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輪廻転生説は 愚の骨頂

 ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

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  • umaruko
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回答No.52

No.43で回答したものです。ご返事ありがとうございます。前回は質問内容からずれてしまった回答になってしまったので、今回はまともに回答をするつもりです。 >輪廻転生説は 愚の骨頂 に関して私が思うことを書いていきます。 まず、輪廻転生説といいますが最終的に行き着く先は人間が死んだあとの世界はあるのか?それともないのかという話に帰結するものだと考えてます。 そして、現在の西洋哲学では私の知る限り人間の死後に対して明確な回答をした人物はいないと断言できます。(少なくとも根拠を示した人物はいないはずです) そういった意味で西洋哲学における輪廻転生説は誰も証明しておらず、いまだに輪廻転生説を悪用して自分の利にしている人たちを見るのはうんざりです。まさに哲学が取り上げるには値しない主題というよりも、証明も客観的な根拠を示していない主題のうえで何やってんだ!って感じですね。まさに愚の骨頂であるというのは同意です。 次に私が仏教の輪廻転生説を書いた理由として、ある程度の客観的な根拠を示されているということが挙げられます。それはNo.43で書いた 1.キリスト教では死んだ後必ず天国に行くんですよね…。この世よりもずっといい世界なんでしょう。じゃあ、なんで人が死んだときあんなに悲しそうに葬儀に参加するんでしょうか?死んだら天国なんだろ!もっと喜べよ参列者!!今の世界よりいいとこいくんだからバンザイをしろよ!! 2.人が死んだとき冥福を祈るという言葉が贈られます。冥福とは冥土の幸福を祈るってことですよね…。冥土とは死んだ後の世界のこと。(これで死後の世界を信じてますね)しかも幸福を祈る…死んだあとの世界が不幸だから幸福を祈るんですよね?これって死んだあとが不幸になるって思っている証拠になりませんか? という2つの根拠が示されたということにあります。この2つは少なくとも人間は死後の世界があると信じている、かつどうも死んだあとは不幸な世界に行くとわかっているのではないか?というものです。 この2つの謎は輪廻転生が事実であれば、簡単に謎はとけます。 (1)人間は輪廻転生しているがゆえに死後の世界があると無意識下でわかっている。(今までの経験上) (2)今の私たちは過去遠い昔に人間であったときがあって、その時死んだ後地獄に堕ちたという経験を持っている。だから、死んだ人間に対してその人間は地獄に堕ちたということだから、わざわざ冥福、死後の幸福を祈っている。 という説明で謎はOKになるでしょう。 少なくとも私にはこれらの根拠を崩せるような持論がなかったため掲載させていただきました。もし、崩せる方がいたら本当に崩してください、お願いします…。 最後に > たとえ《死後》のことが分からなくても ひとは 生きているうちに 一生懸命に 努力をするのであり 勤勉です。どうして 《死後が無く 未解決の課題が残されるからと言って 道徳が崩れ落ちる》のですか? ただ そういうふうにしか考えられなくなっているあなただけの問題ではないのですか? について。これは中国最大の思想家に対する挑戦そのものですね! http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/71479/67603/50003369 まあ、かいつまんでエピソードを書いていきます。孔子の門弟で最高の人格者であった中国の顔回という人物がいた。しかしその生涯は極貧な生活で、しかも若死にした。 それに対して盗跖(とうせき)という同時代に生きた大泥棒は悪事の限りを尽くしながら、富貴栄華を極めて死んだ。 この事実を前に「善を進んでやれば必ず幸せになれる」と説いた孔子のなすすべはなかった。。。 というお話ですね。つまりこの世で努力しなかった盗跖はこの世で幸せであった。しかしこの世で努力したはずの顔回はこの世で不幸せであったと。。。 この件に関してはどう思いますか?もし完璧な反論をしたいなら少なくとも質問者の方は孔子を超えた思想家にならなければなりませんが…。 ROMに戻るとかいってまた書き込んでしまいました…。今度こそROMに戻ります、失礼しました。

参考URL:
http://www.geocities.co.jp/Bookend/3756/seidan.ingaron.html
bragelonne
質問者

補足

 umaruko さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  では 《孔子を超えた思想家にな》りましょう。  【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】のほうで やり取りがあったのですが 《理由その四》の民主主義の歴史的な進展ということに かかっていると考えます。  社会が 二階建ての構造になったという問題です。国家ですね。その成立の以前と以後とでは 社会生活もしくは人間と人間との交通関係 これが 基本的に 変わった。あたかも地割れを起こし 断層を作ってしまった。それが 二階建ての意味です。一階は スサノヲ市民社会で 二階は アマテラス公民圏です。  例証します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  籠(こ)もよ み籠持ち             堀串(ふくし)もよ み堀串持ち         この丘に 菜 摘(つ)ます児(こ)           家聞かな 名告(の)らさね           そらみつ 大和の国は            おしなべて われこそ居れ           しきなべて われこそ座(ま)せ          われにこそは 告らめ            家をも名をも                  (オホハツセワカタケのすめらみこと〔雄略天皇〕 万葉集 巻一・1番)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このうたは 《本来 春の野遊びの若菜摘みの歌が 雄略物語にとり入れられた一首》で  ▲ 《その際 〔中ほどの三句が〕 挿入された》(中西進:万葉集  全訳注原文付 (一))  ☆ と解説されます。このとき もしそうだとしたら それは 若菜つむスサノヲ市民らの生活圏の間にというか その上部の第二階に 三句のアマテラス公民の視点が突如加えられているのだと推し測られます。であるから そのように二階へ上がったという《アマアガリ》には 民主制の観点からは 疑問が付きまとうというものです。  言いかえると まだ現在も 国家は存続していますし その二階建て構造は 変わっていませんが しかし 主権在民であることに間違いありません。スサノヲ市民主権制ということです。アマテラス公民たちを われわれの税金で食わせてやっているというわけです。  ところが しかも ヨーロッパや あるいは 中国とも違って わが日本は じつは 神話によりますと スサノヲ市民たちは アマテラス公民に 基本的に言って 国ゆづりをしたと言います。その結果 西欧や漢民族の内部およびその周辺民族との間において スサノヲ圏とアマテラス圏とが つまり 上と下とが 回転( revolution )して 権力の当事者が 入れ変わるというわけではなかったようです。  つまり 主権在民制になるまで スサノヲ市民らは ときを待っていたわけです。じっと我慢の子だったわけです。この一事をもって 《未解決問題が 死後に託されるという〈思い込み〉が なくても 道徳実践が止むことはなかった》と考えます。そうして わたしたちは 一般に いちいち 因果応報といった説にまで 持って行って 固定することもないと 考えているのではないでしょうか。  ふつうに勤勉なのです。スサノヲ市民らはです。どれだけ公費着服やら浪費をしても おまえたち しっかりせよとは言いますが ギロチンにかけるところまでは進まないのです。やがて アマテラス公民たちは 人間には ひとりの例外もなく 仏性があるということに目覚めて ひざを折って 懺悔でもするようになる。のではないでしょうか?   いやいや わたしたちも 到らない人間です。ともに ふたたび われらが日本を よき国にしていきましょうと われわれスサノヲらは 答えるでしょう。  この歴史過程に 輪廻転生など なんら 関係ないのです。それぞれ その一生を 精一杯生きて――それにしても 長寿国ぢゃないですか―― 死んでいくだけです。こんなたのしい ゆかいな国は ないでしょう。えっ? まだ そのようには出来あがっていないですって? では そのように作り直していけばいいでしょう。少しづつ 一歩一歩。  新しい天と新しい地が ここに 成るかも知れません。どうですか?  輪廻転生説は 愚の骨頂の理由説明でした。

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その他の回答 (113)

回答No.74

続けての回答をお許し下さい。 >>> じつは 摂理は ほんとうの摂理は 人間一人ひとりが あたかも互いに《論争をなすにいた》り《確執》をもって争うかのごとき 生きた動態としての・人間としての交通関係の中にこそ はたらいている。こう言うべきではないか。  それが 対話の実践である。それが 共同主観の過程である。わたしたちの問い求めるところであり その《論争や確執》の中身も然ることながら その実践の仕方や話し合いの過程じたいの実現をも わたしたちは 望むところのものであると考えられます。 <<< 同じことを、柄谷氏も(原始)仏教の本質に見ていたように思われます。 ===以下、引用 仏教はけっして「寛容な」宗教ではない。それはカースト社会とそれに対応する思想に対して、ラディカルに対決する実践的な思想であった。仏教は、あらゆる実体を諸関係の束にすぎないものとしてみる。しかし、それ(仏教)が何よりも標的としたのは、輪廻、あるいは輪廻する魂の同一性という観念である。仏教以前に、カーストによる現実的な悲惨は輪廻の結果であると見なされ、そこから解脱する修行がなされてきた。ブッダがもたらしたとされるもののほとんどは、すでに彼以前からある。ブッダがもたらしたのは、このような個人主義的な解脱への志向を、現実的な他者との実践的な「関係」に転換することである。そのために、彼は輪廻すべき同一の魂という観念をディコンストラクトしたのである。ディコンストラクトと私がいうのは、ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってしまう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。したがって、彼は輪廻からの解脱をはかる修行一般を斥けた。初期の仏教が主にそれまでさげすまれていた商人階級や女性によって支持されたのは、当然である。 (柄谷行人「仏教とファシズム」『批評空間II-18』太田出版) ===引用元:浄土真宗の仏教青年Q&A 魂という概念、http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_7_23.html

bragelonne
質問者

お礼

 ☆ ではないでしょう。そうではなく 人びとの日常の生活が ふつうに対立しつつも 根が寛容な人間関係として成り立っている。このゆえに 死後ないし誕生以前のことなどに たとえ文学的にといえども 基本的には 自己の考えを運んで行ってしまう必要など じつは ない。その根底においては――のちに 仏性が宿ると きわめて空想的ながら 現実的でもある思想としてよみがえらせたごとく―― おのおの このいま・ここなる《わたし》に立って さらにさらにその共生のあり方を 問い求め推し進めていくべきだと言おうとしたのでしょう。  ★ 他者に対する実践的な倫理  ☆ は もともと 共同生活の根もとに 息づいていた。そこのところを それなのに わづかに――わづかに―― これらの人びとの生活にとっては 社会的に言うところのお二階さんたちの圧倒的に強力な世界という雲が おおっていたということではないか。  だから だからこそ ゴータマくんも 正当にも アマクダリしたのですがね。一介のスサノヲ市民になったのですがね。ですが 反面では・その一面では 別種のあたらしい きわめて白いものでありながらその観念の雲を しかしながらやはり 人びとの共同生活のうえに おおいかぶせたかに思われる節があるのでは? そうだとしたら それは 《観念の帝国》主義です。人びとを思考停止に誘う毒薬です。その道徳規範が 愚の骨頂なのです。  わたしたちは お上に弱いというごとく お二階から雲に乗って降りてくる甘い蜜にも 弱いようです。  ▲ (浄土真宗の仏教青年Q&A 魂という概念)~~~~~~~~~~~   死が人生の中のできごとでないことは、お分かりいただけると思います。時間の持続という観点を排するなら、 現在生きていることは、永遠の事柄です。さらに、わたしたちの視界には文字通りすべてのものが映っている、逆にいうと、映らないものがないのと同じように、わたしたちの生には欠けたものも、どこへ向かっているということもなく、それですべてです。この考えはすくなくともわたしにはぴったりきます。   実際のところ「生」しか存在しないのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 最初の最後の文章は 偏向しているでしょうね。中ほどの文章を 《永遠の現在》といった視点として うべないます。

bragelonne
質問者

補足

 直前からのつづきですね。  ですから 《輪廻転生説は 哲学にとって 取り上げるに足りない》と結論づけることになるのではないですか?  ▲  (浄土真宗の仏教青年Q&A 魂という概念)~~~~~~~~  なぜかというと、そういった〔* 永続するような魂があるかないかという〕議論は「輪廻」を前提にしているわけで、そういうありもしないものを前提にした議論はすべて駄目だからです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《ありもしない》と言うと 語弊があるかも知れません。  ▲ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  お釈迦さまは「魂」があるといわなかったと同様に、ないともいわなかったということです。いわば、「魂」があるとかないとか、「そんなことはどうでもいい」といったわけです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ また 次の議論は 哲学のものだと考えられます。  ▲ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ちなみに、浄土真宗では、「死ぬ」とは言わず、「浄土に生まれる」と表現しています。それが「生まれ変わり」と違うのは、わたしたちが死後に、よい世界もしくは悪い世界、いづれにしてもわたしたちが考えているような世界に行くという考え方の否定の上に成立しているからです。  ということは、たとえば、死後よい所に生まれるために、この世でよい行いをしておこうというふうに、死後に向かって、この世の生活を律していくような生き方をやめようということでもあります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そして 何度も言うように 自己のくせとして 趣味として 次の生まれ変わりとしての生を描くことじたいは 自由だというものです。人生ないし世界は ひとり哲学のみによって成り立っているものではないからです。  ですが この哲学カテゴリで 堂々と 大手を振って 《輪廻》はこうだ《転生》はどうだと議論しているのは どうも みっともない。ご賛同いただけるのではないでしょうか?  ★ 同じことを、柄谷氏も(原始)仏教の本質に見ていたように思われます。  ☆ 精確を期します。  ○ 摂理は 動態であり われわれ人間の社会的な対話であり 共同主観の形成・再形成の過程である。むろん 対立を含む。  ○ ―→ その一つの事例として ゴータマが みづからの思想をたずさえて 輪廻思想の根づいたバラモン社会に現われて これを やわらかい表現で語るかどうかを別として 糾弾しつつ 対立した。  ☆ ということですね。ブッダが その《目覚め》について 理論を述べたから 摂理が 世の中に現われたのではありません。  ★ 仏教はけっして「寛容な」宗教ではない。  ☆ これも 決して 重箱の隅をつっつくためではなく 表現の精確さを期すべきです。  ○ 人びとは――社会に 二階が 突如 出来あがった構造を持つまでは そして 持ってからも その一階どうしのあいだでは―― 仲間うちで けんかをもしつつ 意見の対立をも持ちつつ 相互にその差異を受けとめ 認め合って しかも 自由に 批判し合う。このことをつうじて 動態的な秩序とそのもとにおける共生を 願っていたし 基本的に 実現して生きている。  ○ このとき 人びとのこの共生の思想は ふつうの生活態度であって とうぜん 基本的に 《寛容》である。それぞれが 寛容な人間であり それぞれ 基礎としては寛容な思想を持つゆえに 互いに その具体的な内容に 妥当性を競う。  ☆ つまり すでに 根も幹も 寛容であるゆえに 対立は対立と受けとめ 自由に 批判しあっていく。  ▲ (柄谷) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  彼(ゴータマ・ブッダ)は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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回答No.73

No.72で回答した者です。 >>> >  むしろ 最初に確認した《真理》とやらの普遍性 つまりは それが 摂理とも言うべきかたちで 法則のごとくはたらいて 世の中は成り立っているのだという視点 この視点を わざわざ いまごろ 出してくるということは 〔むしろ〕 そのことこそが 本論として述べた表現の自由と具体的な実践としての社会的な動態 これに まさしく観念の網をおおいかぶせようとするブッディスム一流の《支配統治術》なのではないか。 <<< とのことですが、誤読されておられるようです。 >>> 884 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。 <<< ●「真実」 --- 形而上学的事項を一切排除した事柄と解釈します。 ●「真実は一つ」 --- もし、真実が二つ以上あるとすれば、たとえば平行宇宙とかいった概念にて、複数の「完全に独立し、相互作用を一切及ぼし得ない」宇宙を想定するとかになるでしょう。bragelonne様と私とがそれぞれ別世界(たとえばお天道様が東から昇る世界と西から昇る世界と)にいるということです。で、それを知ることの出来る者(A)が「真実は二つ以上ある」と宣(のたま)うことが出来るようにも思われますが、その途端、それら二つの世界は「完全に独立しえない」わけです。Aは一つの太陽に対して逆方向に自転する二つの地球を見て取るかもしれません。したがって、「真実は一つ」といったとき、「完全に独立し、相互作用の一切及ばない別世界」を想定しない範囲で考えるという前提条件が付されていると考えるべきです。 このことは、死後の世界があった場合にも適応されると考えます。 ※だからこそ、bragelonne様は、「真実をおしえてください。」と質問に書かれたのですよね? ●「真理」 --- 形而上学的な事柄に限定した概念と考えます。無矛盾かつ論理的な「思索・思考」にて辿り着く「特定の理論体系」と考えます。 ●「真理は複数ある」 ---  真実が一つであるなら、そのことについての解釈・思索・思考(形而上学的なことがら)にて到達しうる「真理」(無矛盾な説明可能性)は、複数あってもいいということです。唯物論のみで考えるなら、完全に無矛盾な輪廻転生説を構成することも可能になります。(物質を分解し、さらに組み立て直すといった概念★) さらに、唯物論のみでは「【この】私という存在(たとえば魂)の不思議さを完全には説明不可能だ★」という感覚を持つ方は、その「魂」といった概念が、物質と相互作用している現実を受け入れているわけですから、完全に独立しては存在しえないという前提条件(←真実は一つ)のもとにあるわけです。であれば、唯物論での延長として、魂といった概念を含めて組み立て直すことが可能かもしれないといった概念も想定可能になります。 ★組み立て直す前後で「全く同一」ではなく、物質を含む周囲環境(全宇宙)との関係が異なれば、同一概念は崩れます。 ★【この】--- 柄谷氏の「この性」に該当。 あと、質問欄にて複数の理由を並べ立てておられますが、全ての年齢層に対して普遍的な理由と考えるべきなのでしょうか? 子供を育てるとき、特に、生命についての最初の「気付き」の時点からしばらくは、その「不思議さ」を含めて一緒に考えてあげようとするときに、どうしても不可知の世界を具現化してあげた方がいいと思われる場面が多くあります。

bragelonne
質問者

補足

 k_jinen さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  次のご回答をも合わせて けっきょくのところ k_jinen さんは この質問趣旨と同じご見解であるのではないか。こうお受け取りする方向に傾いたのですが どうでしょう。  それはともかく 復唱しつつ 応答してまいります。  まづ 用語の定義が わたしと違っていますが そのあたりから。  ○ 《真理》は わたしは 《絶対》と同義で使います。《なぞ・不可思議・無根拠・無限・永遠》等々です。  ○ 《真実》は 経験合理性にもとづく認識や判断の妥当性を言います。  ○ ひとりの人の《主観真実》が 他の人のそれと 内容が違っていても 共存しうると考えます。くせや趣味ないし文学の問題として それにおさまるというかたちで 自由です。  ○ ただし 《真実をおしえてください》と言ったときのそれは 《人びとのあいだで共同化しうる妥当な内容を持つ主観》のことです。  ○ ちなみに 形而下のことも形而上のことも 経験思考の対象であるものとして 《真実》の問題です。《真理》は これを超えています。そういう想定です。  ☆ ですが 表現の違いは 措いておいて 理解をすすめます。  その前に  ○ ★【この】--- 柄谷氏の「この性」に該当。  ☆ これは 人間の存在の唯一性(かけがえの無さ)を表わすととってよいでしょうか?  さて しかしながら  ★ スッタニパータの 884  ☆ これは 難解です。ひょっとして 矛盾していませんか?  ▲ 《ただ一つしかない真実》のもとに 互いに《同一》でない《真理》が 互いにたたえ合われるまでに 共存する。  ☆ ということですよね。無理ですね。  直近の質疑応答で 相続税の話が出ましたが この分業=協業の社会において 個人の経済活動とその成果(所得)は 果たして それぞれの個人に起因し帰着するものだと言いきれるか の問題があります。  社会つまり人間関係つまりその関係複合の総体からの恩恵も その要因として はたらいていないか。はたらいているという見解に立てば 子孫への相続だけではなく 社会への還元という考え方も出てきます。これは 程度問題になってしまうかも知れませんが でもいくつかの見解が 対立します。言いかえると 対立しながら・その中から より妥当な考えを問い求めつつ 共存するというわけです。  ★☆ それ故にもろもろの<道の人>は 〔それぞれの見解を持って〕同一の事を語らないのである〔が 同時に 社会的には 互いに 具体的な施策を 共同で練り上げていき 共生する〕。  ☆ とならなければ おかしいです。  そうして そのために 《輪廻転生》については ひとが 文学的に 《ある / ない / あるでもなく無いでもない》と想像しても構わないが 哲学の主題としては 扱わない。と結論づけうるのではないでしょうか。  ★ 趣旨説明の《理由》について 《年齢層》のちがいによって 当てはまらない場合がある。  ☆ あてはまる場合のみに それぞれ 適用してください。  揚げ足を取りますが 《誕生以前ないし死後》のことは  ★ 不可知の世界  ☆ であるかどうかは 分かりません。せいぜい 《未知》としておくのがよいのでは? ですから このゆえにも  ★ 不可知の世界を 〔子供を育てるときには〕 具現化してあげた方がいい  ☆ という見方は 文学の問題として どうぞご自由にと言って来ています。  子どもに対して 《輪廻転生説は 哲学にとって 主題にはならない》という命題を 言ってはいけないのではなく それは ただ まだ 理解できないというだけのことです。年齢層によって当てはまらなくても それは その理由の妥当性が 消えるわけではありません。  次のご回答に移ります。

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回答No.72

>  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。 これは、否定する理由として妥当でない。 証明も反証もできないなら、肯定も否定もできない。 それでも否定したいのなら、それは偏見であり、執着でしかない。 理由二~四については、これは論理ではない。 気に入らないから受け入れない、というのは論理として成立していない。感情論にすぎない。 心の働きというのは、本来限界なく広大なもので、三世十方に滞りなく働くが、とらわれることで智慧は妨げられる。

bragelonne
質問者

補足

 jugemjugem さん ご回答をありがとうございます。  ですが 質問趣旨をよくお読みになってください。  ★ これは、否定する理由として妥当でない。  ☆ 《輪廻転生》あるいはその《説》を 《否定する》とは ひとことも 言っていませんよ。  ○ 輪廻転生説は 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  ☆ これです。たしかに  ○ 愚の骨頂  ☆ というからには 《否定》していると受け取られても 仕方がないのですが そして じっさいに わたし自身 《感情論》としては 《否定》をしています。  しかも この質問は 哲学の問題です。哲学の扱う主題には ふさわしくないのではないか。こう あくまで 問うているものです。  ★ 証明も反証もできないなら、肯定も否定もできない。  ☆ ゆえに 主題にするのは おかしいのではないか という問いです。  ★ 理由二~四については、これは論理ではない。  ☆ このご回答内容について きわめて 簡単に 理由説明があります。ですが  ★ 気に入らないから受け入れない  ☆ とは 言っていないでしょう。ほかのご回答へのわたしの応答を読んでもらえば分かるのですが なかで たとえば 理由その二について述べた次の説明を 掲げますので 吟味してください。  ☆☆ (No.50補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ◆ 理由その二にかんすること   ☆ 上のその一と同じことが言えますが それ以上に この理由は 重要です。《自業自得》を 理論として捉えるなら その内容じたいで 自爆するようなものです。もしくは いっさいのものごとに関して もう自業自得として捉えるなら 何ら考えることをしないということになります。あるいは 互いに相手に対して いっさい 何も言えないという意味です。  一挙手一投足が 過去の業(行為)の結果であり そのことにまったく間違いないのだとすれば 何を考えても すべては 過去の自業の結果なのです。その考えで 行為をすれば その行為の及ぶ相手に対する影響から何から すべてが 相手にとっても やはり自分のほうの自業自得だということなのです。  思考停止せよという命令を発しているようなものです。輪廻転生の理論がです。  ですから 理論としては 輪廻転生説は 哲学にとって お話にならないのです。それを問うています。どうですか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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noname#117439
noname#117439
回答No.71

オコリザルです。 輪廻の言い出ししっぺがお釈迦様ではないとして。 神性なり人間本質に近づく努力なりをする人、その時代の哲学者は何がしかの形で神秘について解き明かそうとし、ゆえに神がかりな畏怖を集めるでしょう。 そこか始まった何がしかの迷信のひとつが輪廻でしょうか。 相続税が重税なのは日本の法制度が健全ゆえであると私も考えます。情の問題としてお気に入りでもあります。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神性なり人間本質に近づく努力なりをする人、その時代の哲学者は何がしかの形で神秘について解き明かそうとし、ゆえに神がかりな畏怖を集めるでしょう。  そこから始まった何がしかの迷信のひとつが輪廻でしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ あぁ そういう考えですか。つまりあるいは 一般の人びとの生活観から出たという筋とは別に   ★☆ その時代の哲学者で なにがしかの神がかりをしている場合 もしくは 人びとに神がかりを起こさせるような場合  ☆ ですか。  ううん。ちょっと これは 考えたことがなかったですね。(読んだこともなかったのだと思います)。  ★ 神秘思想  ☆ これは 当然と言うように あったでしょうね。  どうでしょう。人びとの生活感の中から出た生活観・人生観として すでに 《強固な迷信 ないし なぐさめの素》になっているようにも思えるのですが 賢人と呼ばれる哲学者の説として お墨付きを大事にしたでしょうか。  澄みません。お茶を濁しました。案として あたまの隅に入れておきます。

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noname#117439
noname#117439
回答No.70

オコリザルです。 信仰かどうかは不明として、輪廻の思想がなぜ伝播感染するかを考えると、ソレは輪廻の思想を媒体とした病原菌のような業ではないかと感じました。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  ★ 病原菌  ☆ ですか。どうですかねぇ。  人間の弱さの側面に目をやると たしかに 感染してしまうように思いますね。  いちばん 素朴には やはり すでに出てきた理由だったのではないでしょうか。  つまり いま生きている人びとのあいだで ただ 生まれだけによって 境遇がちがっている。これは どうしてなのか? もしこの状態が なんらかの しかし はっきりした原因によって 生じたのなら それは 生まれる前に 何かその原因があったとするしかない。という推理ですね。  それは それで 納得のいく考え方だったのでしょうね。人生で ただ生まれによって 境遇が違うということは そのあと 努力して よくしようとするにしても その出発点が ちがっているという事態なのですから 重大なこととして 捉えられたのだと思います。  この一面では自然な推理がひとつの基礎となって その推理の形式を 広げて行ったのでしょうね。原因は すべて 前世であるとしておけばよいと考えるのでしょうし 結果は すべて 来世だとしておけばよいと考えるのでしょうね。  こうなれば いわば水割りのごとく 人びとの境遇の違いも 薄まって 捉えられるようになったのかも知れません。  ひとつには 相続税・贈与税の問題にもなりますね。  考え方として 財産の形成は 個人の努力という側面と そして あくまで 基盤としては 社会的な相互活動の関係の中において 形成されたという側面と ふたつ あると見られるでしょうね。だとすれば 子孫に相続する側面(部分)と 社会全体に相続させる側面(部分)と やはり ふたつ あると考えられます。  生まれによって つまり 生まれだけによって 境遇がちがうという出発点の問題は この相続税として 社会への還元の部分で 調整することも やはり 考えられると思います。  そういう人為としての問題を もし 考えさせないように 輪廻転生説が はたらいているとすれば それは たしかに 思考停止を 招いていると思います。この――少なくとも 自己が意識する限りでは―― 一回きりの人生において 最大限に 思考や自己表現を 表わし発揮していくということが 望まれるでしょうね。病原菌を撃退してということですね。

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回答No.69

形而上学的な対象「○○の存在(や価値)」について論じることは「哲学」の入門編に相当するでしょうが、「○○の存在論」について論じることは「哲学」の次のステップになるかと思われます。しかし、全てを相対的に「なんでもあり」とするのも問題だという立脚点(主観)を外さないということも、別の意味で必要になろうかと思われます。→参照:(竹田の)現象学や構造構成主義など 「○○の存在」が(証明不可能な)形而上学的な二者択一論争であるならば、「ある」または「ない」という(否定的・消極的な)捉え方よりも、(一見矛盾したように思われる)「ある」かつ「ない」といった(肯定的・積極的な)捉え方の方が、すっきりする場合があります。 (※完全に相対的な捉え方=主観を排除した客観的な捉え方=全てを包括的かつ論理的無矛盾な捉え方であれば矛盾しているように見えますが、個々の主体・主観を排除しない捉え方であれば、矛盾は回避されます) 「○○がある」を念頭において人生をよりよく過ごすことができる人々。。。 「○○がない」を念頭において人生をよりよく過ごすことができる人々。。。 「○○があるのでも、ないのでもない」を念頭において人生をよりよく過ごすことができる人々。。。 これらの全ての考え方が「それぞれにとって正しい」とするならば、 「ある」 かつ 「ない」 かつ 「あるのでもなく、ないのでもない」 とすべきだと考えます。 ============== 884 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。 894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。 (岩波文庫「ブッダの言葉(スッタニパータ)」中村 元訳、「八つの詩句の章」から引用) ==============

bragelonne
質問者

お礼

 もしこのダルマのもとに 《一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない》と。偉大なるおしえである。  そうなんですが――そうなんですが―― これを 世の中全体を一網打尽にするかのごとく 観念の共同性として 打ち出し押し出すときには それは 単なる固定的な道徳規範となり ついには いわゆる共同幻想になり果てるというものです。  こういう現実 ちょうど この逆説のごとき経験現実 これをも考慮しなければなりません。  じつは 摂理は ほんとうの摂理は 人間一人ひとりが あたかも互いに《論争をなすにいた》り《確執》をもって争うかのごとき 生きた動態としての・人間としての交通関係の中にこそ はたらいている。こう言うべきではないか。  それが 対話の実践である。それが 共同主観の過程である。わたしたちの問い求めるところであり その《論争や確執》の中身も然ることながら その実践の仕方や話し合いの過程じたいの実現をも わたしたちは 望むところのものであると考えられます。  どぢゃ?  よって まだ 質問の趣旨は 持ち堪えると考えます。

bragelonne
質問者

補足

 k_jinen さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  k_jinen さんという方からのご投稿を受けるのは たしか わたしは 二度目かと思うのですが ここでも ご回答内容に即して わたしの考えを 率直に 述べるというぶっきらぼう精神をつらぬきたいと考えます。どうぞ あしからず ご了承ください。  おっしゃっていることは ひとつの理念であるかと存じます。あるいは 世界観であるでしょうし あるいは 神学でもある。あるいは いわゆる摂理であるということではないでしょうか。  人間の世の中は こういうふうに まわっているのだよというおしえでもあるのでしょう。  その上で または そうであるからこそ――わたしの考えですが―― わたしたちは 一人ひとり 自由に 話し合いを持つことができるし 実際に 持つのです。互いに 自由に 意見を述べ合って 自由に 批判しあって行ってもよいし 行くことができるし むしろ 批判し合い その意味で けんかをして 対話をすすめて行く必要があるし 行かなければいけない。となるのではないでしょうか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「○○がある」を念頭において人生をよりよく過ごすことができる人々。。。  「○○がない」を念頭において人生をよりよく過ごすことができる人々。。。  「○○があるのでも、ないのでもない」を念頭において人生をよりよく過ごすことができる人々。。。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すべて 互いの存在をとうとび 生きること自体という意味での表現行為 この表現の自由を みな それぞれの考えにおいて 発揮し 享受し 謳歌している。ゆえに 対話し 意見の相違を受けとめ認め合って その上で 自由に 批判しあっていくことができる。  ゆえに だからして したがって だからこそ われわれじんるいは 哲学をいとなむようになりました。自分の主観 自分ひとりの主観 まったくの狭い主観 これを おおいに 何の気兼ねもなく 互いに受けとめ合って 磨き合っていく。そこから 共同の主観としてもよいような内容 つまり 理論というものをも 見つけ出していく。・・・  このとき 輪廻転生かつ因果応報 だれが言い出したか知りませんが この初めには一人の人間の主観であったものが たしかに 共同化されて 広く持たれているかに普及しているこの説 これは じつは じつに その共同性ないし普遍性にかんして 疑義が持たれるものであった。そうではないかという問い求めです。何の問題もないはづですよ。  むしろ 最初に確認した《真理》とやらの普遍性 つまりは それが 摂理とも言うべきかたちで 法則のごとくはたらいて 世の中は成り立っているのだという視点 この視点を わざわざ いまごろ 出してくるということは 〔むしろ〕 そのことこそが 本論として述べた表現の自由と具体的な実践としての社会的な動態 これに まさしく観念の網をおおいかぶせようとするブッディスム一流の《支配統治術》なのではないか。  《和を以って貴しと為せ》という大いなる規範としての《観念》による帝国主義 これと軌を一にしているのではないか。  ブッディストは この意味では 寸分の狂いもなく 帝国主義者であると言うべきではないだろうか。  そのわなに陥らないように希望します。もし このわたしの見方が 経験現実にあてはまるものならば そのわなに  陥らないようにするべきであるばかりか その罠を 自己解体するよう おのおの わが主観を 自由に 述べて 明らかにすべきである。こう考えます。  ★▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ この《一方的に決定した立場》を 全体に及ぼそうと あたかも 意図したかのように じっさい 間違いのない全体観を打ちたてたその視点というものを 《摂理》として世に問い わざわざ またそういう観念として 押し立て 打ち出してきた。

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noname#117439
noname#117439
回答No.68

オコリザルです。 今日は涅槃なりイデア界なり観念世界を展望してみました。 その地平は地球の記憶で構成され、現在過去未来が一つとして存在し、空を見上げれば瞬く星星が語りかけてくる。宇宙ともつながっている。 その世界では自らに意思が宿っていることで、現実とのつながりがあることが自覚できます。現実とつながりがなくなれば意思がなくなるかについては研究不足ですが、おそらく自由自在なんでしょう。何度目かの体験ですが、そのような節があります。 神や天使との区別がつきませんが、一度も地上に降りたことのない意思に挨拶してもらったことも何度かあります。 その観念世界において自らが知覚できるのは経験世界を解き放たない限り現世のみです。時間的にも空間的にもそのような制約があります。 観念世界にたたずんだ経験では、そもそも心はずっとそこに留まっており意思の在りようによって自らが生きていることが区別できます。 現実の機軸(肉体)を失うことによって、意思は何らかの変容を遂げるでしょう。 このような見地に立てば意思が同じ形で再生されることはなさそうです。 したがって輪廻はない。 輪廻と表現できる現象が仮にあるならば、変容を遂げる自らに本質がないゆえとなりますが、地球意思とその記憶は強固です。そして肌で感じた経験では観念世界においても自らの所在(存在でなく)は、保障してもらってます。おかげで正気でいられました。 死後の話をしないで輪廻のなさを証言してみました。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  たぶん なるほど 《わたし》という存在の つまり ほかの誰でもないわたしという存在の その自己を思うこころに立てば たしかに そのときには 宇宙の大きさに広がるかのほどの こころのあそびをも覚えるのだが だから あたかも なんども この地球なら地球において 生物ないし人間になるというように 生まれ変わるかに思われるのだが――つまり あたかも 自由に みづからの思うままに もういちど 人間に生まれて 思う存分に生きてみようとしても いいように思うのだが―― それは ちょっと 筋が違うようであって むしろ 一回きりの人生〔であるか どうか ほんとうには 分からないのだが〕として 生きることに じゅうぶん 生きがいがあるし それこそ 人間冥利につきる。  輪廻を想像しようとするその心が芽生えたときには すでに この宇宙にひろがる心を みづから 狭めた結果であると心得るべきだ。その一瞬の隙に なにものかが つけこんで わたしを 気弱くしてしまう。これでは 手足がちぢ込んでしまう。心の手足が かじかんでしまっている。のびのびと生きられるのに それでは つまんない。アスファルトとビルと文字のあいだにうずくまっていないで 精神の緑野をもっと耕そうではないか。  そのとき 一回きりでよいのだと さとったとき むしろ そのとき この現在が 永遠の現在となって むしろ もしそうと言うなら 過去世も未来世も 包みこんでいる。もはや 生まれ変わりというようなせせこましいイデアは 消え去ってしまっている。そういうものだ。  でしょうか?

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noname#117439
noname#117439
回答No.67

オコリザルです。 私にとって教養といえば自らが組上げた考え方のみで知識に乏しいのでお知恵を拝借です。 お釈迦様は輪廻はないと語ったのですよね。 ならば輪廻の幻想を生み出す信仰にも切り込めるかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  いま ぎゃくに まったくのうろ覚えのままで お応えすれば  ★ お釈迦様は輪廻はないと語ったのですよね。  ☆ に関しましては 基本的に そういう見解であったところ それ以前からのバラモンのおしえとして 人びとは 深く 輪廻の思想に慣れ親しんでいるというその情況を見て かれは 説き方を それに合わせたのだと聞いています。  目覚めたひと(ブッダ)になれば もう何度も生まれ変わることもなく 究極の無(涅槃)になれるというふうな表現だったのではないでしょうか。  ★ ならば輪廻の幻想を生み出す信仰にも切り込めるかもしれません。  ☆ そうかも知れません。そして これは 《信仰》ではなく ひとつの文学作品であるということだとも思います。  《絶対》というものに対する非思考の こころの明けもしくは伸び としての信仰ではなく そうではなく 誕生以前ないし死後に 想像力によって思いを馳せる思考の産物ですから。前世ないし来世は 今世から考えても 未知の世界ですが そのとき・そのときの時点では 人間という存在なのですから 経験世界に属します。経験的なことがらを扱うのに 《非思考=信仰》とは 言いません。

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回答No.66

 質問者は、偏見に満ちた理論にならない理由を並べ質問している処を見ると、特に理由4はひどく目のもあてられないのだが。    どうやら、真実を知りたい訳ではないらしい。  それならば、私の答えはこうなる。  輪廻転生説は 愚の骨頂であり哲学が取り上げるには値しない主題である。    その訳は、魂が何度も人生をやり直そうとも、記憶自体がないところから始まるその人生一回一回は、同じものではなく同一の者では無いと考えれば、輪廻転生だからと言って、やり直すと言う考えは無意味であり、考え方としては、まさに、哲学が取り上げるには値しない主題と言えるだろう。

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  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.65

無限=有限を「知れる限り」とした時のそれ以外 =超経験=経験を超えている。でいいのかな? 霊って何ですか? 相対世界=身受心法や知ることが可能な範囲(無知、知恵なき故に知っていない範囲も含む)相対・分別出来る範囲。で問題ないでしょうか? ● 絶対の性質上如何なる「関係」(影響の交換)をもてないが、それに対する人の態度としての関係ならわかります。 * 「アートマン・魂」=永遠不滅の変わらない実体。 と言いながらも変化と浄、不浄、一如を語りますので無理があるように感じます。 * 「変わらない私」は悟ってない生命にある錯覚思い込みと仏教では言っていると思います。これが入ると二分出来ると言いましたが、これは思い込みの話で錯覚と知る範囲なので絶対に入らないですね。 となると… 「ある派」「ない派」「あるかもしれないし、ないかもしれない派」(あなたの言う思考停止。私の言う理性的態度。)の3つの立場があると思います。 有絶対論。無絶対論。離絶対論。 有と無は対立しますが、離には対立がないですね ともあれ、仮にとった絶対に対する立場どれをとっても、物事に対する「考え方感じ方見解行き方」には影響を与えることは不可能であると感じます。 与えるならその人は絶対ではない<違うもの>に対する立場をとっていると。 * 世間で言う神の概念と絶対はだいぶ違うものと思いますが、あなたの言う神論に対するどの立場をとっても同等と言えるかもしれません。 有、無論は決めつけている分、離論より相対世界的にいえば理性的でない科学的でないといえるかもしれませんが。 ともかく、今ここで必要になるのは相対世界において生命とは、生きるとは何かという探究とそこから見出せる矛盾なき行き方の探究を見解に固執することなく柔軟に構築・実験・検証していくことでしょう。 道徳的に矛盾を生じる論には矛盾があると、 この範囲は仏教の管轄でもあると思います。 気にくわないかもしれませんがw

bragelonne
質問者

お礼

 補足です。  ★ 霊って何ですか?  ☆ 《絶対》を言いかえたことばです。《なぞ・不思議》という内容を言おうとしたものでしょう。  また 相対的な経験世界では   ○ 人間の存在は 広い意味での肉です。つまり 精神および身体をふくめた意味での肉です。  ☆ この経験世界を超えていることを言うために 《霊》ということばも 用いられます。  ちなみに 《魂》は 一義的に意味が決まってはいません。  ○ 魂とは (1) むしろ 感覚つまり感性のことを言う。この魂は anima というように 動物( animal )の知覚作用と あたかも 同じ感覚作用のことです。  (2) ひろく 《こころ》のことを言う場合がある。《身体=精神》とでも言うような意味での《精神》のことです。  (3) 漠然と 《生命》を言うこともあるでしょう。  (4) そして 今度は これら経験的な作用を超えて 《絶対》の領域のことを むしろ 指して言う場合さえ 出てきます。つまりは 《霊》と同じ意味に使ったりします。《霊魂》という言い方もありますね。

bragelonne
質問者

補足

 magga さん 共通の認識――出発点――に立つために かなりお互いに進んだかとは 思われます。けれども 新しい地点に立って 前と同じ視点をも引きずっておられると言わざるを得ません。  ★ 「ある派」「ない派」「あるかもしれないし、ないかもしれない派」(あなたの言う思考停止。私の言う理性的態度。)の3つの立場があると思います。  ☆ 第三の立ち場は ありません。証明します。  《ある(または ない)かも知れない》というのは 《未知》の領域について言われる判断です。未知は いづれ 人間の知性によって知られ得るという経験的で相対的な世界のことです。(知られ得ないと分かった場合 知られなくとも よいという判断をくだすたぐいの問題です。ちなみにつまり 《誕生以前 あるいは 死後》のことでもあります)。  《絶対》は あるか ないか 分からないのです。分かるか分からないかが 分からないのです。いわば 永遠に そうなのです。  ともかく じんるいのほとんどすべての言語で 日本語で《かみ》という超経験のことについて 語って来ています。そういう性質の言語表現です。  ですから 一たん これは《絶対》の領域であり 仮りにこれを人間のことばで《神》と言うのなら ひとは 〔仮りに〕有神論か無神論か いづれかに分けられると認識しておけば あとは きわめて差し障りなく 互いに 対話を展開することができる。というものです。  つまり 交通整理は 《ある》派か《ない》派か 二つのうち いづれか一つになります。  ★ 離絶対論。  ☆ この《絶対》については そこから《離れる》とか《離れない》とか 決められないのです。想定したからには あるか ないかのどちらかです。  千歩譲歩して あるも ないも 決めないという人がいるとしたら どうするか。けっきょく ある派とない派との対話というこの経験世界にいるからには その区分に そのひとも 従うということになるでしょう。それだけのことです。  ★ 絶対から離れる。絶対は あるかも知れないし ないかも知れない。と見る。  ☆ ということは 想定としての前提からして 矛盾しています。  ★ (あなたの言う思考停止。私の言う理性的態度。)  ☆ 思考停止というよりは 意志による判断の停止です。上で 千歩譲歩した話ですね。  ★ 理性的態度  ☆ というのは ここで 何の意味もありません。《ある もしくは ない》をえらぶ人も その選択・判断じたいは 理性のおこなうことです。想定として そういう仮りの表現を採るという意味です。  《あるかも知れないし ないかも知れない》という表現の意味するところは たしかに 理性的態度ですが ここは(つまり 絶対に関しては) 理性も精神も感性もすべて経験的なものごとを超えた領域についての話なのですから 当てはまりません。  ★ 有、無論は決めつけている分、離論より相対世界的にいえば理性的でない科学的でないといえるかもしれませんが。  ☆ そうではないのです。前提が ちがっています。想定をするという問題なのですから。そもそも 《非思考》を 仮りに理性による思考をとおして あるか ないかに 分けておくだけの話です。分けて 表現しておけば のちのち 交通整理が 容易になる。こういう問題です。  有神論・無神論 これらは そもそも 《理性・科学・相対世界》を超えているのです。超えている領域を わざわざですが 仮りの表現として 交通整理のために 区分しておくものです。    そうすると おそらく〔ですが〕 無神論に立つと思われるブッディスムと 有神論に立つキリスト信仰とが 互いに 容易に 対話をすることができる。こういう問題です。  また この質問の《輪廻転生》については その《生まれ変わり つまり 誕生以前と死後》の問題は 《絶対》という領域の問題ではない。ゆえに 《非思考=信仰》の問題でもない。言いかえると それは 《未知》の世界について 経験理性によって 経験思考をおよぼすときの想像であり そういう意味で ひとつに 《信仰》とは別であるということ。  もうひとつに 《未知》であるからには 《死後があるかも知れないし ないかも知れない》という世界なのだから 経験科学としての哲学が 主題として 扱うものではない。こういう結論にみちびかれるのではないか。こう問うています。どうでしょう?    * 哲学が 主題として扱わないというのは 《証明も出来ないし 反証明もできないことがらである》として 扱っておくという意味です。仮りに 未知でなくなった・つまり 経験知として知り得たときには どうするか。知り得た材料にもとづいて 判断するというものです。

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     つぎのヰキぺの記事にかんする限り それは 何も言ったことにはならない。これを問います。  ▲ (ヰキぺ:因果の道理) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E3%81%AE%E9%81%93%E7%90%86  § まえがき  (あ) 因果の道理は仏教の根本的な教理である。「因果律」・「因果論」とも言われ、釈迦が発見した「大宇宙の真理」とされる。日本をはじめ東洋諸国では倫理や道徳の根拠にもなっている。  § 概説  (い) 釈迦は、原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因(因)と間接的要因(縁)の両方がそろった(因縁和合)ときに結果はもたらされるとする(因縁果)。  (う) そこで、縁起と呼ぶ法によってすべての事象が生じており、「結果」も「原因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が相依相関して成立しているとする。  (え) 釈迦が悟った上記のような内容を縁起という。その教えを学問上「縁起説」と呼ぶこともある。  (お) 仏教において因果は次のように説かれる。   善因善果…善を行うことが新たな善を促す   悪因悪果…悪を行うことが新たな悪を促す   善因楽果…善を行うことが自分にとって望ましい結果を招く   悪因苦果…悪を行うことが自分にとって望ましくない結果を招く  (か) 例えば最初は嫌々ながら行なっていた人助けでも、何度か繰り返すうちにそれが習慣となったり、それが褒められることで自ら進んで行うようになる。  (き) 逆に最初は躊躇していた犯罪が一度成功すると、また罪を犯すことに抵抗を感じなくなったり、一度嘘をつくとその嘘を隠すために更なる嘘を重ねる様になる。  (く) これが「善因善果」「悪因悪果」の具体例であり、両者は原因と結果の性質が同じであるため、《同類〈因〉・等流〈果〉〔なる因と果との関係〕》と呼ぶ。  (け) 一方、善いことを行えばそのことで満足感・達成感が得られるのに対して、悪いことを行うと良心の呵責や罪が露見することへの恐怖が起こる。 これが「善因楽果」「悪因苦果」の具体例である。   (こ) 「善因善果」「悪因悪果」とは異なり、この場合の結果は一概に善か悪かを判断できない。  (さ) 例えば、善い事を行った自分を誇って他人を軽蔑したり、一度の善行に満足して善行を止めることがあれば、それは善行が悪い結果を招いたことになる。  (し) 逆に悪を行った事による心の苦しみが、その人を反省・更生へと導くならば、それは悪行が良い結果を招いたことになる。  (す) 両者は原因と結果の性質が異なるため、《異熟因・異熟果》と呼ぶ。  (せ) 「善因善果・悪因悪果」について“善いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる”と解説される場合があるが、これは「善因善果・悪因悪果」と「善因楽果・悪因苦果」の混同を招きかねない不正確な説明である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これで記事の全部です。  (そ) この記事内容についてはすでに 出典を明らかにすべきだとか 中立的な観点が必要だとかのクレームがついているようです。  (た) ですが いまはそのような疑問点をもわたしたちが洗い出すかたちで問い求めて行きたいと考えます。  (ち) 出典の問題をのぞけば かんたんな形ながら (お)から(せ)までの説明は ふつうに中立的な内容ではないかと考えるのですが どうでしょう?  (つ) 一つ目の問いは こうです。    善悪が主観的なものであるからには 楽果も苦果もみな同じく主観的であって《のぞましいか否か》で定義するなら それらはやはり善か悪かで捉えても構わないのではないか? すなわちおおきくは 楽果⇒善果 苦果⇒悪果と見てよいのではないか?  (て) しかもいま――因縁の縁すなわち間接的な原因は措いておきますが―― 原因にしても結果にしても いづれもそのワタシにとって 善もあれば悪もあるということでないわけがない。(どちらでもない無記の場合もありましょうが それは当然のこととしてこれも特には触れません)。    * 因縁の縁をいま問わないのは それもけっきょく因と同じように 善をも悪をもふくむのがつねであると見られるからです。その議論は 以下に追ってすすめて行きます。    (と) つまりは 任意の一時点をとってそのとき ワタシの状態は過去の《善と悪とをふくむ原因》の結果として 《善悪の入り混じった》ものとしてみちびかれている。しかもその状態〔から繰り出す行為〕は 未来への《善と悪とをふくむ》原因となって 《善悪の入り混じった》結果をうむ。――このことは あたりまえであるはずです。  (な) ならば そのような・どの時点でもつねに《善と悪とをふくむ》原因かつ結果としての状態にあるワタシについて その行為の軌跡の中から 一本の線としての《同類因・等流果》(く)やあるいは《異熟因・異熟果》(す)を ただいづれか一方だけの取り出して これこそが因果関係であるぞと言ったところで 何の意味をも成さない。せいぜいが気休めである。  (に) つまりブディズムの説くと言われる《因果の道理》は けっして道理などではない。こう帰結されますまいか。どこが 《大宇宙の真理》でしょう。どこが《さとり》なのでしょう。かえってものごとの見方を 一面的な狭いものとしていはすまいか。  (ぬ) なんでこんな子どもだましのような《理論》が 永くつづいて来たのでしょう。日本人はここまでばかなのでしょうか。  (ね) ただし・もっとも 成功したひとたちは その原因を みなさんのおかげですと言って 因縁の縁のほうを重んじた見方で表現してはいます。そのあたりについても 考えるところがありましたら 回答の書き込みをどうぞ。    (の) (つまり 日本人は現実の実践では 好ましい世界観にもとづいていると思われるのに  ブディズムの理論だけは 成っていない。こういうことでしょうか)。  (は) (ブディズムよ 恥を知れというところでしょうか)。  (しかも そのブディズムに対して・またゴータマ何たらという人間に対して へーこらへーこら ありがたやありがたやと おもねっている〔ように見える〕。日本人のこの状態は どうしたものなのでしょう)。  (ひ) ゴータマは ペテン師であり 屁の河童なりと どうして言わないのでしょう。

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら善悪ないし苦楽という主観による規定が含まれます。  3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は・という意味は 善悪を主観が判断するのだから けっきょく自業自得という考え方は ゆえに 主観の範囲を出ない。  4. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  ものごとが自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから そう(自業自得として)規定することはできない。    なら 初期条件は ナゾの何ものかによるエコヒイキである。  5. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  7. ただし 主観の問題としてわが心の内なる善行の道は捨て去ることはない。と考えてよいか?  善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 因果応報説は 愚の骨頂

     ではありませんか? 次の聖句に照らし合わせると。   すなわち その5:19の《人々の罪の責任を問うことなく》に注意することができるではないでしょうか?  ▲ (コリント後書5:12-21) ~~~~~~~~~~~~~~~  5:12  わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。  5:13  わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。  5:14  なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。  5:15  その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。  5:16  それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。  5:17  だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。  5:18  これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。  5:19  つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。  5:20  ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。  5:21  罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ クリスチアニスムの事例を挙げましたが どの思想であるかは自由に ご見解をお寄せください。おしえを乞います。ただしわたしが納得するまでお尋ねしてまいります。

  • 輪廻転生

    私の友達は彼氏に頼んで殺されました。 彼女は自殺になるのですか? 死後の世界から考えても自殺になってしまうのですか? 真っ暗闇の中に入って寿命まで苦しみ続けるのですか?輪廻転生出来なくなるのですか? 天国に行けず、地獄以上の真っ暗闇の世界で寿命まで苦しみ続けるのですか? お手数ですが回答よろしくお願い致します!m(__)m

  • 輪廻転生について

    素人の質問ですみません。 輪廻転生の考えは主に仏教の教えなのでしょうか。 キリスト教や哲学の考えには存在しないのでしょうか。 ご存じの方がいらっしゃいましたら教えて下さい。

  • 輪廻転生

    輪廻転生を信じている人に伺いたいのですが、どうすれば輪廻転生の流れから抜け出して二度と生まれてこなくなりますか? 本当に輪廻転生があるのかはわかりませんが、もしあったらイヤなので、質問します。

  • 輪廻転生について

    カテゴリーがあっているかどうかわからないのですがこのことに ついて詳しく教えていただければと思います。 またわかりやすく説明している著書がありましたら 教えてください。 恥ずかしながらこれでも仏教の高校を卒業し授業も 受けていたのに、言葉だけで頭に残っていません。 いまさらながら少し勉強してみたいと思っています。 よろしくお願いします。