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イエスとアクマ

 キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラで戦わなかったのだと考えられます。  だから 十字架上に去って行ったあと 人びとの心に復活した。  話の都合じょう悪魔という言葉を出せば 悪魔は その十字架じょうの死の淵までは よう ついて来なかった。  それまでは イエスと同じ足取りで同じ軌跡をたどっていた。  イエスが何をするか その行動を追跡していた。  ハリツケの寸前にまで影のごとく寄り添って来ていた。  ところが 死の淵にまでは そのみづからの能力によってついて行くことが出来なかった。  それでこそ悪魔であった。  すでに死んでおり あらゆるものを否定し死にみちびく親分である悪魔も 自分がふたたび死ぬことは 出来ない相談であった。  もしそうすれば 即座に一たんよみがえって ふつうのまともな存在となる。と思ったとたん 中から炉心溶融を起こして溶けて行ってしまうとちゃんと知っていた。  ゆえに イエスの死の淵にまではもう よう来なかった。  去って行ったイエスに度肝を抜かれた。  よって それまでに罪を犯した者どもを自分の胃袋の中に抱え込んでいたのが すべて吐き出さざるを得なくなった。  文字通り アクマは 腑抜けになったのである。  添削をどうぞ。思いっきりのご批判をも。

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  • dropyork
  • ベストアンサー率15% (13/85)
回答No.1

ものの書に天使は羽根が生えているといわれていますが実は人に分かるように見せかけているだけですとか書れていますが、これは間違っています。人が実に善になれば背中にふたすじひび割れて羽根が生えてきます。 なぜそうなるかは私は知りません。 人が実に悪になれば頭頂てはなく額に角が生えます。なぜそうなるかは私は知りません。 人が実に善になれば心の仕組みによって悪を退けます。要素の無い者にその要素は近づきません。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 要素の無い者にその要素は近づきません。  ☆ ぎゃくではないでしょうか。  悪の要素が少ない者にこそ 悪の要素がやや多い人間は近づきます。  悪に染まった人間は たしかに近づかないようですが。

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