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けんかをしては 何故 いけないのか

kebiiiiinの回答

  • kebiiiiin
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回答No.125

前者の方へ 神の存在という話が脱線しそうなので あまり多くは語らないことにしましょう。 最近は外国でも無神論の方々が活動を盛り立てていますが そのキャッチフレーズが 「神はいない。もっと人生を楽しもう」 神がいないならばこの方たちは誰に向って対抗意識を燃やしているのでしょう。 世の中の創造論者にむかって?真実はどちらもみたことがないのに。 鏡に向かって「お前はいない」といっているようなものでは? どこかで神の存在を忘れられないから、自分を誤魔化すために抵抗せざるを得ないのでは…と私は考えるわけです。 芸術を生み出せるのは人間だけ機械にはできない。 ある映画のワンシーン 弱肉強食という進化論では芸術など無価値なはずでは? さらにつよく、さらに進化を。 それとも芸術は進化の過程ですか? いらないでしょ。 人生を楽しむなんて、弱肉強食の進化論ではないでしょう。 芸術という賜物が神から与えられているとしたら? わたしたちは客観的事実から神の存在を信じることもできるし 疑うこともできる。 しかし決めつけてはいただきたくありません。 わたしは神の存在を疑いながら文献を調べています。 ・・・が、今のところは創造論という結論、というだけの話です。 あなたも無神論を疑いながら、文献を調べてみてはいかがですか? 疑いのないところには無知があるのではないでしょうか。 「心は他の何物よりも不信実であり,必死である。だれがそれを知ることができようか」。(エレミヤ書 17:9,新共同訳) まぁいいや。笑 話は戻り、こんにちは。 人を傷つけることはありえない。 これはあなたの主観であり客観ではありませんね。もちろん傷つかない人もいるでしょうが。 「心は他の何物よりも不信実であり,必死である。だれがそれを知ることができようか」。(エレミヤ書 17:9 新共同訳) 自分の心はあてになるものではありません。 あなたの言うように顔を作っているから。 それを認めることができるかできないか。 はは。 だれもわかんないとおもうのです。 本当の自分など。 よくたまねぎの皮にたとえられますね。 一つ一つ剥いていったら後には何も残らない つまり自分という存在はそのようなもので多面性があるというものです。 まぁ あなたはご自分を例外だと思っているみたいですが。 あなたは人を信頼しているのでしょう。 口論は信頼関係のもとにおきやすいですから。 家庭で口論が起きるというのはどこかに互いを信頼している証拠なのでしょう。 しかし、意見の衝突が原因で離婚する家庭が多いのも事実です。 これが客観的事実というものです。 また口論がもとで人を殺めてしまった。 これも客観的事実でしょう。 客観的事実のもとにあなたとお話がしたいですね。 わたしはキリスト教という意味では 専門家の分類に入りますが 他人と話すときには一般人、参考意見としかなりません この分野でだれも「自信あり」などはいえないはずです。 自己批判。その分野にしては大いに賛成です。

bragelonne
質問者

補足

 kebiiiiinさん ご回答をありがとうございます。  対話らしくなってまいりました。さらにご回答に対して 明確を期して お尋ねしてまいります。  信頼関係がない場合には 無論のこと あった場合でも けんかは まちがいへと ひとを導くことがあるから やはり 口論であっても ふつうの批判であっても 《いけない》というご議論だとお見受けします。  また そういった《客観的事実》に立って 話をすすめるべきだというご見解です。 まづ 確認します。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  口論は信頼関係のもとにおきやすいですから。  家庭で口論が起きるというのはどこかに互いを信頼している証拠なのでしょう。  しかし、意見の衝突が原因で離婚する家庭が多いのも事実です。  これが客観的事実というものです。    また口論がもとで人を殺めてしまった。  これも客観的事実でしょう。  客観的事実のもとにあなたとお話がしたいですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さっそく いわばわたしの側からの反論です。前回の引用に 最後の箇所に 次の但し書きがあります。  ☆☆ (No.127補足欄に掲載) ~~~~~~~~~~~~~~  (自分が自分につくうそ この嘘で 自分が 傷つくことはあります。存在としての自然本性なる善を損傷させるのが うそなのですから)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 信頼関係については あるに越したことはないのですが 微妙に その問題とは別の見方になります。  すなわち   ○ ひとは その心が 他人の言動によっては あるいは もっと言えば 物理的な力によってでさえ 傷つくことはない。  ☆ と考えるのですが しかしながら 傷つくことが いっさい ないかと言えば そうではありません。  ひとは その心が 傷つくことがあります。じつは じつに それは 自分が 自分で うそをつき 偽りの証言などをした場合です。  したがって 言いかえると 口論をつうじて ひとが 傷ついたり 解きほぐしのかなわない反目状態に陥ったり 果ては 相手を排除しようするまでに到ったりするというのは 基本的に言って 《けんかによるのではなく おのれの自己欺瞞によって 錯乱に陥るからである》と考えられます。  言いかえると この自己錯乱は けんかをしている時に限らず 起こるということです。また けれども けんかの場合に ひどくなるのではないかという反論が出るでしょうが 必ずしも そうではありません。 そういう人のそういう状態にある場合は その本人が むしろ けんかを仕掛けると考えられます。つまり こちらが その言動について 批判するという意味で けんかをするという場合ではないからです。  しかも むしろ やぶれかぶれで けんかを仕掛けてくるひとに対しては むろん 時と場合に応じなければなりませんが むしろ 一たん その状態を こちらは しっかりと受け止めてやって 機会があれば 〔むしろ〕 批判を しっかりと明確に してやったほうが 目を覚ますということではないでしょうか?   勇み足で 言うとすれば 隣り人になってやる必要さえあるかも知れません。  ――目を覚ましなさい。  ――ほろびなさい。ふるいひとを脱いで あたらしいひとを着なさい。そのために ほろびなさい。  ――もし どうしても 錯乱状態が好きなのなら 三度の飯よりも 狂気でいたいのなら そのときには 永遠の火の中に行きなさい。  ☆ などなどと はっきりと言ってやったほうが よろしいのではないでしょうか?  ▲ (エレミヤ書 17:6) ~~~~~~~~~~~~~~~~  かれは 荒野に育つ小さい木のように  何も良いことの来ることを見ない。  荒野の干上がった所に住み  人の住まない塩地にいる。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういう人びとに対して 隣り人になるべきか ならざるべきか。なるなら どのようになるべきか。    これまで たとえばこの質問において わたしは すでに 失敗をいくつか喰らいました。ですが 姿勢は 変わっていません。  失敗の場合は ひとりの者が すべての人びとを説得することは出来ないと考えるからです。また そういうふうに だめな場合は だめとして 深追いはしないという意味でのけんかです。どうでしょう?

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