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けんかをしては 何故 いけないのか

 ここでは けんかを 口論にしぼってください。  つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。  存在を愛し 思想や行動を憎むことです。  なぜ いけないのでしょう?  理由が分かりません。おしえてください。

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noname#82450
noname#82450
回答No.100

 ここで100をとらせていただきます、仁科です、  おじさんお久しぶりです、  口げんかは、良いと思います。手が出るよりは、ましですし、  競いあうようなスポーツは嫌ですが、  絶縁は互いへの臆病さを増しますし、ここち悪く、  自分自身と口げんかできないひとは、まずいです。自身との絶縁ですから、  自己批判できないひとは、建設的な口げんかをできないと思います。  自己批判できないひと同士のけんかは、怖いので否定の対象です。  口げんかに止まらず暴力になり心身を壊しあうことになりそうなので。  自己批判できる人どうしだと口げんかは長引かないかもしれません。つつましいでしょうし。  けんかしつづけるということは、両者ともにか一方に自己批判するスキルがないということなのでしょうか、  互いを批判するよりも多くまざまざと自己批判を開示しあうのが良いのかもしれません。  互いの精神性や人間性に関し建設的であるには。  ひとびとが自己批判のスキルを高めてゆくには。  頭と言葉を使い陰気な精神のストリップをどこまでもするのが良いのだと思います。  徹底的な自己批判、自分と向き合うこと、自省を、したことがない人は、けっこう多いと思います。大人にも、  自己批判のしかたを、あまり学ばないかもしれません、  自己批判に関して、ひとびとは教育も開発もされず、  ほとんどの教師も親も自己批判なんかしていないかもしれませんし、  思考停止の世の中で、自分は正しいのだという態度の人や集団や情報ばかりが満ちていますし、  私はかなりパラノイアっぽいせいか自己批判という言葉ばかり記述しますが、    きっとブラジュローヌさんは自己批判してきたでしょうし、しているでしょうけれど、  他者に対して自己批判よりも他者批判を多く示しがちなのかも知れません。  対話において剛と剛とでは互いに警戒しあい心の耳を閉ざしあいます、たぶん、  なので、すきを見せるとよいと思います、  弱みや、くよくよしている感じ、自信のなさを、垣間見せるとよいと思います、  そうすりゃいちころです、不完全なものに日本人は弱いかもわかりませんすら、  あえて、おやおや、おじさん負けちゃったようだ、というのは余裕なのですが、  そういう嘘や演技じゃなりません、  子どもの水準は大人よりも上です、たぶん、  大人なんか、いないのです、こんな分業ばかりの社会に一人前の人なんかいません、  狂おしい社会に順応してしまった大人は、完成度の高い狂人ばかりです。  交換券(貨幣)や労働や国などの、反アナーキーでヒエラルキアなものがひとびとを不出来な生きものにしています、  部品になっている社会人より、まだ分裂していない子どもたちのほうが個体としてはまだまともで、  未熟な大人、すなわち子ども、つまり私は健やかなのかもしれません、  私は不完全で、自信がなく、それゆえにとても謙虚で、謙虚でもなく、なんだか正しいようで、  正しいというか健やかです、不完全であるがゆえにか健やかです、  今日も私は健やかです、おはようございました、  私にとり他者一般は狂人で、ひとびとの心は壊れていて、  もう大破しているものならいっそ全壊させたいという思いがあるのか、  他者の心をすきあらば壊したがるのは私の癖としてあり、弱いものいじめは面白く、    子どものざれごとは、狂いっぱなしの大人らのたわごとより健やかなのかもしれません、そう信じます、  大人はペニスも汚ければ組織の汚い秘密をも隠すので否定の対象です。

bragelonne
質問者

補足

 ni_shi_naくん――《おぢさん》呼ばわりしたので くんづけ―― めっちゃ 冴えてるやん! どうしたの? ここで悪友どうしだと 何か変なものを食ったんっちゃうか? と突っ込むところですが 冗談は それくらいにして ご回答をありがとうございます。  もう少し長引かせるなら どこで勉強して来たん? 三日見ないうちに しゃれのめしていますではないですか。  と言っても 爪を隠していたのですかね。片鱗のみを見せていたのですかね。  まぁ おぢさんとしましては 最後の最後の一文が まだ練れていないね。あとは かがやいています。  ★ 大人はペニスも汚ければ組織の汚い秘密をも隠すので否定の対象です。  ☆ 《否定の対象》を持ち出してくるようぢゃ まだまだだね。持っていても いいのですが 表現するときには 否定形で言いきらないほうがよいでしょう。  むろん 自己否定をするのですが しかも とことん するのですが 表現は おおむね 肯定の形で出してきたほうが よいでしょう。  ★☆ 対話において 否定形で命題を提出すると 警戒しあい心の耳を閉ざしあいます、たぶん。  ☆ 一般に 肯定形にすると  《すこやか》ですし 《安心》をもたらします。  やっぱり 《おぢさん》気取りになってしまいますね。  では よけいに えらそぶって行きましょう。  ★ 交換券(貨幣)や労働や国などの、反アナーキーでヒエラルキアなものがひとびとを不出来な生きものにしています、  ☆ この箇所は 読み取りにくいですよ。表現の未熟が 思想の未熟として見られかねないのが 上に示した一箇所で そして表現じたいが読み取りにくいのは この一箇所です。  ということは わたくしも 否定形から入っていますね。肯定するところから始める ほめて育てるというぢゃないですか なんですが ここは 鬼になりましょう。もう育てる段階ぢゃないようですから。(ちょっと ほめすぎ)。  〔わたくしなんか 三十歳になるまで 世の中の 西も東も分かっていたけれど なぜ 南が西になり 北が東になるのかを 考え続けて ちんぷんかんぷんだったんですから。なぜ ひとは 平気で 東を西と言い 聞いているわたしが そのことをいぶかっているのに なお平気で そのウソをつき通しているのか まったく分からなかったのですから〕。〔《悪は存在しない》という命題を聞いて すべては 空が晴れ渡りました。分析は そのあと おこないました〕。  ★☆ 頭と言葉を使い陰気〔* であり〕な〔* がらも 前向きでたくみな〕精神のストリップをどこまでもするのが良いのだと思います。  ★ ブラジュローヌ → ☆ (改名)ブラジュロンヌ  (cf. Sorbonne:ソルボンヌ; Catherine:カトリーヌ; Francine: フランシーヌ; Cannes:カンヌ〔 -s は発音せず〕)  ★ 狂おしい社会に順応してしまった大人は、完成度の高い狂人ばかりです。  ☆ 歴史知性の分類としての《ヨリ・イリ・ヨセ・コギト》に関連させ さらにくわしく その《発狂》の状態や社会情況のありさまを 分析せよ。(宿題だよん)。  あとは やはり 人びとのためになる仕事を もくもくと やっている人びとへの敬意と感謝の意を述べることを忘れずに触れていれば 百二十点満点です。  ミサイル発射に対応するため準備している人たちも おおぜい いますから。

その他の回答 (127)

noname#84158
noname#84158
回答No.128

討論は良いが、ののしりあうのが愚かなことは園児でも知っている。 つまり愚かだから。 愚か。やっても意義の生まれないこと。

bragelonne
質問者

お礼

 sunahokori さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 討論は良いが  ☆ ということで どうも  ○ 口論と議論との境目は どこにあるか。  ☆ こういう問題になるようですね。  どうも 《口論》に絞ってみても 《けんか》は 評判がよくないようです。  ただ  ☆☆ つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。 / 存在を愛し 思想や行動を憎むことです。  ☆ というふうに 趣旨説明で明らかにしていますので いくらなんでも  ★ ののしりあう  ☆ という方面へ 持って行かれても こちらが困るのですけれど。  まぁ 世間一般の通念として そこまでは 言っておかないといけないというようなお気持ちなのでしょうか。  そうすると どうも 最初に掲げた問題点 ここに 今後は 焦点が当たるように思われます。  みなさん どうでしょう。  ここらあたりで 締めましょうか。どうでしょう みなさん。

  • kebiiiiin
  • ベストアンサー率64% (25/39)
回答No.127

あなたには追記しなくても分かっていただけると思いましたが 少し残念です。 あなたはけんか(口論)によって人が傷つくことはない といいましたが けんかの質は違っても確かにイスラエルの国土は傷つき イスラエル人の歴史と心にも傷がついたのです。 ご自分で出した聖句です。責任は持ちましょう。 そして今日、私はこのページを見ていて上司に怒られました。 あなたに責任はなく、これを勤務時間中に見ていた私が全面的に悪いのですが しかしあなたとわたしの口論の結果として 私の上司から私に対する評価は傷つき 私の同僚から私に対する信頼も傷つき 私自身、無駄な時間をこの2日間過ごしてしまったという意味で傷ついたのです。 私の心はまったく傷ついていませんが 結果として、 あなたとの口論の結果、私の周りでは 確かに傷ついたものがあるということです。 これは思想の問題ではありません。    結果の問題なのですよ。 という意味でいやな思いをするおそれがあるので けんかをするには注意が必要ということです。 私の言いたいことはそれだけです。 あなたの勝ちでいいでしょう。 私は敗者でいいでしょう。 しかし敗者は戦争でも、口論でもなんでも必ず傷つくのです。 それではまたどこかでお会いしましょう。さようなら。

bragelonne
質問者

お礼

 kebiiiiinさん ご回答をありがとうございます。  ただ ほかにも参加者がいて あるいは 投稿しなくても 訪問して読んでおられる方たちが います。  できるだけ 《客観的事実》として 話をすすめる。つまり 当事者の間を超えて 言葉を継がねばならないと思うのも 実際だと思います。  あと味がわるいですか?  あるいはまた 哲学は 赤っ恥のかきまくりだとも言っていますしね。精神のストリップだとも言っていますし。  というような勝者の勝ち誇った弁にて。・・・

  • kebiiiiin
  • ベストアンサー率64% (25/39)
回答No.126

エレミヤ17:6の用い方はどうなのかな。 これは軍事的に自己に不利的な状況に陥ったときに イスラエルがとった行動ですが 彼らは、不利な状況の時に神に頼らず、都合のいい行動をとり続けたがために、 エジプトからもアッシリアからも見放され もちろん神からも見放され、占領されるにいたった。 後の祭り。 という聖句です。 いわば、後悔。 この感情ですよ。 イスラエル人にとってこの“けんか”はいい結果をもたらしたでしょうか。 自責の念だけで結果がすむならば勝手にやるがよろしいが 結果はそれでは済まない場合があるということです。 難しいことではありません。 うーん。こう考えるとエレミヤ17:6…いい聖句でしたね。 ありがとう。

bragelonne
質問者

お礼

 kebiiiiinさん ご回答をありがとうございます。  ★ エレミヤ17:6の用い方はどうなのかな。 / これは軍事的に自己に不利的な状況に陥ったときに / イスラエルがとった行動ですが・・・  ☆ 一般化することはできないという意味でしょうか?  ★ イスラエル人にとってこの“けんか”はいい結果をもたらしたでしょうか。  ☆ こういう《けんか》を ここ(この質問)では言っていないと申し上げているはづですよ。  そういう状態にある人間に対して 隣り人になるかどうかの例として挙げたまでです。  問題は そこには ありません。  ★ 自責の念だけで結果がすむならば勝手にやるがよろしいが / 結果はそれでは済まない場合があるということです。  ☆ ですから そういう場合に 事前に そして事後になら今後のためにも 欠陥を憎み 批判を与えるという意味で けんかをしては 何故 いけないのか? こう問うています。ご回答を どうぞ。  * 《傷つく》という主題は どうなりましたか?

  • kebiiiiin
  • ベストアンサー率64% (25/39)
回答No.125

前者の方へ 神の存在という話が脱線しそうなので あまり多くは語らないことにしましょう。 最近は外国でも無神論の方々が活動を盛り立てていますが そのキャッチフレーズが 「神はいない。もっと人生を楽しもう」 神がいないならばこの方たちは誰に向って対抗意識を燃やしているのでしょう。 世の中の創造論者にむかって?真実はどちらもみたことがないのに。 鏡に向かって「お前はいない」といっているようなものでは? どこかで神の存在を忘れられないから、自分を誤魔化すために抵抗せざるを得ないのでは…と私は考えるわけです。 芸術を生み出せるのは人間だけ機械にはできない。 ある映画のワンシーン 弱肉強食という進化論では芸術など無価値なはずでは? さらにつよく、さらに進化を。 それとも芸術は進化の過程ですか? いらないでしょ。 人生を楽しむなんて、弱肉強食の進化論ではないでしょう。 芸術という賜物が神から与えられているとしたら? わたしたちは客観的事実から神の存在を信じることもできるし 疑うこともできる。 しかし決めつけてはいただきたくありません。 わたしは神の存在を疑いながら文献を調べています。 ・・・が、今のところは創造論という結論、というだけの話です。 あなたも無神論を疑いながら、文献を調べてみてはいかがですか? 疑いのないところには無知があるのではないでしょうか。 「心は他の何物よりも不信実であり,必死である。だれがそれを知ることができようか」。(エレミヤ書 17:9,新共同訳) まぁいいや。笑 話は戻り、こんにちは。 人を傷つけることはありえない。 これはあなたの主観であり客観ではありませんね。もちろん傷つかない人もいるでしょうが。 「心は他の何物よりも不信実であり,必死である。だれがそれを知ることができようか」。(エレミヤ書 17:9 新共同訳) 自分の心はあてになるものではありません。 あなたの言うように顔を作っているから。 それを認めることができるかできないか。 はは。 だれもわかんないとおもうのです。 本当の自分など。 よくたまねぎの皮にたとえられますね。 一つ一つ剥いていったら後には何も残らない つまり自分という存在はそのようなもので多面性があるというものです。 まぁ あなたはご自分を例外だと思っているみたいですが。 あなたは人を信頼しているのでしょう。 口論は信頼関係のもとにおきやすいですから。 家庭で口論が起きるというのはどこかに互いを信頼している証拠なのでしょう。 しかし、意見の衝突が原因で離婚する家庭が多いのも事実です。 これが客観的事実というものです。 また口論がもとで人を殺めてしまった。 これも客観的事実でしょう。 客観的事実のもとにあなたとお話がしたいですね。 わたしはキリスト教という意味では 専門家の分類に入りますが 他人と話すときには一般人、参考意見としかなりません この分野でだれも「自信あり」などはいえないはずです。 自己批判。その分野にしては大いに賛成です。

bragelonne
質問者

補足

 kebiiiiinさん ご回答をありがとうございます。  対話らしくなってまいりました。さらにご回答に対して 明確を期して お尋ねしてまいります。  信頼関係がない場合には 無論のこと あった場合でも けんかは まちがいへと ひとを導くことがあるから やはり 口論であっても ふつうの批判であっても 《いけない》というご議論だとお見受けします。  また そういった《客観的事実》に立って 話をすすめるべきだというご見解です。 まづ 確認します。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  口論は信頼関係のもとにおきやすいですから。  家庭で口論が起きるというのはどこかに互いを信頼している証拠なのでしょう。  しかし、意見の衝突が原因で離婚する家庭が多いのも事実です。  これが客観的事実というものです。    また口論がもとで人を殺めてしまった。  これも客観的事実でしょう。  客観的事実のもとにあなたとお話がしたいですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さっそく いわばわたしの側からの反論です。前回の引用に 最後の箇所に 次の但し書きがあります。  ☆☆ (No.127補足欄に掲載) ~~~~~~~~~~~~~~  (自分が自分につくうそ この嘘で 自分が 傷つくことはあります。存在としての自然本性なる善を損傷させるのが うそなのですから)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 信頼関係については あるに越したことはないのですが 微妙に その問題とは別の見方になります。  すなわち   ○ ひとは その心が 他人の言動によっては あるいは もっと言えば 物理的な力によってでさえ 傷つくことはない。  ☆ と考えるのですが しかしながら 傷つくことが いっさい ないかと言えば そうではありません。  ひとは その心が 傷つくことがあります。じつは じつに それは 自分が 自分で うそをつき 偽りの証言などをした場合です。  したがって 言いかえると 口論をつうじて ひとが 傷ついたり 解きほぐしのかなわない反目状態に陥ったり 果ては 相手を排除しようするまでに到ったりするというのは 基本的に言って 《けんかによるのではなく おのれの自己欺瞞によって 錯乱に陥るからである》と考えられます。  言いかえると この自己錯乱は けんかをしている時に限らず 起こるということです。また けれども けんかの場合に ひどくなるのではないかという反論が出るでしょうが 必ずしも そうではありません。 そういう人のそういう状態にある場合は その本人が むしろ けんかを仕掛けると考えられます。つまり こちらが その言動について 批判するという意味で けんかをするという場合ではないからです。  しかも むしろ やぶれかぶれで けんかを仕掛けてくるひとに対しては むろん 時と場合に応じなければなりませんが むしろ 一たん その状態を こちらは しっかりと受け止めてやって 機会があれば 〔むしろ〕 批判を しっかりと明確に してやったほうが 目を覚ますということではないでしょうか?   勇み足で 言うとすれば 隣り人になってやる必要さえあるかも知れません。  ――目を覚ましなさい。  ――ほろびなさい。ふるいひとを脱いで あたらしいひとを着なさい。そのために ほろびなさい。  ――もし どうしても 錯乱状態が好きなのなら 三度の飯よりも 狂気でいたいのなら そのときには 永遠の火の中に行きなさい。  ☆ などなどと はっきりと言ってやったほうが よろしいのではないでしょうか?  ▲ (エレミヤ書 17:6) ~~~~~~~~~~~~~~~~  かれは 荒野に育つ小さい木のように  何も良いことの来ることを見ない。  荒野の干上がった所に住み  人の住まない塩地にいる。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういう人びとに対して 隣り人になるべきか ならざるべきか。なるなら どのようになるべきか。    これまで たとえばこの質問において わたしは すでに 失敗をいくつか喰らいました。ですが 姿勢は 変わっていません。  失敗の場合は ひとりの者が すべての人びとを説得することは出来ないと考えるからです。また そういうふうに だめな場合は だめとして 深追いはしないという意味でのけんかです。どうでしょう?

  • kebiiiiin
  • ベストアンサー率64% (25/39)
回答No.124

僕がキリスト教だからといったのは 後悔つまり良心という概念が神から与えられたものだと信じているからです。 つまり無神論者にはこの論法は通用しないという意味で言っただけです。 存在を愛し 思想や行動を憎むこと。 それでいいのでは。 相手もおなじ感情を抱いているうえでけんかするならば、それでいいのではないでしょうか。 聖書にも人は人によって磨がれるとありますからね。 後悔という概念は誰かを傷つけてしまったという思いから生じるものですから 誰も傷つけていないなら後悔もしませんし 喧嘩も大いに結構でしょう。 だれかを傷つけても後悔しないというならば 僕は何も言えません。

bragelonne
質問者

補足

 kebiiiiin さん おはようございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  おおよそ 同じ出発の地点に 互いに 立てたのではないでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  存在を愛し 思想や行動を憎むこと。  それでいいのでは。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・・・  誰も傷つけていないなら後悔もしませんし  喧嘩も大いに結構でしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《傷つける》という一点のみ わたしにちがった考えがあります。それを述べて 吟味検討していただければと思います。  ○ ひとは その心が ひとによって 傷つくということは ほんとうには ありません。あり得ません。  ☆ こういう命題です。すでに 次のように述べています。ここに言うけんかをしても かまわないという理由にもなりますので 掲げます。  ☆☆ (No.87補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  世間のうわさや他人による誤解によって ひとの心が 傷つくということは ほんとうには ないということを知ってください。  人間は 孤独ですが どうしようもなく孤独ですが 社会的な動物でもあって その孤独の関係としても 存在しています。このことをも感じてください。  あの御仁でさえ 拉致の事実を認めました。経済援助を引き出すための計算づくであったとしても いわば裸になりました。孤独の姿を みづからのもとに 確認したはづです。  むろん 世の中にあって ひとは 裸のまま 生活しているわけではありません。(わたしくらいですかね? 能天気という裸は)。顔をつくって生きています。いるようです。コギトとやらの理性で生きるようになったので 飾りをつけ 自分のまわりに塀をめぐらしているでしょうね。へえーえ。いや どうしても 財産やら権利やら面子やらを守らなくてはいけないようで 囲いを築いているでしょうね。カッコイイ。いや ぎゃくだ。  裸になれないだけですよ。その親友の職場の同僚の方も。親友の心が分かったかも知れないし 分かっていないかも知れない。分かったけれども 恰好をつけて やり返して来たか 分からずにふたたび怒ったか。  しかしながら そういう心理としての心の動きは 心という海の表面に立つ波風だと思います。孤独と孤独の関係で 海全体は成り立っています。  親友は この海面の波をも 相手の心をおもんぱかって 自分の心の中に 一たん 引き取ったのでしょう。引き受けたのでしょう。その分 あたかも 心の芯の部分に そのわだかまりがあるかに思っていたのでしょう。どうでもよくはないでしょうが 互いに 表面の波風の問題だと捉えましょう。裸の部分のほうが こころですから。そして この奥の部分は 傷つくということはないと思われます。ひとが傷ついたかも知れないという思いやりで あたかも自分も傷ついているかに 思っているのだと思います。  (自分が自分につくうそ この嘘で 自分が 傷つくことはあります。存在としての自然本性なる善を損傷させるのが うそなのですから)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • kebiiiiin
  • ベストアンサー率64% (25/39)
回答No.123

あとあと嫌な思いをするからです。 後悔という概念は人間にとって良くない事柄を犯したときにおこるからではないでしょうか。 まぁ殺人を犯しても後悔しない人もいますけど。 僕はキリスト教なのであしからず。

bragelonne
質問者

お礼

 kebiiiiinさん ご回答をありがとうございます。  この質問に初めてのご参加だと思います。なぜ そんなことを言うかと言いますと なんで まだ この質問を開いているのだろうと 自分ながら 思うものですから まだ ご投稿を考えている方がいらっしゃるのかなと思いました。つまり まだ 思索ないし回答の展開の余地があるのかも知れません。  さて  ★ 僕はキリスト教なのであしからず。  ☆ こうおっしゃる意味が よく分からないのですが それは たとえば 《教義によって 〈けんか〉という言葉を聞けば 反対だと表明しなければならないと決まっている》というようなことをおっしゃっているのでしょうか?  それは それなら 《文字はころし 霊は生かす》に逆らっておられると思います。  それは それとして まづ  ★ あとあと嫌な思いをするからです。  ★ 後悔という概念は人間にとって良くない事柄を犯したときにおこるからではないでしょうか。  ☆ そうしますと 《いやな思いをしなければよい》ということですね。また 《たとえ後悔しても 良くないことではない内容としてあれば よい》ということですね。  それは たやすいことです。かんたんです。  ○ 存在を愛し 思想や行動を憎むことです。  ☆ 相手の思想や行動の欠陥を 自分の内に認識し これを憎む。つまり みづからの内に棄てる。憎む=棄てるのは 徹底的に 憎み棄てる。そのとき この欠陥から自由になることを 相手に伝える。つまり 批判をおこなう。そのとき 欠陥から自由になったとき おのれの内に伴なった感情が 外ににじみ出るかも知れない。それは 出るに任せる。  こういった一連の批判という行為 これが ここで言う《けんか》です。  後悔も嫌な後味もないですよ。一考してみてください。  ★ まぁ殺人を犯しても後悔しない人もいますけど。  ☆ 後悔は あまり関係ないでしょう。闇の中で這いすすむおのれの姿を いやというほど 覚えることになるでしょう。死にたいと思っても 決して 死ねないようになるのではないでしょうか。

noname#82286
noname#82286
回答No.122

>★ 賛成です。  ☆ は ひるがえして 見解が 変わったのでしょうか?> いいえ変わっていません。 喧嘩というのは相手を破滅させる目的があったり強要させる目的あったり横取りしたいという気持ちがあったり、自分の意見を貫き通したいという気持ちがあったりするわけですから、相手側の自由を奪うことになる場合がありますよね、でしたらそれは『自由な意見の交換』とは言い難いだろうと思います。喧嘩の場合自分にとって自由な表現ではあるかもしれませんが相手側を抑止する場合もありますから必ずしも自由とは言い難いと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。    ★★ これはおそらくご自身の確証性バイアス的な判断に過ぎないと思います。

noname#82286
noname#82286
回答No.121

>ここでの《〈自由な意見交換〉という初めの原則》が 次に言う《原則》と同じではないとおっしゃっているのでしょうか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆《互いに批判しあい よりよい回答内容に 互いに たどり着く》という見解>が果たして>一般的に言ってどこまでも原則として有効>なのかというはなはだ疑問です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ちょっと おふざけが過ぎるのではないでしょうか。> 今一わからないのですが、原則として有効かどうかが疑問だと感じるんですよ。なので無論不可能とか必ずしも有効でないも言い切れませんが結果が問題になってくるでしょう。 >☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ★ これはおそらくご自身の確証性バイアス的な判断に過ぎないと思います。   ☆ よ。どうでしょう?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《ご自身》とは 誰れでしょう?> bragelonneさんです、まあ、その時点としか分かりませんが、もしくはその意見に賛同する人たちということになるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 つぎのNo.75での  ★ 賛成です。  ☆ は ひるがえして 見解が 変わったのでしょうか?  ● (No.123 お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。   次のご文章を 想起してください。   ★★ (No.75) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    >その場その場 その人その人に応じて だと考えられると同時に むしろ 自由な意見交換という初めの原則に忠実であること この方針が よいように いまは 思っておりますが どうでしょう。>   賛成です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ おそらく 《死守する》ということばが 誤解を生んでいるのではないでしょうか。《どこまでも有効であり 守る》という意味です。   《守り方》には 《その場その場 その人その人に応じて》の対処の仕方があります。   ここでの《〈自由な意見交換〉という初めの原則》が 次に言う《原則》と同じではないとおっしゃっているのでしょうか?   ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     ☆《互いに批判しあい よりよい回答内容に 互いに たどり着く》という見解>が果たして>一般的に言ってどこまでも原則として有効>なのかというはなはだ疑問です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ちょっと おふざけが過ぎるのではないでしょうか。   ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     ★ これはおそらくご自身の確証性バイアス的な判断に過ぎないと思います。     ☆ よ。どうでしょう?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 《ご自身》とは 誰れでしょう? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#82286
noname#82286
回答No.120

>○ 《原則》は 一般的に言っても どこまでも 原則として有効である命題を言うものです。>  それはわかりますが>☆《互いに批判しあい よりよい回答内容に 互いに たどり着く》という見解>が果たして>一般的に言ってどこまでも原則として有効>なのかというはなはだ疑問です。 >○ その意味で 《死守すべきもの》です。> なので死守すべきものではないと思います。 >○ 《死守すべきもの》だと言ったからといって この命題を 何が何でも しかも 機械的に 行動に移すということは 意味しません。> 異議なしです。それは大前提ですね。 >○ 相手や情況を見て その原則の有効性を いちばん 有効に 実現させうるように むろん とりはからうものです。> 望ましいでしょう。 >したがって もし 原則だと認めるかどうかのそういった大前提の段階で  ★ これ主観だということ分かります?共通性があろうが無かろうが主観の良し悪しということが分かるでしょうか?  ☆ とおっしゃるのでしたら それは つまり  ★ これはおそらくご自身の確証性バイアス的な判断に過ぎないと思います。  ☆ よ。どうでしょう?> そうです。それが言いたかったんです。

bragelonne
質問者

お礼

 TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。  次のご文章を 想起してください。  ★★ (No.75) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    >その場その場 その人その人に応じて だと考えられると同時に むしろ 自由な意見交換という初めの原則に忠実であること この方針が よいように いまは 思っておりますが どうでしょう。>  賛成です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おそらく 《死守する》ということばが 誤解を生んでいるのではないでしょうか。《どこまでも有効であり 守る》という意味です。  《守り方》には 《その場その場 その人その人に応じて》の対処の仕方があります。  ここでの《〈自由な意見交換〉という初めの原則》が 次に言う《原則》と同じではないとおっしゃっているのでしょうか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆《互いに批判しあい よりよい回答内容に 互いに たどり着く》という見解>が果たして>一般的に言ってどこまでも原則として有効>なのかというはなはだ疑問です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ちょっと おふざけが過ぎるのではないでしょうか。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ★ これはおそらくご自身の確証性バイアス的な判断に過ぎないと思います。   ☆ よ。どうでしょう?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《ご自身》とは 誰れでしょう?

noname#82286
noname#82286
回答No.119

補足受け付けました。 色々読んでなるほどと思いました、結構まともに考えているんだなーという感じですw 一つ言って起きた点があるんですよ、それが主観の満足という部分です。以前似たような指摘をして「必ずしもそうではないでしょう?」という指摘をされたことを思い出しますが、実は必ずしもそうなんですよ、 >でも あのひとでさえ 拉致を事実として認めましたよ。  ★ 相当苦痛に感じる  ☆ ことがあったのではないでしょうか。その火の中をくぐり抜けて来て 犯罪があったことを認めたのですよ。  ○ 《互いに批判しあい よりよい回答内容に 互いに たどり着く》という見解  ☆ は 原則であり 死守すべきではないですか?>  言っても無駄かもしれませんが>☆ は 原則であり 死守すべきではないですか?>これ主観だということ分かります?共通性があろうが無かろうが主観の良し悪しということが分かるでしょうか?これは>☆ 『の』 原則『を強要させてやりたい』 死守『させてやりたい』>ということだということが分かりますか?無論それが前向きに働く場合もあるでしょうが、あくまで主観の押し付け欲求でしかないということが分かりますか?無論これを客観的に共感できる人も居るでしょう、否みません。間違いとも言いませんが時と場合によって大いに変わる、もしくは有効に働き難くなる場合があるんですよ、おそらくこれは主観的な本能満足にしかしたらないと思います、これはおそらくご自身の確証性バイアス的な判断に過ぎないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 TENNTENNSEVENOKさん アドワ゛イスをありがとうございます。  ですが 誤解があると考えます。どうでしょう。  ○ 《原則》は 一般的に言っても どこまでも 原則として有効である命題を言うものです。  ○ その意味で 《死守すべきもの》です。  ○ 《死守すべきもの》だと言ったからといって この命題を 何が何でも しかも 機械的に 行動に移すということは 意味しません。  ○ 相手や情況を見て その原則の有効性を いちばん 有効に 実現させうるように むろん とりはからうものです。   したがって もし 原則だと認めるかどうかのそういった大前提の段階で  ★ これ主観だということ分かります?共通性があろうが無かろうが主観の良し悪しということが分かるでしょうか?  ☆ とおっしゃるのでしたら それは つまり  ★ これはおそらくご自身の確証性バイアス的な判断に過ぎないと思います。  ☆ よ。どうでしょう?

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     この質問は リワ゛イワ゛ルです。あたらしい見解は さほど出ないかと思っておりますが いろんな角度からあらためて見直しておきたいと考えました。どうぞよろしく。  ○ (前身の質問での趣旨説明です。)~~~  ここでは けんかを 口論にしぼってください。  つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。  存在を愛し 〔まちがっていると思うところの〕思想や行動を憎むことです。  なぜ いけないのでしょう?  理由が分かりません。おしえてください。  ~~~~~~~~~~~~~~  そこでのべストアンサーをも掲げます。それを出発点にしたほうがよいと考えました。あまり後戻りは したくないと思うからです。でも 検討してみてください。  ○ (べストアンサー) ~~~~~  口げんかは、良いと思います。手が出るよりは、ましですし、  競いあうようなスポーツは嫌ですが、  絶縁は互いへの臆病さを増しますし、ここち悪く、  自分自身と口げんかできないひとは、まずいです。自身との絶縁ですから、  自己批判できないひとは、建設的な口げんかをできないと思います。  自己批判できないひと同士のけんかは、怖いので否定の対象です。  口げんかに止まらず暴力になり心身を壊しあうことになりそうなので。  自己批判できる人どうしだと口げんかは長引かないかもしれません。つつましいでしょうし。  けんかしつづけるということは、両者ともにか一方に自己批判するスキルがないということなのでしょうか、  互いを批判するよりも多くまざまざと自己批判を開示しあうのが良いのかもしれません。  互いの精神性や人間性に関し建設的であるには。  ひとびとが自己批判のスキルを高めてゆくには。  頭と言葉を使い陰気な精神のストリップをどこまでもするのが良いのだと思います。  徹底的な自己批判、自分と向き合うこと、自省を、したことがない人は、けっこう多いと思います。大人にも、  自己批判のしかたを、あまり学ばないかもしれません、  自己批判に関して、ひとびとは教育も開発もされず、  ほとんどの教師も親も自己批判なんかしていないかもしれませんし、  思考停止の世の中で、自分は正しいのだという態度の人や集団や情報ばかりが満ちていますし、  ・・・(あと省略します)・・・  ~~~~~~~~~~~~  ☆ (この回答の筆者の方には 掲載について事後承諾になりますが よろしくお願いいたします)。  ☆ このように自己批判が 基礎であると質問者も考えます。  これが 哲学としての対話である。こう考えるという意味です。  むろん その自己批判を終えたあとの見解や思想に 賛同する場合 これも 対話であることは言うまでもありません。    さて 対等で自由な 建設的なけんかを どうぞふるって寄せてください。つまり 哲学におけるけんかという主題についての情報交換となります。(これは 念のために 自分の主張を推し出すためのものではなく またアンケートをとるためでもないということを表わしたものです)。

  • なぜ人びとは けんかをしないのか?

     なぜ人びとは――マドモアゼル・紗江のように―― けんかをしないのか?  1. 《なぜ けんかをしては いけないのか?》という質問をしたことがあります。  ○ (趣旨説明)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ここでは けんかを 口論にしぼってください。  つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。  存在を愛し〔まちがっていると思うところの〕思想や行動を 憎むことです。  なぜ いけないのでしょう?  理由が分かりません。おしえてください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  2. そこでのべストアンサーを掲げます。それを出発点にするのがよいと考えました。ながいですが 検討してみてください。  ○ (べストアンサー) ~~~~~~~~~~~~~~  3. 口げんかは、良いと思います。手が出るよりは、ま しですし、  競いあうようなスポーツは嫌ですが、  絶縁は互いへの臆病さを増しますし、ここち悪く、  4. 自分自身と口げんかできないひとは、まずいです。 自身との絶縁ですから、  自己批判できないひとは、建設的な口げんかをできないと 思います。  自己批判できないひと同士のけんかは、怖いので否定の対 象です。  口げんかに止まらず暴力になり心身を壊しあうことになり そうなので。  5. 自己批判できる人どうしだと口げんかは長引かない かもしれません。つつましいでしょうし。  けんかしつづけるということは、両者ともにか一方に自己 批判するスキルがないということなのでしょうか、  6. 互いを批判するよりも多くまざまざと自己批判を開 示しあうのが良いのかもしれません。  互いの精神性や人間性に関し建設的であるには。  ひとびとが自己批判のスキルを高めてゆくには。  頭と言葉を使い陰気な精神のストリップをどこまでもする のが良いのだと思います。  7. 徹底的な自己批判、自分と向き合うこと、自省を、 したことがない人は、けっこう多いと思います。大人にも、  自己批判のしかたを、あまり学ばないかもしれません、  自己批判に関して、ひとびとは教育も開発もされず、  ほとんどの教師も親も自己批判なんかしていないかもしれ ませんし、  思考停止の世の中で、自分は正しいのだという態度の人や 集団や情報ばかりが満ちていますし、  ・・・(あと省略します)・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  8. このように自己批判が 基礎であると質問者も考えます。    9. それが 哲学としての対話である。そう考えるという意味です。  むろん その自己批判を終えたあとの見解や思想に 賛同する場合 これも 対話であることは言うまでもありません。    10. さて 対等で自由な・《感情論理》を避けた建設的なけんかを どうぞふるって寄せてください。なぜ そうしないのか? という問いです。  11. ▲(コトバンク/ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典:感情論理(読み)かんじょうろんり(英語表記)logique de sentiment; affective logic)~~~~  12.. 論理的な筋道をたどっているようにみえながら,感情的な因子が思考の過程やその方向を規定しているような場合に,感情論理が働いているという。  13.  T.A.リボーによれば,理性の論理は結論に向うのに対して,感情論理は目的に向うとされる。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  14. 吾人は 塚原・ロジックから――さらには クウキ・マジックから――自由にならんことを!

  • 哲学は けんかである。

     1. 哲学は けんかである。  2. 同じくけんかである自然科学は しかしながら その仮説を実証しえたなら 結着はつくのに対して 哲学の場合には なかなか決着がつかない。社会科学にしても社会の一部ないし全体において実験をするしかなくなるが 哲学なら――特にはその基本が存在論にあるだろうから―― 結着をつけることは並大抵の問い求めではむつかしい。  3. ゆえに 段階をそのつど高めつつも 永遠に対話をつづけなければならないという意味で 哲学は けんかである。  4. ならば けんかの方法があるはず。  5. 何よりもまづ先に 相互に見解を明らかにしたならば それを認識せねばならない。  6. それには相手の言い分をまづは全面的にただしいと見なして受けとめるのがよいのではないか。そうすると 間違いについて早くよく分かる。  7. とうぜんのごとく 同じ内容を共有する部分とそして異なった見解を持つ部分とに分けられ 特には後者の――けっきょくこちらとしては間違いだと思うところの――相手の見解について批判する。  8. 批判がなければ 全面的な互いの同感に到ったという対話の場合を除けば 哲学・思想ではないであろう。  9. むろん哲学は 思想がおのれの見解に従って突っ走るのに対して 一たんはその独走を禁欲し あらゆる可能性を考慮しながらあらゆる場合について迂回作業としての認識や思索を 行動への準備段階としておこなう。おこなうのであるが ただし それではまだ生きていない。それだけでは 生きていない。  10. したがって まったく同じ世界観を共有する場合を除けば 哲学するということは 互いの見解についての批判合戦となる。  11. どういうわけか 批判はするな・自己主張はやめよ・議論をするのはみっともないという通念がまかり通っているように見受けられる。  12. とすると どういうことになるか? いつかどこかで――たぶん外国発という――お墨つきが出れば それを有力な仮説なりあるいはすでに定説なりとして その説の中身を《研究する》ことが 哲学だということになる。のであろうか?  13. そのような手枷・足枷をありがたがってあとは熱心に――自己主張は禁欲して――研究に没頭する これが 哲学であり学問だというのであろうか?  ご教示ください。  14. ちなみに《価値自由》を説いたヱーバーとか言うひとも おのれの価値判断を―― 一たん控えるとしても――しないと言っているのではない。  15. 自分で自分の手足を縛る《禁欲主義》は いったいどこから出て来たのか? 《お墨つき》〔をありがたく戴く〕というのは 明らかに価値判断であり自己主張であるのに。

  • ケンカばかり

    大学で友達になった男の子がいます。なかなか相性が悪いらしくていつもケンカ腰です。私が真面目な、相手が楽天的な性格のせいか、相手の行動が受け入れられないのです。 相手は遅刻しても謝らない。遅刻は許せるけど謝るくらいはしてと言うと、「友達やのに硬い」と言われます。そんな感じでいつも軽く口論すると、周りは「微笑ましい」「いい幼なじみみたい」と笑います。 なんだかんだ言いつつ私は彼をとても好きですし彼とは一生続く友達でいたいです。私のそういう気持ちを周りはわかっているからこそ「微笑ましい」と言うのだと思います。 けど、こんなにもケンカばかりだと彼にとって私はただの「口うるさい人」になってしまうんじゃないでしょうか?こういう相性の相手とどうしたら仲良くケンカせずにつき合えるでしょうか?

  • 喧嘩ばかりは相性が悪い?

    付き合って3ヶ月の彼女と、喧嘩(口論?)ばかりしています。 理由は大体、くだらないことばかりなのですが 考え方の違いによるすれ違いや、お互い恋愛に対して不安がりな為、衝突するのが主な原因です。 彼女は、「こんな事ばかりで嫌だ」「めんどくさい」とも 「本当に嫌なら相手しないけど向き合う事が必要なのもわかる」「好きだし一緒にいたい」とも言っています。 付き合い始めより、少しずつですが口論は減っていますが 喧嘩ばかりする関係とは、相性が悪いのでしょうか?

  • 彼女と喧嘩してしまいました

    彼女と喧嘩してしまいました その理由は、2日前で3ヶ月なのに、彼女から一回も「会いたい」とかデートの誘いもないから 本当に俺の事好きなのかな?って思って 彼女に聞いたら「ゴメン、出来る限り、頑張るから」って言われたのですが いっつも彼女はそう言ってもなんもやってくれなかったりします なので、「いい加減にして欲しい」と言ったら 「出来ない事はできない!」って言われ、そこからどんどん口論となっていきました それ以来、彼女にメールしても返信が来なくて、謝りたくても 謝れない状況です なんで、なんでしょうか? 長々すいません

  • 「喧嘩」とは?

    投稿するカテゴリーに迷いました。 「メンタルヘルス」?「心理学」?ひょうっとして 「社会学」かも・・・なんて。 私は喧嘩することができません。 一般には「喧嘩」は「起点」であって「終点」ではない。 「破壊」ではなく「建設」だという意見が大半のように感じます。 そんなことは頭では分かっていても、気持ちがついてきません。 少しでも批判的なことを言われると 心臓がバクバクし、身体がワナワナとなります。 「相手に自分のことをわかってもらいたいから」・・・ けれどもそのような手段としての喧嘩(口論?)が、 私には関係の幕引きになってしまうのです。 「分かって欲しい相手」=「分かっていない私」 という方程式が私を苦しめます。 ホイッスラーという画家は、 「この小さな一枚の絵を否定することは私のこれまでの全人生を否定することだ!」と言ったといわれています・・・ これは独特の感じ方で理解を求めるのは困難ですが、 私には、「部分否定」ということがわかりません。 ホイッスラーの言葉を借りれば、「お茶の飲み方」を否定(注意)されたということは、 「私という人間全体を否定されたこと」になってしまうのです。 相手に対しても同様の考えがあるので、相手の一部を否定することは相手の存在を否定することと思い、嫌なことも口にはしません。 更に言えば・・・人を矯正しようとは思いません。 相容れない考えを持つ者と関わることの意味がわからないからです。 それが夫婦であっても、友達であっても、親しい関係の者であっても、 (しかし皮肉なことに私には以上のことからパートナーも、友達も、 親しい人もいません・・・) 「ヤマアラシジレンマ」という言葉を聞いたことがある方も多いでしょう。 2匹のヤマアラシがお互い暖をとる為にくっつこうとするのですが、 お互いの針が刺さって近づけない。 何故こんな風に考えてしまうのか自分でもわかりません。 言いたいことも言わず、相手の批判に耳を塞いで生きるのに疲れました・・・ http://okwave.jp/qa3138021.html

  • 武士道における喧嘩

    喧嘩口論禁止令と、喧嘩両成敗って何がどう違うのですか? 武士道における喧嘩について調べていますが、まったくもってちんぷんかんぷんです。 徳川幕府に変わり平和になったことで、武士は戦闘者として戦うことがほぼ無くなりました。武士が戦闘者として唯一本領発揮出来る場が「喧嘩の場」だったわけですよね? そこまではわかるのですが、調べていくうちに喧嘩口論禁止令と喧嘩両成敗が出てきて、何がどう違うのかわからなくなりました。 たとえば「お前の母ちゃんでべそ」って相手から貶されたら、上記の法はどのように適用されますか?

  • ケンカするほど・・・

    この前、以前先輩後輩関係にあった方と口論となりました。 それを、周りの方に相談した所「お互い好きなんじゃないの?」とか「仲良くなければケンカできない」といわれました。 確かに、先輩は誰かに物をいうということはほとんどありません。そこまで仲良し・・という風ではなかったのですが、周りからは仲がよく、よく似た先輩後輩だと感じて見れていたようで・・又お互い結婚していますし、好き嫌いというのはありません。大なり小なり、口論の内容にもよりますが、ケンカするのはやはり仲がいい証拠ですか? 私は正直、少し嫌われたんではないかと思っています。内容を詳しくご説明できないで申し訳ないのですが、皆さんはどう思われますか?色々教えてください。

  • 打合せでケンカになったら、どうしよう。

    今日、会社で打合せがあったのですが、 その中の男性2人で、荒々しく口論が始まってしまって。 その状況がとても恐くて、心臓ドキドキで。。 結局その場では、声を出すことも出来ませんでした。 その時、何も言えなかった自分に、自己嫌悪感でいっぱいです。 半分、ケンカみたいな状況である雰囲気を、冷静にできるような、 雰囲気を変えられるようなコツとかあったら、教えて頂きたいです。 よろしくお願い致します*_ _))ペコリン