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輪廻転生説は 愚の骨頂

 ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

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  • umaruko
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回答No.52

No.43で回答したものです。ご返事ありがとうございます。前回は質問内容からずれてしまった回答になってしまったので、今回はまともに回答をするつもりです。 >輪廻転生説は 愚の骨頂 に関して私が思うことを書いていきます。 まず、輪廻転生説といいますが最終的に行き着く先は人間が死んだあとの世界はあるのか?それともないのかという話に帰結するものだと考えてます。 そして、現在の西洋哲学では私の知る限り人間の死後に対して明確な回答をした人物はいないと断言できます。(少なくとも根拠を示した人物はいないはずです) そういった意味で西洋哲学における輪廻転生説は誰も証明しておらず、いまだに輪廻転生説を悪用して自分の利にしている人たちを見るのはうんざりです。まさに哲学が取り上げるには値しない主題というよりも、証明も客観的な根拠を示していない主題のうえで何やってんだ!って感じですね。まさに愚の骨頂であるというのは同意です。 次に私が仏教の輪廻転生説を書いた理由として、ある程度の客観的な根拠を示されているということが挙げられます。それはNo.43で書いた 1.キリスト教では死んだ後必ず天国に行くんですよね…。この世よりもずっといい世界なんでしょう。じゃあ、なんで人が死んだときあんなに悲しそうに葬儀に参加するんでしょうか?死んだら天国なんだろ!もっと喜べよ参列者!!今の世界よりいいとこいくんだからバンザイをしろよ!! 2.人が死んだとき冥福を祈るという言葉が贈られます。冥福とは冥土の幸福を祈るってことですよね…。冥土とは死んだ後の世界のこと。(これで死後の世界を信じてますね)しかも幸福を祈る…死んだあとの世界が不幸だから幸福を祈るんですよね?これって死んだあとが不幸になるって思っている証拠になりませんか? という2つの根拠が示されたということにあります。この2つは少なくとも人間は死後の世界があると信じている、かつどうも死んだあとは不幸な世界に行くとわかっているのではないか?というものです。 この2つの謎は輪廻転生が事実であれば、簡単に謎はとけます。 (1)人間は輪廻転生しているがゆえに死後の世界があると無意識下でわかっている。(今までの経験上) (2)今の私たちは過去遠い昔に人間であったときがあって、その時死んだ後地獄に堕ちたという経験を持っている。だから、死んだ人間に対してその人間は地獄に堕ちたということだから、わざわざ冥福、死後の幸福を祈っている。 という説明で謎はOKになるでしょう。 少なくとも私にはこれらの根拠を崩せるような持論がなかったため掲載させていただきました。もし、崩せる方がいたら本当に崩してください、お願いします…。 最後に > たとえ《死後》のことが分からなくても ひとは 生きているうちに 一生懸命に 努力をするのであり 勤勉です。どうして 《死後が無く 未解決の課題が残されるからと言って 道徳が崩れ落ちる》のですか? ただ そういうふうにしか考えられなくなっているあなただけの問題ではないのですか? について。これは中国最大の思想家に対する挑戦そのものですね! http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/71479/67603/50003369 まあ、かいつまんでエピソードを書いていきます。孔子の門弟で最高の人格者であった中国の顔回という人物がいた。しかしその生涯は極貧な生活で、しかも若死にした。 それに対して盗跖(とうせき)という同時代に生きた大泥棒は悪事の限りを尽くしながら、富貴栄華を極めて死んだ。 この事実を前に「善を進んでやれば必ず幸せになれる」と説いた孔子のなすすべはなかった。。。 というお話ですね。つまりこの世で努力しなかった盗跖はこの世で幸せであった。しかしこの世で努力したはずの顔回はこの世で不幸せであったと。。。 この件に関してはどう思いますか?もし完璧な反論をしたいなら少なくとも質問者の方は孔子を超えた思想家にならなければなりませんが…。 ROMに戻るとかいってまた書き込んでしまいました…。今度こそROMに戻ります、失礼しました。

参考URL:
http://www.geocities.co.jp/Bookend/3756/seidan.ingaron.html
bragelonne
質問者

補足

 umaruko さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  では 《孔子を超えた思想家にな》りましょう。  【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】のほうで やり取りがあったのですが 《理由その四》の民主主義の歴史的な進展ということに かかっていると考えます。  社会が 二階建ての構造になったという問題です。国家ですね。その成立の以前と以後とでは 社会生活もしくは人間と人間との交通関係 これが 基本的に 変わった。あたかも地割れを起こし 断層を作ってしまった。それが 二階建ての意味です。一階は スサノヲ市民社会で 二階は アマテラス公民圏です。  例証します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  籠(こ)もよ み籠持ち             堀串(ふくし)もよ み堀串持ち         この丘に 菜 摘(つ)ます児(こ)           家聞かな 名告(の)らさね           そらみつ 大和の国は            おしなべて われこそ居れ           しきなべて われこそ座(ま)せ          われにこそは 告らめ            家をも名をも                  (オホハツセワカタケのすめらみこと〔雄略天皇〕 万葉集 巻一・1番)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このうたは 《本来 春の野遊びの若菜摘みの歌が 雄略物語にとり入れられた一首》で  ▲ 《その際 〔中ほどの三句が〕 挿入された》(中西進:万葉集  全訳注原文付 (一))  ☆ と解説されます。このとき もしそうだとしたら それは 若菜つむスサノヲ市民らの生活圏の間にというか その上部の第二階に 三句のアマテラス公民の視点が突如加えられているのだと推し測られます。であるから そのように二階へ上がったという《アマアガリ》には 民主制の観点からは 疑問が付きまとうというものです。  言いかえると まだ現在も 国家は存続していますし その二階建て構造は 変わっていませんが しかし 主権在民であることに間違いありません。スサノヲ市民主権制ということです。アマテラス公民たちを われわれの税金で食わせてやっているというわけです。  ところが しかも ヨーロッパや あるいは 中国とも違って わが日本は じつは 神話によりますと スサノヲ市民たちは アマテラス公民に 基本的に言って 国ゆづりをしたと言います。その結果 西欧や漢民族の内部およびその周辺民族との間において スサノヲ圏とアマテラス圏とが つまり 上と下とが 回転( revolution )して 権力の当事者が 入れ変わるというわけではなかったようです。  つまり 主権在民制になるまで スサノヲ市民らは ときを待っていたわけです。じっと我慢の子だったわけです。この一事をもって 《未解決問題が 死後に託されるという〈思い込み〉が なくても 道徳実践が止むことはなかった》と考えます。そうして わたしたちは 一般に いちいち 因果応報といった説にまで 持って行って 固定することもないと 考えているのではないでしょうか。  ふつうに勤勉なのです。スサノヲ市民らはです。どれだけ公費着服やら浪費をしても おまえたち しっかりせよとは言いますが ギロチンにかけるところまでは進まないのです。やがて アマテラス公民たちは 人間には ひとりの例外もなく 仏性があるということに目覚めて ひざを折って 懺悔でもするようになる。のではないでしょうか?   いやいや わたしたちも 到らない人間です。ともに ふたたび われらが日本を よき国にしていきましょうと われわれスサノヲらは 答えるでしょう。  この歴史過程に 輪廻転生など なんら 関係ないのです。それぞれ その一生を 精一杯生きて――それにしても 長寿国ぢゃないですか―― 死んでいくだけです。こんなたのしい ゆかいな国は ないでしょう。えっ? まだ そのようには出来あがっていないですって? では そのように作り直していけばいいでしょう。少しづつ 一歩一歩。  新しい天と新しい地が ここに 成るかも知れません。どうですか?  輪廻転生説は 愚の骨頂の理由説明でした。

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その他の回答 (113)

回答No.3

愚の骨頂かもしれないけれども、議論するのが哲学だと思います。 カントも一応世界全体の成り立ち(世界の始まりや大きさ等)について検討してますし、ありえないことでも何故ありえないかを議論するのが哲学だと信じます。 理由その一についてのみ、書かせてください。それ以降の理由は倫理的な価値判断なので立ち位置が難しいので。 まず「証明」とか「反証」できる教説が哲学にどれほどあるか疑問です。自然科学とは異なるのが哲学でしょう。 「永劫回帰」はニーチェの教説の一つですが、これは「輪廻転生」を広い意味で含んでいます。いまここにある自分がかつてあったし、これからも無際限にありつづけるだろうと言うわけです。 妄説かもしれませんが、ニーチェほどの哲学者がそれを信じたというのがポイントです。立派に哲学のテーマですし、愚の骨頂とばかりいえないでしょう。確かに狂人の妄想かもしれないですが、一抹の狂気がないと学校の先生の退屈な訓話と差がなくなります。  ソクラテスのダイモンが示すように哲学は、一抹の狂気を漂わせながらギリシアに始まったのですから。

bragelonne
質問者

補足

 Hyperion64 さん ご回答をありがとうございます。  ★ 愚の骨頂かもしれないけれども、議論するのが哲学だと思います。  ☆ つまり これこれの理由により 《輪廻転生説は 愚の骨頂》であると議論するのが哲学ですね。  ★ カントも一応世界全体の成り立ち(世界の始まりや大きさ等)について検討してますし、ありえないことでも何故ありえないかを議論するのが哲学だと信じます。  ☆ 上と同じですね。ただし 《何故ありえないか》ではなく 《あるとも ないとも 決められない》という理由つまり その議論をしても 切りのない悪無限に陥るという理由もありますね。  また 《カント》がどう言ったからとか ナントがこう言いおこなったからとかの理由は それだけでは やはり 愚の骨頂ですね。  ★ 理由その一についてのみ、書かせてください。それ以降の理由は倫理的な価値判断なので立ち位置が難しいので。  ☆ 《立ち位置が難しい》のは 待った無しの現実には あり得ますが 哲学に 一般的には あり得ません。と確認しつつ  ★ まず「証明」とか「反証」できる教説が哲学にどれほどあるか疑問です。自然科学とは異なるのが哲学でしょう。  ☆ 《教説》も文学小説もないでしょう。仮説に対して 肯定・否定いづれかの証明をするか あるいは 証明も反証明もし得ないと明らかにするか いづれかでしょう。宗教の問題ではなく 哲学の問題だと申し上げているのですから。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「永劫回帰」はニーチェの教説の一つですが、これは「輪廻転生」を広い意味で含んでいます。いまここにある自分がかつてあったし、これからも無際限にありつづけるだろうと言うわけです。  妄説かもしれませんが、ニーチェほどの哲学者がそれを信じたというのがポイントです。立派に哲学のテーマですし、愚の骨頂とばかりいえないでしょう。確かに狂人の妄想かもしれないですが、一抹の狂気がないと学校の先生の退屈な訓話と差がなくなります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ニーチェが何を言った カントがかにを言ったでは 哲学の入り口から 入り間違えていますでしょう。自分で論じようとはせず みづからの主観真実を持たない・持ちたくない・あぁ 次に生まれてきたときにでも取り上げ 持ってみようかな ということでしょうか? こういう哲学の貧困という現状であるようです。  妄説です。もしくは 妄説とも何説とも決められないくだらない主題だという結論に辿り着かなければおかしいというのが 質問趣旨です。  ★ ソクラテスのダイモンが示すように哲学は、一抹の狂気を漂わせながらギリシアに始まったのですから。  ☆ 輪廻転生説は 哲学が扱うに値するものではなく 扱うなら 愚の骨頂であると哲学することには ダイモンがただよっていますでしょう?  いかがでしょうか?

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

>>真実をおしえてください。 哲学の範疇の議論でしょうかね。 そのまえにわかりやすい数学の問題で考えましょう。数学の次元は線、面、立体・・・とありますが普通に3次元立体以上の次元は誰も認識できないし議論する意味もないと考えれば、その通りですね。リーマンだの高次元微積分だの多次元時空間表現だのアインシュタイン時空だのあまり意味はないでしょうね。それでも延々と数式をこねくり回して特異点だのブラックホールだのワームホールだのといって楽しんでいるわけです。数学でいえば物理学も取り込んで議論の範疇を広げていることは確かですね。ワームホールなど理解できる人はほとんど無いというのにですね。 さて、bragelonneさんはすでに私が何を回答しようとしているかをお気づきだと思います。 哲学の範疇も数学の範疇と同じだといいたいのですね。理解できる人はほとんど無くてもより広い範囲でこねくり回すということが正しいと思うからですね。人間がどこから来て、何をしようとしているのか、どこへ行くのか、の一つとして輪廻転生説もいいじゃないですかね。数学でいえば3次元に留まろうが4次元以降を論じようが数学です。とおなじじゃないですかね。ただ一ついえることは、数学でも4次元以降を理解しないと大数学者とはいわれないし、物理学者とも言われない昨今ですよね。さて哲学ではどうでしょうかね? やはり目に見えないところも取り込んで論じないとだめなのでしょうね・・ 宗教を取り込んだものを哲学の範疇とするか、目に見えるものや誰にでも判ることを哲学の範疇とするかは、bragelonneさん次第かな。 私はbragelonneさんほどの立派な人物が自身の思考に無理に制限を掛けること自体が不幸なことではないかと思います。

bragelonne
質問者

補足

 mmky さん ご回答をありがとうございます。  ★ 哲学の範疇も数学の範疇と同じだといいたいのですね。〔* 哲学は〕理解できる人はほとんど無くてもより広い範囲でこねくり回すということが正しいと思うから〔* この輪廻転生説に異議を唱えるの〕ですね。  ☆ めちゃくちゃですね。はちゃめちゃですね。おとなの発言とも思えません。  ○ 哲学は 思想に対して あらゆる可能性を考慮したあとの判断資料を提供するものです。  ○ 思想は 生活態度です。  ○ したがって哲学は ひとが生きる上で 現実とは どういうことか これを問い求めます。生きるとは どういうことかが 主題ですが 現実問題なのです。  ○ 冗談ぢゃありません。時間軸を含めた四次元は 現実ですよ。ブラックホールも 仮説としてであっても 経験現実ですよ。  ○ 冗談ぢゃありません。輪廻転生のどこが 現実なのですか?  ☆ どこをどう考え間違えれば  ★☆ 〔* 輪廻転生について〕理解できる人は〔* ・・・〕無くてもより広い範囲でこねくり回すということが正しいと思う。  ☆ となるのでしょう? 《こねくり回》してもよいのだという理由として 述べてあるのは ただ一つ  ★ 人間がどこから来て、何をしようとしているのか、どこへ行くのか、の一つとして輪廻転生説もいいじゃないですかね。  ☆ ですね。しかも なぜ そうなのか。一向に明らかにされていません。一生という期間を 特定して捉えて 何がいけないのでしょう? 哲学は この一生という範囲を 勝手に飛び越えて 想像の世界に遊ぶという趣味嗜好による判断を扱うとでも思っておられるのでしょうか。しかも 教義として 固まっていると言います。これを哲学は あつかうに値するとは いったい どの論理をもって 主張するのでしょうか?  No.1へのお応えにも書きましたが この質問では 信仰の選択を問うてはいません。また 宗教を宗教として 論じあつかうものでもありません。その教義の内容を 哲学から見て どう考えるか。これについて おひとりごとの真実をおしえてくださいというものです。むろん 理由が 大事です。理由をおしえて欲しいというものです。  ★ 自身の思考に無理に制限を掛けること  ☆ から解放されてください。ここで《制限》というのは 経験世界が経験世界のままでは 分からないからと言って その範囲を 単なる想像力によって 飛び越えていくからです。文学表現ならかまいませんが 哲学としては 哲学の思考に 哲学としての思考をしつづけていてはならないというかたちで 《無理に制限を掛けること》になるからです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて哲学ではどうでしょうかね? やはり目に見えないところも取り込んで論じないとだめなのでしょうね・・ 宗教を取り込んだものを哲学の範疇とするか、目に見えるものや誰にでも判ることを哲学の範疇とするかは、bragelonneさん次第かな。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どこか 両義性がちらつきます。つまり どちらを哲学としているのか どちらの内容が ご自分の見解であるのか あいまいなところがあると思いますが わたしからの問いは はっきりしています。  ○ 目に見えないものを取り上げる場合にしても 肉の目および心の目に見えるものや誰にでも判ることにもとづいて 説明をおこなう。  ☆ これが 哲学だという前提において では 《輪廻転生》とは どう扱うべきものかです。  このように受け取りました。

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回答No.1

輪廻転生は哲学ではありません。 仏教の大事な教えです。 となると哲学は宗教を否定するのですね。 それにしては外国の哲学者は敬虔な○○教徒というのが多いですが。 ベトナム戦争のとき北ベトナム軍はアメリカ相手に奮闘していました。 何故強かったのか・・それはベトナムでは輪廻転生が信じられていて、死んでも生まれ変われるから、だったそうです。 哲学で宗教は語れないと思います。

bragelonne
質問者

補足

 t87300 さん ご回答をありがとうございます。  ★ 哲学で宗教は語れないと思います。  ☆ この命題に対しては 《宗教》を 次の二つに分けて 対応いたします。   (α) 個人の主観内面における信仰と   (β) この信仰が 人間の言葉によって表現され集団において教義とされたいわゆる宗教と  これら二つですが そのうち (β)の教義を 哲学から見てどう捉えるか これを この質問は 扱います。(もっとも 哲学は (α)の信仰についても それを 経験合理性から見て どういう事態であるのか これを 扱うとも言っておきます)。  さて t87300 さんのお立ち場として   ★ 仏教の大事な教えです。  ☆ と明らかにしておられます。ですが 漏れ承るところによれば 仏教では この  ○ 輪廻転生を断ち切る  ☆ ことこそが 目指す境涯だと聞きます。  ▲ (ヰキぺ:仏教) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99  ・・・個々の生に対しては 業(* カルマ・行為)の積み重ねによる果報である次の生、すなわち輪廻転生を論じ、世間の生き方を脱して涅槃を証さない(悟りを開かない)限り、あらゆる生命は無限にこの輪廻を続けると言う。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これについても 哲学としては――哲学としては です―― 初めから生まれ変わりはないと想定しておけば 輪廻をつづけることも断ち切らねばならないことも ない。こういうことですね。  あくまで この質問は  ☆☆ 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  ☆ と問い求める道にあります。  ★ 外国の哲学者は敬虔な○○教徒というのが多いですが。  ☆ 《敬虔な○○教徒》というとき それは 個人の内面における信仰が 外に出て 集団としての見方から 判断されていることを意味します。ひとが ひとの信教および良心のあり方にかんして 干渉していると わたしは 考えますが それは ともかく 《哲学者》が 《信仰者》であることは なんら 問題になりませんし ここでも 問題としていません。  ★ となると哲学は宗教を否定するのですね。  ☆ ですから 宗教における教義の内容にかんして 哲学は こう思う・そうは思わないという判断を 一人ひとりの主観の真実として どうなのか これを問うています。そして わたくしは 輪廻転生説に対しては 完全に《否定》しますが 真実をおしえて欲しいという問いです。  主題を噛み合わせて欲しく思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ベトナム戦争のとき北ベトナム軍はアメリカ相手に奮闘していました。  何故強かったのか・・それはベトナムでは輪廻転生が信じられていて、死んでも生まれ変われるから、だったそうです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 帝国陸軍・海軍も つよかったようですね。物量や機械の質と量で 負けたようですね。敗戦の色濃くなってからは 次々と 無謀な作戦によって わざと敗北に向かったとも言われていますね。《理由その四》の 民主主義の問題も 加味して欲しく思います。  いかがでしょうか。おしえていただいたご回答の真実について 以上のように 受け取りました。

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    輪廻と業の説は 無用ではないか  あらためて問います。  (1) 生まれ変わるという意味での輪廻転生は 同じ DNA を持つひとが自分のほかにいないとすれば あり得ない誤謬である。このことの確認を願います。  (2) 業が行為を意味するとすれば この意志行為が原因となって――縁をも呼びこんで――その意志のあり方(単純に善か悪か)に従ってその決まった結果をも招くという見方は まづ一生涯を超えてはたらくということはあり得ない。同じく確認です。  (3) ではこの業にもとづく所謂る因果応報の説は ひとりの人間の生まれてから死ぬまでのあいだのこととしてなら 現実性を持つと見るべきか?  (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?    (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?  (4‐1) すなわち 輪廻と業の説は いっさい無用であるのではないか? 大いなる勘違いではないだろうか?

  • 《因果の道理》は 道理ではない。

     つぎのヰキぺの記事にかんする限り それは 何も言ったことにはならない。これを問います。  ▲ (ヰキぺ:因果の道理) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E3%81%AE%E9%81%93%E7%90%86  § まえがき  (あ) 因果の道理は仏教の根本的な教理である。「因果律」・「因果論」とも言われ、釈迦が発見した「大宇宙の真理」とされる。日本をはじめ東洋諸国では倫理や道徳の根拠にもなっている。  § 概説  (い) 釈迦は、原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因(因)と間接的要因(縁)の両方がそろった(因縁和合)ときに結果はもたらされるとする(因縁果)。  (う) そこで、縁起と呼ぶ法によってすべての事象が生じており、「結果」も「原因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が相依相関して成立しているとする。  (え) 釈迦が悟った上記のような内容を縁起という。その教えを学問上「縁起説」と呼ぶこともある。  (お) 仏教において因果は次のように説かれる。   善因善果…善を行うことが新たな善を促す   悪因悪果…悪を行うことが新たな悪を促す   善因楽果…善を行うことが自分にとって望ましい結果を招く   悪因苦果…悪を行うことが自分にとって望ましくない結果を招く  (か) 例えば最初は嫌々ながら行なっていた人助けでも、何度か繰り返すうちにそれが習慣となったり、それが褒められることで自ら進んで行うようになる。  (き) 逆に最初は躊躇していた犯罪が一度成功すると、また罪を犯すことに抵抗を感じなくなったり、一度嘘をつくとその嘘を隠すために更なる嘘を重ねる様になる。  (く) これが「善因善果」「悪因悪果」の具体例であり、両者は原因と結果の性質が同じであるため、《同類〈因〉・等流〈果〉〔なる因と果との関係〕》と呼ぶ。  (け) 一方、善いことを行えばそのことで満足感・達成感が得られるのに対して、悪いことを行うと良心の呵責や罪が露見することへの恐怖が起こる。 これが「善因楽果」「悪因苦果」の具体例である。   (こ) 「善因善果」「悪因悪果」とは異なり、この場合の結果は一概に善か悪かを判断できない。  (さ) 例えば、善い事を行った自分を誇って他人を軽蔑したり、一度の善行に満足して善行を止めることがあれば、それは善行が悪い結果を招いたことになる。  (し) 逆に悪を行った事による心の苦しみが、その人を反省・更生へと導くならば、それは悪行が良い結果を招いたことになる。  (す) 両者は原因と結果の性質が異なるため、《異熟因・異熟果》と呼ぶ。  (せ) 「善因善果・悪因悪果」について“善いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる”と解説される場合があるが、これは「善因善果・悪因悪果」と「善因楽果・悪因苦果」の混同を招きかねない不正確な説明である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これで記事の全部です。  (そ) この記事内容についてはすでに 出典を明らかにすべきだとか 中立的な観点が必要だとかのクレームがついているようです。  (た) ですが いまはそのような疑問点をもわたしたちが洗い出すかたちで問い求めて行きたいと考えます。  (ち) 出典の問題をのぞけば かんたんな形ながら (お)から(せ)までの説明は ふつうに中立的な内容ではないかと考えるのですが どうでしょう?  (つ) 一つ目の問いは こうです。    善悪が主観的なものであるからには 楽果も苦果もみな同じく主観的であって《のぞましいか否か》で定義するなら それらはやはり善か悪かで捉えても構わないのではないか? すなわちおおきくは 楽果⇒善果 苦果⇒悪果と見てよいのではないか?  (て) しかもいま――因縁の縁すなわち間接的な原因は措いておきますが―― 原因にしても結果にしても いづれもそのワタシにとって 善もあれば悪もあるということでないわけがない。(どちらでもない無記の場合もありましょうが それは当然のこととしてこれも特には触れません)。    * 因縁の縁をいま問わないのは それもけっきょく因と同じように 善をも悪をもふくむのがつねであると見られるからです。その議論は 以下に追ってすすめて行きます。    (と) つまりは 任意の一時点をとってそのとき ワタシの状態は過去の《善と悪とをふくむ原因》の結果として 《善悪の入り混じった》ものとしてみちびかれている。しかもその状態〔から繰り出す行為〕は 未来への《善と悪とをふくむ》原因となって 《善悪の入り混じった》結果をうむ。――このことは あたりまえであるはずです。  (な) ならば そのような・どの時点でもつねに《善と悪とをふくむ》原因かつ結果としての状態にあるワタシについて その行為の軌跡の中から 一本の線としての《同類因・等流果》(く)やあるいは《異熟因・異熟果》(す)を ただいづれか一方だけの取り出して これこそが因果関係であるぞと言ったところで 何の意味をも成さない。せいぜいが気休めである。  (に) つまりブディズムの説くと言われる《因果の道理》は けっして道理などではない。こう帰結されますまいか。どこが 《大宇宙の真理》でしょう。どこが《さとり》なのでしょう。かえってものごとの見方を 一面的な狭いものとしていはすまいか。  (ぬ) なんでこんな子どもだましのような《理論》が 永くつづいて来たのでしょう。日本人はここまでばかなのでしょうか。  (ね) ただし・もっとも 成功したひとたちは その原因を みなさんのおかげですと言って 因縁の縁のほうを重んじた見方で表現してはいます。そのあたりについても 考えるところがありましたら 回答の書き込みをどうぞ。    (の) (つまり 日本人は現実の実践では 好ましい世界観にもとづいていると思われるのに  ブディズムの理論だけは 成っていない。こういうことでしょうか)。  (は) (ブディズムよ 恥を知れというところでしょうか)。  (しかも そのブディズムに対して・またゴータマ何たらという人間に対して へーこらへーこら ありがたやありがたやと おもねっている〔ように見える〕。日本人のこの状態は どうしたものなのでしょう)。  (ひ) ゴータマは ペテン師であり 屁の河童なりと どうして言わないのでしょう。

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら善悪ないし苦楽という主観による規定が含まれます。  3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は・という意味は 善悪を主観が判断するのだから けっきょく自業自得という考え方は ゆえに 主観の範囲を出ない。  4. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  ものごとが自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから そう(自業自得として)規定することはできない。    なら 初期条件は ナゾの何ものかによるエコヒイキである。  5. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  7. ただし 主観の問題としてわが心の内なる善行の道は捨て去ることはない。と考えてよいか?  善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 因果応報説は 愚の骨頂

     ではありませんか? 次の聖句に照らし合わせると。   すなわち その5:19の《人々の罪の責任を問うことなく》に注意することができるではないでしょうか?  ▲ (コリント後書5:12-21) ~~~~~~~~~~~~~~~  5:12  わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。  5:13  わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。  5:14  なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。  5:15  その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。  5:16  それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。  5:17  だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。  5:18  これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。  5:19  つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。  5:20  ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。  5:21  罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ クリスチアニスムの事例を挙げましたが どの思想であるかは自由に ご見解をお寄せください。おしえを乞います。ただしわたしが納得するまでお尋ねしてまいります。

  • 輪廻転生?

    最近、輪廻転生の本を読んだのですが 難しくて、もうひとつ理解できませんでした 誰か学のない私にわかり易く教えてください わたしは死んだときどうしても逢いたい人がいるもんで

  • 輪廻転生について考える

    一般的に人間の成長とは経験や知識の積み重ねによって構築されていくものだと思います。 しかし、輪廻転生という方法では前世の記憶がありませんので、常にゼロ(赤ん坊)から始めなければなりません。 輪廻する魂が同一のものとするなら、これは人生というチャンスにおける一発勝負を意味しているのでしょうか。 それとも輪廻によって魂の変質が起こり、より良き者へと変わる人生という名のステップでしょうか。

  • あなたは「輪廻転生」を信じてますか?

    あなたは「輪廻転生」を信じてますか?日蓮宗もそう信じてるらしいと聞いたことがありますが間違ってたら指摘してください。

  • 輪廻転生ってあるの?

    輪廻転生ってあるのですか? 考えるんですけど 誰も聞いてくれないんです。。。 実際あるんですか? *非現実的な事でごめんなさい。

このQ&Aのポイント
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