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ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.45

仏教フランチャイズからは逸脱していると思いますが、<ポスト仏教哲学「もどき」>くらいには、成っていますでしょうか。多少の微調整程度のつもりだったのですが、仏説至上主義では、改良の余地がないので、やはり、仏説解体も視野に入れなければなりません。あくまでも、個人的にですが。さて、  ★ (最終回答)この相対領域では、「唯一・完全に通じている」はずがない。相転換したのだから。逆転換するときは、死であろう。  ☆ という命題を提示してもらったので ちょうど いいと考えるのですが はっきり言いまして  ○ 《相転換》を そのように 《逆転換》した状態(または 境地)を やはり 先にすでに 想定している。  ☆ ということになります。この境地が  ★ 死  ☆ ではなく――もしくは 厳密には 一単に《死》をとおって そのあと――  ○ 復活のあらたな生  ☆ だというわけです。 ここなのですが、相転換は、かつて一度きりしか起きていないというのが、僕の考えです。絶対領域が相対領域化した時のみ、唯一です。それは、絶対の原理上、唯一とならねば、論理が破綻します。そして、死という逆転換は、有為の時空世界(全宇宙)の中で、徐々に散発的に起きていると考えます。これも、相対の原理上、不一ゆえに散在的に多発するのですが、それぞれ、それで終わりです。つまり、復活なしです。輪廻転生も無しです。復活も輪廻転生も、有為の世界における再生(有為転変)をヒントにした虚構に過ぎません。虚構は、有為の言語ゲーム内にあります。所詮、理性の範囲内です。沈黙の勝義諦には通じていません。ここは、決定的に違うと思います。ここに、相転換と逆転換の原理的な(決定的な)差異が、「絶対」と「相対」の厳然とした隔絶ゆえにできてしまうと考えます。個々の死=個々の逆転換=個々の復活という意味ならば、同じ考えです。再度の生には繋がりません。

noname#80116
質問者

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  ☆☆ 相転換から さらに復活としての逆転換  ☆ これは たしかに 余興でした。  その上で 余地を残すかも知れないというのは 次のような場合です。  (1) 無為の有為への相転換が 事実かどうかによるのではないか。  すなわち この最初の相転換が 虚構であるならば 次の逆転換も 虚構として 想定しうる。  とは考えます。  (2) さらに虚構虚構する話です。おとぎ話です。  つまり 例のエデンの園の物語です。エデンの園の以前に すでに相転換があったでしょうが エデンの園からの追放という相転換が あったと想定したなら その後に 逆転換が起こるという想定も ありうるのではないか。というものです。  これは たしかに  ★ 個々の死=個々の逆転換=個々の復活  ☆ という物語であるかも知れません。  余韻のお話といったところでしょうか。  * 《輪廻転生》とは 別です。《天国への復活》とも 微妙に 違います。  生まれたあとの時空間としては 逆転換という想定を得るなら その有為の世界において すでに 《永遠の現在》が 推移する。これが 一応の復活であり あとは 何かあるとすれば 突然変異であるかも知れないという物語です。このように《現在》において先取りした《うそ》が 或る種の力になるのだと思います。

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