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けんかをしては 何故 いけないのか

 ここでは けんかを 口論にしぼってください。  つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。  存在を愛し 思想や行動を憎むことです。  なぜ いけないのでしょう?  理由が分かりません。おしえてください。

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noname#82450
noname#82450
回答No.100

 ここで100をとらせていただきます、仁科です、  おじさんお久しぶりです、  口げんかは、良いと思います。手が出るよりは、ましですし、  競いあうようなスポーツは嫌ですが、  絶縁は互いへの臆病さを増しますし、ここち悪く、  自分自身と口げんかできないひとは、まずいです。自身との絶縁ですから、  自己批判できないひとは、建設的な口げんかをできないと思います。  自己批判できないひと同士のけんかは、怖いので否定の対象です。  口げんかに止まらず暴力になり心身を壊しあうことになりそうなので。  自己批判できる人どうしだと口げんかは長引かないかもしれません。つつましいでしょうし。  けんかしつづけるということは、両者ともにか一方に自己批判するスキルがないということなのでしょうか、  互いを批判するよりも多くまざまざと自己批判を開示しあうのが良いのかもしれません。  互いの精神性や人間性に関し建設的であるには。  ひとびとが自己批判のスキルを高めてゆくには。  頭と言葉を使い陰気な精神のストリップをどこまでもするのが良いのだと思います。  徹底的な自己批判、自分と向き合うこと、自省を、したことがない人は、けっこう多いと思います。大人にも、  自己批判のしかたを、あまり学ばないかもしれません、  自己批判に関して、ひとびとは教育も開発もされず、  ほとんどの教師も親も自己批判なんかしていないかもしれませんし、  思考停止の世の中で、自分は正しいのだという態度の人や集団や情報ばかりが満ちていますし、  私はかなりパラノイアっぽいせいか自己批判という言葉ばかり記述しますが、    きっとブラジュローヌさんは自己批判してきたでしょうし、しているでしょうけれど、  他者に対して自己批判よりも他者批判を多く示しがちなのかも知れません。  対話において剛と剛とでは互いに警戒しあい心の耳を閉ざしあいます、たぶん、  なので、すきを見せるとよいと思います、  弱みや、くよくよしている感じ、自信のなさを、垣間見せるとよいと思います、  そうすりゃいちころです、不完全なものに日本人は弱いかもわかりませんすら、  あえて、おやおや、おじさん負けちゃったようだ、というのは余裕なのですが、  そういう嘘や演技じゃなりません、  子どもの水準は大人よりも上です、たぶん、  大人なんか、いないのです、こんな分業ばかりの社会に一人前の人なんかいません、  狂おしい社会に順応してしまった大人は、完成度の高い狂人ばかりです。  交換券(貨幣)や労働や国などの、反アナーキーでヒエラルキアなものがひとびとを不出来な生きものにしています、  部品になっている社会人より、まだ分裂していない子どもたちのほうが個体としてはまだまともで、  未熟な大人、すなわち子ども、つまり私は健やかなのかもしれません、  私は不完全で、自信がなく、それゆえにとても謙虚で、謙虚でもなく、なんだか正しいようで、  正しいというか健やかです、不完全であるがゆえにか健やかです、  今日も私は健やかです、おはようございました、  私にとり他者一般は狂人で、ひとびとの心は壊れていて、  もう大破しているものならいっそ全壊させたいという思いがあるのか、  他者の心をすきあらば壊したがるのは私の癖としてあり、弱いものいじめは面白く、    子どものざれごとは、狂いっぱなしの大人らのたわごとより健やかなのかもしれません、そう信じます、  大人はペニスも汚ければ組織の汚い秘密をも隠すので否定の対象です。

bragelonne
質問者

補足

 ni_shi_naくん――《おぢさん》呼ばわりしたので くんづけ―― めっちゃ 冴えてるやん! どうしたの? ここで悪友どうしだと 何か変なものを食ったんっちゃうか? と突っ込むところですが 冗談は それくらいにして ご回答をありがとうございます。  もう少し長引かせるなら どこで勉強して来たん? 三日見ないうちに しゃれのめしていますではないですか。  と言っても 爪を隠していたのですかね。片鱗のみを見せていたのですかね。  まぁ おぢさんとしましては 最後の最後の一文が まだ練れていないね。あとは かがやいています。  ★ 大人はペニスも汚ければ組織の汚い秘密をも隠すので否定の対象です。  ☆ 《否定の対象》を持ち出してくるようぢゃ まだまだだね。持っていても いいのですが 表現するときには 否定形で言いきらないほうがよいでしょう。  むろん 自己否定をするのですが しかも とことん するのですが 表現は おおむね 肯定の形で出してきたほうが よいでしょう。  ★☆ 対話において 否定形で命題を提出すると 警戒しあい心の耳を閉ざしあいます、たぶん。  ☆ 一般に 肯定形にすると  《すこやか》ですし 《安心》をもたらします。  やっぱり 《おぢさん》気取りになってしまいますね。  では よけいに えらそぶって行きましょう。  ★ 交換券(貨幣)や労働や国などの、反アナーキーでヒエラルキアなものがひとびとを不出来な生きものにしています、  ☆ この箇所は 読み取りにくいですよ。表現の未熟が 思想の未熟として見られかねないのが 上に示した一箇所で そして表現じたいが読み取りにくいのは この一箇所です。  ということは わたくしも 否定形から入っていますね。肯定するところから始める ほめて育てるというぢゃないですか なんですが ここは 鬼になりましょう。もう育てる段階ぢゃないようですから。(ちょっと ほめすぎ)。  〔わたくしなんか 三十歳になるまで 世の中の 西も東も分かっていたけれど なぜ 南が西になり 北が東になるのかを 考え続けて ちんぷんかんぷんだったんですから。なぜ ひとは 平気で 東を西と言い 聞いているわたしが そのことをいぶかっているのに なお平気で そのウソをつき通しているのか まったく分からなかったのですから〕。〔《悪は存在しない》という命題を聞いて すべては 空が晴れ渡りました。分析は そのあと おこないました〕。  ★☆ 頭と言葉を使い陰気〔* であり〕な〔* がらも 前向きでたくみな〕精神のストリップをどこまでもするのが良いのだと思います。  ★ ブラジュローヌ → ☆ (改名)ブラジュロンヌ  (cf. Sorbonne:ソルボンヌ; Catherine:カトリーヌ; Francine: フランシーヌ; Cannes:カンヌ〔 -s は発音せず〕)  ★ 狂おしい社会に順応してしまった大人は、完成度の高い狂人ばかりです。  ☆ 歴史知性の分類としての《ヨリ・イリ・ヨセ・コギト》に関連させ さらにくわしく その《発狂》の状態や社会情況のありさまを 分析せよ。(宿題だよん)。  あとは やはり 人びとのためになる仕事を もくもくと やっている人びとへの敬意と感謝の意を述べることを忘れずに触れていれば 百二十点満点です。  ミサイル発射に対応するため準備している人たちも おおぜい いますから。

その他の回答 (127)

回答No.57

maimaisusです。 >(1) わたしbragelonneの考えは わたしの提出している条件や情況のもとでは ひとつの妥当な見解として 受けとめることができる。と承認してくださったこと。 正確には、 bragelonneがbragelonneである為に、bragelonneの考えは、提出している条件や情況のもとでは ひとつの妥当な見解として 受けとめることができる。 と言った処でしょうか。 >(2) ただし この見解が 世の中のすべてにあてはまるとは限らない。つまり やはり 同じように妥当な内容を持った見解が 別にあって ひとそれぞれに応じて 持たれている。 大雑把な意見としてはそうですが、全ての人間に全ての場合に合わないと言っている訳ではなく、そう言うひとや、場合があると言うことを、言っている訳ですね。 そして、そう言う人や、場合の方が多いと思うのです。 もし、bragelonneさんの考え方、提案でその人間の、良い面がそがれたり、その人がその人らしさを、失う事になれば、それはそれでよくないとしか言えない、と言うこともあるかもしれん。 もちろん、良くなる可能性もありますけどね。それはそれで、問題にはならないと思います。 ですが、少数意見を大切にする、bragelonneさんにとっては大問題でしょ。 そう言う意味です。 >○ つまりは あちらにも あちらの見解があって それも 妥当である。もしくは 一概に 悪いとも 欠陥であるとも 言えない。こういうご意見でしょうか? 妥当(私たちから見て)かどうかは、分かりませんが、向こうには向こうの理屈がある事は確か?です。 まあ、もしかしたら理屈ではなく意見かもしれませんが。  >☆ ぜひ 上の質問に答えるかたちで その《根本的なこと》をおしえてください。どうでしょうか? は、正直、直接話さないと、いまの私では無理があろうかと思います。 >* つまり わたしの質問は あらゆる場合に当てはまる問題を 問うているつもりです。どうでしょう。 それは、この場所で、議論しているからそう思うだけです。 そう言った事を、中心又は重視している場合なら、それはそれで、良いと言う、見解もありますが、そうでない場合や、そうでない人達の場合は当てはまらないと思いますよ。 そう言うと、また、実例を挙げろと言われそうですがあえて挙げません、多角的に考えてください。 お願いします。 訳は、前回の回答で述べた通りです。

bragelonne
質問者

お礼

 maimaisus さん ご投稿をいただいて来ましたが やはり だめでしたか。その労に 感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。が もう 行き止まりのようですね。  ● (No.54お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ○ 自己の専守防衛のために 欠陥を自己の内面において憎み 棄てたことを 相手に伝える行為 これを選択する場合が ある。選択しなければならない場合が ある。  ☆ こう考えます。いかがでしょう?  * これは 具体的にどのようであるかというよりも 精神的に身の危険が迫っているという情況なのではないか。こう考えます。  * もう一点添えるなら つまりは 《逃げるなら そして 何も言わないなら その相手との人間としての関係を 断つことになる。つまり無関心という死の関係になる》 こう考えられることが 相手にことばで伝達する行為をえらぶ理由です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この考えと理由にもとづいて 最後の《ありがとうございました》をお伝えします。  なお これは  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  >☆ ぜひ 上の質問に答えるかたちで その《根本的なこと》をおしえてください。どうでしょうか?  は、正直、直接話さないと、いまの私では無理があろうかと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ に応答したものです。  今後とも この考えをもって 接していくつもりです。つまりは このお礼欄の文章を そっくりそのまま 応答として掲げるつもりです。  つまりは このようにする場合も あれば しない場合もある。ともに 自由である。ということのようですから。(わたし自身は これまで述べた来たように そうは考えませんが そう述べるひとの思想に対して――むろん その欠陥を指摘して来てもいますが ここに到れば―― 自由にさせるほかないと考えた結果です)。

回答No.56

maimaisusです。 んーそうですねー。まずは。 >(α‐3) 存在を愛する愛が足りていても 欠陥を憎む行為は そもそも いけないことである。 これですね、そう言う意味ではなくて、 存在を愛する愛が足りていたら、欠陥を憎む行為はしない。 と言ったところでしょうか。 そもそもね、、私も含めてそうだと思うのですが、これはbragelonneさんの質問に対する、回答者から見た客観視の意見な訳です。 bragelonneさんの言いたい事も、解らない訳ではありませんが、どうも、結果的に、回答者の思考を理解しないで、bragelonneさんの考え方を押し付けている形になっている処や時があるとと思うのです。 それに、何故私があまり具体的な事を引用しないかと言うと。 話が、関係のない方向に、向かったり、上手く引用出来ないと言う部分もあります、何より、そう言った事(体的な事を引用しない)ことで、変な先入観をはずして、色々な角度から物事を考えてもらいたいからです。 なので、前回回答も批判というよりは、私はこう考えていますよ、そう言う風に考えますよ。 って言ってる訳でです。 その先の、議論をする為には、こちら側の考え方の根本的な事からを理解していただかないと、難しいと思います。 しかし、その事は、他の質疑回答で無理だと、答えが出ているはずですが。 しかし、そこまでいかなかった、回答者のかたもいたかと思います。 人とは、言いっても無駄だと思えば、その時点で何も言わなくなる場合が多々あると思うのです。 もちろん、中には、感情的になり、ひどいこと言いてしまう場合も、有ると思います。 そう言う意味においては、どちらにも多かれ少なかれ、非があるのではないでしょうか。 ちなみに、私の場合は、質問者・他の回答者の参考になればいいと思い回答させて頂いてます。 そう言う訳で、bragelonneさん個人がそう考えるのであるならばそれはそれで、間違ってはいないと思います。 しかし、それを社会全体の考え方としようとするのであるならば、正しいとは、一概に言えないと思います。 適用判断が難しい場合が多々かったその他の場合が多くあるからです。 そうやって考えていただけると、 >(2) そのあと (ε)のように述べるのなら 《だれもが あやまつものだ》という意味のみになりますから  ではなくて、 人によって見方や感じ形が違う。 と言う事を言っている訳で、それを別に欠陥だと思っていないと言うことです。 あいかわらず、文章が下手で分かりにくい説明ですいません。

bragelonne
質問者

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そう言う訳で、bragelonneさん個人がそう考えるのであるならばそれはそれで、間違ってはいないと思います。  しかし、それを社会全体の考え方としようとするのであるならば、正しいとは、一概に言えないと思います。  適用判断が難しい場合が多々かったその他の場合が多くあるからです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 最後の一行は やや誤植だと思うのですが ここで 話が 進展して来ているのを見ます。要点は 二点です。  (1) わたしbragelonneの考えは わたしの提出している条件や情況のもとでは ひとつの妥当な見解として 受けとめることができる。と承認してくださったこと。  (2) ただし この見解が 世の中のすべてにあてはまるとは限らない。つまり やはり 同じように妥当な内容を持った見解が 別にあって ひとそれぞれに応じて 持たれている。  となりましょうか?  ずばり お訊きします。  ○ 北朝鮮政府が 対話を 一方的に 拒否していることは 悪であるのではないでしょうか? 欠陥であるのではないでしょうか? 指摘すべき場合も 自己防衛に応じて 出てくるのではないでしょうか?  ○ そして おそらく それは そうであるという答えが返ってくると思うのですが そのとき 上の(2)が ここにも 当てはまりますか?  ○ つまりは あちらにも あちらの見解があって それも 妥当である。もしくは 一概に 悪いとも 欠陥であるとも 言えない。こういうご意見でしょうか?  ★ その先の、議論をする為には、こちら側の考え方の根本的な事からを理解していただかないと、難しいと思います。  ☆ ぜひ 上の質問に答えるかたちで その《根本的なこと》をおしえてください。どうでしょうか?  * つまり わたしの質問は あらゆる場合に当てはまる問題を 問うているつもりです。どうでしょう。

回答No.55

naimaisusです。 存在を憎む→欠陥を憎む の訂正お願いします。

bragelonne
質問者

お礼

 了解です。  訂正したかたちで 引用しています。

回答No.54

maimaisusです。 回答の順番が変わりますが先にこちらの話から進めさせて頂きます。 >☆ わたしの考えでは 話し合いをしないことです。話を噛み合わさないことです。話し合いを 一方的に 停止・放棄することです。  むろん 思考するときの推論のまちがい つまり ものごとの非妥当性ということも 欠陥です。 何故、そう言うことになったのか、考えてみてください。 そこには、その時その時、bragelonneさんの気付かない、何かがそこにはあるのではないでしょうか。 私から見て、bragelonneさん自身、そう言った部分があった事はよくありましたが、そう言うときは大概、感情的な話になっていたと思います。 しかしそれは、あくまで、私から見た味方であり、bragelonneさん自身はbragelonne自身の基準や考えがあると思うのです。 そう言ったことを、踏まえれば一概に欠陥とは、言いきれないのではないでしょうか。 >○ 《存在を愛し 思想や行動〔の欠陥〕を憎む》という批判をおこなうのは いけないことですか? bragelonneさんは、こう言う回答は嫌だと思いますが、一言で言えば、どちらとも一概には言えない、と言う事です。 現実とは、そう言うモノです。 >《〈欠陥を憎む〉と言う形を取る》ときには 同時に《存在を愛しつつ》 おこなうという命題を提出しているわけです。それについて いい / いけない どちらであるかを おしえてくださいと問うています。 上記内容を理解して、頂けば、存在を愛しつつ、欠陥を憎むと言うことは矛盾していると言えるのではないでしょうか。 なので、存在を愛するのはいい事ですが、存在を憎む行為はいけないことだと思いますね。 存在を愛する愛が足りてないと言う見方も出来るのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆ ここでの( c )をわたしは言わば主張しているわけですが そして ほかの( a )も( b )も 間違いだと言っているのですが そうしますと ここから新たに続けるべき議論は 次のようなふたつの道にみちびかれましょうか?  ( d )=( a ‐1): 逃げる恰好であるが 主観の内においては 相手の思想に欠陥があるとは 思っている。その思いを 間違いでなければ 持ちつづける。  ( e )=( c ‐1):自分の内面において 欠陥を憎み棄てたことを 相手に 伝えない。それ以外は すべて ( c )である。  ☆ 考えてみれば これら( d )と( e )とは 互いに かなり歩み寄っているようです。   その上で わたしは なお次のように明らかにして おしえを乞いたいと思います。  ○ 自己の専守防衛のために 欠陥を自己の内面において憎み棄てたことを 相手に伝える行為を選択する場合が ある。選択しなければならない場合が ある。  ☆ こう考えます。いかがでしょう?  * これは 具体的にどのようであるかというよりも 精神的に身の危険が迫っているという情況なのではないか。こう考えます。  * もう一点添えるなら つまりは 《逃げるなら そして 何も言わないなら その相手との人間としての関係を 断つことになる。つまり無関心という死の関係になる》 こう考えられることが 相手にことばで伝達する行為をえらぶ理由です。  * つまり ( d )のように 黙して 論評を控えるよりも ( e )のように 明らかにしておくことのほうが むしろ 謙虚であるという見方です。

bragelonne
質問者

補足

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。  ★ (α) 存在を愛する愛が足りてないと言う見方も出来るのではないでしょうか。  ☆ したがって つぎのように おっしゃっているのだと理解します。すなわち  (α‐1) たとえ 百歩ゆづって 《思想や行動の欠陥を憎む。批判する》にしても まづは じゅうぶんにゆたかな愛を その相手の存在にそそがなければ それは ありえない。  (α‐2) 存在を愛する愛が足りてないなら 何をやっても 無駄であり それは いけないことである。  ☆ こういう結論を いまの段階で 示しておられるのではないでしょうか。  ★ (β) 存在を愛するのはいい事ですが、欠陥を憎む行為はいけないことだと思いますね。  ☆ このことの確認をも怠りなく しておきたいと思います。そして わたしとしましては それら両方が 同時におこなうこととして 成り立つと言っているのでした。  さて どうなりましょうか。  まづ その結論づけの前の段階で つぎのようにもおっしゃっていることを取り上げたいと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (γ) そこには(=《対話の拒否》を《欠陥》だと見るところには)、その時その時、bragelonneさんの気付かない、何かがそこにはあるのではないでしょうか。  (δ) 私から見て、bragelonneさん自身、そう言った部分(=《気づかない何か》)があった事はよくありましたが、そう言うときは大概、感情的な話になっていたと思います。  (ε) しかしそれは、あくまで、私から見た見方であり、bragelonneさん自身はbragelonne自身の基準や考えがあると思うのです。  (ζ) そう言ったことを、踏まえれば一概に欠陥とは、言いきれないのではないでしょうか。・・・一言で言えば、どちらとも一概には言えない、と言う事です。 / 現実とは、そう言うモノです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (1) まづ 手続きの問題を挙げます。(δ)のように批判するとき 同時に 存在を愛するというのは その具体的な事例を挙げることだと わたしは 考えますが いかがでしょう?  (2) そのあと (ε)のように述べるのなら 《だれもが あやまつものだ》という意味のみになりますから これによって(β)をみちびくことは出来ないと思いますが いかがでしょう?  (3) 言いかえるならば 同じく手続きの問題として 《何を〈批判すべき欠陥〉と見るか》の判断基準を――それなら―― 決めればよいのではないか とも考えられます。けれども そうではなく 《その基準は決められないから 欠陥を憎むという批判は すべからず》という(β)の結論になるということでしょうか?  (4) つまり そうすると (ζ)という一つの結びは 中間の確認事項であって 結論ではないということでしょうか? なぜなら 最終的には 最初に掲げた(α)が  結論として みちびかれています。  (5) つまりつまり   (α‐3) 存在を愛する愛が足りていても 欠陥を憎む行為は そもそも いけないことである。  (α‐4) なぜなら 欠陥を欠陥として判断する基準が ひとによって ちがうから。しかも その基準を決められるものではないから。  ☆ こういう論述内容でありましょうか。  ☆ 基準を決めることは出来るとわたしは考えますが それよりも 何よりも (α‐3)を論点とし 焦点としたいと思います。ちなみになお前提事項ですが  ★ (α‐5) 存在を愛しつつ、欠陥を憎むと言うことは矛盾していると言えるのではないでしょうか。  ☆ とも伺うことが出来ます。これなら maimaisus さんも 《〈欠陥があり 欠陥を憎む〉ということが 人間の行為として 起こる》ということを 承認しておられると受け取れますが そういう揚げ足取りは よしましょう。つまりは 《〈欠陥を憎む=その意味で 批判をする〉ことは そもそも いけないことである》(=α‐3)を 焦点としましょう。  どうでしょう。答えのひとつは   ○ 自己防衛が必要だから 批判は 必要である。  ☆ とわたしは 考えます。  ○ 自己防衛が必要なときに採る態度として ( a ) 逃げる ( b )口論を その内容の妥当性を省みず たたかわせる そして ( c ) 批判する=その思想や行動の欠陥を わが内に省みて これを 認識したあと その内面において 棄てる。棄てたということを 相手に 伝える。その意味で 相手に その欠陥の指摘をすることになる。

回答No.53

 bragelonneさん (回答番号:No.51)  はぃ、仰せのお話は理解できると存じます。つまり、bragelonneさん からのお話として勉強させていただきます。  私の話のご返事であるという、思いから自由になってご所論を勉強させていただきます。    仰せのお話に対して、更に何かを投稿することはどうも難しいと存じます。  また何か、投稿することに気づいて、まだ締め切られていないときは、お目を穢しますが、投稿させていただきますので、どうかよろしくお願い申しあげます。 

bragelonne
質問者

お礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。  そうですか。それでよろしいのでしたら 恐縮です。  《エゴ》とか《自我》とかという言葉を聞くと いつも 思うところがあったものですから それに ちょうど《批判》という問題にかかわっていると思ったものですから 出させていただきました。  精進してまいります。ありがとうございました。

回答No.52

maimaisusです。 >相手を その弱点をも合わせて 全体として・存在として 受け容れ理解しようとすること これは おっしゃるように ひとつの思想を成すと思われるのですが それは この質問での《欠陥を憎む》=《批判》をするときにも 保つことができる こう 思います。 の話ですか。 保つ事が、出来る出来ないの前に、《欠陥を憎む》と言う形を取るか、別の形を取るかは、人それぞれの形があって良いと思うのです。 では、どうしても憎まなくてはいけないのですか? そうでない、考えはあってはいけないのでしょうか? そもそも、欠陥って何? 答えは、多くの角度から見れば一つではないはずです。 と、言うのが前回の回答です。

bragelonne
質問者

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。少し 議論のようになって来ましたが 正解(複数でありうる)を問い求めての探究になると思います。  ★ 〔弱点ごと 相手の存在を 受け容れるという思想を〕保つ事が、出来る出来ないの前に、《欠陥を憎む》と言う形を取るか、別の形を取るかは、人それぞれの形があって良いと思うのです。  ☆ ちょっと 待ってください。この質問は  ○ 《存在を愛し 思想や行動〔の欠陥〕を憎む》という批判をおこなうのは いけないことですか?  ☆ です。  ★ 《欠陥を憎む》と言う形を取るか、別の形を取るかは、人それぞれの形があって良いと思うのです。  ☆ そうなのですが つまり それはそれとして ありますが そうではなく ここでは 問題を特定しています。  《〈欠陥を憎む〉と言う形を取る》ときには 同時に《存在を愛しつつ》 おこなうという命題を提出しているわけです。それについて いい / いけない どちらであるかを おしえてくださいと問うています。  ★ そもそも、欠陥って何?  ☆ わたしの考えでは 話し合いをしないことです。話を噛み合わさないことです。話し合いを 一方的に 停止・放棄することです。  むろん 思考するときの推論のまちがい つまり ものごとの非妥当性ということも 欠陥です。    このように考えていますが どうでしょうか。

回答No.51

 bragelonne (回答番号:No.48)  自分としてはおこがましいことを、敢えて続けています。  とてもえらそうなことをいえるものではりません。  “エゴ”、そして“自我”も西洋語であり、何か訳語でしょう?  “エゴ”っていう自己認識は、自分という認識を何か切り離していませんか。  つまり、“エゴ”っていうのは実は自分ではないと存じます、結論は。  だから“エゴ”でなくなった、自己、万物や根源(究極意識でもよいし、神でもよろしいと存じますが)から切り離さない意識が自己であり、そういう意識をさせないのが“エゴ”だと存じます。  だから“エゴ”は実在ではなく、神と万物、神と万物たる自分がいるだけなのでしょうね。  と、尋問に答えて漸くに、しどろもどろにとえらそうに申し上げる次第です。

bragelonne
質問者

補足

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。  そうですか。たぶん 定義のちがいから来るものと思いますが いちおう 話を継ぎます。  ★ “エゴ”っていう自己認識は、自分という認識を何か切り離していませんか。  ☆ わたしの理解するところを 初めから 述べるかたちを採ります。  《わたし》は《わたし》を 《自分という認識》をするときに 自覚すると思います。と同時に 普段は その認識を つねに 持っているものではないとも考えます。  つまり 普段は まづは 《エゴー》と言おうが 《わたし》と言おうが そういう存在が 実際に 生きている・生活しているというすがたがあるだけです。  《エゴー》を 《自我》と訳したり 思考する存在としての《われ》として規定したりするときには おそらく 自意識ないし自己認識を つねにと言うほどに 持っていて 緊張した状態にあるような《わたし》を言うのかも知れません。ただちに その自己認識をおこなえる用意があるやや強い意識としての存在を言うのかも知れません。  言ってみれば この《自我=エゴ》は こころの大海の上に立つ波のごとく 一つひとつの意志行為に応じて 意識的な存在となるかたちであり そういう実際のすがたであろうと思われます。  そうなると この《自我=エゴ》は はじめの《わたし》ないし《自分という認識》からは そこから出て来ているにもかかわらず いくらか おっしゃるように 離れてしまうかに思われます。  たしかに そのような事態を問題にしておられるのだと考えます。一般にも そうだと思います。《私をなくせ》とか《私心から離れよ》とか言うときには そういう意味があると思われます。  ただ 問題は わたしに思われるのですが この狭い姿を見せていると考えられる《自我=エゴ》も じつに はじめの《わたし》が 世間という大洋に そういう波として 立たせているものだとも考えざるを得ないことです。  でしたら この《自我=エゴ》を練り上げて行って はじめの《わたし》を保ち 確立するほかないように思うのですが どうでしょう? 外からあたかも内に入ってきたものであるなら その《自我=エゴ》を 捨てればよいわけですが 一たん 間違ってでも 《わたし》が意志して作り上げた自己の像なのですから これを なおも引き受けて そのあとに 練り直す。棄てるべきものは棄てる。つまり 批判する。間違いや非妥当性については 憎む。しかも 存在つまりわたしを わたしは 愛しているから そうする。――ということではないでしょうか。いかがでしょう。  なお   ★  “エゴ”、そして“自我”も西洋語であり、何か訳語でしょう?  ☆ 《エゴー ego =わたしは / わたしが》から 《イッヒ Ich 》も 《アイ I 》も 《ヤー / ジュ / ヨー / イーヨ》も出て来ています。《 g 》が 消えたり 《 e - o 》の母音が短縮したりして 出来たものだそうです。――いちいち 《自我》などという狭い意味で規定したりするものですから ややこしくなるのだと思うのですが どうでしょう。  そういうお応えを用意したかたちの 応答なのでした。ご一考いただければ さいわいです。つまり この問い求めでの《批判》にかかわると存じる次第です。

回答No.50

maimaisusです。 前回、回答は、あくまで私個人の内面の一部の見方なので、bragelonneさんの反論や否定ではありません。 (同時に、全く別の見解もあるという事です。) それに、bragelonneさんの中で、自分が自分である為に、感情や思考どうを使かは、本人の問題であり、私のどうこう言えるモノでもないので。 もしそれを、周りの人に、「そうあるべきだ」と、言うのであるならば話は別ですけどね。 何故なら、人間は皆同じではないからです。 私の基本的思考はより多角的にが基本なもんなんで、多少誤解があると思いますが、ご了承ください。 まあ、参考意見ですから。

bragelonne
質問者

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。  むつかしいですね。  ☆☆ (No.47補足欄の修正) ~~~~~~~~~~~~~~~~  相手を その弱点をも合わせて 全体として・存在として 受け容れ理解しようとすること これは おっしゃるように ひとつの思想を成すと思われるのですが それは この質問での《欠陥を憎む》=《批判》をするときにも 保つことができる こう 思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ こう申し上げます。  ★ 何故なら、人間は皆同じではないからです。  ☆ それゆえ 話し合いをするわけですから。そのために ご投稿をなさっているのでしょう?  こちらも  ★ 反論や否定  ☆ を――賛同とともに―― つのって おしえを乞うているわけですから。

回答No.49

 bragelonneさん (回答番号:No.46)  ☆ この箇所が 魅せられたる魂に関するものであるかどうかも 測りかねています。そしてしかも このご文章のままですと まだ 反応を持ち得るには到らないと 正直に 申し上げざるを得ません。  ★“魅せられたる魂”は独りの女性の生き方を小説にしたもので、その、各章、節に飾り的に、いろんなフレーズが引用されておりまして、小説のとり方次第ですが、直接“平和とは戦争のなきことならず”ということの展開という形はありませんが、当然にその示唆となっています。わたしの言葉もその理解からの思考でしかありませんので、小説がその内容だということではありません。 。ただし  ○ 批判としてのけんかは 避けられないものだ。  ☆ というふうに 賛同を寄せていただいたとも受け取られて来ますけれど いかがなんでしょうか。  ★批判やけんか、ということばを私も通常で使いますが、用語としては違和感が伴います。でも仰せの意味は理解申し上げましたといえると存じます。  アルジュナの苦悩をともなった思索の問題については 軽く――こんどは わたしが―― いなされてしまいました。  ★狭隘な私の心と頭脳ではとても。もう応えられることを応えただけでして。  直前のご回答ともども 合わせて ご批判の焦点となるところを さらに明らかにしていただけると――と 何度もお願いすることになってしまいますが―― わたしにとって 問い求めがすすむのではないかと思ったりしますが いかがでしょうか。  ★はい、何か気づきまして、まだ締め切り前でしたら、拙い投稿をさせていただきます。ありがとう御座いました。

bragelonne
質問者

お礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。  今回は もう しゃれた言葉どころか 何にも反応が出て来ませんで そう正直に申し上げるほかなくなっています。  ★ 批判やけんか、ということばを私も通常で使いますが、用語としては違和感が伴います。でも仰せの意味は理解申し上げましたといえると存じます。  ☆ 後半でご理解いただけたことに感謝しつつ 前半で触れておられるところは やはりやはり 到りませんで 何とも申し上げる言葉が ございません。ただただ 読み取る力に乏しく 立ちすくんでしまうのみです。そのすがたを そのまま 申し上げるほかないありさまです。  質問者とは かくも きびしい位置に自分を置くものなのかと 悔やみは していませんが 自問自問でお応えするよりほかありません。もう少し分かるように書いていただけるなら とも思ったりしますが どうしようもないようです。  でも 申し訳ないですが わたしは 開き直ります。分からないものは 分かりません。

回答No.48

 bragelonneさん (回答番号:No.45)  私としては、補足しなければならないと感じる事項はありませんが、後になって、気づきましたら、また投稿させていただきます(締め切っていなければ)。

bragelonne
質問者

お礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。  到りませんで。  振り返った結果 おぎないます。  ☆☆ (No.23お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしたちの為すことで エゴのなすこと以外のものは ありません。エゴー=イッヒ=アイ つまり 《わたし》のことです。  ★ 偏見  ☆ の中から どうか 人びとに共通の共同の考えとしての主観に到るように 練り上げて行ってください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういう言い方をしていますが それは 《エゴ》が問題となるとき 《エゴ》を離れては 何も為し得ないのではないかという見方を わたしから 提出しています。どうでしょうか? という問いかけになります。

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