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感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物

 ( a ) ヒトは 時間的な存在である。  ( b ) 時間的なるものには 限りがある。《限りのないナゾなるもの》に向き合いひとは おそれをいだく。相対的な経験世界のうちに生きる存在であることの自覚である。  ( c ) このきよらかなオソレにもとづき 知恵を持つ。境地としての知恵のほかに 理性なるものをも発達させる。  ( d ) やがて 知恵のもとの自由意志は かしこくもか おろかにもか オソレにも逆らい 理性をおのれの都合よいように用いるようになった。  ( e ) そしてさらにこの理性は 意志にも君臨しようとするまでに到る。それだけの発展性は備えていたらしい。  ( f ) その頃には 《無限というナゾなるもの》は 理性が観念としてあたまの中におさめてしまった。《観念の神》の誕生である。のちにこの神――つまり人びとのあたまの中にあるだけの観念の神――は死んだと宣言されねばならないほどだった。初めから死んでいるのに。  ( g ) さてここで突然 この理性が 性欲をめぐって ヘビなる情欲として《観念の性欲》の世界をこしらえてしまった。のではないか? サドとマゾッホらあらゆる想像力を動員して《きよらかな畏れ》に挑戦してみた。  ( h ) 風呂に井戸を掘るたら何たら言う人間は この《オソレ――この上なくつつましやかなひとなる存在のいだく畏れ――》 これをアーラヤ識かどうかは知らないが 深層の心理の中にだけ閉じ込めてしまった。かくて このヰルスに感染したときには 神は ムイシキであるとなった。       *  ◆ 《へび》の問題  § 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的・社会的な意味  次の文献によって わたしなりの分類をします。   ▲ 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)   http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/serpent.html    ○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~     (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂     (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として治水防風雨をしのぐ            あらぶる者:悪魔::荒魂     (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。     (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。     (ε) ゆえに エロスを象徴。     ~~~~~~~~~~~~~~      § 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。  併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。  この偏見で議論をとおしますので お見知りおきのほどをお願いします。  § 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。  言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。  こういう見方を持ちます。  § 4 この場合のムイシキは      (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)        =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ  のことです。  § 5 ムイシキの逆襲(?)  リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになるそうだ。  その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。  すなわち その意味や次元にまで還元されたと言いますか そう見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。  § 6 ムイシキとは 亡霊なり。  ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。  その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。  § 7 聖書におけるヘビの克服物語  イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。  いちおう理屈をつければ こうです。  悪魔は 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという〔気休めとしてでも〕希望を持ち得るけれども 悪魔なるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。そして その冥界へと人びとをさそう。  イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまでヘビを嫌った。ほかのナゾの何ものかに従順であった。ヘビなる悪魔などは 屁の河童であると。  ますます怒った悪魔は ついに実際に〔それまでに部下に持った人間たちをして〕イエスを死地に追いやり見世物にまでして磔を実行せしめた。  ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間が自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。  § 8 聖書の関係個所を引きます。  ▲(創世記3:14-15) ~~~~  主なる神は、蛇に向かって言われた。   「このようなことをしたお前は   あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で   呪われるものとなった。   お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。   お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に   わたしは敵意を置く。   彼はお前の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この部分すなわち   ▲ ~~~~~~~~~~   彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」   ~~~~~~~~~~~~~  という箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと言われます。  § 9 つづき――モーセにおける蛇との闘いの事例――  ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~  〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。  民はモーセのもとに来て言った。   「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、   わたしたちから蛇を取り除いてください。」  モーセは民のために主に祈った。  主はモーセに言われた。   「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ   を見上げれば、命を得る。」  モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。  ~~~~~~~~~~~~~  § 10 つづき――イエスは 《青銅のヘビ》か――  ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~  そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。  それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。  神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。  独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  § 11 いかなる事態であるか?  もし性欲も大自然への畏れも ヒラメキをも含めて感性だとすれば この感性とそして理性との あらそい なのであろうか?  感性は 間違い得るし あやまちを侵す。ただし そのこと自体にウソ・イツワリがない。  理性は あやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。  ただし このような問い求めをおこない説明をあたえるのは 理性でありそれを用いる志向性としての意志である。

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回答No.17

毎回、ご意見ありがとうございます。 >『悪は善の損傷行為でありその結果の善の欠如なる状態』 悪を善の欠如とするbragelonneさんの”悪の定義”は広くキリスト教で見られる伝統的な定義ですね。意外に保守的な”悪論”で、すこし驚いております。 確かこれと同じ論理で、神を光に、悪魔を影(光の欠如)で説明する悪魔論もあったように思います。「至善なる神が悪(悪魔)を創造するはずがない。悪は善性の欠如である。」これは論理というより、過去のキリスト教神学者の信仰に基づいた確信なのでしょう。 所詮、善と悪は相対的概念、相補的関係にあるので、左を右の逆と定義することも可能であるように、悪を善の欠如として定義することも可能でしょう。ただ、悪を善の欠如として定義をする場合、善を明確に定義しておく必要があります。幸い、bragelonneさんの善についての定義があるのでこれを検討したいと思います。 『《善》はと言えば これはただただ主観的な思いと判断によるものと考えられます』とあります。さらに、この直後に『おのれの心がよしと思うことが 善なのだとです。それは この心の善にさからうときに動悸がはげしくなったり顔を赤らめ冷や汗をかいたり 言葉はしどろもどろになったりします。ゆえに ここで善とその善の損傷とを分けることができます』と続きます。 つまり、bragelonneさんは、《善》の根拠を人間の主観(的判断)と動悸や発汗などの生理現象に求めているようです。 そのように理解してよろしいしょうか。 あるいは、動悸や発汗のなどの生理現象は善の欠如である悪を選択する後ろめたさ罪悪感といった心的なものに起因するものであって、「善の根拠は人間の主観にある」という立場を取っていられるのでしょうか。 ☆bragelonneさんは、イエス・キリストと同様に明らかに律法否定の立場を取っています。しかも、既成の(「世俗の」と表現した方が適切かもしれませんが…)道徳観・倫理観も否定、もしくは軽視・無始する立場を取っています。 では、bragelonneさんの文中にある『おのれの心がよしと思う』の、「心がよし」と心が判断する基準は何なのでしょう。何に根拠を求めればいいのでしょうか。 bragelonneさんの言う”非経験的ひらめき”? 直観や直覚?? 神との直接的結びつき、もしくは”神の直接介入"??? 人間の心の中に善を判断する根源的能力でも備わっていなければ、ひとりよがり・独善主義や感覚主義・快楽主義に堕する危険性を有しているように思うのですが、この点についてどのようにお考えですか。 理性に価値を置かれていないようなので、理性ではないことだけは確かなようですが… ☆新約聖書に登場する悪霊(悪鬼)について質問します。 bragelonneさんの立場は、悪魔は人間が作り出した観念である、という立場です。では、新約聖書でイエスか祓った悪霊・悪鬼とはいかなる存在なのでしょうか。 これも悪魔同様に人間が作り出した観念であり、非存在であるということでしょうか。つまりイエスの悪霊払いの数々の話は寓話であるとお考えなのでしょうか。 ☆ok9608さんと神の存在論をやっておられるようですが、過去千年以上にわたって数多くの哲学者や神学者により神の存在論的証明が試みられ、その悉くが失敗し、その試みがいかに不毛で無意味なものであったことが知られている現在、今さら新たに神の存在論、存在論的議論を行っても無意味に思えるのですが… 神の存在は、結局のところ、信仰の問題に帰着します。 また、ok9608さんの指摘する通り、神の存在を前提にしても、あるいは神の存在の否定を前提にしても、いくつかの原則(公理)を立て、後は純粋に数学的・論理的な操作を行うことで理論を構築できます。それは、平行線公理を否定したところから出発し、非ユークリッド幾何学が誕生したことと同じです。しかし、非ユークリッド幾何学の誕生で分かったことは、平行線公理がユークリッド幾何学の理論体系では証明できないことであり、そして、それを公理として認めても認めなくても、別の幾何学の体系が構築できることです。神の存在についての議論は、まさに、「幾何学において、平行線公理を認めるか、認めないか」という議論と同様のようです。無意味とは申し上げませんが、感情的なしこりを残すだけの不毛な議論になる危険性をはらんでいると思うのですが… また、ok9608さんは「神の実証は難しい」と主張されていますが、私は同様に「神がいないことを実証することも難しい」と考えています。 まずありえないことだと思いますが、もし科学が進み、科学(神の存在を必要としない理論体系)で自然現象、精神現象のすべてを説明できたとしても、それは単に「その説明に神を必要としない」というだけのことです。”神の非存在”を証明したことにはなりませんから。 もっとも、これは、科学・理性が新たな神になった、神(の概念)が変わったと主張する人が出てくると思いますが…

bragelonne
質問者

お礼

 眠り猫にゃあさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  神の存在についての議論は不評のようでした。  ひとつに 次のわたしの神の定義をよろしかったら ごらんください。  【Q:神は 人間の精神ではありません。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7399495.html   回答No.2へのお礼欄  《経験合理性によって考えても分かるか分からないかが分からない非経験の領域》とするものです。  もうひとつに 人類がどの言語でも持つに到った《信じる》ないし《かみ》という言葉 これがどうしてあるのかという問いに 神の定義があると見ます。無根拠・非合理としてです。そうでなければ 《信じる=考える》ということになると思われるからです。  あとは 《無限》という概念で説明するのが よいと考えます。二で割っても三で割っても その商はやはり 無限であるというそれです。  でも   ★ ~~~  まずありえないことだと思いますが、もし科学が進み、科学(神の存在を必要としない理論体系)で自然現象、精神現象のすべてを説明できたとしても、それは単に「その説明に神を必要としない」というだけのことです。”神の非存在”を証明したことにはなりませんから。  ~~~~~  ☆ とおっしゃっていることと同じことを言っているつもりなのですが。  もしかしたら 《証明》という観点を持つかどうかで 違っていましょうか。証明の成否の以前に 存在ないしその現象(生活)があると思いますから そこでは《非思考》というコトは 人間にとって現実だと思うからです。  あれぇーっ。  ★ 神の存在は、結局のところ、信仰の問題に帰着します。  ☆ 同じ主旨であるのかどうなのか。・・・  つまり 《無い神》も 《有る神》と同じく 非思考であり信仰だと見ています。     *  ★ ~~~~   では、bragelonneさんの文中にある『おのれの心がよしと思う』の、「心がよし」と心が判断する基準は何なのでしょう。何に根拠を求めればいいのでしょうか。  bragelonneさんの言う”非経験的ひらめき”?  直観や直覚??  神との直接的結びつき、もしくは”神の直接介入"???  ~~~~~~  ☆ 結論から申せば 人びととの《話し合い》です。半永久的な話し合いです。言いかえると 《決まらない》とさえ言わなければならないかも知れません。  ○ 「善の根拠は人間の主観にある」という立場  です。言いかえると 《存在》が社会的な関係性をも含むというごとく 《主観》は共同性を持ち得るという見方です。  あとは 善悪論としてではなく 実際の政策や仕事の議論として結論を出すこと ここにおいて けっきょく相対的な善なるものをもとめるし 実践するということになると思います。  実施したあとにおいても・途中の過程においても やはり 対話です。どこまでも対話です。  言いかえると 試行錯誤だということになると思います。  存在ないし生命の肯定と否定とでは――つまり 公理としてなら―― 明確に善と悪とが分けられるとは思います。共同主観になれると思います。  よい対処法がありましょうか?     *  ★ ~~~~  ○ 新約聖書に登場する悪霊(悪鬼)について質問します。  bragelonneさんの立場は、悪魔は人間が作り出した観念である、という立場です。では、新約聖書でイエスか祓った悪霊・悪鬼とはいかなる存在なのでしょうか。  これも悪魔同様に人間が作り出した観念であり、非存在であるということでしょうか。つまりイエスの悪霊払いの数々の話は寓話であるとお考えなのでしょうか。  ~~~~~  ☆ 《われは 神のごとくいかなるものの下にも立つまいと堅くひそかに誓った精神》は そこに征服欲ないし支配欲を伴なって 情念を奮い起こし 《観念の帝国》を築くようになると見ます。観念の皇帝になるであろうと。  これが 帝国主義たらんとするとき 支配欲によってすでに自分が支配された状態になるならば それは アッキもしくはアクマになると見ます。  アクマは すべてを否定する精神です。  これが あたかも空気のような身体になってくるなら これは悪霊です。    観念なのですが 観念が自分の身体に作用し そこからさらに現実にそのチカラを振るうと見ます。そのためにこそわが精神も身体もあると決め込んだ精神なのだと思います。心が熱くなるときには からだが冷め からだが熱くなるときには 心が目覚めないといった心身の現象を持つようになるのではないかと推測します。  要するに観念ですが 現実にチカラを持ちこれを振るうと見ます。それは じっさいに電波のような現象として人に・つまり何らかの理由でこだわりをもった相手に 古い言葉で言えば 憑きます。念力を放出するようにして 相手に覆いかぶさるのではないかと見ています。つまり 具体的なウゴキはまだ見えていません。そこにいるだけの状態で 相手が 自分にとってこれはと言ってこだわられてくる人であれば その電波放出のようなウゴキが現われると見ます。  イエスは アース役となって悪霊を一たん受け留め しかるべくこれを内面において嫌い憎みその心の〔善悪の〕あり方として批判し 内的に棄てる。自分の中にその心的現象を起こす芽を摘んでおく。こうして アクマ・アッキに対処すると思います。(人間としてはです。神としてはは分かりません)。  ○ アクマ・アッキあるいは悪霊は 理性の産物であり 観念である。しかもその観念が身体や現実の事象やほかの人たちに物理的なチカラをもおよぼすことがある。  と捉えています。イエスの悪霊払いは じっさいの出来事だと思います。  それを解くには合理的な根拠を見い出しがたい主題ばかりになりましたね。

その他の回答 (23)

noname#156094
noname#156094
回答No.3

ヘビは性欲の象徴のようにされているみたいですが 道成寺のごとく、喩え話におけるシンボルとして扱われる場合が多いのでしょう。 少し逆らって、現実そのもののヘビのことを話してみることにします。 つまらないといえば、つまらないですが・・・ 昔、ヘビセンターというところへ近所の人達と行ったことがありました。 大きなニシキヘビを皆なで触って騒いでいましたが 冷たくて気持ちいい、などと言う人もいたので私も恐るおそる触ってみました。 確かにひんやりとした感じがしました。 でも気持ちいいという程ではありませんでした。 ヘビもこれぐらいの大蛇クラスになると、ただ怖いというよりは、畏れ多い感じがしたものです。 異質で巨大な生命体といった感じです。 その時一緒に行った近所の連中は、皆な長く自然の中で暮らしてきた者ばかりでした。 水路の藪からシマヘビが出てくると必ず捕まえては取って食べてしまう連中です。 ヘビ以上に野蛮な人だけれども、性格は悪くない感じです。 私も何回かは、シマヘビのかば焼きを食ったことがあります。 なんというか、こおばしい感じがしたことを覚えています。 まあ、昔は、鳥でも豚でも犬でも食ってしまった時代でしたから、野蛮だという意識はなかったと思います。 今のようにきれいに調理された肉は中々お目にかかれなかった 直接自然からいただくのが当たり前だと思っていたわけです。 そうした貧しかった時代が懐かしい感じもしますが・・・ 中学生の時でしたが、一度、青大将の大きなやつを捕まえて手に巻き付かせたまましばらくいた事がありました。 そいつを放してから、手がぬるぬるして臭いので、何回も洗ったことがありました。 石鹸で何回洗っても臭いので、とうとう最後にはガソリンで洗ってみました。 それでも完全には臭いが抜けませんでした。 その時始めて、なぜ青大将という名前がつけられたのか分かりました。 名のごとく、青臭いのです。 その強烈な臭気はあまり気持ちいいものではありません。 ・・・・・ しかし、青大将の子供はまた別な感じです。 10cmくらいの子供は黒くてかわいいのです。 ミミズみたいな感じですが、よく見るとちゃんとヘビの格好をしています。 でもこれがかわいい。 以上野蛮人からの報告でした。 答えにならずすいません。

bragelonne
質問者

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 へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  まづヘビ体験からですが こちらは まったくありません。じっさいに出会ったことは ほとんどありません。  キャンピングで山に登ったとき 列の最初の者がへびを――特にこの場合は こわあーいマムシです――起こして(目を覚まさせて) 二番目の者が噛みつかれると言って歩いたことを思い出します。  さいわいお目にかかることはなかった。  あぁ かすかに覚えているのは ご飯にヘビの肉が入っていておいしいと言って食べたことがあったような。  ★ 大蛇クラスは 畏れ多いという感じ   ★ 青大将は 青臭い  ☆ ですか。    この質問は 以前の質問で《エワをそそのかしたヘビとは何か?》という主題を持って考えたものです。たたき台がそれです。そうして日本の民俗における《へび》についても考えたところを掲げたいと思います。        *  ◆ 《へび》の問題  第二部 日本の民俗におけるヘビのお話  § 12 谷戸の神から夜刀の神へ  ● (夜刀神=ヰキぺ) 夜刀神(やつのかみ、やとのかみ)は、『常陸国風土記』に登場する日本の神(蛇神)である。  ☆ とその記事は書き始めています。《やと》とは 元は谷戸のことで 谷状の土地を言います。ちなみに このようなかたちの土地を 東では《さは(沢)》と言い 西では《たに》と言って分かれていたそうです。すなわち   ● (谷戸=ヰキぺ) ~~~  谷戸とは、   丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形である。   また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。   谷(や、やと)、谷津(やつ)、谷地(やち)、谷那(やな)などとも呼ばれ、主に日本の関東地方および東北地方の丘陵地で多く見られる。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 谷戸の土地を農耕に利用したというところが 重要です。  § 13 谷戸を開墾し へびに出会った。  上なる世界を《タカ〔ア〕マノハラ(高天原)》と言い 地下を《根の国》と言うとき 中間の陸地を《アシハラ(葦原)の中つ国》と言っていたように そこはまだまだ湿地が多かったようで人びと(縄文人また弥生人)は 山の中腹にまで住むところを求めて行っています。  その初めの開墾のとき 当然のようにヘビが出て来ました。言わば先住者であり これに敬意を表し 《谷戸の神》と言ったものと思われます。  生活上の守護神としては 善なる神であり 《なほびたま(直毘魂)》です。  あらぶる力であれば 悪なる神。《荒魂(あらたま、あらみたま)》です。これとの対比では 前者は《にきたま(和魂)》と呼ぶようです。      へび( § 1)⇒谷戸の神     (α)水の神⇒ 生活・生命のしるし。善なる神。⇒直毘魂・和魂     (β)水の神⇒ あらぶる者。悪なる神。⇒荒魂  § 14 谷戸の神と《草分けの人と家》  『常陸の国風土記』には 谷戸の神と 《打ち殺せ》とまで言って闘ったとあるそうです。境界線を決めてあとは 谷戸の神をうやまってもいると。  そこには別様に  ● 土地の開墾に際して自然神である山野の神霊から土地を譲り受ける「地もらいの儀礼」と見ることもできるというが  ☆ とあって この様子のほうが われわれの祖先のおこないそうなことだとわたしには思えます。  《草分け》すなわち柴を刈り草を切りしてあらたな土地を耕し始めたその事また人を その後に人びとがあつまって出来たムラは大事にする。それと同じように へびさんにも先住者に対するものとしてのウヤマヒの心を忘れなかった。  だから 囲いをしてここはおれの土地だと宣言したら その所有の権利が成るというのとは ちと違う。あとは力づくでもしくは法的手続きによって奪うかどうかになるのとは ちょっと違う。自然状態は 人が人に対して狼である( Homo homini lupus.)だとか 万人の万人に対する闘い( Bellum omnium contra omnis. )だとかと言うのとも すこし違う。  でも谷戸の神を わざわざ《夜刀の神》――つまり 暗闇で足元を襲って来るといったイメージをあてはめたものでしょうか――ともその文字を替えて意味をもあらたにつけ加えている。これは 《たたかい》でもありましょうか?  § 15 では 日本人は ヘビをエロースのしるしとして見なかったか?   次のような意味合いを 谷戸の神なるヘビに人びとは見たか?   (§ 1) ~~~~     (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。     (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。     (ε) ゆえに エロスを象徴。   (§ 4) ~~~~     (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)        =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ      ~~~~~~~~       たぶんそういった民俗事例はいくらでもあることでしょう。ストーンサークルのような遺跡には リンガを思わせるようなかたちもあるわけで その縄文人から始まっているわけです。(たぶんそれは 原始心性であって 歴史知性を持ったあとの扱い方や感覚とは違うものと思われます)。ですが 問題は あまりそのことの特別視は していない。というのが 基調ではないであろうか?  たとえばエロスは ブディズムが入って来てから 例の理趣経でしたかの愛欲論を真言宗が 密教の中におさめたもののようです。  § 16 リビドーをそれとして受けとめ ムイシキを《わたし》のミクロコスモスの中におさめる。  日本人は このリビドーを ちょうど谷戸の神との共生を図ったように おのれの《わたし》というミクロコスモスの中にそれとしておさめようとしている。のではないだろうか?   その例示としては思い浮かばないのであるが たとえば真言密教の中からは 例の立川流が現われている。けれどもこれを特に異端視するとか排除するとかしないで それとして全体としての社会の中におさめている。いわばそういった例示が思い浮かぶ。  これは 《抑圧》であろうか? どうでしょう? そのところを得させ それとしての位置をあたえているということではないであろうか?  § 17 オホモノヌシの神は じつは ヘビである。  神々をめぐる日本人の世界観は たとえばこうである。  ○ (モノとコト e = mc^2 ) ~~~~~~~~  モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主)  コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主)   ↓        ↓            ↓  自然・社会・・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・かみ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  まづ ヒトコトヌシ(一言主)のカミとは こうです。カミでありつつ現実の姿になったところを 雄略ワカタケルは葛城山で見たし 話もしたというそのくだりで出て来ます。そのとき一言主の神は こう名乗ったという。     《あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言     言離(ことさか・言い放つ)の神 葛城の一言主の大神ぞ》                          (古事記)  オホモノヌシは 三輪山の神ですが じつは 長物(ながもの)と言われ じつは ヘビです。神は 山全体がそうであるのですし その山をも越えて《かみ》を見ようとしてもいるのですが 仮りの姿は じつは ヘビです。         § 18 《へび》なるオホモノヌシの神との結婚  ヰキぺによれば:  ● (オホモノヌシとの結婚) ~~~~  イクタマヨリビメ〔なる女性〕の前に突然立派な男が現われて、二人は結婚した。しかしイクタマヨリビメはそれからすぐに身篭ってしまった。不審に思った父母が問いつめた所、イクタマヨリビメは、名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを告白した。  父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると三輪山の社まで続いていた。糸巻きには糸が三回りだけ残っていたので、「三輪」と呼ぶようぶようになったという。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは ただのナンパ(夜這い?)であると考えられるとともに 神の聖霊によって懐胎した話としても――つまりあたかもイエスの母マリアの事例と似ているというような話としても――捉えられます。  のちにこのイクタマヨリヒメより生まれたオホタタネコは 世の中に疫病がはやったときにそれをしづめるためにオホモノヌシの神をまつる役目に就きます。  § 19 おそらく日本人は 共生の知恵にたけている。  《なほびたま》にしろ《あらみたま》にしろ そのようにヘビを取り扱ったとしたら さらにそこにエロスの領域のことどもをも捉えた場合には すべて《モノはコトである》の世界観(§ 17)またそれとしてのミクロコスモスなる《わたくし》の中におさめて(§ 16) もしそれがモノスゴイことであったとしたら むむしろそれをウヤマヒ きよらかなおそれをいだきつつ 共存しようとするのではないだろうか?

回答No.2

おはようございます。 私は、もともとはドラマとか映画が好きなんだけど 最近の傾向としては、極端に純粋なものを抽出したり また極端に抑圧された禁欲的で道徳的な人間だったりとか、 確かに流行ってるみたいですね。 だから、小林薫さんみたいな感じがよけいに光って見えるけど、 若者には不評みたいですね。 なにもかもロマン主義的にみえてしまう今日この頃です。 リアリティを排除したいというのは、何らかの時代の背景 が起因しているのだと思うけど、わかりますか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ なにもかもロマン主義的にみえてしまう今日この頃です。  ☆ もしロマン主義が 《わたしがわたしである》生活世界に基礎を置く生き方だとすれば それは 何ものにも先行すると考えます。生きることをめぐってです。  もしそうだとすれば   ★ リアリティを排除したいというのは、  ☆ と見るのは おそらく別のことだと思われます。ロマン主義は リアリティをむしろ追究しているのだと考えます。ただし 理想は高いということなのかも分かりません。  でもたとえば 人にたいして・そして中んづくわれに対して ウソをつかないというのは ロマン主義のひとつのあり方だと見ます。そこにリアリティを見い出すという行き方なのだと見るものです。  そういう意味では どの時代においても・どのような伝統のある社会であっても ロマン主義が 個人の行き方としては基礎なのであって 次の場合というのは その基礎の上に立ってさらに具体的にどのようなきっかけから その生き方が見直され求められるかという問題なのではないでしょうか。つまり局面が特定されたうえで 具体的な情況がどのように影響を与えているか。この問題であると。   ★ 何らかの時代の背景が起因しているのだと思うけど、わかりますか。      ★ 小林薫さんみたいな感じ  ☆ テレビドラマで〔わたしも〕若いときにけっこうよく見ました。あちこちに出ていました。言われてみれば たしかに要らないものを削ぎ落としたような印象をあたえます。  ★ ~~~~  最近の傾向としては、極端に純粋なものを抽出したり  また極端に抑圧された禁欲的で道徳的な人間だったりとか  ~~~~~~  ☆ ひとつには 《純粋》というのは だいたいがヒラメキのことであって 生きている姿全体が純粋かどうかは あまり関係ないとわたしには思われます。単純にそういうものだという理由からです。  ひとつに 《禁欲》は外から見てそう見えるのでしょう。本人は――ロマン主義の徒は―― むしろ理性をほっぽり出しておいて 感性に耳を傾けており それに従うだけだと思われます。  言いかえると この感性がときには 目が覚めたように嵐を起こすということではないかと。マドンナに遭えば あたかも恋愛至上主義にまで到るのではないかと見られるようにです。  普段は むしろ《抑圧されていない》というところで 感性にしたがっているのでしょう。静かなこころをたのしんでいるのでしょう。静まりかえっているほどだとも思われます。  ひとつに 《道徳》は くそくらえです。愚の骨頂です。理性をほっぽり出してしまったからには。  感性という水の流れに沿って行くのです。しかもその心は たっぷりと水をたたえた海原をひとり航くちいさな船なのでしょう。  とてもファッションどころの話ではないと思います。

  • kurinal
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回答No.1

bragelonneさん、こんばんは >「感性とそして理性との あらそい なのであろうか?」 たぶん・・・ずっと、そうなのではないかと思うのですが、しかし >「理性は、ウソをもほんとうのことだと・・・丸め込む」 これは、どうですかねえ 仮にも「理性」が、感性のようなことを言っていては。

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  >「感性とそして理性との あらそい なのであろうか?」  たぶん・・・ずっと、そうなのではないかと思うのですが  ~~~~~~   ☆ たぶんただし 理性のほうが 偉いという前提でおっしゃっていませんか?    ☆☆(趣旨説明欄) 理性は あやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。  ★ ~~~~  これは、どうですかねえ  仮にも「理性」が、感性のようなことを言っていては。  ~~~~~  ☆ というふうにです。  たとえば このケーキが食べたいという感性に対して おそらくもうやめておけというのは むしろ感性だと思われます。  むろんどうしても食べたいという気持ちも感性です。ところが そのような気持ちを――つまり食べたいにしろ もうやめようという気持ちにしろ―― 言わば代弁するのは理性です。  明日は控えるから きょうはだいじょうぶ やはり食べようだとか 確かに昨日もたくさん食べたからきょうはよそうだとか いちいち理屈をつけたり言い訳を考えたりするのは 理性です。  たしかに《ウソをつく・だます・丸め込む》という片一方の場合だけを言っていてはいけませんが しばしば感性が《正解》を出しているのに それに逆らってわが道を行くのは 理性のほうではないですか?  つまり 趣旨説明では その片一方の側面だけを書いてしまっていますので その点 おわびして 正解の方面についてもしっかりと弁護してくれるのが理性であると言い直しますが それにしても けっこうわるいことを言ったりしますよ 理性は。  つまり 感性には 罪はないのではないでしょうか?  ただその感覚や気持ちが起きているということなのではないでしょうか?   つまり ここで大きく取り上げていることは その想像力にものを言わせて あらゆる場合を考え出してその快感を演出するのは むしろ理性〔のわるい方面〕ではないでしょうか? という点です。  理性があたまに描いたものを 感性は捉えてあたかも実際に現実にその感覚が現象したという場合と同じようにみづからをはたらかせる。そしてその快感を追うようになる。  これは 理性が誘惑しているのではないでしょうか? ケーキにいちごを載せてみようと考えるのは 理性ではないでしょうか? 感性はただただ正直に反応しているだけであって そこに餡子を載せて食べさせられても 感性に罪はない。こうではないでしょうか?

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄の議論には 感性と理性のほかに 意志の役割りをはっきりと加えて述べなければならなかったと考えなおしました。ひょっとしたら 《へび》についても。  1. 感性は よくもわるくも すなおに現われ動きたがる。ただし ふと まばたきのあいだにヒラメキのごとく 正解をちらつかせる。  2. 理性は 感性の向かう方向のよいわるいいづれについても その能書きを垂れる。また感性の示す正解についての その説明をあたえる。  3. どの方向に向かうか これを決めるのは 意志である。  4. ただしこの全体の仕組みの中で 理性は 感性に従ってにしろ感性とは独自ににしろ その自分の世界をもって・という意味は 観念の城を築きあたかも意志をも説き伏せて観念の帝国をつくりおさめ 単独分立することがあるかに見える。  5. 理性の帝国には 観念の城つまり観念体系が築かれ得る。そこでは すでに感性が抽象的なかたちで採り入れられその仮想された観念が 情念や情欲として病的に抱かれ 独自の自己運動をすることがあるかに見える。  6. それらは 基本的に意志の責任であるが 意志が理性によって何らかのかたちですでに説き伏せられているかにも見える。  7. このような理性の独走あるいは暴走は そのひとつの基礎としての観念体系がしっかりしたものであればあるほど 起きがちのように思われる。  8. それは 個人のキリスト信仰が 教義として組織のヒエラルキアの中でいわゆる《キリスト教》となって持たれたときに ひどい結果をともなって現象するように思われる。ふるくは マルクス教。  9. 《敵を愛せ》というおしえのもとに 殺し合いをたのしんでいるのかと思わざるを得ないほどである。《自分と同じように人を愛せ》と言って 人を裁いている。  10. このような事態や情況の中で 基本はその問題が理性にあるというよりは 意志が中軸であるというところにあるのだと考えるが そのとき しばしば《へび》すなわちアクマのことが――なぜなら 理性の観念体系の中に潜み得る―― 持ち出されることがある。  11. これは 理性の帝国が 仮想世界のことであるのと同じように まぼろしである。ヘビないしアクマは まぼろしである。  12. 理性の暴走に対して 中軸たる意志は 感性のふと洩らす正解に耳をかたむけるべきである。理性は あらゆる回答をそれぞれが正解であると言いくるめる傾向がある。そのチカラを誇っている。理性よ おごるなかれ。

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  • 闇の中にいる人が光を見ることができるためには・・・

     ( a ) わたしたち人間が 闇に覆われていたのが そこに光の差すのを見ることができたのは イエス・キリストの出現によってである。  と 質問者自身 思っています。  信仰――非思考の庭がわが心に成るということ――の問題ですが・つまり言いかえるとドグマの問題なのですが 哲学として考えるところをこの( a )の命題を説明しつつ述べますので ご見解をおおしえください。  闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。つまりはその意味で 人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが。  それは いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは   ( b ) 神が人間となって 人間として――ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として―ー去っていくことだった。のだと思われます。  ( c ) 人間としてというのは たとえば弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態。つまりイエスは 人から裏切られるような人間存在であったということ。  あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 イエスは死を死んだということ。などを言います。  ( d ) 人間としてでなければ――つまり神として 十字架上から降りて来るなどといった奇蹟を起こしたなら 話は別になってしまうという意味ですが―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  ( e ) しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は――そして神なる聖霊は―― 人間の精神なのではないと知らせる必要があった。  だから 信仰は 非思考。ヒラメキ。  ☆ この物語について 哲学はどう捉え扱うのか これが知りたいところです。どうでしょう?

  • 宗教の歴史

    世界の宗教の発生の歴史や相違について、宗教学の専門書でなく、 判り易い本がありましたら教えて下さい。 「ユダヤ教・キリスト教・イスラム教」と「仏教・ヒンズー教」の どちらか一方のグループだけについて書かれた本でも構いません。 一神教のユダヤ教・キリスト教・イスラム教は同じ神で、宗教の違いは、 預言者の違い(モーセ・イエス・ムハマンド)と聞いています。 イスラム教の5大預言者はモーセ・ノア・アブラハム・イエス・ムハマンドで、 悪魔サタンはイスラム教でシャイターンとか、 仏教のお釈迦様はヒンズー教のヴィシュヌ神の化身とか。 どうぞ宜しくお願い致します。

  • キリスト史観が成ったんだって!  おおーい! 

    0. 経験合理性から飛躍した思惟があることをお断わりします。 §1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。 1. 聖書記者の述べるには こうです。 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html はじめに ことばがあった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html イエスは言った。 《・・・ しかし あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは あなたがたが見ているものを見たかったが 見ることができず あなたがたが聞いているものを聞きたかったが 聞けなかったのである》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   2. ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。これにしたがうと イエスは キリストなる神(《ことばである神の子》)として モーセやアブラハム(《多くの預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。   3. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。 §2 イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史 4. アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように――《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。 5. その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》     (エフィエー アシェル エフィエー。)              (出エジプト記 3:14 ) という答えを得たと言います。   6. さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は或る日    《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編 2:7 ) という言葉を その神から聞いたそうです。   7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3 ) §3 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。 8. その後 時は飛んで――アブラハムから二千年でしょうか――イエスという人が出たというわけです。 9. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い    てある箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書 61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人    びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。    と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21) 10. このとき――さらには十字架上に去って行ったそのときに――言わばキリスト史観が完成したと思われます。 §4 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上――ここまで 及んだのだと捉えられます。   11. それは まるで千年も二千年もの時間をかけて あたかもことばをもてあそぶかのように。 12. そして もし成就したのなら キリスト史観は もうそのイエスまでだと考えられます。あとは 余韻のみではないかと。 13. キリスト史観から オシへを取り出し掲げる神観ないし神学をみちびくのではなく――ましてや その考えるべきオシへを 何を錯乱したか 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く組織宗教をでは断じてなく―― 哲学としての神論ないし人間論をかたちづくりたい。 §5 キリスト史観は 理論としては 存在論である。 14. 《存在》――《わたしは ある(エフィエー。 I am. )》――をめぐる理論としては この命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 15. 《わたしはわたしである》という自己到来とその――そこから逸れたときにはわれに還るところの――自己還帰すなわち 自己(存在の数として一(いち))の自乗(冪)を繰り返す生活動態。(1^n=1)。 §6 アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか? 16. むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。   (あ) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来っこないと人びとは思ってしまう。 (い)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。 (う) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ人間のちからとしての道徳や信念やあるいは科学の光に終わってしまう。 (え) あるいはひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。 (お) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。 (か) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなくこれを晴らし イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (き) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。 (く) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 (け) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 §7 ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めてキリスト・イエスだと分かった。 17. 生前には――イエスは みづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。 18. なぜか? ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~ 更に、主は言われた。   見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。   あなたはその岩のそばに立ちなさい。   わが栄光が通り過ぎるとき、   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、   わたしが通り過ぎるまで、   わたしの手であなたを覆う。   わたしが手を離すとき、   あなたはわたしの後ろを見るが、   わたしの顔は見えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は なお見えない。     §8 あらためて《表現の問題》という問題 19. というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。   20. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのか・どう解釈されたかを別としても。 21. ことばを《実質である事の単なる端として捉え 言の葉としゃれて表わす民》にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか? ( a ) たぶん 辻褄は合っている。か。 ( b ) 二千年四千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。 22. 世界は このキリスト史観を受け容れたのだろうか? ユダヤは イエス・キリストをみとめていない。ヨーロッパ人は あらためてどのように受け容れたのか?  23. ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけであると考えられる。俟ち伸びわびた史観が成就したのであるからには あとは すこやかさだけである。

  • イエスとアクマ

     キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラで戦わなかったのだと考えられます。  だから 十字架上に去って行ったあと 人びとの心に復活した。  話の都合じょう悪魔という言葉を出せば 悪魔は その十字架じょうの死の淵までは よう ついて来なかった。  それまでは イエスと同じ足取りで同じ軌跡をたどっていた。  イエスが何をするか その行動を追跡していた。  ハリツケの寸前にまで影のごとく寄り添って来ていた。  ところが 死の淵にまでは そのみづからの能力によってついて行くことが出来なかった。  それでこそ悪魔であった。  すでに死んでおり あらゆるものを否定し死にみちびく親分である悪魔も 自分がふたたび死ぬことは 出来ない相談であった。  もしそうすれば 即座に一たんよみがえって ふつうのまともな存在となる。と思ったとたん 中から炉心溶融を起こして溶けて行ってしまうとちゃんと知っていた。  ゆえに イエスの死の淵にまではもう よう来なかった。  去って行ったイエスに度肝を抜かれた。  よって それまでに罪を犯した者どもを自分の胃袋の中に抱え込んでいたのが すべて吐き出さざるを得なくなった。  文字通り アクマは 腑抜けになったのである。  添削をどうぞ。思いっきりのご批判をも。