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ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか
qsxdrfvgyhの回答
- qsxdrfvgyh
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ついに、最終回答だと思います。 ★ 純粋に外側の絶対領域では、非空となるが、絶対が相対と重複している相対領域全体は、空となっているということですね。有限に過ぎない相対が絶対に丸ごと重なった領域だけ中心にあって、絶対は無限過ぎてその領域の外側にあふれているようなイメージ ☆ が 合っているとも言えるし どこか 違うとも見えるようですが どうなんでしょうか。これに関しましては こういうたとえを聞いたことがあります。 ○ 神の国(無為?)と地上の国(有為)とは 互いの間に 非武装中立地帯( no man's land )をつくって 相い対峙しているという恰好ではなく そうではなく この地上では 互いに入り組み 混同されるほど重なっているかに見える。 (最終回答)「勝義諦は、絶対と同じか」という問いの回答は、相対領域と重なった絶対領域、その外側の純粋な絶対領域に分けた時、勝義諦は、前者に限られという意味で、絶対と同じであるが、後者には及んでいないと考えられる。相対領域とは、現実の時空世界(全宇宙)であり、表面的には、有為の世界(世俗諦で記述できる世界)であるが、背後では絶対領域と重なっていて、無力な無為の世界(沈黙の勝義諦で示される世界)が隠れている。この隠れた絶対は、別名、仏性、神性と考えられ、やはり、無力な無為と考えら、結局、有為でしかない言語を駆使しても記述できない。つまり、沈黙の勝義諦なのである。ちなみに、神の国(無為)と地上の国(有為)は、共に相対領域、現実の時空世界(全宇宙)にあり、表裏一体となっている。神の国(純粋な絶対)ならば、相対領域、現実の時空世界(全宇宙)の外側になるだろう。そこが、「究極の他者」と考えられる。非武装中立地帯( no man's land )のことは分からないが、厳然とした隔絶感を表現したと考える。 ☆ たぶん ★ 完全無欠の絶対にしては、弱弱しい感じを受けますが、相対領域内では、無為・無力を装っているのでしょうか。 ☆ そうだと思います。《むしろ 弱さを誇ろう》と言いますから。無理が通れば道理が引っ込むではないですが 無効の考えやおこないが有力であるところでは 有効な思想が 無力に甘んじている。時として 有力にもなるのでしょうか。 (最終回答)絶対は、この時空世界内では、相転換している。外では、唯一・完全・無限で、最強の自性力があって、非依他起性(非空観)であるのに、内では、不一・不完全・有限で、無自性な最弱の力(無力)となり、依他起性・相依性(空観縁起)となって、相対を全面に出すのみと考えられる。ゆえに、「無為なる絶対」になっている。 この情況を残念に思っているところの ★ アートマン ☆ は あると言えるかも知れません。 (最終回答)この相転換を逆転換する視点をこの時空世界内に持つことは原理的にできない。できないことを追究せず、この相対領域は、無力な無為になっている絶対領域と重なっているので、有為に徹する・極めるだけで充分なのではないかと気付かされる。残念ではない。あるがままの生を尽くすように。不完全ではあるが。自らのこころにきくだけだ。「こころにきけ」の実践である。 ★ この絶対の二面性は意外です。唯一でも完全でもなく、それでも、唯一・完全に通じているのでしょうか。不思議です。 ☆ この点につきましては わたしも さらにその思いを寝かせつつ 考えていきたいと思います。 (最終回答)この相対領域では、「唯一・完全に通じている」はずがない。相転換したのだから。逆転換するときは、死であろう。 > 末法が 現実であるのではないでしょうか。もう何も新しい思想は ブッディスムからは出て来ないのではないでしょうか。あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。 勝義諦を言語化に止めたり、円成実性(えんじょうじっしょう)がその際の認識段階だと止めているのでは、誤解釈であり、有為の言語ゲームから脱出する必要がある。勝義諦(至上究極真理、無為の世界に属す真理)は、非有非無(中道)、八不(不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去)の先に示される。円成実性は、最高水準の世俗諦認識段階にすぎない。言語を尽くした後に、沈黙の勝義諦を探究せよ。個々に達する以外に道はない。 > 《慈悲》は 人間にとって おこなうことは出来ないと なぜ 明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。 自らのこころにきくだけだ。「こころにきけ」の実践である。個々に達する以外に道はない。 > 《縁起=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は 当たり前だと なぜ はっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただその場の気をそらせるための想像物(エポケー)です。 世俗諦認識の基本中の基本なので、これだけで済む話ではない。 > 《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものは ないのではないでしょうか。絶対普遍なら そう言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題です。 「無為の絶対」と同じで、単純に「思いやり」と同じでは理解が足りない。無為の世界、相対領域の背後、沈黙の勝義諦に繋がっている。 > 一たんきちんと 葬送をしておくときではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。 「葬送・復活」とは、仏教哲学の解体と再生の比喩なのでしょうが、仏教哲学に近年までの哲学成果を反映すれば、沈黙の勝義諦は、記述するのではなく、「示される」と個々に気付くと考えます。ここが困難なので、一般的には「思考停止の信仰」も品揃えしていると考える。仏教の物語は虚構として充分楽しめる。
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補足
qsxdrfvgyhさん おもしろく楽しく拝読しました。ご回答をありがとうございます。 今回は 一点のみ こちらの側からの見方を――ちょうど 対比させるとよいと思われますから―― 述べてみます。 それは ★ 沈黙の勝義諦 ☆ に関してです。そして 話は この点に関しては すでに(=まったく) キリスト信仰そのものの内容となります。 ★ 〔《慈悲》については〕 自らのこころにきくだけだ。「こころにきけ」の実践である。個々に達する以外に道はない。 ☆ というとおり 同じく 主観内面での出来事におさめられる内容ではあります。つまりえらそうに言えば これを 暫定的に《聞いた》という実際を 威張ってご披露するということですから 余興ということでもあります。 結論から行きますと次の命題と 微妙に違うというところがあって おもしろいのではないかと考えます。 ★ 言語を尽くした後に、沈黙の勝義諦を探究せよ。 ★ 沈黙の勝義諦は、記述するのではなく、「示される」と個々に気付くと考えます。 ☆ キリスト信仰は きわめて ずるいところがあります。それは 何ごともと言えるほどに 基本的には 終わりから始めるということです。有為のものごとでも 一般に 終えたところから始めるのが ふつうですが 信仰の態度としては これが 徹底しています。すなわち ○ 《言語》を超えているので 《探究》を終えたあとの状態に 仮想としてでも 立つ。 ○ 《勝義諦》が 一般的には 《沈黙》であることについては同じなのですが 個人としては 上と同じように すでにそれが《示された》と想定して 新たな一歩を踏み出す。 ☆ こういう横着な考え方に立っています。そうすると どう違うかですが たとえば ★ (最終回答)この相対領域では、「唯一・完全に通じている」はずがない。相転換したのだから。逆転換するときは、死であろう。 ☆ という命題を提示してもらったので ちょうど いいと考えるのですが はっきり言いまして ○ 《相転換》を そのように 《逆転換》した状態(または 境地)を やはり 先にすでに 想定している。 ☆ ということになります。この境地が ★ 死 ☆ ではなく――もしくは 厳密には 一たん《死》をとおって そのあと―― ○ 復活のあらたな生 ☆ だというわけです。 これについては 理屈をこねても しょうがないでしょうね。 一例だけ 証拠(むろん 仮想の世界での証拠)を示します。 ▲ 《コリント前書》15:42-44 ~~~~~~~~~ 死者の復活もこれと同じです。 蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、 蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。 * これらは それぞれ 自然本性そのままの《有為》から 《無 為》による逆転換を経ての 《あたらしい有為=つまり 新たな地上 の世界》へ 移行すると わたし( bragelone )は 採っています。 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。 自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここで《体》というのは 《肉と精神》全体を言っているはづです。《霊の体》といえば あらたな肉と精神をそなえた存在のことだと思います。 これは ★☆ こころに聞け。 / 沈黙の勝義諦の示されるところに気づけ。 ☆ を けっきょく 先取りした恰好だと思います。きわめて ずるっこく 横着でしょう? ★ 仏教の物語は虚構として充分楽しめる。 ☆ というところを あたかも――あたかも―― その虚構に関して すでに 永遠の現在においては 現実にしてしまった楽しみになっています。 たぶん ご感想をうかがえますよね?