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感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物

 ( a ) ヒトは 時間的な存在である。  ( b ) 時間的なるものには 限りがある。《限りのないナゾなるもの》に向き合いひとは おそれをいだく。相対的な経験世界のうちに生きる存在であることの自覚である。  ( c ) このきよらかなオソレにもとづき 知恵を持つ。境地としての知恵のほかに 理性なるものをも発達させる。  ( d ) やがて 知恵のもとの自由意志は かしこくもか おろかにもか オソレにも逆らい 理性をおのれの都合よいように用いるようになった。  ( e ) そしてさらにこの理性は 意志にも君臨しようとするまでに到る。それだけの発展性は備えていたらしい。  ( f ) その頃には 《無限というナゾなるもの》は 理性が観念としてあたまの中におさめてしまった。《観念の神》の誕生である。のちにこの神――つまり人びとのあたまの中にあるだけの観念の神――は死んだと宣言されねばならないほどだった。初めから死んでいるのに。  ( g ) さてここで突然 この理性が 性欲をめぐって ヘビなる情欲として《観念の性欲》の世界をこしらえてしまった。のではないか? サドとマゾッホらあらゆる想像力を動員して《きよらかな畏れ》に挑戦してみた。  ( h ) 風呂に井戸を掘るたら何たら言う人間は この《オソレ――この上なくつつましやかなひとなる存在のいだく畏れ――》 これをアーラヤ識かどうかは知らないが 深層の心理の中にだけ閉じ込めてしまった。かくて このヰルスに感染したときには 神は ムイシキであるとなった。       *  ◆ 《へび》の問題  § 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的・社会的な意味  次の文献によって わたしなりの分類をします。   ▲ 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)   http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/serpent.html    ○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~     (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂     (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として治水防風雨をしのぐ            あらぶる者:悪魔::荒魂     (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。     (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。     (ε) ゆえに エロスを象徴。     ~~~~~~~~~~~~~~      § 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。  併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。  この偏見で議論をとおしますので お見知りおきのほどをお願いします。  § 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。  言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。  こういう見方を持ちます。  § 4 この場合のムイシキは      (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)        =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ  のことです。  § 5 ムイシキの逆襲(?)  リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになるそうだ。  その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。  すなわち その意味や次元にまで還元されたと言いますか そう見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。  § 6 ムイシキとは 亡霊なり。  ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。  その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。  § 7 聖書におけるヘビの克服物語  イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。  いちおう理屈をつければ こうです。  悪魔は 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという〔気休めとしてでも〕希望を持ち得るけれども 悪魔なるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。そして その冥界へと人びとをさそう。  イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまでヘビを嫌った。ほかのナゾの何ものかに従順であった。ヘビなる悪魔などは 屁の河童であると。  ますます怒った悪魔は ついに実際に〔それまでに部下に持った人間たちをして〕イエスを死地に追いやり見世物にまでして磔を実行せしめた。  ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間が自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。  § 8 聖書の関係個所を引きます。  ▲(創世記3:14-15) ~~~~  主なる神は、蛇に向かって言われた。   「このようなことをしたお前は   あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で   呪われるものとなった。   お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。   お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に   わたしは敵意を置く。   彼はお前の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この部分すなわち   ▲ ~~~~~~~~~~   彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」   ~~~~~~~~~~~~~  という箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと言われます。  § 9 つづき――モーセにおける蛇との闘いの事例――  ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~  〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。  民はモーセのもとに来て言った。   「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、   わたしたちから蛇を取り除いてください。」  モーセは民のために主に祈った。  主はモーセに言われた。   「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ   を見上げれば、命を得る。」  モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。  ~~~~~~~~~~~~~  § 10 つづき――イエスは 《青銅のヘビ》か――  ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~  そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。  それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。  神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。  独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  § 11 いかなる事態であるか?  もし性欲も大自然への畏れも ヒラメキをも含めて感性だとすれば この感性とそして理性との あらそい なのであろうか?  感性は 間違い得るし あやまちを侵す。ただし そのこと自体にウソ・イツワリがない。  理性は あやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。  ただし このような問い求めをおこない説明をあたえるのは 理性でありそれを用いる志向性としての意志である。

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回答No.17

毎回、ご意見ありがとうございます。 >『悪は善の損傷行為でありその結果の善の欠如なる状態』 悪を善の欠如とするbragelonneさんの”悪の定義”は広くキリスト教で見られる伝統的な定義ですね。意外に保守的な”悪論”で、すこし驚いております。 確かこれと同じ論理で、神を光に、悪魔を影(光の欠如)で説明する悪魔論もあったように思います。「至善なる神が悪(悪魔)を創造するはずがない。悪は善性の欠如である。」これは論理というより、過去のキリスト教神学者の信仰に基づいた確信なのでしょう。 所詮、善と悪は相対的概念、相補的関係にあるので、左を右の逆と定義することも可能であるように、悪を善の欠如として定義することも可能でしょう。ただ、悪を善の欠如として定義をする場合、善を明確に定義しておく必要があります。幸い、bragelonneさんの善についての定義があるのでこれを検討したいと思います。 『《善》はと言えば これはただただ主観的な思いと判断によるものと考えられます』とあります。さらに、この直後に『おのれの心がよしと思うことが 善なのだとです。それは この心の善にさからうときに動悸がはげしくなったり顔を赤らめ冷や汗をかいたり 言葉はしどろもどろになったりします。ゆえに ここで善とその善の損傷とを分けることができます』と続きます。 つまり、bragelonneさんは、《善》の根拠を人間の主観(的判断)と動悸や発汗などの生理現象に求めているようです。 そのように理解してよろしいしょうか。 あるいは、動悸や発汗のなどの生理現象は善の欠如である悪を選択する後ろめたさ罪悪感といった心的なものに起因するものであって、「善の根拠は人間の主観にある」という立場を取っていられるのでしょうか。 ☆bragelonneさんは、イエス・キリストと同様に明らかに律法否定の立場を取っています。しかも、既成の(「世俗の」と表現した方が適切かもしれませんが…)道徳観・倫理観も否定、もしくは軽視・無始する立場を取っています。 では、bragelonneさんの文中にある『おのれの心がよしと思う』の、「心がよし」と心が判断する基準は何なのでしょう。何に根拠を求めればいいのでしょうか。 bragelonneさんの言う”非経験的ひらめき”? 直観や直覚?? 神との直接的結びつき、もしくは”神の直接介入"??? 人間の心の中に善を判断する根源的能力でも備わっていなければ、ひとりよがり・独善主義や感覚主義・快楽主義に堕する危険性を有しているように思うのですが、この点についてどのようにお考えですか。 理性に価値を置かれていないようなので、理性ではないことだけは確かなようですが… ☆新約聖書に登場する悪霊(悪鬼)について質問します。 bragelonneさんの立場は、悪魔は人間が作り出した観念である、という立場です。では、新約聖書でイエスか祓った悪霊・悪鬼とはいかなる存在なのでしょうか。 これも悪魔同様に人間が作り出した観念であり、非存在であるということでしょうか。つまりイエスの悪霊払いの数々の話は寓話であるとお考えなのでしょうか。 ☆ok9608さんと神の存在論をやっておられるようですが、過去千年以上にわたって数多くの哲学者や神学者により神の存在論的証明が試みられ、その悉くが失敗し、その試みがいかに不毛で無意味なものであったことが知られている現在、今さら新たに神の存在論、存在論的議論を行っても無意味に思えるのですが… 神の存在は、結局のところ、信仰の問題に帰着します。 また、ok9608さんの指摘する通り、神の存在を前提にしても、あるいは神の存在の否定を前提にしても、いくつかの原則(公理)を立て、後は純粋に数学的・論理的な操作を行うことで理論を構築できます。それは、平行線公理を否定したところから出発し、非ユークリッド幾何学が誕生したことと同じです。しかし、非ユークリッド幾何学の誕生で分かったことは、平行線公理がユークリッド幾何学の理論体系では証明できないことであり、そして、それを公理として認めても認めなくても、別の幾何学の体系が構築できることです。神の存在についての議論は、まさに、「幾何学において、平行線公理を認めるか、認めないか」という議論と同様のようです。無意味とは申し上げませんが、感情的なしこりを残すだけの不毛な議論になる危険性をはらんでいると思うのですが… また、ok9608さんは「神の実証は難しい」と主張されていますが、私は同様に「神がいないことを実証することも難しい」と考えています。 まずありえないことだと思いますが、もし科学が進み、科学(神の存在を必要としない理論体系)で自然現象、精神現象のすべてを説明できたとしても、それは単に「その説明に神を必要としない」というだけのことです。”神の非存在”を証明したことにはなりませんから。 もっとも、これは、科学・理性が新たな神になった、神(の概念)が変わったと主張する人が出てくると思いますが…

bragelonne
質問者

お礼

 眠り猫にゃあさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  神の存在についての議論は不評のようでした。  ひとつに 次のわたしの神の定義をよろしかったら ごらんください。  【Q:神は 人間の精神ではありません。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7399495.html   回答No.2へのお礼欄  《経験合理性によって考えても分かるか分からないかが分からない非経験の領域》とするものです。  もうひとつに 人類がどの言語でも持つに到った《信じる》ないし《かみ》という言葉 これがどうしてあるのかという問いに 神の定義があると見ます。無根拠・非合理としてです。そうでなければ 《信じる=考える》ということになると思われるからです。  あとは 《無限》という概念で説明するのが よいと考えます。二で割っても三で割っても その商はやはり 無限であるというそれです。  でも   ★ ~~~  まずありえないことだと思いますが、もし科学が進み、科学(神の存在を必要としない理論体系)で自然現象、精神現象のすべてを説明できたとしても、それは単に「その説明に神を必要としない」というだけのことです。”神の非存在”を証明したことにはなりませんから。  ~~~~~  ☆ とおっしゃっていることと同じことを言っているつもりなのですが。  もしかしたら 《証明》という観点を持つかどうかで 違っていましょうか。証明の成否の以前に 存在ないしその現象(生活)があると思いますから そこでは《非思考》というコトは 人間にとって現実だと思うからです。  あれぇーっ。  ★ 神の存在は、結局のところ、信仰の問題に帰着します。  ☆ 同じ主旨であるのかどうなのか。・・・  つまり 《無い神》も 《有る神》と同じく 非思考であり信仰だと見ています。     *  ★ ~~~~   では、bragelonneさんの文中にある『おのれの心がよしと思う』の、「心がよし」と心が判断する基準は何なのでしょう。何に根拠を求めればいいのでしょうか。  bragelonneさんの言う”非経験的ひらめき”?  直観や直覚??  神との直接的結びつき、もしくは”神の直接介入"???  ~~~~~~  ☆ 結論から申せば 人びととの《話し合い》です。半永久的な話し合いです。言いかえると 《決まらない》とさえ言わなければならないかも知れません。  ○ 「善の根拠は人間の主観にある」という立場  です。言いかえると 《存在》が社会的な関係性をも含むというごとく 《主観》は共同性を持ち得るという見方です。  あとは 善悪論としてではなく 実際の政策や仕事の議論として結論を出すこと ここにおいて けっきょく相対的な善なるものをもとめるし 実践するということになると思います。  実施したあとにおいても・途中の過程においても やはり 対話です。どこまでも対話です。  言いかえると 試行錯誤だということになると思います。  存在ないし生命の肯定と否定とでは――つまり 公理としてなら―― 明確に善と悪とが分けられるとは思います。共同主観になれると思います。  よい対処法がありましょうか?     *  ★ ~~~~  ○ 新約聖書に登場する悪霊(悪鬼)について質問します。  bragelonneさんの立場は、悪魔は人間が作り出した観念である、という立場です。では、新約聖書でイエスか祓った悪霊・悪鬼とはいかなる存在なのでしょうか。  これも悪魔同様に人間が作り出した観念であり、非存在であるということでしょうか。つまりイエスの悪霊払いの数々の話は寓話であるとお考えなのでしょうか。  ~~~~~  ☆ 《われは 神のごとくいかなるものの下にも立つまいと堅くひそかに誓った精神》は そこに征服欲ないし支配欲を伴なって 情念を奮い起こし 《観念の帝国》を築くようになると見ます。観念の皇帝になるであろうと。  これが 帝国主義たらんとするとき 支配欲によってすでに自分が支配された状態になるならば それは アッキもしくはアクマになると見ます。  アクマは すべてを否定する精神です。  これが あたかも空気のような身体になってくるなら これは悪霊です。    観念なのですが 観念が自分の身体に作用し そこからさらに現実にそのチカラを振るうと見ます。そのためにこそわが精神も身体もあると決め込んだ精神なのだと思います。心が熱くなるときには からだが冷め からだが熱くなるときには 心が目覚めないといった心身の現象を持つようになるのではないかと推測します。  要するに観念ですが 現実にチカラを持ちこれを振るうと見ます。それは じっさいに電波のような現象として人に・つまり何らかの理由でこだわりをもった相手に 古い言葉で言えば 憑きます。念力を放出するようにして 相手に覆いかぶさるのではないかと見ています。つまり 具体的なウゴキはまだ見えていません。そこにいるだけの状態で 相手が 自分にとってこれはと言ってこだわられてくる人であれば その電波放出のようなウゴキが現われると見ます。  イエスは アース役となって悪霊を一たん受け留め しかるべくこれを内面において嫌い憎みその心の〔善悪の〕あり方として批判し 内的に棄てる。自分の中にその心的現象を起こす芽を摘んでおく。こうして アクマ・アッキに対処すると思います。(人間としてはです。神としてはは分かりません)。  ○ アクマ・アッキあるいは悪霊は 理性の産物であり 観念である。しかもその観念が身体や現実の事象やほかの人たちに物理的なチカラをもおよぼすことがある。  と捉えています。イエスの悪霊払いは じっさいの出来事だと思います。  それを解くには合理的な根拠を見い出しがたい主題ばかりになりましたね。

その他の回答 (23)

回答No.24

贈与経済は、根元的な人間の性愛を抑圧から解放することで ダイナミズムを復活させたいという人類愛からくる崇高な ものには違いないと思います。 ただ、気になるのは、現に社会構造により人間の脳は、たぶん ちょっと嫌な感じに変化しているのが現実だということです。 例えば、私のように贈与に対して素直さを取り戻せないとか、 または、承認欲望が発達しすぎていたり、市場価値にしか意味 を見いだせなくなっていたり、などなど。 また、自然科学への探求や、社会学へのそれも、もっと博愛的な 人類愛から出発しているのではないでしょうか。 白物家電というカテゴリーの概念を伝統的にとらえすぎているのに 違和感を感じるのは、分析分解で伝統をみることよりも、精神的な ロマンを伝統を感じるのと似ているのかもしれません。 性愛が根元的であってもっとも必要なものであることは否定できない けど、そこから自然愛、人類愛と博愛へ広がっていることも、創造の 本質にあるような気がしてならない。 個人的な気分では、伝統を分解してマージ力を注入することが、 ダイナミズムの気がしているので。 ふわふわした博愛と現実的な性愛もなんとかマージして、現実から 出発した創造がめざせるといいのだけど。 と思っているのですが、 手持ちの知識が少なすぎるので、ここでペンディングさせてください。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ちょっと前回は 親から子への受け継ぎについて力点を置きすぎたかも分かりません。つまり そこから性愛に焦点があたったのかも分からないと思いました。  つまり 力点は 《生まれる》という受け身のあり方にあります。この世に出るのに 誰もが受動としてその存在がある。  それと 恩恵という意味での贈与は いま上の《生まれる》という受け身のことを言おうとしていました。  これは ヒトという存在がすべて例外なく 与件とするところです。所与の条件とします。世界‐内‐存在というとき どうしてもこの受動性について顧慮せずには 話をすすめることは出来ないのではないか。です。  そして  ★ 贈与経済  ☆ ということになると――つまりは 社会的な交通(コミュニケーション)ということになると―― これまた やっかいなあり方をしている。または むしろ人間が互いにやっかいなかたちに 捻じ曲げて来たかのように思われます。  ★ ~~~~  例えば、私のように贈与に対して素直さを取り戻せないとか、  または、承認欲望が発達しすぎていたり、市場価値にしか意味  を見いだせなくなっていたり、などなど。  ~~~~~~  ☆ わたしも同じくの口ですが 中元歳暮のならわしは どうも交通の形式として はっきりしません。何を意味しているのか。何を思ってそうするのか。  あるいは そもそも贈与というのは 相手に負い目をあたえることだと見ます。お返しを――要求するしないにかかわらず―― しなければならないというような負い目をもらったほうにあたえます。  それは むしろ確かに そもそも――最初の議論にもどって――生まれ落ちたことが或る種の《贈与》なのであるから そのお返しに人間たるものすべからく互いに無償にて贈与し合うべしという思い(ないし思い込み)があるのかも知れません。つまり ごくふつうの・自然の姿として 贈与はおこなわれるという一つの見方です。  でもたぶん これに全面的には従えないように わたしには思われます。感覚が どうもそうではないように感じています。  言いかえるとそういうことなら けっきょく《助け合い》としておこなえばよいのです。これと 贈り物とは はっきり別のものだと見られます。助け合いは 助けられる側も それを欲している。贈与は 上司か何かの地位にあれば お中元が来るのを期待しているといったことが言えるのかも知れませんが それは まったく話が違いましょう。  承認欲望――という用語でいいでしょうか――の場合には 今村仁司が論じていることには けっきょく《模倣欲望》と一体になるということらしいです。  もしお調べになるようでしたら 次の趣旨説明欄に書きました。  【Q:イエスは 排除された《第三項》か?】  承認欲望が内につのって来て衝動的にその満足を欲するようになると 何でもいいから人びとのまねをするという傾向が出て来るということのようです。つまり 模倣欲望。  ブランド物となれば   ★ 市場価値にしか意味を見いだせなくなっていたり  ☆ するのでしょう。  模倣欲望ないし流行癖ないしブランド病は でも 模倣したくないという反発心をも生むと言います。  おそらくその心は 受け身という存在のあり方から出発してしかもそこに自由な交通としての動態を推し進めようとする人びとの心のチカラに発するのではないかと思います。これは  ★ ロマン  ☆ ですね。  このようなねじ曲がりのかたちをも持ちながら伝統はかたちづくられて来たのでしょうが  ★ ~~~  個人的な気分では、伝統を分解してマージ力を注入することが、  ダイナミズムの気がしているので。  ~~~~~  ☆ ということにもなるでしょうね。  この言葉は知らなかったので:  ▲ (マージ【merge】) ~~~~   http://e-words.jp/w/E3839EE383BCE382B8.html  「合併する」「融合する」といった意味の英単語で、複数のファイルやデータ、プログラムなどを、決められたルールに従って一つに統合すること。  ~~~~~~~~~~~~  おそらく 伝統のあり方とそのもろもろの要素を腑分けするようにして 学問においても実践においても つねに一から出直すというくらいの気持ちで《マージ》しつつ すすめて行くのでしょうね。  (ここで《つねに》は ちょっときつかった。一時代ごとに一から始めると言えばよいでしょうか)。

回答No.23

とりあえず、懐疑的立場をメモさせてください。 父性への嫌悪について、社会構造に疑いをもっておきます。 思春期のかかんな時期には、俗的なものを嫌って、 世俗から離れた、ロマン的、抽象的なものにあこがれに もつものではないでしょうか。 雑然と手垢にまみれたものより、人間が追求してやまない 整然とした法則性、美や、歴史的ロマンや、理想的な愛の形 や、人間が空想するおとぎ話の世界など。 現実の生活感とは、かけはなれた家族は嫌悪して、少し距離 をおきたいと考えだすのだと思います。 父親を嫌悪する娘に対する、父親の娘への性的な言動は 労働による市場価値観的な生産物を享受しながら、そこから かけはなれたところに心をもっていかれることへの、苛立ち から、ひきずりおろそうとするものなのかもしれません。 また父性という密着した感覚は、尊敬する先生を敬う気持ち とは、本来的には、差異が有ると思います。 歴史が積み上げた大きな世界観に敬意を表すのと、密着した 性愛的なものが同じとは到底おもえない、そもそもそこに 疎語がある。 社会の密着した贈与を受けることを抑圧的に感じるという ことは、社会を歴史が積み上げた構造として、少し離れた 立場で敬いたいという事ではないでしょうか。 父性が社会的責任との関係が否定できないものなら、 社会構造やゆがみを生み出しているのの否定することは できませんが、市場価値に振り回された父性は可哀想かも しれませんが、そもそも、社会構造に父性や贈与感を 求める必要が本来的にあるのかどうか疑問です。 つまり、歴史的構造なのだから、尊重、尊敬で充分じゃ ないかと。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  最後の一文つまり  ★ つまり、歴史的構造なのだから、尊重、尊敬で充分じゃないかと。  ☆ これでしたら ほかのそれまでの議論をすべて最後において打っ棄ってしまい得る命題だと思いますよ。  たとえば ヒトという種つまりは じんるい この類としての人間のいとなみとして出来上がった歴史および社会 ここから恩恵を受けるという側面が 一方であると思います。  それは 偉大な人たちが社会生活をいろんな面で――精神文化的な発展としても経済生活の安定としても――発明やら何やらによって貢献してきたということでもあるし じつはもっと肝心なことは 一人ひとりが地道に 山や谷を超えて 一歩一歩あゆんで来たというところにもあるというその全体的な側面です。  ただし ささやかながら もう一方の側面もあります。  たとえば 恩恵ないし贈与というならば 単純に両親からその存在を承けて来ているということです。当たり前なのでしょうが それをないがしろにすることは出来ない。はずです。  つまり  ★ 歴史的構造  ☆ には このちっぽけな個人の視点とそして社会全体としての視点と 両方がそなわっていると見られます。従うならば そのどちらにも  ★ 尊重 尊敬  ☆ が向けられると思います。  たとえ  ★ 市場価値に振り回された  ☆ 側面しか見えないという場合にもです。  ですから このつてでは 千と千尋の神隠しで 千の両親が ぶたに変身させられるようですが それは この《市場価値に あまりにも 振り回されている》ということを咎めているように思われます。そして だとしたら それは やはり一面的なものの見方なのではないか? とは思います。  辛口批評でした。

回答No.22

鈍らないうちにいろいろ見えてきたことをできるだけ データーとしてアウトプットしておきますね。 認証欲求についてですが、これは母親が関係しているかもしれません。 母親は私への認証欲求が強く、なぜかわかりませんが、 わたしの認証欲求を拒否してきたようです。 それによる嫉妬も結構うけました。 たぶん父と私の心理的な関係も原因の一つかもしれません。 (何故かわたしにだけだから。) そういえば私の子供(孫)への認証欲求も拒否してました。 (その時は、わたしも怒ったけど) 社会にでてからも、認証欲求の嫉妬はさけてたというより 無視していました。 いまでも女の人のそれには敏感ですが。 それと向上心は関係あるのかないのかわかりません。 (ただ根がなまけぐせなだけのような) とりあえず、それぐらいです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 認証欲求  ☆ とも言うんですね。わたしは 《承認欲望》としてまなんで来ました。  これは あんがい強いと思います。かなり強い欲求だと思います。  というのは 存在をみとめるという基礎としての言わば最低限の欲求でもあるからではないでしょうか。  《いま・そこにいる》というだけのことでも ひとから承認されるということは 人にとって大きなことであるように思われます。    たぶん今回のデータは そのまま次へとつなげて行かれればよいのかと思います。  それにご家族のことは分からないわけですから。  というような反応に終わりますが。    ★ 認証欲求の拒否から 嫉妬  ☆ この《嫉妬》は 《いやがる〔→ さらに欲求が強まる〕》といったことのようにも受け取れましたが よくは分かりません。

回答No.21

おはようございます。 どういうわけか、一晩寝て起きたら 気持ちの整理どころか、付き物がおちたように なにもなくなってしまいました。 たぶん、それなりの年齢だからだと思います。 父は、ずっと気持ち悪い存在でした。今も気持ち悪いです。 俗に言う、いたずら、性的暴行はうけておりません。 ただ、そういう方面のことで本当に沢山の嫌な気分に させられた事は沢山ありました。 だから、今でもどっかで警戒しています。 ちょっと可哀想かもしれないけど自業自得ですよね。 いい意味で、興味の範囲の円が小さくなっていけそうな 気がします。感覚も鈍くなれるかも。 ネットもやめられるかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 今も気持ち悪いです。  ☆ かわいそう。  あとは 万々歳へ向けてですね。  めでたし めでたしへ向かってでしょうか。  ご回答をありがとうございました。    ★ ネットもやめられる  ☆ 状態でも 書き込んだりしてもいいわけでしょうけれど。

回答No.20

父はまだ健在していますので、何も言いたくありません。 ただ、やはり自分の家族がありますから、これから子供の ことを考えていかなければなりません。 とにかく子供にとって適切なことをしたいです。 それには、プライオリティーをつけなければならないと思います。 まず、気持ちの整理はペンディングが望ましいのかが、 正直いってまようところです

bragelonne
質問者

お礼

 ごめんなさい。  勇み足でしたね。  知らずに ふと思ったことを言ってしまいました。  さらに考えすすめて行ってください。

回答No.19

bragelonneさん、ありがとうございます。 ☆善の根拠を人間の主観に求めていることが分かりました。そして、対話によって、主観主義が陥りやすい「ひとりよがり」や「独善主義」といった弊害を克服しようというのですね。 さて、ここで問題になるのが、bragelonneさんが説く「主観の共同性」もしくは「共同主観」という概念です。イデアや合理的理性などを前提としないならば主観が共同性を持つことは難しいように思うのですが、bragelonneさんが「主観が共同性を持ちうる」とする論拠は何ですか。 また、僕には理解し辛い概念なので、「主観の共同性」、「共同主観」の意味するところを合わせて説明してもらえると助かります。 bragelonneさんの「共同性」という概念は、"common"や"universal"ではなく"co-operative"的な概念、静的というよりは動的なものに感じられるのですが、この認識は間違っていますか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  つづいてです。  ★ ~~~  さて、ここで問題になるのが、bragelonneさんが説く「主観の共同性」もしくは「共同主観」という概念です。イデアや合理的理性などを前提としないならば主観が共同性を持つことは難しいように思うのですが、bragelonneさんが「主観が共同性を持ちうる」とする論拠は何ですか。  ~~~~~  ☆ ずばり 次の見方によります。  ○ 《ひとは カミの似像(にすがた)である。》 ~~~~~  《世界霊魂(アニマ・ムンディ)》とわたしとの一体という見方は 《梵我一如》というかたちにおいても 言われて来たところです。宇宙霊(プシュケー・トゥー・コスムー)と言おうとブラフマン(梵)と言おうと カミは《非経験》として同じことでしょう。  次の聖句の内容を推し測ってみました。  ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  次の図式が この文章の意を取って表題のごとく表わしたその内容を明らかにしようとしたものです。  ● (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式――   光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~~  ・・・「主観の共同性」、「共同主観」の意味するところを合わせて説明してもらえると助かります。  bragelonneさんの「共同性」という概念は、"common"や"universal"ではなく"co-operative"的な概念、静的というよりは動的なものに感じられるのですが、この認識は間違っていますか。  ~~~~~~  ☆ 人格は 自己表現の動態にあり その過程における自己形成そのことだと見るからには 動的なものをいっそう重く推し出そうと思っています。  そして 用語としては コモンセンス あるいは センスス・コムニスと言うことにしていますので けっきょく静的な側面をも含むかたちになり 含めておいても差し支えないと言えるかも知れません。  補足欄に 少々ふるいものですが 説明として掲げることにしました。

bragelonne
質問者

補足

 §1 《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関  人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。  《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。  《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。  強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。S者なるわたくしの身体の運動は 一般に社会的な生活の中で 自己のA者なる精神によって 記憶され知解(了解・意識)されまた 記憶にもとづき 知解されたものごとを 人はこの身体の運動とともに 意志する。  《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となります。  わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて 公民の領域を兼ね 公民としての役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として 公民の役割を担う者も 制度として 存在します。いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。  これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。ここで 差し支えない限り 一般の市民を 単にスサノヲと言ったり 従って もっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。   次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特には S者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味では S者は 主観であり 人間語です。    §2 主観としての《S‐A連関》から出発する  主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴なっていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。  すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。  このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同の観念》であると見ます。  主体的な生きたA語客観は 主観として殊に 《共同主観(common sense=常識)》と考えます。より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。  主観が 社会的に共同化されて 共同主観となるばあいには このように S者がA者(A語・A概念)をとおして 生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が 協働性を含むことは 言うまでもありません。    §3 共同主観と共同観念  さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけを取り出すときには 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように 単なる観念であり あるいはそこから 観念的な現実というまでのものになりえます。  たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえうる・そして感性で理解しうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念であり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語ったり論じたりするからです。つまり 抽象的でもあります。  したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イスムなる共同の生活において この《和》が 主体的に・つまり《S者ーA者連関存在》おのおのの行為をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観であります。  これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法などとして論じられ 規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共同性 つまり 共同観念をつくりあげることが 可能です。  この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たとえば《ムライスム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主体的な共同主観であったとするなら このムライスムと名づけられた語・概念・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。  共同主観は より一層 S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観的であることによって ムライスム(《和》)あるいは ナシオナリスム(《大和=やまと》)といった次元で 社会的です。  しかも 必ずしも感性的でないことによって 観念的であり 時に幻想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あたかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えません。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。  もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。  つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろ スサノヲ者の感性とは 一旦 基本的に切れているから そのナシオナリスムといった共同の観念が すでに外から・または上から 一人ひとりのスサノヲ者に おおいかぶさって来るというようなしろものです。  また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま 見出されるそれであるということになるでしょうか。    §4  記憶・知解・意志(愛)  身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。  同じく《知解行為》は 記憶に基づいてのように ものごとを知解する すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。  何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。  精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛ないし他者の愛(つまり 愛とは 自治・共同自治のこと)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。  記憶し知解し意志する《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。  また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を ある種 不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。  従って言いかえると 一般に 新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤のなかで 人は 生きることになります。  新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。  そこで この区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。  いま《スサノヲ-アマテラス連関主体》たる人間について考えてきて 社会としては S者共同体である市民社会が 基礎であり あたかも身体(S)の上に精神(A)が 乗っているように S圏の上にもA圏が乗って 全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。  次に これらの分析用語を整理しておきます。    §5 概念・用語の整理  《スサノヲ--------アマテラス》 連関主体  S者・S語(人間語)・・・・・・・・A者・A語・A語概念  身体・感性・・・・・・・・・・・・・精神(記憶-知解-意志)  《わたくし》・・・・・・・・・・・・・・《おほやけ》  市民(homme/bourgeois)・・・・・・・公民(citoyen)  社会主体・・・・・・・・・・・・・・・・社会科学主体  * 象徴としての国王・元首はアマテラシテAmatérasité; Amaterasity; Amaterasität

回答No.18

ちょっとだけわかりかけてきました。 どういうわけか、父性を実感として受け入れら れていなかったのだと思います。 自分の恋愛感が母性的でしかなかったということです。 信じてもらえるかどうかはわからないけど、 たぶんそういうことだと思います。 父性への警戒がとれないまま大人になっていたんですね。 父性を受け止めないで、母性ばかりおしつけて 死への衝動が先走る人がこわいということだと思います。 不感症とも関係があると思います。 単純にお父さん嫌いとか好きとかいう問題ではなく。 性的な警戒心だと思います。 それがとれないと、社会からの贈与も受け取る実感もできない。 ですが、贈与といっても、私の場合はですが、対価を伴うモノとかコト とも関係なさそうです。対価を伴わなくても(それが無償であっても) 関係ないみたいな気がするのです。 思春期まえの子供だったら、問題はないのですが、 性が芽生えて警戒してから、父親に対してとれないのが 問題なのです。 恋愛しても、社会にでて働いても、子供を生んでも、とれなかった。 たぶん、死への衝動をさえぎる人に身をあずける感覚なんでしょうか。 つれの人にはそうとう迷惑をかけているかもしれませんが、 私の母性も受け止めて、父性もあるので健康な人ということ だと思います。 克服はできないと思いますが、これからいろいろ調べてみたいと 思います。

bragelonne
質問者

お礼

 むつかしーーーい。  ご回答をありがとうございます。  ★ ちょっとだけわかりかけてきました。  ☆ 何よりですが なかなか今度はこちらが分からなくなる感じです。  むつかしいので 直後のご回答より後回しにいたしました。    さて ゆっくり考えるのですが 果てさて どういうことになりましょうか。  ★ ~~~  父性を受け止めないで、母性ばかりおしつけて  死への衝動が先走る人がこわいということだと思います。  ★ ~~~~  単純にお父さん嫌いとか好きとかいう問題ではなく。  性的な警戒心だと思います。  ★ ~~~  恋愛しても、社会にでて働いても、子供を生んでも、とれなかった。  たぶん、死への衝動をさえぎる人に身をあずける感覚なんでしょうか。  ~~~~~~  ☆ これも 考えると言っても感覚的なところもありそうなのですが 分かるような感じがするので 取り上げましたが・・・。  ○ お父さんは あこがれの対象ではなく こわかった。?  けっきょくのところ分かりませんので でも思ったこととして次のように言ってみます。  ○ お父さんに対しては では ひとりの人間として接すればよいのでは?

noname#156094
noname#156094
回答No.16

ヘビに関する数多くの逸話や解釈は皆さんにおまかせしましょう。 野蛮人は野蛮人らしい話に徹したほうがいいと思いますので 以下追加します。 「ヘビの言葉」 以前に私の母親が田んぼを見回りに行ったときでしたが 排水路のわきで自転車から降りて、家の田んぼを見にいこうとした時の事でした。 細い畦道を少し歩いていくと 「助けて」という声がはっきりと聞こえたそうです。 驚いて周りを見渡してみると、誰もいない これは・・・と思ったが、どこを探しても人影が見当たらないので 気持ちが悪くなり、急いで自転車に乗って逃げるように帰ってきてしまったそうです。 その夜、母からその話を聞いた私は お~それは怪談だ・・・空耳だ・・・ もしかしたら近くに亡くなった人の霊でもいたのかもしれない・・・ などと冗談混じり言っていたのですが どうも本当らしいので 結局、私も気になって、翌々日の朝でしたが、その場所に行ってみることにしました。 排水路や畦道や水路のトンネルやら、周りの草むらをよく見回ってみました。 目についたのは、通りがかりに捨てられたゴミが少しあるぐらいで、人影らしきものはありませんでした。 な~んだ何もないや・・・と思って帰りがけた時でした。 水路の向こう側の方から、ガサガサッという音がしました。 振り向いてみると草が揺れていました。 なんだろう、何か出てくるのかなと思ってしばらく見ていましたがそれっきりです。 草を揺らして音を立てる生き物といえば、鳥もいますが、鳥の場合には必ず出てきます。 あ~ヘビだな・・・と思いました。 ヘビか・・・大きなヘビがいたんだな、と思いました。 母が声を聞いたのは、このヘビのせいだったかもしれない・・・と思いました。 だが不思議なのは、私がいた場所からかなり離れたところだったことです。 水路をはさんで約4~5Mの距離はありました。 草を揺らして音を立ててまでして急に逃げる必要はなかったのではないかと思いました。 私がいた場所は、母が声を聞いたところとほぼ同じ場所でした。 ヘビがその存在を私に知らせたようにも思えました。 それから、なぞなぞ解きです。 草むらをあれだけ揺らしたのだから、かなり大きなヘビだったのに違いない・・・ ヘビが喋ったのだとすれば、なぜ「助けて」といったのだろうか・・・ あ~分かんない・・・ そのまま午前中が過ぎて、その日の午後でした。 仕事の関係で、まったく離れた場所でしたが、強烈な体験をすることになってしまいました。 現場の裏庭で、何と青大将の大きなヘビと大きな猫の喧嘩を目撃したのです。 お~珍しい光景だな・・・猫も中々やるな頑張れ・・・などと思っていました。 ここまではまだよかったのです。 仕事の打ち合わせを家の人としていると、いつの間にか、その猫がすぐ近くに来ていました。 何と先ほど喧嘩をしていた大きなヘビを咥えていました。 ヘビは傷ついてだらりとした感じで猫の口からぶら下がっていました。 その猫が、なぜか私の方を向いてこちらをじっと見ていました。 いやはや、これには驚きました。 私もしばらく猫の方を見ていましたが そのうち猫がヘビを下に降ろして去っていきました。 おいおい、なんでヘビを置いていくんだ・・・ 俺に何とかしろ、というのかい・・・などと思いながら近ずいてみると ヘビは瀕死の重傷でした。 あ~あ、ここへ置くわけにはいかないな 可哀そうだから草の中へでも置いてあげよう、と思って 棒で拾いあげて、近くの草むらの中へそっと入れてあげました。 ヘビはほとんど動かなかったところをみると、もう絶命寸前だったかもしれません。 あ~また変なものを見せられてしまった。 なんなんだ一体これは・・・ 午前中の事といい、何かあるのかい・・・ もう・・・やだ というわけで、このなぞなぞは今だに解けていないのです。 一部は解読できたつもりですが、お話するにははばかる内容ですので控えます。 最後に野蛮人の雄たけびでもいかがでしょうか。 へたのすけもついに気が狂ったのか、という事で歓迎される向きもあると思いますので・・・ あ~野性よ! 一瞬のヒラメキを逃すことなく捉えよ! 新しい時の知らせを受け止めよ! 汝の知る汝の証が尽きるまで 汝の知らざる汝の証も尽きるまで。 終り。です

bragelonne
質問者

お礼

 わたしが正気であったなら それは みなさんのためだ。  わたしが狂気であったなら それは 神のためだ。  へたのすけさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  まぁ 何とも反応の仕方に困ると言えば困りますね。  交感( correspondance )ということがあるにはありますが。  ○ 《交感(Correspondances)》 ~~~~  自然はひとつの神殿で 生命の柱が  混沌とした言葉を時折り洩らしている。  人は 親しげな眼差しで迎える象徴の  森をよぎってそこを過ぎ行く。  夜のように広くまた昼のように広い  闇の 奥の混一の中に遠くより  混淆して聞こえる長い反響のように  香りと色と音が互いに交感しあっている。  それは幼な児の肉のように新鮮で  オーボエの音のやさしさに似た 草原の緑の香り  ――また別の 腐って豊かな勝ち誇り。  龍涎 麝香 安息香また焼香のように  限りないものの広がりを持ち  精神と感覚の夢中を歌う香り。  (Ch.ボドゥレール)  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 淡々とした味気なさがよいかもと。  たぶん ヘビの不思議なお話は そちらの方々の具体的な歴史や情況に即した意味があるのだと思いますが この場合は どれだけの程度でそこに登場するものが《へび》なのか。こういう問題もあると思います。ヘビでなければならなかったのか。  ただ どんな動物でもよいという意味で ヘビなのだという見方も成り立つかも知れないと思うと ヘビは重要であるかも知れません。  洪水をもたらす水の神としては ヘビも スサノヲ性を持つかも知れず また水をめぐみ治水をもたらす水の神としては アマテラス普遍語の性格を持つかも知れません。  つまり 両側面があるのかどうなのか。・・・

noname#155751
noname#155751
回答No.15

春だというのに何もすることがありません。 アニメの話です。蛇の話ですか。蛇は、性器・鞭・武器みたいですねとか、性的に嫌なことがあった人は性欲嫌悪の成熟拒否になりますねとか。性的成熟拒否は深刻な問題です。 薄い知識の中でたしか創世記の神は狭量にも蛇を否みましたが、仏陀は否まず、老子は蛇に呑まれていたと思います。創世神の元で人は性欲性交=悪汚辱みたいに処女信仰(+男根主義)でマリア崇拝は性欲蔑視と成熟拒否の現れだと思います。仏陀は樹下で切除手術をせず蛇(性欲など)を自ら含め心の中ぎょう虫のように飼ったので仏陀の方が本性には優しく漢方気味だと思います。更に東へ行く道では白痴化をすすめる老子が蛇に呑まれました。 宮崎駿の原点は白蛇伝でした。 カリオストロの城と紅の豚が言及されているのでろくにオタクでもないのに何か書きます。 宮崎駿の原点は白蛇伝 http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_challenge_20040810.htm 三次元に閉じ込められていた宮崎元少年は二次元に描かれた乙女・白娘子の美貌に悶々としたそうです。 白蛇伝予告 http://www.youtube.com/watch?v=3F6Puoj3xNk 愛しい人どうしの別れるのが素敵なわけは? たぶん魅了され恋をし熱望して相手から美徳を吸い込み、または吸い込めないことに気づいてそして別れるから人はそれぞれ成長していくのだそうなのでそのためだと思います。 紅の豚「時には昔の話を」 http://www.youtube.com/watch?v=rIePRLjn8gs 憧れは憧れのまま カリオストロの城(ルパンとクラリス姫)http://www.youtube.com/watch?v=anutuITTXt0&feature=related さび付いた大人は純白のものにはあまり触れられません カリしろ(銭形のとっつぁんとクラリス)http://www.youtube.com/watch?v=CLFmo5W_Cl0&feature=related ハクと千尋 http://www.youtube.com/watch?v=xwJCU0QAv0o&feature=related ハクと千尋 http://www.youtube.com/watch?v=7GCz7MbBM_U&feature=related いくぶん気持ちが和らぎます。

bragelonne
質問者

お礼

 にしな‐みしなさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ハクと千尋  ☆ この神隠しは 見ましたよ。社会人になる過程をえがいて成功しているのではないですか。  ただ 気になるのは 両親がブタに変えられるのですよね。そのことが 外枠としてのように想定されている。つまりは  ★ 創世神の元で人は性欲性交=悪汚辱みたいに処女信仰(+男根主義)でマリア崇拝は性欲蔑視と成熟拒否の現れだと思います。  ☆ と見られているような世界観が 影響していませんか? つまり へびをアクマとして見て これを排除するかのように ふつうの市民を資本主義の飼い犬や飼い猫として捉え いっぺんブタに変えてみてやろうとしていることはありませんか?  とは気になりました。    ★ 紅の豚  ★ カリオストロの城(ルパンとクラリス姫)  ☆ これらは よく分からなかった。申し訳ない。  ★ 白蛇伝  ☆ は 大昔の話です。映画館で見た記憶があります。でも 忘れてしまったなぁ。  というわけで――ってどんなわけ?―― 何かここから進展があればよいと思います。  とりあえずありがとうございました。

回答No.14

ありがとうございます。 身近なところから、また仕入れました。 ・父性からくる社会的責任感 ・永遠性の保存(バーバーの女房は川に飛び込んで自害して破滅的に保存しています) が理由にあがりました。 別の例で ドンキホーテ(懐古型保守のロマンを批判する目的のはずが、社会不安の世論がロマンチシズムに        魅了された) 重愛の回避は了解しました。 かくされたたくらみとして、スノッブな上司に足蹴にされているOLの生産性の底上げ の為の落としどころ(全体生産性)をさがしています。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  むつかしいなぁ。  ★ ・父性からくる社会的責任感  ☆ これは あります。つまりあるいは 家族に対して誇りある父親たらんとする責任感もです。  ★ ・永遠性の保存(バーバーの女房は川に飛び込んで自害して破滅的に保存しています)  ☆ これは どうでしょう?  故人となったから 遺された者にとっては 永遠の存在となったであろうということですか?  そうかも知れないけれど そんなことをしなくても 互いに人であることは その存在そのものにおいて 関係の絶対性が成っていると 思いますよ。もともと きづな はあるのだと。  ★ ドンキホーテ(懐古型保守のロマンを批判する目的のはずが、社会不安の世論がロマンチシズムに魅了された)  ☆ そうかも知れません。  懐古の《古》の中身がどうかで そのロマンのあり方が違ってくるかとも思いますが ともかく《世間がもし閉塞感に満ち不安がただよっているとしたら ともかくのロマンチシズムに魅了される》ことはありましょう。  ★ ~~~  かくされたたくらみとして、スノッブな上司に足蹴にされているOLの生産性の底上げ  の為の落としどころ(全体生産性)をさがしています。  ~~~~~  ☆ 《足蹴にされる》理由が分からないのですが あまり仕事で役に立たないことがそれでしょうか? だから 生産性を底上げしなければならないのだと。  《スノッブ》であることが 一枚噛んでいましょうか? そこのところなど 情況がまだ把握しがたい面があります。  まぁ まづは互いにその場の一員としてやっていくのだという仲間の感覚を身に着けることも必要でしょうし そうするとよいと思ったりします。

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     1. 人びとの罪をあがなうという主題が 聖書関係に出て来ます。  2. これは 特殊な絶対性のもんだいかと思われます。それでも説明をつけようとする場合が 考えられます。では それは果たして 一般性を持つか? この問いを問います。          *  3. 例によって 悪魔を登場させての説明です。  4. 悪魔は すでに死んでいるのですが その死の制作者として 神に許されてハタラキを持ちます。  5. つまり 人間の罪をあがなうというのは この悪魔を征服するというかたちの話になります。  6. なぜなら 悪魔は 人びとに罪がある――罪を犯した経験がある――そのことを咎めて 最終的に人を死に追いやるというハタラキですから 誰かが すべての罪を引き受けたなら・そして清算できるように引き受けたなら あがなうことになります。  7. 例によって悪魔は イエスをも死にみちびきます。そのために罪へと誘います。  8. けれども ほかの人間はいざ知らずイエスとなると 悪魔にとって ちょっと趣きが違っていた。  9. イエスは 悪魔の気持ちや思い 怒りやその論理をすべて アース役よろしく その心身に受け留めてしまっていた。  10. では 死。この存在の消滅という死――つまり じつは 悪魔にとって おのれ自身のことである――をも 引き受けることが出来るか? と問いかけた。  11. つまりは 高等法院のお偉方らを促して モーセの戒律にしたがって イエスを死刑に処することになるように ことを運ばせた。  12. つまりは イエスとて おのれ自身の現実の死に追いやられたなら おれ(つまり悪魔)の心をやさしく包むことなど 出来っこあるまい。という魂胆である。  13. 果たして 磔の十字架に上がって イエスは どうしたか?  14. 降りて行かなかった。その死刑をあまんじて受けた。  15. つまりは 死そのものである存在(?)の悪魔にも 自由に対等に接していたイエスは 死そのものにも成るというわざに出てしまった。  16. へへんと思った悪魔だが そのイエスの心を自分の心に受け留めた途端 すでに身も心も溶けてしまった。  ☆ 質問者の捏造が入っていますが 果たして 一般性がありますか?

  • 《金の仔牛》に罪はない!?

     この聖書のひとくだりの物語を例に 組織宗教の揚棄を問います。  ▲(出エジプト記 32:1-35) ~~~~~~~  1:モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、  2:アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」  3:民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。  4:彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。  5:アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。  6:彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。  7:主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、  8:早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」  9:主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。  10:今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」  11:モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。  12:どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。  13:どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」  14:主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。  15:モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。  16:その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。  17:ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、  18:モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも 敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  21:モーセはアロンに、「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか」と言うと、  22:アロンは言った。「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。  23:彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、  24:わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」  25:モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、  26:宿営の入り口に立ち、「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、  27:彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。  28:レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。  29:モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」  30:翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。  31:モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。  32:今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」  33:主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。  34:しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」  35:主は民がアロンに若い雄牛を造らせたので、民を打たれたのである。  ~~~~~~~~~~~~~  【Q】 社会的な交通(コミュニケーション)においては 特に権限関係のある場合に 主観内面におさまりとどまる神を持ち出して その神との近しさや信じる度合いあるいはそれにもとづく業績を判断基準として ひとの思惟や行動を左右することは ゆるされない。のではないか?  集団ないし組織としての宗教は 揚げて棄てられるのがよいと考えられるのではないか?

  • カントの「実践理性の要請」について

    カントのいう実践理性の優位とは、神とか死後生の事柄は理論的にはわからないし「物自体」は認識できないが、だからといってそれはどうでもよいというのではなく、人間の道徳の実践のためには必要であり、その限りに於いて認め得るということでしょうか? もしそうなら、道徳的行為以外の事柄についても、神とか死後生の事柄を必要とする場合があるのではないでしょうか? たとえば死に対する恐怖を克服すること、そのために神とか死後生の事柄を要請することだってあり得ると思いますが、 それは実践理性の要請とは言えませんか? また、死の恐怖の克服だけではなく、自分の人生の意味付けや世間的価値基準の相対化など、精神衛生上有意義なことがあると思いますが、そうした見地から神とか死後生の事柄を要請するのは実践理性の要請とは言えないのでしょうか?

  • 聖書の原罪と贖罪とハルマゲドンのサタン性

    キリスト教の原罪と 贖罪について質問です。 まず2つの 聖句をあげると、 (創世記 1:28 ) 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 (創世紀9:1) それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ とあります。 神様は人を増やそうと命令していて、誰かを殺そうとは命令しておられないと思います。 人を減らすようなことはしない。 むしろ 生まれることを望んでおられる。 これを確認したいと思います。 一方で アダムとエバが蛇にそそのかされて、食べると死ぬことをになる 知恵の実を食べてしまった。 2人は神のようになるという言葉を受けて、食べてはいけないと言われた 知恵の実を食べて 神様に背き、罪をおかし、永遠に生きる見込みを失って死ぬことになった。 これが 原罪ということだったと思います。 そこへ、こ の原罪を贖うために 代償として イエスキリストの命を 十字架にかけた。 イエスキリストがその死を持って 原罪を償った贖ったということだと聞いています。 そうすると、現在によってアダムとイブが死ぬことになった この2つの命、まず2人がいなくなるわけです、そしてこの子孫 もう 原罪を引き継ぐので、これらはの命も失われたわけです。 これで 無数の命が失われることになります。 人が死んでいなくなるわけです。 言葉が直接 すぎたらごめんなさい。 それなのに贖罪によって、イエスキリストの命も失われます。 十字架にかけられて死んでしまうからです。 と考えると、人がひたすら失われていませんか? それはこの文章の冒頭であげた、創世記の2つの聖句「生めよ 増えよ 地に満ちよ」という神様の命令や意志に矛盾してるし 反してると思います。 神様は人を増やしたいわけです。 命を増やしたいわけです。 ところが この 原罪と 贖罪の考え方では、ひたすら 人が減っていきます。 一説によれば神様は 十字架にイエスをかけられることを計画にされ、イエスの前の時代に生まれてきた 預言者たちはイエスが十字架にかけられることをあらかじめ 述べていた。 イエスも十字架にかけられる前日に、ペテロによって 十字架にかけられるようなことがあってはなりませんと言われたけれども、イエスはペテロをあなたは人のことを思って 神のことを思っていないと退けて、十字架にかけられます。 もちろん イエスは様々な 奇跡を起こす力を与えられていたので、十字架を避けることもできたでしょう けれども、十字架にかけられる方を選んだ。 でもそれって本当に神様が望んだことなのかなと思います。 先ほども言った通り 神様は誰の死も望んではいなくて、むしろ人が増えていくようにと思っているわけであって、アダムや エヴァ それの子孫の死もイエスの死も望んでいないと思います。 では 何なんだろうと考えた時、サタンの思惑ということが浮かんできます。 永遠の命を見込まれていたアダムとエバをそそのかし 知恵の実を食べさせて、死に追いやり、原罪を贖う 目的でイエスキリストを十字架にかけ、死に追いやり、大勢の人を死に至らしめた。 例えば アダムとエバが原罪を負った贖いとして、イエスの死によらなくても あるいは、新たな命を誕生させることによって贖わせることもできたと思うんですよね。 アダムとエバの原罪を贖う方法として、もしあなたたちが新しい命を誕生させれば、赤ちゃんを生み出せば、あなたたちの原罪を取り払いましょうと全知全能の神様ならできたと思うんです。 ということは原罪による死、その子孫の死、 それを贖うための死、これらはとても サタン的だなと思います。 死ぬことでしか 何かを表現できないからです。 神様ならば 誕生させることで全てを表現してくれるんじゃないかと僕は思います。 イエスの贖罪後も 人は死んでいます。 本当に神様が望んだ贖罪であれば、それが神様的なものであれば、直ちに 永遠の命が与えられると思うんです。 それから 2000年経ったと言われる今も人は死んでいきます。それは 原罪と 食材がサタン的なものであり、神様の意志にそぐっていないからじゃないですかね。 例えば 子供がお腹を空かせて親に食べ物を求める時。親はできるだけ早く食べ物を与えたいと思うと思います。 ところが 永遠の命が与えられるのは ハルマゲドンの後。死を恐れ 苦しむ人もいるのに、ずっと先です。神様ならば 直ちに 永遠の命を与えてくれるんじゃないですか? 原罪、贖罪、 ハルマゲドン、 復活はサタンによる計画 じゃありませんか? ご読了に感謝します

  • キリスト史観

    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。

  • 【宗教・イスラム教の嘘】イスラム教の教えに矛盾を見

    【宗教・イスラム教の嘘】イスラム教の教えに矛盾を見つけてしまいました。 イスラム教の教祖はムハンマドで、ムハンマドこそがこの世の唯一の神である。地球の人間の誕生であるアダムとイブの直系の子孫で、兄弟の子孫にユダヤ教の教祖であるモーゼがいますが、モーゼの兄弟の子孫がイエスであり、キリスト教はイスラム教が誕生して、数世紀後にユダヤ教が生まれて、ユダヤ教の数世紀後にキリスト教が誕生したはずなのにイスラム教の教典のクルアーンにはキリスト教が登場します。 イスラム教の教祖のムハンマドが生きていた時代にはキリスト教は存在しなかったはずです。 いまイスラム教徒が信じて信仰している教えはムハンマドの教えではないのでは?

  • 闇の中にいる人が光を見ることができるためには・・・

     ( a ) わたしたち人間が 闇に覆われていたのが そこに光の差すのを見ることができたのは イエス・キリストの出現によってである。  と 質問者自身 思っています。  信仰――非思考の庭がわが心に成るということ――の問題ですが・つまり言いかえるとドグマの問題なのですが 哲学として考えるところをこの( a )の命題を説明しつつ述べますので ご見解をおおしえください。  闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。つまりはその意味で 人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが。  それは いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは   ( b ) 神が人間となって 人間として――ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として―ー去っていくことだった。のだと思われます。  ( c ) 人間としてというのは たとえば弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態。つまりイエスは 人から裏切られるような人間存在であったということ。  あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 イエスは死を死んだということ。などを言います。  ( d ) 人間としてでなければ――つまり神として 十字架上から降りて来るなどといった奇蹟を起こしたなら 話は別になってしまうという意味ですが―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  ( e ) しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は――そして神なる聖霊は―― 人間の精神なのではないと知らせる必要があった。  だから 信仰は 非思考。ヒラメキ。  ☆ この物語について 哲学はどう捉え扱うのか これが知りたいところです。どうでしょう?

  • 宗教の歴史

    世界の宗教の発生の歴史や相違について、宗教学の専門書でなく、 判り易い本がありましたら教えて下さい。 「ユダヤ教・キリスト教・イスラム教」と「仏教・ヒンズー教」の どちらか一方のグループだけについて書かれた本でも構いません。 一神教のユダヤ教・キリスト教・イスラム教は同じ神で、宗教の違いは、 預言者の違い(モーセ・イエス・ムハマンド)と聞いています。 イスラム教の5大預言者はモーセ・ノア・アブラハム・イエス・ムハマンドで、 悪魔サタンはイスラム教でシャイターンとか、 仏教のお釈迦様はヒンズー教のヴィシュヌ神の化身とか。 どうぞ宜しくお願い致します。

  • キリスト史観が成ったんだって!  おおーい! 

    0. 経験合理性から飛躍した思惟があることをお断わりします。 §1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。 1. 聖書記者の述べるには こうです。 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html はじめに ことばがあった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html イエスは言った。 《・・・ しかし あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは あなたがたが見ているものを見たかったが 見ることができず あなたがたが聞いているものを聞きたかったが 聞けなかったのである》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   2. ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。これにしたがうと イエスは キリストなる神(《ことばである神の子》)として モーセやアブラハム(《多くの預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。   3. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。 §2 イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史 4. アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように――《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。 5. その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》     (エフィエー アシェル エフィエー。)              (出エジプト記 3:14 ) という答えを得たと言います。   6. さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は或る日    《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編 2:7 ) という言葉を その神から聞いたそうです。   7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3 ) §3 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。 8. その後 時は飛んで――アブラハムから二千年でしょうか――イエスという人が出たというわけです。 9. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い    てある箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書 61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人    びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。    と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21) 10. このとき――さらには十字架上に去って行ったそのときに――言わばキリスト史観が完成したと思われます。 §4 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上――ここまで 及んだのだと捉えられます。   11. それは まるで千年も二千年もの時間をかけて あたかもことばをもてあそぶかのように。 12. そして もし成就したのなら キリスト史観は もうそのイエスまでだと考えられます。あとは 余韻のみではないかと。 13. キリスト史観から オシへを取り出し掲げる神観ないし神学をみちびくのではなく――ましてや その考えるべきオシへを 何を錯乱したか 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く組織宗教をでは断じてなく―― 哲学としての神論ないし人間論をかたちづくりたい。 §5 キリスト史観は 理論としては 存在論である。 14. 《存在》――《わたしは ある(エフィエー。 I am. )》――をめぐる理論としては この命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 15. 《わたしはわたしである》という自己到来とその――そこから逸れたときにはわれに還るところの――自己還帰すなわち 自己(存在の数として一(いち))の自乗(冪)を繰り返す生活動態。(1^n=1)。 §6 アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか? 16. むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。   (あ) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来っこないと人びとは思ってしまう。 (い)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。 (う) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ人間のちからとしての道徳や信念やあるいは科学の光に終わってしまう。 (え) あるいはひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。 (お) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。 (か) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなくこれを晴らし イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (き) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。 (く) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 (け) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 §7 ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めてキリスト・イエスだと分かった。 17. 生前には――イエスは みづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。 18. なぜか? ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~ 更に、主は言われた。   見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。   あなたはその岩のそばに立ちなさい。   わが栄光が通り過ぎるとき、   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、   わたしが通り過ぎるまで、   わたしの手であなたを覆う。   わたしが手を離すとき、   あなたはわたしの後ろを見るが、   わたしの顔は見えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は なお見えない。     §8 あらためて《表現の問題》という問題 19. というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。   20. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのか・どう解釈されたかを別としても。 21. ことばを《実質である事の単なる端として捉え 言の葉としゃれて表わす民》にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか? ( a ) たぶん 辻褄は合っている。か。 ( b ) 二千年四千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。 22. 世界は このキリスト史観を受け容れたのだろうか? ユダヤは イエス・キリストをみとめていない。ヨーロッパ人は あらためてどのように受け容れたのか?  23. ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけであると考えられる。俟ち伸びわびた史観が成就したのであるからには あとは すこやかさだけである。

  • イエスとアクマ

     キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラで戦わなかったのだと考えられます。  だから 十字架上に去って行ったあと 人びとの心に復活した。  話の都合じょう悪魔という言葉を出せば 悪魔は その十字架じょうの死の淵までは よう ついて来なかった。  それまでは イエスと同じ足取りで同じ軌跡をたどっていた。  イエスが何をするか その行動を追跡していた。  ハリツケの寸前にまで影のごとく寄り添って来ていた。  ところが 死の淵にまでは そのみづからの能力によってついて行くことが出来なかった。  それでこそ悪魔であった。  すでに死んでおり あらゆるものを否定し死にみちびく親分である悪魔も 自分がふたたび死ぬことは 出来ない相談であった。  もしそうすれば 即座に一たんよみがえって ふつうのまともな存在となる。と思ったとたん 中から炉心溶融を起こして溶けて行ってしまうとちゃんと知っていた。  ゆえに イエスの死の淵にまではもう よう来なかった。  去って行ったイエスに度肝を抜かれた。  よって それまでに罪を犯した者どもを自分の胃袋の中に抱え込んでいたのが すべて吐き出さざるを得なくなった。  文字通り アクマは 腑抜けになったのである。  添削をどうぞ。思いっきりのご批判をも。