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ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.47

なるほど、よく分かりました。 絶対と相対という仮構イメージは、まさに、世俗諦(世間一般常識、有為の世界に属す真実) 因縁生起(依他起性)、諸法無我(実体否定)、諸行無常(有為転変) であり、次にあるような遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)かつ依他起性(えたきしょう)認識そのままだと、 1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):仮構の存在形態 無実体なのに価値判断によって形成される執着対象として仮構している固定性 有為の中心概念 物に限らない(イメージなど言語的存在) 現実把握・認識の初期段階(有我の段階) 2.依他起性(えたきしょう):他に依存する存在形態(相対的存在形態) 自立的存在でない 恒常不変でない(諸行無常、有為転変) 縁起の中心概念 3.円成実性(えんじょうじっしょう):完成された存在形態(絶対的存在形態) 諸法無我(無主体論) 常住不変の実体観からの解放(非実体観) 世俗諦認識の完成段階(無我の段階だが、まだ無我という有に留まっている) 無差別・平等の真実・真如(無執着なありのままの世界観) そのとおりです。相対領域(有為)/無為なる絶対(表裏一体)において 無為なる絶対=無為の世界・・・沈黙の勝義諦・・・相対領域の裏限定 沈黙の勝義諦でも、純粋な絶対=究極の他者は、管轄外で、示しきれないです。相対領域内に視点を持ち得ないとしてきたところです。ですから、絶対は、絶対に語れないと言えそうです。 相転換は、戯論です。ただ、死=逆転換と説明できればいいなあと言う思いだけです。ここだけ、思考停止して、信仰しなければならないようです。やっと、神を見付けました。そんな心境です。

noname#80116
質問者

お礼

 qsxdrfvgyhさん すごいですね。  ★ やっと、神を見付けました。そんな心境です。  ☆ たしかに わたしは 三十歳ころの一時点で 《神を見つけた。だが どうやって信じるのか / 信じるとは いったい どういうことか と悩んでいたとき 或るとき 神に知られたと思った》のでした。その前後の数年間で この信仰を 一応のかたちに固めたのでした。  わたしの場合 勉強したものは だいたい その評価を決めて来ていますが していないものについては まったく ゼロです。きれいに ゼロです。言いかえると 無手勝流ですね。  これまで 意外と いろんな哲学思想にも 通用するものですから 驚いても来ています。  わたしの知る限りで こういう対話が出来るのは きわめて楽しいものです。また 一緒になって 先端を行っているという自負を持ちつつあります。  これを機会に さらに 仏教が 一般の哲学思想と通底するかたちで さらに整序され 明らかになっていくといいと考えます。  この質疑応答は 《画期的》ですよね。少しは 誇ってもいいかも知れません。

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