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輪廻転生説は 愚の骨頂

 ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

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  • umaruko
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回答No.52

No.43で回答したものです。ご返事ありがとうございます。前回は質問内容からずれてしまった回答になってしまったので、今回はまともに回答をするつもりです。 >輪廻転生説は 愚の骨頂 に関して私が思うことを書いていきます。 まず、輪廻転生説といいますが最終的に行き着く先は人間が死んだあとの世界はあるのか?それともないのかという話に帰結するものだと考えてます。 そして、現在の西洋哲学では私の知る限り人間の死後に対して明確な回答をした人物はいないと断言できます。(少なくとも根拠を示した人物はいないはずです) そういった意味で西洋哲学における輪廻転生説は誰も証明しておらず、いまだに輪廻転生説を悪用して自分の利にしている人たちを見るのはうんざりです。まさに哲学が取り上げるには値しない主題というよりも、証明も客観的な根拠を示していない主題のうえで何やってんだ!って感じですね。まさに愚の骨頂であるというのは同意です。 次に私が仏教の輪廻転生説を書いた理由として、ある程度の客観的な根拠を示されているということが挙げられます。それはNo.43で書いた 1.キリスト教では死んだ後必ず天国に行くんですよね…。この世よりもずっといい世界なんでしょう。じゃあ、なんで人が死んだときあんなに悲しそうに葬儀に参加するんでしょうか?死んだら天国なんだろ!もっと喜べよ参列者!!今の世界よりいいとこいくんだからバンザイをしろよ!! 2.人が死んだとき冥福を祈るという言葉が贈られます。冥福とは冥土の幸福を祈るってことですよね…。冥土とは死んだ後の世界のこと。(これで死後の世界を信じてますね)しかも幸福を祈る…死んだあとの世界が不幸だから幸福を祈るんですよね?これって死んだあとが不幸になるって思っている証拠になりませんか? という2つの根拠が示されたということにあります。この2つは少なくとも人間は死後の世界があると信じている、かつどうも死んだあとは不幸な世界に行くとわかっているのではないか?というものです。 この2つの謎は輪廻転生が事実であれば、簡単に謎はとけます。 (1)人間は輪廻転生しているがゆえに死後の世界があると無意識下でわかっている。(今までの経験上) (2)今の私たちは過去遠い昔に人間であったときがあって、その時死んだ後地獄に堕ちたという経験を持っている。だから、死んだ人間に対してその人間は地獄に堕ちたということだから、わざわざ冥福、死後の幸福を祈っている。 という説明で謎はOKになるでしょう。 少なくとも私にはこれらの根拠を崩せるような持論がなかったため掲載させていただきました。もし、崩せる方がいたら本当に崩してください、お願いします…。 最後に > たとえ《死後》のことが分からなくても ひとは 生きているうちに 一生懸命に 努力をするのであり 勤勉です。どうして 《死後が無く 未解決の課題が残されるからと言って 道徳が崩れ落ちる》のですか? ただ そういうふうにしか考えられなくなっているあなただけの問題ではないのですか? について。これは中国最大の思想家に対する挑戦そのものですね! http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/71479/67603/50003369 まあ、かいつまんでエピソードを書いていきます。孔子の門弟で最高の人格者であった中国の顔回という人物がいた。しかしその生涯は極貧な生活で、しかも若死にした。 それに対して盗跖(とうせき)という同時代に生きた大泥棒は悪事の限りを尽くしながら、富貴栄華を極めて死んだ。 この事実を前に「善を進んでやれば必ず幸せになれる」と説いた孔子のなすすべはなかった。。。 というお話ですね。つまりこの世で努力しなかった盗跖はこの世で幸せであった。しかしこの世で努力したはずの顔回はこの世で不幸せであったと。。。 この件に関してはどう思いますか?もし完璧な反論をしたいなら少なくとも質問者の方は孔子を超えた思想家にならなければなりませんが…。 ROMに戻るとかいってまた書き込んでしまいました…。今度こそROMに戻ります、失礼しました。

参考URL:
http://www.geocities.co.jp/Bookend/3756/seidan.ingaron.html
bragelonne
質問者

補足

 umaruko さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  では 《孔子を超えた思想家にな》りましょう。  【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】のほうで やり取りがあったのですが 《理由その四》の民主主義の歴史的な進展ということに かかっていると考えます。  社会が 二階建ての構造になったという問題です。国家ですね。その成立の以前と以後とでは 社会生活もしくは人間と人間との交通関係 これが 基本的に 変わった。あたかも地割れを起こし 断層を作ってしまった。それが 二階建ての意味です。一階は スサノヲ市民社会で 二階は アマテラス公民圏です。  例証します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  籠(こ)もよ み籠持ち             堀串(ふくし)もよ み堀串持ち         この丘に 菜 摘(つ)ます児(こ)           家聞かな 名告(の)らさね           そらみつ 大和の国は            おしなべて われこそ居れ           しきなべて われこそ座(ま)せ          われにこそは 告らめ            家をも名をも                  (オホハツセワカタケのすめらみこと〔雄略天皇〕 万葉集 巻一・1番)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このうたは 《本来 春の野遊びの若菜摘みの歌が 雄略物語にとり入れられた一首》で  ▲ 《その際 〔中ほどの三句が〕 挿入された》(中西進:万葉集  全訳注原文付 (一))  ☆ と解説されます。このとき もしそうだとしたら それは 若菜つむスサノヲ市民らの生活圏の間にというか その上部の第二階に 三句のアマテラス公民の視点が突如加えられているのだと推し測られます。であるから そのように二階へ上がったという《アマアガリ》には 民主制の観点からは 疑問が付きまとうというものです。  言いかえると まだ現在も 国家は存続していますし その二階建て構造は 変わっていませんが しかし 主権在民であることに間違いありません。スサノヲ市民主権制ということです。アマテラス公民たちを われわれの税金で食わせてやっているというわけです。  ところが しかも ヨーロッパや あるいは 中国とも違って わが日本は じつは 神話によりますと スサノヲ市民たちは アマテラス公民に 基本的に言って 国ゆづりをしたと言います。その結果 西欧や漢民族の内部およびその周辺民族との間において スサノヲ圏とアマテラス圏とが つまり 上と下とが 回転( revolution )して 権力の当事者が 入れ変わるというわけではなかったようです。  つまり 主権在民制になるまで スサノヲ市民らは ときを待っていたわけです。じっと我慢の子だったわけです。この一事をもって 《未解決問題が 死後に託されるという〈思い込み〉が なくても 道徳実践が止むことはなかった》と考えます。そうして わたしたちは 一般に いちいち 因果応報といった説にまで 持って行って 固定することもないと 考えているのではないでしょうか。  ふつうに勤勉なのです。スサノヲ市民らはです。どれだけ公費着服やら浪費をしても おまえたち しっかりせよとは言いますが ギロチンにかけるところまでは進まないのです。やがて アマテラス公民たちは 人間には ひとりの例外もなく 仏性があるということに目覚めて ひざを折って 懺悔でもするようになる。のではないでしょうか?   いやいや わたしたちも 到らない人間です。ともに ふたたび われらが日本を よき国にしていきましょうと われわれスサノヲらは 答えるでしょう。  この歴史過程に 輪廻転生など なんら 関係ないのです。それぞれ その一生を 精一杯生きて――それにしても 長寿国ぢゃないですか―― 死んでいくだけです。こんなたのしい ゆかいな国は ないでしょう。えっ? まだ そのようには出来あがっていないですって? では そのように作り直していけばいいでしょう。少しづつ 一歩一歩。  新しい天と新しい地が ここに 成るかも知れません。どうですか?  輪廻転生説は 愚の骨頂の理由説明でした。

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noname#96756
noname#96756
回答No.23

いつも懇切丁寧にご教授下さることに心より感謝申し上げます。 寝る前に失礼します。 >転生というのは 不老不死や再生の願望につながっていたのか これに絡み、冬至の日付近にクリスマスを制定したのは何故か、 誰により何の目的のためにそう決められたのか、と考えると。 あながち人々は古来より不老不死や再生の素朴な願望を抱いてきたのかもしれません。 またかつては近現代ほどに医学が進歩を遂げていなかったと諸々の文献から推察できます。 であれば、現代人の抱く「輪廻転生説」と、近現代以前の死亡率の高く短命であった時代の人々の抱くそれへの想いとはまた違った意味合いがあるのかもしれないと思いました。 >わたしなどは 百年の倍 つまり二百年も生きれば それは 《永遠》という時間に相当すると思っているのですが そして そこまでは出来るようになるだろうと思っているのですが その死を迎えれば あとは 考えないという思いでいます。そのあと どうなっているか 知ろうとしないという意味です。 はい、おっしゃる通りでして、わたくしも同様です。 クローンもよもや自身への適用など夢想したことすらありません。 (単純に科学的に興味はありますが) ですが、これもまた、小3の我が子が突然事故で亡くなったとして、いとも容易くクローン人間が誕生するとしたら…とナンセンスを承知で考えると全否定できません。 こと子供のことになると論理的どころか感情が先行してしまうのは我ながら救いようがありません、とほほ。 >開発されないばかりか 退化するのではないか。だとすれば 過剰なほどに開発して来ている欧米の人たちの思考形式に接して 神経回路が 故障を起こす。 なるほど、そういうことだったのですね。よくわかりました。 ありがとうございます。 たしかにそういったことは充分あり得るかと思われます。 そして過剰なほどディベートや対話重視だからこそ、白熱した議論になれど、その後はより相手を知ることが出来た、という意味合いにおいて親密さが増す傾向が経験上あります。 この点、日本とは真逆かもしれません。 bragelonne様は二年ほどこちらのカテで輪廻転生説を何度か拝見なさったとのこと。 逆にわたくしはgoo歴1年、しかも夫婦カテやアンケート・カテで「もうご免です。もう二度と生まれ変わりたくはないです。」という何とも厭世的な考えに幾度となく接してきたので、こちらの質問がとても斬新に感じました。 彼女達は夫との結婚生活、浮気などでかなり苦労を伴い忍んで暮しているかのようで切なく思いました。 わたくしはやはり「輪廻転生説は愚の骨頂」とのスタンスです。 でも、だからといって、「もう二度と生まれ変わりたくはない」と思う方々も、そして「もう一度叶うのなら生まれ変わりたい」と前向きに考え願う方々も、そう考える理由は十分理解できますし、個人的に非難するつもりも権利も全く無いと承知しております。 >因果応報説には 困ります。 >《抵抗を排除しない・つまり 抵抗をする》ので 自業自得説は やはり 採れません。 はい。わたくしも「因果応報説」は極めてナンセンスだと思います。 この因果応報説を社会制度化した顕著な例がくだんのカースト制度などではないでしょうか。 先祖が侯爵の位を得たからといって、子子孫孫までその位を得るというのとは似た論理であり、 同様にかつて歴史上最下層の身分に生まれついた方々は、先祖の因果応報の呪縛から永遠に逃れられない、ということであり、何とも不条理極まりない差別に他ならなかったのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。    ほどよく申し分のない debat になって うれしく思います。  うれしさの反面を ほかの人たちの情況に見たら 次のような愚痴になってしまいました。でも そのままを載せて ご批判にさらします。  でも 思えば こういうことではないでしょうか。つまり――独り言です――たとえば  ★ カースト制度  ☆ について いまごろ とやかく 哲学として問題にすることになるとは おどろきです。どんどん 先へ行きたいところなのに 例によって 減らず口をたたきますが なんとも 遅れているぅーです。  未開発であり退化している感じを深くしてしまいます。いえいえ それでは 効きません。足を引っ張っている。   もっとも これは わたしの独り言です。この質問への訪問者の人たちに向けて語っていますが わたしだけのソリロクです。  考えてみれば――つまり 哲学として あらゆる可能性を捉え 相手に有利に つねに半歩は相手に有利に 考えてみれば―― 輪廻転生を前提とした因果応報説は ぎゃくに きわめてきびしい内面における実践規範に かすかにですが 成り得たかも知れません。  要するに 善因善果・悪因悪果と いっさいのおこないが 決まっているというのなら 自己は 唯一で最終の法廷であるという意味になります。自己審判を つねに おこなっているという実践規範になり得ます。  たぶん 過去世や未来世を持ち出してくるので おかしな論理が 別様に 引き出されてしまうのでしょう。  ○ あのとき 江戸の町で おまえは おれを ゆえもなく 斬った。その因果が きょう おまえを殺すというおれの行為となって 現われる。覚悟しろ。  ☆ という発言が きわめて論理的であると その人間の主観の中においては 通るということを 輪廻転生派は 認めなければならなくなります。それを はっきりさせることすら出来ないで 哲学として 議論が出来るというのは 能力の未開発であり 退化であり 足の引っ張りです。死んでいるも 同然です。死者が のろいつづけているその姿であるにほかなりません。  これも 独り言です。この場を借りてしまいました。人びとは 見よ。精神の緑野を。  つぎは このわたしにして 文学の問題としてです。  ▲ (イザヤ書65:17-25) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  見よ わたしは新しい天と 新しい地とを創造する。   先のことは覚えられることなく 心に思い起こすことはない。  しかし あなたがたはわたしの創造するものにより  とこしえに楽しみ 喜びを得よ。  見よ わたしはエルサレムをつくって喜びとし その民を楽しみとする。  わたしはエルサレムを喜び わが民を楽しむ。  泣く声と叫ぶ声はふたたびその中に聞こえることはない。  わづか数日で死ぬみどりごと おのが命の日を満たさない老人とは もはやその中にはいない。  百歳で死ぬ者は なお若いとせられ 百歳で死ぬ者は のろわれた罪びととされる。  かれらは家を建てて それに住み ぶどう畑を作って その実を食べる。  かれらが建てる所に ほかの人は住まず かれらが植えるものは ほかの人が食べない。  わが民の命は 木の命のようになり わが選んだ者は その手のわざが長く楽しむからである。  かれらの勤労はむだではなく その生むところの子らは災いにかからない。  かれらは主に祝福された者のすえであって その子らも かれらと共におるからである。  かれらが呼ばない先に わたしは答え かれらがなお語っているときに わたしは聞く。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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noname#117439
noname#117439
回答No.22

オコリザルです。 bragelonneさんにはA21の内容はご理解いただけるでしょうが、初心者向けの補足です。 >そして他者と交わる場合、たとえばbragelonneさんは私より年上ですが、年の若い私がbragelonneさんの話を聞く場合に、勿体つけた人生論じゃなくても、bragelonneさんの人生経験に思いをはせる必要があります。 この内「人生経験に思いをはせる必要があります。」は、bragelonneさんが、その言質に現れた経験をつんだ瞬間を共有する必要のことです。 歴史に学ぶ必要と同質です。 誰もがこの瞬間しか存在しているとは言い得ない。しかし聞き手として過去を語るならば、理解するためにはその瞬間にも立ち会う必要がある。 そのような論理です。 少し戻ります。 >しかし聞き手として過去を語るならば、 ヘンな日本語ですね。わかりやすく自他を分けない感覚を報せるためにボケをかましたんです。 その過去の瞬間に別の経験をせず共感する作用を確認するならば日本語でこのような言い回しになります。 それでも、自らはわかりますから「慈」のお友達とは区別がつきますのでご安心ください。 この点は、 >それならば、時間の感覚を掌握しているならば、、、、 コレの現われです。 その後に続く、 >それは生まれる前のあの世についての物語か、又は前世の幻想です。 ようするにコレを、人それぞれの形で何かしか持っているのでしょう。 私の場合それは物語ではなく非思考です。 ですから現れていませんが、輪廻の物語を信仰する人はソレに思いをはせるでしょう。そのように輪廻が必要ならば、まあ、いいじゃないかというのが私の論理です。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。だいたい 前回のやり取りで お伝えし得たかと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >それは生まれる前のあの世についての物語か、又は前世の幻想です。  ようするにコレを、人それぞれの形で何かしか持っているのでしょう。  私の場合それは物語ではなく非思考です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (1) このいま・ここのわたしが生きている経験世界を離れた時空間について どういう想像を持っていようが それは 哲学のあつかう問題ではない。これが 質問の基軸です。  (2) それは 想像の産物としての物語です。  (3) それを 証明のしようがないのをいいことに 根拠がないというだけではなく 《無根拠》として 信じるの対象に持ち出そうとしています。  (4) ところが その想像の物語は それじしんは 《非思考》ではありません。  (5) その奥の《根本原因》もしくは《なぞのなにものか(無根拠)》なら 信じるの対象になり得ます。  ですから  ★ ですから現れていませんが、輪廻の物語を信仰する人はソレに思いをはせるでしょう。  ☆ この一文にも 信仰と哲学と文学表現と 三つが ごっちゃになって表現されていますね。とわたしは 見ますよ。どうでしょう。

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noname#117439
noname#117439
回答No.21

オコリザルです。 私の輪廻転生を肯定する論理です。 生まれ変わりたい人にはむしろ否定する論理ですが、私は過去生の物語を持つ人を別段攻撃する意図はないんですよ。 誰もが現在を生きている。 要するに人は今この瞬間しか認識できない。 しかし自らも歩んできた道のりがある。 そこに人生の連続した記憶がある。 そして他者と交わる場合、たとえばbragelonneさんは私より年上ですが、年の若い私がbragelonneさんの話を聞く場合に、勿体つけた人生論じゃなくても、bragelonneさんの人生経験に思いをはせる必要があります。エートスってのはそうやって認識するんじゃないですか。そうすると自分がこの世に生を受けていない時間を想定する必要があります。 そうして自分がこの世に生を受けていない時間がありありと想像できるとしましょう。 それならば、時間の感覚を掌握しているならば、それは生まれる前のあの世についての物語か、又は前世の幻想です。 エートスというならばイデア界と結びついたあの世の物語ですけどね。 他者と交流し異なる人生を理解するならば、理解しきるまでそのように自らは空白である時間について輪廻の概念にお世話になることになります。この場合理解するのをあくまでも他者に設定した錯乱が自分不在であり「慈」に現れる居もしないお友達です。理解するのは交流のある他者でなく自分自身です。 そして、自らの存在がわかると、実は自他を分ける必要がなくなります。 その伝心現象(古くはデーモン現象)をうまく説明できませんが、まあ、そんなモンです。 おのおのが独自に持つ前世の物語はどうでもいいことです。 信仰形態もどうでもいいガラクタです。 それでも必要です。 別に前世があるから馬鹿丸出しになるのではなく他の根本原因を追究すべきです。

bragelonne
質問者

補足

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。正直申せば ご議論が あっちこっちに飛んでいると思いました。あっちこっちというのは (1)哲学ないし経験思想――ふつうの生活態度のことですね――と (2)信仰もしくは信仰まがいの領域と (3)いわゆる宗教の教義もしくはそれに相当する教説=つまりこれを 哲学のあつかう対象として捉えた場合とです。  ★ 輪廻転生を肯定する論理  ☆ まづ  ★ 輪廻転生を肯定する  ☆ とは どういうことか。結論に飛びますが これは 肯定するにせよ否定するにせよ その証明は出来ません。つまり 意味がありません。  こういう場合に――つまり 肯定も否定もできないという場合に――それでも意味が出てくるというのは 信仰として 打ち出す場合です。言いかえると 肯定するにせよ否定するにせよ その判断に《根拠がない》と明らかにしている場合です。同じく言いかえると 要するに 《信仰の対象》を 《無根拠》であると想定する場合です。  つまり 経験的な対象ではなくなり つまり 非対象であり 非思考だとなります。これは 信教・良心の自由という人間にとっての公理につながるところの《信じる》という行為です。  ところが 《生まれ変わり》という事態は 経験的なことがらです。つまり これを《信じる》わけには行きません。  つまり 輪廻転生説は 信仰ではなく 人間が想像した物語です。仮りに《信じる》という行為が伴なわれていたとすれば それは 《生まれ変わるという経験事態の さらに奥の なぞのなにものか(つまり 無根拠)》になります。  ★ 別に前世があるから馬鹿丸出しになるのではなく他の根本原因を追究すべきです。  ☆ もしそうでなければ 輪廻転生という《想像の産物》は きわめてあいまいな位置づけを受けなければならないしろものだと言わざるを得ません。  その《論理》として  ★ 生まれ変わりたい人にはむしろ否定する論理ですが、私は過去生の物語を持つ人を別段攻撃する意図はないんですよ。  ☆ が まづ 挙げられています。ですから ただちに結論ですが  このように過去の生なり未来の生なりを想像することは けっきょく 哲学のあつかう問題であり得ず 文学表現だけの問題だということになります。おもしろおかしく表現すれば その印象は さまざまであるというたぐいの文学の問題です。趣味嗜好としてこれが好きだあれが嫌いだと言って 同好会を作っているという性質の問題です。  つまり 哲学ではないと はっきりさせなければいけません。  この質問は ただ そのことのみを問うています。尾ひれはついてくるでしょうが それが 基軸となっています。  ★ 過去生の物語を持つ人を別段攻撃する意図はないんですよ。  ☆ ということは (a)文学領域で 想像をたくましくしてくださいという意味と (b)哲学として 答えがただちに出なくても 主題をめぐって きちんと 議論や問い求めのための交通整理をしておくといういとなみにとっては お呼びではありませんという意味とが ある。というのが わたしの受け答えになります。    あとにも ご回答をもらっているようですので 積み残しは そのときいっしょに ご返事を差し上げたいと思います。  * ですから   ★ ・・・エートスってのはそうやって認識するんじゃないですか。そうすると自分がこの世に生を受けていない時間を想定する必要があります。  ☆ という想定は 意味がない――つまり 意味があるとも ないとも ついぞ 決まらない――領域ですね。エートスは この経験世界のこととして あつかうものと思いますが いかがでしょう。

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noname#130082
noname#130082
回答No.20

哲学にも宗教にも素人なので、わかりませんが、一部分だけ。 理由その一 一般的には分かりませんが、お釈迦様の生まれ変わり、という言葉をたまに聞きます。しかし、そんな人がいたら大変だと思います。お釈迦様は解脱したのだから生まれ変わることはない、と理解しています。それが嘘で生まれ変わってしまったとしたら、世界に謝罪しないといけなくなります。 その三 仏教の輪廻転生の考えは、元はバラモン教の教えで、それが一般的に信じられていたのが取り入れられたと聞いています。 とすると、これはカースト制度とも密接な関係があるのでカーストなしの生まれ変わりの話に意味があるかどうか? やり直しどころか、今生の努力によって来世に(人間に生まれ変わるとしても)どのカーストに生まれるかが左右されるわけですから、努力放棄どころではないと思います。今生だけでなく来世のための努力もしなければいけないわけですから。

bragelonne
質問者

お礼

 taparon さん ご回答をありがとうございます。  これは いいことをお聞きしました。  ★ お釈迦様は解脱したのだから生まれ変わることはない、と理解しています。  ☆ わたしも   ☆☆ (No.1補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  仏教では この  ○ 輪廻転生を断ち切る  ☆ ことこそが 目指す境涯だと聞きます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と書いたのですが まったく このことがらが 人びとのあいだには 抜けていますよね。  《いっさいが 自業自得》説 これも 抜け落ちていると思います。勝手に 都合のよい部分だけを 受け取っているのでしょうか。哲学の風上にもおけないでしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  やり直しどころか、今生の努力によって来世に(人間に生まれ変わるとしても)どのカーストに生まれるかが左右されるわけですから、努力放棄どころではないと思います。  今生だけでなく来世のための努力もしなければいけないわけですから。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この点についても 同じようですよね。ここには 二点 事項がありますね。  ○ やり直しのための来生ではあり得ないと知るべきこと。  ○ ★ これはカースト制度とも密接な関係があるのでカーストなしの生まれ変わりの話に意味があるかどうか? = ☆ 民主主義の進展にかかわること。  つまり そういうふうに人生を 前世から今世 今世から来世へとつなげて捉える宗教物語は 人間の努力が報われるとは限らない社会的な情況が あまりにも圧倒的に 人びとの心に覆いかぶさっていたときにこそ せめてものなぐさめに 止むを得ず 迎え入れられたと考えられることです。  どうやら 真実が 明らかになってきたように思います。お礼を申し上げます。ありがとうございました。

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noname#96756
noname#96756
回答No.19

bragelonne様、こんばんは。 「輪廻転生説は 愚の骨頂」とわたくしは思います。 それは、bragelonne様のご主張もさることながら、現代においてクローン技術の研究などにより、「生まれ変わり」ともいうべき生命体が生み出されるところまできている事情からです。 わたくしは、不妊治療を長く経験したので、どうしても「科学」の有難味を忘れることが出来ません。 科学や科学の持つ合理性や有用性をネガティヴに認識するつもりは全くありません。 ただし、クローンによる新たな生命体が「過去世からの~」という意味合いに相応しいかどうか、はなはだ疑問ではあります。 オリジナルの生命体のクローンは如何に身体的特徴が類似していても、それはオリジナルの存在生存有無に限らず別個のものと捉えるべきなのかもしれません。 それに身体がクローンであっても、脳の記憶まではクローンされるのでしょうか。 bragelonne様が愚の骨頂とおっしゃる「輪廻転生説」はそれを信じたい人々の抱く願望であり、社会的道徳に反する行為を予め未然に防ぐ、もしくは犯罪者の家族などに対し、二次的副次的な社会的な制裁を加えるための「真理ではない漠然としたオカルト風味な倫理感・正義感」に過ぎないと思います。 一種の厭世主義的なルサンチマンとも言えるのではないでしょうか。 ですが【理由その四】において、 >現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。 「安易な考えを持つなら努力とそのための能力が萎える」から「精神をめぐる病が現れるのではないか」がうまく繋がりません。 後者は脳器質によるところが多いのではないかと思うのですが、これに関してはまったくの門外漢なので反駁するつもりもございません。

bragelonne
質問者

補足

 mashumaro2 さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ご賛同のご投稿は 初めてです。  ★ クローン  ☆ ですか。これをお聞きして思ったのは こうでした。つまり 転生というのは 不老不死や再生の願望につながっていたのかというもので これは どうしたことか わたしにとって 意外でした。初めての気づきです。  どうしてか 考えてみたのですが たぶん この質疑応答の場で――わたしは この哲学カテゴリで 実質的に 二年間くらいですが―― 《死のこわさ》とそして《生きる意味》についての質問を見てきたからだろうかと思いました。数として何件あったか 覚えていませんが その投稿数や議論する内容からすれば ひとりの人間の生命が永遠につづくということを思っているとは 気づかなかったですね。またそのように生きたいという願いが 間接的にでも語られていたとは思わなかったのです。  あるいは たしかに この輪廻転生の主題は しきりに 質問に持ち出されて来ています。ただ たいていは 宇宙がどうの あるいは 魂がこうのと 適当に 物語っているというふうに受け取って来ました。  つまりは 《理由その三》で言う《生まれ変わってのやり直し》という主題も こんどやっと聞かされたことだったのです。  わたしなどは 百年の倍 つまり二百年も生きれば それは 《永遠》という時間に相当すると思っているのですが そして そこまでは 出来るようになるだろうと思っているのですが その死を迎えれば あとは 考えないという思いでいます。そのあと どうなっているか 知ろうとしないという意味です。そして  ★ 科学の有り難味  ☆ と言えば この 《人生二百年が常識》論になりますね。(そういう意味でも 個人的には クローンには 関心がありません)。  ★ 【理由その四】において・・・「安易な考えを持つなら努力とそのための能力が萎える」から「精神をめぐる病が現れるのではないか」がうまく繋がりません。  ☆ これはですね。この限りあるただひとつの人生において 努力を半ば放棄して 次の生まれ変わりの人生のほうへ先送りするとすれば そのときには とうぜん しかるべき努力を怠ることになる。努力を怠るなら そのための能力じたいが ないがしろにされる。人間の能力や器官は 使わなければ退化すると思われるのです。  mashumaro2 さんもおっしゃっていたと思いますが 考えるということ・論理的に頭を使うということ その方面を使い慣らさないなら その能力は開発されないでしょう。しかも わたしは思うのですが 開発されないばかりか 退化するのではないか。だとすれば 過剰なほどに開発して来ている欧米の人たちの思考形式に接して 神経回路が 故障を起こす。ということではないか。こういう推論です。  ちなみに 器質による障害は この場合には 別としています。器質によらないところの精神の病いは 思考能力の使い無さ過ぎにあるのではないか。むろん 素人の見立てです。  民主主義といった時代の違いを挙げたのは そうでなかったときには 社会の動きや流れに従っていれば よかったかも知れないからです。  あとは どうしても 因果応報説には 困ります。あるいは ぎゃくに むしろ いっさいは 自業自得という理論を そのまま 実践してくれれば かえって 《ゆづる》という社会的な交通形式は 実現するかも知れません。自己責任を旨としているからなのでしょう。  つまりは どんな被害を受けても それは 自業自得だと認識し したがって あたかも《左のほほをも向ける》のと同じように 相手の所為には一切しないというものです。わたしの場合には 《抵抗を排除しない・つまり 抵抗をする》ので 自業自得説は やはり 採れません。  こんなところでしょうか。ありがとうございました。

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noname#91067
noname#91067
回答No.18

私も脳の安易さから嘘をつきました。遅いが反省します。 【訂正:輪廻転生は安易は頭の使い方であること!】としてください。 この証明は簡単で、輪廻転生して遣り残したことを後悔し、改心しようと欲望を持って生まれなおす、というのは本来転倒で「初めに欲望があって人生を生かしたくなる」というのが順序で、欲望は死後でもやり遂げられるなら(他に希望を託せたりして)死んで気の毒な対象とならずに前世を後悔することはないのです。 因みに虐めやレイプなどで被害妄想から逃れられないというのも、加害者が謝罪しても罪を忘れて悩まず再犯してしまうのと同じ自己保存の作用です。

bragelonne
質問者

お礼

 miko-desi さん ご回答をありがとうございます。  要するに こうでしょうか?   ○ もし 生まれ変わるのであれば 何度でも やり直しが効くのだから 後悔したり 悩んだりすることはなくなる。  ○ ただし 何もかもを 先送りしつづけるという結果にもなる。  ○ 必ずしも そうするのでもないところを見ると ひとは どうでもよい形で その説を抱いているにすぎない。  ○ すべてが 中途半端である。

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noname#91067
noname#91067
回答No.17

>分かりきっていることについては それは まちがいだと はっきりさせておかねばいけないのではないでしょうか?  誰もが分かりきっていることですが、敢えて心を鬼にして書かなければならないようです。 散々苦労し投資して獲得した経験や知識を簡単に手放すのは惜しいです。愛着が沸いて、知るほどに緻密さに乾き、発見することには充分執着してきたものだから。 それを覆されると「どうでもいい人」「欲深さもただの凡人」になってしまうから必死で嘘を(輪廻転生は安易な頭の使い方であること)否定するのです。

bragelonne
質問者

お礼

 miko-desi さん ご回答をありがとうございます。  要するに 阿呆ってことですか?  それは 自由なのですが ただし 哲学の看板は降ろさねばならないでしょうね。  ★ 分かりきっていること  ☆ には  ★ 敢えて心を鬼にする  ☆ 必要はないはづですよ。一瞬のうちに あやまつなら 我れありとならねば 人間のもぐりです。哲学以前です。  ○ 板垣死すとも 自由は死せず。  ☆ と 一回きりの人生として 言ったから とうといのでしょう。  さくらは 日本の花だなどと 一方で 輪廻転生を抱きながら よくも 言ったものです。いさぎよさも こころも 論理もあったものぢゃないです。  ひょっとして 輪廻転生派は ただ人間のお面をかぶっているだけの存在なのでしょうか?   安易な頭の使い方であるにとどまらないところが 問題です。ふつうに しっかりと 頭を使う状態でなくなるからこそ 病いとやらが 生じて来ます。(他人の病いの状態を 一身に引き受けるという場合は あります。要するに アースをしてくるから これを 全人格で 受けとめてやるというあらわざです)。  ふつうに 自然本性として 使っていいものを ほったらかしにしておくなら むろん 退化して来ます。哲学のひんこん これこそ 自業自得ですよ。ね miko-desi さん。  こんど 輪廻転生の質問が出たら この質疑応答を ただちに 貼ってやらねば。果たして そういう人間たちは さしづめ 縄文人なのでしょうか? 心を尽くし 知恵を尽くし 知識を尽くして 指摘してやらねばいけません。めざめましょう。このめざまし運動に ぜひ 参加してくださいませ。

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noname#91067
noname#91067
回答No.16

「それが人生というものだからです」「これが愛なのです」人生相談ならこの程度で片付けられます。が、宇宙レベル、巨視的に長期的なことの相談は「人生」や思想だけで語れません。 輪廻転生がミクロとか安易な考え方かどうか科学でも倫理でも判断材料が少ないので分からない無数にある可能性の一つとして保留です。でもちょっとだけ言い逃げします。 現実に地球を破壊する程の知力と武力を持った人類ですが、それほどの能力も今日の食料調達や調理法について、子育て、子作りの才覚(?)で悩める子羊が殆どで、地球の立場になってまで悩めず暮らしている乗り物地球号です。 地球温暖化や氷河期や大陸の移動説、地球を爆破しても自業自得で、地球を核で一瞬に破壊してもどっかで転生するのか? 科学は思想の裏を取れるほど情や節操がない、無謀なので(勇敢ならいいけど)発展すべきではなかったのかもしれない。

bragelonne
質問者

お礼

 miko-desi さん ご回答をありがとうございます。  ★ 宇宙レベル、巨視的に長期的なこと  ☆ は おっしゃるように どうでもよいと考えます。  ★ 今日の食料調達や調理法について、子育て、子作りの才覚(?)で悩める子羊が殆どで、地球の立場になってまで悩めず暮らしている乗り物地球号です。  ☆ ので せめて 分かりきっていることについては それは まちがいだと はっきりさせておかねばいけないのではないでしょうか? その上で わたしは 輪廻転生が好きだという同好会を開こうが アニメにいくら描こうが(これも あまり お勧めできませんが) まづは 一向に 問いません。  けれども  ★ 輪廻転生がミクロとか安易な考え方  ☆ です。《ミクロ》かどうか知りませんが きわめて《安易な考え方》であるに決まっているぢゃありませんか。  ★ 地球温暖化や氷河期や大陸の移動説、地球を爆破しても自業自得で、地球を核で一瞬に破壊してもどっかで転生するのか?   ☆ こんなことを言っていないで 前提をはっきりさせてください。結論は出ませんか?  ★ 科学は思想の裏を取れるほど情や節操がない、無謀なので(勇敢ならいいけど)発展すべきではなかったのかもしれない。  ☆ 反省は 反省で いいですけれど いまただちに 明らかなことは 明らかだと言っていくことも 大事であり 案外 おおきな効果があるのぢゃないですか? 

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.15

>>って言われたなら どうですか? 黙して語らず。 「無記」が哲学者の取る態度でしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 ありがとうございました。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.14

☆ たとえば こういう問題は どうなのでしょう?  ○ 次の答えに対して どう答えるのでしょう? (1)――なぜ ひとを殺したのか? 殺しに至るにはそれまでに原因となることがあったからですね。原因結果の連鎖の1結果でしかないと考えます。こういうことが無いように修正をかける、そのひとつが法律や倫理などと考えます。それからの原因結果の連鎖で罪は償える(消す)ことができると考えます。 (2)――前世の業の結果が 現われたのだ。殺されたほうとて 同じである。自業自得である。何も 問題はない。 刑獄の因縁、先祖の因縁、本人の過去世の因縁などといって商売にしている宗教家が巷にはたくさんいますが、この方たちの説にはくみしないですね。当然信じてもおりません。なぜならおぎゃと生まれた子供に罪などないからですね。どのような環境に生まれてもゼロからの出発と考えるからですね。つまり生まれたときから新しい原因結果の連鎖が始まっていると考えています。だから、起きたことはすべて自己責任であると考えます。当然、精神疾患などで罪が逃れられるなどとも考えていません。 (1)と(2)だけでは論理的に説明が不十分ですね。なぜなら罪が消えるという説明があいまいだからですね。 そこで次のように考えます。 (1)人生の途中で人を殺してしまった。だが刑に服してもその方の罪が消えていない。ましてや逃げおおせてしまった。  転生輪廻説では、(2)で生まれてくる子供(前世で殺人を犯したもの)に罪はないとするとおかしいではないかとなりますね。 (1)と(2)の間に刑に服してその方の罪が消えるシステムが存在しないとこれは解決できません。ところが古来よりどの宗教や倫理にもシステムの存在説があるのですね。 つまり「地獄システム」ですね。死んで地獄という場所で刑に服し、ご赦免になったものが新たに生まれてくると考えれば、生まれてくる子供に罪があるわけがないですね。このシステムさえあれば、(1)から(2)は矛盾無く説明できますね。 今世は逃げおおせたとしても来世は地獄、来来世は白紙でがんばれという連鎖であればこれも原因結果の連鎖といえますね。 キリスト教のような煉獄の地獄であればご赦免になって生まれてくることさえ不可能ですから、この考えにもくみしません。 私はめざしの頭や、葬式の塩や墓石や牧師や坊主のたわごとにはくみしませんが証明はできなくとも論理的に考えることはできるといいたいのです。なにが真理なのかを探究するよすがに何であれ制約は設けないと考えているのです。

bragelonne
質問者

お礼

 mmky さん ご回答をありがとうございます。  ですが しっかりと考えてまいりましょう。わたしは 質問者として しきりに 問い返すからいけないと言われています。けっして わたしのほうから 長引かせているわけではないです。  ★ それからの原因結果の連鎖で罪は償える(消す)ことができると考えます。  ☆ いまは 事後処理については 問うていません。ひとを殺しても すべては 因果応報であるから 何の問題もないと答えれば それが 通るということを 認めなければなりませんね?と 問うています。  そのとおりなら そのとおりと ちがうなら これこれの理由で ちがうと 答えるべきです。  ★ ――今世は逃げおおせたとしても来世は地獄、来来世は白紙でがんばれという連鎖であればこれも原因結果の連鎖といえますね。  ☆ ――何を寝ぼけたことを言ってんだい。わたしは 過去世に ひとを百人あやめても まだ残る善因を積んできたのだ。ちょこざいな。輪廻というものを おぬし 知らぬな? もっと勉強してからにせえい。  ★ ――証明はできなくとも論理的に考えることはできるといいたいのです。  ☆ ――何を言ってんだか。わたしの言うほうが 論理的なんだよ。いったい 何を教わって来たんだい?  ★ ――なにが真理なのかを探究するよすがに何であれ制約は設けないと考えているのです。  ☆ ――真理なんて 分かるわけがないぢゃないか。現象にあらわれる事態 これが すべてだ。因果応報ったぁ このことだい。ようく 聞いておきな。分かったかい?  って言われたなら どうですか?

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