人を人が作ることだろ。 それに何も言わない、夢見る神学者が神を語っても、神様もおなかいっぱいに満ちたれないんだよ。 で。俺様が戦場に落下傘降下することをかわいらしくおねだりするんだ。 まあ、景気づけに死人が花を添えるのがちょうどいい。 人を語るとおおむね君はガミガミだ。 私もそれは理解できていて、趣味性はオカマ相手の痴話げんかを選択したが、やはり同様だよ。 なんなんだろーなー。自称人間と教育された生徒さんたちは。

bragelonne
質問者

お礼

 もうこれ以上は 説得力をつける気がない。――と言っていますか?

回答No.10

> 人は死ぬことに、神に悪心を抱いた。 人は神を罪人のごとく揶揄する。 このお互いの険悪な関係で、殺し合いだ。 君がこの見地に驚くことを期待するよ。 初耳だといえるかどうかだ。 これは、まるっきり当たり前の普通の人間の考え方だよ。 注釈すると、自己に信仰心が無い故に、他者の信仰心に便乗する、ごく普通の人間同士の世間付き合いの延長で起こることだ。 でも、他者の純粋な信仰心すら、悪魔の仕業としたらどうなるかな。 この最後の言葉については、君の方が雄弁だろう。 そうさな、殺し合いルールでは、他者を殺すとき、同時に他者の神を殺すことがいかなることかということだね。 私が任天堂にやっているのはね、神を生かし人を殺すだ。 看板がどぶ板任天なんでね、その社風の忠実な理想を教育しているんだ。 彼ら自体が実質的に、無自覚のままアマテラスを悪魔扱いしている。 そのアマテラスを復活させる私に働きで彼らは死ぬだろう。 神と関わらない、人と人どちらの悪が正義か問いただす、最速の臆病者バトルだ。 死の企業体で、資本関係が多方に波及している。 仲良く殺し合いだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 〔神と人との〕お互いの険悪な関係  ☆ というのは 神にとっては あり得ません。人間が何を言ってもやっても 屁の河童です。  ★ これは、まるっきり当たり前の普通の人間の考え方だよ。  ☆ 人間のわがまま・自分勝手さは 分かり切ったことです。  ★ 自己に信仰心が無い  ☆ 神については 有る神も無い神も 同じひとつの普遍神です。信仰がないというのは 無いと自己表現する信仰です。無い神を信じている(無条件に無根拠においてわが心に受け容れている)という状態であるはずです。  ★ 無自覚のままアマテラスを悪魔扱いしている。  ☆ このように用いたアマテラスは 一般性がありません。伝わらないでしょう。    ★ そのアマテラスを復活させる私に働きで彼らは死ぬだろう。  ☆ そうでなくとも 人はうつろいゆき やがて朽ちます。  なおまだ あなたの物言いには ただ内に沸き起こる意識を排泄しているだけのように映る部分があります。

回答No.9

君島への死の宣告には、彼自身の裁量による選択肢を与えている。 ユーチューブでV字開脚の上放尿。(パンツ着用不可)(国別にモザイクで合法化工作あり) モザイク工作でこそ合法! 実に似合っている。 そのVの刻印で社会的な死を迎え、儀式とするか? それとも生命の死を儀式とするか? こういう、金と命で商売はどちらを優先して仕事するかで、ねこひまわり(詳細は今後)商売をしているよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  一般性をもとめます。  元は 一般性にもとづいているのでしょうが 現われた対策は 趣味の域をほとんど出ていないように見受けられます。

回答No.8

死の娯楽企業の中で、先代のイワタ怨霊は、生贄じみて哀れを誘い手厚い供養の対象のようだね。 現役のキミジマをいかように予見し、予言として授けようかな。 私は気が短いんでね、死についての人体実験は早ければ早いほど効率がいい。 私は死の当事者ではないし、単に知らせるだけだ。 贖罪も何も、殺しても無罪だよ。 そうして稼ぐ成長するウインチェスターハウスだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  理論立てた一般性のあるご議論にお付き合いするかも分かりません。  (それですでに 一般性のある内容であるのかも知れませんが なおまだよくわたしには――ざんねんながら――飲み込めません。あしからず)。

回答No.7

贖罪において 悪魔は しりぞけられたか これを転じて、 贖罪によって 悪魔は 浄化されたか。 私には関係が薄いが、天界の住人から個人的に願い事を預かっているよ。 浄化も何も、私は初めから幼馴染を悪魔扱いしていない。 イエスが証明したのは部分的なことだ。 そして証明したと彼自身が納得していても、誰にでも理解できる代物ではないだろう。 私はそれらにとらわれず、「ときわたり」これで永遠を証明することに取り組むよ。 なに、自己が観念化できていると、死というのは自己が変化するだけの、大げさに取り組む命題ではないからね。 この仕事の過程は、ときわたりで商売している企業体に、永遠の安らぎを与えるおもちゃ屋の業務の一環だ。 便乗したスクエアとかも虐殺リストだ。 ときわたり発案の私には、どの企業も資本関係が無いからね。 金の商売ではなくて、命の商売だよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ イエスが証明したのは部分的なことだ。  ☆ 物語りにかんする限り 《証明》ではありません。その・雲をつかむような物語の中で イエスは 悪魔とたたかった。負けて 勝った。――というお話です。  ★ 部分的  ☆ ではなく じんるい全体だということになっています。  ★ 誰にでも理解できる代物ではないだろう。  ☆ そんなことは やる(たたかう)前から 分かり切ったことです。  ★ なに、自己が観念化できていると、死というのは自己が変化するだけの、大げさに取り組む命題ではないからね。  ☆ 死がこわくないという自己表現は 例外なくただの作文であると 誰でも知っています。  聖なる甘えから抜け出て きよらかなおそれに到っても ものごころが着いた(善と悪とを知った)なら 死の棘なる悪とその棘が患部を朽ちさせて行くその先である死を だれでも知っているし おそれている。  ★ 涅槃:ニルヴァーナ  ☆ というのは ろうそくの炎が消えて行くかのように じつは実際に呼吸が停止する状態にまでなるというそんなヨーガなどの修行をすることを言います。  つまり 死の問題です。つまり 生の問題です。  この問題について ユダヤ民族の伝統にしたがって――つまりその神ヤハヱ―への信仰にしたがって――イエスは 解き明かしたということです。  そのとき神は ただユダヤの民族神としてのふるい姿を脱ぎ捨てて 外に開かれ 普遍神と成りました。  どんな名で神を呼ぼうが・あるいは 神などは無いと言い張ろうが 普遍神が普遍神であると表現されたわけです。  ★ この仕事の過程は、ときわたりで商売している企業体に、永遠の安らぎを与えるおもちゃ屋の業務の一環だ。  ☆ これは 理論のあとの――しかも 個人としての――実践に属することだと見ます。

回答No.6

任天堂にかかわって、無差別殺人という言い回しもしたよね。 まあ、まさに人間悪を証明する滅びの金字塔、記憶の墓標、滅びの宴、私はおもちゃ屋なので、業務とかかわって、学んだんだ、教えを受けないで身をもってかみしめた。 その私は闇の仏陀黒き明星だが、人間悪そのものと 悪対悪の最速の臆病者バトルもこなしている。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  何がしたいのか。まだ これが 必ずしもあきらかなかたちで 語っていないように思われます。

回答No.5

> 死に対する不満は、神が人に嫌悪する根拠。 死に対する不満は、人が神に嫌悪する根拠。 これをケラケラと私が笑っているのは、古典的表現で涅槃への到達が出来ているからだ。 幼いころ神様を友達にして遊んだ記憶がある人はそう珍しくない。 その私の幼馴染は、他人は悪魔と呼ぶ性質の神だった。 任天堂はアマテラスを奉っていないよ。 私の一番の幼馴染はアマテラスだからだ。 じゃあやつらがどんな任天をしているか、日本人は勘違いしているよ。 私は見通せるから、今後も面白いよもやま話を語ろう。 シビトを生産活動にして大儲けする会社だ。 世の中ではゲーム産業のトップとされている。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  事実認識が出来たら あとは その内容をあらためて 理論づけが出来るようなほどに一般性において表現しておく。  そのあと そこではすでに 理論じょう間違いが明らかになっているであろうから どうすればよかったか。これを 考えておく。  その上で:  ★ ケラケラと 笑っている  ☆ のがよいと思います。

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     キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラでは戦わなかったのだと考えられます。  だから 十字架上に去って行ったあと 人びとの心に復活した。それは 悪魔が征服されたから。(と言ってみる。トンデモ物語の始まりです)。  話の都合じょう悪魔という言葉を出すのですが 悪魔は その十字架じょうの死の淵までは よう ついて来なかった。  それまでは イエスと同じ足取りで同じ軌跡をたどっていた。  イエスが何をするか その行動を追跡していた。  ハリツケの寸前にまで影のごとく寄り添って来ていた。  ところが 死の淵にまでは そのみづからの能力によってついて行くことが出来なかった。  それでこそ悪魔であった。  すでに死んでおり あらゆるものを否定し死にみちびく親分である悪魔も 自分がふたたび死ぬことは 出来ない相談であった。  もしそうすれば 即座に一たんよみがえって ふつうのまともな存在となる。と思ったとたん 中から炉心溶融を起こして溶けて行ってしまうとちゃんと知っていた。  ゆえに イエスの死の淵にまではもう よう来なかった。  去って行ったイエスに度肝を抜かれた。  よって それまでに罪を犯した者どもを自分の胃袋の中に抱え込んでいたのが すべて吐き出さざるを得なくなった。  文字通り アクマは 腑抜けになったのである。  添削をどうぞ。思いっきりのご批判をも。賛成票をもどうぞ。  なんでアラシすらもつかないのか分かりません〔ので 再度です〕。

  • アクマとは《第二の死》へといざなうはたらきである。

     ( a ) 《第二の死》とは 《第一の死が死ななくなった状態》を言うとします。  ( b ) 第一の死を死なせて復活するのをみづからこばみ 第二の死の状態にみづからすすんで突っ込むうごき これを《アッキ(悪鬼)》と呼びます。  ( c ) アクマ(悪魔)とは アッキたちを従えて 人びとを第二の死の状態へ是が非でもいざなうその作用を言います。  ☆ この質問は  【Q:《第二の死》とは?】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6530755.html  を承けています。また次の質問ともつながります。  【Q:麦と毒麦 またはメフィスト―フェレス】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6499521.html  趣旨説明を再び掲げて 表題つまり上の( c )の命題について問い求めるという魂胆です。  ○ 〔( a ・ b ・ c )についての説明〕 ~~~~  死は われあやまつならそのあやまちに気づきわれに還り われ有りとして 死ぬものである。   わが心に背きわれを離れあやまてるわれは われ無しとして 死である。  これがわれに還れば われ有りとして 死が死ぬ。  このあやまちとしての死は 人間の経験的・相対的にして限りある存在にとって なおまだ相対的にして変わり得る。その死が われに還るとき 死なしめられる。  つまり この《第一の死》は 死ぬことが出来る。  《第二の死》とは この第一の死が死ななくなることである。  あやまちをなぜ《第一の死》と言うか?   それは わが心にさからうあやまちの一瞬に わが存在としての時空間が経験存在であるそのままに実際に区切られて来るからである。うつろいゆくわが身ながらも物ごころのつく前には広大な宇宙が広がっていたのが あやまちの瞬間にふと《とき》を見出しこの時間によってわが存在の歴史が区切られるということは 死によってその世界が限られることだからである。  あやまちは 心を失くしわれ無しとなる死である。ただし われに還るとき われ有りとして この死は死ぬ。ゆえに 第一の死と言う。  われわれは 人生において 第一の死に時には突っ込むようにして落ち入りそこから這い上がり再生するという死と生の循環のごとき繰り返しを生きる。  ところが この第一の死が死ななくなると言う。如何にか?  かんたんである。われに還ることがなくなるときである。  あやまちに気づいても それを認めなくなるときである。  われ有りの状態に復帰することがなくなるときである。  心にさからうわれ無しの状態が・つまり第一の死が 固まってしまうときである。  そのときには ひとは第一の死から再生しなくなる。    第一の死が死なない。第一の死が 固定する。という第二の死。    基本的に言って それは 心のたかぶりによって起こると思われる。のではないか?  ほんとうにそうか?  それだけで 第二の死が起こるものか?  果たして 第二の死は あるのか?  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さてここでの問いは  ( b ):この第二の死を三度の飯よりも好きだというアッキなる心の負の作用 そして  ( c ):この《第二の死》の舞踏を人びとをしてみづからの演出のもとに踊らしめるアクマという心(?)の負の作用――これらは あるか? あるとすれば いかにあるか?   であり しかも  ( d ) アッキにしろアクマにしろ この《うごき》や《はたらき》を人間がみづからそっくりその身と心に修め得て ドクター・アクマとしてのごとく町を歩いているか? そう言えるか? それは果たして現実か?  です。次は たたき台としての考えです:  ( d-1 ) おそらく アッキは 人間の心ないし意志によってみづからのもの(ウゴキ)とし得ると思われます。破れかぶれに成り得ますから。  ( d-2 ) アクマは どうか?   ( d-3 ) 要するに 第二の死に人々をいざなうということは 何事にもあやまちの道を用意しそこへといざない あやまちに落ち入ったなら その姿を固まらせるというハタラキ これを生身のニンゲンがおこないうるか?  こういう問いです。  先に掲げた質問【Q:麦と毒麦・・・】でのやり取りとも 照らし合わせてくださるとありがたいです。  ( d-4 ) アクマというハタラキは 人間〔の心や意志や努力〕を超えた力から来るのか? それともやはり――モノや環境のみによるのでないなら―― ニンゲンが好き好んでそう成り そういうドクターであり演出家に成って《活躍する》ということなのか?  みなさんの思惟の自由なつばさを広げてご見解を述べてください。

  • 原罪がいまだに その贖罪とともにだが 言われるのは

     ・・・どうしてか?  原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう? ――これが 問いです。  キリストによるそれの贖いもともに言われるのですが それでも なおまだ原罪がなくなったとは必ずしも聞けない場合があります。なぜでしょう?  それは もし文献の問題とすれば エレミヤ書31:31以降に《罪は覚えられることはない》であったり《主を知れと言っておしえることはない》であったりと書かれており しかもそれらは ヘブル書にも取り上げられています。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  原罪は 悪魔とともに 方便であり もともと無い。ということではないのですか?  ということで もう少したたき台をつづります。  1. 原罪は 無い。方便として説明したのみ。悪魔としてのヘビが 方便として表現じょう用いられたのと同じだ。  2. 無明(≒煩悩)が 乗り越えられないものとしてあるのではないのと同じように--なぜなら ブッダター(仏性)ないし神の霊がやどる存在である-- 原罪が 不治の病いであるということはあり得ない。  3. スサノヲ市民たる人間の《自治 また 共同自治》が なかなか思うようにならないこと(=《苦》)の説明に 悪魔なるヘビとこの原罪なる観念が引っ張り出されたのみ。  4. 悪魔は 一般に人びとのあいだで想像されていたもので そのような社会通念を ヘビにかこつけて用いたのみ。分かりやすい。  5. 原罪という観念は 悪魔のしつこさに当てはめたのみ。ただ ひとの自由意志は ヘソを曲げることがある――それすらも 自由――と認識したのみ。  6. 世界の初めに じんるいの始祖たちのマ(間)のチガイを方便として引き合いに出したものだから このあやまちとそれを世代を経つつシガラミとして引きずるさまを 白紙に戻す意味で イエスが十字架にかかって《原罪の贖い》という物語として説明した。のみ。  7. 人間の知恵や努力だけでは すべてを乗り越えることはむつかしいであろうが 人びとはすでにそれぞれ心の内にそのシガラミのシツコサから自由なチカラの湧き出るのをおぼえているのではないだろうか。    8. あとは 外なるシガラミのチカラ つまり社会力学上のクウキのようなチカラ これを屁の河童と見るという課題が残るのみ。それらは 人間の意志を踏みにじるという無効の意志に発した行為であり 初めからなかったことにひとしい。原状復帰させるべきことであるのみ。(盗んだものは 所有者に戻される)。  9. 外なるクウキのチカラに巻き込まれて行くことと 内から出る理性のワル知恵に誘われることとは 別である。  10. 悪魔は方便であり 無明も原罪もともに屁の河童であるなら 靄は晴れて行くはず。――これが 内なる心の問題だ。  すでに問うたことがありますが なお問う必要を感じます。よろしくご教授ください。

  • 《イエスは 特異点か》は どこまで現実か

    《イエスは 特異点か》は どこまで現実か  《イエスは特異点か》は あくまで喩えで言っていますが どうも《特異点である》と喩えてもだいじょうぶであるらしい。  ・参照⇒【Q:イエスは 特異点か】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5111414.html  それでは 《たとえ》としてどこまで現実であるのか?  【 α 】 おそらく主観においてであることは定まっているはずですが どこまで・どのようにして 現実であると人びとは考えるのか?  主題ないし論点としてつぎのようです。  (α‐1) 十字架上のイエスが特異点だと言うのは なぜ磔になったかその無実の罪といったいきさつの問題がある。  (α‐2) 因果律あるいは経験合理性といった認識ないし判断の基準から自由な一点だという意味で 特異点にたとえられる。  (α‐3) 1/ x において x = 0 である場合を言う。  (α‐4)  その x がイエスであり それが 0(零)であるということは イエスが完全なる死を死んだという意味である。  (α‐5) 死が完全ではないというのは 通俗に言う《この世に未練が残って 文学的に言うならば幽霊になってさまよわねばならない》場合のことである。  (α‐6) イエスは 完全に死を死んだ。磔による苦しい死を膝を折ることなどによって早めてやろうとして近寄った兵士らは イエスがすでに息を引き取っていたのを見て驚いたとある。  【 β 】 あるいはひょっとして特に自然科学の立ち場からは その喩えというあり方自体が意味のないものだという結論になるものなのか?     (β‐1) ということは逆に言って ひとの主観にかかわる《心》をめぐって問い求めは進められると言うべきか。つまり 自然科学的事実と人の心とのかかわり方をこそ問うべきなのか。《心》とは何かという主題になるのでしょうか?  ☆ よろしくどうぞ。国民的な情報交換になることを望みます。

  • キリストの磔刑ついて

    イエス・キリストは十字架に磔にされ槍を刺されて死にましたが、なぜ磔刑になったのですか? また、なぜ磔刑という罪で処刑されたにも関わらず、人々から信仰されているのでしょうか? わかりやすく説明してくださると助かります。

  • 闇の中にいる人が光を見ることができるためには・・・

     ( a ) わたしたち人間が 闇に覆われていたのが そこに光の差すのを見ることができたのは イエス・キリストの出現によってである。  と 質問者自身 思っています。  信仰――非思考の庭がわが心に成るということ――の問題ですが・つまり言いかえるとドグマの問題なのですが 哲学として考えるところをこの( a )の命題を説明しつつ述べますので ご見解をおおしえください。  闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。つまりはその意味で 人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが。  それは いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは   ( b ) 神が人間となって 人間として――ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として―ー去っていくことだった。のだと思われます。  ( c ) 人間としてというのは たとえば弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態。つまりイエスは 人から裏切られるような人間存在であったということ。  あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 イエスは死を死んだということ。などを言います。  ( d ) 人間としてでなければ――つまり神として 十字架上から降りて来るなどといった奇蹟を起こしたなら 話は別になってしまうという意味ですが―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  ( e ) しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は――そして神なる聖霊は―― 人間の精神なのではないと知らせる必要があった。  だから 信仰は 非思考。ヒラメキ。  ☆ この物語について 哲学はどう捉え扱うのか これが知りたいところです。どうでしょう?

  • イエス キリストが無実で死刑になった時の責任

    今日、新約聖書を読みました イエスが裁判を受けて、裁判長のピラトに死刑を宣告されて刑士に引き渡されましたが ピラト自身はイエスに対して、この人には何の罪も無いと言っています しかし民衆が死刑にしろと言い、暴動になりそうなので、やむなく死刑と定めたのですが、深く考えれば無実のイエスを死刑にしたのは、一般に言われているようにユダヤの民衆ではなく裁判長のピラトと思うのですが私の考えは変なのでしょうか?アドバイス戴ければ幸いです

  • 感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物

     ( a ) ヒトは 時間的な存在である。  ( b ) 時間的なるものには 限りがある。《限りのないナゾなるもの》に向き合いひとは おそれをいだく。相対的な経験世界のうちに生きる存在であることの自覚である。  ( c ) このきよらかなオソレにもとづき 知恵を持つ。境地としての知恵のほかに 理性なるものをも発達させる。  ( d ) やがて 知恵のもとの自由意志は かしこくもか おろかにもか オソレにも逆らい 理性をおのれの都合よいように用いるようになった。  ( e ) そしてさらにこの理性は 意志にも君臨しようとするまでに到る。それだけの発展性は備えていたらしい。  ( f ) その頃には 《無限というナゾなるもの》は 理性が観念としてあたまの中におさめてしまった。《観念の神》の誕生である。のちにこの神――つまり人びとのあたまの中にあるだけの観念の神――は死んだと宣言されねばならないほどだった。初めから死んでいるのに。  ( g ) さてここで突然 この理性が 性欲をめぐって ヘビなる情欲として《観念の性欲》の世界をこしらえてしまった。のではないか? サドとマゾッホらあらゆる想像力を動員して《きよらかな畏れ》に挑戦してみた。  ( h ) 風呂に井戸を掘るたら何たら言う人間は この《オソレ――この上なくつつましやかなひとなる存在のいだく畏れ――》 これをアーラヤ識かどうかは知らないが 深層の心理の中にだけ閉じ込めてしまった。かくて このヰルスに感染したときには 神は ムイシキであるとなった。       *  ◆ 《へび》の問題  § 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的・社会的な意味  次の文献によって わたしなりの分類をします。   ▲ 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)   http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/serpent.html    ○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~     (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂     (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として治水防風雨をしのぐ            あらぶる者:悪魔::荒魂     (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。     (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。     (ε) ゆえに エロスを象徴。     ~~~~~~~~~~~~~~      § 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。  併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。  この偏見で議論をとおしますので お見知りおきのほどをお願いします。  § 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。  言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。  こういう見方を持ちます。  § 4 この場合のムイシキは      (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)        =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ  のことです。  § 5 ムイシキの逆襲(?)  リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになるそうだ。  その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。  すなわち その意味や次元にまで還元されたと言いますか そう見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。  § 6 ムイシキとは 亡霊なり。  ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。  その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。  § 7 聖書におけるヘビの克服物語  イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。  いちおう理屈をつければ こうです。  悪魔は 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという〔気休めとしてでも〕希望を持ち得るけれども 悪魔なるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。そして その冥界へと人びとをさそう。  イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまでヘビを嫌った。ほかのナゾの何ものかに従順であった。ヘビなる悪魔などは 屁の河童であると。  ますます怒った悪魔は ついに実際に〔それまでに部下に持った人間たちをして〕イエスを死地に追いやり見世物にまでして磔を実行せしめた。  ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間が自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。  § 8 聖書の関係個所を引きます。  ▲(創世記3:14-15) ~~~~  主なる神は、蛇に向かって言われた。   「このようなことをしたお前は   あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で   呪われるものとなった。   お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。   お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に   わたしは敵意を置く。   彼はお前の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この部分すなわち   ▲ ~~~~~~~~~~   彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」   ~~~~~~~~~~~~~  という箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと言われます。  § 9 つづき――モーセにおける蛇との闘いの事例――  ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~  〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。  民はモーセのもとに来て言った。   「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、   わたしたちから蛇を取り除いてください。」  モーセは民のために主に祈った。  主はモーセに言われた。   「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ   を見上げれば、命を得る。」  モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。  ~~~~~~~~~~~~~  § 10 つづき――イエスは 《青銅のヘビ》か――  ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~  そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。  それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。  神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。  独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  § 11 いかなる事態であるか?  もし性欲も大自然への畏れも ヒラメキをも含めて感性だとすれば この感性とそして理性との あらそい なのであろうか?  感性は 間違い得るし あやまちを侵す。ただし そのこと自体にウソ・イツワリがない。  理性は あやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。  ただし このような問い求めをおこない説明をあたえるのは 理性でありそれを用いる志向性としての意志である。