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感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物

 ( a ) ヒトは 時間的な存在である。  ( b ) 時間的なるものには 限りがある。《限りのないナゾなるもの》に向き合いひとは おそれをいだく。相対的な経験世界のうちに生きる存在であることの自覚である。  ( c ) このきよらかなオソレにもとづき 知恵を持つ。境地としての知恵のほかに 理性なるものをも発達させる。  ( d ) やがて 知恵のもとの自由意志は かしこくもか おろかにもか オソレにも逆らい 理性をおのれの都合よいように用いるようになった。  ( e ) そしてさらにこの理性は 意志にも君臨しようとするまでに到る。それだけの発展性は備えていたらしい。  ( f ) その頃には 《無限というナゾなるもの》は 理性が観念としてあたまの中におさめてしまった。《観念の神》の誕生である。のちにこの神――つまり人びとのあたまの中にあるだけの観念の神――は死んだと宣言されねばならないほどだった。初めから死んでいるのに。  ( g ) さてここで突然 この理性が 性欲をめぐって ヘビなる情欲として《観念の性欲》の世界をこしらえてしまった。のではないか? サドとマゾッホらあらゆる想像力を動員して《きよらかな畏れ》に挑戦してみた。  ( h ) 風呂に井戸を掘るたら何たら言う人間は この《オソレ――この上なくつつましやかなひとなる存在のいだく畏れ――》 これをアーラヤ識かどうかは知らないが 深層の心理の中にだけ閉じ込めてしまった。かくて このヰルスに感染したときには 神は ムイシキであるとなった。       *  ◆ 《へび》の問題  § 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的・社会的な意味  次の文献によって わたしなりの分類をします。   ▲ 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)   http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/serpent.html    ○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~     (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂     (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として治水防風雨をしのぐ            あらぶる者:悪魔::荒魂     (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。     (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。     (ε) ゆえに エロスを象徴。     ~~~~~~~~~~~~~~      § 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。  併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。  この偏見で議論をとおしますので お見知りおきのほどをお願いします。  § 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。  言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。  こういう見方を持ちます。  § 4 この場合のムイシキは      (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)        =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ  のことです。  § 5 ムイシキの逆襲(?)  リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになるそうだ。  その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。  すなわち その意味や次元にまで還元されたと言いますか そう見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。  § 6 ムイシキとは 亡霊なり。  ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。  その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。  § 7 聖書におけるヘビの克服物語  イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。  いちおう理屈をつければ こうです。  悪魔は 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという〔気休めとしてでも〕希望を持ち得るけれども 悪魔なるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。そして その冥界へと人びとをさそう。  イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまでヘビを嫌った。ほかのナゾの何ものかに従順であった。ヘビなる悪魔などは 屁の河童であると。  ますます怒った悪魔は ついに実際に〔それまでに部下に持った人間たちをして〕イエスを死地に追いやり見世物にまでして磔を実行せしめた。  ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間が自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。  § 8 聖書の関係個所を引きます。  ▲(創世記3:14-15) ~~~~  主なる神は、蛇に向かって言われた。   「このようなことをしたお前は   あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で   呪われるものとなった。   お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。   お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に   わたしは敵意を置く。   彼はお前の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この部分すなわち   ▲ ~~~~~~~~~~   彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」   ~~~~~~~~~~~~~  という箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと言われます。  § 9 つづき――モーセにおける蛇との闘いの事例――  ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~  〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。  民はモーセのもとに来て言った。   「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、   わたしたちから蛇を取り除いてください。」  モーセは民のために主に祈った。  主はモーセに言われた。   「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ   を見上げれば、命を得る。」  モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。  ~~~~~~~~~~~~~  § 10 つづき――イエスは 《青銅のヘビ》か――  ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~  そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。  それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。  神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。  独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  § 11 いかなる事態であるか?  もし性欲も大自然への畏れも ヒラメキをも含めて感性だとすれば この感性とそして理性との あらそい なのであろうか?  感性は 間違い得るし あやまちを侵す。ただし そのこと自体にウソ・イツワリがない。  理性は あやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。  ただし このような問い求めをおこない説明をあたえるのは 理性でありそれを用いる志向性としての意志である。

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回答No.17

毎回、ご意見ありがとうございます。 >『悪は善の損傷行為でありその結果の善の欠如なる状態』 悪を善の欠如とするbragelonneさんの”悪の定義”は広くキリスト教で見られる伝統的な定義ですね。意外に保守的な”悪論”で、すこし驚いております。 確かこれと同じ論理で、神を光に、悪魔を影(光の欠如)で説明する悪魔論もあったように思います。「至善なる神が悪(悪魔)を創造するはずがない。悪は善性の欠如である。」これは論理というより、過去のキリスト教神学者の信仰に基づいた確信なのでしょう。 所詮、善と悪は相対的概念、相補的関係にあるので、左を右の逆と定義することも可能であるように、悪を善の欠如として定義することも可能でしょう。ただ、悪を善の欠如として定義をする場合、善を明確に定義しておく必要があります。幸い、bragelonneさんの善についての定義があるのでこれを検討したいと思います。 『《善》はと言えば これはただただ主観的な思いと判断によるものと考えられます』とあります。さらに、この直後に『おのれの心がよしと思うことが 善なのだとです。それは この心の善にさからうときに動悸がはげしくなったり顔を赤らめ冷や汗をかいたり 言葉はしどろもどろになったりします。ゆえに ここで善とその善の損傷とを分けることができます』と続きます。 つまり、bragelonneさんは、《善》の根拠を人間の主観(的判断)と動悸や発汗などの生理現象に求めているようです。 そのように理解してよろしいしょうか。 あるいは、動悸や発汗のなどの生理現象は善の欠如である悪を選択する後ろめたさ罪悪感といった心的なものに起因するものであって、「善の根拠は人間の主観にある」という立場を取っていられるのでしょうか。 ☆bragelonneさんは、イエス・キリストと同様に明らかに律法否定の立場を取っています。しかも、既成の(「世俗の」と表現した方が適切かもしれませんが…)道徳観・倫理観も否定、もしくは軽視・無始する立場を取っています。 では、bragelonneさんの文中にある『おのれの心がよしと思う』の、「心がよし」と心が判断する基準は何なのでしょう。何に根拠を求めればいいのでしょうか。 bragelonneさんの言う”非経験的ひらめき”? 直観や直覚?? 神との直接的結びつき、もしくは”神の直接介入"??? 人間の心の中に善を判断する根源的能力でも備わっていなければ、ひとりよがり・独善主義や感覚主義・快楽主義に堕する危険性を有しているように思うのですが、この点についてどのようにお考えですか。 理性に価値を置かれていないようなので、理性ではないことだけは確かなようですが… ☆新約聖書に登場する悪霊(悪鬼)について質問します。 bragelonneさんの立場は、悪魔は人間が作り出した観念である、という立場です。では、新約聖書でイエスか祓った悪霊・悪鬼とはいかなる存在なのでしょうか。 これも悪魔同様に人間が作り出した観念であり、非存在であるということでしょうか。つまりイエスの悪霊払いの数々の話は寓話であるとお考えなのでしょうか。 ☆ok9608さんと神の存在論をやっておられるようですが、過去千年以上にわたって数多くの哲学者や神学者により神の存在論的証明が試みられ、その悉くが失敗し、その試みがいかに不毛で無意味なものであったことが知られている現在、今さら新たに神の存在論、存在論的議論を行っても無意味に思えるのですが… 神の存在は、結局のところ、信仰の問題に帰着します。 また、ok9608さんの指摘する通り、神の存在を前提にしても、あるいは神の存在の否定を前提にしても、いくつかの原則(公理)を立て、後は純粋に数学的・論理的な操作を行うことで理論を構築できます。それは、平行線公理を否定したところから出発し、非ユークリッド幾何学が誕生したことと同じです。しかし、非ユークリッド幾何学の誕生で分かったことは、平行線公理がユークリッド幾何学の理論体系では証明できないことであり、そして、それを公理として認めても認めなくても、別の幾何学の体系が構築できることです。神の存在についての議論は、まさに、「幾何学において、平行線公理を認めるか、認めないか」という議論と同様のようです。無意味とは申し上げませんが、感情的なしこりを残すだけの不毛な議論になる危険性をはらんでいると思うのですが… また、ok9608さんは「神の実証は難しい」と主張されていますが、私は同様に「神がいないことを実証することも難しい」と考えています。 まずありえないことだと思いますが、もし科学が進み、科学(神の存在を必要としない理論体系)で自然現象、精神現象のすべてを説明できたとしても、それは単に「その説明に神を必要としない」というだけのことです。”神の非存在”を証明したことにはなりませんから。 もっとも、これは、科学・理性が新たな神になった、神(の概念)が変わったと主張する人が出てくると思いますが…

bragelonne
質問者

お礼

 眠り猫にゃあさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  神の存在についての議論は不評のようでした。  ひとつに 次のわたしの神の定義をよろしかったら ごらんください。  【Q:神は 人間の精神ではありません。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7399495.html   回答No.2へのお礼欄  《経験合理性によって考えても分かるか分からないかが分からない非経験の領域》とするものです。  もうひとつに 人類がどの言語でも持つに到った《信じる》ないし《かみ》という言葉 これがどうしてあるのかという問いに 神の定義があると見ます。無根拠・非合理としてです。そうでなければ 《信じる=考える》ということになると思われるからです。  あとは 《無限》という概念で説明するのが よいと考えます。二で割っても三で割っても その商はやはり 無限であるというそれです。  でも   ★ ~~~  まずありえないことだと思いますが、もし科学が進み、科学(神の存在を必要としない理論体系)で自然現象、精神現象のすべてを説明できたとしても、それは単に「その説明に神を必要としない」というだけのことです。”神の非存在”を証明したことにはなりませんから。  ~~~~~  ☆ とおっしゃっていることと同じことを言っているつもりなのですが。  もしかしたら 《証明》という観点を持つかどうかで 違っていましょうか。証明の成否の以前に 存在ないしその現象(生活)があると思いますから そこでは《非思考》というコトは 人間にとって現実だと思うからです。  あれぇーっ。  ★ 神の存在は、結局のところ、信仰の問題に帰着します。  ☆ 同じ主旨であるのかどうなのか。・・・  つまり 《無い神》も 《有る神》と同じく 非思考であり信仰だと見ています。     *  ★ ~~~~   では、bragelonneさんの文中にある『おのれの心がよしと思う』の、「心がよし」と心が判断する基準は何なのでしょう。何に根拠を求めればいいのでしょうか。  bragelonneさんの言う”非経験的ひらめき”?  直観や直覚??  神との直接的結びつき、もしくは”神の直接介入"???  ~~~~~~  ☆ 結論から申せば 人びととの《話し合い》です。半永久的な話し合いです。言いかえると 《決まらない》とさえ言わなければならないかも知れません。  ○ 「善の根拠は人間の主観にある」という立場  です。言いかえると 《存在》が社会的な関係性をも含むというごとく 《主観》は共同性を持ち得るという見方です。  あとは 善悪論としてではなく 実際の政策や仕事の議論として結論を出すこと ここにおいて けっきょく相対的な善なるものをもとめるし 実践するということになると思います。  実施したあとにおいても・途中の過程においても やはり 対話です。どこまでも対話です。  言いかえると 試行錯誤だということになると思います。  存在ないし生命の肯定と否定とでは――つまり 公理としてなら―― 明確に善と悪とが分けられるとは思います。共同主観になれると思います。  よい対処法がありましょうか?     *  ★ ~~~~  ○ 新約聖書に登場する悪霊(悪鬼)について質問します。  bragelonneさんの立場は、悪魔は人間が作り出した観念である、という立場です。では、新約聖書でイエスか祓った悪霊・悪鬼とはいかなる存在なのでしょうか。  これも悪魔同様に人間が作り出した観念であり、非存在であるということでしょうか。つまりイエスの悪霊払いの数々の話は寓話であるとお考えなのでしょうか。  ~~~~~  ☆ 《われは 神のごとくいかなるものの下にも立つまいと堅くひそかに誓った精神》は そこに征服欲ないし支配欲を伴なって 情念を奮い起こし 《観念の帝国》を築くようになると見ます。観念の皇帝になるであろうと。  これが 帝国主義たらんとするとき 支配欲によってすでに自分が支配された状態になるならば それは アッキもしくはアクマになると見ます。  アクマは すべてを否定する精神です。  これが あたかも空気のような身体になってくるなら これは悪霊です。    観念なのですが 観念が自分の身体に作用し そこからさらに現実にそのチカラを振るうと見ます。そのためにこそわが精神も身体もあると決め込んだ精神なのだと思います。心が熱くなるときには からだが冷め からだが熱くなるときには 心が目覚めないといった心身の現象を持つようになるのではないかと推測します。  要するに観念ですが 現実にチカラを持ちこれを振るうと見ます。それは じっさいに電波のような現象として人に・つまり何らかの理由でこだわりをもった相手に 古い言葉で言えば 憑きます。念力を放出するようにして 相手に覆いかぶさるのではないかと見ています。つまり 具体的なウゴキはまだ見えていません。そこにいるだけの状態で 相手が 自分にとってこれはと言ってこだわられてくる人であれば その電波放出のようなウゴキが現われると見ます。  イエスは アース役となって悪霊を一たん受け留め しかるべくこれを内面において嫌い憎みその心の〔善悪の〕あり方として批判し 内的に棄てる。自分の中にその心的現象を起こす芽を摘んでおく。こうして アクマ・アッキに対処すると思います。(人間としてはです。神としてはは分かりません)。  ○ アクマ・アッキあるいは悪霊は 理性の産物であり 観念である。しかもその観念が身体や現実の事象やほかの人たちに物理的なチカラをもおよぼすことがある。  と捉えています。イエスの悪霊払いは じっさいの出来事だと思います。  それを解くには合理的な根拠を見い出しがたい主題ばかりになりましたね。

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  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.13

ピント外れの答えのように思いますが お許しを 質問は「感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物」とあり ますが、この命題は正しいか という問と理解します。 答えとしては ご指摘の通り 正しいとおもいます。聖書を創った人 々が 当時の民俗話に出てくる悪イメージの蛇を用いて人間に原罪 を背負わせた ということだと思います。それ以後 聖書とともに 蛇 の悪イメージが拡大されたと思います。聖書に現れる神様も人が創 ったものという考えがあります。神は言葉で人に語りかけます。要す るに 神をふくめた聖書物語は 他の物語と同じく 言葉のテキスト として取り上げてもよいモノです。蛇物語もマリア処女懐胎物語も  言葉であり 言葉のスサノオ/アマテラス方式の分解が可能であり また言葉での再構成も可能であると思います。 しかし、bragelonneさんは 神については 非経験ひらめき(B神)で あると発言されています。また これは 言葉では表しえない とも言 われます。これは感性の領域ではないか とも疑われますが 感性 は言葉で表され やはり感性ではない と結論づけられていると思い す。だから聖書の言葉の神(A神)は人の創ったモノで偽神なのです。 A神とB神は無関係であって 本来は A神を 神議論に乗せることは ない のです。しかしながら 聖書を深読みしていきますと 人類に対 する普遍的な言葉が 多く語られており あるいは多くの人が偽神で はあるが 神としてみています。だからA神とB神はとどこかで繋がって いるのではないか という疑いを持っておられように思われのです。そ の延長に蛇の話が質問になるのではないか と思います。しかし、聖 書は単なる一つのテキストとであって 蛇は理不尽な扱いをうけた動 物なのです。それ以上に深読みに拘る理由はないとおもいます。もっ とも 聖書以前に 蛇が悪のイメージに どうしてなったのか 私は理 解していません。爬虫類は その昔 哺乳類人類の祖先をいじめてお り 爬虫類を嫌悪するDNAが人にはある という話もありますが まっ たくあてにはできません。 私は「神とは非経験のひらめき」のような経験はしていない 普通の オッサンです。私にとって bragelonneさんの発言は信頼に足る モノ でしょうか。何万回 同じことを発言されたとしても この説明だけなら 信頼に足るかどうか疑問がのこります。疑問解消は bragelonneさん より外のひとの同様の発言がある場合です。胡散臭い人物の発言で あっても 同様の発言をしている データを多く集めれば話は変わりま す。共通の非経験ひらめき が 発言者同士で確認されれば おおき な声で 神についての発信ができます。古来よりの神様は 大方 キ リスト様を含めて粉砕されるでしょう。この場合、共通非経験ひらめき をして 発言者同士が唯一のB神をもつこと となります。 他方、bragelonneさんの神発言は  ただbragelonneさんが言ってい るだけのもので 非経験のひらめきではない という立場の人もいま す。経験上のA神です。言葉で説明されています。ここでは その言葉 を信じている人と信じてない人に分けられると思います。後者は 信じ てない ことを信じている と捉えると一つの信者グループともいえるで しょう。 言葉を信じる人は その中に矛盾があっても 何も問題ないのです。一 度理解すれば記憶が固定され それが正しいとされるのです。アマテラ スは それを利用したのです。スサノオを完全に制覇できるのです。多く の信者をもつ宗教は その典型でしょう。固定記憶を訂正するのは大変 です。大きな間違い、たとえば 固定記憶のために大量に信者が死亡し たことを認識し わずかに残っている内部のスサノオがこれはおかしいと 大きく反抗しないと訂正できないのです。聖戦の名のもとに アマテラス は とんでもないことを 起こす可能性があるのです。それは 固定化さ れた記憶に問題があり、思考が停止しているからだ と思います。が  逆に 固定化記憶に落ちたとき 人は何の不安もなく 迷いなく 涅槃寂 静の世界のような状態になるのも事実でしょう。平安の世界です。 ではどう対処するべきでしょうか。固定記憶(思考停止)の領域を できる だけ 狭めるのです。スサノオを温存するのです。例えば 多くの信者を 抱える宗教ではなく 個人個人が個人の神(C神)を信じていくという 狭い思考停止を創るのです。人の数だけ小さいC神がいていいとおもうの です。思考の活性化を強化していく ということです。 もう一つの 神を信じない 人は どう思考していくのでしょうか。何らかの 主張はあるわけです。その主張を非論理的と論理的に分けてみます。非 論理的とはスサノオが優先して自由に発言し 論理主張はしていない場 合です。芸術分野で よくみかける と思います。理屈は通ってはいない が 感覚的に相手の言いたいことは分かるという場合です。基本のDNA が作用しているのではないか と思います。 論理的とは 典型的なものは数学とか自然科学でしょう。矛盾はないが 証明できない原則から 構造体を演繹構成し 科学においてはそれを実 証していくもの と思います。原則を立てるところ は スサノオ的ですが  あとはアマテラス的であります。原則とは これ以上には 言葉の説明で は堂々巡りとなる 言葉なのです。神がいる あるは 神がいない は原 則なのです。神がいるとして 論理的な演繹構成体は可能であると思い ます。ただし 実証は 難しいと思いますが。 もう一つの無意識下の問題ですが 脳機能のMRI、CT、脳酸素分布測定 などの翻訳機によって 無意識が言葉になりつつあります。言葉になれば ス/ア分解できるのです。段々には 無意識問題も論理的に分かってきて いると思います。それでも無意識の領域は残るわけですが 反応がないだ けに捉えどころがないと思います。 以上 大変失礼いたしました。

bragelonne
質問者

お礼

 まいった。持ちこたえられるのですが まいった。  おうけい9608さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  まづ ムイシキの問題を先に見ます。  ★ ~~~~  もう一つの無意識下の問題ですが 脳機能のMRI、CT、脳酸素分布測定  などの翻訳機によって 無意識が言葉になりつつあります。言葉になれば  ス/ア分解できるのです。  ~~~~~~  ☆ ス/ア分解 つまり 知覚か概念か あやまちうるスサノヲ人間語か 普遍性をめざすアマテラス人格語および科学語か これらが 分かるようになるのですか。  征服欲ないし支配欲――《われは 神のごとくいかなるものの下にも立つまい》とひそかに堅く心に誓った人間の思惟および行為の形式としての――は アマテラス語理性による産物であると明らかになりましょうか?    ただしもっとも 感性も じつはけっきょく絡まっていますので やはり全体としては 《スサノヲ( S )‐アマテラス( A )》連関としてあるとは 思います。それをも分解し得れば でかしたぞ 科学! ですね。  今回の問題とそれを解く鍵は 次のくだりにありましょうか。  ★ ~~~~  他方、bragelonneさんの神発言は  ただbragelonneさんが言ってい  るだけのもので 非経験のひらめきではない という立場の人もいま  す。経験上のA神です。言葉で説明されています。ここでは その言葉  を信じている人と信じてない人に分けられると思います。後者は 信じ  てない ことを信じている と捉えると一つの信者グループともいえるで  しょう。  ~~~~~~  ☆ この最後の  ★ 信じてない ことを信じている と捉えると一つの信者グループともいえるでしょう。  ☆ が 神の神たることを物語っていませんか? あるいはつまり  ★ 信じる・信じない  ☆ という言葉――つまり 表現ですね――そのものが 神を示唆していると思うのですが。  示唆していないとすれば すべては《考える》の世界であるとなります。  つまり 世界は合理か不合理かで割り切れるものとなります。経験合理性の世界です。  でも 《非合理》の領域があるかも知れない。  言いかえると 合理と不合理との世界を超えたところの非合理の領域は あるのか無いのか分からない。分かるか分からないかが 人間には 分からない。  だから 《考える》ではなく 《信じる(あるいは 無根拠において非思考として受け容れる)》があります。じんるいは この《信じる》という言葉を 幸か不幸か 持ち合わせています。  《信じる》の世界においては 狭義の信じると そして信じないとがあり これらふたつは 互いに同等です。表現の違いだけであって 中身はまったく変わりないものです。  中身も違うというときには――つまり 有神論と無神論とに違いがあるというときには―― その《神 ないし 無い神》がどういうものであるのかが人間に分かったときです。  《無限》とは何か? その中身が人間に分かったときには この神についても 信じるではなく 考えるというコトが起きます。でもおそらく そのときには そのように合理・不合理の世界に足を踏み入れたと捉えられた非合理なる無限=神は じつは 無限=神ではなかったと分かるとも思います。なぜなら 非合理は 合理・不合理の世界に含まれるようになったからです。そのようにあらたに拡大して出来た《合理・不合理の世界》を超えて じつは今度はそして今度もあらたな非合理の領域が 人間には想定されてくるはずだからです。    もしそうでなければ それはわれわれ人間が神になったときです。  《合理・不合理の経験世界と非合理の場》という全体世界をわれわれ人間が《考える もしくは 感じる》をとおして知ることが出来るようになるときです。  ★ ~~~~  もう一つの 神を信じない 人は どう思考していくのでしょうか。何らかの  主張はあるわけです。その主張を非論理的と論理的に分けてみます。  ・・・  論理的とは 典型的なものは数学とか自然科学でしょう。矛盾はないが  証明できない原則から 構造体を演繹構成し 科学においてはそれを実  証していくもの と思います。原則を立てるところ は スサノオ的ですが   あとはアマテラス的であります。・・・  ~~~~~~  ☆ このうちの  ★ 原則を立てるところ は スサノオ的ですが   ☆ が印象的です。そこにヒラメキがあるのではないでしょうか。  次のご指摘の分析するところは 前回から強烈な説明力を持つと思いましたが DNA を取り上げていることなど印象的だと思います。  ★ ~~~~~  非論理的とはスサノオが優先して自由に発言し 論理主張はしていない場  合です。芸術分野で よくみかける と思います。理屈は通ってはいない  が 感覚的に相手の言いたいことは分かるという場合です。基本のDNA  が作用しているのではないか と思います。  ~~~~~~~  ☆ 女性がしばしば 自分の見解について必ずしも論理を尽くして説明しないとすれば それはすでにヒラメキにおいて結論が分かっているという思いがあるからなのかも知れません。  《女(スサノヲ)‐男(アマテラス)》なる連関――しかも通念として支配関係にまで片寄った連関制――は むかしのものですが ただしあんがい《ヒラメキ》をめぐる知恵は 女性的なるものであるかも分かりません。ヒラメキとしての知恵は自然本性として 男にも女にもそなわると言いたいのですが その自然本性からの乖離が 男の場合 世の中に出てシガラミをたくわえて いちじるしくなるのかも分かりません。それも むかしの話でしょうか。  次のご指摘と分析も 女性的なるスサノヲ性ということが 基軸になっているように思われました。  ★ ~~~~  ・・・大きな間違い、たとえば 固定記憶のために大量に信者が死亡し  たことを認識し わずかに残っている内部のスサノオがこれはおかしいと  大きく反抗しないと訂正できないのです。聖戦の名のもとに アマテラス  は とんでもないことを 起こす可能性があるのです。それは 固定化さ  れた記憶に問題があり、思考が停止しているからだ と思います。が   逆に 固定化記憶に落ちたとき 人は何の不安もなく 迷いなく 涅槃寂  静の世界のような状態になるのも事実でしょう。平安の世界です。  ~~~~~~  ☆ すなわち  ★ わずかに残っている内部のスサノオ  ☆ は 具体的には世界の女性のみなさんに期待するところが大きいのではないでしょうか。    あるいはまた 《固定記憶ないし思考停止》という場合と そして《思考および判断を中断する》というエポケーの場合とは 分けて捉えるべきでしょうね。後者は ヒラメキに還るということを含むと思います。前者は アマテラス語――たとえば《聖戦》――による独走にさらに向かうということだと見ます。  今回は 順序が前後しましたが 次のようにご回答そのものから説き起こされています。  ★ ~~~~~  質問は「感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物」とあり  ますが、この命題は正しいか という問と理解します。  答えとしては ご指摘の通り 正しいとおもいます。聖書を創った人  々が 当時の民俗話に出てくる悪イメージの蛇を用いて人間に原罪  を背負わせた ということだと思います。それ以後 聖書とともに 蛇  の悪イメージが拡大されたと思います。                       聖書に現れる神様も人が創  ったものという考えがあります。神は言葉で人に語りかけます。要す  るに 神をふくめた聖書物語は 他の物語と同じく 言葉のテキスト  として取り上げてもよいモノです。  ~~~~~~~~  ☆ ご文章を分断してしまいましたが その後半の問題について考えたところを上に述べて来たわけでした。  あと 固有に《表現の問題》というものもあると見ます。  眠り猫にゃあさんとのやり取りで 《とぼけた問答といった文学上の手法》について触れたところもあります。  そしていつも引き合いに出しますが 《ねたむ神》という表現は 《たのしい我が家》という表現と同じように・つまり《たのしい》のは我が家がではなく我が家にあつまる人びとがであるのと同じように 《ねたむ》のは 神がではなく神のもとにあつまる人びとがであるという表現の結構があるかと見ます。  ★ 神は言葉で人に語りかけます。  ☆ むろんこれも 聖書記者の文学上の腕の見せ所である問題です。言葉が本当に聞こえたりあるいは モーセは顔と顔とを合わせて友だちのように神と話したと書いてあったりしますが そういう経験上の事象はありません。ぜんぶ 《神とわれとの関係》を仮りに人間の言葉で表わそうとすれば こうなるという試みです。  そうして 《へび》 このヘビは もうそろそろ おしまいにしましょうというところだと思います。(動物虐待のことではありません)。  ぜんぶ引用しなければならないとなると 困ってしまいました。みなさんも 精神の胃袋で消化して行かれることでしょう。

回答No.12

貴重な意見、ありがとうございます。勉強になります。 さて、神の予知と人間の自由意志の問題について質問いたします。 あなたは、神はアダムとイブを創造した時に神に逆らう「自由」、「自由意志」を賦与したという立場をとっています。そうすると、ここで問題になるのが、神がアダムとイブを創造した際に、神がアダムとイブの裏切り、すなわち禁断の実を食べることを予知していたのか、予知していたとしたら選択の自由がはたしてアダムとイブに与えられていたのか、ということです。 人間には行動についての自由意志が与えられおり、その選択は神ですら予知できないのなら、神の全能性に重大な疑義が発生します。 予知していたというのなら、これは決定論になります。つまり、神はアダムとイブが自らを裏切ることを承知で創造したということになります。言葉を換えれば「裏切るように創造した」ということになり、そこには人間の選択の自由、自由意志の存在する余地がなくなります。 「それは禁断の実を食べたという結果からの議論であって、創世記はその話を事実として受け入れ、そこから人間存在について考察をすべきである」とお叱りを受けそうですが、神の予知・予言と未来、人間の自由意志との関係性の問題は、人間の自由意志を考えるうえで避けて通れない問題だと思います。 『人の行動があれこれ予定されているというよりは基本的に人にそなわる自然本性のそのあり方や人自身による自己表現のあり方 これらが予知されているという意味です。』 というのは、この問題について立ち入ることを避けているように思われます。問題のすり替えです。 この点についてお考えがありましたら、ご意見をお聞かせください。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこにゃーさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~  『人の行動があれこれ予定されているというよりは基本的に人にそなわる自然本性のそのあり方や人自身による自己表現のあり方 これらが予知されているという意味です。』  というのは、この問題について立ち入ることを避けているように思われます。問題のすり替えです。  ~~~~~  ☆ これは 次のような・人間にとっておよそ共通に見られるところの思惟の形式や行為の類型を言ったものです。  ☆☆(No.9お礼欄)~~~  10.  ・・・  《善と悪を知る木から採って食べた》 これは 善とそしてその善にさからうへそ曲がり(それとして名づければ 悪)とについて 自由意志によって判断し選択するということそのものです。  ~~~~~~~~~  ですから 《悪》は存在しない。という定理になりましょうし・つまりは悪は 善の損傷行為でありその結果の善の欠如なる状態であるとなりましょうし 《善》はと言えば これはただただ主観的な思いと判断によるものと考えられます。  おのれの心がよしと思うことが 善なのだとです。それは この心の善にさからうときに 動悸がはげしくなったり顔を赤らめ冷や汗をかいたり 言葉はしどろもどろになったりします。ゆえに ここで 善とその善の損傷とを分けることができます。  おそらくはそれでも この善は 人間に共通のことであるとも見ます。存在とその存続ということをその核心とすると見るときです。いのち と 生きること これが善であると。(良く生きるとまで言わずとも 生きることだけで 善であり それでよいと見ます)。  善についての主観の共同化は 望めると見ます。そして 悪は存在しない。善を損傷する行為とその結果を 便宜的に悪と呼ぶ。つまり 悪は そう名づける現象があるのみだと。  これなどは この話の以前に・つまり善と悪を知る木から採って食べる話の以前に 神は 人を造って《はなはだ良しと見た》と書き込んでいるゆえにいっそう 《悪は存在しない》ことを言おうとしているとも読めます。聖書記者の観想――その以前に ヒラメキ(直感および直観)――のたまものだと思います。  つまりこれら一連の流れやそこでの人間のおこないについて すべて神はお見通しだと 記事は言おうとしていると思うのですが どうでしょう。  つまり乱暴に言ってしまえば 楽園を追放されたあとのそのアダムやエワの姿 これを見て神は よしよしと言ってほほえんだことでしょう。あとは おまえたち人間にこの世界をまかせたよと言ったことでしょう。  その《まかせたよ》は イエス・キリストの――物語における十字架上に去って行ったあとの――復活という言ってみればウワサが成るまで待たなければならなかった。  キリスト・イエスによる《もう律法も宗教も要らないよ。一人ひとり自由に神を――あるいは人によっては〈無い神〉を――受け容れ信じて しかもその信仰は生活世界の背景にしりぞけておいて あとは経験合理性をとおして互いの話し合いをつうじて共に生きて行こうぢゃないか》という呼びかけが成るだけです。二千年も経って まだまだですが。  だって 神は人間の精神であると思っている人がわんさかいるのですから。観念の神は死んだと言っても 別の観念の神(つまり アイドル)を片っ端から求めています。  十字架上で何ひとつ抵抗すら出来ずまたしなかったキリスト・イエスなる《つまづきの石》に つまづき続けています。  直後のご回答者であるおうけい9608さんは わたしが思うに(もう長いあいだやり取りをして来ています) 無い神を受け容れておられる信仰者だと見ますが それでも《神は人間の想像物だ》と表明なさっています。(このあと わたしは 談判に行って来ます)。  家の土台の四隅に置く隅の親石と言うんでしょうか 大工たちが この石はダメだ 土台のための石には向かないと見て捨ててしまった石。ちょうどそれと同じように はりつけにされて捨てられた石。つまづきの石。  《おしえ》や律法など《考える》の対象物を残して去ったならば 人びとはその経験事物やあるいは思想としての深みなどに捕らえられて ただあたまをひねるだけでおしまいになってしまいます。石につまづいてしまいます。(それでも 残した言葉などがあれば それは 非合理に満ちています。わざとそうしたはずです)。  もちろん これらのことも神はお見通しです。  と言ってわざわざ神のことを出さなければならないことが おそらくキリストとその神の心に逆らっているのかも知れません。  だって あの羊飼いの少年らにこそ イエスの誕生のことはそうっと告げられたのです。ときは満ちたと。  ならばこんにちでも 名も無い人びと 地道に生活する人びとには ぶらじゅろんぬよ 何を血迷ったことを言っておるのか もうすでに《わたしはすでにこの世に勝利している》とイエスが言ったことを忘れたか と言ってやれと神は告げていることでしょう。  でもおそらく これからが 本番でもありましょう。  ★ 予知していたというのなら、これは決定論になります。  ☆ なりませんよ。こうしろ ああはするなとは いっさい言っていないからです。道徳規範は 愚の骨頂 くそくらえ!! と キリスト・イエスのおかげで 言えるからです。  真理を知れば きみたちは自由になる。の本番の世界が あたらしくひらける?

回答No.11

神田川は愛がさめましたよということを湾曲しているともとれます。 しかし、アニメはどちらもとてもチャーミングな女の子という設定です。 そして、殿方はフリーです。 やっぱり、何らかの事情や、それほどでもないので、この度はすいませんが、 ということでしたら、ここまではよくある話だと思います。 そこに癒される理由が謎です。 ハッピーエンドで癒されるわけではない、というところが 妙な話だと思うのですが。 なんか、そっちのほうがよっぽど恐いのですが。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  まづ不平不満です。  ★ 殿方  ☆ という表現には 何だか封建的なにおいが感じられます。というのは 一般的ではないのかなぁ。みなさんに聞いてみたいですね。  むかしは――いまも 人によっては目上の相手の目をぢかに見つめてはいけないと言ったりします(ただし 欧米化により しっかりと相手の目を見て話をしなさいとも言いますね)―― えらい人に対するほど 直接的な接触は避けたようです。見ては目がつぶれるとまでその迷信は行きつきました。  つまり言いたいことは 相手のことを呼ぶときに なんぢ(汝)から御前を通り越して 《あなた(=かなた=彼方)》にまで間接的な接触や呼びかけの方法が行きつきましたし 敬称としては《さま(様)》を用います。  これは 相手が 見えていないとこちらが言っています。直接にはわたしはあなたさまを見ていませんと。  つまり その相手は存在として漠然とだけ分かっていますと言う意味で 《さま》なのだと考えます。あなたがそこにおいでである《様子》がこちらには見えていますと言っています。  《殿》は 相手の存在を 《様子》のひとつのかたちとしてその御殿と言うのでしょうか その家を表わす言葉で呼びかけている。と思います。  ただし この殿という呼び方から 殿方になると どうも偉い人は男であるという通念からなのか 男性に対する敬称になったのではないか。そうだとしたら これも くそくらえです。とはお思いになりますか?  アニメのことが・その話の内容が分かりません。  ★ きっと、ハンフリーボガードとかもそうだと思います。  ☆ これは 映画カサブランカでしょうか。これは わたしは 質問にまで挙げました。のでよく知っていますが ほかのアニメはとんと分かりません。  ★(回答No.10ですが) ~~~~  「俺にほれちゃあいけないぜ」がロマンで癒しみたいです。    普通そこにいやされますか。  きっと世の中の女の人は100%わかってません。  それなのに掘り下げられて語られていないのです。  変じゃないですか。  ~~~~~~~~~~~  ☆ いやあ たぶん   ★ 「俺にほれちゃあいけないぜ」がロマンで癒しみたいです。  ☆ もあれば 別もあって たぶんカサブランカのボガードは 別だと見ます。自然本性は 自由意志の主体である人なる異性を ふたり同時に愛することができない。重愛はできないという能力を 自然本性が持つと見ます。  能力によって イングリッド・バーグマン(ベルイマン)が 夫とボガードとの二人を愛することは出来ない。またそんな位置に置かれているバーグマンを ボガードは 能力によって愛する(愛を復活させる)ことは出来ない。それだけのことと見ます。  つまり水の低きに就くように自然本性の志向性は そのまま流れていきます。この能力・それをそなえる自然本性 これを大事にすることが 生きることであり ともに生きることであり もし言うとすれば愛です。  そのあと 言うとすれば 具体的に相手がだれのだれべえとか 何の何子とかが決まります。人間愛が ツイ関係や性愛に先行します。しかもそれは 自然本性における感性であり 感性としての能力であり それにもとづく志向性です。これが 神の愛です。  神田川のその後のゆくえは 分かりませんが いづれにせよ スサノヲ人間語とその感性に耳を片向けていれば 道はおのづと明らかになると見ます。どうでしょう。

回答No.10

すいません、実のところ、ちょっとよくわからないです。 どこから、とっかればいいのかもわかりません。 神田川という歌の「あなたのやさしさがこわかった」とか、 男の人がこわいって言ってるみたいです。 怒るとこわいのが普通ですよね。 とても身近にいる人は、ジブリの「くれないの豚」、 「カリオストロの城」が大好きで、何回もみています。 ロマンは癒しだそうです。 きっと、ハンフリーボガードとかもそうだと思います。 「俺にほれちゃあいけないぜ」がロマンで癒しみたいです。 普通そこにいやされますか。 きっと世の中の女の人は100%わかってません。 それなのに掘り下げられて語られていないのです。 変じゃないですか。

bragelonne
質問者

お礼

 はあとまいんどさん お早うございます。  ★ ~~~  神田川という歌の「あなたのやさしさがこわかった」とか、  男の人がこわいって言ってるみたいです。  怒るとこわいのが普通ですよね。  ~~~~~  ☆ たとえば要するに 結婚にこぎつけたとか ふたりのきづなが確かめられたとか とてもうれしいときには むしろ――男も女もですが―― 《こわい》感じがして 畏れを持つこともよくあるのではありませんか?  要するに こわいくらい しあわせであると。  これは 人にとってふつうの感覚だと思います。ふつうの人間にとって とてもうつくしい気持ちなのだと思います。  世の中のことはみな 移ろいゆくものだからです。人の心さえ それをまぬかれません。  諸行無常 諸法無我と言うそうです。  世の中は 空だと見るふたりが その空ゆえに世の中をほんのちょっと互いに・そしていっしょに照らして行こうと誓い合うのは 自由への道だと思います。  このあと つづくほかのお二方のほうへ行って また戻って来ます。

回答No.9

ご意見ありがとうございます。 ご指摘のように、アダムとイヴの蛇による堕落の物語を人間の「自由意志」の問題とする見方は存在します。しかし、これは人間の自由意志に価値を置く近代的な発想、もしくはヘレニスト的発想であって、旧約聖書の創世記がテキストとして編纂された時代のユダヤ民族にそのような思想があったとは考えられません。旧約・新約聖書が成立した時代は当然のこととして奴隷を使役していた時代です。彼ら奴隷は自らの自由意志で奴隷になったのでしょうか。疑問です。少なくとも、旧約聖書は奴隷使役の正当性を近代的な自由観あるいは人間の自由意志からは説明できないと考えています。 また、私は「アダムとイブの堕落は人間が死すべき運命になったことに対する神話的説明である」と考えます。あるいは「人間は誘惑に弱いもの、躓きやすい存在である」という警句だと思っています。こうした人間理解は新約のイエスの言葉にも認めることができると思います。 「もし右目なんぢを躓かせば、抉(くぐ)りて出(いだ)して捨てよ。五体の一つ亡(ほろ)びて、全身ゲヘナに投げ入れられぬは益(えき)なり。」(マタイ伝第五章29) このキリストの言葉に端的に示されるように「キリストの愛の教えは誘惑に躓きやすい人間のための教え」ではないのでしょうか。僕はそのように理解しています。 また、アダムとイブの蛇による堕落の中では、人間の「自由意志」の問題よりも、むしろ禁断の実を食べることによって、「彼らの目が開いて善悪を知るようになった」、こう言い換えることも可能だと思いますが、「彼らが(善)悪を発明した」ことに主眼があるのではないでしょうか。アダムとイブは善悪を知る智慧を手に入れる代償として楽園追放と死すべき運命という憂き目にあったのですから。まして、ここでは蛇の存在は問題になっていません。 さらに付け加えれば、創世記を素直な気持ちで読めば分かることですが、アダムとイブが恥じおそれているのは「神の言いつけに背いた」からではなく、「自分たちが裸であることを知った」ためです。神の言いつけに逆らったという自らの行為の責任を自覚したためではありません。アダムとイブが自らの行為の責任とその結果の重大性を自覚したのは、楽園を追放の事態に至ってからですから。 >7-7.《神にもさからいる自由意志》という主題は、これは(ユダヤ・キリスト教)独自のものでしょう。 ということですが、ギルガメシュ叙事詩の洪水神話に見られるように、バビロニア神話でも人間は神の掟、意志に反した故に滅ぼされようとしたのです。「人間が神に逆いうる」自由を有することは、何もユダヤ・キリスト教独自の考え方ではありません。バビロニアの神話にまったく無縁なアメリカ先住民の神話にもこうした話があるように、これを自由意志の問題と結びつけるのなら、世界の多くの神話にもそれを認めることが可能ですから。読みようによっては、ギルガメシュの人間的苦悩に注目すれば、ギルガメシュ叙事詩は、神に定められた運命に対する挑戦、神への挑戦の物語、まさに「人間の自由意志」の物語と考えることができます。 要するに、読み手側がテキストをどのような態度、視点で読むか、そしてそこから何を読みとるかの問題だと思います。( 「8.このようにして《元ネタ》との――あえて言えば 次元の――違いが明らかであると考えます。」の返答) >9.ミルトンが≪失楽園≫… ミルトンの悪魔観を否定していらっしゃるようですが、悪魔=堕天使の図式はキリスト教、すくなくともカトリックの悪魔観ではないでしょうか。 ミルトンの「失楽園」を読んでいらっしゃらないようでしたら、ぜひ、お読みになることを薦めます。「失楽園」の主題はまさにあなたのおっしゃる「自由意志」だからです。もっとも、ミルトンはイブを誘惑したサタン・ルシファーの口を借りて、人間の苦悩、自由意志の問題を取り扱っていますけれども。 また何故天使の姿をしたサタン・ルシファーが、堕天使たちが蛇・龍の姿に変えられたのか、分かりやすい説明があります。 >9-4.ゴータマ・ブッダについては美女マーガンディヤー事件がその思想の欠陥を示していましょう。 なぜ、この事件がその(ブッダの)思想の欠陥性を示しているのでしょうか。僕には理解できません。この事件がブッダの思想性の欠陥性を示しているというのなら、マタイ伝第4章などに見られる「キリストの荒れ野の試し」もその思想性の欠陥を示しているのではないですか。キリストもブッダも悪魔、つまり、悪魔という言葉で象徴される、さまざまな人間的欲求を克服したから偉大なのであり、人類の教師になったと私は考えます。この点について、ご意見があったら、よろしくお願いします。 これはユダヤ・キリスト教の神ヤハウェの全能性に関する議論になるのであまり触れたくないのですが(感情論、水掛け論、いわゆる神学論争になるので)、すべての創造を終えたヤハウェは「はなはだ善かりき」と言います。つまり、創世記を素直な心で読めば、この時点でヤハウェはアダムとイブの背信行為を予測できていなかったということになります。ここにヤハウェの全能性についての疑義が生じます。この矛盾を解決するために、「ヤハウェはアダムとイブが自分に背くべき運命を持つ存在として創造した。一見、アダムとイブが禁断の実を食べることは、アダムとイブの「自由意志」からの選択と見えれるが、それは見かけだけのこと。人間に自由意志はない。人間の運命は産まれた時にすでに創造主である神によって決定されている」という解釈もキリスト教から提出されています。また、ユダヤ・キリスト教の影響を受けて成立したイスラム教も人間の宿命論・運命論の立場をとっています。 ヤハウェの全能性を前提とすれば当然の帰結と考えますが、これについていかがお考えですか。 蛇の話からだいぶ脱線してしまいましたけれども。

bragelonne
質問者

お礼

 眠り猫ニャーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  まづお事割りしておかねばならないことは この質問において聖書の解釈はすべて 質問者であるわたしの考えによるものです。それを提示して 情報交換をねがっています。  したがって いわゆるキリスト教ないしその下での神学からは基本的に この質問のたたき台は 自由です。  それでは 吟味検討するに値しないということでしたら その旨をお伝えいただければ よいのだと考えます。  1.  アダムとエワの物語をめぐって。  例によって わたし独自の視点で話をすすめます。  2.   神の予知と人の自由意志  ★ すべての創造を終えたヤハウェは「はなはだ善かりき」と言います。  ☆ であるのに――つまりそのように確かに書いてあるのに―― その《良しと見た》ことを アダムらの楽園追放のあとの時点(つまり そのときの 《人間》たちの置かれた状態)において捉えるとは 何ごとか?  すなわち  ○ 神の予知において そうであった。  このひと言で説明されるのではないでしょうか? 何らむつかしいことはないと思います。  3.  とぼけるという文学上の手法  ★ つまり、創世記を素直な心で読めば、この時点でヤハウェはアダムとイブの背信行為を予測できていなかったということになります。  ☆ たとえば木の実を食べたあと 神は《アダムよ きみはどこにいるのか?》と問うています。きわめて頓珍漢なことです。食べるなと言っておいた木から採って食べたことは 言わば周知の事実なのですから。  むろん それらは すべて神にとって予知されていたことです。ちょうどそのように捉えるという恰好です。  人の行動があれこれ予定されているというよりは 基本的に 人にそなわる自然本性のそのあり方や人自身による自己表現のあり方 これらが予知されているという意味です。  4.  初めから(創世記の記事から) 存在論としての大論文なのだ。    ですから 別にアダムという名の男とエワという名の女が 何をした・かにをしたという歴史物語ではないわけです。特定の人びとの人生をのぞいてみるというのではなく 《人間》一般の歴史であり もっと抽象的に捉えれば 《存在》論であるわけです。   モーセに名を明かす場面を例にとって考えれば分かることではないでしょうか。(でも アブラハムからあとの歴史は 文学の味わいをも込めて書かれていると思います。特定の人の一回性としての行動にもとづく人生のあゆみです)。  5.  自由意志を否定する議論は いただけません。  ★ 人間に自由意志はない。  ☆ という議論は いただけません。そうなると 刑法が成り立ちません。責任が問えなくなるはずです。犬や猫が違法行為を犯したというのと同じになるからです。  6.  ● 予定調和  これは関係ないと言うべきでしょう。仮りにもしそうであったとしても そのことは 人間にとっていっさい分かりません。ですから 予定調和と言おうが予定不調和と言おうが あるいは 未定調和と言おうが未定のみと言おうが それらが神の意志として言われている限りでは 人間にとって意味は 分からないのですし けっきょく 〔意味が〕ありません。  (いい結果が出たとか わるい結果が出たとか見るのは すべてそれが人間が見ることである場合には そのことについての神の心は 分からないという意味です。おそらく生涯を終えてからでも いい・わるいは 人間から見て決められないでしょう)。    7.  奴隷と自由意志  ★ 少なくとも、旧約聖書は奴隷使役の正当性を近代的な自由観あるいは人間の自由意志からは説明できないと考えています。  ☆ おっしゃる意味が分からないのですが 戦争奴隷にしろ債務奴隷にしろ 戦争に出かけたのも債務をかかえたのも その人の自由意志によります。ということだけの話だと思いますが。  ● 自由意志  ☆ という言葉は あんがいあたらしいようですが。  8.  イエスは つまづきの石である。  ★ 「キリストの愛の教えは誘惑に躓きやすい人間のための教え」ではないのでしょうか。僕はそのように理解しています。  ☆ たぶん――それはそれとして 経験的な知恵の問題なのでしょうが―― 見方は そうではない見方が キリスト信仰のものとしてあるはずです。  キリスト・イエスが《つまづきの石》であるということは 〔いま述べることがどこまで一般的な話になるか分からないまま述べるのですが〕 むしろ《誘惑》には まづ――相手の存在を自分のと同じようにとうとぶことにおいて―― 乗ってみる。話に応じる。ということを示す場合があると見ます。  つまりむしろ――世間の知恵から見れば――《つまづく》ということです。それは じつは イエスなる《つまづきの石》にはつまづかなかった・つまり キリストを受け容れたことだと見るというものです。    9.  つづきの話。わが心なる非思考の庭としての信仰  ですから  ★ おしえ  ☆ は どうでもよい。律法はどうでもよい。こういうことだと見ます。  互いにその存在をとうとび愛すること これが言うならば《愛》です。  しかもそれは《おしえ》の問題ではなく すでに信仰としての・信仰にもとづく自己表現であり その動態です。愛は この表現過程にしかない。と見ます。  その自信や保証は 人間としての自分の能力や努力にはないと分かっているからです。無根拠に対する非思考として そう行動するのです。  では 勝算はあるのか? あってもなくても そのようにキリスト・イエスなる躓きの石を受け容れているという意味です。  10.  あらためて ヘビの問題  ★ アダムとイブは善悪を知る智慧を手に入れる代償として楽園追放と死すべき運命という憂き目にあったのですから。まして、ここでは蛇の存在は問題になっていません。  ☆ 《ヘビの存在は問題になっていない》なら そのことが 初めからの・そしてイエスに到るまでの眼目であったと見るものです。  《善と悪を知る木から採って食べた》 これは 善とそしてその善にさからうへそ曲がり(それとして名づければ 悪)とについて 自由意志によって判断し選択するということそのものです。  11.  答責性  これが 自由意志による自由な自己表現につねにともなうと言っていると見るわけですが この答責性について言えば確かに アダムらはきちんと答えていません。筋の通らない言い訳をしています。  でもそのことが 説明責任をともなうということを示しています。それだけのことだと思うのですが。  神に対して答弁するというのでなくても みづからの良心に対してどう言い訳するかの問題であると考えます。そういう自然本性についての議論だと見ます。  12.  『失楽園』  ★ ミルトンの悪魔観を否定していらっしゃるようですが、悪魔=堕天使の図式はキリスト教、すくなくともカトリックの悪魔観ではないでしょうか。  ☆ そのとおりです。おっしゃるとおりです。ローマ教会もプロテスタントの教義も 屁の河童です。  13.  ギルガメシュ  ★ ギルガメシュ叙事詩の洪水神話に見られるように、バビロニア神話でも人間は神の掟、意志に反した故に滅ぼされようとしたのです。「人間が神に逆いうる」自由を有することは、何もユダヤ・キリスト教独自の考え方ではありません。  ☆ もしそうおっしゃるのなら そうなのでしょう。そしてそのように アダムとエワの話に 自由意志の主題を読み込んでもだいじょうぶだと見ます。つまり シュメール人の神話を見下していたという咎がわたしにあります。  14.  ゴータマ・ブッダの美女マーガンディヤー事件  あとあとまで尾を引いたことが〔ブッダの思想の欠陥〕です。  マーガンディヤーによって復讐が繰り広げられました。ブッダの信奉者の国王第三夫人でしたかが マーガンディヤーによって 館ごと・侍女たちごと 火を放たれ焼かれてしまいました。  そのときブッダが言った言葉が 振るっていたと思います。まるで 人が死ぬということについて 何の感情もない言い分だったのでは?  15.  アクマ  ★ 悪魔という言葉で象徴される、さまざまな人間的欲求を克服したから偉大なのであり、人類の教師になったと私は考えます。  ☆ キリストの場合(つまり旧約からの聖書の場合) アクマは飽くまで民俗としての迷信でありまぼろしであると明らかにしたと見ます。  また  ★ 人間的欲求を克服した  ☆ というのは 人間にとって捉えるならば それも飽くまでキリストなる神のチカラがはたらくのに与かることだという見方です。(むろん 努力はしますが 最終的に決めるのは めぐみのチカラです)。  確かに《教師》と呼ぶこともありますが 問題はそうではなく 《つまづきの石》を教師や愛の教えとして捉えることではないというところにあります。受け容れることにあります。しかも イエスはふつうの人間ですが キリストは そうではないのですから 《非思考》において受け容れることになります。理性も知恵をも超えていますから。  こういったふうに考えます。

回答No.8

すいません。 必要以上の情欲への畏れによる、情報の疎語による非生産的 になる状況のことでした。 こちらでも調べておきます。神話でも心理学でもいいので なにかわかりましたら、よろしくお願いします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 必要以上の情欲への畏れによる、情報の齟齬による非生産的になる状況のことでした。  ☆ 《情欲に対する必要以上のおそれ――おそらく この場合は 恐れでしょうね。なぜなら 《必要以上のことなら かしこき(畏き・賢き)おそれを持つこともないでしょうし そもそも《情欲》なら 畏(かしこ)むこともないでしょうから――》でしょうか。    いづれにしましても   ★ 情欲  ☆ の定義が そちらのほうで はっきりしません。こちらのほうでは 前回述べました。  そういうところだと思いますが。

回答No.7

創世記に登場する蛇の物語には実は元ネタがあります。 ギルガメでシュ叙事詩に、親友エンキドゥの死を目撃したウルクの王ギルガメシュが不死の秘法を求めて、不死の人ウトナピシュティムのもとを訪ねます。で、ギルガメシュは、「なぜ、不死になれたのか」と質問しますが、「それは神の恩寵によるもので、人間の手ではどうしようもない」と告げられます(この話の中でノアの洪水の元になった話が出ます。メソポタミアの主神エンリルが人間の不正に憤り、洪水で人間を根絶やしにしようとします。その時、智慧の神であるエンキ(エア)がウトナピシュティムにエンリルの人類抹殺計画をこっそり教え、同時に船の作り方を伝えます)。その話を聞き落胆したギルガメシュにウトナピシュティムは「若返りの薬草」を手渡します。不死は手に入れられなかったけれど、若返りの薬草を手に入れた帰り道に、ギルガメシュは沐浴をします。その沐浴の最中に、ギルガメシュが岸に置いた薬草を蛇が食べてしまい(※)、ギルガメシュは「若返ることも」できなくなった。人間は死ななければならないという定めが確定してしまう。 創世記のアダムとイブが蛇によって不死の命を失う話の元ネタがこれだとされています。 (※)古代メソポタミアでは、脱皮を繰り返す蛇は不死・若返り、さらに智慧のの象徴とされていた。 またバビロニアの主神マルドゥークの神話には、原初の女神ティアマット(塩水の女神)は蛇・龍の姿をしており、マルドゥークがティアマットを退治した死骸から人間などの生物が発生したという話もあり、旧約聖書が生まれる数千年前から人間と蛇との関係は深いんですよ、メソポタミア神話の世界では。(ティアマットの旦那さん、真水の神様アプスーは、それ以前に、子供である天界の神様たちを根絶やしにしようとして、反対に子供達によって殺されている) また、古代の人々にとって蛇は、うねうねとした姿から川、あるいは川の神と同一視されていましたから、唯一神ヤハウェを標榜するユダヤ・キリスト教では他の土着の神様同様に徹底的に排斥されたという経緯もあります。さらに言えば、創世記の蛇は、人間ではないのに人間の言葉を話すでしょう。これは中東地域で蛇は智慧の象徴であったということを伏線にしています。ミルトンの「失楽園」などでは、ルシファー・サタン(*)が姿を蛇に変えてイブを誘惑したということになっていますが、これはキリスト教の堕天使=サタンという悪魔観が成立してからの後付けの話です。ニーチェの「ツァラトゥストラはこう語った」でも蛇はツァラトゥストラの智慧の象徴です。 グノーシス思想の中には、創世記に出てくるあの蛇が人間に智慧を与え、この世を支配する怒り・妬み・裁きの神ヤハウェのくびきから解放したとする考えもあるので、面白いですよね。 (※)ミルトンは、ルシファー・サタンを「ハエの王」ベルゼバブ(カナンの主神・バール)と同一視しています。そう言えば、バールによって倒されたカナンの神モトは川の神様で蛇・龍の姿をしていたな。 要するに、蛇=悪者という図式が成立するのは、ユダヤ・キリスト教、イスラム教が世界に広まってからの話ということです。 また、英雄や神の蛇・龍退治の話には、氾濫を繰り返す川を克服した、王もしくは支配者が川の治水工事したということを表現しているという一面もあります。古代人は、歴史をそのまま事実として記すのではなく、神話に仮託するということをしていました。川は、単に恵みをもたらすだけでなく、破壊・災害をもたらす側面をも合わせ持っていましたから。 蛇は、単に性力の象徴としてだけではなく、フロイトが主張するように、夢の中では男性器の象徴でもあります。夢の中では、性に対する否定的なイメージ・道徳観、倫理観から、男性器の歪曲化、象徴化が行われ、男性器は細長いもの、尖ったものなどに姿を変えるとされています。で、男性器が勃起するかのように、鎌首を持ち上げる蛇はそのものずばり男性器の象徴ということになります。フロイトのこうした考え方は、精神医学をポルノに変えたという批判はありますけれども(笑い)。 蛇と男性器・性力の関係でいうと、インドのタントラ(仏教の後期密教の一派)などの中で説かれるクンダリーニという考え方があります。 人間のおヘソのあたりにはクンダリーニという蛇が潜んでいて、瞑想・ヨーガなどによってこれが覚醒すると、クンダリーニがその鎌首を持ち上げ、脊髄を伝わって強い快感・エクスタシーが体をうつ。これを一種の悟りとみなす考え方です。 性的な快感と宗教的な快感・法悦(エクスタシー)との近親性から生まれた思想だそうですが… その一方で、日本の今昔物語の中では、「蛇が法師のマラ(勃起した男性器)を口にし、淫を受けて死んだ」という興味深い話があります。 もっとも、これはお釈迦様が弟子に向かって「たとえ男性器を蛇の口に入れても、けっして女性器の中に入れてはいけない」という強い戒め、教えが伏線となっているものと考えられますが…。それはそれとして、人間の精液を蛇が飲むと死んじゃうという考えは、かなりぶっ飛んだ考えですよね。 摩羅(マラ):釈尊が悟りを得るのを邪魔しようとして現れた悪魔。この時、マーラは自分の美しい娘の裸の姿で釈尊を誘惑しようとした。これと似たような話がゾロアスター教の開祖・ゾロアスタ(ツァラトゥストラ)にも出てきます(いわゆるペルシア民族は、インドの支配民族アーリア民族と同族で、両者には言語だけではなく共通の神話が存在するためといわれている)。ただし、ゾロアスター教では性行為は神聖な行為で、人間は性行為・出産に励まなければならないという違いがありますけれど。ゾロアスタ教では、性的禁欲を唱える仏陀を悪魔、もしくはその手先と見なします。また、新約聖書にあるキリストを誘惑しようとした悪魔の話は仏陀の成道、ゾロアスタの話などが元ネタであるとする説もあります。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこにゃーさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ずばり言いますと――つまり すでに復唱せずにずばりお応えしますと――  1. 聖書は アブラハムの信仰に始まってモーセによるそれの集団にとっての宗教化(規範化)を経てイエス・キリストによるその宗教の揚棄(個人における信仰の復活)までを歴史的経過としても理論としても書き記した。  と考えます。あるいはつまり そこに添えるなら  2. アブラハムに(つまりその当時はまだアブラムと名乗っていた人間に)非経験なる神との――主観における受け容れとしての経験行為としての――関係が成ったあと 歴史をさかのぼって 始祖のアダムとエワにまでたどりついた。そのあと このじんるいの初めやあるいは世界の初めから説き起こし アブラハムにまでも話をたどり着かせた。  ということであろうと推測するものですが 問題は いまの《ヘビ》の主題にかんしてなら こうです。  3. とうぜんユダヤ民族にとっての聖書に表わされた信仰ないし宗教ないし思想(生活態度)は その話題を 先行するシュメールやアッカドあるいはエジプトのいろんな民俗や神話から持って来ています。ギルガメシュ神話からは かなり決定的な話素を 七つくらいは 《パクって》来ているとか聞いています。  ですから 問題は それぞれの主題についてそれらを聖書記者が――同じ話題でありながら――どのように扱っているか。これにあると考えられます。  4. 《ヘビ》の主題についてなら 基本的に――という意味は 新約聖書のキリスト・イエスにまで到るその《料理》の仕方を総合するとということですが―― 結論は《へびは 要らない》 これだと見ます。  5. 言いかえると 世界にはいろんな《ヘビ》の物語が語られている。(つまりたとえば むろん 中国でも 龍として天子を象徴するまでになっている)。これを 同じくユダヤの民のあいだでも 聞いていたし受け容れてもいた。よって 基本的には――つまりその時点での聖書記者の心つもりとしての長期の観点からすれば―― 《ヘビは 要らない》であるのだけれど まづはその扱い方として神との関係をめぐる人間の物語の中に あたかも主役をおびやかすほどの存在であるかのごとく 採り入れた。  こうして長い時間・つまり千年二千年をかけて ヘビを料理しようという魂胆だったのではないか。こう見るというものです。  6. ちなみにたとえばですが モーセからもだいぶん経ったあとのこと ヨブの物語においては ヘビはアクマに昇格していますが 飽くまでヤハヱーの管轄下におかれています。人間の意志の弱さや歪みによっていわゆる悪のおこないをするということをも超えて ひとつの見方からすれば 次のごとく見られるようにも描かれています。  つまりは 神は愛する人間を特にえこひいきして 人一倍いぢわるをする。すなわち ヘビないしアクマを送ってさまざまな試練をあたえる。ヨブの心を練って練って練り上げた。そこまで 人間の次元においても ヘビ退治は すすむ。あとは イエスの磔とそこからの――物語においては――復活 これで締めくくるという魂胆であった。  7. で 初めにもどって 女である人類の始祖エワを誘いそそのかしたヘビの話ですが そしてエワの誘いによって夫のアダムも同じく その善と悪とを知る木から採って食べたのですが 要するにこの話は 《自由意志》の理論をつたえようとしています。  7-1. すなわち ヒトは 自由意志がそなわっており これによると 自分の心の思いにしたがって思惟し行為をおこなうこともその意志によって成すのだと言うことを示している。動物がその本能で行動するのとはわけが違うのだと。  7-2. しかもこの自由意志によるなら 心にさからって振る舞うことにおいて わが神にも逆らっているということが 《自由に》行なわれ得るのだと言っている。つまりそうエワやアダムはさとった。  7-3. よって 木の実を食べたあと 神からたとえばアダムは 《アダムよ きみはどこにいるのか?》という声を聞いて どぎまぎしたように 《自由なる思惟と行為 つまりは 自己表現の自由》には 答責性がともなわれるということ。こうもふたりは さとった。  7-4. その後 エデンの楽園を神によって二人は追われるわけですが こうしてヒトが人間となって存在するという理論が成った。ここまでが 《神は世界を見て それをよしとした》ところに入ると見ます。  7-5. 説明責任をともなう自由意志 これを備えた人間 この存在は したがって――説明責任を負うということからして―― 互いにカカワリを持ちマジワリを持つ社会的な存在だと知った。〔存在論は 人と人との《関係(カカワリ)の絶対性》を見させ 交通(マジワリ)ないしコミュニケーション論をその主要な課題とする〕。  7-6. むろん指摘しておっしゃるように 《その自由意志ないし精神もうつろい行くことがあり その身は朽ちるべきものである》つまり《われわれ人間は 時間的な存在である》つまり《死すべきもの》だということも 言われていると思われるからには ギルガメシュのこの話はたしかにパクっていましょう。  7-7. したがって 要するに 《神にもさからいうる自由意志》という主題 これは 独自のものでしょう。そうして 知恵をさづける者としても誘惑する者としてもそのヘビは 大きくその存在をうったえているように描かれているけれども やがて消え失せるまぼろしとしても触れられている。(趣旨説明欄の§7から§10までを参照ください。エワの子孫とヘビとのたたかいのことが ほのめかされています)。  8. このようにして 《元ネタ》との――あえて言えば 次元の――違いが明らかであると考えます。  その点についてのご見解が示されていればよかったかと考えますが いかがでしょう?  9. つまりはたとえば のちのちの歴史においてミルトンが《失楽園》を著わしたと言っても 要らぬお世話であり ただのおままごとだとなります。  9-1. ニーチェは あたまから おかしいです。=趣旨説明欄( f )。フロイトのくだらなさについては 触れません。  9-2. ★ 要するに、蛇=悪者という図式が成立するのは、ユダヤ・キリスト教、イスラム教が世界に広まってからの話ということです。  ☆ 《ヘビ=アクマ》説は まぼろしであるという問題だと見ます。イエスにおいて まぼろしすら消えたという意味です。  9-3. 《タントラ》教は 勝手にやってくれです。  9-4. ゴータマ・ブッダについては 美女マーガンディヤー事件が その思想の欠陥を示していましょう。  以上のようなたたき台をしめして 問い求めをいっしょにすすめてみませんかと言っています。どうでしょう。ご批判をあおぎます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

bragelonneさん、こんばんは。 ☆ たぶんただし 理性のほうが 偉いという前提でおっしゃっていませんか? はい!その通りです。・・・その通りでした。 いつも、ありがとうございます。

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  うけたまわりました。  お応えは 前回No.1のお礼欄と補足欄に書き込みましたので それをあらためてでもご覧ください。   そして ほかの回答者さんとのやり取りにも 目をとおしていただければさいわいです。  ということで ここは このようなかたちにてです。

noname#156094
noname#156094
回答No.5

谷戸の解説ありがとうございました。 現在ではあまり使われない言葉ですが 俳句の世界では今も使われている言葉です。 鎌倉に住んでおられる俳人の方が時々用いています。 野蛮人の報告書のつづきです。 ・・・・・ ヘビがユーモラスに見える時もあります。 木や草の蔭から、しっぽを出している時です。 何か棒みたいなものがあるな、と思っていると 音もなくゆっくりと動いていって蔭にすーと入っていきます。 しっぽの先が伸びたままの状態で、ゆっくりと動いていくのは何となくユーモラスです。 あの、くねくねとした動きは好きになれませんが・・・こちらはどことなく、のんびりした感じで面白いです。 ・・・・・ 昔は、どこの農家でも鶏を飼っていました。 卵から、ひよこをかえして育てていたものです。 その、かわいいひよこを狙ってヘビがやってきます。 朝見てみると、お腹が膨らんだヘビがいた事がありました。 食いすぎて満腹なのか、とぐろを巻いて動きません。 こいつ、とばかりに捕まえては叩いて藪の中に放り投げたりしました。 しかし、殺したりはしませんでした。 何となく殺してはいけないという気持ちがあったと思います。 一番いけないのは、鶏を食う習性がついてしまった犬です。 犬も鶏も放して飼っていた時代でしたから、犬の中には野犬でなくても鶏を食らうようになってしまった犬が時々いたものです。 こちらはもう絶対に許されない感じでした。 大切な鶏が一晩のうちに何羽もやられてしまうようになると もうダメだな、ということで抹殺されてしまう。 そしてその犬の肉が近所に配られてきます。 私もその肉を煮たものを見ましたが、どうしても食えませんでした。 赤い肉で、ほとんど脂身がなかった感じでした。 犬を食う・・・なんて野蛮だと思いがちですが、まだまだです。 近所のつわもの曰く・・・猫よりも犬のほうが旨い 皆なで酒を飲むとそんな話を笑いながらしていたのを思い出します。 こんなですからシマヘビを食うぐらいは平気です。 ・・・・・ ヘビは殺しちゃいけない、というのはよく聞きました。 石を投げて追い払ったりもしましたが、たまには友達とやってしまった事もあります。 それは怖かったからだと思います。 ヘビは私にとって今でも特殊な感じのする生き物です。 他の動物と比べて、いまいち親しみが感じられない。 いつでも、何か目に見えないところにいて、急に出てくる化け物のような感じがします。 化け物の解釈はいろいろでしょう。 化け物といえば、カル羅は龍を常食としているみたいですが 龍の味ってどんなかな・・・ いやはや、野蛮人の馬鹿な空想でした。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  おおむね次のように受け留めてよろしいでしょうか。  ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~   § 19 おそらく日本人は 共生の知恵にたけている。  《なほびたま》にしろ《あらみたま》にしろ そのようにヘビを取り扱ったとしたら さらにそこにエロスの領域のことどもをも捉えた場合には すべて《モノはコトである》の世界観(§ 17)またそれとしてのミクロコスモスなる《わたくし》の中におさめて(§ 16) もしそれがモノスゴイことであったとしたら むしろそれをウヤマヒ きよらかなおそれをいだきつつ 共存しようとするのではないだろうか?  ~~~~~~~~~~~~~    立川流とそしてほかに密教・女性原理だとかの質問が出ましたので その向こうを張って 次の情報を掲げます。断片的かも知れませんが 《へび》の問題とそのような問題を真剣に(くそ真面目に)考える宗派をどう扱うかの問題 このふたつの点においてです。  ● (キリスト教の異端とされるカタリ派)~~~  【Q:グノーシス主義の良さをおしえてください】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3183765.html  [回答No.1]  「絶対的二元論」を唱えました後期カタリ派(南フランスや北イタリアに広がった)では、そもそもこの宇宙には、光(精神)と闇(物質)の二つの神がおり、対立していました。  物質をつかさどる神は、人間(生物)という牢獄を創り、精神をその中に閉じ込めてしまいました。  そのため、物欲にまみれた人間界では、腐敗に満ち溢れます。  人間世界の回復のためには、囚われた精神の解放が必要です。  そのために、色々な戒律などが行われます。  (その戒律の中には、性交渉の絶対禁止{自慰行為も禁止}があります。これは、子供が生まれる事は、牢獄の増加につながるという考え方によりますが、誘惑に負けて性交渉をしてしまった人は、今度は徹底して性交渉をする事が良いとされました。これは、性交渉により肉体を酷使する事で、精神を閉じ込めておく牢獄が弱くなると考えられたためです)  当初カトリック教会もコンスタンティノープル総主教も、ボゴミール派にもカタリ派にも弾圧を加えてはいませんでした。  二元論運動の広まりにより、二元論者が、既存の教会を破壊したり十字架を撤去するなどの行為を行うようになったため、弾圧に乗り出します。  ~~~~~~~~~~~  ▲ (ヰキぺ:カタリ派) ~~~~  § 興亡  〔* 途中からの引用ですが〕・・・  1229年、カタリ派への対抗策として異端審問制度が実施された。  南フランスにおける異端審問は13世紀を通じて行われた。  1244年、カタリ派の最後の砦であったモンセギュールが陥落し、立て篭っていた多くのカタリ派信者が改宗を拒んで火刑に処せられた。  その後も捕らえられたカタリ派指導者たちが異端審問によって処刑を宣告された上、世俗領主に引き渡されて処刑されたことで徐々に南フランスにおけるカタリ派の影響力は低下していった。  最後の「完徳者」ギョーム・ベリパストが捕らえられたのは1321年であった。  1330年を過ぎると異端審問所の資料からカタリ派の名前は消えていった。信徒たちは山中や森に逃れ、各地へ離散していった。  ~~~~~~~~~~~~~~  いやはや。  ★ ~~~~  ヘビは私にとって今でも特殊な感じのする生き物です。  他の動物と比べて、いまいち親しみが感じられない。  いつでも、何か目に見えないところにいて、急に出てくる化け物のような感じがします。  化け物の解釈はいろいろでしょう。  ~~~~~~  ☆ 《化け物》感はあるのですね。  そこから 《くそ真面目》にまで成るかどうか。・・・でしょうか。  

回答No.4

女の人の情欲の恐ろしさについては、ずいぶん語られている気が するのですが。(恨んで化けてでたりとか) 実際、現代の男の人(殆どの人の気がする)は、そこまでもか、 というぐらいの「頓珍漢なもてすぎて困るよけいな苦悩」を かかえているじゃないですか。 その辺の落差加減については、あまり語られていないのは、 何故なのでしょうか。 井戸端会議ではしょっちゅうだと思うけど、真面目に掘り下げた ものは、有るのでしょうか。 もしかしたらそこには、もっと深い暴動がおこるほどのタブーが あるのでしょうか 文学でもいいので、あったら教えてください。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  問題として捉えておられる事態が いま少しつかみにくいのですが?  ★ ~~~  女の人の情欲の恐ろしさ〔* が 一方ではしばしば語られているのに対して〕現代の男の人は、・・・「頓珍漢なもてすぎて困るよけいな苦悩」をかかえている・・・。  その辺の落差加減については、あまり語られていないのは、何故なのでしょうか。  ~~~~~  ☆ つまりは こうでしょうか?  ○ いまの男は 女の情念の強さやその執念深さが一生ものどころか多生ものであることに 警戒心がない。その極楽とんぼぶりは いったいどこから来ているのか?  ★ ~~~  井戸端会議ではしょっちゅうだと思うけど、真面目に掘り下げた  ものは、有るのでしょうか。  もしかしたらそこには、もっと深い暴動がおこるほどのタブーが  あるのでしょうか  ~~~~~  ☆ もしこういう問いだとして考えてみます。  ひとつには  ○ 片や 性欲ないし生殖と家族生活をのぞむふつうのツイ(対)関係願望と 片や 〔主観的な思い入れとしての〕情念を込めて征服欲ないし支配欲を満たそうとするツイ(対)関係願望とは まったく違うふたつのことである。  と捉えればよいのではないでしょうか? 後者を《情欲》と呼べばよいかと。  すなわち この《情欲》は じつは・じつに 感性や情感をすでに超えて(そしてしばしば落としめて)おのれの思うように世界を支配したいという・じつは理性の産物であるのではないか?  これが 質問の骨子です。  《へび》というまぼろしをそこにかぶせるのも 理性〔およびそれと結託する天の邪鬼の意志〕ではないか? です。  つまりは 現代の男の極楽とんぼぶりは 自然のツイ関係願望と情欲・支配欲にかられたツイ関係願望との違いを弁えていれば 問題ないと思います。  ★ 文学でもいいので、あったら教えてください。  ☆ へたのすけさんが 《道成寺》の話に触れています。調べたことがなく知りませんが むかしは何度も聞いたものです。或る娘が鐘の中に入っていたことと たしかにドロドロとした情念の話だったことを覚えています。  質問者として 《情欲》にまつわる文学は ほとんど知りません。思うことは 問題提起としてなり回答なりとして しらべてみて投稿してくださると みなさんのためにもよいスレになると思うのですが。  あらためて言って ツイ関係の物語は 情念に振り回されることがなければ それほど問題はないと考えます。感性・性欲は 中立なりと。  文学としては ヘビの話をまぶさないと 作品としての味が薄いとでも思われていましょうか? どうでしょうか?   日本では――ふつうのツイ関係の物語として―― わたしはよく《〔古代における采女としての〕春姫〔といいなづけの次郎〕》の実話を引き合いに出します。  おとなりの韓国では 春つながりで《春香伝》。  《トリスタンとイゾルデ》  《アベラールとエロイーズ》  韓国のテレビドラマで《風吹くよき日》が おもしろかった。クオン・オボクという女性の生き方。  こちらのペースに引っ張って来て 話をすすめていますが 遠慮なく突っ込んでください。

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     1. 人びとの罪をあがなうという主題が 聖書関係に出て来ます。  2. これは 特殊な絶対性のもんだいかと思われます。それでも説明をつけようとする場合が 考えられます。では それは果たして 一般性を持つか? この問いを問います。          *  3. 例によって 悪魔を登場させての説明です。  4. 悪魔は すでに死んでいるのですが その死の制作者として 神に許されてハタラキを持ちます。  5. つまり 人間の罪をあがなうというのは この悪魔を征服するというかたちの話になります。  6. なぜなら 悪魔は 人びとに罪がある――罪を犯した経験がある――そのことを咎めて 最終的に人を死に追いやるというハタラキですから 誰かが すべての罪を引き受けたなら・そして清算できるように引き受けたなら あがなうことになります。  7. 例によって悪魔は イエスをも死にみちびきます。そのために罪へと誘います。  8. けれども ほかの人間はいざ知らずイエスとなると 悪魔にとって ちょっと趣きが違っていた。  9. イエスは 悪魔の気持ちや思い 怒りやその論理をすべて アース役よろしく その心身に受け留めてしまっていた。  10. では 死。この存在の消滅という死――つまり じつは 悪魔にとって おのれ自身のことである――をも 引き受けることが出来るか? と問いかけた。  11. つまりは 高等法院のお偉方らを促して モーセの戒律にしたがって イエスを死刑に処することになるように ことを運ばせた。  12. つまりは イエスとて おのれ自身の現実の死に追いやられたなら おれ(つまり悪魔)の心をやさしく包むことなど 出来っこあるまい。という魂胆である。  13. 果たして 磔の十字架に上がって イエスは どうしたか?  14. 降りて行かなかった。その死刑をあまんじて受けた。  15. つまりは 死そのものである存在(?)の悪魔にも 自由に対等に接していたイエスは 死そのものにも成るというわざに出てしまった。  16. へへんと思った悪魔だが そのイエスの心を自分の心に受け留めた途端 すでに身も心も溶けてしまった。  ☆ 質問者の捏造が入っていますが 果たして 一般性がありますか?

  • 《金の仔牛》に罪はない!?

     この聖書のひとくだりの物語を例に 組織宗教の揚棄を問います。  ▲(出エジプト記 32:1-35) ~~~~~~~  1:モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、  2:アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」  3:民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。  4:彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。  5:アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。  6:彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。  7:主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、  8:早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」  9:主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。  10:今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」  11:モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。  12:どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。  13:どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」  14:主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。  15:モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。  16:その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。  17:ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、  18:モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも 敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  21:モーセはアロンに、「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか」と言うと、  22:アロンは言った。「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。  23:彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、  24:わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」  25:モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、  26:宿営の入り口に立ち、「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、  27:彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。  28:レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。  29:モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」  30:翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。  31:モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。  32:今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」  33:主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。  34:しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」  35:主は民がアロンに若い雄牛を造らせたので、民を打たれたのである。  ~~~~~~~~~~~~~  【Q】 社会的な交通(コミュニケーション)においては 特に権限関係のある場合に 主観内面におさまりとどまる神を持ち出して その神との近しさや信じる度合いあるいはそれにもとづく業績を判断基準として ひとの思惟や行動を左右することは ゆるされない。のではないか?  集団ないし組織としての宗教は 揚げて棄てられるのがよいと考えられるのではないか?

  • カントの「実践理性の要請」について

    カントのいう実践理性の優位とは、神とか死後生の事柄は理論的にはわからないし「物自体」は認識できないが、だからといってそれはどうでもよいというのではなく、人間の道徳の実践のためには必要であり、その限りに於いて認め得るということでしょうか? もしそうなら、道徳的行為以外の事柄についても、神とか死後生の事柄を必要とする場合があるのではないでしょうか? たとえば死に対する恐怖を克服すること、そのために神とか死後生の事柄を要請することだってあり得ると思いますが、 それは実践理性の要請とは言えませんか? また、死の恐怖の克服だけではなく、自分の人生の意味付けや世間的価値基準の相対化など、精神衛生上有意義なことがあると思いますが、そうした見地から神とか死後生の事柄を要請するのは実践理性の要請とは言えないのでしょうか?

  • 聖書の原罪と贖罪とハルマゲドンのサタン性

    キリスト教の原罪と 贖罪について質問です。 まず2つの 聖句をあげると、 (創世記 1:28 ) 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 (創世紀9:1) それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ とあります。 神様は人を増やそうと命令していて、誰かを殺そうとは命令しておられないと思います。 人を減らすようなことはしない。 むしろ 生まれることを望んでおられる。 これを確認したいと思います。 一方で アダムとエバが蛇にそそのかされて、食べると死ぬことをになる 知恵の実を食べてしまった。 2人は神のようになるという言葉を受けて、食べてはいけないと言われた 知恵の実を食べて 神様に背き、罪をおかし、永遠に生きる見込みを失って死ぬことになった。 これが 原罪ということだったと思います。 そこへ、こ の原罪を贖うために 代償として イエスキリストの命を 十字架にかけた。 イエスキリストがその死を持って 原罪を償った贖ったということだと聞いています。 そうすると、現在によってアダムとイブが死ぬことになった この2つの命、まず2人がいなくなるわけです、そしてこの子孫 もう 原罪を引き継ぐので、これらはの命も失われたわけです。 これで 無数の命が失われることになります。 人が死んでいなくなるわけです。 言葉が直接 すぎたらごめんなさい。 それなのに贖罪によって、イエスキリストの命も失われます。 十字架にかけられて死んでしまうからです。 と考えると、人がひたすら失われていませんか? それはこの文章の冒頭であげた、創世記の2つの聖句「生めよ 増えよ 地に満ちよ」という神様の命令や意志に矛盾してるし 反してると思います。 神様は人を増やしたいわけです。 命を増やしたいわけです。 ところが この 原罪と 贖罪の考え方では、ひたすら 人が減っていきます。 一説によれば神様は 十字架にイエスをかけられることを計画にされ、イエスの前の時代に生まれてきた 預言者たちはイエスが十字架にかけられることをあらかじめ 述べていた。 イエスも十字架にかけられる前日に、ペテロによって 十字架にかけられるようなことがあってはなりませんと言われたけれども、イエスはペテロをあなたは人のことを思って 神のことを思っていないと退けて、十字架にかけられます。 もちろん イエスは様々な 奇跡を起こす力を与えられていたので、十字架を避けることもできたでしょう けれども、十字架にかけられる方を選んだ。 でもそれって本当に神様が望んだことなのかなと思います。 先ほども言った通り 神様は誰の死も望んではいなくて、むしろ人が増えていくようにと思っているわけであって、アダムや エヴァ それの子孫の死もイエスの死も望んでいないと思います。 では 何なんだろうと考えた時、サタンの思惑ということが浮かんできます。 永遠の命を見込まれていたアダムとエバをそそのかし 知恵の実を食べさせて、死に追いやり、原罪を贖う 目的でイエスキリストを十字架にかけ、死に追いやり、大勢の人を死に至らしめた。 例えば アダムとエバが原罪を負った贖いとして、イエスの死によらなくても あるいは、新たな命を誕生させることによって贖わせることもできたと思うんですよね。 アダムとエバの原罪を贖う方法として、もしあなたたちが新しい命を誕生させれば、赤ちゃんを生み出せば、あなたたちの原罪を取り払いましょうと全知全能の神様ならできたと思うんです。 ということは原罪による死、その子孫の死、 それを贖うための死、これらはとても サタン的だなと思います。 死ぬことでしか 何かを表現できないからです。 神様ならば 誕生させることで全てを表現してくれるんじゃないかと僕は思います。 イエスの贖罪後も 人は死んでいます。 本当に神様が望んだ贖罪であれば、それが神様的なものであれば、直ちに 永遠の命が与えられると思うんです。 それから 2000年経ったと言われる今も人は死んでいきます。それは 原罪と 食材がサタン的なものであり、神様の意志にそぐっていないからじゃないですかね。 例えば 子供がお腹を空かせて親に食べ物を求める時。親はできるだけ早く食べ物を与えたいと思うと思います。 ところが 永遠の命が与えられるのは ハルマゲドンの後。死を恐れ 苦しむ人もいるのに、ずっと先です。神様ならば 直ちに 永遠の命を与えてくれるんじゃないですか? 原罪、贖罪、 ハルマゲドン、 復活はサタンによる計画 じゃありませんか? ご読了に感謝します

  • キリスト史観

    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。

  • 【宗教・イスラム教の嘘】イスラム教の教えに矛盾を見

    【宗教・イスラム教の嘘】イスラム教の教えに矛盾を見つけてしまいました。 イスラム教の教祖はムハンマドで、ムハンマドこそがこの世の唯一の神である。地球の人間の誕生であるアダムとイブの直系の子孫で、兄弟の子孫にユダヤ教の教祖であるモーゼがいますが、モーゼの兄弟の子孫がイエスであり、キリスト教はイスラム教が誕生して、数世紀後にユダヤ教が生まれて、ユダヤ教の数世紀後にキリスト教が誕生したはずなのにイスラム教の教典のクルアーンにはキリスト教が登場します。 イスラム教の教祖のムハンマドが生きていた時代にはキリスト教は存在しなかったはずです。 いまイスラム教徒が信じて信仰している教えはムハンマドの教えではないのでは?

  • 闇の中にいる人が光を見ることができるためには・・・

     ( a ) わたしたち人間が 闇に覆われていたのが そこに光の差すのを見ることができたのは イエス・キリストの出現によってである。  と 質問者自身 思っています。  信仰――非思考の庭がわが心に成るということ――の問題ですが・つまり言いかえるとドグマの問題なのですが 哲学として考えるところをこの( a )の命題を説明しつつ述べますので ご見解をおおしえください。  闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。つまりはその意味で 人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが。  それは いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは   ( b ) 神が人間となって 人間として――ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として―ー去っていくことだった。のだと思われます。  ( c ) 人間としてというのは たとえば弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態。つまりイエスは 人から裏切られるような人間存在であったということ。  あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 イエスは死を死んだということ。などを言います。  ( d ) 人間としてでなければ――つまり神として 十字架上から降りて来るなどといった奇蹟を起こしたなら 話は別になってしまうという意味ですが―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  ( e ) しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は――そして神なる聖霊は―― 人間の精神なのではないと知らせる必要があった。  だから 信仰は 非思考。ヒラメキ。  ☆ この物語について 哲学はどう捉え扱うのか これが知りたいところです。どうでしょう?

  • 宗教の歴史

    世界の宗教の発生の歴史や相違について、宗教学の専門書でなく、 判り易い本がありましたら教えて下さい。 「ユダヤ教・キリスト教・イスラム教」と「仏教・ヒンズー教」の どちらか一方のグループだけについて書かれた本でも構いません。 一神教のユダヤ教・キリスト教・イスラム教は同じ神で、宗教の違いは、 預言者の違い(モーセ・イエス・ムハマンド)と聞いています。 イスラム教の5大預言者はモーセ・ノア・アブラハム・イエス・ムハマンドで、 悪魔サタンはイスラム教でシャイターンとか、 仏教のお釈迦様はヒンズー教のヴィシュヌ神の化身とか。 どうぞ宜しくお願い致します。

  • キリスト史観が成ったんだって!  おおーい! 

    0. 経験合理性から飛躍した思惟があることをお断わりします。 §1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。 1. 聖書記者の述べるには こうです。 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html はじめに ことばがあった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html イエスは言った。 《・・・ しかし あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは あなたがたが見ているものを見たかったが 見ることができず あなたがたが聞いているものを聞きたかったが 聞けなかったのである》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   2. ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。これにしたがうと イエスは キリストなる神(《ことばである神の子》)として モーセやアブラハム(《多くの預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。   3. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。 §2 イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史 4. アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように――《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。 5. その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》     (エフィエー アシェル エフィエー。)              (出エジプト記 3:14 ) という答えを得たと言います。   6. さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は或る日    《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編 2:7 ) という言葉を その神から聞いたそうです。   7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3 ) §3 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。 8. その後 時は飛んで――アブラハムから二千年でしょうか――イエスという人が出たというわけです。 9. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い    てある箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書 61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人    びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。    と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21) 10. このとき――さらには十字架上に去って行ったそのときに――言わばキリスト史観が完成したと思われます。 §4 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上――ここまで 及んだのだと捉えられます。   11. それは まるで千年も二千年もの時間をかけて あたかもことばをもてあそぶかのように。 12. そして もし成就したのなら キリスト史観は もうそのイエスまでだと考えられます。あとは 余韻のみではないかと。 13. キリスト史観から オシへを取り出し掲げる神観ないし神学をみちびくのではなく――ましてや その考えるべきオシへを 何を錯乱したか 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く組織宗教をでは断じてなく―― 哲学としての神論ないし人間論をかたちづくりたい。 §5 キリスト史観は 理論としては 存在論である。 14. 《存在》――《わたしは ある(エフィエー。 I am. )》――をめぐる理論としては この命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 15. 《わたしはわたしである》という自己到来とその――そこから逸れたときにはわれに還るところの――自己還帰すなわち 自己(存在の数として一(いち))の自乗(冪)を繰り返す生活動態。(1^n=1)。 §6 アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか? 16. むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。   (あ) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来っこないと人びとは思ってしまう。 (い)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。 (う) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ人間のちからとしての道徳や信念やあるいは科学の光に終わってしまう。 (え) あるいはひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。 (お) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。 (か) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなくこれを晴らし イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (き) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。 (く) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 (け) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 §7 ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めてキリスト・イエスだと分かった。 17. 生前には――イエスは みづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。 18. なぜか? ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~ 更に、主は言われた。   見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。   あなたはその岩のそばに立ちなさい。   わが栄光が通り過ぎるとき、   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、   わたしが通り過ぎるまで、   わたしの手であなたを覆う。   わたしが手を離すとき、   あなたはわたしの後ろを見るが、   わたしの顔は見えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は なお見えない。     §8 あらためて《表現の問題》という問題 19. というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。   20. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのか・どう解釈されたかを別としても。 21. ことばを《実質である事の単なる端として捉え 言の葉としゃれて表わす民》にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか? ( a ) たぶん 辻褄は合っている。か。 ( b ) 二千年四千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。 22. 世界は このキリスト史観を受け容れたのだろうか? ユダヤは イエス・キリストをみとめていない。ヨーロッパ人は あらためてどのように受け容れたのか?  23. ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけであると考えられる。俟ち伸びわびた史観が成就したのであるからには あとは すこやかさだけである。

  • イエスとアクマ

     キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラで戦わなかったのだと考えられます。  だから 十字架上に去って行ったあと 人びとの心に復活した。  話の都合じょう悪魔という言葉を出せば 悪魔は その十字架じょうの死の淵までは よう ついて来なかった。  それまでは イエスと同じ足取りで同じ軌跡をたどっていた。  イエスが何をするか その行動を追跡していた。  ハリツケの寸前にまで影のごとく寄り添って来ていた。  ところが 死の淵にまでは そのみづからの能力によってついて行くことが出来なかった。  それでこそ悪魔であった。  すでに死んでおり あらゆるものを否定し死にみちびく親分である悪魔も 自分がふたたび死ぬことは 出来ない相談であった。  もしそうすれば 即座に一たんよみがえって ふつうのまともな存在となる。と思ったとたん 中から炉心溶融を起こして溶けて行ってしまうとちゃんと知っていた。  ゆえに イエスの死の淵にまではもう よう来なかった。  去って行ったイエスに度肝を抜かれた。  よって それまでに罪を犯した者どもを自分の胃袋の中に抱え込んでいたのが すべて吐き出さざるを得なくなった。  文字通り アクマは 腑抜けになったのである。  添削をどうぞ。思いっきりのご批判をも。