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輪廻転生説は 愚の骨頂

 ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

質問者が選んだベストアンサー

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  • umaruko
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回答No.52

No.43で回答したものです。ご返事ありがとうございます。前回は質問内容からずれてしまった回答になってしまったので、今回はまともに回答をするつもりです。 >輪廻転生説は 愚の骨頂 に関して私が思うことを書いていきます。 まず、輪廻転生説といいますが最終的に行き着く先は人間が死んだあとの世界はあるのか?それともないのかという話に帰結するものだと考えてます。 そして、現在の西洋哲学では私の知る限り人間の死後に対して明確な回答をした人物はいないと断言できます。(少なくとも根拠を示した人物はいないはずです) そういった意味で西洋哲学における輪廻転生説は誰も証明しておらず、いまだに輪廻転生説を悪用して自分の利にしている人たちを見るのはうんざりです。まさに哲学が取り上げるには値しない主題というよりも、証明も客観的な根拠を示していない主題のうえで何やってんだ!って感じですね。まさに愚の骨頂であるというのは同意です。 次に私が仏教の輪廻転生説を書いた理由として、ある程度の客観的な根拠を示されているということが挙げられます。それはNo.43で書いた 1.キリスト教では死んだ後必ず天国に行くんですよね…。この世よりもずっといい世界なんでしょう。じゃあ、なんで人が死んだときあんなに悲しそうに葬儀に参加するんでしょうか?死んだら天国なんだろ!もっと喜べよ参列者!!今の世界よりいいとこいくんだからバンザイをしろよ!! 2.人が死んだとき冥福を祈るという言葉が贈られます。冥福とは冥土の幸福を祈るってことですよね…。冥土とは死んだ後の世界のこと。(これで死後の世界を信じてますね)しかも幸福を祈る…死んだあとの世界が不幸だから幸福を祈るんですよね?これって死んだあとが不幸になるって思っている証拠になりませんか? という2つの根拠が示されたということにあります。この2つは少なくとも人間は死後の世界があると信じている、かつどうも死んだあとは不幸な世界に行くとわかっているのではないか?というものです。 この2つの謎は輪廻転生が事実であれば、簡単に謎はとけます。 (1)人間は輪廻転生しているがゆえに死後の世界があると無意識下でわかっている。(今までの経験上) (2)今の私たちは過去遠い昔に人間であったときがあって、その時死んだ後地獄に堕ちたという経験を持っている。だから、死んだ人間に対してその人間は地獄に堕ちたということだから、わざわざ冥福、死後の幸福を祈っている。 という説明で謎はOKになるでしょう。 少なくとも私にはこれらの根拠を崩せるような持論がなかったため掲載させていただきました。もし、崩せる方がいたら本当に崩してください、お願いします…。 最後に > たとえ《死後》のことが分からなくても ひとは 生きているうちに 一生懸命に 努力をするのであり 勤勉です。どうして 《死後が無く 未解決の課題が残されるからと言って 道徳が崩れ落ちる》のですか? ただ そういうふうにしか考えられなくなっているあなただけの問題ではないのですか? について。これは中国最大の思想家に対する挑戦そのものですね! http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/71479/67603/50003369 まあ、かいつまんでエピソードを書いていきます。孔子の門弟で最高の人格者であった中国の顔回という人物がいた。しかしその生涯は極貧な生活で、しかも若死にした。 それに対して盗跖(とうせき)という同時代に生きた大泥棒は悪事の限りを尽くしながら、富貴栄華を極めて死んだ。 この事実を前に「善を進んでやれば必ず幸せになれる」と説いた孔子のなすすべはなかった。。。 というお話ですね。つまりこの世で努力しなかった盗跖はこの世で幸せであった。しかしこの世で努力したはずの顔回はこの世で不幸せであったと。。。 この件に関してはどう思いますか?もし完璧な反論をしたいなら少なくとも質問者の方は孔子を超えた思想家にならなければなりませんが…。 ROMに戻るとかいってまた書き込んでしまいました…。今度こそROMに戻ります、失礼しました。

参考URL:
http://www.geocities.co.jp/Bookend/3756/seidan.ingaron.html
bragelonne
質問者

補足

 umaruko さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  では 《孔子を超えた思想家にな》りましょう。  【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】のほうで やり取りがあったのですが 《理由その四》の民主主義の歴史的な進展ということに かかっていると考えます。  社会が 二階建ての構造になったという問題です。国家ですね。その成立の以前と以後とでは 社会生活もしくは人間と人間との交通関係 これが 基本的に 変わった。あたかも地割れを起こし 断層を作ってしまった。それが 二階建ての意味です。一階は スサノヲ市民社会で 二階は アマテラス公民圏です。  例証します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  籠(こ)もよ み籠持ち             堀串(ふくし)もよ み堀串持ち         この丘に 菜 摘(つ)ます児(こ)           家聞かな 名告(の)らさね           そらみつ 大和の国は            おしなべて われこそ居れ           しきなべて われこそ座(ま)せ          われにこそは 告らめ            家をも名をも                  (オホハツセワカタケのすめらみこと〔雄略天皇〕 万葉集 巻一・1番)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このうたは 《本来 春の野遊びの若菜摘みの歌が 雄略物語にとり入れられた一首》で  ▲ 《その際 〔中ほどの三句が〕 挿入された》(中西進:万葉集  全訳注原文付 (一))  ☆ と解説されます。このとき もしそうだとしたら それは 若菜つむスサノヲ市民らの生活圏の間にというか その上部の第二階に 三句のアマテラス公民の視点が突如加えられているのだと推し測られます。であるから そのように二階へ上がったという《アマアガリ》には 民主制の観点からは 疑問が付きまとうというものです。  言いかえると まだ現在も 国家は存続していますし その二階建て構造は 変わっていませんが しかし 主権在民であることに間違いありません。スサノヲ市民主権制ということです。アマテラス公民たちを われわれの税金で食わせてやっているというわけです。  ところが しかも ヨーロッパや あるいは 中国とも違って わが日本は じつは 神話によりますと スサノヲ市民たちは アマテラス公民に 基本的に言って 国ゆづりをしたと言います。その結果 西欧や漢民族の内部およびその周辺民族との間において スサノヲ圏とアマテラス圏とが つまり 上と下とが 回転( revolution )して 権力の当事者が 入れ変わるというわけではなかったようです。  つまり 主権在民制になるまで スサノヲ市民らは ときを待っていたわけです。じっと我慢の子だったわけです。この一事をもって 《未解決問題が 死後に託されるという〈思い込み〉が なくても 道徳実践が止むことはなかった》と考えます。そうして わたしたちは 一般に いちいち 因果応報といった説にまで 持って行って 固定することもないと 考えているのではないでしょうか。  ふつうに勤勉なのです。スサノヲ市民らはです。どれだけ公費着服やら浪費をしても おまえたち しっかりせよとは言いますが ギロチンにかけるところまでは進まないのです。やがて アマテラス公民たちは 人間には ひとりの例外もなく 仏性があるということに目覚めて ひざを折って 懺悔でもするようになる。のではないでしょうか?   いやいや わたしたちも 到らない人間です。ともに ふたたび われらが日本を よき国にしていきましょうと われわれスサノヲらは 答えるでしょう。  この歴史過程に 輪廻転生など なんら 関係ないのです。それぞれ その一生を 精一杯生きて――それにしても 長寿国ぢゃないですか―― 死んでいくだけです。こんなたのしい ゆかいな国は ないでしょう。えっ? まだ そのようには出来あがっていないですって? では そのように作り直していけばいいでしょう。少しづつ 一歩一歩。  新しい天と新しい地が ここに 成るかも知れません。どうですか?  輪廻転生説は 愚の骨頂の理由説明でした。

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その他の回答 (113)

回答No.94

maimai.susです。 >みんな敵でいいんだよ。 んーん、確かにみんな敵でも良いですけどね。 だけど何かをしようと考えるなら、みんな味方の方がいいよね。 ってか、そんな話してないし。 偏食の子供みたいな事、言われてもネ。 何度も言ってますが、僕、敵じゃあないし、そんな事は、考えていません。 それに、輪廻転生、因果応報、カルマ、法則的な側面を重視すれば、形や正・誤、有る無いは別として、非常に興味深く、哲学が取り上げるには、値しない主題とは言い切れないと思いますがね。

bragelonne
質問者

お礼

                 

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回答No.93

一口に「輪廻転生」といっても、その強度と概念が、個々によって異なっています。 概念的には 1.一つの魂から一つの魂へ 2.複数の魂から一つの魂へ 3.一つの魂から複数の魂へ 4.複数の魂から複数の魂へ です。 これは、たとえば、複数の細胞、複数の器官、複数の脳機能コラムから構成される「わたし」という人間の物質的側面から類推するだけでも浮かんでくる概念です。 因果応報・因縁にしても、 1.個から個へ 2.個から全体へ 3.全体から個へ 4.全体から全体へ といった概念があり得ます。 これら概念の相違は、着目する「もの」にて変化し得ますし、状況によって左右され得ます。 bragelonne様は、輪廻転生については「1」を、因果応報については「1」を中心概念として捉えておられるように思っておりますが、いかがでしょうか? 私の回答は、上記すべてのパターンを含めて考えております。

bragelonne
質問者

お礼

 k_jinen さん ご回答をありがとうございます。  ですが ますます 奇奇怪怪なご議論になってきましたね。言いかえると 文学物語ですね。スピリチュアルとも言うのでしょう。  ▲ (ヰキぺ:転生) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E7%94%9F  転生(てんせい, てんしょう)とは、   死後に別の存在として生まれ変わること。   肉体・記憶・人格などの同一性が保たれないことから復活と区別される。また一部の宗教では再生とも言われる。   転生する前の生活のことを前世、転生した後の生活のことを来世と言う。  輪廻のように   人間は動物を含めた広い範囲で転生すると主張する説と、人間は人間にしか転生しないという説がある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たしかに  ▲ 肉体・記憶・人格などの同一性が保たれない  ☆ と聞けば おっしゃるように 一個の人間存在であったわたしが 宇宙の存在やものごとに いかようにも 生まれ変わり得ると言っているように見えますが たぶん そうではないでしょう。  《わたし》の《同一性が保たれない》という意味は 断絶しているということを言っているのではないですか? 断絶しているだけであって やはり わたしの生まれ変わりである。ということではないですか?  それが証拠に 今世では 身分の賎しいカーストに生まれたが 来世では もっと上の身分に生まれ変わるのだと思い込むのが この思想まがいの説でしょう。  そこに 因果応報説を組み込みこませば 今世では そのためにこそ 善行を積むのだと言うわけであろうからです。  断絶しているだけであって 一個の超越的存在としての《わたし》なのです。  また このように また おっしゃるように 《わたし》の生まれ変わりという部分のみを ここでは 問題にしています。そのほかは 三文小説ですから ご自由にと申し上げておきます。(ちなみに 物質が そのまま 残りつづけるというのは それとしての 経験事実であるでしょう)。  あらためて 質問にお答えいただけるでしょうか。

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.92

久々に横やりを入れます。 質問者さんの様な性格の方は人口の0.5~2.5%位いるのだそうです。 そう言う方達の特徴は: ・『完全に良いもの(自分を肯定するもの)』が自分の内面に投影され、『完全に悪いもの(自分を否定するもの)』が外部世界に投影されるので、『自分の信念や考えは絶対に正しい』という認知の歪みがある。 ・自分の都合の良いように現実と他者を解釈するので、一般に、この性格の人は融通が効かず傲慢不遜な人物と見なされる傾向がある。 ・自分の能力や信念の影響力を実際以上のものと錯覚して、傲慢不遜な態度を取り他者の価値の引き下げをしようとする。 ・他者に理解することが困難な哲学を開示する孤高の思想家(多分これが一番質問者さんに合った形容かな)。 ・頭ごなしに『あなたの考えていることや主張していることは間違っている』と糾弾すれば、この性格の人は敵意と反発を強めて相手を何とか論駁し逆襲しようとする。 ・『理性的な思考・論理的な筋道・客観的な根拠』が通用しないことが多く、具体的な証拠をもとに丁寧に現実状況を説明しても、『理屈を並べて自分のことを陥れようとしている』という強い猜疑心を見せる。 ・他者との人間関係では『現実社会の認知』を共有しないと円滑なコミュニケーションが成立しないので、この性格の人は『客観具体的な根拠』を挙げて自分の観念を打ち壊そうとする他者がいると、神経過敏に反応してその他者を攻撃しようとする。 ・この性格の人が一番嫌って抵抗するのは『自分の意見に対する反対意見』であり『自尊心を傷つける侮辱的な言動』であり、他人が自分に批判的な態度を取ると、急に「名誉毀損だ!」などと捲し立てたりして、攻撃的で好戦的な対応に変わるという特徴がある。 以上。 このような性格な人に接する場合には、相手の攻撃や迫害に対して反撃しようと身構えている過度の緊張を和らげて、心身を共にリラックスさせて上げる必要がある。現実を正しく認識できない性格を適応的に変容させるためには、『信頼感』を高める共感的コミュニケーションを心がけながら、段階的にその人の考えている内容を批判的に検証していく必要がある。この性格の人は『親密さや信頼感』に対して非常に懐疑的であり否定的ですが、その人の考えている内容をある程度受け容れながら、『現実的で適応的な認知(考え方)とは何か?』という根本問題について一緒に粘り強く考えていくことが効果的なのだそうです。 回答者の中には、それを実行できている方も何人か居られるようでしたが、残念ながら、私はそのような訓練を受けておりませんので、ときどき茶々を入れるのが精一杯です。 未熟者の私故、質問者さんを誤解だらけ、間違いだらけの目で見ていることは重々承知しているのですが、そんな未熟者には、孤高な哲学者であられる質問さんがそのように見えているという事実は、どのような筋道のたった論理を開示して下さっても、否定の出来ない事実です。世間では私のような狂った見方をして誤解している者もいると言うことを知っていれば、質問さんの哲学がより力強い物になるかも知れないと言う老婆心と思って、こんな未熟者の意見も出来たら参考にして下さい。 私は議論に参加する気が在りませんので、またまた敵前逃亡と「お罵り」下さい。悪しからず。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 世間では私のような狂った見方をして誤解している者もいると言うことを知っていれば、質問さんの哲学がより力強い物になるかも知れないと言う老婆心と思って、こんな未熟者の意見も出来たら参考にして下さい。  ☆ 残念ながら 相手にしていない。  理由は 石ころと同じだから。相手にするも しないも ない。意志であれば いいのぢゃがのお。

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回答No.91

ぽこぺろぽであります。ご無沙汰をしておりましたのは、二度目の蟄居を命じられたからであります。この兵隊やくざのぽこぺろぽは、輪廻転生を果たすべきか迷っております。  さて、そうですね。命が幾つもあると考えることは慰めというよりは、堕落の要素が遥かに強いと考えるようになりました。こう申しますのも、私がそうして逃げ道を作ることで、自堕落な生活を送っているからです。  死後にわれわれの魂がどこに行くかはわかりませんが、今生においてわれわれは多くの出会いを経験し、神を媒介してその経験を分かち合っているのかもしれません。私があなたに意識を寄せる時、あなたの意識が呼応したなら、あなたの人生を肯定することで、その思念において、あなたの人生をも生きることができるのかもしれません。  そう考えたら、輪廻転生とは逃げでしょうね。私が輪廻転生にシンパシーを抱いておりましたのは、すべてを悟るには人生はあまりに短いと考えたからです。思えばすべてを悟る必要はありませんね。われわれは世界の一部、大いなる全体の部分にすぎないのですから。  輪廻転生が努力の成果でもないかぎり、人心を堕落させ、克己心をそぐことになるやもしれませんね。哲学で取り上げるには、あまりに荒唐無稽なテーゼ?かもしれません。私の主体的意志決定に役立つものこそ哲学です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  筋が通っていますね。とおもいます。  三つ目の段落――《わたし》が ひとの人生を生きるという表現 これは あいまいだと考えます。  問題は 存在を愛し 欠陥を憎むことでしょうね。  存在を愛し 思想や行動の欠陥を憎むのであって 欠陥ゆえに存在を憎むべきではなく 存在ゆえに欠陥を愛すべきではないという命題です。  存在は 特には 意志とその自由でしょうね。欠陥というのは 意志による自己表現・その現われた形態について 言うのだと思います。  また 存在は 意識するしないにかかわらず 《いま・ここなる そのひと》のことです。  直後のご投稿にかんして わたしは 石ころだと見なしていますが 存在は愛していますので そういう表現で 応答しています。  さらにちなんで言えば 無視する以外に 存在を愛するすべがないと思われる自己表現もあると このところ 知って来ています。すべてのひとを納得させることは出来ないという仮説です。(たぶん 別のひとが 納得させることは ありうるでしょうかね)。  さらに お互い 一歩をすすめられれば よいでしょうね。

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回答No.90

こんな簡単なことが理解できないようでは話にならない。 まだ理解できないということが本当に信じられない。本当に。。 ↓もう1回書き直すので、頑張って読んでみて。 原因と結果、殺人するものとされるものを混同してはダメ。 行為=原因で、苦楽=結果です。 殺された人にとっては、苦であり、過去の悪業の報いを受けたのであり、 殺した人にとっては、殺人という悪業であり、将来その報いを受けることになる。         過去     殺人     未来 殺された人:悪業―――苦 殺した人  :       悪業―――苦 この横線(―――)でつながる、っていうことが業報思想です。 ね?業と報いがつながっているでしょう? 過去とか未来は、一生のうちに収まるとは限らなくて、過去世や来世である可能性もある。 これなら分かるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~          過去   殺人  殺された人:悪業―――苦  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この部分だけをとっても きわめてえげつない思想であり 議論になっているのですよ。  秋葉原で通り魔に殺された人びとも 地下鉄でサリンにやられた人びとも 広島も長崎も アウシュヴヰ゛ッツも すべて 殺された人びとは みな 例外なく 過去の悪業による結果として 自業自得なんだよと語っていることになりますよ。それでいいのですか。

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回答No.89

maimai.susです。 横やり入れてすいません。 jugemjugemさんの言っている事に、 >わざわざ 掲げるべきやり取りではなくなっています。 本当にそれでいいんですか? もしそうであるならば、この質問の半分は無意味になってしまうと思いますよ。 質問の内容は、哲学が取り上げるには、値しない主題ではないでしょうか?を主としており、bragelonneさんは、その理由を4つ挙げていますが、そうであるならば、反対に哲学が取り上げるには、値すると考えると言う見方も、きちんと理解しないと、公平な判断にはならないのではないでしょうか。 今の状態は、その片方を、無視する方になると思います。 っつーか、聞く気も、理解する気も無いと言ってるようなものですよ。 そう言う姿勢では、賛同する人間より、傍観もしくは、無視する人間の方が圧倒的に多いと言う状態になり、あまり意味のない、狭い範囲での議論が続く事になると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 みんな敵でいいんだよ。

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回答No.88

>  ☆ この問いに対する答えは どこにも見当たりません。 >  もし 拡大解釈をすれば  >  ○ 《将来その報いを受けることになる》という側面だけで済むという場合も ある。 >  ☆ こう言おうかなという姿勢が ちらほら 見えるのですが おそらく そうは言えないのでしょう。なぜなら >  ★ 業報思想というのは、行為をなした場合にその結果を免れられないことを説いている。 >  ☆ のですから。 いや。違います。 ネタですか?本物ですか? 殺される、ということは悪業じゃありません。 行為の能動と受動の違いがあるでしょう? この程度のことは子供でも分かるのに。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆ みなさんへ ひとことです。  質疑応答をつづけると言いましたが もはや 中身は はっきりしています。  わざわざ 掲げるべきやり取りではなくなっています。  今後は 取り上げるべき内容があれば それにこたえるかたちとします。  ☆ OKWave さん このように 掲示に値しないと思われる内容によって スペースを取ってしまって その点 申し訳ありません。おわび申し上げます。

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回答No.87

そもそも、哲学的な思索に於いて正答を求めることは馬鹿げているといっていいでしょうね。 そういう意味では、「教えて!goo」のような場所に「哲学」カテゴリーが存在すること自体、矛盾を孕んでいるというべきだと思います。 私がかつて「知」を主体とする場から撤退したのも、哲学とは philosophia= philos(愛)+ sophia(知)で「知を愛する」という意味のため、「情」をも含めなければ成り立たないものだと思っているからです。 さらに言えば、gooの本カテゴリーに対する投稿規程には、 「■ご利用の皆様へ 哲学は、ひとつの答えに結びつくことの難しいテーマです。哲学という分野の知識に関する質問をご投稿いただけますようお願いいたします。 また、質問者と回答者、回答者同士での論争にならないよう、質問背景や質問意図、疑問点についてご説明を添えていただき、議論とならないようご配慮ください。 結果として議論となってしまった場合は、質疑を削除する場合もございますのでご了承ください。 (後略)」 とあるため、ここ・「gooの哲学カテゴリー」に限定するならば、「哲学」の内部でも「知」のみに限定した(すなわち、情は排除した)質疑のみが許されるということになるでしょう。 (すなわち、「ぶっきらぼう」に質問し、「ぶっきらぼう」に答えることのみが求められている) で、(因果・因縁を含めるにしても、含めないにしても)輪廻転生という概念は、そもそも、「個・単独」としての生命観からは生まれえない概念であり、「他者」との関連を考える上で成立しうる概念です。 「個・単独」のみをただ一回の生命として考え、そうして、自身を構成するあらゆる物質も、他となんら関連せずに「無」から発生し「無」へと帰するのなら、全宇宙・全時空の中の一瞬のまたたきとしてのみとらえるならば、(唯物論的にも)輪廻転生概念は発生しえないでしょう。 しかしながら、自身を構成するあらゆる物質は、それ以前のあらゆる生命体を構成していた部分が集まっているわけで、たとえ「死」という境界概念を越えなくても、日々自身を構成している部分は他の生命体へと流れていきます。 「個体の死」という境界概念を越えても、遺伝子は繋がりを保っていきます。 たとえ、そのような物質的な繋がりを無視したとしても、他者との繋がりを「死」という境界概念を越えて(知的な思索のみならず、情的方向性として)思う・想う時に、心の繋がりといった概念は生まれうることでしょう。 それらが輪廻転生という概念に繋がりうるかどうかは、個々の人々の死者への思い・想いの強さと深さとに関わってくると思われます。そのような「情」を排除しないで考えたときに、はじめて「哲学的な思索」だと言えるような気がします。 端的にいえば、少なくとも哲学的には「輪廻転生の有無」(存在)は問題にならないはずで、「輪廻転生といった概念がなぜ存在しうるか」(存在論)が問題になるはずです。 このことは、既にNo.72にて述べていることでもあります。

bragelonne
質問者

補足

 k_jinen さん ご回答をありがとうございます。  ですが 今回のご回答は これまでのものから後退していると 見ざるを得ないという結論が わたしの目の前に ちらついています。  ★ このことは、既にNo.72にて述べていることでもあります。  ☆ その最初のご回答のときから 互いに 問題点を出し合って これを 妥当な見解へと 導いて来ているはづです。  ○ (No.72) いくら見通しのよい世界観であっても 人びとのいくつかの意見を包含するかたちでのみ 全体観を説いているのでは 人びとの頭の上に 網掛けを施すようなもので それは 《観念の帝国》主義である。ただ 思考停止に導くものにしか過ぎなくなる。  ○ (No.76) 上と同じ問題点を引きずる結果となりました。  ★☆ もろもろの<道の人>は同一の事を語らないのであって めいめい異なった真理をほめたたえあっている。  ☆ 言ってみれば言論という活動において このようなシャンシャン大会が 《観念の帝国》の中で 行なわれており それが ブッダの智慧のもとの安寧と秩序だという理屈のようであり 大きな問題点だったわけです。(むろん 批判は 自由におこなわれているのですが 肝心の急所に触れると それは いけないという暗黙の了解が 共同の観念として はたらいているという意味です)。  ○ (No.77) 社会が二階建ての構造になっているところから その二階の権力が 人びとの上に圧倒的な力をおよぼしている現実があるので 人びとは 生まれ変われば 生活の自由が得られるはづだという・やはり上(二階)からの宗教を よろこんでか・いやいやながらか 受け留めてしまっていた。  ○ (同上) ところが ブッダは この宗教の中身を 替えただけだった。二階建て構造を そのままにしたこと。そして 中身の変更というのは 生まれ変わりを断ち切る方法があると吹聴したことのみであった。  ☆ こういった質疑応答をして来ているのに そのまとめが 次ですか?  ★ 端的にいえば、少なくとも哲学的には「輪廻転生の有無」(存在)は問題にならないはずで、「輪廻転生といった概念がなぜ存在しうるか」(存在論)が問題になるはずです。  ☆ そして 今回も 《わたし》という存在を 遺伝子だ死者への思いだという別の要素へと すり替えています。  ★ 「個・単独」  ☆ と言いながら それは 《わたし》の生まれ変わりといういまの概念から 逸れて行っています。たとえ子孫であっても 別の人格としての別の《わたし》であっては 話が違います。  果ては この質疑応答の場にかんする《投稿規程》の問題を持ち出すまでに到っています。    ま 総合的な診断を下すなら たましいがよわい ということでしょう。この質問に対して 結論が出ない(あるいは 出ても はっきりとは よう言わない)ということのようですから そういう診断になります。とお応えしないでは 質問者のつとめを放棄することになるでしょう。  人間存在にかんする総合的な判断として 述べましたが これも   ▲ 哲学という分野の知識に関する質問   ☆ なのです。哲学にとっての《知識》というのは こういうものなのです。どうでしょう?

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回答No.86

>  ☆ これが わたしの議論が誤解に発しているという理由説明ですね。 >  《殺された人》にとっては 過去の業が その時点で 報いを受けたのに対して 《殺した人》にとっては なぜ そうはならないのですか? >  つまり 《将来その報いを受けることになる》という側面だけで済むのですか? 確かに、粗暴な性格や、殺人を犯してしまうような状況など、というのは、過去の業の結果といえる。 しかし、行為をなすかどうかは個人の自由意志に委ねられている。心が決める。 そこで、もし、行為(殺人)を犯してしまえば、その報いを免れることはない。 業報思想というのは、行為をなした場合にその結果を免れられないことを説いている。 >  ★ 逆に、殺人などの悪業を犯しても報いを受けないこともある、と考えると善も悪も関係なくやりたい放題になるでしょう。 >  ☆ つまり 殺人を犯したというその行為は 過去の業の報いであるのではないですか? それとも 過去世に何も 報いとなるような業がないのに その報いつまり殺人という行為に及んだということなのでしょうか? >  その殺人者には 因果応報があてはまらないのですか? 上述のものとほぼ同じ内容の質問なので、上述の回答を参照されよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《殺された人》にとっては 過去の業が その時点で 報いを受けたのに対して 《殺した人》にとっては なぜ そうはならないのですか?  つまり 《将来その報いを受けることになる》という側面だけで済むのですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問いに対する答えは どこにも見当たりません。  もし 拡大解釈をすれば   ○ 《将来その報いを受けることになる》という側面だけで済むという場合も ある。  ☆ こう言おうかなという姿勢が ちらほら 見えるのですが おそらく そうは言えないのでしょう。なぜなら  ★ 業報思想というのは、行為をなした場合にその結果を免れられないことを説いている。  ☆ のですから。  * みなさんへひとこと。まちがいだと 分かりきっているのですが 本人が みづからの意志によって 認めるということでなければ 何にもなりません。それゆえ つづきます。

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noname#117439
noname#117439
回答No.85

オコリザルです。 昨日の悶絶を振り返ってみたのですがA80のご返事(引用)は文章そのままの意味の読み解きとは別に「俺はお前の無を知っているぞソレはこのようである」と言った知解構造が二重写しになって、食べ合わせの悪さのような感じになったんです。 そこでまづ想定したのはbragelonneさんを哲学に案内する鬼神だったのですが「誰かの」という表現は当たらないのかもしれませんね。 不明ですが追っかけたり検討したりしなくてもいいのかもしれません。 「誰かの」の想定が妥当ではないので、私の無に対するメッセージなのか、bragelonneさんの無に対するメッセージなのかも追いかけられません。 悶絶でそれどころでは無かったです。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。あの長い文章が なるほど  ★ 構造  ☆ を持つかに思えるとは 思ったのですが  ★ 「俺はお前の無を知っているぞソレはこのようである」と言った知解構造が二重写しになって、食べ合わせの悪さのような感じになったんです。  ☆ という ここまでのこととは 夢にも思わず 失礼しました。悶絶とは 失礼しました。喰い合わせですか。そうなのかも知れません。文章は 長いこと 引きずって行って どんでん返しがある筋書きでもありますからね。  ★ ・・・「誰かの」という表現は当たらないのかもしれませんね。 不明ですが追っかけたり検討したりしなくてもいいのかもしれません。  ☆ これでいいのですね? つまり もう お任せしておいても いいのですね?  服なんか着なくていい。裸でいい。という議論は ほかのところで 出ていますよ。

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     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら因果応報説のほうには 原因や結果となるモノゴトに 善悪ないし苦楽という主観による規定がつけ加えられます。  3. すなわち 善因善果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は主観の範囲を出ない。  4. すなわち 善悪はこれを主観が判断するのだから けっきょく因果応報の説は 自業自得という考え方である。ゆえに 主観の範囲を出ない。  5. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  6. ものごとがぜんぶ〔歴史の初めから〕一貫して自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから けっきょく自業自得としてすら 規定することにも意味がない。  7. 自業自得は へりくだってこれこれの結果はわたしの自業自得でした 責任はひとえにわたしにありますと語ることはあっても 他者との話し合いの主題には 最終的な意義を持つものとしては 成り得ない。    8. つまり ひとつの解決法としては 初期条件において ナゾの何ものかによるエコヒイキがあったという見方が出される。  9. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. 前項は 母親レベッカの胎内にいるときからのことだと言う。言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら原因や結果となるモノゴトに 善悪ないし苦楽という主観による規定がつけ加えられます。  3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は主観の範囲を出ない。  4. すなわち 善悪はこれを主観が判断するのだから けっきょく因果応報の説は 自業自得という考え方である。ゆえに 主観の範囲を出ない。  5. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  6. ものごとがぜんぶ〔歴史の初めから〕一貫して自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから けっきょく自業自得としてすら 規定することにも意味がない。  7. 自業自得は へりくだってこれこれの結果はわたしの自業自得でしたと語ることはあっても 他者との話し合いの主題には 最終的な意義を持つものとしては 成り得ない。    8. つまり ひとつの解決法としては 初期条件において ナゾの何ものかによるエコヒイキがあったという見方が出される。  9. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. 前項は 母親の胎内にいるときからのことだと言う。言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 輪廻と業の説は 無用ではないか

    輪廻と業の説は 無用ではないか  あらためて問います。  (1) 生まれ変わるという意味での輪廻転生は 同じ DNA を持つひとが自分のほかにいないとすれば あり得ない誤謬である。このことの確認を願います。  (2) 業が行為を意味するとすれば この意志行為が原因となって――縁をも呼びこんで――その意志のあり方(単純に善か悪か)に従ってその決まった結果をも招くという見方は まづ一生涯を超えてはたらくということはあり得ない。同じく確認です。  (3) ではこの業にもとづく所謂る因果応報の説は ひとりの人間の生まれてから死ぬまでのあいだのこととしてなら 現実性を持つと見るべきか?  (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?    (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?  (4‐1) すなわち 輪廻と業の説は いっさい無用であるのではないか? 大いなる勘違いではないだろうか?

  • 《因果の道理》は 道理ではない。

     つぎのヰキぺの記事にかんする限り それは 何も言ったことにはならない。これを問います。  ▲ (ヰキぺ:因果の道理) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E3%81%AE%E9%81%93%E7%90%86  § まえがき  (あ) 因果の道理は仏教の根本的な教理である。「因果律」・「因果論」とも言われ、釈迦が発見した「大宇宙の真理」とされる。日本をはじめ東洋諸国では倫理や道徳の根拠にもなっている。  § 概説  (い) 釈迦は、原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因(因)と間接的要因(縁)の両方がそろった(因縁和合)ときに結果はもたらされるとする(因縁果)。  (う) そこで、縁起と呼ぶ法によってすべての事象が生じており、「結果」も「原因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が相依相関して成立しているとする。  (え) 釈迦が悟った上記のような内容を縁起という。その教えを学問上「縁起説」と呼ぶこともある。  (お) 仏教において因果は次のように説かれる。   善因善果…善を行うことが新たな善を促す   悪因悪果…悪を行うことが新たな悪を促す   善因楽果…善を行うことが自分にとって望ましい結果を招く   悪因苦果…悪を行うことが自分にとって望ましくない結果を招く  (か) 例えば最初は嫌々ながら行なっていた人助けでも、何度か繰り返すうちにそれが習慣となったり、それが褒められることで自ら進んで行うようになる。  (き) 逆に最初は躊躇していた犯罪が一度成功すると、また罪を犯すことに抵抗を感じなくなったり、一度嘘をつくとその嘘を隠すために更なる嘘を重ねる様になる。  (く) これが「善因善果」「悪因悪果」の具体例であり、両者は原因と結果の性質が同じであるため、《同類〈因〉・等流〈果〉〔なる因と果との関係〕》と呼ぶ。  (け) 一方、善いことを行えばそのことで満足感・達成感が得られるのに対して、悪いことを行うと良心の呵責や罪が露見することへの恐怖が起こる。 これが「善因楽果」「悪因苦果」の具体例である。   (こ) 「善因善果」「悪因悪果」とは異なり、この場合の結果は一概に善か悪かを判断できない。  (さ) 例えば、善い事を行った自分を誇って他人を軽蔑したり、一度の善行に満足して善行を止めることがあれば、それは善行が悪い結果を招いたことになる。  (し) 逆に悪を行った事による心の苦しみが、その人を反省・更生へと導くならば、それは悪行が良い結果を招いたことになる。  (す) 両者は原因と結果の性質が異なるため、《異熟因・異熟果》と呼ぶ。  (せ) 「善因善果・悪因悪果」について“善いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる”と解説される場合があるが、これは「善因善果・悪因悪果」と「善因楽果・悪因苦果」の混同を招きかねない不正確な説明である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これで記事の全部です。  (そ) この記事内容についてはすでに 出典を明らかにすべきだとか 中立的な観点が必要だとかのクレームがついているようです。  (た) ですが いまはそのような疑問点をもわたしたちが洗い出すかたちで問い求めて行きたいと考えます。  (ち) 出典の問題をのぞけば かんたんな形ながら (お)から(せ)までの説明は ふつうに中立的な内容ではないかと考えるのですが どうでしょう?  (つ) 一つ目の問いは こうです。    善悪が主観的なものであるからには 楽果も苦果もみな同じく主観的であって《のぞましいか否か》で定義するなら それらはやはり善か悪かで捉えても構わないのではないか? すなわちおおきくは 楽果⇒善果 苦果⇒悪果と見てよいのではないか?  (て) しかもいま――因縁の縁すなわち間接的な原因は措いておきますが―― 原因にしても結果にしても いづれもそのワタシにとって 善もあれば悪もあるということでないわけがない。(どちらでもない無記の場合もありましょうが それは当然のこととしてこれも特には触れません)。    * 因縁の縁をいま問わないのは それもけっきょく因と同じように 善をも悪をもふくむのがつねであると見られるからです。その議論は 以下に追ってすすめて行きます。    (と) つまりは 任意の一時点をとってそのとき ワタシの状態は過去の《善と悪とをふくむ原因》の結果として 《善悪の入り混じった》ものとしてみちびかれている。しかもその状態〔から繰り出す行為〕は 未来への《善と悪とをふくむ》原因となって 《善悪の入り混じった》結果をうむ。――このことは あたりまえであるはずです。  (な) ならば そのような・どの時点でもつねに《善と悪とをふくむ》原因かつ結果としての状態にあるワタシについて その行為の軌跡の中から 一本の線としての《同類因・等流果》(く)やあるいは《異熟因・異熟果》(す)を ただいづれか一方だけの取り出して これこそが因果関係であるぞと言ったところで 何の意味をも成さない。せいぜいが気休めである。  (に) つまりブディズムの説くと言われる《因果の道理》は けっして道理などではない。こう帰結されますまいか。どこが 《大宇宙の真理》でしょう。どこが《さとり》なのでしょう。かえってものごとの見方を 一面的な狭いものとしていはすまいか。  (ぬ) なんでこんな子どもだましのような《理論》が 永くつづいて来たのでしょう。日本人はここまでばかなのでしょうか。  (ね) ただし・もっとも 成功したひとたちは その原因を みなさんのおかげですと言って 因縁の縁のほうを重んじた見方で表現してはいます。そのあたりについても 考えるところがありましたら 回答の書き込みをどうぞ。    (の) (つまり 日本人は現実の実践では 好ましい世界観にもとづいていると思われるのに  ブディズムの理論だけは 成っていない。こういうことでしょうか)。  (は) (ブディズムよ 恥を知れというところでしょうか)。  (しかも そのブディズムに対して・またゴータマ何たらという人間に対して へーこらへーこら ありがたやありがたやと おもねっている〔ように見える〕。日本人のこの状態は どうしたものなのでしょう)。  (ひ) ゴータマは ペテン師であり 屁の河童なりと どうして言わないのでしょう。

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら善悪ないし苦楽という主観による規定が含まれます。  3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は・という意味は 善悪を主観が判断するのだから けっきょく自業自得という考え方は ゆえに 主観の範囲を出ない。  4. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  ものごとが自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから そう(自業自得として)規定することはできない。    なら 初期条件は ナゾの何ものかによるエコヒイキである。  5. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  7. ただし 主観の問題としてわが心の内なる善行の道は捨て去ることはない。と考えてよいか?  善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 因果応報説は 愚の骨頂

     ではありませんか? 次の聖句に照らし合わせると。   すなわち その5:19の《人々の罪の責任を問うことなく》に注意することができるではないでしょうか?  ▲ (コリント後書5:12-21) ~~~~~~~~~~~~~~~  5:12  わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。  5:13  わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。  5:14  なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。  5:15  その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。  5:16  それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。  5:17  だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。  5:18  これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。  5:19  つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。  5:20  ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。  5:21  罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ クリスチアニスムの事例を挙げましたが どの思想であるかは自由に ご見解をお寄せください。おしえを乞います。ただしわたしが納得するまでお尋ねしてまいります。

  • 輪廻転生

    私の友達は彼氏に頼んで殺されました。 彼女は自殺になるのですか? 死後の世界から考えても自殺になってしまうのですか? 真っ暗闇の中に入って寿命まで苦しみ続けるのですか?輪廻転生出来なくなるのですか? 天国に行けず、地獄以上の真っ暗闇の世界で寿命まで苦しみ続けるのですか? お手数ですが回答よろしくお願い致します!m(__)m

  • 輪廻転生について

    素人の質問ですみません。 輪廻転生の考えは主に仏教の教えなのでしょうか。 キリスト教や哲学の考えには存在しないのでしょうか。 ご存じの方がいらっしゃいましたら教えて下さい。

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    輪廻転生を信じている人に伺いたいのですが、どうすれば輪廻転生の流れから抜け出して二度と生まれてこなくなりますか? 本当に輪廻転生があるのかはわかりませんが、もしあったらイヤなので、質問します。

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    カテゴリーがあっているかどうかわからないのですがこのことに ついて詳しく教えていただければと思います。 またわかりやすく説明している著書がありましたら 教えてください。 恥ずかしながらこれでも仏教の高校を卒業し授業も 受けていたのに、言葉だけで頭に残っていません。 いまさらながら少し勉強してみたいと思っています。 よろしくお願いします。

LIFEBOOK AH54/E 液晶の種類について
このQ&Aのポイント
  • 富士通のLIFEBOOK AH54/E FMVA54EBの液晶ディスプレイを交換するためのパーツを探しています。
  • 同じ品番の商品にはAタイプとBタイプの2種類がありますが、光沢と非光沢の違いについてわかりません。
  • 質問者は自分のPCの液晶の仕様がどちらかわからず、回答を待っています。
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