イエスとアクマ

このQ&Aのポイント
  • イエスとアクマの対比として、イエスの戦い方とアクマの結末について考えられる。
  • イエスとアクマの関係において、イエスの力とアクマの限界を明らかにする。
  • イエスの去り行く姿によって、アクマの真の姿が明らかになった。
回答を見る
  • ベストアンサー

イエスとアクマ

 キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラで戦わなかったのだと考えられます。  だから 十字架上に去って行ったあと 人びとの心に復活した。  話の都合じょう悪魔という言葉を出せば 悪魔は その十字架じょうの死の淵までは よう ついて来なかった。  それまでは イエスと同じ足取りで同じ軌跡をたどっていた。  イエスが何をするか その行動を追跡していた。  ハリツケの寸前にまで影のごとく寄り添って来ていた。  ところが 死の淵にまでは そのみづからの能力によってついて行くことが出来なかった。  それでこそ悪魔であった。  すでに死んでおり あらゆるものを否定し死にみちびく親分である悪魔も 自分がふたたび死ぬことは 出来ない相談であった。  もしそうすれば 即座に一たんよみがえって ふつうのまともな存在となる。と思ったとたん 中から炉心溶融を起こして溶けて行ってしまうとちゃんと知っていた。  ゆえに イエスの死の淵にまではもう よう来なかった。  去って行ったイエスに度肝を抜かれた。  よって それまでに罪を犯した者どもを自分の胃袋の中に抱え込んでいたのが すべて吐き出さざるを得なくなった。  文字通り アクマは 腑抜けになったのである。  添削をどうぞ。思いっきりのご批判をも。賛成票をも。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.5

bragelonneさん おひさしぶりです。 修行でIT media に回答する暇がありませんでした。 回答ですが、イエスを荒れ野で40日誘惑しても屈しなかったという聖書の有名な箇所(ルカによる福音書4章)から、すでに、悪魔はイエスに対しては腑抜けです。 ちなみにbragelonneさんはご存知かもしれませんが、40という数字は、出エジプトでイスラエルの民が40年の間、砂漠をさまよったという記述にも見られるように、キリスト教では、「長期間」という意味の比喩の数字です。 しかし、イエスはキリストで神の子だったので、悪魔は腑抜けになったかもしれませんが、悪魔という存在を肯定すると、人間に対しては腑抜けになっていないと思います。 人が生きるということには、さまざまな誘惑にさらされることは避けられないからです。 社会的には金銭欲や出世欲。 生理学的には、週刊文春の売り上げ向上に貢献している芸能人の性欲からの不倫など。 あなた方が自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。(コリント信徒への第1の手紙 7章) エデンの園で悪魔はアダムとエバに善と悪の知識の木の果実を食べさせました。 しかし、bragelonneさんに質問しますが、人間はこの果実を食べたことで善と悪を区別できる知識を身につけることが出来たのでしょうか? そして、善悪の区別は、神ではなく人間の視点で厳密に区別できうるものでしょうか?人により考えが違う相対的なものではないか? 人間の「理性」というもので「真」というものにどこまで判断できるのか? 某大学の神学科の名誉教授から教授されたことは、キリスト教の考えにおいては、 「神(絶対的真理)というものを知るには人間の理性には限界があり、それ上のことを知るためには聖霊の導きが必要である。」 そして、コリントの信徒の第1の手紙の12章を読んでもらいたいですが、神は人に同じ賜物(能力)ではなく別々の賜物を与えた。例えば、知恵の力、病気を癒す力、霊を見分ける力など。 だから、人間というものは一人でなく、それぞれ違う賜物を持っている人々が協力して力を発揮すべきというのがキリスト教の考えです。日本的に言えば、解散まじかのSMAPの「世界にひとつだけの花」です。 しかし、上記の霊を見分ける力、善い霊、悪い霊(善悪)を区別する賜物を神から与えられていない人に神学の真理がわかるか?と名誉教授に質問したら、曰く「それは賜物を授かっている指導者に任せるべき。」とのこと。 bragelonneさんは霊(善悪)を見分ける力があることに自信がありますか? 余談ですが、休日に国立新美術館で現在開催中のベネチア展を見に行きましたが、日本におけるキリスト教に関心がある人は少ないとみえ、休日なのにガラガラでした。 西洋哲学を志す人なら、その土台のキリスト教の知識がないと、いくら学んでも薄っぺらだと私は思っています。 その展覧会で観た絵を添付します。 ヒエロニムスという聖人が荒れ野で修行中、性欲が起こったことに、自分を卑下したところ、目の前に聖書と十字架が現れたという絵です。 https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%9D+%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%8E&biw=1366&bih=651&tbm=isch&imgil=-5p5883MTOkCTM%253A%253BtHrPvE-bP60K8M%253Bhttp%25253A%25252F%25252Fwww.cinra.net%25252Fnews%25252Fgallery%25252F100406%25252F12&source=iu&pf=m&fir=-5p5883MTOkCTM%253A%252CtHrPvE-bP60K8M%252C_&usg=__nSyAOvGPCxE_p0VYSDrfO4HGvIs%3D&ved=0ahUKEwj5xai7xKHPAhWKm5QKHeZhCusQyjcIOA&ei=Jg3jV_maJIq30gTmw6nYDg#imgrc=-5p5883MTOkCTM%3A bragelonneさんは、性欲は枯れ果てているかもしれませんが、性欲が起こったら聖書でも読んで昇華させてください(高校保健体育)。 では、お礼を書く代わりに、名古屋名物、きしめんと、天むすと、味噌煮込みうどんを送ってください。 えっ、出来ない? それを、いっちゃーおしめえよ。 学問の旅にけえるぜ。では、またいつか。

bragelonne
質問者

お礼

 おお。どこをほっつき歩いてたんだ。――と言われなきゃならないのは この OKWave については わたしのほうなんですが。  ご回答をありがとうございます。  ★ 修行   ☆ !? あっ そう言えば その話は聞いたおぼえがあります。そうでしたか。何か集中期間だったんでしょうか。  さて:   ★ 回答ですが、イエスを荒れ野で40日誘惑しても屈しなかったという聖書の有名な箇所(ルカによる福音書4章)から、すでに、悪魔はイエスに対しては腑抜けです。  ☆ うむ。それもそれ これもこれ・・・ではないのですか?  だって そののち カリオテの人たるユダに悪魔が忍び込んていますし ペテロも 悪魔は去れとイエスに叱られる嵌めに落ち入っています。――ということではないの?  ★ 四十  ☆ は ほかに《完全・完成・成就》といった意味もですよ。  ★ しかし、イエスはキリストで神の子だったので、悪魔は腑抜けになったかもしれませんが、悪魔という存在を肯定すると、人間に対しては腑抜けになっていないと思います。  ☆ あっ そういうふうに見るのですか。――ん? 待てよ。でも だったら そのことも キリストとしてのイエスの管轄の中にある・・・のでは?  ★ 人が生きるということには、さまざまな誘惑にさらされることは避けられないからです。  ☆ ううーん。まだ修行が足りんわい。    試練として・ということは なお周りの人たちとともに――そのときの状態を打ち破るために――なお伸びしろがあたえられる。という意味で 《誘惑があっちからやって来る》のぢゃわい。  そのほかの場合というのは 目の前の相手が じつはその以前から誘惑にさらされていたりすでに落ち入ってたりするとき――そしてそれは自業自得なのであり―― その心の状態をこちらが あたかも鏡に映すようにして・あるいはさらに感性や心情の問題としてはあたかもこちらに輸入したようにして 相手のその誘惑状態を避けられずに受け止めている。ことがあり得ます。  これは 例のミラーニューロン現象です。自然に起きる現象であり 自覚するのはすでに受け身の心的現象として起きていると気づいたときです。  こういう事情が いまわたしの知る《誘惑》の問題です。  ★ ~~~~~~~~~~  社会的には金銭欲や出世欲。  生理学的には、週刊文春の売り上げ向上に貢献している芸能人の性欲からの不倫など。  あなた方が自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。(コリント信徒への第1の手紙 7章)  ~~~~~~~~~~  ☆ ううーむ。こんなことを考えてるんですか。そんなことは ひとから見れば大きなお世話ぢゃないのですか?  ★ ~~~~~~~~~~  エデンの園で悪魔はアダムとエバに善と悪の知識の木の果実を食べさせました。  しかし、bragelonneさんに質問しますが、人間はこの果実を食べたことで善と悪を区別できる知識を身につけることが出来たのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~  ☆ そうだよ。つまり もともと そういう神のハカリゴトの中にあって そのように経過したと言っても 言い過ぎではないと思います。  その結果 自由意志の存在にも気づきました。つまり 神の指し示したことに対しても逆らった考えと行動とが 自由意志によって成し得るということです。  善に逆らうことをも思い描きしかも実行に移すという善悪観および自由意志のハタラキが 実際に人間のものとな〔っていたのが明らかにな〕った。    ★ そして、善悪の区別は、神ではなく人間の視点で厳密に区別できうるものでしょうか? 人により考えが違う相対的なものではないか?  ☆ この問題についてこそ  ☆☆ キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラで戦わなかった  ☆ の答えが 用意されています。(人間の能力や努力を捨てよという意味ではありません)。  善悪の区別は 例のヤマシサ反応によって――主観としてはそれなりの〔相対的な〕確実さをもって―― はっきりします。  そして ひとの存在(言いかえると いのち および 自由な意志とこころ)をないがしろにすることは 理論じょう絶対的な《負の善》であると決まっているはずです。例外なく人なら そのような《意志行為》には 絶対的なヤマシサ反応を起こすという意味です。  ただしすべては 移ろい行く人間の心――そこに自由意志なる能力もふくまれる――のことですから 誘惑に引きずられて行くヤマシイことを思い描いたり そのように善を損ない善から離れて行くことも 起こるという状態です。    ★ ~~~~~~~~~~  人間の「理性」というもので「真」というものにどこまで判断できるのか?  某大学の神学科の名誉教授から教授されたことは、キリスト教の考えにおいては、  「神(絶対的真理)というものを知るには人間の理性には限界があり、それ上のことを知るためには聖霊の導きが必要である。」  ~~~~~~~~~~  ☆ ですから  ☆☆ キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラで戦わなかった  ☆ を取り上げています。  ★ ~~~~~~~~  そして、コリントの信徒の第1の手紙の12章を読んでもらいたいですが、神は人に同じ賜物(能力)ではなく別々の賜物を与えた。例えば、知恵の力、病気を癒す力、霊を見分ける力など。  だから、人間というものは一人でなく、それぞれ違う賜物を持っている人々が協力して力を発揮すべきというのがキリスト教の考えです。日本的に言えば、解散まじかのSMAPの「世界にひとつだけの花」です。  ~~~~~~~~~  ☆ まぁ そういう捉え方もあり得るでしょう。  ★ しかし、上記の霊を見分ける力、善い霊、悪い霊(善悪)を区別する賜物を神から与えられていない人に神学の真理がわかるか?と名誉教授に質問したら、曰く「それは賜物を授かっている指導者に任せるべき。」とのこと。  ☆ それについては 《おのれの心に湧き起こる思いや考えについて ヤマシサ反応は間違いなく起きます。起きますが そのときその反応が やめときましょう 避けましょうと言っているそのことを 心に逆らって人間が自由意志の自由度においてえらぶ》というふうに わたしには考えられます。  ヤマシサ反応という賜物は みなにそなわっているという前提を見過ごすわけには行かないと。  ★ bragelonneさんは霊(善悪)を見分ける力があることに自信がありますか?  ☆ これも この質問の主題が 鍵です。  ★ ヒエロニムスという聖人が荒れ野で修行中、性欲が起こったことに、自分を卑下したところ、目の前に聖書と十字架が現れたという絵です。  ☆ アウグスティヌスにに『結婚の善』という問い求めがあります。よ。  ★ では、お礼を書く代わりに、名古屋名物、きしめんと、天むすと、味噌煮込みうどんを送ってください。  ☆ お礼――というよりは 叱責――は すでに書いちゃった。    このあいだ――と言っても数年前―― ひつまぶしを食べました。恥づかしいことに初体験。うなぎです。おいしいよ。  こんなとこだっぺ。

その他の回答 (8)

回答No.9

研究メモ2、 西洋における哲学は神学が土台で神について考えることだ。 これは、人がお互いを認め人間を自覚する知性的資質は神によってもたらされた。 それだけで簡潔に結論できる。 神の存在の証明というよりも、神の存在を自らが実感することが大切だ。 この点は莫大な懸賞金がかかっていたね。 さて、長々とサルを飼いならす本でも書いてみようか。 東洋で、特に日本の仏教哲学だけ展望すると、神を考えることじゃなくて人間を考えることだ。 仏とは何ぞや、ということだ。 これは、生きる道(タオ)という中国の影響もあって、仏道という仏教のしるしで装飾された人間の自覚を問う哲学だ。 生きることから存在を自覚する手法には東洋にも見るべき点はある。 西洋では、聖人とは殉教者だ。

bragelonne
質問者

お礼

 アクマを 物語の中に押し込んだようになっているところは お嫌いですか?  ★ 神の存在を自らが実感することが大切だ。  ☆ 神は 無い神だということを実感することが 大切だ。――と 同等に 言えるほどであるかどうか。  ご回答をありがとうございます。

回答No.8

研究メモ。 生きながらに自らを丸ごと観念に昇華させるタイプが、涅槃という言葉の境地で、釈迦に由来して日本に渡来した仏陀の概念だ。 死ねばどのみち観念になるんだが、自らに舞い込むことに禁忌が強く考えることを放棄している。 私は輪廻という言葉は生態系の循環に対する自然科学以前の直感が浸透したものだと考えていて、古代インドには十分死に対して考えた哲学の片鱗だと肯定しているよ。 逃げたままだと、仮面ライダー最速の臆病者と最速バトルをすることになる。

bragelonne
質問者

お礼

 ふむ。分からん。あしからず。  ご回答をありがとうございます。

回答No.7

ケラケラ。 君は死ぬんだよ。 生きたまま死を自覚する今の屍じゃない。 生を失い、死そのものとなり、死を自覚するのだ。 まあこう遊んでみた。 肉体が滅することは私にとっては変化であり、死ではない。 これが永遠に生きる不死者だ。 新で死者の国に行く死者は生を失い死そのものとなる。 君もそうなる。 ヒントを言っておくと、宗教にしろ生きることにしろ、死とかかわっている。 逃げないでそこも哲学に挑戦するといいんだが、最速の臆病者である仮面ライダーに誰も追随できていないね。 ヨタ話なんだけど、臨死体験可能な私はフェアリーフュージョン中のけがされた精霊を臨死体験に巻き込む無理心中という特技がある。 一時これがアマテラスミッションの主体で、私は死神のごときであり、歩く棺桶だった。 私は犬が好きでね、お留守番している近所の犬や、お散歩中の犬を見かけると挨拶する習慣があるんだが、一時期犬という犬が私を見ると吠える状態になって、死神状態に困り果てたことがある。

bragelonne
質問者

お礼

 見知らぬ犬が こちらに吠えて来たら たいていはその飼い主の気持ちや心を表わしている。  こちらに懐(なつ)いて来る様子だったら 飼い主は 中立。つまり 犬が あなたを好きになっている。  と思う。  ご回答をありがとうございます。

回答No.6

bragelonneさん こんばんは 先の私の回答を、聖書の言葉で、補足します。 「知恵を求めるソロモンの祈り」 知恵はあなたとともに御業を知り、世界をお造りになったとき、そこにいました。 (中略) 知恵はすべてを知り悟っています。 (中略) 神の計画を知りうる者がいるでしょうか。 主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。 死すべき人間の考えは浅はかで、わたしたちの思いは不確かです。 (中略) あなたが知恵をお与えにならなかったら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったら、だれが御旨を知ることができるでしょうか。 知恵の書 9章9節~17節 主を畏れることは知恵の初めである。 シラ書 1章14節 キリスト教の神を信じるか信じないかは別にして、人間はちっぽけな存在であるので、へりくだって謙虚に生きること。これが、知恵を手に入れることには重要である。 bragelonneさんの理性が暴走しないことを祈ります。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  暴走するなと言われると したくなるタチでして。  知恵は 半ば擬人化されていますね。フクマーでしたか。  大事なこと。  ★ へりくだって謙虚に生きること。  ☆ これだと 《自力》なんだよね。  言いかえると 《律法主義》ですね。行為(その努力)による義認論ですね。  信仰による義認という見方と もし対立するものであるなら 心してかからねば。  《知恵》は 絶対他力なり。と。  あぁ 暴走が中途半端になっちゃった。  どうですかねぇ。

  • dasodo
  • ベストアンサー率23% (3/13)
回答No.4

正解はひとつだけとは限りません。」←だったら それで良いだけ・・ 一つで無いのなら 尚更・・ あなたが考えられる 全ての事が正解なのだから 質問する必要が無いだけ・・

bragelonne
質問者

お礼

 もう少し 事態をよく考えてみてください。  ともに主題・問題を共有し その問い求めにすすむようにしましょう。  相手がわるいとか 誰がいけないのだとか そういう《政治》にしか興味がないのですか?  ご回答をありがとうございます。

  • dasodo
  • ベストアンサー率23% (3/13)
回答No.3

その活動からも自由でまったくあたらしい〔契約の始まりとしてもの〕世界を切り拓いたのでしょう。」←あなたが そう思うのなら それで良いだけです・・ 知ってるのなら質問しなけりゃイイのに・・

bragelonne
質問者

お礼

 正解はひとつだけとは限りません。  たとえひとつであったとしても 問い求めというものは 動態です。過程です。  なおよりよき内容をという思いが 現状維持よりも優っているというのは 哲学にとってふつうの歩みです。  ご回答をありがとうございます。

  • dasodo
  • ベストアンサー率23% (3/13)
回答No.2

人間のチカラで戦わなかったのだと考えられます」←人間の力で無いので良いのなら 何故 人間として産まれなければならなかったのでしようね? あなたの考えが正しいのなら イエスは天から指示すれば良かっただけ・・

bragelonne
質問者

お礼

 人間でありつつ――ヨセフを父としマリアを母とするその人間どうしのコイトスによって生まれたふつうの人間でありつつ―― しかも人間のチカラに頼ることなく 人との・そして社会との関係を生きた。  そのことを示すには 人間として生まれなければならなかったのでしょう。  ★ 天から指示すれば  ☆ これは――それがあるとしてですが―― せいぜいが旧約の時代の預言者の活動のあり方に当たるのかも分かりません。  その活動からも自由でまったくあたらしい〔契約の始まりとしてもの〕世界を切り拓いたのでしょう。  ご回答をありがとうございます。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.1

>話の都合じょう悪魔という言葉を出せば と言っているだけで、実際には悪魔であるのかどうかすら明らかにせず、然るに「ここで言う悪魔とは何か」という「悪魔に関する定義づけ」すら行っていないのであるから、あなたの話は何について述べたものでもなくなってしまっており、そのような話には意味がない。

bragelonne
質問者

お礼

 聖書に書かれたことは――そして実は 人間が自分たちの持った言葉で自己表現をすること自体が そもそもそうなのだと考えますが―― 基本として物語である。あるいは 芸術作品である。  ――という前提に ここでは立っています。  経験科学としての合理性一本によって論理的に書かれたものではないという意味です。  その前提を――舌足らずの言い方になってしまいましたが―― この《話の都合じょう》というおことわりに込めて言っている。そのようにご理解ください。  ご投稿をありがとうございます。

関連するQ&A

  • イエスとアクマ

     キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラで戦わなかったのだと考えられます。  だから 十字架上に去って行ったあと 人びとの心に復活した。  話の都合じょう悪魔という言葉を出せば 悪魔は その十字架じょうの死の淵までは よう ついて来なかった。  それまでは イエスと同じ足取りで同じ軌跡をたどっていた。  イエスが何をするか その行動を追跡していた。  ハリツケの寸前にまで影のごとく寄り添って来ていた。  ところが 死の淵にまでは そのみづからの能力によってついて行くことが出来なかった。  それでこそ悪魔であった。  すでに死んでおり あらゆるものを否定し死にみちびく親分である悪魔も 自分がふたたび死ぬことは 出来ない相談であった。  もしそうすれば 即座に一たんよみがえって ふつうのまともな存在となる。と思ったとたん 中から炉心溶融を起こして溶けて行ってしまうとちゃんと知っていた。  ゆえに イエスの死の淵にまではもう よう来なかった。  去って行ったイエスに度肝を抜かれた。  よって それまでに罪を犯した者どもを自分の胃袋の中に抱え込んでいたのが すべて吐き出さざるを得なくなった。  文字通り アクマは 腑抜けになったのである。  添削をどうぞ。思いっきりのご批判をも。

  • イエスと悪魔

     キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラでは戦わなかったのだと考えられます。  だから 十字架上に去って行ったあと 人びとの心に復活した。それは 悪魔が征服されたから。(と言ってみる。トンデモ物語の始まりです)。  話の都合じょう悪魔という言葉を出すのですが 悪魔は その十字架じょうの死の淵までは よう ついて来なかった。  それまでは イエスと同じ足取りで同じ軌跡をたどっていた。  イエスが何をするか その行動を追跡していた。  ハリツケの寸前にまで影のごとく寄り添って来ていた。  ところが 死の淵にまでは そのみづからの能力によってついて行くことが出来なかった。  それでこそ悪魔であった。  すでに死んでおり あらゆるものを否定し死にみちびく親分である悪魔も 自分がふたたび死ぬことは 出来ない相談であった。  もしそうすれば 即座に一たんよみがえって ふつうのまともな存在となる。と思ったとたん 中から炉心溶融を起こして溶けて行ってしまうとちゃんと知っていた。  ゆえに イエスの死の淵にまではもう よう来なかった。  去って行ったイエスに度肝を抜かれた。  よって それまでに罪を犯した者どもを自分の胃袋の中に抱え込んでいたのが すべて吐き出さざるを得なくなった。  文字通り アクマは 腑抜けになったのである。  添削をどうぞ。思いっきりのご批判をも。賛成票をもどうぞ。  なんでアラシすらもつかないのか分かりません〔ので 再度です〕。

  • 贖罪において 悪魔は しりぞけられたか

     1. 人びとの罪をあがなうという主題が 聖書関係に出て来ます。  2. これは 特殊な絶対性のもんだいかと思われます。それでも説明をつけようとする場合が 考えられます。では それは果たして 一般性を持つか? この問いを問います。          *  3. 例によって 悪魔を登場させての説明です。  4. 悪魔は すでに死んでいるのですが その死の制作者として 神に許されてハタラキを持ちます。  5. つまり 人間の罪をあがなうというのは この悪魔を征服するというかたちの話になります。  6. なぜなら 悪魔は 人びとに罪がある――罪を犯した経験がある――そのことを咎めて 最終的に人を死に追いやるというハタラキですから 誰かが すべての罪を引き受けたなら・そして清算できるように引き受けたなら あがなうことになります。  7. 例によって悪魔は イエスをも死にみちびきます。そのために罪へと誘います。  8. けれども ほかの人間はいざ知らずイエスとなると 悪魔にとって ちょっと趣きが違っていた。  9. イエスは 悪魔の気持ちや思い 怒りやその論理をすべて アース役よろしく その心身に受け留めてしまっていた。  10. では 死。この存在の消滅という死――つまり じつは 悪魔にとって おのれ自身のことである――をも 引き受けることが出来るか? と問いかけた。  11. つまりは 高等法院のお偉方らを促して モーセの戒律にしたがって イエスを死刑に処することになるように ことを運ばせた。  12. つまりは イエスとて おのれ自身の現実の死に追いやられたなら おれ(つまり悪魔)の心をやさしく包むことなど 出来っこあるまい。という魂胆である。  13. 果たして 磔の十字架に上がって イエスは どうしたか?  14. 降りて行かなかった。その死刑をあまんじて受けた。  15. つまりは 死そのものである存在(?)の悪魔にも 自由に対等に接していたイエスは 死そのものにも成るというわざに出てしまった。  16. へへんと思った悪魔だが そのイエスの心を自分の心に受け留めた途端 すでに身も心も溶けてしまった。  ☆ 質問者の捏造が入っていますが 果たして 一般性がありますか?

  • 悪魔に勝てるのはイエス・キリストだけですか

    悪魔に勝てるのはイエス・キリストだけですか。 イエス・キリスト以外に悪魔に勝てるのは誰ですか。

  • 感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物

     ( a ) ヒトは 時間的な存在である。  ( b ) 時間的なるものには 限りがある。《限りのないナゾなるもの》に向き合いひとは おそれをいだく。相対的な経験世界のうちに生きる存在であることの自覚である。  ( c ) このきよらかなオソレにもとづき 知恵を持つ。境地としての知恵のほかに 理性なるものをも発達させる。  ( d ) やがて 知恵のもとの自由意志は かしこくもか おろかにもか オソレにも逆らい 理性をおのれの都合よいように用いるようになった。  ( e ) そしてさらにこの理性は 意志にも君臨しようとするまでに到る。それだけの発展性は備えていたらしい。  ( f ) その頃には 《無限というナゾなるもの》は 理性が観念としてあたまの中におさめてしまった。《観念の神》の誕生である。のちにこの神――つまり人びとのあたまの中にあるだけの観念の神――は死んだと宣言されねばならないほどだった。初めから死んでいるのに。  ( g ) さてここで突然 この理性が 性欲をめぐって ヘビなる情欲として《観念の性欲》の世界をこしらえてしまった。のではないか? サドとマゾッホらあらゆる想像力を動員して《きよらかな畏れ》に挑戦してみた。  ( h ) 風呂に井戸を掘るたら何たら言う人間は この《オソレ――この上なくつつましやかなひとなる存在のいだく畏れ――》 これをアーラヤ識かどうかは知らないが 深層の心理の中にだけ閉じ込めてしまった。かくて このヰルスに感染したときには 神は ムイシキであるとなった。       *  ◆ 《へび》の問題  § 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的・社会的な意味  次の文献によって わたしなりの分類をします。   ▲ 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)   http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/serpent.html    ○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~     (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂     (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として治水防風雨をしのぐ            あらぶる者:悪魔::荒魂     (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。     (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。     (ε) ゆえに エロスを象徴。     ~~~~~~~~~~~~~~      § 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。  併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。  この偏見で議論をとおしますので お見知りおきのほどをお願いします。  § 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。  言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。  こういう見方を持ちます。  § 4 この場合のムイシキは      (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)        =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ  のことです。  § 5 ムイシキの逆襲(?)  リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになるそうだ。  その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。  すなわち その意味や次元にまで還元されたと言いますか そう見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。  § 6 ムイシキとは 亡霊なり。  ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。  その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。  § 7 聖書におけるヘビの克服物語  イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。  いちおう理屈をつければ こうです。  悪魔は 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという〔気休めとしてでも〕希望を持ち得るけれども 悪魔なるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。そして その冥界へと人びとをさそう。  イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまでヘビを嫌った。ほかのナゾの何ものかに従順であった。ヘビなる悪魔などは 屁の河童であると。  ますます怒った悪魔は ついに実際に〔それまでに部下に持った人間たちをして〕イエスを死地に追いやり見世物にまでして磔を実行せしめた。  ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間が自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。  § 8 聖書の関係個所を引きます。  ▲(創世記3:14-15) ~~~~  主なる神は、蛇に向かって言われた。   「このようなことをしたお前は   あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で   呪われるものとなった。   お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。   お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に   わたしは敵意を置く。   彼はお前の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この部分すなわち   ▲ ~~~~~~~~~~   彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」   ~~~~~~~~~~~~~  という箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと言われます。  § 9 つづき――モーセにおける蛇との闘いの事例――  ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~  〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。  民はモーセのもとに来て言った。   「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、   わたしたちから蛇を取り除いてください。」  モーセは民のために主に祈った。  主はモーセに言われた。   「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ   を見上げれば、命を得る。」  モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。  ~~~~~~~~~~~~~  § 10 つづき――イエスは 《青銅のヘビ》か――  ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~  そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。  それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。  神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。  独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  § 11 いかなる事態であるか?  もし性欲も大自然への畏れも ヒラメキをも含めて感性だとすれば この感性とそして理性との あらそい なのであろうか?  感性は 間違い得るし あやまちを侵す。ただし そのこと自体にウソ・イツワリがない。  理性は あやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。  ただし このような問い求めをおこない説明をあたえるのは 理性でありそれを用いる志向性としての意志である。

  • 信仰に由来する殺人衝動の考察

    殺してくれてありがとう。 君たちにささやく、親切な風さんはそう ことづけする。 戦乱の暁に笑顔をこぼす麗しのツンデレラ。 純露ユリ系魔法少女 ときわたりの世麗美だ。 ちなみに私は49才の男性に化身している。 男性のみなさん、痴漢行為はやめてください。 さてと、身の上話から始めよう。 幼いころ、神様と友達だった思い出があると証言する大人は、それほど珍しくもない。 わたしにも、同じような友達がいる。 そしてね、私は2歳のころ医者から余命1年未満と宣告を受けていたそうだ。 物心ついた時、周囲の大人は育つのをあきらめていたようだよ。 その、死の運命のさなかに私は、世の中に目を開き生きることを学び始めた。 さてね、両親が藁をもすがる思いで医者が見捨てた私を霊能力者に見せたとしよう。 現在、臨死体験と関わると霊能力者になりやすい定説に沿って、私自身が霊能力者なんだけどね。 多くの場合、人間は善か悪かでしか考えられない仕組みになっているから、普通の霊能力者が私を見ると何を言うかわかっている。 「この子には悪霊がとりついている」 その悪霊とは、神様として接した私の幼馴染たちだよ。 私はアメリカの新薬を国内で臨床テストする対象に選ばれ、奇跡的に回復したんだ。 親があきらめた子供を励まし続け、さらには「奇跡的な」生存を可能にするために、人が定めた運命の改変をしてくれたかけがえのない友人たちだよ。 一般的にそれは悪魔とされる。 私はどう見ても神様だと思うよ。 無駄な抵抗できるか? 不毛なことに、それでも私の神様は悪魔なんだよ。 私が悪魔崇拝者と勘違いされるほど、悪魔に対抗可能な貴重な人種なのは、悪魔と接する事とは旧友と久しぶりに再会して親交をさらに温める事なんだよ。 こういうのは日本を含むアジア系シャーマンの中では優秀な資質を私が備えていることの証しだ。 西洋では、こうして悪魔に向き合えるシャーマンは魔女狩りとして根絶の対象だった。 なぜなら、このタイプのシャーマンは西洋の本質を見抜くから、どうしても根絶やしにする必要があったんだよ。 キリストなる聖霊とは、仕事の根幹が「イケニエ」だ。 観念の通過または観念への到達の、基本的な条件は世界中見渡しても「死の儀式」が主流だ。 キリスト教圏はキリストなる赤子を殺し喰らうことで、自らが死ぬことの代わりにして「金持ち」になる。 十字架とは神聖視されていることで、なかなか気が付かないけど本質は処刑台だ。 それから、悪魔とは人間の不実に天界の精霊が怒りあらぶり人間をとがめる姿だけをくみ取って、自らに不利益な聖霊をののしった姿だ。 人が天を殺そうとするならば、怒りあらぶるのは当然だよ。 それは聖霊にとっても決して無傷ではない。 キリスト教徒が実際に悪魔にするからだ。 キリスト教というのは、天界に対する巨大な処刑機構で、神聖視された処刑台をかざして「自らの信仰心」で悪魔を封じ込め、自らの野望のために聖霊を喰らうことだ。 したがって、キリストと名指しされ、それを認めた聖霊は「無抵抗に即死」する仕組みなんだよ。 もしも悔い改めるとするならば、 今の神殺しをやめることを意味する。 しかしだ、タダで済むわけないだろ!!!!! クソ人間ども!!!!!! 今の信仰心を正して、今の行いをやめると、許す許さない、救う救わない、これ以前に帳尻合わせが発生するんだよ!。 そういうわけで、キリスト教徒とは、もうやめるわけにはいかないほど「やっちまった」んだよ。 ただね、私はときわたりの世麗美だから、いちかばちかの生存の可能性なら示唆しよう。 食肉加工場に隣接した牢獄から聖霊が解き放たれると、一番最初に思いを寄せるのは「お家に帰ろう」だろう。 それは、「キリストの帰還」ともいえ、そうして帰る家がキリスト教徒自らの精神の家であった場合には、それは正常で健全な「キリストなる聖霊の宿り」となるだろう。 そうした精神を持つ信仰心なら、その人物の信仰は教会の教えと違って、あやまちではなかったとなる。 そうさね、まずは祭壇から十字架を引きずり降ろしてフリチン姿のイエスを処刑台から降ろしてはどうだい? さて、ここは哲学研究の学問カテゴリーで、以上は常連さんなら見てきた、一連の私の研究課題に関しての経過リポートだ。 哲学の基本は命題に取り組むことで、そうした研究の一環で書き上げたリポートの出来不出来の評価が質問の内容でして、ご意見感想をお願いします。 読書感想文でいいですよ。

  • 彼女は悪魔?小悪魔!?

    男子大学生です。 ひとつ気になることになり、質問させていただきます。 同じ大学の1年生女子(Aちゃん)が、とてもモテているのです。 スタイルは良い方だと思いますが、顔が少々大きいかな・・・。 キリっとした綺麗な顔立ちですが、どこか赤ん坊のような愛らしさがあります。 ブスではありませんが、かわいいと断言もできません。 というわけで、失礼ながら、ずば抜けて男性を魅了する容姿ではないと思います。 しかしAちゃんはモテるんです。 Aちゃんのことを「タイプじゃない」という人はいますが、嫌いだという人は、少なくとも僕の周りにはいません。 僕は野球部で100人以上部員がいるところに所属しており、Aちゃんはチアリーダーです。 この前びっくりしたのが、後輩と話しているとAちゃんを狙っている奴がたくさんいました。 狙っていないにしても仲良いといいますか、交流がある奴もたくさんいました。 僕が知らなかっただけで、Aちゃんに告白していた上級生もいました。 自分の部活だけでも大人気です。 聞くところによるとAちゃんは、昔からよく告白されてきたそうです。 でも交際人数は高校時代に2人だけだそうです。 Aちゃんは、とても優しいと思います。 どんだけ優しいんや!っていうくらい優しいと思います。(話を聞いていると) そして元気いっぱい、活発な女の子です。 しっかりしてますが、天然でなんか抜けてて危なっかしいです。 でもたまに「気が強いんちゃうの?」と思うときもあります。 白黒はっきりしていて、サバサバしてる感じがします。 でも甘えん坊な感じもします。 ノリが良いですが下品なことは一切言いませんし、しません。 化粧をしている日もありますが、よくすっぴんの顔を見かけます。 すっぴんジャージ姿のAちゃんと大学ですれ違うことも多々あります。 かと思えば、めっちゃかわいい服装のときもあります。 男をたてるのが上手いと思います。 でも媚びてる感じは一切ないし、女性に対しても同じ態度です。 僕はAちゃんがどんな子か全くつかめません(^^;) 裏表がないことはわかりますが、毎日毎回違うAちゃんが存在しているので、どれがほんまのAちゃんや!?みたいな感じです。 なんだか僕までAちゃんのことが気になる始末です・・・。 Aちゃんは世間で言う「小悪魔」なのでしょうか。 なんで一見普通でつかめないAちゃんはこんなにモテるんですか?

  • イエスを信じると言わされました・・・

    以前、http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=1633590の質問をした者です。 今日ペンテコステ派の集会に行ってきました。 無理矢理両親に連れて行かれました。 牧師に「イエスを信じるか」と聞かれましたが、 「信じてない」と答えたところ、周りの牧師が 集まってきて、「イエスを信じない者は地獄に落ちることになる。 イエスを信じなさい。」と口々に言われ、拒みきれず、 「イエスを信じます」と言ってしまいました。 とても悔しいです。 キリスト教に嫌悪感を抱きました。 キリスト教に関するものすべてを壊してしまいたいぐらいです。 「イエスを信じる」と言ってしまえば、キリスト教に 入信したことになるのでしょうか? キリスト教を辞める方法ありますか? 牧師が難聴や吃音を治す祈りをするとき、 私も一緒に祈らされました。 聞くのさえ嫌な異言も言わされました。 何か最初から異言を話せる人は殆どいないらしく、 選ばれし者みたいに扱われました。 とても苦痛でした。 難聴や吃音ですが、牧師は治ったといいましたが、 実際には治っていません。更にひどくなった感じです。 でも両親は牧師の言葉を信じてとても喜び、 めったに行かない外食に連れて行ってくれ、 高価なプレゼントまで買ってくれました。 病院でちゃんとした治療を受けたいのですが、 両親は病院を毛嫌いしていて、祈りで治せといいます。 もし治っていないことが両親にばれたら、また集会に連れて行かれます。 そのことや、両親のがっかりした顔を見るのが嫌で、 今は治った振りをしています。 もう死んでしまった方がどんなに楽だろうと思い始めています。 どうしたらいいんでしょう?

  • イエス系

    質問させていただきます。 北海道に住んでいます。 田舎のほうに行くと、家や倉庫などに黒い鉄板に黄色い字で、「イエスが来る」とか、「イエスが救ってくださる」とか、「蘇れ」とか、そんな看板?鉄板? みたいのがちらほらあります。 あれって全国にあるんですか?フレーズ何種類ぐらいあるのでしょうか? あれも一種の布教活動なんでしょうか? あの鉄板出してるところは、やっぱりキリスト教の 方の建物なんでしょうか? 教えてください。

  • yesの使い方

    I am not a violent person. No,you are not. このNoの使い方はどうなってるんですか? 前後の文脈から賛成の意味で使われている感じなんですが どういうことでしょうか? 回答お願いします。