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けんかをしては 何故 いけないのか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.111

>まあ 《すっとこどっこい》呼ばわりは 決めていたとおりに お詫びします。お詫びして 撤回します。ごめんなさいませ。 《すっとこどっこい》という記号が名残惜しいですが、了解しました。  ★ まず、「《ならわし》を あまねく行きわたらせる行為」 をファシズムとは、定義しないと思います。  ☆ よかった。これが ちがっていたら 困ったことになっていたでしょう。 はい。共通認識です。  ★ また、《ならわし》を あまねく行きわたらせる行為 というのもよく分からない表現で、あまねく行きわたったから、《ならわし》になったという方が、適切ではないかと思います。つまり、順番が逆でしょう。  ☆ よく 考えてみましょう。昔には どうも 行なわれていたようだという研究発表があったわけです。その時代における《ならわし》であるでしょう?  ですから  ○ 昔の 《ならわし》を ふたたび〔現代社会に適したかたちに編み直して〕 あまねく行きわたらせる行為  ☆ と言えばよかったということです。ですね? なるほど。昔の《ならわし》を現代に応用する・普及する活動のことでしたか。それでも、やはり、ファシズムとは言わないでしょう。ここも共通認識です。  ★ では、No.110の問いにお答えください。  ☆ じつは 何を隠そう その意味が 採れないのです。回答としての意味が どこにあるのか 一向に 理解が行き届きません。どう問い返せば よいのか これすらも おぼつかない状態です。そもそも  ★ 「ファシズムの匂い」  ☆ とは 何のことですか? それは、ファシズムっぽいという意味です。厳密な定義のある用法ではありません。  ★ アーリア人至上主義、ユダヤ人絶滅収容所送りを暗示したつもりでした。  ☆ こんなことを よく 出して来れますね。たぶん わたしのどの文章が 原因となっているのか そこを明らかにしてくれると いいのではないですか? ここは、bragelonneさんの直接的な記述からではなく、一色に染め上げるファシズムという表現から連想する暗示ということです。  ★ つまり、bragelonne至上主義、相手方主張の抹殺の暗示です。この比喩が適切かどうかは、自信がないので、「感じ」という弱い表現にしたつもりです。政治思想のどうのこうのではなく、比喩の適不適だと思っています。  ☆ これも 事例をめぐって 議論するのが いいでしょう。 ここが僕の言いたかった部分で、事例を挙げませんが、印象として教化・洗脳が見えたように思ったわけです。ですから、自信がないと言っています。勿論、明らかな思い違いや誤認識を正すことは、相手方の主張を抹殺するというものではありません。  ★ 一番の論点は、「多様性に対する態度」です。何々以前だとか、以後だとか、妙な線引きをせずに(逃げずに)、対等に尊重するのか、根絶又は服従に拘るのか、はっきりしてくださいね。  ☆ 《レストランに入って 注文をしておきながら 黙って外へ出て行ってしまう》 この考え方と振る舞いが いけないのは 個性や多様性の以前の問題だと 明らかにして 説明していますから それに対して 理論をぶつけてください。 失礼な振る舞いのレベルは、勿論、多様性の問題ではありません。しかし、これだけは明らかにしておきます。仮に失礼であっても、黙って外へ出て行ってしまうだけの理由がレストラン側にあれば、受容できる場合もあると思います。状況次第としておきます。  ★ 僕の結論は、対等に尊重しあう口論は大いに結構、支配と服従の関係を迫る口論は、下品だなという印象です。  ☆ 上に触れた 外へ黙って出て行ってしまう行為に関して 批判しては いけないですか? こういう質問です。批判するときにも むろん 存在を 愛し《対等に尊重し》 おこなうのです。それについて きちんと 触れてください。 批判を封じません。批判する立場も理解します。相互の完全なる理解は不可能という前提なので、万人の完全一致はないと思っています。  どこから  ★ 支配と服従の関係を迫る口論  ☆ になるのでしょう? そういう疑いが どこから 出てくるのでしょう? レストランでのエチケットを 守らなくてもよい場合は――それとも―― あるというご主張なのでしょうか? 支配と服従の関係を迫る口論というのは、一方が他方を屈服させるような口論という意味です。価値観の違いがあるときに、排除するような振る舞いのことです。この世は不完全なのであって、完全はないからこそ、一点に集約することはないだろうと僕は思うのです。 >そこのところを しっかりと 明らかにしていないならば いったいどういう回答であるのか その意味が取れません。おわかりでしょうか。 僕の世界観は、世界は不完全だというものです。ですから、完全なものはなく、普遍的なものもなく、全体主義も無理なことだと思うわけです。物質と反物質の対称性の破れ(不完全性)で生じている宇宙が完全なわけがありません。そういう意味です。

bragelonne
質問者

お礼

 あぁ ひとこと 分からん。です。  推測しうるところとしては  ★ 世界は不完全だ。  ☆ しかるに ひとにエチケットを守らせるという行為は 不完全さを侵そうとするものだ。ゆえに しては いけない。  こういう論理くらいですかねぇ。  あーぁ どなたか 解説していただけないでしょうか。質問者から このNo.113およびその関連の文章について 分かるように解釈・翻訳してくださいという補足要求を出したいと思います。どなたか よろしくお願いいたします。  何を回答とし 何を わたしに要求しようとしているのか おしえてください。  わたしが 回答者のだれかに その回答内容を批判して 屈服させようとした ということでしょうか。  ★ 事例を挙げませんが、印象として教化・洗脳が見えたように思ったわけです。  ☆ これだけ ふつうに 語りあっているのに いったい 何を見たというのでしょう?  《事例を挙げない》で そういうふうに 相手を批判するというのは 言いっ放しであって そのぶん 名誉毀損につながりますよ。  ★ 仮に失礼であっても、黙って外へ出て行ってしまうだけの理由がレストラン側にあれば、受容できる場合もあると思います。状況次第としておきます。  ☆ こんなふうに 勝手に 情況を作っては だめですよ。やむを得ない場合でも 一般には 注文をしたけれど 緊急事態だから このまま出て行きますと レストラン側とかけ合うのが ふつうです。もし レストラン側に 落ち度があるのなら それを 明らかにして 伝えるのが ふつうです。勝手に黙って出ていくというのは よほどのことがなければ ないでしょう。  ★ 状況次第  ☆ と言うのは どういう場合でしょう?それを明らかにすることができれば たしかに 多様性の以前の問題であると言った点は 撤回せねばならなくなるでしょう。  要するに 《注文をしておいて 黙って勝手に 外へ出て行ってしまう》のは エチケット違反だ(あるいは 法律にも抵触するかも)というならわしを あまねく行きわたらせることは ファシズムですか? それは 洗脳なのですか?

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