• ベストアンサー

けんかをしては 何故 いけないのか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.108

No.32・59・108です。 無視されるのかと思いましたら、喧嘩の相手になっていたのですね。 当方は喧嘩中とは、思っていませんでしたが、 仮に喧嘩中ではあっても、敵対中ではないと思っています。 再度、問います。 「ファシズムの匂い」という比喩で、ここまで捻じ曲げるのかという感想です。つまり、言葉には、人それぞれの「衣」(ニュアンス、連想イメージなど)の着せ方があって、多様なファッションになっているので、必ずしもこちらの意図どおりには伝わらないという例になると思いました。ここに、無駄な口論を展開する種があるとも思うのです。 一色に染め上げる「ファシズムの匂い」とは、アーリア人至上主義、ユダヤ人絶滅収容所送りを暗示したつもりでした。つまり、bragelonne至上主義、相手方主張の抹殺の暗示です。この比喩が適切かどうかは、自信がないので、「感じ」という弱い表現にしたつもりです。政治思想のどうのこうのではなく、比喩の適不適だと思っています。 一番の論点は、「多様性に対する態度」です。何々以前だとか、以後だとか、妙な線引きをせずに(逃げずに)、対等に尊重するのか、根絶又は服従に拘るのか、はっきりしてくださいね。 僕の結論は、対等に尊重しあう口論は大いに結構、支配と服従の関係を迫る口論は、下品だなという印象です。これは、僕の感覚ではそう思うだけで、bragelonneさんに強制しようとする意図はありません。 さて、尊重しますか、論駁しますか?

bragelonne
質問者

お礼

 ――利息は元本の二倍まで――  利子についても今とは異なる仕組みがあった。現代では利率にこそ制限はあるが 返済が終わらないかぎり利子は無制限に増える。しかし古代中世では利子率は自由で制限がないが 利子の総額・上限が決められていた。稲や粟の貸し借りではたいてい 利子がつくのは最大四百八十日。かつ本稲(元本)の倍以上の利息をとってはいけないという利倍法が浸透していた。複利計算も禁止。それは 中世も変わらない。  ――明日の経済のヒントに――  では そんな社会においてなぜ経済がうまく回ったのか。この問題を解くカギは《恥》の観念とみられる。永正三年(1506年)のある借金の事例で 期限までに返さないことを恥と記す契約文書が《新潟県史》に残されている。現代ではともかく 中世では有効に働いたのだろう。  色々調べてきた結論として言えることは 中世では債権者よりむしろ債務者の立ち場が重視されていたということだ。債務者が破綻すれば 債権者が困る。これは現代でも 米国で相次ぐ銀行の破綻を見れば明らか。世界的な金融危機が深まる今 明日の新しい経済のあり方を考える上での中世の仕組みは一つのヒントになるのではないだろうか。  (井原今朝雄=国立歴史民俗博物館教授)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういった《ならわし》を あまねく行きわたらせる行為は ファシズムかい? 答えてみなさい。このすっとこどっこい。

bragelonne
質問者

補足

 ▲ (井原今朝雄:借り手に優しい? 中世日本)~~~~~~~~  ――《借金したまま》に甘く 《恥》の観念が不履行阻止-―  (日本経済新聞 2009年4月7日 36面・文化欄)  借りたカネは返す。利子は法律の範囲内でどこまでも増える。そんなことは当たり前と現代では思われている。もし返せなければ担保や質物は戻ってこない。しかし 中世にはまったく異なる考え方があった。利子がつくのは四百八十日間 利息の総額は元本の二倍まで 流れた質物はいつでも取り戻せる――。  知れば知るほど驚きの中世借金事情。それが私の二十年来の研究テーマだ。発端は社会経済史の権威 寶月(ほうげつ)圭吾先生との出会いだった。私は大学を卒業後 故郷の長野県で高校教員をしていたが 一九七九年に東京大学の史料編纂所に内地留学する機会に恵まれた。そして当時の教授の師である寶月先生と知り合い 翌年からはじまった長野県史通史編の編纂委員になった。  私が一端の歴史研究者として歩み出すきっかけを作ってくれた寶月先生は八七年に亡くなった。膨大な所蔵品は東大教養学部の勝俣鎮夫教授に渡されていた。九一年に県立歴史館をつくる準備がはじまり 勝俣研究室から寶月史料を寄贈を受けることになった。寶月先生は中世の売買契約の内容などを記した売券の研究を長く続けており その元史料が原稿用紙七千枚ほどのファイルとして残されていた。   ――質流れも戻ってくる――  それが宝の山だった。現代で言うところの借用書なども多数含まれていた。ひとつひとつ調べ出すと 質流れになったものが後で戻ってくるような事例がいくつも出てくる。売買しても所有権が移らず 貸借との境界線があいまい。そんな事情が透けて見えてきた。  それまで歴史学の研究者の間では債務 つまり借金の研究など成立しないと言われていた、貸し借りの関係や利子についての考え方は 古来 不変で歴史的推移などあるわけがないとみなされていたのだ。しかし先生の残した史料の数々は正反対のことを示している。がぜん興味をそそられ 研究にのめり込んだ。  中世の史料は本来貼り継がれていたのに糊がはがれてバラバラになっていることが多い。それを虫食いの跡やシミなどを手掛かりに つきあわせて整合させていく。何百年の時を隔ててパズルを解いている気分で うまくいくとうれしくなる。  最も注目したのが質権に関する慣習。鎌倉時代の訴訟文書を調べると 返済期限を過ぎて質が流れても 債務者の同意がなければ質物の所有権が債権者に移らないとする事例が次々に見つかる。  どんなに時間がたっても多くは半倍(五十%)の利息を加えて払えば 質物を請け戻すことができたようだ。そうした習わしの根拠の一つに鎌倉幕府法二八七条がある。  《たとい年月をへるといえでも(ママ) その負物を償い かの身代を請け出すの時は これを返すべし》。  質地に永領の法なしという慣習法もあり 債務者が土地を取り戻す権利はいつまでも残り続けた。  訴訟の勝ち負けはそのときどきの事情に応じて様々だったが そもそも裁判になるということ自体が現代の感覚からすればあり得ない。質についての中世的な考え方は意外なことに 近代まで生きていた。明治十年(1877年)に内務省が各地の慣習を調査した《全国民事慣例類集》に当たると 同様のケースが書かれている。ただ そうしたルールは社会の発展を遅らせるとして 廃止されていったらしい。

関連するQ&A

  • なぜ けんかをしては いけないのか?

     この質問は リワ゛イワ゛ルです。あたらしい見解は さほど出ないかと思っておりますが いろんな角度からあらためて見直しておきたいと考えました。どうぞよろしく。  ○ (前身の質問での趣旨説明です。)~~~  ここでは けんかを 口論にしぼってください。  つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。  存在を愛し 〔まちがっていると思うところの〕思想や行動を憎むことです。  なぜ いけないのでしょう?  理由が分かりません。おしえてください。  ~~~~~~~~~~~~~~  そこでのべストアンサーをも掲げます。それを出発点にしたほうがよいと考えました。あまり後戻りは したくないと思うからです。でも 検討してみてください。  ○ (べストアンサー) ~~~~~  口げんかは、良いと思います。手が出るよりは、ましですし、  競いあうようなスポーツは嫌ですが、  絶縁は互いへの臆病さを増しますし、ここち悪く、  自分自身と口げんかできないひとは、まずいです。自身との絶縁ですから、  自己批判できないひとは、建設的な口げんかをできないと思います。  自己批判できないひと同士のけんかは、怖いので否定の対象です。  口げんかに止まらず暴力になり心身を壊しあうことになりそうなので。  自己批判できる人どうしだと口げんかは長引かないかもしれません。つつましいでしょうし。  けんかしつづけるということは、両者ともにか一方に自己批判するスキルがないということなのでしょうか、  互いを批判するよりも多くまざまざと自己批判を開示しあうのが良いのかもしれません。  互いの精神性や人間性に関し建設的であるには。  ひとびとが自己批判のスキルを高めてゆくには。  頭と言葉を使い陰気な精神のストリップをどこまでもするのが良いのだと思います。  徹底的な自己批判、自分と向き合うこと、自省を、したことがない人は、けっこう多いと思います。大人にも、  自己批判のしかたを、あまり学ばないかもしれません、  自己批判に関して、ひとびとは教育も開発もされず、  ほとんどの教師も親も自己批判なんかしていないかもしれませんし、  思考停止の世の中で、自分は正しいのだという態度の人や集団や情報ばかりが満ちていますし、  ・・・(あと省略します)・・・  ~~~~~~~~~~~~  ☆ (この回答の筆者の方には 掲載について事後承諾になりますが よろしくお願いいたします)。  ☆ このように自己批判が 基礎であると質問者も考えます。  これが 哲学としての対話である。こう考えるという意味です。  むろん その自己批判を終えたあとの見解や思想に 賛同する場合 これも 対話であることは言うまでもありません。    さて 対等で自由な 建設的なけんかを どうぞふるって寄せてください。つまり 哲学におけるけんかという主題についての情報交換となります。(これは 念のために 自分の主張を推し出すためのものではなく またアンケートをとるためでもないということを表わしたものです)。

  • なぜ人びとは けんかをしないのか?

     なぜ人びとは――マドモアゼル・紗江のように―― けんかをしないのか?  1. 《なぜ けんかをしては いけないのか?》という質問をしたことがあります。  ○ (趣旨説明)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ここでは けんかを 口論にしぼってください。  つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。  存在を愛し〔まちがっていると思うところの〕思想や行動を 憎むことです。  なぜ いけないのでしょう?  理由が分かりません。おしえてください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  2. そこでのべストアンサーを掲げます。それを出発点にするのがよいと考えました。ながいですが 検討してみてください。  ○ (べストアンサー) ~~~~~~~~~~~~~~  3. 口げんかは、良いと思います。手が出るよりは、ま しですし、  競いあうようなスポーツは嫌ですが、  絶縁は互いへの臆病さを増しますし、ここち悪く、  4. 自分自身と口げんかできないひとは、まずいです。 自身との絶縁ですから、  自己批判できないひとは、建設的な口げんかをできないと 思います。  自己批判できないひと同士のけんかは、怖いので否定の対 象です。  口げんかに止まらず暴力になり心身を壊しあうことになり そうなので。  5. 自己批判できる人どうしだと口げんかは長引かない かもしれません。つつましいでしょうし。  けんかしつづけるということは、両者ともにか一方に自己 批判するスキルがないということなのでしょうか、  6. 互いを批判するよりも多くまざまざと自己批判を開 示しあうのが良いのかもしれません。  互いの精神性や人間性に関し建設的であるには。  ひとびとが自己批判のスキルを高めてゆくには。  頭と言葉を使い陰気な精神のストリップをどこまでもする のが良いのだと思います。  7. 徹底的な自己批判、自分と向き合うこと、自省を、 したことがない人は、けっこう多いと思います。大人にも、  自己批判のしかたを、あまり学ばないかもしれません、  自己批判に関して、ひとびとは教育も開発もされず、  ほとんどの教師も親も自己批判なんかしていないかもしれ ませんし、  思考停止の世の中で、自分は正しいのだという態度の人や 集団や情報ばかりが満ちていますし、  ・・・(あと省略します)・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  8. このように自己批判が 基礎であると質問者も考えます。    9. それが 哲学としての対話である。そう考えるという意味です。  むろん その自己批判を終えたあとの見解や思想に 賛同する場合 これも 対話であることは言うまでもありません。    10. さて 対等で自由な・《感情論理》を避けた建設的なけんかを どうぞふるって寄せてください。なぜ そうしないのか? という問いです。  11. ▲(コトバンク/ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典:感情論理(読み)かんじょうろんり(英語表記)logique de sentiment; affective logic)~~~~  12.. 論理的な筋道をたどっているようにみえながら,感情的な因子が思考の過程やその方向を規定しているような場合に,感情論理が働いているという。  13.  T.A.リボーによれば,理性の論理は結論に向うのに対して,感情論理は目的に向うとされる。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  14. 吾人は 塚原・ロジックから――さらには クウキ・マジックから――自由にならんことを!

  • 哲学は けんかである。

     1. 哲学は けんかである。  2. 同じくけんかである自然科学は しかしながら その仮説を実証しえたなら 結着はつくのに対して 哲学の場合には なかなか決着がつかない。社会科学にしても社会の一部ないし全体において実験をするしかなくなるが 哲学なら――特にはその基本が存在論にあるだろうから―― 結着をつけることは並大抵の問い求めではむつかしい。  3. ゆえに 段階をそのつど高めつつも 永遠に対話をつづけなければならないという意味で 哲学は けんかである。  4. ならば けんかの方法があるはず。  5. 何よりもまづ先に 相互に見解を明らかにしたならば それを認識せねばならない。  6. それには相手の言い分をまづは全面的にただしいと見なして受けとめるのがよいのではないか。そうすると 間違いについて早くよく分かる。  7. とうぜんのごとく 同じ内容を共有する部分とそして異なった見解を持つ部分とに分けられ 特には後者の――けっきょくこちらとしては間違いだと思うところの――相手の見解について批判する。  8. 批判がなければ 全面的な互いの同感に到ったという対話の場合を除けば 哲学・思想ではないであろう。  9. むろん哲学は 思想がおのれの見解に従って突っ走るのに対して 一たんはその独走を禁欲し あらゆる可能性を考慮しながらあらゆる場合について迂回作業としての認識や思索を 行動への準備段階としておこなう。おこなうのであるが ただし それではまだ生きていない。それだけでは 生きていない。  10. したがって まったく同じ世界観を共有する場合を除けば 哲学するということは 互いの見解についての批判合戦となる。  11. どういうわけか 批判はするな・自己主張はやめよ・議論をするのはみっともないという通念がまかり通っているように見受けられる。  12. とすると どういうことになるか? いつかどこかで――たぶん外国発という――お墨つきが出れば それを有力な仮説なりあるいはすでに定説なりとして その説の中身を《研究する》ことが 哲学だということになる。のであろうか?  13. そのような手枷・足枷をありがたがってあとは熱心に――自己主張は禁欲して――研究に没頭する これが 哲学であり学問だというのであろうか?  ご教示ください。  14. ちなみに《価値自由》を説いたヱーバーとか言うひとも おのれの価値判断を―― 一たん控えるとしても――しないと言っているのではない。  15. 自分で自分の手足を縛る《禁欲主義》は いったいどこから出て来たのか? 《お墨つき》〔をありがたく戴く〕というのは 明らかに価値判断であり自己主張であるのに。

  • ケンカばかり

    大学で友達になった男の子がいます。なかなか相性が悪いらしくていつもケンカ腰です。私が真面目な、相手が楽天的な性格のせいか、相手の行動が受け入れられないのです。 相手は遅刻しても謝らない。遅刻は許せるけど謝るくらいはしてと言うと、「友達やのに硬い」と言われます。そんな感じでいつも軽く口論すると、周りは「微笑ましい」「いい幼なじみみたい」と笑います。 なんだかんだ言いつつ私は彼をとても好きですし彼とは一生続く友達でいたいです。私のそういう気持ちを周りはわかっているからこそ「微笑ましい」と言うのだと思います。 けど、こんなにもケンカばかりだと彼にとって私はただの「口うるさい人」になってしまうんじゃないでしょうか?こういう相性の相手とどうしたら仲良くケンカせずにつき合えるでしょうか?

  • 喧嘩ばかりは相性が悪い?

    付き合って3ヶ月の彼女と、喧嘩(口論?)ばかりしています。 理由は大体、くだらないことばかりなのですが 考え方の違いによるすれ違いや、お互い恋愛に対して不安がりな為、衝突するのが主な原因です。 彼女は、「こんな事ばかりで嫌だ」「めんどくさい」とも 「本当に嫌なら相手しないけど向き合う事が必要なのもわかる」「好きだし一緒にいたい」とも言っています。 付き合い始めより、少しずつですが口論は減っていますが 喧嘩ばかりする関係とは、相性が悪いのでしょうか?

  • 彼女と喧嘩してしまいました

    彼女と喧嘩してしまいました その理由は、2日前で3ヶ月なのに、彼女から一回も「会いたい」とかデートの誘いもないから 本当に俺の事好きなのかな?って思って 彼女に聞いたら「ゴメン、出来る限り、頑張るから」って言われたのですが いっつも彼女はそう言ってもなんもやってくれなかったりします なので、「いい加減にして欲しい」と言ったら 「出来ない事はできない!」って言われ、そこからどんどん口論となっていきました それ以来、彼女にメールしても返信が来なくて、謝りたくても 謝れない状況です なんで、なんでしょうか? 長々すいません

  • 「喧嘩」とは?

    投稿するカテゴリーに迷いました。 「メンタルヘルス」?「心理学」?ひょうっとして 「社会学」かも・・・なんて。 私は喧嘩することができません。 一般には「喧嘩」は「起点」であって「終点」ではない。 「破壊」ではなく「建設」だという意見が大半のように感じます。 そんなことは頭では分かっていても、気持ちがついてきません。 少しでも批判的なことを言われると 心臓がバクバクし、身体がワナワナとなります。 「相手に自分のことをわかってもらいたいから」・・・ けれどもそのような手段としての喧嘩(口論?)が、 私には関係の幕引きになってしまうのです。 「分かって欲しい相手」=「分かっていない私」 という方程式が私を苦しめます。 ホイッスラーという画家は、 「この小さな一枚の絵を否定することは私のこれまでの全人生を否定することだ!」と言ったといわれています・・・ これは独特の感じ方で理解を求めるのは困難ですが、 私には、「部分否定」ということがわかりません。 ホイッスラーの言葉を借りれば、「お茶の飲み方」を否定(注意)されたということは、 「私という人間全体を否定されたこと」になってしまうのです。 相手に対しても同様の考えがあるので、相手の一部を否定することは相手の存在を否定することと思い、嫌なことも口にはしません。 更に言えば・・・人を矯正しようとは思いません。 相容れない考えを持つ者と関わることの意味がわからないからです。 それが夫婦であっても、友達であっても、親しい関係の者であっても、 (しかし皮肉なことに私には以上のことからパートナーも、友達も、 親しい人もいません・・・) 「ヤマアラシジレンマ」という言葉を聞いたことがある方も多いでしょう。 2匹のヤマアラシがお互い暖をとる為にくっつこうとするのですが、 お互いの針が刺さって近づけない。 何故こんな風に考えてしまうのか自分でもわかりません。 言いたいことも言わず、相手の批判に耳を塞いで生きるのに疲れました・・・ http://okwave.jp/qa3138021.html

  • 武士道における喧嘩

    喧嘩口論禁止令と、喧嘩両成敗って何がどう違うのですか? 武士道における喧嘩について調べていますが、まったくもってちんぷんかんぷんです。 徳川幕府に変わり平和になったことで、武士は戦闘者として戦うことがほぼ無くなりました。武士が戦闘者として唯一本領発揮出来る場が「喧嘩の場」だったわけですよね? そこまではわかるのですが、調べていくうちに喧嘩口論禁止令と喧嘩両成敗が出てきて、何がどう違うのかわからなくなりました。 たとえば「お前の母ちゃんでべそ」って相手から貶されたら、上記の法はどのように適用されますか?

  • ケンカするほど・・・

    この前、以前先輩後輩関係にあった方と口論となりました。 それを、周りの方に相談した所「お互い好きなんじゃないの?」とか「仲良くなければケンカできない」といわれました。 確かに、先輩は誰かに物をいうということはほとんどありません。そこまで仲良し・・という風ではなかったのですが、周りからは仲がよく、よく似た先輩後輩だと感じて見れていたようで・・又お互い結婚していますし、好き嫌いというのはありません。大なり小なり、口論の内容にもよりますが、ケンカするのはやはり仲がいい証拠ですか? 私は正直、少し嫌われたんではないかと思っています。内容を詳しくご説明できないで申し訳ないのですが、皆さんはどう思われますか?色々教えてください。

  • 打合せでケンカになったら、どうしよう。

    今日、会社で打合せがあったのですが、 その中の男性2人で、荒々しく口論が始まってしまって。 その状況がとても恐くて、心臓ドキドキで。。 結局その場では、声を出すことも出来ませんでした。 その時、何も言えなかった自分に、自己嫌悪感でいっぱいです。 半分、ケンカみたいな状況である雰囲気を、冷静にできるような、 雰囲気を変えられるようなコツとかあったら、教えて頂きたいです。 よろしくお願い致します*_ _))ペコリン