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輪廻転生説は 愚の骨頂

 ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

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  • umaruko
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回答No.52

No.43で回答したものです。ご返事ありがとうございます。前回は質問内容からずれてしまった回答になってしまったので、今回はまともに回答をするつもりです。 >輪廻転生説は 愚の骨頂 に関して私が思うことを書いていきます。 まず、輪廻転生説といいますが最終的に行き着く先は人間が死んだあとの世界はあるのか?それともないのかという話に帰結するものだと考えてます。 そして、現在の西洋哲学では私の知る限り人間の死後に対して明確な回答をした人物はいないと断言できます。(少なくとも根拠を示した人物はいないはずです) そういった意味で西洋哲学における輪廻転生説は誰も証明しておらず、いまだに輪廻転生説を悪用して自分の利にしている人たちを見るのはうんざりです。まさに哲学が取り上げるには値しない主題というよりも、証明も客観的な根拠を示していない主題のうえで何やってんだ!って感じですね。まさに愚の骨頂であるというのは同意です。 次に私が仏教の輪廻転生説を書いた理由として、ある程度の客観的な根拠を示されているということが挙げられます。それはNo.43で書いた 1.キリスト教では死んだ後必ず天国に行くんですよね…。この世よりもずっといい世界なんでしょう。じゃあ、なんで人が死んだときあんなに悲しそうに葬儀に参加するんでしょうか?死んだら天国なんだろ!もっと喜べよ参列者!!今の世界よりいいとこいくんだからバンザイをしろよ!! 2.人が死んだとき冥福を祈るという言葉が贈られます。冥福とは冥土の幸福を祈るってことですよね…。冥土とは死んだ後の世界のこと。(これで死後の世界を信じてますね)しかも幸福を祈る…死んだあとの世界が不幸だから幸福を祈るんですよね?これって死んだあとが不幸になるって思っている証拠になりませんか? という2つの根拠が示されたということにあります。この2つは少なくとも人間は死後の世界があると信じている、かつどうも死んだあとは不幸な世界に行くとわかっているのではないか?というものです。 この2つの謎は輪廻転生が事実であれば、簡単に謎はとけます。 (1)人間は輪廻転生しているがゆえに死後の世界があると無意識下でわかっている。(今までの経験上) (2)今の私たちは過去遠い昔に人間であったときがあって、その時死んだ後地獄に堕ちたという経験を持っている。だから、死んだ人間に対してその人間は地獄に堕ちたということだから、わざわざ冥福、死後の幸福を祈っている。 という説明で謎はOKになるでしょう。 少なくとも私にはこれらの根拠を崩せるような持論がなかったため掲載させていただきました。もし、崩せる方がいたら本当に崩してください、お願いします…。 最後に > たとえ《死後》のことが分からなくても ひとは 生きているうちに 一生懸命に 努力をするのであり 勤勉です。どうして 《死後が無く 未解決の課題が残されるからと言って 道徳が崩れ落ちる》のですか? ただ そういうふうにしか考えられなくなっているあなただけの問題ではないのですか? について。これは中国最大の思想家に対する挑戦そのものですね! http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/71479/67603/50003369 まあ、かいつまんでエピソードを書いていきます。孔子の門弟で最高の人格者であった中国の顔回という人物がいた。しかしその生涯は極貧な生活で、しかも若死にした。 それに対して盗跖(とうせき)という同時代に生きた大泥棒は悪事の限りを尽くしながら、富貴栄華を極めて死んだ。 この事実を前に「善を進んでやれば必ず幸せになれる」と説いた孔子のなすすべはなかった。。。 というお話ですね。つまりこの世で努力しなかった盗跖はこの世で幸せであった。しかしこの世で努力したはずの顔回はこの世で不幸せであったと。。。 この件に関してはどう思いますか?もし完璧な反論をしたいなら少なくとも質問者の方は孔子を超えた思想家にならなければなりませんが…。 ROMに戻るとかいってまた書き込んでしまいました…。今度こそROMに戻ります、失礼しました。

参考URL:
http://www.geocities.co.jp/Bookend/3756/seidan.ingaron.html
bragelonne
質問者

補足

 umaruko さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  では 《孔子を超えた思想家にな》りましょう。  【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】のほうで やり取りがあったのですが 《理由その四》の民主主義の歴史的な進展ということに かかっていると考えます。  社会が 二階建ての構造になったという問題です。国家ですね。その成立の以前と以後とでは 社会生活もしくは人間と人間との交通関係 これが 基本的に 変わった。あたかも地割れを起こし 断層を作ってしまった。それが 二階建ての意味です。一階は スサノヲ市民社会で 二階は アマテラス公民圏です。  例証します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  籠(こ)もよ み籠持ち             堀串(ふくし)もよ み堀串持ち         この丘に 菜 摘(つ)ます児(こ)           家聞かな 名告(の)らさね           そらみつ 大和の国は            おしなべて われこそ居れ           しきなべて われこそ座(ま)せ          われにこそは 告らめ            家をも名をも                  (オホハツセワカタケのすめらみこと〔雄略天皇〕 万葉集 巻一・1番)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このうたは 《本来 春の野遊びの若菜摘みの歌が 雄略物語にとり入れられた一首》で  ▲ 《その際 〔中ほどの三句が〕 挿入された》(中西進:万葉集  全訳注原文付 (一))  ☆ と解説されます。このとき もしそうだとしたら それは 若菜つむスサノヲ市民らの生活圏の間にというか その上部の第二階に 三句のアマテラス公民の視点が突如加えられているのだと推し測られます。であるから そのように二階へ上がったという《アマアガリ》には 民主制の観点からは 疑問が付きまとうというものです。  言いかえると まだ現在も 国家は存続していますし その二階建て構造は 変わっていませんが しかし 主権在民であることに間違いありません。スサノヲ市民主権制ということです。アマテラス公民たちを われわれの税金で食わせてやっているというわけです。  ところが しかも ヨーロッパや あるいは 中国とも違って わが日本は じつは 神話によりますと スサノヲ市民たちは アマテラス公民に 基本的に言って 国ゆづりをしたと言います。その結果 西欧や漢民族の内部およびその周辺民族との間において スサノヲ圏とアマテラス圏とが つまり 上と下とが 回転( revolution )して 権力の当事者が 入れ変わるというわけではなかったようです。  つまり 主権在民制になるまで スサノヲ市民らは ときを待っていたわけです。じっと我慢の子だったわけです。この一事をもって 《未解決問題が 死後に託されるという〈思い込み〉が なくても 道徳実践が止むことはなかった》と考えます。そうして わたしたちは 一般に いちいち 因果応報といった説にまで 持って行って 固定することもないと 考えているのではないでしょうか。  ふつうに勤勉なのです。スサノヲ市民らはです。どれだけ公費着服やら浪費をしても おまえたち しっかりせよとは言いますが ギロチンにかけるところまでは進まないのです。やがて アマテラス公民たちは 人間には ひとりの例外もなく 仏性があるということに目覚めて ひざを折って 懺悔でもするようになる。のではないでしょうか?   いやいや わたしたちも 到らない人間です。ともに ふたたび われらが日本を よき国にしていきましょうと われわれスサノヲらは 答えるでしょう。  この歴史過程に 輪廻転生など なんら 関係ないのです。それぞれ その一生を 精一杯生きて――それにしても 長寿国ぢゃないですか―― 死んでいくだけです。こんなたのしい ゆかいな国は ないでしょう。えっ? まだ そのようには出来あがっていないですって? では そのように作り直していけばいいでしょう。少しづつ 一歩一歩。  新しい天と新しい地が ここに 成るかも知れません。どうですか?  輪廻転生説は 愚の骨頂の理由説明でした。

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その他の回答 (113)

  • Zohar
  • ベストアンサー率0% (0/4)
回答No.64

輪廻転生といえば輪廻する主体は何か という話になるけど 我、無我、非我 いろいろあって、無我とデカルトの「我思う、ゆえに我あり」が 比較されますよね。 無我の場合だと認識論が話題になる。 それから、ヤハウェは「私はある」 だから存在論が話題になりました。 パラダイム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A0 プロテスタントがカトリックへ改宗したら それはパラダイムシフトなんだろうか。

bragelonne
質問者

補足

 Zohar さん なかなか 鋭く突いて来ますね。隅に置けないですね。  まづは ご回答をありがとうございます。  あっ ご自分の意志はどこへ向かうのか 見解の披瀝にも到ると なおよいでしょうね。待たれますね。  じつは すでに かなりの程度において 探究を済ませております。  ★ ブッディスム関係では 次の一件を挙げます。  【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  ☆ 一点 追究し残した点は 《ブッダは 神か》という問題です。《仏性》は 《霊》かという問題です。この問題については ブッディストからは まづ 明快な答えが得られません。相対世界を超えているとは言いますが では 絶対か つまり その意味で 神かと尋ねると 口を濁します。  ★ 無我の場合だと認識論が話題になる。  ☆ これは そういう視点で 捉えたことがないと思い わたしにとって あいまいな点です。いまのところ けっきょく 存在論で 進めて行けると考えています。  その存在論 ないし  ★ ヤハウェは「私はある」  ☆ の問題 ないし そういう切り口の問題ですね。ここで では そもそもうんぬんと 講釈を始めるわけにはいかないので 具体的な論点が 提示されたら たしかに 輪廻転生説の批判としても 互いに探究できれば いいでしょうね。  ★ プロテスタントがカトリックへ改宗したら / それはパラダイムシフトなんだろうか。  ☆ これは 《パラダイム》の問題であるよりも そもそも 個人の内面主観における信仰が 観念として受け取られ固定し教義とされ組織をつくって あたかも信仰のうすいあついの度合いを 人間が 判断し得ると決めつける側面を持つなら そのような宗教は 宗教という行為じたいが 愚の骨頂です。  この信仰の宗教化は 信仰の自殺行為です。わたしは ローマ教会をはじめとして 宗教集団の自己解体を勧めています。  言いかえると 集団として 信仰を 教義という模範とした時点で ひん曲がったパラダイムが出来上がったと考えます。言いかえると この規範こそが ふたたび 律法という文字になり下がった手かせ足かせであると考えます。愚の骨頂であるばかりか ひとを殺します。  せいぜい われわれに課された至上命令は なんじの隣り人を愛せよ=すなわち なんじの神を愛せよです。これだけです。  これとて 自分自身で考えて行動しないことには 何の意味もないという社会現実の問題なのですから 規範が手かせ足かせになるとも思えません。なるとすれば 考えが浅いか 行き詰っているかです。  つまり わたしは弱い・ちからが足りないと 分かれば まづ それでいいわけです。新たな出発をすればいいわけです。しかも すべて 《わたし》の問題です。主観内面の問題です。――そういう《存在》論になっていますね。《永遠の現在》なるわたしという理論かつ現実にも つうじていますでしょう。  そこにおいて なんで わざわざ 前世がどうの 来世に生まれ変わったら こうのと 想像をたくましくして 文学活動に〔のみ〕いそしまなければならないでしょう? 文学については 大衆文学にしても 貶めるつもりはないですが 存在論としてのわたしが ではなく 想像家としてのわたしが 突っ走っているに過ぎないという側面が 強いでしょうね。  そのほうが 自分が自分で考えるのに 場合によっては 適していると言えるかも知れませんが(――つまり シミュレーションのようなものとしてですね――) それは そうなると 一つひとつの事例を いくつもいくつも 積み重ねていかねばならないでしょうね。哲学は いっぺんで やってのける潜在能力を持ちますね。・・・  少しづつ ご自分の考えを練り上げていってください。わたしの考えに対して どんどん 突っこんでみてください。

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  • moumougoo
  • ベストアンサー率38% (35/90)
回答No.63

通り掛かりのものですが・・・ bragelonneさんのおっしゃっている「文学」とは何でしょうか? 私にはbragelonneさんの元の質問文にある「哲学が取り上げるには値しない理由」の2から4は 個々人の解釈(受け止め方)という意味で文学的な影響について述べているように思われます。 これはbragelonneさんご希望の”「文学」を排除した哲学”にふさわしい主題かどうかを判定する理由になっていないように思います。 何名かの方の回答に対して、それば文学で哲学とは無関係のようにおっしゃっているようなので、気になりました。 あと理由の1からbragelonneさんは「哲学」がなにかの存在を「証明」したり「反証」したりすることを目的とする、 というように読み取れるのですがそれでよいのでしょうか。 どちらかというと哲学は、輪廻転生のような概念を精密化して、 その本質、あるいはそのような概念を導いた人間の本質を明確化することを目的としていてるように思います。 例として適当かどうかは分かりませんが、「つちのこ」がいるかいないかではなくて、「つちのこ」とはなにか ということを議論するのが哲学なんじゃないかなぁと思っています。 もちろん「つちのこ」について(ですら)一義に結論はでないでしょう。地域文化的な意味づけもあるでしょうし、 生物学的な存在論もあるでしょう。文学や心理学的な意味づけもあるでしょう。ひょっとすると人間の存在にとって「つちのこ」は 必要欠くべからざる存在なのかも知れませんし。 とにかく、「つちのこ」という概念を「つちのことはなにか」と聞かれたときにきちんと定義できないと 議論が始まらないのではないでしょうか?) というわけで、3つの違和感を感じます。 (1)「輪廻転生」について明確な定義なし(もできていないのに)に輪廻転生説は愚の骨頂 といっている。 (2)「輪廻転生」について明確な定義できていないので、哲学(?)的議論の主題として、延々と回答とお礼が続いている。    ので、質問の「輪廻転生説は愚の骨頂」ということの反証になっているように見える。 (3)「文学」を排除して、輪廻転生のようなものがなぜ定義できると考えていらっしゃるのか不思議思います。 以上です。 というわけで、通り抜けます。ではでは

bragelonne
質問者

補足

 moumougoo さん ご回答をありがとうございます。  ★ 通り掛かりのものですが・・・// ・・・というわけで、通り抜けます。ではでは  ☆ と言われて どこまで お礼と問い求めを深めるための記述をすれば よいか 迷いますが やはり ひととおり お応えしておくべきなのでしょう。  ★ 「輪廻転生」について明確な定義できていない  ☆ そうでしょうか? けっこう 出ていますよ。  ★ bragelonneさんのおっしゃっている「文学」とは何でしょうか?  ☆ こういう場合には ここでこう言っているが それは これこれのゆえに 間違っているのではないか とか あるいは どうも 斟酌すれば これそれの意味であるようだが それは かれそれのように規定したほうがよいのではないか とか こういうふうに 議論をすすめることが 望ましいでしょうね。  これだけ わたしのほうも述べて来ているのですから 何も汲み取るものがないと言われては 話をすすめようにも ひとこと このようにお返ししないなら それこそ   ★ 延々と回答とお礼が続いている。  ☆ ということになるでしょう。  ★ bragelonneさんご希望の”「文学」を排除した哲学”  ☆ これは 誤解です。文学を含むかどうかは 自由です。文学のように 一回性のことがらを 想像力を最大限に駆使して あらゆる表現のあり方とその組み合わせをとおして 人間の真実を描きだすというのではなく そうではなく 哲学の扱うことは あくまで 経験合理性にもとづいた一般性またむろん普遍性をもった事柄です。けれども 文学を そのとき 排除しようとしているわけではありません。  ○ 文学だけの記述では この問いに関する限り 議論にならない。  ☆ と言っているだけです。  そもそも このように ひとつの事項を捉えただけでも ご理解が 行き届いていないと 初対面の方に対して はなはだぶしつけな言い分ながら 考えます。  ★ つちのこ  ☆ が どうしたのですか? 同好会の話題は 扱っていませんよ。分かりませんか? 文学や趣味嗜好のことは ご自由にどうぞと言っていることくらいは 読んでおられるでしょうに。  あるいは こうです。哲学として 輪廻転生説は その主題として扱うには値しないと理論づけておけば あとは ご自由にどうぞと言っていることができる。こうも 述べて来ました。    ★ ひょっとすると人間の存在にとって「つちのこ」は / 必要欠くべからざる存在なのかも知れませんし。  ☆ となれば たしかに 人間観がちがうということでしょうね。そういうご回答であると ありがたく 頂戴し お送り出しをすべきだったかも知れませんね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あと理由の1からbragelonneさんは「哲学」がなにかの存在を「証明」したり「反証」したりすることを目的とする、  というように読み取れるのですがそれでよいのでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なんで こんな読みになりましょうか。証明も反証明もし得ないのなら 理論にならないという意味ですよ。つちのこと同じように 娯楽だと言っているのですよ。  娯楽をやめよというようなことを 言いましたか? あぁ そう言えば 《全否定》ではないかと喰ってかかってきた回答がありましたね。どこをどう読めば そんな解釈が出てきましょう。  すでに述べたように この問いの衝撃力が強いゆえに あるいは そういう反応となって現われるかも知れぬというところでしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  どちらかというと哲学は、輪廻転生のような概念を精密化して、 その本質、あるいはそのような概念を導いた人間の本質を明確化することを目的としていてるように思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そんな講釈を聞こうとは思わなかったですね。それは それで あるでしょう。ところが ここでは 問題は はっきりしており 問い求めの進め方も 明らかにして来ているところを どうして そちらの方面へ 持って行きたいということになるのでしょう?  さようなら。

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noname#117439
noname#117439
回答No.62

オコリザルです。 輪廻について結局証明できない事とか何とか言ってお手上げ状態にしておいては、信仰に逃げたりもやもやしたりで結局哲学と縁が切れないでしょう。そういうわけで今回はしっかりと考えにしてみる取り組みをしたわけです。 その自らの考えを振り返ると、出だしから輪廻は娯楽という考え方になっています。 さらに掘り下げると信仰に厚い方に対して医者にかかることを推奨してしまいました。 親身になって取り組んだつもりだったんですがね~。 確かに哲学でない考え方になってしまうようです。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  ★ 出だしから輪廻は娯楽という考え方になっています。  ☆ これに同感しています。色をつけて 文学ですね。  あとは 信仰か それとも その観念共同化としての宗教か あるいは 経験科学としての哲学か これらの区分けを きちんと していくと よいのではないでしょうか。  この区分けは いま あらたに――今頃ですが つまり これまでにも 幾度となく 触れて来ましたが―― magga 氏とのあいだで 始まりました。なかなか 理解を得るまでには到らない情況ですが 乗りかかった船ですから 行くところまで 行きましょう。見ていてください。

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回答No.61

maimai.susです。 あー、なるほどね、ようは、 >☆ これで回答になり 通じると思うのだったら もう応答しません。無理だとあきらめます。 って事は、相手を理解する気がないって事ですよね。 もし理解する気があるのだったら。No.33のお礼欄でも、 >やはり 論理の無視 対話の無視でしたね。 なんて、言わずに、何がどう私が分かっていないか指摘し話を進めれば良い訳ですから。 まあ、そう言う意味では、ある意味、No.59の回答で正解だたようですね。 もしそうでないよ、質問はそのままだよってことなら、前回までの回答を踏まえて。 私にとっては、世の中は複雑で、輪廻転生・因果応報は愚の骨頂であるかどうかは一概には言えないと思うが私なりの答えです。 それは、それまで、それ(輪廻転生・因果応報)を基準に教えとして、存在してきた心や文化を考えれば、愚の骨頂とは思えないような部分は多々あるからです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございました。

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  • magga
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回答No.60

まず 『細かく言うと「無い派」に「悟っている人・<知る限りに>ないと知っている人」悟っていないが「あるという見解」。ある派に悟っていないが「無いという見解」という三分ができるかも知れませんw』 と訂正いたします。 (A) 《絶対》とは何ぞや? (A‐1) 《永遠不滅・変化しない実体》は 人間が 《ある》とか《ない》とか言えるか? そのように認識できるものなのか? ●  『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』は認識できないでしょう。認識出来たらそれは『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』出ないということになるでしょう。『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』から影響を受けることも『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』に影響を与えることも成り立たないと考えますから。 影響があるといえば『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』は不完全で変化生滅するものとなり『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』でなくなるでしょうから。 そのような理由から個人的には「無い」と考えてます。もしあったとしても影響も受けないし与えないものは「無い」と同じことともいますしね。  (A‐2) 仮りに有神論なり無神論なりと ある・ないで言ってみるに過ぎないのではないか? ● そうですねあくまでも『仮に』なのですよね。  (A‐3) 《神》を見た者はいるのか? ● 見るなら『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』は『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』でなくなるでしょう。 影響を交換してますから。変化してますね。  (A‐4) 《無限》を半分に分けたら その二つの部分は 無限ではなくなるのか? そもそも 分けるということができるのか? ● 「無限」の意味『哲学的な知れる限り意外』・『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』。 単純に日本語の意味は『「行・サンカーラ(条件が整って起こっている)」→その条件がある限り起こってしまい、行き着く最後の所・終わりが無い。』といういみでも問題ないと思います。 そのどちらの意味でも「半分」の意味が解りません。 意味を提示してくださいませんか?  (A‐5) その無限を われわれは 認識できるのか? 実在していると言い得るのか? ● 『哲学的な知れる限り意外』・『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』は認識できないものでしょう。出来るとはいえないでしょう。 後者の『「行・サンカーラ(条件が整って起こっている)」→その条件がある限り起こってしまい、行き着く最後の所・終わりが無い。』は『知れる限り』の中にあると思いますよ。  (A‐6) それが 神のことだが 果たして きみは この神を見たのか? ● 『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』は認識不能なのでしょう。  (B) ★ 「死後は無い論」は言い切るのが危険な道徳的に不完全なものと思っています。  (B‐1) 《死後》は あるとか ないとか 人間が言い得るか? ● 皆、論として見解として「ある」「ない」といっているでしょう。  (B‐2) 言い得ないとき だったら この《死後》は 《絶対》のことか? なぜ そうか? ● 「死後=また生命」でまた死に生まれるというのが輪廻と言われるものでしょう。死後がないと言う論を正しいとすると「死=涅槃」といっているのと同じになってしまいますが… 『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』とはどう関係するのか解りません。関係ないと感じます、、というか関係はもてませんよね、変化してしまいますから。  (B‐3) 誕生以前ないし死後は 経験的な存在としての人間に属するものごとではないのか?  ● 前世・来世が人間かどうかは知りませんが、生命に属すると思いますよ。「知れる限り」の中にあることと。  (B‐4) 自分がいない もしくは いるかいないかが分からない状態であっても 世界は それとして 存続しているのではないか? ● 自分がいないとはどのような意味でしょう? いるかいないかが分からない状態とはどのような状態でしょう? なんにせよ物質と心の流れは法則に則って変化生滅し続けていくでしょう。  (B‐5) そのとき 自分は それでも いるなら いる いないなら いない と主観において 思っても よいはづだ。 決めつけても かまわない。つまり 主観の問題だ。ただ それだけのことだ。ではないか? ● 問題なく何を考えるかは個人の自由です。 そこに反論はありません。  (B‐6) これが なぜ 絶対のことになるのか?  ● どれが『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』になるのでしょうか?  (B‐7) 絶対との関係としてなら わたしは 非思考である。絶対のことを考えることはできない。しかるに 誕生以前ないし死後のことは 自分が自由に勝手に主観において 思ったり考えたりしておくことである のではないか? ● 思考の自由はもちろんです。 しかし「来世が無いという論」は「前記したように、精進を滅し怠けを正当化し、道徳を滅し非道徳を正当化するような恐ろしい穴がある」といいます。 ところでなぜ前世来世は『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』なのですか?  (B‐8) それと いまここの わたしの行為一般の行方と どうかかわるのか? また それが 道徳と どうかかわるのか?  ● 貴方に関わるか知りませんが、見解によって人は生きていると思います。その見解の危険な穴に嵌る人は見事に道徳を崩し、同じ穴を信仰している人にとってはその人を説得するのは困難でしょう。  (B‐9) 主観の自由な想像にゆだねられたことと 現実の行為およびその行方とが どうかかわるのか? ● 私は見解によって人は動いていると思います。  (B‐10) しかも それが 死後にまでおよぶと よくも 哲学が言えるものだ ではないか?  ● 「見解として死後を言うならば」道徳を崩す論理には反論をなすのが慈悲深い人の幸福を考える論者のなすことと思います。  (B‐11) その上なおも どう頭をひねくれば それが 道徳とかかわるのか? ● 見解によって人は動いている生きていると思います。 悲しいことに。実際に危険な不完全な見解を持って殺生を正当化し、いい事と考え、実践する方々がいるでしょう。  (B‐12) 道徳もしくは ひととの関係は とうぜん このいま・ここのわたしが 自分の考えで 自分の意志において おこなう行為の問題だ ではないか? ●「自分の考え=自分の見解」でしょう。そこから意志によって行なうのでしょう?  (B‐13) その行為は そのつどの一回切りのいわば真剣勝負ではないのか? なんで 死後にまで 持っていかねばならないのか? 金魚のふんではあるまいに。 ● 現象は一度きりでしょう。しかしその瞬間瞬間の意志・感情(業)によって、人の感覚に対する感じ方という「業」の果は、影響され変化していると思います。 強く・多く抱いた意志・感情によって心の感覚に対する受け取り方「苦・楽・不苦不楽」が変化することは心理学でもわかっていることではないでしょうか? 心は前の現象の影響を受けて感覚に対する感じ方と意志の選択の幅を決めてしまうと考えます。 体が壊れたからといってそのサンカーラは止まることは無いだろうというのが輪廻論だと思います。  (B‐14) まちがったなら 正せばよい。あやまつなら われありだ。なおせば よい。繰り返しても よい。少しは よくなるものだ。死後にまで持っていくと言うから ややこしくなるのではないか?  ・・・ ● そもそもお釈迦様は間違ったら正すことを推奨されているでしょう。 意志の選択の幅から、最善を選び幸福になるように。 「死後がある」と言っている人には、その論の間違いと、生き方を 「死後が無い」と言っている人にも、その論の間違いと、生き方を 「死後?解らん」といっている人には、死後「ある」「ない」論を紹介し、どちらかが事実ならという話から、今善く生きれば現世で幸福になって、もし死後があったならいいところにいくでしょうと生き方を説かれています。 どれも重要なのは「どう生きるか」でそれぞれの問題点を指摘なされています。 なにもややこしいことは無いと思います。  (C) これらすべて ともかく 何はともあれ たとえ おてんとさまが西から上がろうと ひとは いかに 悪人であれ 一人残らず 仏性を宿している。のではないか? ● 2500年前のゴータマ師が語った言葉と考えてないのですよね。  (C‐1) なんで ゴータマくんは はじめから このことを言わなかったのか? ● 私は「悟る可能性」という意味で捉えてます。 そのような意味での言葉などいくらでも言ってますよ。 「親殺しなどのよほどの悪業を積んでいないこと。素直で正直であること。を満たすなら今生でも悟れる」と。  (C‐2) 自分だけは 仏性〔とは言わなかったようだが〕を磨き上げた目覚めた人 ブッダだと言って すましていたのか? ● 「悟ったなら私と同じだ」といってますよね?」その方法まで語ってますし「~が悟った」ともところどころで言っていますね?  (C‐3) 八つの正しい道だって? そんなことは 生まれつき われわれは 知っていることだ。ただ へそ曲がりゆえに ちょっとやそっとでは 実践できないってだけだ。あんたにおしえてもらわなくても だいじょうぶだよ。そのおしえてやるという態度が 気に食わねえ。ではないのか? ● 人類の何千いや何万年の間、どれだけの方がこの八正道を語られているのでしょう?私はゴータマ師以前に説いた人を知りません。 ゴータマ師は「今善く生きること」こそを語っているという意味をこめ、生命の法則から希求・十善十悪・八正道などを書きました。  (C‐4) 仏典だって? データだって? 人間に生まれたからには 仏性のことくらいは 誰だって 知っているって言ってるぢゃないか。その自然本性ゆえに ゴータマくんは 自分のおしえを説いたのだろ? ではないのか? ● 何かを「間違っている」「おかしい」という時は、その何かの「間違っている所」「おかしい所」を提示しなければ「ただ悪口を言いたくて根拠無く感情にもとづいて言っている」となってしまうと思いますので、提示を求めたのです。  (C‐5) お経がえらいのぢゃない。人間が とうとい存在であるゆえに お経に書くことも 得られたのだ。ちがうかい? ● 「えらい」という問題ではなく、何が間違っていておかしいのかの提示を求めただけですよw ゴータマ師の教えにこれだけ言うのですから、「無根拠の感情による悪口」でないなら、根拠が無いわけは無いだろうと思ったので。  <<★ 貴方は理性的な反証者でしょうか?☆ 自分は どうなんだい? >> そうあろうとは思ってます。不完全でしょうが、「思う」「考える」と一応範囲は気にしているつもりですw  <<★ こちらの意味は仏教では管轄外だと思います。☆ 管轄外だと? たわけたことを言ってんぢゃないよ。>> 『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』は「ない」もしくはあっても「ない」といっても同じことと思っていると私は考えますので、相手にしないという立場だとは思います。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

bragelonne
質問者

補足

 magga さん いいですか。一つづつ すすめてまいりましょう。  1. 絶対 : 無限・永遠・非経験・超経験・超自然;不可変性・不可視性;言い表わし得ぬもの・表象し得ぬもの;霊   ・ 次の相対世界を超えたところに 想定しておくものです。  2. 相対世界:何ごとも 程度問題であるという時空間のことです。   ・定量的および定性的というように そのものごとを特定することができます。   ・目に見える・もしくは簡単に言って 望遠鏡ないし顕微鏡のごとく科学の目に見える および 心の目に見えるところのこの経験世界のことです。   ・思考・想像・感覚の対象となるものごと。   ・(今回は 触れませんが 誕生以前および死後は 想像や思考の対象になります。したがって 《絶対》ではありません。強いて言えば 《未知》です。だから 死後や来世を《信じる》という言い方は まちがいです)。  3. 無限は はじめの想定にもとづけば 分割し得ません。仮りにできたとして その部分部分は けっきょく それぞれが やはり 無限です。そういう想定です。∞(無限大) ÷ 2 = ∞; ∞ ÷ 3 = ∞;・・・  4. この《絶対》と《わたし》との関係を――それは 経験的に思考し得ないゆえに―― 非思考という意味で 《信じる》ということばを 日本語では 当てています。  5. このとき 分かりやすいように――あくまで 分かりやすいようにです―― 《絶対》を 擬人化して 《絶対者》という言い方をも取るようになります。そうして この絶対者を 《神》という呼び名で表わします。  6. おそらく この神は ヤハウェー・アッラーフ・ブラフマンとも呼ぶものでしょう。もしくは 無神論の《無神》です。  7.ですから 前三者(もっと多いかも)が有神論ですが それは 《〈絶対〉と〈わたし〉の関係としての〈信仰〉》にとって 無神論と同等・対等のものです。言いかえると 《神を信じる》と言っても 《神を信じない もしくは 無神を信じる》と言っても 互いにまったく同じことです。  8. このとき わづかに 人間の言葉で――それは 仮りにです――表わすために 神は 《ある》か 《ない》か どちらかに 分かれます。  9. 絶対を想定する限り――たとえば ∞(無限大)÷ n といったように数論で扱います そのように想定するわけですから―― ひとは みな 《ある》派か《ない》派かのいづれかに なります。  10. つまり ここで ひとつ言えることは このような意味で 《信仰》は みなが いづれかの派において 持っているということです。  11. ですから 有神論派も無神論派も まったく同等で対等で平等なわけですから 互いにその相違性を 受け容れて かつ 自由に 批判し合って すすむのが 大事である。  ここまでは どうですか?  ★ 『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』  ☆ 前二者は おおむね 《絶対》のことですが あとの三者は はっきりしません。  《アートマン》は ブラフマンと同一だという意味で 絶対として 取り上げられるのでしょう。たぶん 基本は ちがうでしょう。  《魂》は 無理だとしたほうがいいでしょう。《霊》の意味で 使うことがありますが 基本は 《こころ もしくは 精神》のことでしょう。  《変わらない「私」》は 先の《ブラフマンと合一したアートマン(梵我一如)》のことですかね? あまり取り上げなくてもよいのでは? はっきりしないでしょう。  ですから このような《絶対》が  ★ 「ない」もしくはあっても「ない」といっても同じことと思っていると私は考えますので、相手にしないという立場だとは思います。  ☆ というのは おかしいですね。  信仰のことは 一たん 有神論派か無神論派かを 自分の信教・良心の自由において 選んだあとは もう 触れたりしなくてもよいでしょうが そのことは 《相手にしない》ということとは 別です。相手の信教の自由を認めて 有神論および無神論 いづれも 同等と やはり認めて その上で 互いに 自由に 議論していくこと これが 人間にとって 妥当な道です。  さて この一件は どうですか?

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回答No.59

maimai.susです。 >わたしの補足要求としての問いに答えてからにしなさい。 ってNo.32のお礼欄の内容そのままですよね。 No.33で私なりの回答してますよね。 それで通じないと思ったなら、bragelonneさん流に言うと、違う書き方するのが筋なんじゃあないですか? まあ、そう言うとちゃんと読みなおして理解してから答えろと言われそうなので、No.59の回答になったのですがね。 私の思い違いでしたらごめんなさい。 違うと言う事であるのでしたら、補足要求の意味が分からないのでおしえてください。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    >わたしの補足要求としての問いに答えてからにしなさい。  ってNo.32のお礼欄の内容そのままですよね。  No.33で私なりの回答してますよね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これで回答になり 通じると思うのだったら もう応答しません。無理だとあきらめます。いちいち けっきょく 撤回するようなことばかり 何度も 投稿してきただけでしたが ありがとうございました。

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  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.58

「想定」という言葉に引っかかってたようですw それでは僕なりの回答を試みたいと思います。 ● 『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』を「絶対」や「神」と貴方が呼んでいるのでしょうか? そうであるなら大まかに「ある派」「無い派」に二分出来ますね。 細かく言うと「悟っている人・ないと知っている人」悟っていないが「あるという見解」「無いという見解」という三分できるかも知れませんw それならば私は「無い派」で「無いという見解」をもっています。 ● 「無限」には特別に哲学用語として「知る限り意外」についての意味もあるのですね。ウィキペで調べ知りました。その意味を提示してくれるとありがたかったですw こちらの意味は仏教では管轄外だと思います。知りえる限り(苦の原因)を知り善(苦の減少・幸福)に至り、悟る(原因を滅する)道だと思いますので。 私の言った意味は「辞書の意味」を用いて、「行・サンカーラ(条件が整って起こっている)」→その条件がある限り起こってしまい、行き着く最後の所・終わりが無い。という意味で語りました。 ● 「死後は無い論」は言い切るのが危険な道徳的に不完全なものと思っています。この論を絶対正しいと言い切るなら次ぎのようなことに正当化を許すことになると思います。 「死後が無いなら、死ねば自分の行為(業)の結果が出ない」 「悪行・十悪をいくらなしても死ねば結果がでない」 「善行・十善をいくらなしても死ねば結果が出ない」 「死ねば悩み苦しみが無くなる」 これらが「生命は悩み苦しみが嫌で、避けたい、なくしたいと思っている」という事実と合わさって 「殺すこと・死ぬこと」に正当化を許してしまいます。 「すき放題やること」に正当化に許してしまいます。 このように精進を滅し怠けを正当化し、道徳を滅し非道徳を正当化するような恐ろしい穴がある論だと私は思います。 危険な論だと思いませんか? 「この論を持っているから危険」では無いですよ この論に危険な穴があると思いませんか? 道徳的に精進し幸福になるという論としてはかなり不完全だと。 道徳の論理は崩れ落ちませんか? ● 六道(パーリ語では五道)とは単なる生命の次元の説明で、総じて生命について語っているものと思います。 では「生命」とは何でしょう? 生命とは生きています「生きている」とは何でしょう? 「生きている」とは「感覚がある」「動いている」とシンプルにいえると思います。 なぜ動いているか。「止まると苦しい」でしょう。 苦しい状態(立ったまま)から動く(座る)と「楽」を感じるでしょう。しかしまたそのまま止まる(座る)ままでいると苦しみを感じますね。結局は「苦の減った分」に「楽」といったいるに過ぎないし、「感覚は苦」であるといえるでしょう。 結局どこの次元にいても「苦」があると説いているように感じますよ。 そしてこの事実から次ぎのような生命の基本的な希求がみえてくると思います。 「幸福でありたい」 「悩み苦しみはいやで、避けたい」 「願い事がかなって欲しい」 「今なすべきことがすぐにひらめいてほしい」 ここで理性のある人のなすべきこととして、この希求を 「自分に」「親しい人々に」「一切の生命に」認めること 自己の「慈悲喜捨の心を育む」ことが出てくると思います 次いで、自他に迷惑をかけないために、十悪をなさず、十善をなすこと。 それを完成させるために八正道を実践し、多修することがあると思います。 そのようにお釈迦様は、自他のためになる・善に至る・最善の方法を詳細に矛盾なく具体的に教えてくださってます。 それだけでなく「渇愛」「パパンチャ」「業のシステム」に生命が嵌められていて六道(五道)で輪廻し苦しんでいるんだ。と言い、そこから抜け出す方法・悟り・涅槃に至る方法チャレンジする方法をも語られています。 「今」ここで自分の精進によって善・幸福に向かって一歩一歩正しく歩む方法と、生命を乗り越える(苦を完全に滅する)道へのチャレンジも説かれています。 仏教徒・サンガの一員の方々は、『永遠不滅・変化しない実体・アートマン・魂・変わらない「私」』ではなく、『苦の滅』(苦の原因を・条件を無くす)ことを考るでしょう。 ● なぜ「お釈迦様が大部分の人をみくびった」と「何様だ?」と言えるのでしょう?(私の言っているお釈迦様はパーリ語の仏典に語られた方のことですが) 再び↓ 何を根拠に、どのようなデータを基に語っているのですか? 少なくともパーリ語の仏典にそのようにお釈迦様を言えるようなデータはないように感じますが…どのデータを基に貴方の見解が出たのでしょう? 何を根拠にどの経典をどのように貴方が読み取ったからこのような見解になったと教えてくださると幸いです。 祖師宗教からなる日本大乗仏教どの祖師の語るどの経典を誰が読み解いたものに貴方がそのような見解に至ると感じるデータがあったのか、漢文の仏典・サンスクリット語の仏典・パーリ語の仏典のなかからどのような経典のどのような言葉によって貴方がどのように読み取ってそのような見解に至ったのか、そこを教えていただけると幸いですし、ここまで非難することを言うならそれをなすのが理性的な人として当然のことともいえましょう。 「なんとなくだ」というのも一つの答えでしょう。 理性的な方のなすことではないとは思いますが。。。 正直な分はいくらかましでしょう。 貴方は理性的な反証者でしょうか? 回答よろしく。 理性的な反証は多くの学ぶところを生み出すと思います。 正直な理性的反証者であると信じて。。。 生きとし生けるものが幸せであれノシ

bragelonne
質問者

補足

 みなさん 世にも不思議な論理を駆使した文章が ここにあります。  ぜひ みなさんの知恵をお借りして この文章の欠点を説明し よりよい妥当な考えへと みちびいて差し上げてください。どうか みなさん われこそはと思わん方がた ぜひ このわたしの補足要求に答えてみてください。  論点を整理しておきます。またほかにあると思われた方は その点にも 触れてみてください。  (A) 《絶対》とは何ぞや?  (A‐1) 《永遠不滅・変化しない実体》は 人間が 《ある》とか《ない》とか言えるか? そのように認識できるものなのか?   (A‐2) 仮りに有神論なり無神論なりと ある・ないで言ってみるに過ぎないのではないか?  (A‐3) 《神》を見た者はいるのか?  (A‐4) 《無限》を半分に分けたら その二つの部分は 無限ではなくなるのか? そもそも 分けるということができるのか?  (A‐5) その無限を われわれは 認識できるのか? 実在していると言い得るのか?  (A‐6) それが 神のことだが 果たして きみは この神を見たのか?  (B) ★ 「死後は無い論」は言い切るのが危険な道徳的に不完全なものと思っています。  (B‐1) 《死後》は あるとか ないとか 人間が言い得るか?  (B‐2) 言い得ないとき だったら この《死後》は 《絶対》のことか? なぜ そうか?  (B‐3) 誕生以前ないし死後は 経験的な存在としての人間に属するものごとではないのか?   (B‐4) 自分がいない もしくは いるかいないかが分からない状態であっても 世界は それとして 存続しているのではないか?  (B‐5) そのとき 自分は それでも いるなら いる いないなら いない と主観において 思っても よいはづだ。 決めつけても かまわない。つまり 主観の問題だ。ただ それだけのことだ。ではないか?  (B‐6) これが なぜ 絶対のことになるのか?   (B‐7) 絶対との関係としてなら わたしは 非思考である。絶対のことを考えることはできない。しかるに 誕生以前ないし死後のことは 自分が自由に勝手に主観において 思ったり考えたりしておくことである のではないか?  (B‐8) それと いまここの わたしの行為一般の行方と どうかかわるのか? また それが 道徳と どうかかわるのか?   (B‐9) 主観の自由な想像にゆだねられたことと 現実の行為およびその行方とが どうかかわるのか?  (B‐10) しかも それが 死後にまでおよぶと よくも 哲学が言えるものだ ではないか?   (B‐11) その上なおも どう頭をひねくれば それが 道徳とかかわるのか?  (B‐12) 道徳もしくは ひととの関係は とうぜん このいま・ここのわたしが 自分の考えで 自分の意志において おこなう行為の問題だ ではないか?  (B‐13) その行為は そのつどの一回切りのいわば真剣勝負ではないのか? なんで 死後にまで 持っていかねばならないのか? 金魚のふんではあるまいに。  (B‐14) まちがったなら 正せばよい。あやまつなら われありだ。なおせば よい。繰り返しても よい。少しは よくなるものだ。死後にまで持っていくと言うから ややこしくなるのではないか?  ・・・    (C) これらすべて ともかく 何はともあれ たとえ おてんとさまが西から上がろうと ひとは いかに 悪人であれ 一人残らず 仏性を宿している。のではないか?  (C‐1) なんで ゴータマくんは はじめから このことを言わなかったのか?  (C‐2) 自分だけは 仏性〔とは言わなかったようだが〕を磨き上げた目覚めた人 ブッダだと言って すましていたのか?  (C‐3) 八つの正しい道だって? そんなことは 生まれつき われわれは 知っていることだ。ただ へそ曲がりゆえに ちょっとやそっとでは 実践できないってだけだ。あんたにおしえてもらわなくても だいじょうぶだよ。そのおしえてやるという態度が 気に食わねえ。ではないのか?  (C‐4) 仏典だって? データだって? 人間に生まれたからには 仏性のことくらいは 誰だって 知っているって言ってるぢゃないか。その自然本性ゆえに ゴータマくんは 自分のおしえを説いたのだろ? ではないのか?  (C‐5) お経がえらいのぢゃない。人間が とうとい存在であるゆえに お経に書くことも 得られたのだ。ちがうかい?  ★ 貴方は理性的な反証者でしょうか?  ☆ 自分は どうなんだい?   ★ こちらの意味は仏教では管轄外だと思います。  ☆ 管轄外だと? たわけたことを言ってんぢゃないよ。

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回答No.57

maimai.susです。 bragelonneさん、質問の仕方が悪いんでないの。 >ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか? >真実をおしえてください。 にするから、今の状態になっていると思いますよ。 なので最初から、 >>だと私は思うのですが、それは次の理由により、哲学が取り上げるには、値しない主題ではないと思います。 >>この他にも、いろんな理由や考え方があると思うので、愚の骨頂と思える理由お待ちしています。 みたいな感じにすれば、bragelonneさんの趣旨に合うのではないでしょうかネ。 もし本当に、どちらか知りたくての質問であり、輪廻転生を信じている人達の考え方や、背景が理解できているならば、この人達はこう言う理屈、理論、思考を持っているが、私はこう言う理由でそうは思わないと比較せて、質問するべきですよね。

bragelonne
質問者

お礼

 わたしの補足要求としての問いに答えてからにしなさい。

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  • ufoooo
  • ベストアンサー率0% (0/7)
回答No.56

自分は輪廻を信じていますが、そもそも転生輪廻だけとらえれば、これだけアホな教えもありません。かなり誤解をあたえます。だから鎌倉仏教やキリスト教でも、おおよそ宗教の教義では取り入れないほうがいいかもしれません。つまりなぜ仏教が取り入れたかというと、仏教は無我や業を説いて、輪廻を脱する方法を教えたからだと思います。そうすると、キリスト教やイスラム教、などとも共通してくると思います。つまり仏教とは天国や地獄についてかなり詳しく語った宗教だということです。

bragelonne
質問者

お礼

 ufoooo さん こんにちは。ご回答をあありがとうございます。  おおよそ おっしゃるようなことだと思いますよ。  ★ つまりなぜ仏教が取り入れたかというと、仏教は無我や業を説いて、輪廻を脱する方法を教えたからだと思います。  ☆ ここに 力点があるでしょう。あなたは  ★ 自分は輪廻を信じていますが、  ☆ とおっしゃっていますが 輪廻を脱したなら もう 生まれ変わりは どうでもよいのではないですか? あっても なくても かまわないのではないでしょうか。そのこころは 仮りに 生まれ変わったなら そのとき 考えればよい。こういう意味です。どうでしょう?  信仰もしくはいくつかの宗教の教義 この点については 触れませんでしたが。

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noname#117439
noname#117439
回答No.55

またまたオコリザルです。 嫌われ者になるのは損なので輪廻を信じる方へのリップサービスです。 A56で繰り返し表現した「たぶんそうではないでしょう」コレをすべてが無といいながらも「ある」としているのが末法の世のお釈迦様です。 私自身もいろいろ考えてみて何らかの形で「ある」んじゃないかとも考えます。まだこの考え方が煩悩の排泄なのかどうかはわかりません。 ココで説明できるのは、お釈迦様の説明した「無」が生き生きと体感できる無でありソレは現代語では通常「愛」とあらわされる心情であるということです。

bragelonne
質問者

お礼

 同じく続けてになります。  ★ お釈迦様の説明した「無」  ☆ これが 説明がないので 弱いと思いました。さらに  ★ 愛  ☆ にまで持っていくには 弱いのではないでしょうか。わたしには 理解し得ません。  たぶん こういうことは考えられるでしょう。  すなわち いまの人生をあたかもすべてご破算にして ただし 自分ということをあらためて 捉えてみる。考えなおしてみる。  そのときに 仮りに 前世だとか来世だとかに 自分という存在をおいてみる。そこで 自分の思い・考え・こころざし・あるいは卑近なものとして いわゆるゆめ これらは どうか。  つまり これも 一種の 自分という存在を特定した文学物語になります。しかも 自分で紡ぎます。そういう手段として 効果はあるかも知れません。  ですから この効果的な手段になるからと言って その前世があるとか ないとか それは 一向に 問題にならない。こう 基本的な考えについても 明らかにできるし しておけばよいでしょう。どないですか?

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     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら因果応報説のほうには 原因や結果となるモノゴトに 善悪ないし苦楽という主観による規定がつけ加えられます。  3. すなわち 善因善果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は主観の範囲を出ない。  4. すなわち 善悪はこれを主観が判断するのだから けっきょく因果応報の説は 自業自得という考え方である。ゆえに 主観の範囲を出ない。  5. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  6. ものごとがぜんぶ〔歴史の初めから〕一貫して自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから けっきょく自業自得としてすら 規定することにも意味がない。  7. 自業自得は へりくだってこれこれの結果はわたしの自業自得でした 責任はひとえにわたしにありますと語ることはあっても 他者との話し合いの主題には 最終的な意義を持つものとしては 成り得ない。    8. つまり ひとつの解決法としては 初期条件において ナゾの何ものかによるエコヒイキがあったという見方が出される。  9. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. 前項は 母親レベッカの胎内にいるときからのことだと言う。言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら原因や結果となるモノゴトに 善悪ないし苦楽という主観による規定がつけ加えられます。  3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は主観の範囲を出ない。  4. すなわち 善悪はこれを主観が判断するのだから けっきょく因果応報の説は 自業自得という考え方である。ゆえに 主観の範囲を出ない。  5. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  6. ものごとがぜんぶ〔歴史の初めから〕一貫して自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから けっきょく自業自得としてすら 規定することにも意味がない。  7. 自業自得は へりくだってこれこれの結果はわたしの自業自得でしたと語ることはあっても 他者との話し合いの主題には 最終的な意義を持つものとしては 成り得ない。    8. つまり ひとつの解決法としては 初期条件において ナゾの何ものかによるエコヒイキがあったという見方が出される。  9. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. 前項は 母親の胎内にいるときからのことだと言う。言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 輪廻と業の説は 無用ではないか

    輪廻と業の説は 無用ではないか  あらためて問います。  (1) 生まれ変わるという意味での輪廻転生は 同じ DNA を持つひとが自分のほかにいないとすれば あり得ない誤謬である。このことの確認を願います。  (2) 業が行為を意味するとすれば この意志行為が原因となって――縁をも呼びこんで――その意志のあり方(単純に善か悪か)に従ってその決まった結果をも招くという見方は まづ一生涯を超えてはたらくということはあり得ない。同じく確認です。  (3) ではこの業にもとづく所謂る因果応報の説は ひとりの人間の生まれてから死ぬまでのあいだのこととしてなら 現実性を持つと見るべきか?  (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?    (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?  (4‐1) すなわち 輪廻と業の説は いっさい無用であるのではないか? 大いなる勘違いではないだろうか?

  • 《因果の道理》は 道理ではない。

     つぎのヰキぺの記事にかんする限り それは 何も言ったことにはならない。これを問います。  ▲ (ヰキぺ:因果の道理) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E3%81%AE%E9%81%93%E7%90%86  § まえがき  (あ) 因果の道理は仏教の根本的な教理である。「因果律」・「因果論」とも言われ、釈迦が発見した「大宇宙の真理」とされる。日本をはじめ東洋諸国では倫理や道徳の根拠にもなっている。  § 概説  (い) 釈迦は、原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因(因)と間接的要因(縁)の両方がそろった(因縁和合)ときに結果はもたらされるとする(因縁果)。  (う) そこで、縁起と呼ぶ法によってすべての事象が生じており、「結果」も「原因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が相依相関して成立しているとする。  (え) 釈迦が悟った上記のような内容を縁起という。その教えを学問上「縁起説」と呼ぶこともある。  (お) 仏教において因果は次のように説かれる。   善因善果…善を行うことが新たな善を促す   悪因悪果…悪を行うことが新たな悪を促す   善因楽果…善を行うことが自分にとって望ましい結果を招く   悪因苦果…悪を行うことが自分にとって望ましくない結果を招く  (か) 例えば最初は嫌々ながら行なっていた人助けでも、何度か繰り返すうちにそれが習慣となったり、それが褒められることで自ら進んで行うようになる。  (き) 逆に最初は躊躇していた犯罪が一度成功すると、また罪を犯すことに抵抗を感じなくなったり、一度嘘をつくとその嘘を隠すために更なる嘘を重ねる様になる。  (く) これが「善因善果」「悪因悪果」の具体例であり、両者は原因と結果の性質が同じであるため、《同類〈因〉・等流〈果〉〔なる因と果との関係〕》と呼ぶ。  (け) 一方、善いことを行えばそのことで満足感・達成感が得られるのに対して、悪いことを行うと良心の呵責や罪が露見することへの恐怖が起こる。 これが「善因楽果」「悪因苦果」の具体例である。   (こ) 「善因善果」「悪因悪果」とは異なり、この場合の結果は一概に善か悪かを判断できない。  (さ) 例えば、善い事を行った自分を誇って他人を軽蔑したり、一度の善行に満足して善行を止めることがあれば、それは善行が悪い結果を招いたことになる。  (し) 逆に悪を行った事による心の苦しみが、その人を反省・更生へと導くならば、それは悪行が良い結果を招いたことになる。  (す) 両者は原因と結果の性質が異なるため、《異熟因・異熟果》と呼ぶ。  (せ) 「善因善果・悪因悪果」について“善いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる”と解説される場合があるが、これは「善因善果・悪因悪果」と「善因楽果・悪因苦果」の混同を招きかねない不正確な説明である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これで記事の全部です。  (そ) この記事内容についてはすでに 出典を明らかにすべきだとか 中立的な観点が必要だとかのクレームがついているようです。  (た) ですが いまはそのような疑問点をもわたしたちが洗い出すかたちで問い求めて行きたいと考えます。  (ち) 出典の問題をのぞけば かんたんな形ながら (お)から(せ)までの説明は ふつうに中立的な内容ではないかと考えるのですが どうでしょう?  (つ) 一つ目の問いは こうです。    善悪が主観的なものであるからには 楽果も苦果もみな同じく主観的であって《のぞましいか否か》で定義するなら それらはやはり善か悪かで捉えても構わないのではないか? すなわちおおきくは 楽果⇒善果 苦果⇒悪果と見てよいのではないか?  (て) しかもいま――因縁の縁すなわち間接的な原因は措いておきますが―― 原因にしても結果にしても いづれもそのワタシにとって 善もあれば悪もあるということでないわけがない。(どちらでもない無記の場合もありましょうが それは当然のこととしてこれも特には触れません)。    * 因縁の縁をいま問わないのは それもけっきょく因と同じように 善をも悪をもふくむのがつねであると見られるからです。その議論は 以下に追ってすすめて行きます。    (と) つまりは 任意の一時点をとってそのとき ワタシの状態は過去の《善と悪とをふくむ原因》の結果として 《善悪の入り混じった》ものとしてみちびかれている。しかもその状態〔から繰り出す行為〕は 未来への《善と悪とをふくむ》原因となって 《善悪の入り混じった》結果をうむ。――このことは あたりまえであるはずです。  (な) ならば そのような・どの時点でもつねに《善と悪とをふくむ》原因かつ結果としての状態にあるワタシについて その行為の軌跡の中から 一本の線としての《同類因・等流果》(く)やあるいは《異熟因・異熟果》(す)を ただいづれか一方だけの取り出して これこそが因果関係であるぞと言ったところで 何の意味をも成さない。せいぜいが気休めである。  (に) つまりブディズムの説くと言われる《因果の道理》は けっして道理などではない。こう帰結されますまいか。どこが 《大宇宙の真理》でしょう。どこが《さとり》なのでしょう。かえってものごとの見方を 一面的な狭いものとしていはすまいか。  (ぬ) なんでこんな子どもだましのような《理論》が 永くつづいて来たのでしょう。日本人はここまでばかなのでしょうか。  (ね) ただし・もっとも 成功したひとたちは その原因を みなさんのおかげですと言って 因縁の縁のほうを重んじた見方で表現してはいます。そのあたりについても 考えるところがありましたら 回答の書き込みをどうぞ。    (の) (つまり 日本人は現実の実践では 好ましい世界観にもとづいていると思われるのに  ブディズムの理論だけは 成っていない。こういうことでしょうか)。  (は) (ブディズムよ 恥を知れというところでしょうか)。  (しかも そのブディズムに対して・またゴータマ何たらという人間に対して へーこらへーこら ありがたやありがたやと おもねっている〔ように見える〕。日本人のこの状態は どうしたものなのでしょう)。  (ひ) ゴータマは ペテン師であり 屁の河童なりと どうして言わないのでしょう。

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら善悪ないし苦楽という主観による規定が含まれます。  3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は・という意味は 善悪を主観が判断するのだから けっきょく自業自得という考え方は ゆえに 主観の範囲を出ない。  4. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  ものごとが自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから そう(自業自得として)規定することはできない。    なら 初期条件は ナゾの何ものかによるエコヒイキである。  5. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  7. ただし 主観の問題としてわが心の内なる善行の道は捨て去ることはない。と考えてよいか?  善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 因果応報説は 愚の骨頂

     ではありませんか? 次の聖句に照らし合わせると。   すなわち その5:19の《人々の罪の責任を問うことなく》に注意することができるではないでしょうか?  ▲ (コリント後書5:12-21) ~~~~~~~~~~~~~~~  5:12  わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。  5:13  わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。  5:14  なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。  5:15  その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。  5:16  それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。  5:17  だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。  5:18  これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。  5:19  つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。  5:20  ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。  5:21  罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ クリスチアニスムの事例を挙げましたが どの思想であるかは自由に ご見解をお寄せください。おしえを乞います。ただしわたしが納得するまでお尋ねしてまいります。

  • 輪廻転生

    私の友達は彼氏に頼んで殺されました。 彼女は自殺になるのですか? 死後の世界から考えても自殺になってしまうのですか? 真っ暗闇の中に入って寿命まで苦しみ続けるのですか?輪廻転生出来なくなるのですか? 天国に行けず、地獄以上の真っ暗闇の世界で寿命まで苦しみ続けるのですか? お手数ですが回答よろしくお願い致します!m(__)m

  • 輪廻転生について

    素人の質問ですみません。 輪廻転生の考えは主に仏教の教えなのでしょうか。 キリスト教や哲学の考えには存在しないのでしょうか。 ご存じの方がいらっしゃいましたら教えて下さい。

  • 輪廻転生

    輪廻転生を信じている人に伺いたいのですが、どうすれば輪廻転生の流れから抜け出して二度と生まれてこなくなりますか? 本当に輪廻転生があるのかはわかりませんが、もしあったらイヤなので、質問します。

  • 輪廻転生について

    カテゴリーがあっているかどうかわからないのですがこのことに ついて詳しく教えていただければと思います。 またわかりやすく説明している著書がありましたら 教えてください。 恥ずかしながらこれでも仏教の高校を卒業し授業も 受けていたのに、言葉だけで頭に残っていません。 いまさらながら少し勉強してみたいと思っています。 よろしくお願いします。

このQ&Aのポイント
  • 大学院進学を考える場合でも、就活をするべきか、それとも大学院進学に集中すべきか悩むことがあります。どちらが良い選択なのか、考えてみましょう。
  • 大学院進学を希望している場合、就活も重要なポイントとなります。就活を通じて社会経験を積み、自己PRを高めることは将来のキャリアにも繋がります。
  • 一方で、大学院進学に必要な勉強や準備に時間を費やすことも重要です。大学院入試対策や研究の深化を図るためには、集中して取り組むことが求められます。どちらを重視するかは、自分の進路や目標によって異なるでしょう。
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