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ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.40

 ★ では、「絶対は 相対を包摂する」が成立しているでしょうか。 / 残念ながら、「絶対(非空)は 相対(空)を包摂する」が成立しないと見ました。いかがでしょうか。  ☆ この場合の《包摂》というのは 特殊です。すなわち  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 絶対は、相対と対極の概念  ☆ であると同時に   ○ 絶対は 相対を包摂する  ☆ と思われます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という形態での包摂です。  ○ 相対との言わば境界があって その外の領域が 絶対である。しかも 同時に 外から絶対が 相対を 包んでいる。  ☆ というような恰好ではないでしょうか。この  ○ 絶対による相対の包摂において 相対の世界に存在する人間は あたかも普遍的な絶対を分有するかのように 霊ないし仏性を 心に宿す。  ☆ という虚構が現われます。 なるほど、納得しました。純粋に外側の絶対領域では、非空となるが、絶対が相対と重複している相対領域全体は、空となっているということですね。有限に過ぎない相対が絶対に丸ごと重なった領域だけ中心にあって、絶対は無限過ぎてその領域の外側にあふれているようなイメージが理解できました。僕は両者が完全に隔絶していると思っていました。 相対領域では、非空が空に変換されているということは、完全無欠の絶対にしては、弱弱しい感じを受けますが、相対領域内では、無為・無力を装っているのでしょうか。絶対は、二重人格的に思えてきましたが、無為との接点も見えてきたようにも思います。この絶対の二面性は意外です。唯一でも完全でもなく、それでも、唯一・完全に通じているのでしょうか。不思議です。  ★ 「絶対とは、完全に他に依らず(非依他起性)、力強く自立した概念で、 / 自性的なので、非空であると考えます。」  ☆ この定義は おそらく 有神論を前提にして そこから さらに その神ないし絶対の属性を 捉えようとして得た内容ではないかと考えます。第一次の定義は 《表象し得ぬ領域》で足りると思います。  信仰にあたって 絶対に関して 神は有るという表現で捉えたなら その神について さらに 《完全性 / 他に依らず みづから存在する実体であること / 被動性はなく 自立している / 自性・本性・本質》が 付加されます。そして  ★ 非空  ☆ については 初めに《神は有る》と捉えたことを言いかえたに過ぎないと考えます。無神論では 《空》と捉えると思います。 非空の純粋な絶対領域(相対領域の外側)に注目すると、有神論、空の原理が現れる相対領域(絶対領域も重っている)に注目すると、無神論と言えそうですね。  ★ つまり、信仰者は、絶対者を思考の結果ではなく(理性を度外視して)受け入れたと想定しています。  ☆ このとおりだと思います。(思考停止について 勘違いでした)。ここでも 細かいことを言えば (1)《理性を度外視して》ではなく 《理性の働く余地のないところで 理性を超えて》だと思います。そして (2)もちろん 《受け容れない》場合も 同じく《理性を超えて》 かつ 受け容れる場合と同等の態度として 選択され得ます。《拒否する》でも かまわないと思います。  そして 無神論の場合には 一たん 受け容れないという信仰形態に立ったのですが あとは もう 信仰とか無神という神だとかを 放っておくものと思います。経験的な思考と能力の発揮を主要な原動力とする世界に位置します。  ちなみに 有神論の場合は そのように自助努力をおこなうのは まったく一緒なのですが その努力の有効性が 社会的に実現するのは 最終的に あたかも絶対者の力によると思っています。つまり 早い話が 成功するかどうかは 人間には 分からないと思っているし 有効であれば 成功にたどりつくだろうと思っています。 洋の東西を問わず、奇想天外な物語を《理性の働く余地のないところで 理性を超えて》受け入れる(鵜呑みにする)のは、物凄く抵抗があるのです。結局、無神論なのかなと思います。かつ、無為の探究者です。  ★ 絶対は唯一ですから、分割不可だと思います。「絶対は、絶対に分けられない。」そう思います。  ☆ まさに それでこそ 絶対なのですが そうなのですが 仮構としては どんどん 想像が伸びていくということだと思います。  二分しても それぞれの部分は やはり無限であるという想像裡での遊びのようなものだと思います。ただし 《父と子と聖霊との三つの位格が それぞれ 無限でありつつ 一つの本質である》という三位一体なる神が 想起され 説明として 持たれます。 三位は、三分割ではなく、三面性だと思うのです。つまり、視点が違うので、見え方が違う、正面から、(左右)側面から、(上下)天地面から、のようなことではないでしょうか。 そして、やっと終局になりそうです。 相対を全面に出して、有限の相対領域内に隠れた絶対(神性、仏性)が、自性を打ち立てるほどの力もなく無力な「無為」として、見ることも、感じることもできないけれども、重なっているらしいと思えてきました。 ここで、ウパニシャッドの梵我一如とも繋がりそうです。アートマン(新我、個の根源)もまた、有限の相対領域内でだけ、「無為」に通じているらしいと。アートマンも「~でない」で記述される無の概念なので、整合性がとれそうです。そんな風に、納得しましたが、いかがでしょうか。

noname#80116
質問者

補足

 あぁ 意外に〔早期終結かな〕と言うと かえって 自分に対して自信がないのかと言わなければならないので おかしいのですが そうなんですか。わたしも 一応 納得しましたので そうなのだと思います。ご回答をありがとうございます。  そうですね。まづ 字面としては はっきりした別様の解釈がある点を 次の事項について つづります。  ★ 三位は、三分割ではなく、三面性だと思うのです。つまり、視点が違うので、見え方が違う、正面から、(左右)側面から、(上下)天地面から、のようなことではないでしょうか。  ☆ たしかに《三分割ではなく》に間違いありません。わたしの言い方では 《分割》にちなんで 出して来てしまいました。アウグスティヌスによれば こうです。  ○ 位格としての個は ほかの各個と また 三位格の全体と そして 全体は 各個と それぞれ 等しい。  ☆ 光にたとえた場合には――これは アウグスティヌスではありませんが―― 光源が 父なる位格であり その発耀が 子であり その明るさ・暖かさが 聖霊であると言えるかも知れません。  この《光》のたとえによると たしかに  ★ 純粋に外側の絶対領域では、非空となるが、絶対が相対と重複している相対領域全体は、空となっているということですね。有限に過ぎない相対が絶対に丸ごと重なった領域だけ中心にあって、絶対は無限過ぎてその領域の外側にあふれているようなイメージ  ☆ が 合っているとも言えるし どこか 違うとも見えるようですが どうなんでしょうか。これに関しましては こういうたとえを聞いたことがあります。  ○ 神の国(無為?)と地上の国(有為)とは 互いの間に 非武装中立地帯( no man's land )をつくって 相い対峙しているという恰好ではなく そうではなく この地上では 互いに入り組み 混同されるほど重なっているかに見える。   ☆ たぶん  ★ 完全無欠の絶対にしては、弱弱しい感じを受けますが、相対領域内では、無為・無力を装っているのでしょうか。  ☆ そうだと思います。《むしろ 弱さを誇ろう》と言いますから。無理が通れば道理が引っ込むではないですが 無効の考えやおこないが有力であるところでは 有効な思想が 無力に甘んじている。時として 有力にもなるのでしょうか。  この情況を残念に思っているところの  ★ アートマン   ☆ は あると言えるかも知れません。  ★ この絶対の二面性は意外です。唯一でも完全でもなく、それでも、唯一・完全に通じているのでしょうか。不思議です。  ☆ この点につきましては わたしも さらにその思いを寝かせつつ 考えていきたいと思います。  補足・まとめ等々を お願いします。

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