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輪廻転生説は 愚の骨頂

 ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

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  • umaruko
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回答No.52

No.43で回答したものです。ご返事ありがとうございます。前回は質問内容からずれてしまった回答になってしまったので、今回はまともに回答をするつもりです。 >輪廻転生説は 愚の骨頂 に関して私が思うことを書いていきます。 まず、輪廻転生説といいますが最終的に行き着く先は人間が死んだあとの世界はあるのか?それともないのかという話に帰結するものだと考えてます。 そして、現在の西洋哲学では私の知る限り人間の死後に対して明確な回答をした人物はいないと断言できます。(少なくとも根拠を示した人物はいないはずです) そういった意味で西洋哲学における輪廻転生説は誰も証明しておらず、いまだに輪廻転生説を悪用して自分の利にしている人たちを見るのはうんざりです。まさに哲学が取り上げるには値しない主題というよりも、証明も客観的な根拠を示していない主題のうえで何やってんだ!って感じですね。まさに愚の骨頂であるというのは同意です。 次に私が仏教の輪廻転生説を書いた理由として、ある程度の客観的な根拠を示されているということが挙げられます。それはNo.43で書いた 1.キリスト教では死んだ後必ず天国に行くんですよね…。この世よりもずっといい世界なんでしょう。じゃあ、なんで人が死んだときあんなに悲しそうに葬儀に参加するんでしょうか?死んだら天国なんだろ!もっと喜べよ参列者!!今の世界よりいいとこいくんだからバンザイをしろよ!! 2.人が死んだとき冥福を祈るという言葉が贈られます。冥福とは冥土の幸福を祈るってことですよね…。冥土とは死んだ後の世界のこと。(これで死後の世界を信じてますね)しかも幸福を祈る…死んだあとの世界が不幸だから幸福を祈るんですよね?これって死んだあとが不幸になるって思っている証拠になりませんか? という2つの根拠が示されたということにあります。この2つは少なくとも人間は死後の世界があると信じている、かつどうも死んだあとは不幸な世界に行くとわかっているのではないか?というものです。 この2つの謎は輪廻転生が事実であれば、簡単に謎はとけます。 (1)人間は輪廻転生しているがゆえに死後の世界があると無意識下でわかっている。(今までの経験上) (2)今の私たちは過去遠い昔に人間であったときがあって、その時死んだ後地獄に堕ちたという経験を持っている。だから、死んだ人間に対してその人間は地獄に堕ちたということだから、わざわざ冥福、死後の幸福を祈っている。 という説明で謎はOKになるでしょう。 少なくとも私にはこれらの根拠を崩せるような持論がなかったため掲載させていただきました。もし、崩せる方がいたら本当に崩してください、お願いします…。 最後に > たとえ《死後》のことが分からなくても ひとは 生きているうちに 一生懸命に 努力をするのであり 勤勉です。どうして 《死後が無く 未解決の課題が残されるからと言って 道徳が崩れ落ちる》のですか? ただ そういうふうにしか考えられなくなっているあなただけの問題ではないのですか? について。これは中国最大の思想家に対する挑戦そのものですね! http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/71479/67603/50003369 まあ、かいつまんでエピソードを書いていきます。孔子の門弟で最高の人格者であった中国の顔回という人物がいた。しかしその生涯は極貧な生活で、しかも若死にした。 それに対して盗跖(とうせき)という同時代に生きた大泥棒は悪事の限りを尽くしながら、富貴栄華を極めて死んだ。 この事実を前に「善を進んでやれば必ず幸せになれる」と説いた孔子のなすすべはなかった。。。 というお話ですね。つまりこの世で努力しなかった盗跖はこの世で幸せであった。しかしこの世で努力したはずの顔回はこの世で不幸せであったと。。。 この件に関してはどう思いますか?もし完璧な反論をしたいなら少なくとも質問者の方は孔子を超えた思想家にならなければなりませんが…。 ROMに戻るとかいってまた書き込んでしまいました…。今度こそROMに戻ります、失礼しました。

参考URL:
http://www.geocities.co.jp/Bookend/3756/seidan.ingaron.html
bragelonne
質問者

補足

 umaruko さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  では 《孔子を超えた思想家にな》りましょう。  【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】のほうで やり取りがあったのですが 《理由その四》の民主主義の歴史的な進展ということに かかっていると考えます。  社会が 二階建ての構造になったという問題です。国家ですね。その成立の以前と以後とでは 社会生活もしくは人間と人間との交通関係 これが 基本的に 変わった。あたかも地割れを起こし 断層を作ってしまった。それが 二階建ての意味です。一階は スサノヲ市民社会で 二階は アマテラス公民圏です。  例証します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  籠(こ)もよ み籠持ち             堀串(ふくし)もよ み堀串持ち         この丘に 菜 摘(つ)ます児(こ)           家聞かな 名告(の)らさね           そらみつ 大和の国は            おしなべて われこそ居れ           しきなべて われこそ座(ま)せ          われにこそは 告らめ            家をも名をも                  (オホハツセワカタケのすめらみこと〔雄略天皇〕 万葉集 巻一・1番)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このうたは 《本来 春の野遊びの若菜摘みの歌が 雄略物語にとり入れられた一首》で  ▲ 《その際 〔中ほどの三句が〕 挿入された》(中西進:万葉集  全訳注原文付 (一))  ☆ と解説されます。このとき もしそうだとしたら それは 若菜つむスサノヲ市民らの生活圏の間にというか その上部の第二階に 三句のアマテラス公民の視点が突如加えられているのだと推し測られます。であるから そのように二階へ上がったという《アマアガリ》には 民主制の観点からは 疑問が付きまとうというものです。  言いかえると まだ現在も 国家は存続していますし その二階建て構造は 変わっていませんが しかし 主権在民であることに間違いありません。スサノヲ市民主権制ということです。アマテラス公民たちを われわれの税金で食わせてやっているというわけです。  ところが しかも ヨーロッパや あるいは 中国とも違って わが日本は じつは 神話によりますと スサノヲ市民たちは アマテラス公民に 基本的に言って 国ゆづりをしたと言います。その結果 西欧や漢民族の内部およびその周辺民族との間において スサノヲ圏とアマテラス圏とが つまり 上と下とが 回転( revolution )して 権力の当事者が 入れ変わるというわけではなかったようです。  つまり 主権在民制になるまで スサノヲ市民らは ときを待っていたわけです。じっと我慢の子だったわけです。この一事をもって 《未解決問題が 死後に託されるという〈思い込み〉が なくても 道徳実践が止むことはなかった》と考えます。そうして わたしたちは 一般に いちいち 因果応報といった説にまで 持って行って 固定することもないと 考えているのではないでしょうか。  ふつうに勤勉なのです。スサノヲ市民らはです。どれだけ公費着服やら浪費をしても おまえたち しっかりせよとは言いますが ギロチンにかけるところまでは進まないのです。やがて アマテラス公民たちは 人間には ひとりの例外もなく 仏性があるということに目覚めて ひざを折って 懺悔でもするようになる。のではないでしょうか?   いやいや わたしたちも 到らない人間です。ともに ふたたび われらが日本を よき国にしていきましょうと われわれスサノヲらは 答えるでしょう。  この歴史過程に 輪廻転生など なんら 関係ないのです。それぞれ その一生を 精一杯生きて――それにしても 長寿国ぢゃないですか―― 死んでいくだけです。こんなたのしい ゆかいな国は ないでしょう。えっ? まだ そのようには出来あがっていないですって? では そのように作り直していけばいいでしょう。少しづつ 一歩一歩。  新しい天と新しい地が ここに 成るかも知れません。どうですか?  輪廻転生説は 愚の骨頂の理由説明でした。

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その他の回答 (113)

  • umaruko
  • ベストアンサー率73% (137/186)
回答No.43

わたしも哲学における輪廻の話にはうんざりしているクチです。しかしそもそも「輪廻転生説」とは仏教の教えです。そして、仏教における「輪廻転生説」はなかなか示唆に富む内容ですので私の知る限り書いていきます。質問者の方の主題からはずれてしまうのは申し訳ないですが。 「輪廻転生説」というとなんだかわかりづらいかもしれませんが簡単にいうと以下のようにまとめられます。 ・私たち人間の魂は過去永遠の昔から未来のずっと先まで生まれかわり死に変わりを繰り返している存在である。 →つまり私たちの生まれる前、過去世は存在する。そして死んだ後未来世も存在するということです。 さらに「六道輪廻」という言葉にあるとおり人間は6つの世界を生まれ変わり、死に変わりしている。 そして、人間というのは仏さまの眼から見て悪(具体的には十悪・五逆罪・謗法罪)しかできない存在である。(あくまで仏様から見てということです。別に私は人間は悪しかできない存在とは毛頭思っていません) 悪しかできない存在なので因果の道理である悪因悪果により、六道の中でも長い間地獄界で苦しんできたのが私たちである。そして、今はたまたま人間界にいる私たちも死んだら即地獄界に戻り未来永劫苦しまなければならない。 そのような救われがたい私たちを救う法が仏教である。そしてこの仏教は六道の中でも人間界でしか聞くことができない。だから、地獄界に堕ちる前に今仏教を聞くことが重要なのだ…というのが「輪廻転生」の説明~結論ですね。論理構成的にはいちおう筋はとおっていると思います。 しかし疑問点は2つあります。 (1)人間の過去世・未来世はあるのか?(これが是なら人間の魂は永遠だということができます。) (2)人間って仏から見て悪しかできない存在なのか? (1)についての疑問点に対する説明(らしきもの) 俗にいう因果の道理は3つに分けられます。 ・善因善果 ・悪因悪果 ・自因自果 このうちで今回重要なのが、「自因自果」です。自因自果とは自分のやった種まきは必ず自分にふりかかるということです。たとえば、警察に捕まったという結果に対する因は自分が泥棒をしてしまったから…というのが自因自果ですね。 さて、過去世の話に入ります。私が生まれたことももちろん結果の1つでしょう。じゃあそれに対する因はどうなるでしょうか?自因自果が正しいとすると、自分が生まれたという結果に対する種まきは自分でやったということになります。じゃあいつやったか?当然生まれる前つまり過去世でやっていたということです。つまり私たちは過去世で人間に生まれるための種まきをしていたからこそ、今私たちはこの世に生を受けているのです。 次に未来世はあるのか否かについて。私たちのやった行いは業力不滅といって、死んだところでなくなりません。つまり、今やっている行い(因)に対する結果は死んだあとに起こるものもあるということです。そのため死んだ後が存在しないとは考えられません。→死後の世界は存在する。 死後の世界があるということに関してはおそらく確実だと思います。いえ、正しくは人間は誰しもそう思っています。しかも地獄行きであると確信しているそぶりがあります。理由は以下の通りです。 1.キリスト教では死んだ後必ず天国に行くんですよね…。この世よりもずっといい世界なんでしょう。じゃあ、なんで人が死んだときあんなに悲しそうに葬儀に参加するんでしょうか?死んだら天国なんだろ!もっと喜べよ参列者!!今の世界よりいいとこいくんだからバンザイをしろよ!! 2.人が死んだとき冥福を祈るという言葉が贈られます。冥福とは冥土の幸福を祈るってことですよね…。冥土とは死んだ後の世界のこと。(これで死後の世界を信じてますね)しかも幸福を祈る…死んだあとの世界が不幸だから幸福を祈るんですよね?これって死んだあとが不幸になるって思っている証拠になりませんか? 私が「輪廻転生」が真実味があると思ったのは↑のような客観的な証拠があったからです。自分たちの考えで押し通すような哲学における「輪廻転生」とは違い仏教における「輪廻転生」はこういう意味でもなかなか示唆に富む内容だと思います。 全体的に説明不足だったり(2)の根拠とかも丸投げにしてしまいましたが、何かの参考になったら幸いです。(いやなんの参考にもならんですね) 本当に長文失礼しました。若輩者は以降ROMに戻ります。駄文だと思ったら誰か消して…。

bragelonne
質問者

お礼

 umaruko さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。はじめから反論をかかげます。  ★ 「六道輪廻」という言葉にあるとおり人間は6つの世界を生まれ変わり、死に変わりしている。  ☆ これは 人間を侮辱しています。ゴータマくんが そうしたのですかね。  もし 《仏性》ということを言わなかったのだとしたら そうなのでしょうね。  つまり あとで ゴータマ・ブッダと仰ぐ人びとのあいだから ブッダの説として この仏性が 言われ出したのでしょう。あまりにも ひとを見くびっていたからです。おまえは なにさまだ?! と言う代わりに しもじもの人たちは 慈悲深いから ブッダを立てて 補修したのでしょう。見よ 人間の何とあわれみ深いことか。  それは いちいち 過去世に 今の不運の原因を求める必要などないことを表わしていないか。未来世に生まれ変わったあかつきには必ず悲願を達成するのだなどと うどんが伸びてしまうようなことを言わずに いま不運の中にも 知恵と力を尽くして すべきことをやればいいではないか。  ただ それもこれも 社会が二階建てになったから――お二階さんのアマアガリを しぶしぶでも われわれは みとめてやったから つまり かれらは だだをこねたから おとなになるのを待ってやらねばならなかった だから 民主主義ではなかったから あまりにも格差がわれわれの気持ちを圧倒していたから―― ときを待っただけだ。  われわれの状態が 地獄だ 餓鬼だと 何をぬかすか。おまえたちの高ぶりのさめるのを待っているだけだ。おまえたちが 心からその自分たちの状態を知り これを自覚して ひざを折る日を待っているだけだ。なぜなら おまえたちも われわれと同じく 人間であるからだ。仏性を宿しているからだ。  このくらいは 言ってやらないと 目覚めないでしょう。どうですか?

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  • Zohar
  • ベストアンサー率0% (0/4)
回答No.42

こんにちは bragelonneさん。 往生はどう思いますか?

bragelonne
質問者

お礼

 Zohar さん 神出鬼没ですね。こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 往生はどう思いますか?  ☆ 死ぬということです。  人間は なぜ 死ぬか ですって?  うそをついたからです。  うそをつくと なぜ 死ぬか ですって?  自分で自分をゆるせないからでしょう。人間は 誇り高き存在なのです。  だから 《往生》というふうに しゃれて言ってみるのでしょう。逝っちゃったなら しかたがない。    でもね。いま・ここ そのわたし これが すでに 永遠の現在だと言われています。時が流れなくなったのではありません。時とともに いつも つねに 現在なのです。体は衰えますが でも 生命は 元気です。息を吹きかけられた瞬間から 永遠なのです。  もはや 往生も涅槃も 知ったこっちゃねぇーというわけです。彼岸なんて言っていますからね。こっちぢゃ 生命であり真理であり道であると言わはった。道なら 海でも岸でもなく 歩いて行けるはづではないの? 人生は山あり谷あり 世の中も いわば大海のようですがね。心だって おおきな海のようですよ。飲み込んぢゃえば よいんぢゃないですか。精神の胃袋を じょうぶにしてね。  もちっと ことばをついやすべし。

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  • zatousan
  • ベストアンサー率55% (156/282)
回答No.41

No37です。 >文章のおもむきからは わたしの謬見をさとしてくださろうとしている。 いえいえ、そうではありません。 質問者さんの興味がありそうな聖句の紹介をしただけです。 >☆ へブル書の引用箇所とともに これだけですよね。 そうですよ。 考える材料は与えてあげるから、あとは自分で考えてください。  >とうぜん この《天に還る》というのは 霊の身体として生まれ変わることと 同じ事ですよね? すいません、12節から引用すれば紛らわしくなかったですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 12)このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これで、「出てきた所」の意味をご理解いただけたでしょうか? しかし、これをどのように解釈するかは質問者様自身で判断してください。 <このことは 《輪廻転生説は 哲学にとって 主題にはなり得ない》という命題の成立に差し障りは 何もないと考えるのですが どうなのでしょう?> 聖書に輪廻転生説と思える聖句がある。 それを、そうじゃない、と考えるかどうかは質問者さんが決めることじゃないですか?(僕が決めたら変ですよね?) >そのどこを正そうとされているのか。これが まだ 分かりません。 ゆえに、どこも正そうとしてません。 もう一つ言葉をプレゼントします。 こころよりこころをへんとこころへて こころにまよふこころなりけり ご参考までに

bragelonne
質問者

お礼

 zatousan さん ご回答をありがとうございます。  おかしなご投稿もあるものですね。  ご自分の見解を 最後までは 明らかにしないということでしょうか?  ★ 聖書に輪廻転生説と思える聖句がある。  ☆ これは 知りませんでした。そもそも このいま・ここなるわたしの生について その過去を問うているとは とうてい 思えません。(しゃれになっちまった)。知りません。  ★ へブル書11:12  ☆ これは 違いますよ。いいですか?  ▲ ひとりの死んだと同様な人  ☆ すでに アブラハムは たしか 七十五歳。そのアブラハムのことですよ。《年齢が盛りを過ぎていた》 そして 妻サラは 《不妊の女》であった。  にもかかわらず 実子が生まれたのですし その上 信仰上の子らが 《おびただしい人》となって生まれてきたと言っているのですよ。  ▲ 天の星のように、海べの数えがたい砂のように  ☆ これは 単なるたとえです。《故郷》のこととは 関係ありません。  わたしは こころは へんとは捉えません。自分のへそ曲がりによって 変にしている部分はある。そう心得ています。  こころは 迷うことなど いっさい ありません。海の表面に 波風が立つだけです。心理上の動きに過ぎません。それによって 人びとの心理が分かり その波風としての心理をとおして ちょっとは ひとの心の中のことにも 理解が及ぶというものです。もっとも これは 必要に応じて 理解が与えられるという事態であって こちらが 自分のはからいによって 知ろうとするものでもないようです。  そんなこんなを ご参考までに。

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noname#117439
noname#117439
回答No.40

オコリザルです。 すでに回答したA21.22に続きます。 ようするに、自らがこの世に生を受けていない時間に対して理解を広げる衝動から、つじつまを合わせる必要が生じたために輪廻の概念は生じたとするのが私の意見です。 意識上に上って何らかの物語のような形になればソレは文学といいますか夢物語です。 以下はすでに文学ですが、はるかな過去からはるかな未来まで連続する記憶の海から自分自身にたどり着くまでに見る冒険物語が生まれ変わりの物語です。 それから、テレビドラマなんかにのめりこんでその主人公に感情移入したとしましょう。その場では主人公そのものでも一晩寝ておきればその感情移入した経験はいわば前世の物語です。 いつも通りの私の言い方なら、輪廻転生とはそのように記憶の整合性を取る結果生じたあだ花のような物語。 となりますが、否定したり攻撃したりする意図はないんですよ その「あだ花」だと確信しているゆえ、輪廻の物語で遊んでいても大して人に迷惑をかけたりしないんじゃないかと考えています。 まあ、いいんじゃないかと。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  ★ ようするに、自らがこの世に生を受けていない時間に対して理解を広げる衝動から、つじつまを合わせる必要が生じたために輪廻の概念は生じたとするのが私の意見です。  ☆ そうですよ。ほんとうに そうですよ。一説として 実際に インドでは カースト制度の社会的な縛りがありましたから この世での逆境は 何故かと問うて   ★ つじつまを合わせる必要が生じたために輪廻の概念は生じた  ☆ つまり 過去ないし過去世に いまの逆境という結果を生む原因があったはづだという推理です。そう聞いています。生まれてこのかた わたしは 何も おおきな悪いことはしていないのに どうして こんな境遇に甘んじなければならないのかという問いの立て方だったわけです。  ★ 意識上に上って何らかの物語のような形になればソレは文学といいますか夢物語です。  ☆ そういうことだと思います。そして いまの事例のように 逆境にいることに とにかく 納得しようという推理ですね。自分を納得させようとしたのだと思います。  そういう場合から 広がって すべてについて 因果応報(つまり 善から善が 悪から悪が出る)という《つじつま合わせ》にまで発展すると その論理は 良からぬかたちで利用されたということだと思います。  ★ 否定したり攻撃したりする意図はないんですよ  ☆ これは じっさいに ひとが この文学表現なり夢物語なりを胸に抱くということ これに対して 哲学は 知ったことではないと わたしも 言って来ています。  ただし その理論 これには 内容が 哲学にとって とぼしい。このことのみ ここで 取り上げています。それだけです。

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noname#96756
noname#96756
回答No.39

bragelonne様、こんばんは。 御返事をありがとうございました。 >理論としての整合性があるから それが 何でも現実に通用するかと言えば それは それも むつかしいでしょう。しかも 理論は理論として 完結させようというみづからの働きもあります。 わたくしにとっての≪ゆづる≫がこのケースに該当します。 でもね、いいの。 いま理論上としてしか理解できなくとも、いつかはもっと内なる自分に取り込めるかもしれないから。 「ぶっきらぼう」の質問における[哲学信条を「ゆづる」]の考察も大変参考になりました。ありがとうございます。 >哲学が扱うに値しないという理論としての結論は 出るはづなのです。また それだけのことです。 はい、そうですね。 この件に関するスタンスに例外やブレなどあり得ないとわたくしも思います。 で、先の回答で「もう二度と生まれ変わりたくはない」も「もう一度叶うのなら生まれ変わりたい」も十分心情として理解できる、と回答した件につき、再度思いめぐらせてみました。 万が一この先、子供がわたくしをおいて早逝してしまったら。 あまりの辛さ、悲痛さのあまり、このように思う可能性が大きいです。 「またあの子に生まれ変わってめぐりあいたい」と。 でも、だとしたも、それは哲学の理論ではなくて切なる感情的の発露、純粋な願望に過ぎません。 そこには理屈めいた理論など要りません。 「あの子に会わせてほしい。」 ただひたすら、それだけ。 で、ここからが問題なのです。 これにさらに因果応報などを加えたとしたら。 「一体、何の前世の因果でこんな目に遭ってしまったの?」と、逆にとってもいや~な考えが生まれそうな気がするのです。 さらにさらに、おそらく来世でも、因果応報の報いが起こりえるかも?と思ってみたりしそうでコワイです。 結局のところ、いかに「ただの願望」であったとしても、因果応報と輪廻転生を組み合わせると、わたくしにとってはどうにもネガティヴでロクでもない印象になり下がる気がシマス。 一体全体、前向きに取らえることのできる因果応報、なんてあり得るのでしょうか。 だいいち、「因果応報のもと」前世でも現世でも成しえなかったことを、来世にて成就し得るか、因果をスッパリ断ち切れるのでしょうか? 「苔の一念岩をも通す」なんでしょうか?? 何だか自分にとってだけ、極めて都合がよい話のように思えてきます。 それとも今までの人生において、常に「一発屋根性」で功を奏してきた面倒を嫌う性分だから、「ただの願望」ですら破綻してしまうのかもしれませんが。  あくまで私的感想にすぎません。 で、最近「やっぱ哲カテは向いてないな~」と悟りの境地に達しつつあったりもして(笑)

bragelonne
質問者

補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。  ★ 子ども関係 / あるいは 女性の視点  ☆ は 実際の上では わたしは 何か発言すると言っても 理論だけですね。そりゃあ わたしも 子どものころがあったわけですから 子から親を見た感覚などについて 経験しているはづです。どうなんでしょう。ほとんど 議論として話し合ったこともないですし。・・・  でも たとえば 次のような文章は 読んでいたんです。そして いつも とまどっていました。けっきょく 感覚の世界をうまく言い当てているようにも思えるのですが いったい ほんとうにそうなのかと問い続けなければならなかったのです。  ▲ (西川直子:詩人と母あるいは言葉と歌)~~~~~~~~~~      『詩的言語の革命』は 女性としての立場からの考察の所産なのです。  とクリステヴァ自身語っているように 彼女の詩的言語論の中核には女性=母が場を占めている。  形式化と意味作用と伝達を可能にする《記号象徴態 le symbolique 》に先行し またそれにとってあくまで異質なもの つまりけっして形式化されることのない無限(無限定)の運動性である《原記号態 le semiotique 》は 比喩的にと同時に実質的に母の身体である。  自己と他者 主体と客体がいまだ未分化なまま母と融合している幼児の状態といいかえてもよいだろう。母=子融合状態はやがて鏡像段階にいたって自と他に分離し さらにエディプス期を経て母は禁忌となり 母語の背後へと姿を消してしまう。  このようにして主体は言語活動を獲得し 父の領域《ル・サンボリック》へと移行することになる。  ところで 生殖と快楽をテクストにあらわにさせるということは 詩人が口唇段階への退行というかたちで母の身体を再発見すること そして禁忌を犯し(一義的意味作用を侵犯し)てまでも 母の身体――形式化されることのない欲動の運動性――との融合をはかろうとすることである。  しかしもちろん母の身体そのものとの合一は不可能である。母の身体は 一義的伝達的言語活動のなかに汲みあげられなかった《母音的身体――のど 声 乳房――として 音楽 リズム 韻律法 パラグラム・・・として》見出されるのである。母との近親相姦は音を介して隔たっておこなわれる。  ちょうど幼児が 恣意性で分離された記号(シニフィアン / シニフィエ)をわがものとする以前に 意味のない しかし口唇的快楽に満ちたリズミカルな母音発生を繰りかえしおこなうように あるいは 主辞=述辞の表現を身につける以前にまずイントネーションが 言わんとすることを指示的にあらわしたように 記号=言語=意味となる以前の そして記号=言語=意味になることのけっしてない音楽(音 リズム イントネーション)が詩的テクストに導入され 母語と戯れて ことばをうたとする。ことばがなによりも音であり 声であり 息であったという事実がよろこびとともに肯定されるのである。  このとき 超越的な始原の言語への到達の不可能性の神話にかわって 生成状態にある言語の 意味でありうたである両義的様態からたちのぼる快楽が 詩的テクストの存在証明となる。《幼児は人間の臍である》とクリステヴァは述べているが 母=子が融合している空間がたしかに詩的言語の特権的な空間であるかのように 詩人たちはつねに 母との再融合を夢みて幼児期という黄金時代をうたってきたのである。  〔西川直子(1942~ ) in 《〈白〉の回帰 Le blanc revient――愛/テクスト/女性――》 1987 pp.280-281〕  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 詩を読んで そのような感覚を受け取り ある種 浄化・昇華されればよいということなのでしょうか。  ☆ 《実質的に母の身体である》というまでの感覚ということなのでしょうか。  ☆ それは 《生成状態にある言語の 意味であり うたである両義的様態からたちのぼる快楽》という感覚!!??――わかるような ちょっぴりわかるような・・・です。  これは お分かりのように 推薦とかぢゃなくて わたしが 分かりたいというものです。変なお応えになったかも知れません。

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.38

後学のためにお聞きしたいのですが、 >わたしの投稿を拒否した :とは、どの場面のことを指しているのか教えていただけないでしょうか。  

bragelonne
質問者

お礼

 忘れておいでなら それでも かまいません。

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  • zatousan
  • ベストアンサー率55% (156/282)
回答No.37

こんにちは、僕は死後の世界に興味はないのですが、 質問者さんに興味がありそうな聖句を紹介してみます。 ヘブル人への手紙11章13~16節 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 13)これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 14)そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。 15)もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。 16)しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 15節を読んでお気づきでしょうか? 『帰る機会はあったであろう。 』 『帰る機会』はあったが、君たちが本当に帰るべきなのは、天でしょ? 生まれ変わりなんてしようとしないで、私の教えを聞いて天にあるふるさと、、、天国に行きましょ! 地上に帰っちゃう人にはならないようにしましょ! と、いう事です。 パウロは、そのように言っています。 ぶっきらぼうについても、聖書は罪だと言っていたような、、、。(今ちょっとどの箇所だったか、思い出せないのですが。) ご参考までに

bragelonne
質問者

お礼

 zatousan さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。    ぶっきらぼう論とともに この輪廻転生論について 文章のおもむきからは わたしの謬見をさとしてくださろうとしている。こう受け取るのですが さて どういう謬見を取り上げて したがって そのどこを正そうとされているのか。これが まだ 分かりません。  たずねてまいります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『帰る機会』はあったが、君たちが本当に帰るべきなのは、天でしょ?  生まれ変わりなんてしようとしないで、私の教えを聞いて天にあるふるさと、、、天国に行きましょ! 地上に帰っちゃう人にはならないようにしましょ!  と、いう事です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ へブル書の引用箇所とともに これだけですよね。  ★ 生まれ変わりなんてしようとしないで  ☆ これは 輪廻転生説によるそれのことではなくて どうやら わたしが 直近の質疑応答で 自然の身体から霊の身体へ移る・つまり 生まれ変わる と言ったことを取り上げておられるのでしょうか?  でも それだと 《天 ないし そこにある故郷》が どういう内容であるのか これは ひとまづ措いて考えるなら とうぜん この《天に還る》というのは 霊の身体として生まれ変わることと 同じ事ですよね?  だとすると いったい どういうことを さとしてくれているのでしょう?  ○ 新しい天と新しい地  ☆ これについては 議論(解釈)があると考えます。  極端に言えば    ○ この地上に・つまりいまの地球に 新しい天と新しい地が成る。そこで とうぜんのごとく あくまで身体をもって 霊の存在として 生まれ変わる。  ☆ という解釈があるでしょう。  このことは 《輪廻転生説は 哲学にとって 主題にはなり得ない》という命題の成立に差し障りは 何もないと考えるのですが どうなのでしょう?  要するに  ▲ 天・天にある故郷  ☆ は 表象すべからざるもの(絶対つまり神)を 表象しうる人間の言葉によって 表わそうとしているのであり それに過ぎない。と考えられます。つまり 比喩であるでしょう。目に見えるものが 希望であるでしょうか? ですから。  要領を得ないままですが このようにご返答をいたします。

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回答No.36

maimai.susです。 ついでに理由四について、精神をめぐる病を持っている人は、みんな、輪廻転生を信じている訳ではないと思いますが。 それを、理由にするなら、ある意味逆に、重大なことですよね。

bragelonne
質問者

お礼

 逆命題を持ち出しても らちは開かないでしょう。

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回答No.35

maimai.susです。 >やはり 論理の無視 対話の無視でしたね。 おっ、ご自分の事を仰っておいでですか? まあ、それはいいとして、例えば質問の中の理由二について、 >生まれ変わりというこの考え方には~自業自得だとなる。それ以外に考えられない。 とありますが、だからと言って哲学的に考える価値がないとは言えないと思います。むしろ、考えるべき点は、前提として考える必要が無いと決めつける事が問題ではないでしょうか。  もう一つ、理由三の話をすると、 私の親戚にはこんな人間がいる。来世を信じていない彼は、どうせいつかは死んで何にも無くなる罪とか迷惑とか関係ない、「やりたいことやらないと損だ」と考えて無茶苦茶やりおる輩がいる。 そうかと思えば、こんな知人もいる。来世を信じているから、より良い来世を迎えるために、今を正しく生きようとする。 そう言う現実を見ると、理由三の理由が、理由にならないとも言えるのではないでしょうか。 と言うより人間の受け取り方や、考え方、行動の問題だと思いますけど。

bragelonne
質問者

お礼

 論理というものが分かるようになってから また 投稿されたし。  部分観で全体観を述べるのが 不当なだけではなく その部分観は わたしの趣旨説明から外れた場合を取り上げているに過ぎません。  よく吟味されたし。

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.34

どうも何が問題なのかよくわかりませんが、 「輪廻転生説は 愚の骨頂」 そのとおりではないでしょうか。 しかし、愚の骨頂は他にもたくさんあるでしょうし、それにいちいち目くじらを立てても仕方ないように思うのですけどね。 輪廻転生説の発祥は知りませんが、これは支配のひとつの手法として重宝されてきたものではないでしょうか。 つまり、ねじ伏せるようにしてしか支配、あるいは統治できない人の伝家の宝刀といった按配です。 では、来し方と行く末を夢想させることによって得られるものとは何でしょうか。 それはおそらく今ある主体(意志)の放棄を促すものだという気がします。 支配者にとってこれほど都合のよいことはありませんしね。 支配者と言っても色々な意味でして、単に他者との関係において支配する立場に立ちたい場合も含んでいます。 さらに言えば、支配されたくないと(深く)思わざるを得ないような人々が、先制攻撃的に他者を支配する必要性を無意識的に発想する場合も含みます。 つまり、一種の防衛機制的要素も含まれているはずです。 精神の弱り・傷つきがそこにはあるでしょう。 弱り傷つく要因となるのではなく、弱り傷ついているという要因によって輪廻転生という幻想に向けて主体を放棄するかの如く身を投げ出すのではないでしょうか。 哲学というよりは宗教的な概念と私は思っていますが、それで救われるのであればそれも良し、ではありませんか? コミュニケーションにおいて、最終的論拠として輪廻転生を持ち出されるとお手上げですが、それはその時に指摘すれば良い訳ですし。 スピリチュアルやら占いやらを本当に信じる人も多いわけですが、そのような人たちに対して一般論として、そんなのは嘘八百だと言っても殆んど効果が無いのと同じでしょう。  

bragelonne
質問者

お礼

 hakobulu さん わたしの投稿を拒否した相手が 訪問してきても 応答しようとは思いません。あしからず お引き取りください。

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