- ベストアンサー
ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか
qsxdrfvgyhの回答
- qsxdrfvgyh
- ベストアンサー率22% (17/76)
☆☆ 相転換から さらに復活としての逆転換 ☆ これは たしかに 余興でした。 その上で 余地を残すかも知れないというのは 次のような場合です。 (1) 無為の有為への相転換が 事実かどうかによるのではないか。 すなわち この最初の相転換が 虚構であるならば 次の逆転換も 虚構として 想定しうる。 とは考えます。 「無為の有為への相転換」ここが違います。 (純粋な、本来の)絶対領域(有為も無為もない)が、相対領域(有為)/無為の絶対(表裏一体)に相転換したという意味です。特に、「無為の絶対に」というイメージです。かなり慎重な物言いです。虚構は、相転換後に相対領域における有為の言語ゲームの中で語られるだけなので、この相転換に虚構は関与できません。なにせ、<唯一・絶対>なのですから。最強です。
関連するQ&A
- ブッダ葬送がやっぱし必要ではないでしょうか
ブッダ葬送がやっぱし必要ではないでしょうか (α) 末法が 現実であるのではないでしょうか。 (β) もう何も新しい思想は ブディズムからは出て来ないのではないでしょうか。あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。 (γ) 後世に現われた広義のブディズムは ブッダをきちんと葬送して初めて その生きた思想は生きるのではないか。 (δ) 《慈悲》は 人間にとっておこなうことは出来ないと なぜ明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。無縁慈悲は 絶対の愛のごとく 実践はむつかしい。 (ε) 《縁起共生=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は当たり前だと なぜはっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただ精神において理念や美を描こうとしたその想像世界です。 (ζ) 《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものはないのではないでしょうか。絶対普遍のことなら そうだと言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題に還元されます。 (η) 一たんきちんと 葬送をしておく必要があるのではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。 言いかえると いまもこれなら生きているというおしえを おしえてください。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 仏様に人格はあるか
独学で仏教の思想をかじっているものです。これまで読んだ本の知識では、己の執着心を捨て、自分内面へと掘り下げていくと、そこは無の世界観であり、混沌とした、増減しないエネルギーの宇宙の下、縁起により、絶えざる変化の結果として生まれた形(色)が顕現するだけの無秩序に向かう思想と理解してます。また、一切衆生悉有仏性により、だれでも仏様になれる可能性を有しており、修行して努力すれば、真の自己にいたり仏様になれるという理解です。このように、修行して慈悲(悟った人が悟りを求めぬ人に悟りを求めさす)ことが出来る覚者となった仏様の人格(道徳的行為を持った主体としての個人)をどう考えればいいのかが分からなくなります。空の世界観では、自性(単独で自立した主体)はないとのことで、仏様は人格はないのでしょうか?間違った理解のためにかなり混乱しているかもしれませんが、かなり仏教にお詳しい方がたくさんいらしゃるようなので、回答をお願いいたします。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 慈悲は 経験現実か
わたしたち人間のおこなう行為であるのか これを問います。 《ウィキペディア:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2 まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉であって( 人間S語 ) しかも 抽象一般化し また 概念を純粋化し高めたもの( 普遍A語 )と考えられます。高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。 ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~ 〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、 【S語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、 【A語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。 したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。 次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は 【S語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻き」(うめき)にあるという。「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。 【A語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。 仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。 (一) 衆生縁とは 衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。 ☆ (これは =【S語】か?) (二) 法縁(ほうえん)とは、 すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。 ☆ (これは ≒【S語】か?) (三) 無縁とは 慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。 ☆ (これは =【A語】であろう。あたかも≠【S語】か?) この三縁の慈悲とは、 第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、 第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、 第三は 仏の哀愍の心であると言える。 この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Q1. 慈悲は 全体として 人間に実践可能か。 Q2. 〔可能だと仮定した場合〕 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことと違うのか。 Q3. 仏性と同じだと仮定して ならば すべての人間が 慈悲を実践しうるとなるのか。それとも 人は仏性を宿すが 慈悲を実践しうる者とそうでない者とに分かれるのか。分かれるとすれば それは なぜか。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?
わたしたち人間の能力を超えていることなのか? それとも 人間のおこないうる行為であるのか? これを問います。 《ヰキペ:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2 まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉( スサノヲ人間( S )語 )であって しかもすでに同時に 抽象一般化しまたその概念を純粋化し高めたもの( アマテラス普遍( A )語 )であると考えられます。 抽象化され高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。 ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~ 1. 〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、 【 S 語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、 【 A 語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。 したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。 2. 次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は 【 S 語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻(うめ)き」にあるという。 「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。 ☆(私註) これらの S 語は 日本語の《もののあはれ》に通じて いると思われます。 【 A 語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。 3. 仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。 (一) 衆生縁とは 衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。 ☆ (これは =【 S 語】か? つまり経験現実か?) (二) 法縁(ほうえん)とは、 すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。 ☆ (これは ≒【 S 語】か? そのような経験現実か?) (三) 無縁とは 慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。 ☆ (これは =【 A 語】であろう。あたかも≠【 S 語】か? それとも 【 S 語】じたいの中に潜在しているというのか?) この三縁の慈悲とは、 第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、 第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、 第三は 仏の哀愍の心であると言える。 この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことであるとも考えられます。そのことをも含めて 慈悲は 人間の実際におこないうる現実であるか? こう問います。 あるいはまた 《もののあはれ》という S 語は 普遍 A 語の内容をも宿しているか? この問いも含みます。 ずばりおしえてください。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 葬送曲
皆さんは自分の葬送曲にどんな曲を流してほしいですか? あ、カテ違いかもですけど。 私はデヴィッド・ボウイの「ロックンロールスイサイド」かビートルズの「レット イット ビー」「ロング アンド ワインディングロード」のどれかが流れてくれればなぁと思っています。 ツェッペリン信者ですが「天国への階段」は嫌です。
- ベストアンサー
- その他(恋愛・人生相談)
- 現代の葬送について
最近では、テレビなどメディアでオリジナリティのある葬儀とか、市民団体で葬儀を挙げるとか、葬儀社以外の団体のサポートによる葬儀を挙げるとかなどと色々興味ある事が頻繁に出て来ていますが、これについてお聞きしたいと思います。 私などが関係したり知っている有名な市民団体やサポートしている方々は、大概というよりすべてが葬儀社のアドバイスや実際に葬儀社へ動いてもらっています。または、葬儀社を辞めた方が新しいビジネスでと願って活動しています。 そして、そこには美味しい利益などとあってはならない事を考えてます。 そんな現代の葬送について疑問などあればお聞きしたいのですが・・・ そして、皆様が本当に望む葬儀とは何かなと改めてお教え頂きたいのですが、いかがでしょうか。 勿論すべての方がそれぞれお考えが違うと思います。 私も壁にぶち当たっている感じがしています。 お教えください。
- ベストアンサー
- マナー・冠婚葬祭
補足
そうですね。分かりませんが 試みてみます。 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 相転換は、かつて一度きりしか起きていないというのが、僕の考えです。絶対領域が相対領域化した時のみ、唯一です。それは、絶対の原理上、唯一とならねば、論理が破綻します。 ★ (純粋な、本来の)絶対領域(有為も無為もない)が、相対領域(有為)/無為の絶対(表裏一体)に相転換したという意味です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしの感覚としては 《絶対》が 想定であるので それと《相対》との関係も 想定であるというものでした。つまり その関係を さらに詳しく捉えようとしたときに やはり《想定》として 両者のあいだに 相転換が 帰結される。というものです。(わたしの場合 単純に《包摂》と見ていましたが)。 つまり この《一回きりの相転換》じたいも 有為の世界における人間がおこなう《言語ゲーム》に属するというものです。虚構であり 想定です。 言いかえると このように想定された《一回きりの相転換》そのものにおいて すでに その中に 《逆転換》という事態が やはり 想定されているのではないか。これです。 《絶対》と《相対》とのあいだで 双方向の転換が 初めに=つまり 想定の限りで 原理的に 織り込まれているとは 考えられないですか?